名越宗教
北条 宗教(ほうじょう むねのり、1255年頃?~ 1333年?)は、鎌倉時代の武将。
北条泰時の弟・名越朝時を祖とする名越流の一門であり、名越宗教とも呼ばれる。父は名越教時(北条教時:朝時の六男)。
[目次]
北条時宗の烏帽子子
「教」の字は父・教時から継承したものであり*1、「宗」の字は得宗・北条時宗(得宗:1263~/執権在職:1268~ 1284年没)の偏諱を受けたものであろう。教時は嘉禎元(1235)年の生まれであり*2、現実的に考えてその嫡子である宗教は1250年代半ば以降の生まれであろうから、時宗の加冠により元服したことは確かと判断される。弟の名越宗氏(北条宗氏)も同様に時宗の烏帽子子であったとみられる*3。得宗が名越支流である教時の子とも烏帽子親子関係を結ぶようになったのは、名越教時が得宗への忠誠を示すために息子の加冠を時宗に依頼したというよりは、時宗が烏帽子親子関係を利用して名越の支流を統制下に置こうとしたと解釈するのが妥当なのかもしれない。
教時は、宮騒動(1246年)に加担した長兄・光時、四兄・時幸と同様、反得宗の強硬派であり、文永3(1266)年、6代将軍・宗尊親王の京都送還の際には、得宗(連署)・時宗の制止を無視して軍兵数十騎を率いて示威行動に出ている*4。時宗にとっては警戒すべき存在であった。
二月騒動 ~教時流の粛清~
文永9(1272)年、8代執権となっていた時宗は、自身に不満を持つ反対勢力であった庶兄の北条時輔、および名越時章・教時兄弟の粛清に踏み切った。
見西(時章)・教時兄弟の討伐については、同じ『続史料大成 51巻』(竹内理三編、臨川書店)に収められる『鎌倉年代記』の裏書や『鎌倉大日記』、ひいては『保暦間記』、『随聞私記』など多数の史料にも記されるところである*5が、この〔史料A〕だけは教時の息子・宗教が同時に誅殺されたと具体的に記しており、注目に値する。
▲【系図C】『入来院家本 平氏系図』*7の教時流を中心とした部分
その他、『前田本平氏系図』中の北条氏系図(【系図B】)においても、教時の項に「文永九二十一被打了」、宗教の項に「太郎 文永被打了」、宗氏の項にも「太郎(ママ) 同被打了」と注記されており、『入来院家本 平氏系図』(【系図C】)でもほぼ同様の内容の注記が見られる。両系図は成立年代から比較的信憑性の高いものとされ、〔史料A〕で宗教 "以下" と記される中に含まれる、同時に連座した者の1人が弟の宗氏だったのであろう*8。
また、【系図C】では、宗教以降、息子にその父と同名の「教時」を載せ、時躬(ときみ)と乱れた直線で結ぶ等、混乱して書かれた様子が窺える。しかし【系図B】と照合すれば、時躬は弟・八郎公教(きみのり)の子とするのが正しいと判断され、恐らく難を逃れ生き残った人物だったのであろう。
この当時、宗教・宗氏兄弟の年齢は20歳近くであったと推測される。【系図C】にある通り、宗教は従姉妹(伯父・時兼*9の娘)を妻に迎えていたようだ。
また、『尊卑分脈』や【系図B】等の系図類では円朝(えんちょう)という息子を載せるが、二月騒動と同年(騒動の直前)の生まれだったようで*10、宗教の当時の年齢を裏付ける根拠となる。
鎌倉時代末期までの生存説
ところで、『系図纂要』の北条氏系図(【系図D】)では、教時の傍注に「同(文永)九年二ノ十一於鎌倉被誅卅八」と、前述に同じ内容を記しておきながら、息子・宗教の項には「入道元心 於千早討死」とある。
「千早」とは、1333(元弘3/正慶2)年の千早城の戦いのことを指しており、軍記物語の『太平記』でこの合戦を描く箇所*11を見ると、「名越遠江入道」が甥の兵庫助と口論の末、刺し違えたとするエピソードを載せている。
●【表E】『楠木合戦注文』に基づく幕府軍の構成メンバー表
河内道(大手) | 大将軍 | 遠江弾正少弼治時 |
軍奉行 | 長崎四郎左衛門尉高貞 | |
大和路 | 大将軍 | 陸奥右馬助 |
軍奉行 | 工藤次郎右衛門尉高景 | |
大番衆 | 新田一族 里見一族 豊島一族 平賀武蔵二郎跡 飽間一族 園田淡入道跡 綿貫三郎入道跡 沼田新別当跡 伴田左衛門入道跡 白井太郎 神澤一族 綿貫二郎左衛門入道跡 藤田一族 武二郎太郎跡 |
|
紀伊手 | 大将軍 | 名越遠江入道 |
軍奉行 | 安東藤内左衛門入道円光 | |
大番衆 | 佐貫一族 江戸一族 大胡一族 高山一族 足利蔵人二郎跡 山名伊豆入道跡 寺尾入道跡 和田五郎跡 山上太郎跡 一宮検校跡 嘉賀二郎太郎跡 伊野一族 岡本介跡 重原一族 小串入道跡 連一族 小野里兵衛尉跡 多桐宗次跡 瀬下太郎跡 高田庄司跡 伊南一族 荒巻二郎跡 |
(表は http://chibasi.net/soryo14.htm より拝借)
『楠木合戦注文』によって実際に「名越遠江入道」が「紀伊道」の大将軍であったことは認められ*12、建武4(1337)年には足利尊氏によって園城寺(=近江国三井寺、現・滋賀県大津市)に「尾張国枳頭子庄」内の「名越遠江入道跡」が寄進されている*13ことから、恐らくは遠江入道の死によって幕府滅亡後にその旧領が収公されたことが窺える。
上の【表E】における各軍勢の大将軍3名については、次の史料によって誰かを特定し得る。
〔史料F〕『保暦間記』より
同(元弘)三年葵酉春、此事ヲ聞テ、関東ヨリ、弾正少弼治時 時頼彦遠江守随時カ子也高時為子、陸奥守右馬権助高直 維貞子、遠江入道宗教法師 朝時孫教時子、彼等其外一族大将軍トシテ、関東ニサルヘキ侍多分差上ス。其勢五万騎上洛シテ、彼城ヲ責サス。
高直については、次兄の大仏家時が「陸奥右馬助」であった*14ようなので、この〔史料F〕の通り権官であったと考えて良いだろう。「陸奥(守)」は父・維貞がなっていた官職ゆえに付いたものである。【表E】には「陸奥右馬助」とあるだけなので家時の可能性も否めないが、この〔史料F〕が誤りであるとは考えにくく、高直で良いだろう。
従って、この〔史料F〕は【表E】と同内容を記したものと考えて問題ない。すると、「遠江入道」が何と、二月騒動で誅殺されたはずの宗教だというのである。 しかもわざわざ教時の子(朝時の孫)であることを注記しており、名越宗教と同人であることに疑いは無い。
ちなみに、【図D】では「遠江守 入道元心」篤時と、「兵庫助」時家が、千早城の戦いの際に「忿爭」(=紛争)を起こして互いに死んだとするが、『入来院本平氏系図』によれば、篤時は正応5(1292)年には亡くなったようであり*15、一方の時家もその官途は「兵庫 "頭" →美作守」であったことが判明している*16ので、これは明らかに誤りである。篤時には「苅田」とも記すが、「苅田式部大夫篤時」 は幕府滅亡(同年5月の東勝寺合戦)時に得宗・高時に殉じた1人*17なので別人とすべきであり、しかも法名が宗教と同じ「元心」であるというのも不自然である。恐らくこじつけであろう。
