町野貞康
町野 貞康(まちの さだやす、1270年頃?~没年不詳*1)は、鎌倉時代後期の官人、武将。三善(町野)政康(まさやす)の嫡男で、町野氏の祖・三善康持の孫にあたるとされる。町野康世(やすよ、1287-1333)・町野善照(ぜんしょう、1294-1333)*2兄弟は息子か。三善貞康(みよし ―)とも。官途は民部大夫、備後守。
細川重男氏の紹介*3によると、次の2点史料での人物が貞康に比定されるという。
●【史料1】嘉元4(1306)年4月7日付「六波羅御教書案」(『東寺百合文書』ア)*4:末筆奥書に「挙状尚加賀民部大輔被遣畢」
●【史料2】『公衡公記』中「広義門院御産愚記」延慶4(1311)年2月3日条より:
廣義門院御産御祈事、急速可沙汰進之由、可申入西園寺前左大臣家之状、依仰執進如件
【「関東状」読み下し文】
広義門院御産御祈りの事、急速に沙汰進すべきの由、西園寺前の左大臣家へ申し入るべきの状、仰せに依って執達件の如し。
延慶四年正月二十三日 陸奥守〈*連署・北条宗宣、のち11代執権〉
相模守〈*10代執権・北条師時〉
右馬権頭 殿〈*六波羅探題北方・北条貞顕、のち15代執権〉
越後守 殿〈*六波羅探題南方・北条時敦〉
実名で確認できるのは【史料2】であり、細川氏は小田時知と同様に貞康も六波羅評定衆だったのではないかと推定されている。【史料2】の後半は、後伏見上皇の女御である"広義門院"西園寺寧子の御産祈祷を急ぎ進める旨を、その父で関東申次でもあった西園寺公衡に申し入れるよう、鎌倉幕府から六波羅探題に向けて送られた、延慶4年正月23日付「関東御教書案」の文面*5であり、冒頭の記述は、その指示通りに時知と貞康が六波羅探題の使いとして西園寺家に書状を持ってやって来たということであろう。
そして細川氏は、【史料1】において六波羅五番引付頭人であったという「加賀民部大輔〔ママ〕」も備後守任官前の貞康と推定されたが、その根拠として町野氏歴代惣領の系譜と任官歴を以下のように纏められている。
すなわち、町野氏嫡流は加賀守と備後守に交互に任官しており、各々の嫡男は父の官途を付して当初民部大夫であったということである。
『関東評定伝』建治元(1275)年条によると、政康は弘安8(1285)年に加賀守に任官し、正応2(1289)年*9に鎌倉に於いて亡くなったといい、政康自身が父・康持の死から18年経った段階でも「備後民部大夫」と呼ばれていたように、政康の死からほぼ同じ17年程しか経っていない【史料1】の段階で貞康が亡き父・政康の官途を付して「加賀民部大輔(大夫)」と呼ばれていてもおかしくはない。よって、筆者も細川氏の説に賛同である。
尚、同氏は、康信流三善氏一門での受領(国守)任官年齢について、30歳(数え年、以下同様)で信濃守となった太田時連を除けば、40歳前後かそれ以上であったと説かれており*10、貞康も【史料1】から【史料2】の間にその位の年齢に達して備後守に任官した可能性が高い。よって、逆算すると生年は1260年代後半~1270年頃であったと推定できる。
ここで、息子と考えられる町野康世について次の史料を見ておきたい。
備後民部大輔康世。四十七歳
舎弟三郎入道善照。四十歳
同彦太郎康顕。
同孫太郎康明。二十二歳
*「同」は恐らく町野氏一族という意味で付されたものであるが、細川氏はここを「舎弟」と解釈して、4人全員を兄弟として系図化されている。しかし、同氏も紹介の通り、『太平記』巻9「越後守仲時已下自害事」に「備後民部大夫・同三郎入道・加賀彦太郎・弥太郎(「孫」と「弥」は同義)」とあり、康顕・康明の2名については「備後」ではなく「加賀」を付しているから、貞康の子ではないのだろう。「加賀」は父・政康の官途であるから、その直系子孫であると考えると、貞康の弟、もしくはその息子(貞康の甥)と見なすのが妥当と思われる。貞康の弟とは、細川氏がまとめた系図に載せられる九州問註所氏の祖・康行、或いは系図に載せられていない他の弟がいたと推定される。
【史料3】は、元弘3(1333)年5月、叛旗を翻した足利高氏(のちの尊氏)の軍勢に攻められ京都を脱出し、9日近江国番場宿付近で行く手を阻まれたために、同地の蓮華寺にて自害した六波羅探題北方・北条仲時以下一族与党430人余の死者のリストであり*12、政康や貞康に同じく六波羅評定衆であった康世ら町野氏一族も含まれていたことが窺える。
康世は記載の享年により逆算すると、1287年生まれと分かる。現実的な親子の年齢差を踏まえると、貞康の生年はやはり1260年代後半~1270年頃と見なすのが妥当である(この時代10代後半で子をもうけることも珍しくはなかった)。
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更に、こちら▲の記事において宗康の兄と思しき父・政康の生年を、各官職の任官年齢を考慮し、限りなく可能性が高い推測として1247年頃と提示しており、同様に親子の年齢差を考えると、やはり前述の推定で辻褄が合う。
ところで細川氏は、政康・宗康の名が、北条政村(7代執権)・時宗(8代執権)から偏諱を受けたものと推測されており、上記記事でもその可能性が高いことを考証させていただいた。このことを踏まえると、貞康の名も9代執権・北条貞時からの一字拝領によるものではないかと思う*13。【史料1】・【史料2】当時、貞時(法名:崇演)は既に出家し執権の座を譲っていたものの、得宗家当主・副将軍*14として存命であった。父・時宗の死去に伴って貞時が執権・得宗の座に就いたのは弘安7(1284)年のことであり*15、貞康は1270年頃の生まれとした場合で15歳と元服の適齢となる。父・政康は一度六波羅評定衆として上洛したが、前述の通り晩年期には鎌倉に戻っていたから、息子である貞康が貞時の加冠により元服することは、環境(場所)的にも十分可能である。
よって、貞時と貞康は烏帽子親子関係にあったと判断される。
脚注
*1:【史料2】(1311年) より後、当主の座が康世に代わっていたと判断される【史料3】(1333年) までの間の死没であったと判断される。また、康世の呼称から、貞康の生前の最終官途は備後守であったと推測できる。
*2:善照については【史料3】にある通り、無官で「三郎」と称したまま、恐らくは若年で出家したようであるが、その俗名は同史料などで確認できないため不詳である。但し、三善氏一門には姓の1字でもある「善」を持つ法名を号した人物が少なからずおり、三善康信が「善信」と号したことがよく知られているほか、その孫・三善(太田)康有(時連の父)の法名も「善有」であったから、あくまで一説として掲げるだけだが、善照も同様の例で俗名=町野康照(やすてる)であった可能性もあるだろう。
*3:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.417 註(9) および P.418 註(12)。
*4:ア函/39/:六波羅御教書案|文書詳細|東寺百合文書。『鎌倉遺文』(未刊本化)22601号。
*5:『鎌倉遺文』第31巻24177号。読み下し文は 年代記応長元年 より。
*6:一例として『吾妻鏡』承久3(1221)年2月26日条に「町野民部大夫康俊」とある(→『大日本史料』4-15 P.849)。
*7:一例として『吾妻鏡』延応元(1239)年12月13日条に「加賀民部大夫康持」とある(→『大日本史料』5-12 P.590)。
*8:『関東評定伝』建治元(1275)年条 より。
*9:康永(初め政康)の息子とされる康行を祖とする九州問註所氏の系図である『問注所町野氏家譜』(『問注所文書』)では没年を正応3(1290)年とする。いずれにせよ正応年間の死没であった可能性が高い。
*11:『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年5月9~14日 P.27。
*12:蓮華寺過去帳(れんげじかこちょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。
*13:これについて細川氏は、注3前掲著書にて特に直接言及されてはいないが、他の人物(新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その76-大仏貞直 | 日本中世史を楽しむ♪、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その77-大仏貞房 | 日本中世史を楽しむ♪、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その78-大仏貞宣 | 日本中世史を楽しむ♪ など)で「貞時の偏諱」を想定される同氏のことだから、貞康についても恐らく同様に考えられていることと思う。
*14:細川氏が注3前掲著書 P.263~264 注(55)でもご紹介の通り、中山寺本『教行信証』の奥書で北条貞時を「当副将軍相州太守平朝臣」、『不断両界供偏数状』(『金沢文庫文書』)でその子・北条高時を「大施主副将軍家」と記した例が確認できる(→ 副将軍 - Wikipedia)。
*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
町野宗康
町野 宗康(まちの むねやす、生年不詳(1250年代後半か)~没年不詳*1)は、鎌倉時代中期から後期にかけての官人。町野氏の祖・三善康持の子で三善(町野)政康の弟とされる。息子に町野信宗、町野信顕か。官途は左衛門尉、但馬守。三善宗康(みよし ―)とも。
宗康に関する史料
宗康の実在が確認できる史料群は、細川重男氏の研究*2で纏められており、まずは以下に列挙しておきたい。
●【史料1】『関東評定(衆)伝』弘安6(1283)年条:6月「左衛門尉三善宗康」が引付衆の一人に加えられる*3。翌弘安7(1284)年条でもメンバーの一人として同じ記載があり、在職が確認できる。
●【史料2】永仁4(1296)年7月16日付「六波羅問状案」(『三浦家文書』37 所収)
●【史料3】嘉元元(1303)年9月18日付「六波羅施行状」(『東寺百合文書』数)*4:貼紙に「六波羅施行 弓削和与 奉行但馬前司」
●【史料4】『実躬卿記』嘉元3(1305)年4月27日条*5:「去廿三日子刻、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了……(中略)……且此趣以丹後前司茂重、但馬前司宗康等 奏聞、両使馳向今出川第*6申入云々」
…… 所謂「嘉元の乱」の序盤として連署・北条時村が殺害された件について六波羅評定衆・長井茂重*7とともに使者として関東申次・西園寺公衡の邸宅へ馳せ向かった。
●【史料5】『実躬卿記』嘉元4(1306)年10月17日条*8:「又去十三日所差進両使 貞重 宗康、参会彼飛脚之条、勿論歟」
…… 同年正月13日に関東の飛脚が齎した北条貞時の母・潮音院尼卒去の情報を、六波羅評定衆・長井貞重(茂重の甥)とともに使者として関東申次である公衡に伝達。
●【史料6】(元徳元(1329)年)9月21日付「沙弥崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*9:「文つくへ(机)・文台等を造物ハ、故但馬前司宗康辺候き。加賀前司(=町野信宗)存知もや候らん。内ゝ可有御尋候也」
生年と烏帽子親の推定
時宗と宗康の烏帽子親子関係