系図類では、後世の者による修正・改竄がなされたり、或いは誤記(誤写)によって誤う情報が伝えられてしまったりすることがあるため、古系図の方が信憑性が高いとされる。
そうした意味では名越宗教についても〔史料A〕(『武家年代記』裏書)にも合致する【系図C】の記載を信用したいところだが、一方【系図D】(『系図纂要』)は江戸幕末期の成立でありながら、その記載は前述してきた史料に基づいて修正された当時の研究成果として捉えられる。実は、多くの家柄を掲載する系図集としては比較的古く、信憑性も高いとされる『尊卑分脈』には宗教の項に何も記載されておらず、【系図C】での乱れも当時、宗教の生死について情報が錯綜していた可能性を窺わせるものといえよう。
こうして生まれた「名越遠江入道」=宗教 説は、北条宗教 - Wikipedia をはじめ、一部の先行研究*18で採用されている。鎌倉時代後期には尾張守護であったとし(後述参照)、千早城合戦に至るまでの他史料での「名越遠江入道」も宗教とするのが有力になりつつある。
但し【系図D】で「名越遠江入道」=篤時 とこじ付けたのも無理は無いと思う。「名越遠江入道」というのは、出家前に遠江守であったことを示す通称名であるが、宗教が父と同じ遠江守に任官したということは書状などの一次史料ではおろか、系図類でさえ確認できず、仮に「名越遠江入道」=宗教としても、系図類で宗教の弟・宗氏または公教の息子に"名越兵庫助"なる人物が確認できない*19のである。
故に〔史料F〕での「遠江入道宗教法師」は〔史料A〕の内容を信用して「公教」の誤記ではないかと思うこともあったが、【系図C】で見る限り公教の弟たちは早世しているか、僧籍に入っているかのいずれかで、公教の甥になり得る、宗教・宗氏の息子に"名越兵庫助"なる人物はやはり確認できない。
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こちらの記事▲で述べた通り、『太平記』巻七で「名越遠江入道」と口論の末、刺し違えたその甥を「兵庫助」とするのは誤りではないかと思われる。『太平記』を読み進めると、同年5月17日に「越中の守護名越遠江守時有」が「甥の兵庫助貞持」とともに自害したとある*20。【系図D】では若干の誤りはあるが、『尊卑分脈』にも掲載があることから、時有は公貞の子で良く、貞持についても僅かに残る史料で実在は認められる。それによれば、貞持は前年(1332年)から「名越兵庫助」を称していたようで、同じ通称名を持った別人がいたとは考えにくい。
よって、以上の考察からあり得るのは、「名越遠江入道」=宗教 で、甥は公教の子・時躬という推定であろう。時躬については、最終官位を従五位下・式部丞(式部大夫)と伝えるが、兵庫助(正六位下相当)から昇ったのかもしれない。生没年不詳であり*21、人物比定は可能だと思う。
名越宗教の出家時期についての考察
さて、二月騒動で誅されたと思われていた名越宗教(北条宗教)は、実は生き永らえていた可能性が高いことが分かった。しかし、その間どのように逃げ切り、過ごしていたのか、また高時政権に入ってから、まるで亡霊のように突如現れ、復帰できた理由も全く不明である。〔史料F〕に従うなら、宗教は出家前、父・教時の最終官途でもある遠江守に任ぜられていたことになる。この時期も探る必要があるだろう。
ここでまず、「元亀本刀剣目利書」に写しを載せる『上古秘談抄』という史料を紹介しておきたい。奥書には次のように記載される。
〔史料G〕『上古秘談抄』奥書の記載
正和三甲寅年二月初八日書之
名越遠江入道崇喜 在判
応安二年八月日、故遠江禅門以自筆本書写之猶当道可為明鏡者也
宇都宮参河入道 在判
元は正和3(1314)年に名越遠江入道崇喜(すうき)が記したもので、それを応安2(1369)年に宇都宮三河入道が写したとのことである*22。原本の所在は不明とされるものの、成立年代の古さから、一定の信憑性はあると思われる。ここに「名越遠江入道」が現れるのである。
この「崇喜」は、応安2年の段階でわざわざ故人の旨が記されているから、正和3年当時存命であったことは確かであろう。一説に篤時に比定するものがある*23が、前述の通り、当時の段階では既に亡くなっているから誤りである。
奇しくも正和3年というのは名越宗教が尾張守護に任命された年とされる*24が、この「遠江入道崇喜」とは誰なのであろうか。
▲〔史料H〕『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用されている施薬院使・丹波長周の注進状*25
一方、同じく正和年間の史料である〔史料H〕中に「遠江入道道西」とある。これは名越時基であることが明らかとなっている*26。宗教の叔父にあたる人物である。
故人を表す「故 …」の記載が無いことから、この当時もまだ存命であったと考えれば数え80歳となるが、前年に実在が確認できる「名越遠江入道崇喜」と照らし合わせた場合、どのように捉えれば良いのであろうか。
〔史料H〕においてわざわざ「道西」と書いたのは、〔史料G〕で確認できる通り、同じ通称名を持った「崇喜」がいたためであったからと考えられる。但し、名越時基流は「小町」を家号としたらしく*27道西(時基)には単に「遠江入道」と記すことで、「名越遠江入道崇喜」と区別されたのではなかろうか。
この当時、宗教は60歳ほどであったと推定される。同じく北条時宗の烏帽子子とみられる、長崎円喜(盛宗)・諏訪直性(宗経)も老齢にして法体(ほったい)であった。宗教もこの頃、出家していてもおかしくはないのではないか。〔史料F〕が誤っていなければ、「名越遠江入道崇喜」は宗教出家後の姿で良いかと思う。『系図纂要』に掲載の「元心」は実際の史料で確かめられず(典拠不明であり)、「崇喜」が正確な法名なのかもしれない。
(追記:『常楽記』元徳2(1330)年条に「二月十二日名越遠江入道殿他界」とあるのが確認できた。これを信ずれば、〔史料F〕での「遠江入道宗教法師(名越宗教)」はこれより後のことであるため、"崇喜" なる別人近親者が亡くなってからの出家であった可能性が考えられる。これについては後日再考の機会を設けたいと思う。)
すると、高時が執権となる前には出家していたことになり、その時期は前得宗・貞時(~1311年)の死後まもない頃となる*28。従って遠江守任官は貞時政権下で行われたと推測できよう。貞時執権期では霜月騒動や平禅門(平頼綱)の乱など、主に当該期の「源氏将軍観」を背景とした事件が起こり、わざわざ足利貞氏を「源氏嫡流」として公認するなどの対策をとってそのような動きを封じ込めたとされるが、この動きに名越流北条氏が加担した形跡は確認できない。時頼・時宗の代とは状況が異なり、名越流に対して比較的穏便であった貞時*29の下で、宗教の復帰が許されたのかもしれない。かつて父・教時がなっていた遠江守に昇ることも許されており、むしろ待遇を受けていたとも言える。
但し、管見の限り、貞時得宗期に「名越遠江守宗教」の活動は確認できない。この点については今後史料による検討が必要と思われるが、あまり表立って活動をしなかったのかもしれない。
しかし、鎌倉幕末期においては【表E】にて幕府軍の大将を任される等、「名越遠江入道宗教法師」が北条氏一門の長老的存在として不可欠な人物であったのだろう。老齢でありながらも父譲りの血気盛んな性格は健在であったが、それ故に甥(名越式部丞時躬?)との諍いを起こし「自爆」の形で生涯を終えてしまったのである。
宗教の子息について
宗教の子としては、前述した通り、まず円朝(えんちょう)が確認できる。『尊卑分脈』以下、多くの系図で「法印」や「寺」(【系図D】) と注記され、園城寺の僧として一生を送ったらしい。二月騒動の直前の生まれだったようで、難を逃れたものの、僧籍に入ることを条件に助命されたと推測される。「朝」は祖の朝時に由来するものであろう。
『系図纂要』(【系図D】)では、宗教の子として円朝のほかに時治(ときはる)を載せるが、「左近大夫将監」とあるのみで、その活動情報は読み取れない。幕府滅亡時(1333年)の東勝寺合戦で高時に殉じたとする説がある*30ものの、『太平記』巻十「高時並一門以下於東勝寺自害事」の殉死(自害)者のリストに「名越左近大夫将監時治」の名は無く、「名越一族三十四人」の一人と捉えたのであろうが、果たしてその中に本当に "時治" なる者がいたかどうかは疑問である。もちろん、逆に実在を否定し得る史料も無いが、これについては検討が必要であろう。或いは、宗教が流浪中、または貞時政権下での復帰以後に生まれた息子かもしれない。
脚注
*1:朝時の子は長男・光時を除き、その弟たちは「時○」型の名乗りであるが、六男・教時だけは例外である。恐らく「教」を烏帽子親から受けたものと思われるが、当時鎌倉にあって将軍に仕えていた飛鳥井教定(二条教定)の偏諱ではないかと推測される。
*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末・鎌倉政権上級職員表(基礎表)No.23「名越教時」の項より。
*3:名越流の嫡男となった次兄の時章は教時より20歳も年長であり、その嫡男・公時は教時と同年の生まれである。従って、宗氏の弟・公教は公時の烏帽子子と推測される。
*4:『吾妻鏡』文永3年7月4日条。川添昭二『北条時宗』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2001年)P.111。
*5:前注川添氏著書、同箇所。
*7:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)より。
*8:厳密には、名越宗氏については【系図C】に従い、鎌倉からの逃亡先である美濃国で自害したとするのが正しいのかもしれない。追手が差し向けられたのであろう。
*9:時兼は『吾妻鏡』建長4(1252)年5月22日条に逝去の記事がある。『系図纂要』に「於北国大聖寺討死」とあるが、これは中先代の乱に際して加賀大聖寺で戦死した名越時兼(『大日本史料』6-2 P.540)と混同したもののようで、誤りである。
*10:名越流教時系北条氏 ― 円朝 より。
*12:堀内和明「楠木合戦と摂河泉の在地動向―悪党の系譜をめぐって―」(所収:『立命館文學』617号、立命館大学人文学会 編、2010年)P.44。
*13:『大日本史料』6-4 P.102。水野智之「尾張守護と智多郡主に関する覚書―分郡守護論の現状―」(所収:『知多半島の歴史と現在』20号、日本福祉大学知多半島総合研究所、2016年)P.151。
*15:注7前掲山口論文、P.29。
*16:詳しくは 名越高家 - Henkipedia を参照。
*18:佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』、注13前掲水野氏論文 同箇所、小学館『日本大百科全書』「名越家」の項(執筆:杉橋隆夫)、古城の歴史 長尾城 など。
*19:公教の子・時躬が「式部丞(式部大夫)」であることは【系図B】の如し。
*21:名越流教時系北条氏 - 北条時躬 より。
*22:福田博同「刀匠信国系図の総合的研究:山城信国を中心に」(所収:『跡見学園女子大学文学部紀要』第52号、2017年)P.97。
*23:上古秘談抄 - 名刀幻想辞典 より。
*24:郷土誌かすがい 第6号|春日井市公式ホームページ「中世 武士と農民の社会」の項(執筆:重松明久)より。佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』が典拠であろうか(→こちら参照)。
*26:注2細川氏著書、巻末・鎌倉政権上級職員表(基礎表)No.24「名越時基」の項 および 同No.25「名越朝貞」の項 より。
*27:注2前掲細川氏著書、P.49 注(21)。『正宗寺本北条系図』には時基の子・朝賢〔ママ〕の項に「小町口 元弘三五自害」の注記があり、『太平記』巻十「高時井一門以下於東勝寺自害事」にも高時に殉じた者の中に「小町中務太輔朝実」の掲載があって、これらは時基の子・朝貞(『尊卑分脈』)のこととされる。前注の 「名越朝貞」基礎表 を参照。
*28:この頃出家した者としては、尾藤時綱(演心)が例に挙げられる。
*29:〔史料H〕に掲げた遠江中務大輔朝貞や、名越高家の叔父・公貞、兄・貞家らに「貞」の偏諱を与えた形跡があり、烏帽子親子関係を利用してうまく統制できていたと考えられる。
*30:名越流教時系北条氏 ― 北条時治 より。
名越貞持
北条 貞持(ほうじょう さだもち) は、鎌倉時代末期の武将。
北条氏名越流の一族で、史料では名越貞持、名越兵庫助と呼称される。
名越貞持の活動について
まず、貞持の活動が確認できる史料は次の3点である。
史料①:『大覚寺門跡略記』(『続群書類従』巻第95 所収)
恒勝親王(=恒性皇子)
後醍醐院第十皇子。寛尊親王度為附弟。
当時兵革熾起戦争不熄。兵士奪立為武将。
与尊氏闘。遂師潰為士卒俘。
元弘二年(1332)三月八日。配越中国。
同三月十日、於越中名越兵庫助貞時〔ママ〕為御生害。
(http://qqq.toyamaru.com/e6997.html より)
(http://nanteo.s14.xrea.com/keyz/gnan/gnan001.html より)