ところで、細川氏は三善(町野)政康・宗康がともに三善康持の子で、各々の実名が北条政村(7代執権)・北条時宗(8代執権)の偏諱を受けたものと推測されている。【史料1】は時宗の晩年期間にあたり(1284年4月に逝去)、在世中に他でもない「宗」の字が許されているから、時宗と宗康は烏帽子親子関係にあったと判断されるが、本節では生まれた時期(年)をある程度絞り込みながら、その正確性を裏付けていきたいと思う。
まず、康持と政康の父子関係については、『関東評定伝』建治元(1275)年条の引付衆の一人「民部大夫三善政康」の注記に「前備後守康持男」と明記されることから認められる。そして、これと同書である【史料1】の宗康にも同じ「町野備後」の傍註があることから、細川氏は宗康が政康に同じく康持の子で、引付衆就任の順番や年代から、政康の年の離れた弟であったと説かれたというわけである*10。
同氏は、康信流三善氏一門での受領(国守)任官年齢について、30歳(数え年、以下同様)で信濃守となった太田時連を除けば、40歳前後かそれ以上であったと説かれており*11、宗康も【史料3】当時40代以上であった可能性が高い。逆算すれば生年は1260年以前であったと導ける。
ここで、『吾妻鏡』正嘉元(1257)年10月26日条を見ると父の「前備後守従五位上三善朝臣康持」が52歳で亡くなったとの記述があり(逆算すると建永元(1206)年生まれ)、この時までに政康・宗康兄弟は生まれていたと考えるべきである。
- 貞永元(1232)年12月15日:27歳で民部少丞・左衛門尉・叙爵(※民部丞で叙爵=五位以上になると「民部大夫」と呼称される)
- 寛元2(1244)年5月15日:39歳で備後守
よって、宗康が父・康持の没年に生まれたと仮定した場合でも【史料1】当時27歳で左衛門尉に任官済みであったことになり、任官年齢は父と同様であったと判断できるだろう。よって、宗康の生年は1257年から大幅に遡らない時期=1250年代後半であったと推定される。
元服は通常10代で行われたから、1266年に京都に送還された6代将軍・宗尊親王から一字を拝領した可能性はほぼ無いと言って良く、宗康の「宗」は宗尊の烏帽子子でもある得宗・北条時宗から賜ったものと考えて間違いない。
父・康持が一度宮騒動で反執権側(4代将軍・九条頼経派)について失脚した経緯もあり、町野氏は執権・北条氏に従順な姿勢を見せる一環として、政康や宗康の加冠役を北条氏に願い出たものと思われる。
兄・町野政康についての考察
付論となるが、細川氏の情報*13に頼りながら、兄・政康についても考察しておこう。
前述の『関東評定伝』建治元(1275)年条には官職歴や死没についての記載もあり、それによると正応2(1289)年に77歳で亡くなったとあり、逆算すると建保元(1213)年生まれとなる。しかし、細川氏もご指摘のようにこれだと父・康持の生年(前述参照)から僅か7年後となってしまい、親子として不自然である。『関東評定伝』では他にも三浦泰村(実際は44歳没)の享年を64と誤る例があるので、政康の享年77も信ずる必要性は無いと思う。
細川氏が別途ご紹介のように、政康(のち康永か)の子・康行を祖とする九州問註所氏の系図である『問注所町野氏家譜』(『問注所文書』)に「正応三庚寅年九月十七日康永卒 年六十 始政康ト云」とあり、同様に逆算すると寛喜3(1231)年生まれとなる。康持26歳の時の子となり、まだこちらが正しい可能性が高い。
『関東評定伝』による政康の官職歴は以下の通りである*14。
1231年生まれとした場合、35歳で民部少丞、55歳で加賀守に任官したことになるが、康俊(41歳で民部少丞、63歳で加賀守)*15、康持(27歳で民部少丞および叙爵、39歳で備後守:前述参照)と、他の御家人に同じく任官年齢が低年齢化してきていたのが、政康の代になって任官のタイミングが遅くなっていることになり、不自然に感じる。
すなわち『問注所町野氏家譜』に記載の享年60も、筆者は信憑性に疑いを持たざるを得ないのであり、実際は父と同様に文永2年当時20代、弘安8年当時40歳位だったのではないかと思う。政康の実際の生年は早くとも1240年頃だったのではないか。
泰村の父・三浦義村を烏帽子親として元服し「村」の字を受けた北条政村は、既に北条時村(時房の子)が元服済みで同名を避けるためか、もう片方の字に祖父・北条時政に由来すると思しき「政」の字が当てられた。一度は伊賀氏の変で執権に担ぎ上げられたが、長兄の3代執権・泰時以降の歴代執権に従い、幼少の時宗が成長するまでの中継ぎとして、文永元(1264)年8月5日に60歳で7代執権に就任。同5(1268)年3月5日に連署・時宗と互いにポジションを入れ替わる形で執権の座を譲った*16。
政村が執権の座にあった1264~1268年の間に政康が元服したのだとすれば、生年は1250年頃にまで下るのが妥当であろう。民部少丞任官・叙爵の年齢が10代とかなり低年齢化することになるが、加賀守には父・康持より少し早い35歳位での任官となるので、案外妥当なのかもしれない。この場合、宗康とは実はさほど年齢が離れていなかったということになる。
以上より、筆者の結論としてはとりあえず、加賀守任官当時、父と同じ39歳として1247年頃の生まれと推定しておきたい。元服が10代後半と少し遅めであれば、政村からの一字拝領も可能であり、民部少丞任官・叙爵当時19歳と下がり過ぎない程度になるかと思うが、検討の余地を残してはいるので、後考を俟ちたいところである。
宗康の子孫について
鎌倉幕府滅亡後、建武元(1334)年8月の『雑訴決断所結番交名』に、職員二番衆の一人として「 信宗 (=町野信宗)」の名が見えており*17、同年9月11日*18・9月12日*19、翌2(1335)年3月12日*20・10月23日*21に雑訴決断所から出された書状に「前加賀守三善朝臣」の署名や花押を据えている。
森幸夫氏はこの信宗が鎌倉時代においても六波羅評定衆であったと説かれており*22、細川氏もこの意見に同意の上で、元徳2(1330)年5月5日付「六波羅越訴奉行召文案」*23の発給者である六波羅越訴奉行「前加賀守」を信宗に比定されている*24。
そして、前年のものとされる【史料6】において北条(金沢)貞顕(当時は前執権、出家して「崇顕」)が六波羅探題北方の息子・北条(金沢)貞将に対し「文机・文台等の製作者は、故・宗康の周辺にあったから、加賀前司が存知しているであろう」と述べていることから、加賀前司=信宗であり、宗康と信宗は「宗」字を共有する父子関係にあったと説かれている*25。
この他、『光明寺残篇』元弘元(1331)年8月27日条*26には、元弘の変に伴う、六波羅の比叡山攻めで「長井左近大夫将□〔監〕・加賀前司」が西坂下方面の攻撃を指揮したと記されるが、各々長井高広・町野信宗に比定されている*27。奇しくも【史料5】で「両使」であった貞重・宗康の息子同士ということになる。
信宗の「信」は祖先の三善康信(法名: 善信、宗康の曽祖父)から取ったものと思われ、細川氏は「信」字の共通から、『御評定着座次第』延文3(1358)年12月3日条の評定に出席した「町野遠江守信方(町野信方)」が信宗の息子ではないかと推測されている*28。
他にも宗康の子孫と思しき人物が確認できる。
延元元(1336=建武3)年4月「武者所結番交名」(『建武記』所収)を見ると、三番衆の一人に「三善信栄(=町野信栄)」、四番衆には前述の「 高広 」らと共に「 信顕 (=町野信顕)」の名が見られる*29。
信栄(のぶひで?)は三善姓であったことが明記されており、傍注にある通称は「町野加賀守」の「三郎(=本来は3男の意)」を表していると考えられるから、僅か2年前に雑訴決断所の職員であった「 信宗 」の息子と考えて問題ないと思う。宗康の孫にあたる。
尚、『祇園執行日記』康永2(1343)年9月24日条に「町野加賀二郎 十九歳」*30の名が見られ、逆算すると1324年生まれとなる。同じく前加賀守信宗の息子で、信栄の兄、もしくは「二」が「三」の誤記或いは誤写等であれば同人と考えられるが、いずれにせよ加賀三郎信栄も同世代であったと判断される。『花営三代記』応安元(1368)年正月28日条の「御硯 町野加賀民部大夫 為問注所遠禅(=信方、遠江禅門の略記)代勤仕之、」*31は加賀二郎、もしくは加賀三郎信栄が20代後半以上に達し民部大夫となった同人ではないかと思われる。
『師守記』康永3(1344)年5月17日条にある足利直義の熊野参詣の際の供奉人の一人「町野加賀彦太郎」*32は世代的に信宗の孫にあたる可能性が高いだろう。
信顕(のぶあき)に関しては、前述の康持の例と同様であれば、1336年当時20代後半に達していた可能性が高い。そして、僅か8年後にあたることから、「室町幕府引付番衆注文」(小峰城歴史館(白河集古苑)所蔵『白河結城家文書』)にある、康永3(1344)年の室町幕府引付衆三番衆の一人「町野但馬民部大夫」も同人と判断され*33、受領任官相応の40歳程度にはまだ達していなかったと考えられる。よって、生年は1310年頃であったと判断される。
その通称名から「町野但馬守」の息子或いは子孫であったと判断されるが、町野氏での但馬守とは、確認できる限り宗康にしか該当し得ないと思うので、宗康の直系子孫であることは間違いないだろう。年齢差を考慮すると、孫とするよりは息子であったと判断して良いと思う。先に国守任官を果たしていた信宗よりは年少、すなわち弟であったと思われる。
脚注
*1:1306年(【史料5】)から、1329年(【史料6】)までの間であることは確かである。
*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.416 註(8) および 巻末 鎌倉政権上級職員表(基礎表)No.190「町野宗康」の項。
*3:群書類従 第60-62冊(巻49上-50) - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*4:『鎌倉遺文』第28巻21653号。
*6:今出川第は、公衡の高祖父・公経の代に造営され、それまでの一条第から移って以後西園寺家の主たる邸宅としていた場所である。詳しくは 山岡瞳「鎌倉時代の西園寺家の邸宅」(所収:『歴史文化社会論講座紀要』14号、京都大学、2017年)や 寝殿造6.2.2 鎌倉時代の寝殿造・西園寺家今出川殿 を参照。尚、山岡氏論文 P.40によると、公衡は当初から父・実兼と共に今出川第に居住し、正安元(1299)年に実兼が出家して北山第に移って以降も同所に残って居住していた(すなわち亭主であった)という。
*7:長井泰重の子で頼重の弟。上山宗元・長井宗衡兄弟の父でもあり、この頃も存命であったことが窺える。
*8:『実躬卿記』〈大日本古記録本〉第十七 P.270。『実躬卿記』17(国立公文書館デジタルアーカイブ)P.15。
*9:『鎌倉遺文』第39巻30733号。
*10:注2前掲細川氏著書 P.418 および 基礎表 No.190「町野宗康」の項 より。
*12:注2前掲細川氏著書 基礎表No.188「町野康持」の項。
*13:注2前掲細川氏著書 P.416 註(7) および 基礎表 No.189「町野政康」の項 より。
*14:注2前掲細川氏著書 基礎表 No.189「町野政康」の項。
*15:注2前掲細川氏著書 基礎表 No.187「町野康俊」の項 より。
*16:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その45-北条政村 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*22:P.37。
*23:『大日本古文書』家わけ第九「吉川家文書之二」P.308~309 一一四三号。