『尊卑分脈』では2人の北条時有を載せるが、名越流では公貞の子(朝時―時章―公時―公貞―時有)として掲載があり、弟・有公(ありきみ)の名が父兄(公貞・時有)の各々1字で構成されていることからしても、この人物で間違いなかろう*1。『太平記』に従えば、貞持はこの時有の甥ということになる。
公貞が得宗・貞時の偏諱授与者とみられ*2、その孫である貞持は祖父・公貞の1字を取って命名されたのであろう。
ちなみに、『系図纂要』では名越頼章(公時の弟)の子に貞持を載せるが、これが誤りであることは以前の記事で解説した通りである。
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以上より経歴をまとめると次の通りである。
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世代の推定
さて、名越時有一族は亡くなった当時、どのくらいの年齢であったかを推定したいと思う。
前述の通り、『尊卑分脈』に基づく系譜は「義時―朝時―時章―公時―公貞―時有」であり、公時・公貞父子の生没年は次の通りである。
・公時:1235年~1296年*3
・公貞:1278年頃?~1309年*4
一方で、前掲史料③ に拠る時有一族の官職・位階、および ③の続きを読み進めると確認できる各々の女房についての情報は次の通りである。
時有妻:結婚21年目、9歳と7歳の子を養育
・有公:修理亮 = 従五位下 相当
有公妻:結婚3年目、当時妊娠中
・貞持:兵庫助 = 正六位下 相当
貞持妻:4, 5日前に結婚、京から迎えた高貴な女性
名越流では30代で国守に昇り詰める者が多かったことから、死去時の最終官途が民部少輔(従五位下相当)であった公貞*5が30歳前後での早世であった可能性を指摘した。従って、公貞が亡くなった延慶2(1309)年当時、時有・有公兄弟は幼少であったとみられる。
公貞の死から鎌倉幕府滅亡期まで24年。この間、時有は国守にまで昇進しており30歳を超えていた可能性が高い。一方で弟の有公は、従五位下相当の修理亮止まりであることから、30歳前後であったと考えられる。
そして貞持。元服の年齢(10数歳)は超えているだろうが、正六位下相当の兵庫助であることから、名越流での平均的な叙爵年齢である20数歳には達していなかったと推測される。恐らく15~20歳ほどの若さであったとみられる。時有の甥というから、有公の子で良いのだろうか。すると有公は30代前半程度ということになる。
よって、時有・有公兄弟は1300年前後*6、貞持は1315年前後の生まれであったと推定しておく。
ところで、名越時有一族が最期を遂げた放生津城は、鎌倉幕府の越中国守護所として、執権・北条貞時の命を受けて北陸道の守護職として越中国に赴任した時有が築いたものと伝えられるが、その時期は正応元(1288)年*7、同3(1290)年*8、嘉元元(1303)年*9と定まっていない。全国の守護所についてまとめた松山宏氏の論文*10でも特にこれについての言及は無く、果たして何の史料に基づいた説なのか、皆目見当がつかない。
従って、前述の推定に基づくと、時有が1290~1300年頃に築城すると考えることは不可能である。もし正しいとするなら、1290年頃に時有が元服の適齢を超えている必要があるが、むしろ貞時の偏諱を受けた父の公貞がその年齢であったとみられるので成立し得ない。また、時有も1333年の死去時50代であったことになり、有公・貞持と年齢が離れ過ぎてしまうのにもやや違和感がある。よって、
●前述のいずれかの年(1288年/1290年/1303年)に時有とは別の人物が築城したか、
●名越時有がこれらより後の時期に築城したか、
のいずれかが正しいであろう。
『太平記』に見えるもう一人の "名越兵庫助" ?
『太平記』には前述までの貞持と全く同じ通称名を持った人物がもう1人見られる。
史料④:『太平記』巻七「千剣破城軍事」
(前略)…名越遠江入道と同兵庫助とは伯叔甥にて御座けるが、共に一方の大将にて、責口近く陣を取り、役所を双てぞ御座ける。或時遊君の前にて双六を打れけるが、賽の目を論じて聊の詞の違ひけるにや、伯叔甥二人突違てぞ死れける。……
(中略)
……名越遠江入道、同兵庫助二人は、無詮口論して共に死給ぬ。其外の軍勢共、親は討るれば子は髻を切てうせ、主疵を被れば、郎従助て引帰す間、始は八十万騎と聞へしか共、今は纔に十万余騎に成にけり。
1333(元弘3/正慶2)年の千早城の戦いの最中に、名越遠江入道とその甥・兵庫助が賽の目から口論となり互いに刺し違えたことを描いた部分で、城の中からこの様子を見ていた相手(楠木正成)側が「十善の君(=後醍醐天皇)に敵をし奉る天罰に依て、自滅する人々の有様見よ。」と言って笑ったという、印象的な場面である。『絵本楠公記』「名古屋入道伯父甥刃傷の事並楠奇計かけ橋を焼事」にも挿絵付きで描かれ、明治時代に成立の『日本国史略』光厳天皇紀・正慶元年八月条にも、『太平記』(上記史料④)に拠ったのか、「名越、遠江入道,與其甥兵庫助博奕,爭道怒罵,遂互刺而死.其卒屬二百餘人,亦互刺而死.其陣接城,城兵臨望曰:「叛君之賊,自伏天誅!」同聲大笑.」と同内容を載せる。
『正宗寺本北条系図』を見ると公時〔ママ、公時の子とするので公貞の誤記〕の子・時有の注記に「遠江守入道」と記載されているが、これに基づいて「遠江入道」=時有、「兵庫助」=貞持 としてしまうと、伯父―甥という関係にはなるものの、『太平記』においてこの史料④記事で死に、後の巻十一(前掲史料③)でもう1度死んだこととなって明らかに奇妙である。
③と④は同年での出来事であり、当時「名越遠江入道」「名越兵庫助」が2人いたとは考えにくい。この兵庫助は貞持とは別人と判断するしかない。
ここで、 次の史料を確認してみると、「名越遠江入道」は名越宗教に比定し得る。
史料⑤:『保暦間記』より
同(元弘)三年葵酉春、此事ヲ聞テ、関東ヨリ、弾正少弼治時 時頼彦遠江守随時カ子也高時為子、陸奥守右馬権助高直 維貞子、遠江入道宗教法師 朝時孫教時子、彼等其外一族大将軍トシテ、関東ニサルヘキ侍多分差上ス。其勢五万騎上洛シテ、彼城ヲ責サス。
この【図⑥】でも宗教が千早城の戦い*11で亡くなったことを記すが、「名越遠江入道」=篤時としている。元弘3年5月の千早城攻めにおいて、篤時(苅田式部大夫 遠江守 入道元心)と時家(兵庫助 美作守)が紛争を起こして死んだと、わざわざ各々の傍注に記載するが、『入来院本平氏系図』によると篤時は正応5(1292)年には亡くなっているようであり*12、「苅田式部大夫篤時」も同年幕府滅亡時の東勝寺合戦で「江馬(江間)遠江守公篤」と共に北条高時に殉じる*13まで存命していたことになっているから別人とすべきである。
一方、時家についても従五位上、美作守と注記しておきながら、『太平記』巻七(前掲史料④)の名越兵庫助と同人としてしまっている。時家が兵庫頭→美作守であったことは確認できるため、最終官途の面で矛盾する。更に「兵庫助」とするのはこの『系図纂要』だけで、他の系図類・史料では「兵庫頭」と記しており、どうやらこじ付けのようである*14。
しかし、そのようにこじ付けるのも無理はなく、系図類で見る限り、宗教に「兵庫助」であった甥がいたということは確認できない。もっとも、宗教については二月騒動で父・教時、弟・宗氏とともに誅殺されたと伝える史料もあり、宗氏の弟・公教の誤記の可能性も考えられるが、その甥となり得るのは宗教の遺児である、僧の円朝(えんちょう)と、【図⑥】でしか確認できない左近大夫将監時治(ときはる)だけである。
史料①・②より、貞持は前年(1332年)の段階から「名越兵庫助」であった。述べたように「名越兵庫助」が2人もいたとは考えにくい。貞持が宗教の甥であることを裏付ける史料は皆無で、これが事実だとしても貞持が2回死んだということになって、全くの矛盾である。従って、史料⑤より「名越遠江入道」=宗教 であった可能性は認められるが、その刺し違えた相手が「名越兵庫助」であったというのは誤りではないかと思われる。『太平記』はあくまで軍記物語である。恐らく同じ遠江守であった時有と混同して、その甥を「兵庫助」としてしまったのかもしれない。
『太平記』巻七(史料④)における「名越兵庫助」は貞持でもなければ、そもそも千早城の戦いで亡くなったのは兵庫助では無かったと結論づけたいと思う。
脚注
*2:名越公貞 - Henkipedia を参照。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その20-名越公時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:名越公貞 - Henkipedia を参照。
*6:参考までに同じく公貞の子で僧籍に入った貞昭(ていしょう)は永仁6(1298)年生まれである(→ 名越流時章系北条氏 - 貞昭 参照)。
*7:放生津城 - 信長北国軍の史跡を訪ねて 、放生津城(富山県)- 日本辞典 より。
*9:放生津城 - 帝國博物学協会 より。
*10:松山宏「鎌倉時代の守護所」(所収:『奈良史学』7号、奈良大学史学会、1989年)P.9。
*11:この合戦の詳細については、堀内和明「楠木合戦と摂河泉の在地動向―悪党の系譜をめぐって―」(所収:『立命館文學』617号、立命館大学人文学会 編、2010年) P.44・45ほか、千早城の戦い - Wikipedia を参照。
*12:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について (下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.29。
*14:名越時家(北条時家)については 名越高家 - Henkipedia を参照。
名越公貞
北条 公貞(ほうじょう きみさだ、1278年頃?~1309年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。
名越流の一族で、名越公貞とも呼ばれる。父は名越公時で、名越時家(北条時家)の弟にあたる。
史料における公貞
公貞は、複数の史料で断続的に活動を確認することができる。これについては、熊谷隆之氏の論文*1に詳しく、まとめると次の通りである。
● 乾元2(1302)年:最勝園寺の供養に将軍が赴いた際の随兵に「尾張左近大夫公貞」。典拠は、『最勝苑寺殿供養御所出御御供奉人事』(「最勝園寺殿(=北条貞時入道崇演)供養供奉人交名」))。
「左近大夫」とは、左近衛将監(従六位上相当)で五位に叙せられた者のこと*2。この年までの叙爵であったことが分かる。「尾張」は父親が尾張守であることを示すものであり、この公貞は名越尾張守公時の子(『尊卑分脈』)で間違いない。
名越流では20数歳で叙爵する者が多く*3、公貞もこの当時、その位の年齢であった可能性が高い。
● 嘉元3(1305)年: 嘉元の乱の折、「尾張左近大夫将監」が御内人(『武家年代記』裏書)の白井胤資(たねすけ)を預かる。
「今年嘉元三……五月二日、時村討手先登者十二人被刎首、……白井小次郎胤資、預尾張左近大夫将監、使長崎次郎兵衛尉、……」(『鎌倉年代記』裏書 より)*4
「左近大夫将監」=「左近大夫」であり*5、わずか3年前の「尾張左近大夫公貞」と同人とすべきであろう。この記事において、苗字が書かれていない人物は北条氏一門に限られているようである。
● 嘉元4(1306=徳治元)年:民部少輔(従五位下相当)任官。『実躬卿記』同年3月30日条の除目の記事中に「民部少輔平公貞」とあり*6。
加えて、次の史料に逝去の記述が確認できる。
「……同十九(旧暦10月9日)、民部少輔公貞卒、……」
*『尊卑分脈』〈国史大系本〉には「従五上 民部大輔」とあるが、 「大」は誤記のようである。
名越流では30代で国守に昇る者が多く*7、民部少輔から昇ることの無いまま亡くなった公貞は30歳前後の若さでの死去であったとみられる。
『尊卑分脈』では公貞の子に時有を載せ、『太平記』巻十一「越中守護自害事付怨霊事」に登場する「越中の守護名越遠江守時有・舎弟修理亮有公」が公貞の子とされている(『系図纂要』)。有公(ありきみ)の名が父兄(公貞・時有)の各々1字で構成されていることからしても父子関係は認められよう。
世代と元服時期の推定
父の公時は、永仁3(1295)年12月28日に亡くなったとされる*8ので、遅くともこの日までには生まれているはずである。
前述した通り、1300年代初頭の段階で20歳ほどであったと思われるので、1280年前後の生まれであったと推定できよう。
「公貞」の名に着目すると、「公」が父からの継字であるのに対し、「貞」が烏帽子親からの偏諱であったと推測される。元服は通常10数歳で行われた*9ので、当時の執権・北条貞時(在職:1284~1301年)の偏諱を許されたと考えて間違いなかろう*10。兄・時家も北条時宗(貞時の父)からの一字拝領の可能性が高く*11、それに対する庶子(準嫡子)として「貞」の偏諱を下(2文字目)にしたものと推測される*12。
また、僧籍に入った息子・貞昭 (ていしょう) は永仁6(1298)年生まれとされ*13、現実的な親子の年齢差を考えれば、公貞は遅くとも1278年前後の生まれとなる。官職や偏諱から導いた前述の1280年前後という推定にほぼ一致する。
脚注
*1:熊谷隆之「斯波宗家の去就 ―越中国岡成名を緒に、霜月騒動におよぶ―」(所収:『富山史壇』181号、越中史壇会、2016年)。
*2:左近大夫(サコンノタイフ)とは - コトバンク より。