*26:群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。
*28:注2前掲細川氏著書 P.419。尚、同書の応安6(1373)年正月12日条にある「町野遠江入道真勝」は恐らく出家後の信方であり、御硯役の「町野掃部助信兼」は信方の息子ではないかと思われる。
*29:『大日本史料』6-3 P.332。北本市史| 北本デジタルアーカイブズ。
*33:『大日本史料』6-8 P.177。康永三年 室町幕府引付衆 より。尚、本文中の「町野加賀彦太郎」と同じく足利直義の熊野参詣供奉人の一人「町野但馬民部大夫」(→『大日本史料』6-8 P.253・257、康永三年五月 足利直義熊野御参詣供奉人)も信顕に比定されよう。
朽木頼綱
佐々木 頼綱(ささき よりつな、生年不詳(1230年代前半か)~1294年?)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。通称および官途は 五郎、左衛門尉、出羽守。法名は道頼(どうらい)。
『尊卑分脈』佐々木氏系図(以下『分脈』と略記)によると、宇多源氏の流れをひく佐々木信綱の次男で高島氏の家祖となった佐々木(高島)高信の子。高島宗家を継いだ高島泰信の弟で、分家して朽木氏の祖となる。源頼綱、高島頼綱、朽木頼綱とも呼ばれる。子に横山頼信、田中氏綱、朽木義綱。
北条時頼の烏帽子子
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こちら▲の記事で紹介の通り、父・高信については生年が1208~1212年の間に推定でき、その嫡子であった兄・泰信についても『吾妻鏡』寛元3(1245)年8月15日条に「佐々木孫三〔四〕郎泰信」、翌4(1246)年8月15日条に「佐々木孫四郎泰信」とある*1から、1230年頃の生まれで3代執権・北条泰時の晩年期(1242年に逝去)に元服したと見受けられる。よって、弟である頼綱の生年や元服の時期もこれより遡ることはないと考えて良いと思う。
また、高信は文暦2(1235)年7月末、日吉社とトラブルを起こした関係で豊後国に流罪となっている*2。高信自身は以後復帰した形跡が確認できない一方で、前述のように鎌倉幕府内で長男・泰信が活動していることや、「高島七頭」とも呼ばれる通りその他の高信の子孫たちが近江国高島郡の在地武士として繁栄していることを踏まえると、高信の流刑以前の1230年代前半に次男の頼綱らも生まれていたと考えて良いのではないだろうか。高信流刑後も祖父・信綱(虚仮)が鎌倉に在って存命であったから(1242年逝去)、高信の子たちの養育等に何かしら携わっていたものと思う。
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尚、こちら▲の記事でも頼綱の生年を1230年代と推定させていただいたので、あわせてご参照いただければと思う。
ここで「頼綱」の名乗りに着目すると、祖父・信綱の1字でもある「綱」に対し、「頼」は烏帽子親からの一字拝領の可能性がある。元服は通常10代で多く行われたから、前述の生年推測に従うとその時期は1240年代後半と推定され、1246年から第5代執権となっていた北条時頼(在職期間:1246年~1256年)*3の偏諱が許されたことになる。兄・泰信と同様に執権・北条氏の加冠により元服したものと判断される。
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こちら▲の記事でも紹介の通り、『吾妻鏡』建長2(1250)年12月3日条には「佐々木壱岐前司泰綱(=高信の弟)子息」が時頼の邸宅において元服し「三郎頼綱(=六角頼綱)」と名乗った記事が見える。本項の五郎頼綱から見て、同名の従兄弟にあたるが、元服の様子は両者ともほぼ同様であったと思われる。
同じ「佐々木頼綱」であるため、先行研究によっては混同されているものもあるが、『吾妻鏡』での「佐々木壱岐三郎左衛門尉頼綱」は父・泰綱の官途を付した六角頼綱であって、本項の朽木頼綱ではないことに注意しておきたい*4。
従って朽木頼綱に関しては『吾妻鏡』および『吾妻鏡人名索引』ではそれらしき人物が見当たらず、当初どのような活動・生涯であったかは不明と言わざるを得ないが、少し時代が下ると『朽木文書』などに頼綱に関する史料がいくつか遺されており、以下次節にて紹介していきたい(特に断りのない場合は『朽木文書』所収の書状とする)。
史料における朽木頼綱と息子たち
弘安10(1287)年には「次男五郎源義綱(=朽木義綱)」に向け、「左衛門尉源頼綱」の署名で発給した譲状の写しが残されている*5。この書状によると、頼綱は「弘安勲功」の賞として、「祖父近江守信綱」が「承久勲功」により拝領して以来受け継いできた近江国朽木庄に加え、常陸国真壁郡本木郷(現・茨城県桜川市)を賜ったといい、この2つの領地を将来的に義綱に譲るとしている。
「弘安勲功」については、正応2(1289)年5月20日付「佐々木頼綱物具譲渡状写」*6により霜月騒動のことと分かる。仲村研氏によると、この書状で「左衛門尉源頼綱」は一旦「次男五郎源義綱」に譲った太刀を、「奥州禅門合戦之時」(「奥州禅門」とは安達泰盛(法名: 覚真)のこと)に使用した後、兄弟と思われる氏綱(うじつな)に譲り、義綱には同合戦で使用した馬具の房尻繋一具を譲ったという*7。但し氏綱は『分脈』佐々木(高嶋)氏系図と照らし合わせると、頼綱の息子で「田中」を号した四郎氏綱に同定するのが正確で、輩行名通り五郎義綱の兄とみて良いと思われる。
それから3年後、正応5(1292)年8月日付「近江朽木荘願仏申状」(京都大学所蔵『明王院文書』)*8には「近江国高嶋郡朽木庄地頭佐々木出羽前司」とあり、同年12月5日付「佐々木頼綱置文案」*9の発給者「前出羽守」と同人と判断されるが、『分脈』でも「出羽守」と注記される頼綱と判断して良いだろう。すなわち、1289~1292年の間に頼綱は出羽守任官を果たし間もなく退任したことが分かる。
*ちなみに、江戸時代にまとめられた『寛政重脩諸家譜』では "弘安八年十一月十七日城陸奥入道泰盛を追討のとき"、すなわち霜月騒動の際の軍忠が認められて出羽守に任じられ、のち左衛門尉に転じたとする*10が、出羽守→左衛門尉と降格するというのは通常考え難く、前述史料からしても誤りである。よってこれは、あくまで江戸時代当時の研究における見解として参考程度に掲げておく。
仲村氏によると、永仁2(1294)年8月20日付の譲状*11にて「五郎ひやうへよしつな(=五郎兵衛義綱)」に陸奥国板崎郷地頭職と朽木庄内の村一箇所を譲った人物は、同状を認証した正安元(1299)年6月26日付の「関東下知状」*12に
「可令早□□義綱領知陸奥国栗原一迫内板崎郷事、
右、任母尼覚恵永仁二年八月廿日譲状、可令領掌之状、依仰下知如件、」
とあることから、義綱の母(=頼綱の妻)尼・覚恵と判断されるという。
父・頼綱からではなく、母・覚恵から地頭職と所領を譲られているというこの事実、そして覚恵が出家して尼になっていることから、永仁2年8月20日の段階で頼綱は既に亡くなっていたと考えて良いのではないか。
そして「関東下知状」より1ヶ月前に出された正安元年5月23日付「六波羅下知状」*13の文中にも「近江国朽木庄地頭出羽五郎左衛門尉義綱」とあるが、この時までに、①五郎義綱が左衛門尉に任官したこと、②「出羽」が父の官途に因むものであること、③朽木庄地頭が頼綱から義綱へ継承されていること の3点が読み取れる。よって②より頼綱の最終官途が出羽守であったことは間違いないと判断できる。
また、嘉元3(1305)年閏12月12日付「関東下知状」の冒頭事書にも「佐々木出羽入道々頼後家尼心妙今者死去子息五郎左衛門尉義綱……」とあり*14、④頼綱が晩年出家して「道頼」と号していたこと、⑤その後家=未亡人であった尼・心妙(頼綱の側室か?)が同年の段階で既に故人で、夫の後を追うようにして亡くなっていたこと が読み取れる。
再び正応5年に戻り、10月24日には「あまめうこ」=尼・妙語(後述参照)による平仮名や変体仮名が用いられた譲状が出されている*15。「……(※読み下し)四郎右衛門行綱ニ譲り賜うべしといえども、父四郎左衛門入道の習い置く所をも背き、ことごとく不孝のものなるによりて長く勘当し」たので、「をい之(甥の)て者(出羽)の三ろうさゑもん(三郎左衛門)より能ふ(頼信)」に所領を譲り渡す旨が記されているが、後世の永和3(1377)年12月21日付「足利義満袖判裁許状」でも「佐々木出羽守氏秀……曾祖母妙語」について「…而実子行綱依為不孝之質、譲与(譲り与える)甥佐々木出羽三郎左衛門尉頼信。…」と言及されている*16。すなわち妙語の実子が四郎右衛門行綱なのであり、『分脈』での泰信の子・右衛門尉行綱(佐々木行綱)に比定される。「父四郎左衛門入道」は泰信ということになり、妙語はその妻および行綱の母ということになる。
そして「佐々木出羽三郎左衛門尉頼信」は『分脈』での頼綱の長男・"横山三郎"頼信(佐々木頼信)に比定され、妙語とも義理の「伯母(伯父・泰信の妻)―甥」の関係が成り立っている。正応5年当時「出羽」の官途を付しており、父・頼綱が出羽守に任官した(前述の通り同年の段階では既に退任して「前出羽守」)ことの裏付けになる。一方で『分脈』上で三男になるはずの五郎義綱が前述の書状にあるように「次男」と呼ばれることから、頼信が早い段階から義伯母・妙語の所に事実上の養子入りをしていたのかもしれない。
頼綱の息子たちは、横山・田中・朽木の3氏に分かれ、いずれも近江の武士団「高島七頭」の一つに数えられる家柄として存続していったのであった。
(参考ページ)
● 武家家伝_朽木氏
脚注
*1:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.327「泰信 佐々木」の項。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:仲村研「朽木氏領主制の展開」(所収:『社会科学』17号、同志社大学人文科学研究所、1974年)P.164 では「佐々木壱岐三郎左衛門尉頼綱」を朽木頼綱の事績に含めてしまっている。
*5:佐々木頼綱譲状写。佐々木頼綱譲状案(『朽木家古文書』147 国立公文書館) - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座。
*6:『鎌倉遺文』第22巻17009号。
*7:注 前掲仲村氏論文 P.163。
*8:『鎌倉遺文』第23巻17992号。
*9:『鎌倉遺文』第23巻18062号。
*10:『寛政重修諸家譜』第3輯・巻第401「宇多源氏 佐々木系図」。
*11:『鎌倉遺文』第24巻18635号「尼覚意譲状」。
*12:『鎌倉遺文』第26巻20146号。
*13:『鎌倉遺文』第26巻20125号。
*14:『鎌倉遺文』第29巻22443号。
*15:尼妙語譲状。尼めうこ(妙語)譲状(『朽木家古文書』107 国立公文書館) - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座。
【論稿】鎌倉・室町時代の朽木氏について
朽木氏(くつき - し)は、『尊卑分脈』佐々木氏系図(以下『分脈』と略記)、『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』と略記)などによると、宇多源氏の流れをひく佐々木信綱の次男で高島氏の家祖となった佐々木(高島)高信の子で、高島宗家を継いだ高島泰信の弟・頼綱を祖とする家柄である。