*3:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.45~46。
*4:この史料の全文は、工藤時光 - Henkipedia【史料15】を参照。
*5:左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク、近衛府 - Wikipedia より。
*6:『実躬卿記』〈大日本古記録 本〉第十六 P.91。『鎌倉遺文』第29巻22591号。北条氏は平維時の末裔を称する平姓の家柄である。
*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」(細川重男氏のブログ)その18-名越朝時、その19-名越時章、その20-名越公時、その23-名越教時 より。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その20-名越公時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*9:名越流でも、祖の朝時が13歳での元服(新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その18-名越朝時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は『吾妻鏡 』建永元(1206)年10月24日条。烏帽子親は源実朝。)、頼章も10歳までの元服であったとみられる。
*10:『入来院本平氏系図』での注記には「國時 改名」とある(山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について (下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.29)。これが事実であれば、初め「国時(くにとき)」を名乗り、貞時の代に入ってその1字を賜ったことになるが、これを裏付けられる他の系図類・史料は無い。
*11:これについては 名越高家 - Henkipedia を参照。
*12:兄弟間で偏諱の位置を変えている例は、北条経時―時頼(ともに九条頼経の烏帽子子)、北条時宗―宗政、安達宗景―盛宗、安達高景―顕高、千葉宗胤―胤宗、平宗綱―飯沼資宗……など多数確認できる。
*13:名越流時章系北条氏 - 貞昭 より。兄弟にあたる時有・有公の年代推定については 名越貞持 - Henkipedia を参照。
名越高家
北条 高家(ほうじょう たかいえ)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。
北条朝時を祖とする名越流北条氏、同時代に2名実在が確認され、ともに名越高家(なごえ ー)とも呼ばれる。
父兄について
高家の父親については、時家とする説(時家―高家)*1、時家の子・貞家とする説(時家―貞家―高家)*2とある。細川重男氏は年代的な問題から前者が正しいと推測された*3が、これについては古文書によりその正確性が裏付けられた*4。
まずは北条時家について。同じく細川氏の作成による経歴表は次の通りである*5。
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№21 名越時家(父:名越公時、母:極楽寺重時女)
生没年未詳
美作守(分脈)
兵庫頭(分脈)
従五位下(分脈)
01:永仁1(1293).07.24 下向鎮西(為異国警固)
02:永仁3(1295).04.29 東下
03:永仁3(1295).05. 引付衆
04:正安3(1301).08. 三番引付頭人
05:乾元1(1302).02.18 辞三番引付頭人
06:乾元1(1302).09.11 五番引付頭人
07:嘉元2(1304).09.25 辞五番引付頭人
[典拠]
父:分脈。
母:開闢。
01:帝王・巻27。
02:永記・4月29日条。帝王・巻27。
03:永記・5月23日条、「武庫」。
04:鎌記・正安3年条。
05:鎌記・乾元元年条。
06:鎌記・乾元元年条。
07:鎌記・嘉元2年条。
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『帝王編年記』(01典拠)には「九州探題 兵庫頭時家 尾張守公時男 永仁元年七月廿四日下向」とあり、この日までに兵庫頭となったことが分かる。『永仁三年記』同3(1295)年4月29日条(02典拠)に「廿九日。晴。評定延引。御寄合云々。武庫自鎮西参着云々。」*6、5月23日条(03典拠)以後も度々、引付衆の一人として「武庫」が登場し*7、この当時も兵庫頭であったことが確認できる*8。
前田治幸氏の論文*9によると、その後正安元(1299)年までに美作守に任官したようだが、確認してみると、同年7月3日付の書状*10に「……大隅方肝付郡弁済使兼石*11与美作守時家代盛真相論……」とあり、時家が1295~1299年の間に兵庫頭から美作守となったことは確実である*12。
ちなみに、『武家年代記』裏書*13・延慶2(1309)年条に「六八、美作左ー周時逝去、」とあり、この人物は『入来院本平氏系図』*14、『前田本平氏系図』*15および『正宗寺本北条系図』*16に拠って「兵庫守〔ママ〕 美作守」と注記される時家の子、左近大夫周時(ちかとき)に比定されるが、その通称名(美作守の子で左近大夫の意)からも父・時家が美作守であったことが裏付けられる。
この名越周時(北条周時)についても、正宗寺本系図にある「左近大夫将監」とは左近衛将監(従六位上相当)でありながら五位に叙せられた者をいい*17、かつ同系図には息子として幸夜叉丸を載せている*18ことから、20歳以上までは生きていたと思われる。仮に周時の享年を20とした場合、現実的に考えて1309年当時時家は40歳前後より上であったと判断できるが、すると美作守となったのは30代の可能性が高く、歴代の名越流家督に一致する。
前述の通り、時家の子としては他に、高家の父とする貞家を載せる系図が多い。高家が得宗・高時の偏諱を受けたことは後述するが、それに対して兄の周時は得宗の偏諱(貞時の「貞」)を受けていないようである。この理由を考えると、得宗・貞時の偏諱を受けた嫡兄・名越貞家(北条貞家)の存在があっても良いように思われる*。遅くとも1280年代の生まれで、貞時執権期(1284-1301)の元服に間違いないだろう。すなわち本来、時家の嫡子は貞家であったが、貞家・周時両者ともに早世したため、高家が新たな嫡男に定められたものと推測される。