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『朽木文書』などには頼綱以降の当主に関する史料がいくつか遺されており、以下紹介していきたい(特に断りのない場合は『朽木文書』所収の書状とする)。
史料における朽木頼綱・義綱父子
弘安10(1287)年には「次男五郎源義綱(=朽木義綱)」に向け、「左衛門尉源頼綱」の署名で発給した譲状の写しが残されている*1。この書状によると、頼綱は「弘安勲功」の賞として、「祖父近江守信綱」が「承久勲功」により拝領して以来受け継いできた近江国朽木庄に加え、常陸国真壁郡本木郷(現・茨城県桜川市)を賜ったといい、この2つの領地を将来的に義綱に譲るとしている。
「弘安勲功」については、正応2(1289)年5月20日付「佐々木頼綱物具譲渡状写」*2により霜月騒動のことと分かる。仲村研氏によると、この書状で「左衛門尉源頼綱」は一旦「次男五郎源義綱」に譲った太刀を、「奥州禅門合戦之時」(「奥州禅門」とは安達泰盛(法名: 覚真)のこと)に使用した後、頼綱の兄弟と思われる氏綱に譲り、義綱には同合戦で使用した馬具の房尻繋一具を譲ったという*3。但し氏綱は『分脈』と照らし合わせると、頼綱の息子・四郎氏綱(五郎義綱の庶兄か)に同定するのが正確であろう。
それから3年後、正応5(1292)年8月日付「近江朽木荘願仏申状」(京都大学所蔵『明王院文書』)*4には「近江国高嶋郡朽木庄地頭佐々木出羽前司」とあり、同年12月5日付「佐々木頼綱置文案」*5の発給者「前出羽守」と同人と判断されるが、『分脈』でも「出羽守」と注記される頼綱と判断して良いだろう。すなわち、1289~1292年の間に頼綱は出羽守任官を果たし間もなく退任したことが分かる。
*ちなみに、江戸時代にまとめられた『寛政重修諸家譜』では "弘安八年十一月十七日城陸奥入道泰盛を追討のとき"、すなわち霜月騒動の際の軍忠が認められて出羽守に任じられ、のち左衛門尉に転じたとする*6が、出羽守→左衛門尉と降格するというのは通常考え難く、前述史料からしても誤りである。よってこれは、あくまで江戸時代当時の研究における見解として参考程度に掲げておく。
仲村氏によると、永仁2(1294)年8月20日付の譲状*7にて「五郎ひやうへよしつな(=五郎兵衛義綱)」に陸奥国板崎郷地頭職と朽木庄内の村一箇所を譲った人物は、同状を認証した正安元(1299)年6月26日付の「関東下知状」*8に
「可令早□□義綱領知陸奥国栗原一迫内板崎郷事、
右、任母尼覚恵永仁二年八月廿日譲状、可令領掌之状、依仰下知如件、」
とあることから、義綱の母(=頼綱の妻)尼・覚恵と判断されるという。
父・頼綱からではなく、母・覚恵から地頭職と所領を譲られているというこの事実、そして覚恵が出家して尼になっていることから、永仁2年8月20日の段階で頼綱は既に亡くなっていたと考えて良いのではないか。
そして「関東下知状」より1ヶ月前に出された正安元年5月23日付「六波羅下知状」*9の文中にも「近江国朽木庄地頭出羽五郎左衛門尉義綱」とあるが、この時までに、①五郎義綱が左衛門尉に任官したこと、②「出羽」が父の官途に因むものであること、③朽木庄地頭が頼綱から義綱へ継承されていること の3点が読み取れる。よって②より頼綱の最終官途が出羽守であったことは間違いないと判断できる。
また、嘉元3(1305)年閏12月12日付「関東下知状」の冒頭事書にも「佐々木出羽入道々頼後家尼心妙今者死去子息五郎左衛門尉義綱……」とあり*10、④頼綱が晩年出家して「道頼」と号していたこと、⑤その後家=未亡人であった尼・心妙(頼綱の側室か?)が同年の段階で既に故人で、夫の後を追うようにして亡くなっていたこと が読み取れる。
鎌倉時代後期から室町時代にかけての朽木氏
朽木義綱
頼綱の子・義綱は、祖先の佐々木義経 或いは 佐々木秀義に由来の「義」と父の1字「綱」により名乗ったものと思われる。前節で見た史料群から、この義綱の官途の変化を拾うと次の通りである。
● 1287~1289年:五郎(無官)
● ~1294年:兵衛尉
● ~1299年:左衛門尉
各官職への任官には各氏でそれ相応の年齢に傾向があり、佐々木氏一門で兵衛尉・左衛門尉双方を経た人物で、例えば頼綱の伯父である佐々木(大原)重綱を挙げると、15歳までに元服を済ませ、16歳で兵衛尉、19歳で左衛門尉となっている*11。この同じ傾向を義綱に当てはめるなら、おおよそ次のように推定が可能である。
● 1287年頃(11歳):元服
● 1292年頃(16歳):兵衛尉
● 1295年頃(19歳):左衛門尉
よって、逆算すると義綱の生年は(遅くとも)1277年頃と推定できる。但し、重綱と同じ例が当てはまるとは限らないので、後述にて調整することとしたい。
朽木時経
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正慶元(1332)年9月23日付「関東裁許状案」*12から、同年までに義綱が亡くなり、長男の四郎時経が兵衛尉に任官済みで跡を継いでいたことが分かる。時経にも前述の重綱と同じ任官年齢を適用すると(遅くとも)1315~1317年頃の生まれと推定可能である。義綱との年齢差も当時の親子としては少し離れている感もあるが、のちほど調整することにしよう。尚、「時経」の名乗りは、祖先・佐々木義経(初め章経)・経方父子から取ったと思われる「経」の字に対し、上(1文字目)に戴く「時」は北条氏からの偏諱ではないかと考えられるが、ここでは推論に留めておく。
この裁許状案では恐らく文中にて言及される嘉元2年当時の呼称として「佐々木出羽五郎左衛門尉義綱」と書かれるが、同年11月2日付「関東下知状案」の冒頭には「佐々木出羽前司義綱法師 法名種義、今者死去 長男四郎兵衛尉時経」とあり*13、実際には義綱が生前、かつて父が就いたのと同じ出羽守に任官の後に出家していたことが窺える。
鎌倉幕府滅亡から数ヶ月後にあたる、翌元弘3(1333)年8月12日付「後醍醐天皇綸旨」の冒頭にも「近江国朽木庄地頭職、佐々木出羽四郎兵衛尉時経如元可令知行者、……」とあり*14、時経が朽木庄地頭職を後醍醐天皇綸旨によって安堵されたことが窺える。
朽木義氏
建武3(1336)年正月28日付で「源義氏」が発給した軍忠状に(自ら)「佐々木出羽四郎義氏」と記している*15。この義氏は、時経と同じく「出羽四郎」を名乗るが、既に兵衛尉に任官していた時経とは別人と見なすべきであり、時経の子であったと考えて良いだろう。当時の義氏は無官であったことが窺えるが、単に元服からさほど経っていなかったからであろう。恐らく「義氏」の名は、時経の父・義綱の「義」と足利尊氏からの偏諱「氏」による名乗りではないかと推測され、鎌倉幕府滅亡後の元服であったと思われる。
時期の近さから、次の人物も義氏に比定される。
● 建武4(1337)年4月20日:「佐々木出羽四郎殿」*18
そして、建武4年8月3日に「佐々木出羽四郎兵衛尉殿」と現れる*19が、前述の出羽四郎義氏がこの年、兵衛尉に任官したと考えるのが妥当ではなかろうか。数年前の時経と同じ通称名であり、時経は既に故人であったと推測される。前述の重綱と同じ任官年齢を適用した場合、1321年頃の生まれとなり、時経の弟くらいの世代となるが、追って調整したい。
翌建武5(1338=暦応元)年のものとみられる閏7月16日付の「佐々木道誉書状」の宛先「出羽四郎兵衛尉殿」*20、暦応2(1339)年5月3日の足利直義の書状の宛名「佐々木出羽四郎兵衛尉」*21も義氏に比定される。
尚、暦応2年9月11日付「尼心阿和与状」および 同4(1341)年3月17日付「足利直義裁許状」に「佐々木四郎右衛門尉行綱(=泰信の子)女子尼心阿」と相論を起こしていた「同(佐々木)出羽五郎義信」なる人物が確認できるが、『分脈』等系図類の通り、まだ兵衛尉等に任官していなかった義氏の弟と見なすのが妥当であろう。
朽木経氏
ところで、元徳2(1330)年9月22日付「平顕盛譲状」*22には、顕盛(池顕盛、河内顕盛とも)が「しそくまんしゆ丸」に所領や太刀等を譲る旨が記されているが、『寛政譜』には朽木経氏(初め頼氏)が平頼盛から7代目の末裔である河内次郎顕盛の猶子となって所領を譲られたとの記述があり、万寿丸=経氏と考えられている*23。これについては同じく『朽木文書』所収の「池大納言所領相伝系図」(後掲【史料3】参照)に、「于時四郎乗氏万寿丸経氏」、「…… 河内次郎顕盛 経氏 佐々木出羽守童名万寿丸為養子相伝之、 」とあるので正しいと判断される。『寛政重修諸家譜』では経氏を義氏の子とし、『分脈』でも義氏の子に頼氏を載せる。
関係史料として、前述の出羽四郎兵衛尉時経からも次の書状が出されている。
いけとの(池殿=顕盛)より、たんこ(丹後)はりま(播磨)□さし(武蔵)あハ(安房)の御ゆつりしやう(譲状)・おなしく(同じく)御くたしふミ(下文)・てつき(手継)せうけん(証券)、たしかかに給候ぬ、それにつき□□ハ御いちこ(一期)のあいた(間)ハ、なに事もよきやうに御さはくり候て、まんしゆ丸に給候へく候、よんてうけとりのしやう(請取の状)くたんのことし(件の如し)、
元□〔徳〕二年十月廿二日 時経(花押)
この当時、経氏(万寿丸)は元服前であったということになるから、その年齢は10代前半以下になるだろう。なるべく誤差が少なくなるよう、10歳位としておこう。
そして、約21年後の観応2(1351)年6月26日付「足利尊氏袖判下文」の文中に「佐々木出羽四郎兵衛尉経氏」と書かれており*25、30歳前後で兵衛尉に任官済みであったことが窺える。
同年8月19日の足利直義の書状には宛名に「佐々木出羽守殿」とあり*26、翌3(1352=文和元)年閏2月23日にも足利義詮から「佐々木出羽守殿」、「佐々木朽木出羽四郎殿」に宛てた書状が出されている*27が、下記【史料2】にあるように翌々年の文和3(1354)年閏10月4日に「前出羽守経氏」から「嫡子万寿丸(父・経氏のかつての幼名に同じ)」への譲状が発給されていることから、「佐々木出羽守殿」=経氏であったと判断される。すなわち、1351年に30歳程度で出羽守の官職を得たことになる。
【史料2】文和3(1354)年閏10月4日付「前出羽守経氏譲状案」*28
譲与 嫡子万寿丸所
右所領者、為播州御合戦御下向、依御共仕、嫡子万寿丸、任代々本御下文并曾祖父譲状、不残壱所至于子々孫々可令知行、次池顕盛譲状所相副也、仍譲状如件、
文和三年後十月四日 前出羽守経氏 在判
*尚、観応3(1352)年の「佐々木出羽四郎」は無官であるから、既に兵衛尉に任官済みであった経氏とは別人と見なすべきであり、出羽守に任官した経氏の息子と考えて良いだろう。「四郎」の仮名を継承することから経氏の当初の嫡男であったと考えられるが、恐らく1353年前後に早世し、のちの"出羽五郎"氏綱となる「万寿丸」が新たな嫡子に指名されたものと思われる。"出羽三郎"氏秀は彼らの庶兄であったのだろう。
【史料2】では、発給者の経氏が言う「曾祖父」が誰を指すのかを確認しておきたい。
鎌倉時代では、御家人の所領の譲渡がされる時、相続人は安堵申状に譲状等の証拠書類を添えて幕府に提出し、幕府はこれを審査し正当であればを下付したが、惣領には「下文」の形式で安堵状が出された(=御下文)*29。室町時代初期の足利直義・義詮の代でもその方式を継承しつつ、やがて御判御教書が一般化することとなる。
【史料2】の場合、経氏の「曾祖父」なる人物の譲状が、曾孫(経氏)の代にまで伝わっていたようで、それまでの御下文と共に幕府に提出するにあたっての証拠書類として手元にあったと思われる。それだけ重要なものであれば、相副えられた元徳2年の「平顕盛譲状」と同様に、『朽木文書』所収の古文書として「曾祖父譲状」も現存していると考えるのが筋ではないかと思う。
一方、系図類を確認すると、『寛政重修諸家譜』では「義綱―時経―義氏―経氏」となっている*30ので、これを信ずれば曾祖父=義綱ということになる。しかし、正慶元(1332)年に義綱・時経父子に触れる書状が2点あることは前述したが、義綱から「長男四郎兵衛尉時経」等への譲状は未確認であり、所領の安堵に関しても、鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇の綸旨で認められたことを知るのが、現存の史料での限界である。よって曾祖父=義綱という前提そのものに疑問が生じてくる。
結論を言うと、『朽木文書』所収の現存文書の中で、前述1287年の頼綱の譲状が「曾祖父譲状」に相当するのではなかろうか。
国立公文書館デジタルアーカイブで公開中の「佐々木頼綱譲状写」は、江戸時代前期の寛永4(1627)年に改めて写しが作成されたものと思われ、末尾に「右承久の比より寛永 四年迄ハ四百十年ニ成」との記載がある。承久元(1219)年からであれば408年、承久の乱があった同3(1221)年からでも406年経ったことになり、いずれの場合でも四捨五入したおおよその数値として「410年」の記載に問題はない。
写しを作成するにあたり、当然原本、もしくはそれを書き継いできたものがあったはずであり、約410年もの間、頼綱の譲状が朽木氏にとっての重要な書類として大切に保存されてきたことが窺えよう。前述の通り、同譲状では頼綱から義綱に譲られた所領の中に信綱以来の所領である近江国朽木庄が含まれており、元綱から宣綱への家督継承から間もない寛永年間前後の段階でも、今日「朽木藩」と呼ばれることもあるように、変わらず朽木谷周辺を領有していた(尚、元綱は寛永9(1632)年に逝去)から、家祖・頼綱の譲状がその後の朽木氏代々の知行に影響を及ぼしていたことが分かる。
よって【史料2】での「曾祖父譲状」は佐々木頼綱譲状を指し、発給者経氏の「曾祖父」が頼綱であったことが結論付けられる。
もっとも、『分脈』での系譜は「頼綱―義綱―義氏―頼氏」となっており、『寛政重修諸家譜』では頼氏を経氏の初名とする。厳密には系譜自体も含め、両系図とも一部誤りと思しき記載がある(次節参照)が、頼綱と経氏を「曾祖父―曾孫」の関係と見なすことに問題はないだろう。
「義氏=経氏」説について
朽木氏(くつきうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク にある『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「朽木氏」の項(執筆:加藤哲 氏)に掲載の系図に重要なことが書かれている。「朽木氏3代当主の義氏と、4代当主の経氏は同一人物とも考えられる」と。これについて確認してみたい。
そもそも『分脈』を再確認すると、義綱の子は時綱(左衛門尉)と義氏(同五郎)となっているが、前述正慶元(1332)年の書状2点から「時綱」は「時経」の誤りと判断される。そして義氏は「五郎」ではなく前述したように自ら「佐々木出羽四郎義氏」と名乗っている。しかし義綱の息子(時経・義氏)が両方とも全く同じ「四郎」と名乗っていたというのはあまりに不自然であろうから、義綱周辺の系図に誤りがあると判断される。
恐らく江戸時代に入って『寛政重修諸家譜』が編纂される段階でこれらの点には気付かれていて、通称等の注記も含めて「義綱―時経―義氏―経氏(初 頼氏)」という系譜に修正された。但し管見の限り、経氏が「頼氏」と名乗っていた形跡は史料上で確認できず、恐らくここに『分脈』での「義氏―頼氏」をトレースした可能性が高い。
だが、ここで前述の考察との矛盾が生じる。改めて2種系図を比較してみよう。
●『分脈』:「頼綱―義綱―義氏―頼氏」
●『寛政譜』:「頼綱―義綱―時経―義氏―経氏(初 頼氏)」
結果として系譜の修正内容は「義氏を義綱の子ではなく、義綱の孫とした」もしくは「義綱と義氏の間に時経を入れた」だけである。そのため、頼氏(経氏)の曽祖父が頼綱でなくなってしまったのである。
しかし、①頼綱と経氏が「曾祖父―曾孫」であること、②『寛政譜』での「頼綱―義綱―時経―義氏」という系譜については前述の通り史料で裏付けられるから、これらの辻褄を合わせるために導かれる結論は「義氏=経氏」となる。初めは祖父・義綱、のちに父・時経の1字を用いていたことになる。
振り返れば『分脈』では「義氏―頼氏」と書かれるのみで、頼氏が(のちの)経氏であるとは全く書かれていないから、義氏=経氏と見なし、頼氏をその息子と解釈しても全く問題ない。前述「佐々木朽木出羽四郎殿」の実名が不明であったが、筆者はそれが「頼氏」だったのではないかと推測する。
また、前述にも掲げた「池大納言所領相伝系図」を見ると、「乗氏」も「頼氏」というよりは「義氏」の誤記或いは誤読の可能性が考えられると思う*31
(別紙)「糸〔系〕図 池殿 池大納言領」
池大納言頼盛 池河内守保業 池宮内大輔光度 宮内大輔為度 河内大夫維度 河内大夫宗度
河内次郎顕盛 于時四郎乗氏〔義氏か?〕万寿丸経氏
宮内大輔為度 河内大夫維度 先立于父死去畢、 河内新大夫宗度
河内次郎顕盛 経氏 佐々木出羽守童名万寿丸為養子相伝之、
*平頼盛は息子の僧・静遍(1166-)や平光盛(1172-)がまだ若年・幼少であった文治2(1186)年に亡くなっており、その兄弟である平保業も同様であったと考えられるが、その後は年の離れた長兄・平保盛(1157-)の庇護下にあってはその「保」の字を受けたとみられる。保業の子・平光度は伯父・光盛から1字を受けたのであろうか、頼盛の弟・忠度も用いた高祖父・正度の「度(のり)」が "復活" して暫く代々の通字となり、顕盛の代に再び「盛」の字が使われた様子である。保業以降の当主は国守に任官しなかったようで、保業が就いた河内守に因む「河内」が付されている。
【史料3】の成立時期について『鎌倉遺文』*33では「平(池)顕盛譲状」や【史料1】が出された元徳2(1330)年と推定されているが、経氏に「佐々木出羽守」の注記が見られることから、実際は任官した観応2(1351)年以後と見なすのが正しいだろう。
「河内次郎顕盛」の「しそく」として所領を譲り受けた元徳2年当時は「万寿丸」であったが、「于時四郎乗氏」はその後間もない頃に元服し、【史料2】で嫡男万寿丸(氏綱)に譲るまで領有していた当時の名乗りとみて良いだろう。
前述の通り「佐々木出羽四郎義氏」が初めて史料上に現れるのは、建武3(1336)年正月であるから、それ以前に元服を済ませていたことになる。顕盛の猶子「万寿丸」もいずれは元服するのであり、1330年代に「四郎」と名乗る万寿丸=乗氏と義氏が別々にいたと考えるよりは、同人であったと見なすのが自然であると思う。
この検証については、最終章にて細かく行っているので後述を参照いただければと思う。
朽木氏秀・氏綱兄弟
【史料2】から20数年後の永和2(1376)年正月22日には「従五位下源氏秀」を出羽守に任じる旨の宣旨が出されている*34が、以下史料により経氏の子と分かる。
● 貞治2(1363)年6月3日付「佐々木出羽五郎殿」宛て「足利義詮御判御教書」の文中に「亡父経氏」*35
*この文書は「去文和三年潤〔ママ、閏〕十月四日亡父経氏譲状之旨」(=【史料2】)に任せて朽木庄以下の領知を安堵するものであり、前述の万寿丸=佐々木出羽五郎(=氏綱)であることが分かる。また、1361年~1363年の間に経氏が亡くなったことも窺えよう。
● 応安5(1372)年10月17日付・(朽木)氏綱の書状の文中に「出羽三郎氏秀」*36
● 永和3(1377)年8月22日付で「佐々木出羽守氏秀」に下した3代将軍・足利義満の袖判下文の文中に「舎弟五郎氏綱」とある*37ことから、氏秀の弟が氏綱で、前述の「佐々木出羽五郎」も氏綱と判断される。
氏秀・氏綱兄弟の父が経氏であるというので、前述元徳元年の「まんしゆ丸」の息子ということになる。現実的に考えれば、兄弟の生年は早くとも「まんしゆ丸」=経氏が20代を迎える1340年代と考えるべきだろう。氏秀もやはり30代以下での出羽守任官であったことになる。その名乗りは父・経氏の「氏」と祖先・佐々木秀義の「秀」を用いたものであろう。
永和4/康暦元(1379)年7月、義満の右近衛大将拝賀式の際の供奉人の一人に「佐々木出羽五郎左衛門尉」が含まれており(『群書類従』巻459所収『花営三代記』)*38、前述の「五郎氏綱」も1377~1379年の間、30代で左衛門尉の官職を得たことが窺える。
朽木能綱・時綱
【史料3】応永3(1396)年6月26日付「朽木氏綱譲状案」*39
譲与 嫡子五郎所
右所領者、近江国朽木庄・同針畑村并自池顕盛相伝所領、次朽木庄内栃生郷者、田中七郎*40一期之間、可知行之由、契約畢
応永三年六月廿六日 左衛門尉氏綱 在判
氏綱の「嫡子五郎」は、『寛政譜』や『系図纂要』上でも息子となっている朽木能綱(よしつな)に比定され*41、元服からさほど経っていなかった可能性が高い。1370~80年代の生まれになるのではないか。
そして、同14(1407)年6月24日には「妙林」なる人物が「朽木出羽守能綱」に向けての譲状を発給している*42が、同23(1416)年10月日付の「佐々木朽木出羽守能綱 申状」の文中に「伯父妙林」とあり*43、妙林=氏秀(氏秀の法名が妙林)と判断される*44。
また、氏秀の出羽守任官から31年経った1407年の段階で、甥である能綱が出羽守に就いていたことが窺えるから、やはり同じくらいの年齢での任官であっただろう。1380年頃の生まれとするのが良さそうである。能綱はかなり長期の在任であったようで、永享3(1431)年2月に「出羽守能綱」名義で「朽木五郎左衛門尉時綱」に向けての譲状を発給している*45が、時綱は父・能綱との現実的な年齢差を踏まえても当時20代で左衛門尉在任であったことが窺えよう。
朽木貞高以後
嘉吉元(1441)年11月3日付の「室町将軍(=足利義勝)家御教書」では、受取人「佐々木朽木満若殿」に対し若狭国への発向を命じているが、『寛政譜』や先行研究では時綱の子・朽木貞高(初名:高親)の幼名と考えられている*46。
仲村研氏はこれに加え、文安3(1446)年3月27日書状の「朽木弥五郎」、享徳3(1454)年4月「朽木信濃守高親」、同年12月7日書状の「佐々木朽木信濃守殿」*47についても貞高に比定されている*48。
長禄2(1458)年3月5日付足利義政袖判御教書の文中に「佐々木朽木信濃守貞高」と見えており*49、文明2(1470)年正月26日*50までの存命が確認できる。
信濃守貞高の存命中、応仁2(1468)年7月8日には「佐々木朽木弥五郎殿」に対し、所領の近江国後一条・安主名を、応仁の乱の最中にあった8代将軍・足利義政の「若君(=のちの足利義尚)」の「供菜料所」として預ける旨の書状が出されており*51、これは貞高の子・朽木貞綱に比定されよう。文明17(1485)年7月17日に「朽木刑部少輔貞武」が死去したという*52が、『寛政譜』や『系図纂要』*53では貞綱の初名と伝える。