*名越朝時の子は、長男が光時と名乗るのに対し、時章以下の弟たちはほぼ「時○」型の名乗りであった(教時を除く)。また光時の失脚後は時章が嫡流の継承者となったが、その長男も公時と名乗っており、名越嫡流の家督継承者は「○時」型の名乗りを慣例としていた可能性が考えられる。とすれば、公時の嫡男である時家はこの慣例を破ったことになるが、「家」も同名の祖先*19から取ったものと考えられるため、「時」は北条氏の通字ではあるが、得宗から受けたものと捉えるべきであろう*20。すなわち、金沢実時の子・時方(のちの顕時)の加冠役も務めた北条時宗*21からの一字拝領と思われる。実は「○時」型の名乗りを慣例としていたのではなく、公時も得宗・経時からの一字拝領かもしれない*22。
最後に時家の妻に関する情報を紹介しておきたい。
一つは、『入来院本平氏系図』において、北条時宗の弟・宗政(1253-1281)の娘の一人に「時家室」とある*23が、同系図で該当し得るのは名越時家だけである。江戸時代成立の『諸家系図纂』*24では金沢実村の子、顕時の弟として美作守時家の掲載があるが、『入来院本平氏系図』は勿論のこと、他の系図集でも見られない。「実時―実村―顕時」という系図自体が誤っていることは先行研究で指摘されており*25、官途の一致から名越時家と混同している可能性がある。現実的に考えて1270年代の生まれであろう。
二つ目に、第11代執権となった大仏宗宣(1259-1312)にも、名越時家に嫁いだ娘がいたようである*26。現実的に考えて1280年代以降の生まれと推定され、宗宣の嫡男・維貞(1286-1327)とさほど年齢は離れていないかもしれない。
後述するが高家の母親は不明である。時家が実父で間違いなければ、宗政娘 または 宗宣娘が母親であった可能性もあり得る。年代的には次の可能性が考えられる。
今のところ、これを裏付けられる史料は無く、また時家には他に側室がいたかもしれず、あくまで推論に過ぎない。
しかしながら、この推測により、名越公時が嘉禎元(1235)年生まれである*27ことと合わせれば、その嫡子である時家は1260年前後~1270年頃の生まれと推定できる。『野津本北条系図』等の系図によれば北条重時の娘の1人が公時に嫁いだらしく*28、前掲表の典拠である『関東開闢皇代并年代記事』のほか、『前田本平氏系図』でも時家に「母重時女」の注記が見られる*29。兄弟と同じく1230年代~1240年代の生まれと思われ、公時ともほぼ同世代となるので母親との関係でも矛盾は生じない。美作守となったのがおおよそ30代、周時が亡くなった1309年当時40代という前述の推測通りの世代となって問題ないように思われる。
よって、年代的な観点から、細川説の通り、時家―高家は実際の父子関係にあったとみて良いだろう*30。北条貞家 - Wikipedia などでは、貞家が早世したため、時家がその2人の遺児(2人の孫)を引き取って養子にしたとする説が挙げられているが、これは誤りと判断される。
*時家、貞家の没年が判明していないので、周時(1309没)→時家(1310頃没)→貞家(1311頃没)→高家 というパターンも1つ考えられる。すなわち、時家の死後、貞家が家督を継承したが間もなく亡くなったので、その養嗣子という形で高家が継いだと解釈するものである。すると、系図上で「時家―貞家―高家」とするのは決しておかしくはない。貞家に「遠江守」と注記する系図が多く、周時より長生きして貞家が国守任官に相応の30歳近くまで生きた可能性は必ずしも排除できない(実際は低年齢化して20代後半での任官かもしれない)。時家についても嘉元2(1304)年以降、史料に現れなくなり、1317年に尾張守高家の活動が見られ始めることも踏まえると、1310年前後には亡くなっていたと考えるべきだろう。
名越高家の元服と戦死
細川氏の表*31に従って、名越高家(北条高家)の経歴を紹介しておこう。
**********************************
№22 名越高家(父:名越時家、母:未詳)
生年未詳
01:文保1(1317).03. 在尾張守
02:嘉暦1(1326).03. 在評定衆
03:元弘3(1333).04.27 没
[典拠]
父:開闢。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。時家と高家の間に貞家を入れる系図があるが年代的にも無理があるうえ、元応2(1320)年3月11日付「関東御教書案」(『肝属氏系図文書写』)*32に「尾張前司高家」の祖父として「尾張入道道鑑」とあり、「道鑑(道鑒)」は公時の法名であるため、高家の父は時家に比定される。
01:文保元年3月20日付関東御教書案(『薩藩旧記』前編巻12「古本末吉検見崎氏家蔵」)*33に「地頭尾張守高家」とある。開闢。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。
02:金文374に「尾張前司」とある。
03:太平記・巻9「山崎攻事付久我畷合戦事」。『梅松論』上。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。
**********************************
まず「高家」の名には、名越流でも代々用いられてきた北条氏の通字「時」が使われておらず、父・時家から「家」字を継いでいるようなので、「高」が烏帽子親からの偏諱に疑いはない。細川氏が既にご指摘の通り、得宗・高時からの一字拝領であろう。
『正宗寺本北条系図』や『続群書類従』所収「北条系図」では周時の弟に位置づけられるが、兄を超えて得宗の加冠を受けるとは考えにくい。既に述べたが周時が亡くなったのは、延慶2(1309)年、高時が元服してから5か月も経たない頃である。恐らく、周時が亡くなった当時、高家はまだ元服していなかったのではないか。周時の死後、時家の嫡男に確定した高家は、得宗と烏帽子親子関係を結ぶ運びとなったのであろう。
勿論、高家の元服について伝える史料は無いが、尾張守であった年代を考慮して、高時が家督を継承した1311年には済ませていたと考えて良いだろう。多少の誤差が生じるだけなので、当時の先例主義に倣って祖の朝時と同じ13歳*34での元服と仮定しておこう。
それから数年後(1317年)の史料となる01では「地頭尾張守高家」が大隈国肝付郡弁済使・尊阿*35の所職 および 所領を横領した人物として見え、元応2(1320)年「関東御教書案」に同所領を尊阿に返付する「尾張前司高家」と同一人物であることは明白で、後者の書状には高家の祖父が尾張入道道鑑(=名越公時)であることも明記されている。前述の通り、この地では正安元(1299)年にも、弁済使兼石(肝付兼石)と美作守時家代盛真*36が相論となっており、肝付郡の地頭であった時家・高家は名越流北条氏で間違いないだろう。