長享元(1487)年、22歳と遅めではあるが足利義材が室町殿(=従兄の9代将軍・足利義尚)の猶子として美濃国で元服を遂げ*54、翌2(1488)年8月15日付の書状の宛名「佐々木朽木殿」*55は故・貞武(貞綱)の子に比定されるから、材秀(きひで)が元服したばかりの次期将軍・義材の加冠により元服を遂げたと判断できる。元服は通常10代前半で行われたから、逆算すると1470年代の生まれになるだろう。『親長卿記』文明5(1473)年11月23日条には「昨日廿二日、予(=筆者・甘露寺親長)息女 故伊勢守貞祐令猶子、遣朽木弥五郎、今日産男子誕生、但母堂廿歳、死去云々、」とあり*56、「朽木弥五郎(=貞綱)」の許へ遣っていた親長の娘20歳が男子を出産して亡くなったことが記されており、この男子が材秀に当たるのではないか。
延徳2(1490)年7月、前年の義煕(義尚より改名)および正月の伯父・足利義政(義尚の父)の相次ぐ逝去により将軍職を継いだ義材(のち1498年「義尹」に改名)は、9月5日付の袖判御教書にて「佐々木朽木弥五郎材秀」に対し近江国高嶋郡朽木庄の当知行を安堵している*57が、わざわざ実名を記して「材」の偏諱を認めていたことが分かる。尚、もう片方の「秀」字は前述の氏秀以来の使用となる。
『朽木文書』所収・永正2(1505)年12月3日付「室町幕府奉行人(=飯尾元行、松田頼亮)連署奉書」の宛名「竹松殿」については、同3*58~4年*59の「佐々木朽木竹松殿」と同人でのちの稙綱に比定されており(『寛政譜』)、まだ元服前であったことが窺えるが、同12(1515)年の段階では元服済みで「朽木弥五郎」・「佐々木朽木殿」と呼ばれている*60。『寛政譜』によると恵林院義稙(=足利義稙)より諱字を与えられ、初名「稙廣(稙広)」であったといい*61、永正13(1516)年には「稙廣」署名の書状が確認できる*62。よって竹松の元服は、同10(1513)年に将軍・足利義尹が「義稙」と改名*63して間もない頃になるだろう。前述と同様、元服の年齢を考えて逆算すると1500年頃の生まれと推定される。
『寛政譜』によると、朽木晴綱は萬松院義晴(=足利義晴)より諱字を賜り、天文19(1550)年に33歳で討死したといい*64、逆算すると永正15(1518)年生まれと分かる。父・稙広(稙綱)との年齢差が18となるが、日本史上では珍しくなく、十分妥当である。
朽木氏各当主の世代推定と官職任官年齢について
前章での考察を踏まえて、各当主の限りなく正確な生年・世代を推定してみたいと思う。
経氏以降
経氏・氏綱については幼名の「万寿丸」を名乗っていた時期から生年を推定可能であり、材秀以降も生まれた時期がほぼ確定されるので、おおよそ次のようになるだろう。
●「万寿丸経氏」:1320年代
●「(前出羽守経氏)嫡子万寿丸」:1340年代
● 朽木能綱:1380年代
● 朽木時綱:1400年代
● 朽木貞高:1430年代
● 朽木貞綱:1450年代
● 朽木材秀:1473年か
● 朽木稙綱:1500年頃
● 朽木晴綱:1518年~
● 朽木元綱:1549年~
経氏以前
では、今度は経氏から遡っていきたいと思う。各親子間の年齢差を20と仮定した場合、次のように推定される。
● 朽木義綱:1260年代
● 朽木時経:1280年代
● 朽木義氏:1300年代
●「万寿丸経氏」:1320年代
こうした場合、義綱・義氏・経氏に関しては30代で兵衛尉に任官したことになる。兵衛尉時経も史料に出てきた当時、その年齢をはるかに超えることになるから一応はその条件を満たしている。
ここで前述の「義氏=経氏」説に関連して、各々の史料を以下のように列挙してみると、登場時期が重なることが分かる。
● 元徳2(1330)年9月22日・10月22日:「まんしゆ丸」
● 建武3(1336)年正月28日:「佐々木出羽四郎義氏」
● 建武3年9月27日:「佐々木出羽四郎殿」
● 建武4年8月3日:「佐々木出羽四郎兵衛尉殿」
● 建武5(1338)年閏7月16日:「出羽四郎兵衛尉殿」
● 建武5年8月16日・27日・9月3日:「出羽四郎兵衛尉」*65
● 暦応元(1338 ※建武より改元)年10月2日:「出羽四郎兵衛尉」*66
● 暦応2(1339)年5月3日:「佐々木出羽四郎兵衛尉」
● 暦応4(1341)年正月20日・9月14日・10月28日:「佐々木出羽四郎兵衛尉殿」*67
● 康永4(1345=貞和元)年8月29日:足利尊氏・直義兄弟の天龍寺供養に随行する中に「佐々木出羽四郎兵衛尉」(『師守記』・『園太暦』同日条、『伊勢結城文書』、『太平記』など)*68
● 貞和3(1347)年8月9日:「佐々木出羽四郎兵衛尉殿」*69
● 観応2(1351)年6月26日:「佐々木出羽四郎兵衛尉経氏」
● 観応2年8月19日:「佐々木出羽守殿」
● 観応3/文和元(1352)年閏2月23日:「佐々木出羽守殿」
● 文和3(1354)年閏10月4日:「前出羽守経氏」
【史料3】より元徳2年の「まんしゆ丸(万寿丸、元服前なので年齢は10代前半以下)」と文和3年の「前出羽守経氏」が同一人物であるのだから、のちの息子・氏秀と同様に30代以下での出羽守任官であったことが確実となる。
もし仮に義氏と経氏を別人(親子)とした場合、次のようになると思う。
●時経 1330年(40代後半~50歳位):兵衛尉
●義氏 1337年~1347年(30代後半~40代後半):兵衛尉
●経氏 1337年~(10代半ば):出羽四郎
1351年~(30歳程度):兵衛尉、出羽守
この場合、不自然な点が2つある。時経が50歳近くになっても国守等への任官を果たしていないこと、経氏の代になって急に兵衛尉、出羽守と一気に昇進が許されていることである。前述の通り、経氏にとっても「曾祖父」は義綱ではなく頼綱とすべきであるから、おおよそ次のように推定される。
● 朽木頼綱:1230年代
● 朽木義綱:1260年代
● 朽木時経:1290年代
● 朽木義氏(経氏):1320年代
備考
朽木氏は一部の当主を除いて原則「綱(つな)」を代々の通字とした。
前述の通り、朽木貞綱は伊勢貞祐の猶子であった甘露寺親長の娘を妻に迎えており、父・朽木高親(のち貞高)の「親」や「貞」の字は、貞綱が一時期匿ったこともある貞祐の父・伊勢貞親(1417-1473)と以前から繋がりがあって偏諱を受けたものではないかと推測される*71。高親(貞高)は「綱」の通字を用いず、祖先・佐々木高信にまで遡ってその「高」の字を用いた様子である。
江戸時代前期の旗本・朽木定朝も初名は「亮綱(すけつな)」であったが、恐らくは当時の将軍・徳川家綱の偏諱を避ける(=避諱)ため、祖先・佐々木定綱(秀義の長男)の「定」*72を用いた名前に改名している。
(参考ページ)
● 武家家伝_朽木氏
脚注
*1:佐々木頼綱譲状写。佐々木頼綱譲状案(『朽木家古文書』147 国立公文書館) - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座。
*2:『鎌倉遺文』第22巻17009号。
*3:仲村研「朽木氏領主制の展開」(所収:『社会科学』17号、同志社大学人文科学研究所、1974年) P.163。
*4:『鎌倉遺文』第23巻17992号。
*5:『鎌倉遺文』第23巻18062号。
*6:『寛政重修諸家譜』第3輯・巻第401「宇多源氏 佐々木系図」。
*7:『鎌倉遺文』第24巻18635号「尼覚意譲状」。
*8:『鎌倉遺文』第26巻20146号。
*9:『鎌倉遺文』第26巻20125号。
*10:『鎌倉遺文』第29巻22443号。
*11:大原頼重 - Henkipedia 参照。
*12:『鎌倉遺文』第41巻31850号。斯波宗家 - Henkipedia【史料B】参照。
*13:『鎌倉遺文』第41巻31881号。斯波宗家 - Henkipedia【史料C】参照。
*22:『鎌倉遺文』第40巻31207号。平顕盛譲状。平顕盛譲状(『朽木家古文書』134 国立公文書館) - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座。
*23:『寛政重修諸家譜』第3輯・巻第415「宇多源氏 朽木系図」。在田庄(ありたのしよう)とは? 意味や使い方 - コトバンク。前掲仲村氏論文 P.169。
*24:『鎌倉遺文』第40巻31245号。旧国名については平顕盛譲状にある各所領を参照のこと。
*28:『大日本史料』6-19 P.182・198~199。
*29:安堵状(あんどじょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。
*30:『寛政重修諸家譜』第3輯・巻第415「宇多源氏 朽木系図」。
*31:「乗」(U+4E57) | 日本古典籍くずし字データセット、「義」(U+7FA9) | 日本古典籍くずし字データセット、「頼」(U+983C) | 日本古典籍くずし字データセット 参照。
*32:『鎌倉遺文』第40巻31208号。
*33:前注に同じ。
*35:『大日本史料』6-25 P.99。足利義詮御判御教書。前掲仲村氏論文 P.177。
*37:『大日本史料』6-49 P.448~449。足利義満袖判下文。
*38:群書類従 第576-578冊(巻459上中下) - 国立国会図書館デジタルコレクション。足利義満 右近衛大将拝賀式 供奉人。
*39:『朽木家古文書』434号。近江国 - 「ムラの戸籍簿」データベース #高島郡栃生郷の項、朽木データベース1 - 周梨槃特のブログ より。
*40:田中七郎については実名等不詳であるが、本項にも掲げた頼綱の子・氏綱に始まる田中氏の者とみられる。佐々木氏支流の田中氏については 田中・山崎・永田氏の系譜―高島七頭(4): 佐々木哲学校 を参照のこと。
*41:前掲仲村氏論文 P.193~194。寛政重脩諸家譜 第3輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*44:前掲仲村氏論文 P.194。
*45:『編年史料』後花園天皇紀・永享3年正月~2月 P.77。
*46:室町将軍(足利義勝)家御教書。【本郷和人の日本史ナナメ読み】古文書学とは何か(上)中世文書は「形式」が重要(3/3ページ) - 産経ニュース。寛政重脩諸家譜 第3輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*48:前掲仲村氏論文 P.195~196。
*49:『編年史料』後花園天皇紀・長禄2年正~3月 P.62。
*53:前注に同じ。
*56:史料大成 続編 第39 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*57:足利義材(義稙)袖判御教書。『大日本史料』8-39 P.17。
*58:『編年史料』後柏原天皇紀・永正3年3~4月 P.18。
*59:『編年史料』後柏原天皇紀・永正4年2~3月 P.43。
*61:『寛政重修諸家譜』第3輯・巻第415「宇多源氏 朽木系図」。
*64:『寛政重修諸家譜』第3輯・巻第415「宇多源氏 朽木系図」。
*68:『大日本史料』6-9 P.248・274・280・286・304・313。康永四年 足利尊氏・直義、天龍寺供養 供奉人。
*70:兄・重綱(1207-)と弟・泰綱(1213-)の各生年の間。
*71:幕府政所執事であった伊勢貞親の偏諱を受けたと考えられる人物としては、宮氏上野介家の宮貞兼(宮若狭守貞兼、→ 宮三河守家について(特異な宮上野介家の庶子家))や、貞親の被官であったという松平信光の子・親忠(→ 川戦:『将軍』寺編①プロローグ: Papathana's ブログ、徳川家の出自と松平一族について(3) | 気まぐれな梟)らが挙げられる。
*72:恐らくこの字は元々、祖先の宇多天皇の諱「定省(即位前に一時臣籍降下して源定省と名乗っていた)」の1字を取ったものではないかと思われる。
佐々木経泰
佐々木 経泰(ささき つねやす、1234年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。佐々木泰綱の最初の嫡男であったが、のちに廃嫡されたとされる。呼び方は六角経泰とも。官途は左衛門尉。子に佐々木朝綱(ともつな)、孫に夢窓疎石がいる。
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父・泰綱については1213年生まれと判明しているから、現実的な親子の年齢差を考えれば、早くとも1233年頃の生まれになるだろう。
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そして、最終的に泰綱の跡を継いだ弟の頼綱も1242年生まれと分かっているので、兄である経泰の生年はそれ以前になることも確定する。
『尊卑分脈』佐々木氏系図を見ると、上記父兄についてのほか、経泰の子に朝綱(左門尉、遁世)が載せられており、夢窓疎石(1275~1351)はこの佐々木朝綱と北条政村の娘との間に生まれたとされる*1。経泰を前述の1233年から1235年頃の生まれとすれば、疎石との「祖父―孫」間の年齢差で丁度良くなる。
*夢窓国師については宇多天皇九代の後胤と伝える史料があるが、これに対し六角氏郷は世代・代数的な矛盾点を指摘し、後小松天皇の宸翰であろうと誤りはあるものだと述べて『夢窓国師俗譜』(天竜寺所蔵)をまとめている*2。
よって、経泰は1234年頃、泰綱が22歳位の時に生まれた長男であったと判断して良いだろう。
ここで「経泰」の名乗りに着目すると、「泰」が父から継承した字であるのに対し、上(1文字目)に戴く「経」の字は烏帽子親からの一字拝領と考えられる。
『吾妻鏡』建長2(1250)年12月3日条には弟・頼綱が5代執権・北条時頼の邸宅において9歳(数え年、以下同様)で元服した記事が見えており、「頼」の偏諱を与えられた様子が窺える。前掲記事でも言及の通り、父・泰綱の「泰」も3代執権・北条泰時からの一字拝領に間違いない。
経泰を1234年の生まれと仮定すると、9歳を迎える仁治3(1242)年には泰時の逝去に伴い、その嫡孫である北条経時(時頼の兄)が4代執権となっている。経時は寛元4(1246)年に亡くなるまでの4年間在職した*3から、経泰の生年を少し前後させても、その元服は経時の在任期間内になる可能性はほぼ確実と言って良いだろう。よって、経泰も父や弟に同じく北条氏得宗を烏帽子親とし、経時の偏諱「経」を賜ったと判断される。
脚注
*1:一井明文「夢窓国師と興禅護国」(所収:『禅学研究』32号、禅学研究会、1939年)P.153、天竜寺所蔵『夢窓国師俗譜』: 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ)より。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
大原頼重
佐々木 頼重(ささき よりしげ、1236年頃?~没年不詳(1263年以後))は、鎌倉時代中期の武将・御家人。通称および官途は 三郎、左衛門尉。
宇多源氏佐々木氏の支流・大原氏の祖である佐々木(大原)重綱の子(3男か?)。源頼重、大原頼重とも呼ばれる。
まず、父・重綱(1207 - 1267)*1について、『吾妻鏡』での登場箇所を次の表に掲げる。
年 |
月日 |
表記 |
承久3(1221) |
6.14 |
信綱……子息太郎重綱 |
貞応元(1222) |
7.3 |
佐々木太郎兵衛尉重綱 |
嘉禄元(1225) |
12.20 |
佐々木太郎左衛門尉 |
安貞2(1228) |
7.23 |
佐々木太郎左衛門尉 |
7.24 |
佐々木太郎左衛門尉重綱 |
|
寛喜3(1231) |
8.15 |
近江太郎左衛門尉重綱 |
天福元(1233) |
1.2 |
近江太郎左衛門尉 |
8.15 |
佐々木太郎左衛門尉 |
|
寛元元(1243) |
11.1 |
佐々木太郎左衛門尉重綱法師 |
初出当時15歳で「太郎重綱」と名乗っていたことになるが、元服してさほど経っていないタイミングで十分妥当であると判断される。翌年16歳で兵衛尉、19歳で左衛門尉の官職を得ていることも任官年齢として一般的で問題ないと思う。
『尊卑分脈』佐々木氏系図(以下『分脈』と略記)を見ると、重綱の息子に長綱、頼重、秀綱……と載せられている。現実的な親子の年齢差を考えれば、彼らの生年は1227年以後であったと判断すべきであろう。
『吾妻鏡』嘉禎3(1237)年4月22日条「近江四郎左衛門尉氏信 同(=近江)左衛門太郎長綱」の通称は「近江守の息子・左衛門尉の太郎(長男)」を表しており、近江守信綱の子・太郎左衛門尉重綱の長男である佐々木長綱に比定される*3。のちの例にはなるが、『吾妻鏡』建長2(1250)年12月3日条には重綱の弟・佐々木泰綱(佐々木壱岐前司)の息子頼綱が9歳で元服した記事が見えるので、長綱もほぼ同年齢で行ったとすれば、生年は1227~1229年頃であったと推定できる。
続いて、頼重について『吾妻鏡』での登場箇所を次の表にて掲げる。
年 |
月日 |
表記 |
嘉禎元(1235) |
2.9 |
|
嘉禎2(1236) |
8.4 |
|
8.9 |
||
宝治2(1248) |
1.3 |
佐々木三郎左衛門尉 |
弘長元(1261) |
8.15 |
近江三郎左衛門尉 |
弘長3(1263) |
4.14 |
近江三郎左衛門尉 |
4.26 |
近江三郎左衛門尉頼重 |
|
8.9 |
近江三郎左衛門尉頼重 |
|
8.15 |
近江三郎左衛門尉頼重 |
先に結論を述べる形になるが、ここで注意しなければならないのは、※印を付けた嘉禎年間の「近江三郎左衛門尉」については頼重ではないということである。長綱の弟であれば、およそ1230年以後の生まれになるが、1235年に6歳以下で元服と左衛門尉への任官を済ませていたことになり、いくら何でもあり得ない話である。嘉禎年間において兄の長綱が無官で「太郎」と名乗るのみであるのに対し、弟の三郎頼重が先に左衛門尉に任官していたことにもなるため、誤りと判断して良かろう。
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嘉禎年間の「近江三郎左衛門尉」は、正しくは長綱・頼重らの叔父にあたる前述の佐々木(六角)泰綱に比定されるだろう。『吾妻鏡人名索引』では、寛喜元(1229)年10月22日条「佐々木三郎」から嘉禎3(1237)年6月23日条「近江大夫判官泰綱」にかけての空白期間にあたり*5、近江守信綱の "三郎(3男)" 泰綱が左衛門尉に任官したばかりの頃はそう呼ばれたのであろう。「大夫判官」とは、衛門府内に置かれた検非違使庁の尉(六位相当)で五位に任ぜられた者の呼称であり*6、左衛門尉であった泰綱が叙爵(従五位下への昇叙)してから呼称が変化したことが窺える。尚、同じく嘉禎年間の前述「近江四郎左衛門尉氏信」は泰綱の弟・佐々木(京極)氏信である。
よって、頼重の『吾妻鏡』初見は宝治2年正月3日条「佐々木三郎左衛門尉」となる。この年(年頭)に父・重綱と同年齢での左衛門尉任官であったと仮定した場合、逆算すると1230年生まれとなり、前述の考察と合致する。
【表A】に「佐々木太郎左衛門尉重綱法師」とある通り、父・重綱が左衛門尉のまま、国守に任官しない段階で出家したため、【表B】にあるように頼重が祖父・信綱の官途に因んで「近江三郎左衛門尉」と呼ばれるようになったというわけである。
*『吾妻鏡』において、かつて "近江三郎左衛門尉" と呼ばれていた泰綱は前述の通り、「近江大夫判官」を経て壱岐守任官・退任に伴い「佐々木壱岐前司」と表記が変化し、その嫡男・頼綱は「(佐々木)壱岐三郎左衛門尉」と呼ばれた。"近江四郎左衛門尉"氏信はその後対馬守に任官したため、長男・頼氏は「(佐々木)対馬太郎左衛門尉」と書かれるようになった。『分脈』によると高信も隠岐守となったらしく、この頃「近江」を付すことができたのは重綱の系統・大原氏のみとなる。
ここで「頼重」の名に着目すると、父から継承した「重」の字*7に対し、「頼」は烏帽子親からの一字拝領の可能性がある。元服は多く10代前半で行われたから、その時期は5代執権・北条時頼在職期間(1246年~1256年)*8になると言って良く、「頼」もその偏諱を賜ったものと判断できよう。従弟にあたる前述の佐々木(六角)頼綱も時頼の邸宅で元服しその1字を拝領した様子であり、頼重の弟で後継者となる時綱も時頼の嫡男である8代執権・北条時宗の一字拝領とみられることは次の記事で紹介の通りである。
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一部史料的根拠に弱い推測も入るが、筆者は次のように考える。
重綱の長男・長綱は1227年頃に生まれ、1237年11歳の頃に元服。次男は夭折か。3男・頼重は1236年頃に生まれ、北条時頼が執権となったばかりの1246年頃に11歳位で元服。
ところで紺戸淳氏は、御家人10氏(11系統)を取り上げ、北条氏得宗家から継続的に一字を拝領してきたことを考証された上で、それらの氏族について「嫡流の地位と、得宗家との烏帽子親子関係と、氏族相伝の職の帯有とはいずれもが不可分であり、嫡流を嗣ぐべき者のみが得宗家との烏帽子親子関係、および相伝の職帯有の資格を持った」と説かれている*9。その氏族の中に佐々木氏の六角・京極両流を含めており、大原流にも同じ傾向が当てはまるのではないか。
佐々木哲氏の紹介*10によれば、沙沙貴神社所蔵「佐々木系図」に、長綱が不孝であったため家督を継承できなかったとあるようで、紺戸氏の見解も併せて考えれば頼重が重綱の後継者であったことは間違いないようである。
また、『分脈』を見ると頼重の女子の注記に「佐々木対馬守時綱妾 数子母」とあり、頼重が年の離れた弟・時綱を婿養子とする形で跡を継がせたようであり、時綱の子孫が大原氏として続いている。よって前述の通り「頼重―時綱」が大原氏嫡流として北条氏得宗家と烏帽子親子関係を結んだと考えて良いだろう。
(参考ページ)
● 武家家伝_大原氏
脚注
*1:佐々木重綱 - Wikipedia、佐々木重綱(ささき しげつな)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。
*2:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.238「重綱 佐々木」の項 より。
*3:『吾妻鏡人名索引』P.350「長綱 佐々木」の項 より。
*4:『吾妻鏡人名索引』P.427「頼重 佐々木」の項 より。
*5:『吾妻鏡人名索引』P.317「泰綱 佐々木」の項 より。
*6:大夫の判官(たいふのほうがん)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。
*7:この字については、重綱が外祖父である川崎為重(渋谷重国の兄弟・中山重実の子)から偏諱を受けたものではないかとする見解がある(→ 澁谷氏 ~秩父党~ #渋谷重国)。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*9:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.22。
大原時綱
佐々木 時綱(ささき ときつな、1262年~1314年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将・御家人。通称および官途は 九郎、左衛門尉、対馬守。
宇多源氏佐々木氏の支流・大原氏の祖である佐々木(大原)重綱の子で、源時綱、大原時綱とも呼ばれる。妻は兄・佐々木(大原)頼重の娘。子に貞頼、時重、重信、宗宣、貞重、女子(長井宗衡?室)、女子(佐々木(加地)宗長?室)がいた。
北条時宗の烏帽子子
『尊卑分脈』佐々木氏系図(以下『分脈』と略記)の時綱の項に「正和三壬三十五死五十三才(年齢は数え年)」の注記があり*1、逆算すると弘長2(1262)年生まれと分かる。「時綱」の名に着目すると、父から継承した「綱」の字に対し、「時」は烏帽子親からの一字拝領の可能性がある。元服は多く10代前半で行われたから、8代執権・北条時宗在職期間(1268年~1284年)*2内であることは確実で、「時」は時宗から偏諱を許され、賜ったものと判断して良いだろう。
同じく『分脈』によると父・重綱は文永4(1267)年に亡くなったといい、重綱晩年期に生まれた息子であったことが分かる。時綱の注記に「九郎」とあることから、その通り9男であった可能性が高い。すなわち父・重綱が亡くなった当時、時綱はまだ6歳と幼少であったことになる。
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佐々木哲氏も言及の通り、『分脈』を見ると、兄・ 頼重(三郎左衛門尉)の女子に「佐々木対馬守時綱妾 数子母」とあり、血縁・系譜上は叔父と姪の関係にありながら、時綱が頼重の娘を妻としていたことが分かる。『勘仲記』(『兼仲卿記』)弘安9(1286)年3月27日条を見ると、同日の春日行幸に際し、「後陣」「右衛門少尉」として供奉する「源時綱、佐々木又源太、」*3とあり、佐々木哲氏は「又源太」という仮名が(本来「又太郎」が「太郎の太郎」を意味することから)頼重の次に家督となったことを意味するとして、大原時綱に比定されている。その場合、当時25歳で右衛門尉に任官済みであったことが窺えるが、佐々木氏一門には『分脈』で「右門尉」と注記される京極時綱がおり、「又源太時綱」はどちらかと言うとこちらに比定される可能性があるのではないかと思うので注意しておきたい。ただ、頼重の後継者であったことについては筆者も異存はない。尚、春日行幸には「佐々木備中三郎 源宗信(=六角宗信)」や「右衛門府……少尉源行綱、佐々木四郎、*4」といった佐々木氏一門の者も随行している。
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よって時綱は、年の離れた兄・頼重が養育にあたり、その娘婿という形を取って養嗣子となり、"頼重の嫡男" という扱いで北条氏得宗家と烏帽子親子関係を結んだものと結論付けられよう。
時綱の対馬守任官について
ところで、『分脈』では時綱に「対馬守」の注記もあり、右衛門尉或いは左衛門尉の後に国守任官を果たしたことが窺える。同職は叔父・京極氏信が就いたこともある佐々木氏ゆかりの官職でもある。
以下、鎌倉遺文フルテキストデータベース(東京大学史料編纂所HP内)に頼って、時綱存命の間の対馬守在任者について確認し、時綱が対馬守に就任し得る空白期間を探ってみたい。
『勘仲記』によると前述の春日行幸の翌年にあたる弘安10(1287)年の段階では、7月13日条に「従五位下行対馬守源朝臣光経」の名があり*5、9月21日条にある除目で「遠江守平篤時(=北条篤時)」らと共に「対馬守大江行頼」が新たな就任者として確認ができる*6。翌正応元(1288)年には「対馬守忠弘」の書状が発給されており*7、同じ九州地方で永仁6(1298)年まで確認できる「対馬守」*8も忠弘ではないかと思う(永仁6年10月1日付「島津忠宗神馬送文案」は島津忠宗から「対馬守殿」宛てに出されているので、忠弘が島津氏一族の可能性もあるが、仮にそうだとしても系譜は不詳である)。
その後は延慶2(1309)年6月29日付で「河野対馬守殿」に宛てて幕府から出された「関東御教書」(『尊経閣所蔵文書』)*9が確認でき、正和2(1313)年には宇佐神宮大宮司を世襲した宇佐氏の宇佐公世に比定される「前対馬守公世」或いは「対馬前司公世」*10と記された書状が多数出され、豊前国の各古文書に収録される形で残されている。
これらの情報から考えると、時綱が対馬守となり得る可能性が高いのは、忠弘と河野通有の間にあたる1300年代初頭になるだろう。その当時、時綱は39歳前後~40代となり、叔父・氏信の就任年齢=30代半ば程度*11とそれほど大差ないタイミングとなる。『分脈』に53歳まで生きたとあるのだから、対馬守任官の注記についても信用して良いと思う。
時綱以降の大原流佐々木氏について ―佐々木時重を中心に―
『分脈』を見ると、時綱には多くの男子がいたようで、そのうち長男は貞頼(左衛門尉)、次男は時重(建武武者所、左衛門尉)といった*12。貞頼は次の得宗・北条貞時の偏諱「貞」と頼重(父方では伯父。母方で外祖父にあたるか?)の1字、時重は父・時綱(或いは同様に北条氏からの偏諱)と頼重(同前)の各々1字によって、それぞれ名付けられたものと見受けられ、恐らく貞頼が当初の嫡子(家督継承予定者)であったと思われるが、最終的には時重の系統が大原氏となっている。貞頼が左衛門尉任官の20代くらいまでは生き、早世したために、時重が代わって跡を継いだと考えるのが自然だろう。
元亨3(1323)年の貞時13回忌法要(『相模円覚寺文書』)*13や、元弘の乱に際し上洛した鎌倉幕府の軍勢(『伊勢光明寺残篇』)に名を連ねる「佐々木備中前司」*14は、後述の史料から佐々木(大原)時重に比定して良かろう。時綱が20代の1280年代に生まれ、1323年当時40歳程度で備中守を退任済みであったと考えれば丁度良い推測であると思う。
建武元(1334)年9月27日、後醍醐天皇の加茂神社行幸に足利尊氏が供奉した際、「帯刀廿一番」の一番として「佐々木備中前司時綱」が随行しており(『朽木文書』)*15、同内容を記したと思われる「足利尊氏行幸供奉随兵次第写」(『小早川家文書』)でも「汲兵」の中に「佐々木備中前司時綱」が含まれている*16が、『建武記』(『建武年間記』)同年10月14日条に北山殿笠懸射手のメンバーとして「佐々木隠岐大夫判官高貞 同備中前司時重」*17とあるから、時重と判断して良いだろう。冒頭で述べた通り建武元年当時時綱は故人であり、「時綱」は「時重」と書くべきところを誤って父の名で書いたものと解釈しておきたい*18。
『分脈』での注記「武者所」については、同じく『建武記』に延元元(1336)年4月時点でのリストが載せられているが、当時足利尊氏との戦い(建武の乱)の最中に作成されたため、一色頼行のように建武年間初期には属していた足利方の人材が含まれておらず、同じく載せられていない時重も同様だったのかもしれない。
間の建武2(1335)年8月19日の「辻堂・片瀬原合戦」において、足利方であった「佐々木備中前司父子」が戦傷を負っており*19、佐々木哲氏は時重・仲親と見なされている*20。
『分脈』には、時重の子として時親が載せられるのみだが、『梅松論』には建武3(1336、のち延元に改元)年1月の京都攻防戦において佐々木備中守仲親・三浦因幡守貞連の両侍所が首実検を行ったとある*21。
一方、時親は『園太暦』貞和5(1349)年3月25日条の除目に同族の「越中権守源信顕(=佐々木(高島)信顕)」と共に「備中守源時親」と見え*22、この時に備中守に任官したことになるから、十数年前に備中守であった仲親とは別人であることは明らかである。佐々木哲氏は仲親は系図に載せられていないものの、「親」字の共通から時親の兄弟で、六波羅探題北方・北条仲時(在任:1330年~1333年)の偏諱を受けたのではないかと説かれている。
時親は『分脈』に観応3(1352)年10月18日に29才で亡くなったとあり*23、逆算すると1324年生まれとなる。少し親子間で年齢は離れるが、仲親という兄がいたのであれば、特に問題はないと思う。
備中守在任時期のずれを考慮すると、仲親は1310年代の生まれになり、これも父・時重との年齢差で問題はない。史料が無いので確認は難しいが、年代的に仲時を元服時の烏帽子親とすることは可能になってくると思う。「頼重―時綱―時重―仲親」と4代に亘り北条氏と継続的に烏帽子親子関係を結んだ可能性を考えても良いかもしれない。
尚、時親以降の当主「義信―満信」は、祖先・佐々木信綱(重綱の父、時綱の祖父にあたる)ゆかりの「信」字を復活させると共に足利将軍家の偏諱を受けた様子であり、以降の「持信―持綱―成信―政重(―?―尚親)」でもその慣例が続いたことが窺えよう。
(参考ページ)
● 武家家伝_大原氏
脚注
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*3:勘仲記 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第21巻15863号。
*4:高島高信: 佐々木哲学校では『分脈』に高島泰信の子として掲載の右衛門尉行綱に同定しており、筆者も特に異存はない。
*5:『鎌倉遺文』第21巻16289号・16295号。
*6:『鎌倉遺文』第21巻16346号。
*7:『鎌倉遺文』第22巻16700号。
*8:『鎌倉遺文』第24巻18264号、第26巻19770号・19838号。
*9:『鎌倉遺文』第31巻23719号。
*10:公世が対馬守であったことについては、絶家・社家〔宇佐〕-公卿類別譜(公家の歴史)、宇佐氏考 を参照のこと。
*11:『分脈』での注記から氏信は1220年生まれと判明しており(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№99-京極氏信 | 日本中世史を楽しむ♪)、『吾妻鏡』での表記の変化から、1252~1256年の間に対馬守となったことが分かる(→ 京極頼氏 - Henkipedia の表を参照)。
*13:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.708。
*14:元徳3/元弘元(1331)年9月5日付「関東御教書案」(『鎌倉遺文』第40巻31509号、『新校 群書類従』第19巻 P.738)に「佐々木備中前司」、同年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『鎌倉遺文』第41巻32135号)には宇治から大和道へ向かう陸奥守=大仏貞直の軍勢の中に「佐々木備中前司」、元弘3(1333)年4月日付カ「関東軍勢交名」(『鎌倉遺文』第41巻32136号)に「佐々木隠岐前司一族 同備中前司」が名を連ねている。
*16:『大日本古文書』家わけ第十一 『小早川家文書之二』P.169(二九四号)。
*18:仲村研「朽木氏領主制の展開」(所収:『社会科学』17号、同志社大学人文科学研究所、1974年)P.173では備中前司時綱を佐々木氏一門・朽木氏の人物(のちの朽木義信)とみなしているが、前年の段階で「朽木亀若」と幼名で現れているため誤りであろう。
*19:「足利尊氏関東下向宿次合戦注文」(国立国会図書館所蔵『康永四年延暦寺申状紙背文書』所収、『神奈川県史 資料編3 古代・中世(3上)』3231号。北条時行史料集〜中先代の乱〜。大須賀氏二 #大須賀宗朝。延暦寺申状 [1] - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*21:三浦貞連 (因幡守) - Henkipedia【史料5】参照。