従って、この間の官途の変化から、名越高家は文保元(1317)年3月20日までに尾張守任官、元応2(1320)年3月11日以前に尾張守を辞したことが分かる*37。
02史料は、金沢貞顕が第15代執権に就任した3月16日に開かれた評定の様子を記したものとされるが、普段から筆まめな貞顕は、就任決定の喜びのあまりか、この書状でも出席者の席次・役割を細かく記載しており、遅刻した「尾張前司」にもわざわざ「遅参」という註まで入れている*38。幕府滅亡前後の史料に「名越尾張前司」「尾張前司高家」と書かれるものがあり(後述参照)、これも高家で間違いないだろう。
さて、元服の年齢を13歳前後とし、尾張守への任官が初見と同じ1317年(1~2月)のことであったとすると、約20歳前後で昇進したことになり、それまでの例に比べ低年齢化していることになるが、特に叙爵の年齢がそうなっていることから考えると強ちあり得ないことでもない。
ここで、あわせて次の史料を確認しておきたい。
『梅松論』上 13 より
(前略)……凡そ大将たる仁躰もだしがたしといへども、関東今度の沙汰然る可らず。これに依りて深き御恨みとぞ聞えし。一方の大将は名越尾張守高家。これは承久に北陸道の大将軍式部丞朝時の後胤なり。両大将同時に上洛ありて、四月廿七日同時にまた都を出給ふ。
将軍(=大将軍・足利高氏:筆者註)は山陰・丹波・丹後を経て伯耆へ御発向あるべきなり。高家は山陽道・播磨・備前を経て同じく伯耆へ発向せしむ。船上山を攻めらるべき議定有りて下向の所、久我縄手において手合の合戦に大将名越尾張守高家討たるゝ間、当主の軍勢戦に及ばずして悉く都に帰る。
上の基礎表で細川氏が死没の根拠に挙げておられる史料の一つである。厳密には「尾張前司(前尾張守)」とするのが正確であるが、軍記物語の性格上、許容範囲内であろう。同じく軍記物語の『太平記』でこの内容を描く箇所には次のようにある。
『太平記』巻九「山崎攻事付久我畷合戦事」より一部抜粋
……四月二十七日には八幡・山崎の合戦と、兼てより被定ければ、名越尾張守大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作道より被向。足利治部大輔高氏は、搦手の大将として五千余騎、西岡よりぞ被向ける。……尾張守は、元より気早の若武者なれば、今度の合戦、人の耳目を驚す様にして、名を揚んずる者をと、兼て有増の事なれば、其日の馬物の具・笠符に至まで、当りを耀かして被出立たり。……爰に赤松の一族に佐用佐衛門三郎範家とて、……「寄手の大将名越尾張守をば、範家が只一矢に射殺したるぞ、続けや人々。」と呼りければ、引色に成つる官軍共、是に機を直し、三方より勝時を作て攻合す。……
……太平初山川震動、略地拉敵。南有正成、西有円心。加之四夷蜂起、六軍虎窺。此時尊氏随東夷命尽族上洛。潛看官軍乗勝、有意免死。然猶不決心於一偏、相窺運於両端之処、名越尾張守高家、於戦場墜命之後、始与義卒軍丹州。天誅革命之日、忽乗鷸蚌之弊快為狼狽之行。若夫非義旗約京高家致死者、尊氏独把斧鉞当強敵乎。退而憶之、渠儂忠非彼、須羞愧亡卒之遺骸。今以功微爵多、頻猜義貞忠義。剰暢讒口之舌、巧吐浸潤之譖。其愬無不一入邪路。……
【解釈例】*40(*新田義貞から後醍醐天皇に宛てた書状の中で)……天下泰平の世であったのが、突如として天地が揺れ動き、土地は略奪され、人間は敵によって拉致される世となりました。その時南には楠木正成が居り、西には赤松入道円心が居ました。しかし四方にある朝廷に敵対する豪族、武将らが蜂起し、朝廷軍の動向を窺いました。この時尊氏は逆賊北条家の命令に従って、朝廷と戦うため一族挙げて都に向かいました。官軍が合戦を有利に進めているのを知った時、尊氏は密かにわが一命を救おうと考えました。しかしなお決心が定まらず、両軍の勝算を計っていたところ、北条軍の名越尾張守高家が、戦場にて赤松軍に討たれ命を落としてから、朝廷軍を引き連れて、丹波国に向かい始めました。北条家が滅亡し朝廷が勝利を収めた日に、即刻漁夫の利を得んがため、不穏な行動にかかりました。高家が死亡した以上、朝廷に反旗を翻していれば、尊氏はただ一人で武器を手にして強敵に向かうことになる。この事実に恐れをなし退却した。その彼に忠義の忠もあろうはずがない。この戦で命を落とした将士に対し、恥を思うべきである。今、(尊氏は)僅かな勲功で以って、多くの恩賞を望み、私、義貞の忠義に疑いを持っている。そればかりでなく、人を落とし入れようと弁を弄し、巧みに非難中傷を続けているだけで、その訴えは何一つ正当なものでなく、ただよこしまな考えに基づく訴えであります。水が染み込むように、徐々に信じ込まされるような非難や中傷の言葉です。……
巻九において、その派手な格好が仇となり、赤松氏一門の佐用範家に討たれてしまったとする「名越尾張守」は、巻十四での回想部分や『梅松論』と照らし合わせれば高家で間違いなく、「気早の若武者」であったという記載は一つ注目に値する。
細川氏はこれを20代前後であったと推測されている*41が、10代後半~20代前半とすると10代で尾張守であったということになってしまうため、20代後半として捉えるべきであろう。また、尾張守になったのを30歳程度とすると、亡くなったこの当時40歳を超えていたことになってしまい、「若武者」と呼ぶには年長過ぎるように感じる*42。
よって、尾張守になった当時20歳前後とすれば、亡くなった当時30代前半となり、「若武者」という記述に矛盾しない範囲内である。ともに軍勢統率者であった足利高氏(のちの尊氏、当時29)*43とも近い年齢で妥当と言えよう。
尚、『太平記』や『梅松論』の記す通り名越尾張守=尾張前司高家で、その戦死については、他の史料でも確認できる。
●「林実広申状」(『前田氏所蔵文書』)
●「和田助家軍忠状」(『和田文書』)
『史料綜覧』にある上記2通の書状に「名越尾張前司」とあり、4月27日の久我縄手(久我畷)合戦のことを伝える。
●『元弘日記』裏書に「今年元弘三……四月廿七日、高氏加官軍、高家為圓心被誅、」とあり(*注:高氏=足利高氏、圓心(円心)=赤松円心[俗名:則村])*44。
●『続群書類従』所収「北條氏系図」、『諸家系図纂』:「尾張守 元弘三年四月 於久我縄手討死」
●『続群書類従』所収「桓武平氏系図」:「尾張守 元弘三年四月廿七日 於久我縄手討死」
●『正宗寺本北条系図』:「名越尾張守 於山城内之赤井川原打死 七千余騎而鳥羽向」
また、幕府滅亡後の次の史料3点から、最終官途が尾張前司であることと、「高家跡」という表現から(高家の死により)その旧領が収公されたことが分かる。
● 幕府滅亡より数ヶ月後の元弘3(1333)年7月19日付で、飛騨守護職となった岩松経家宛ての書状(所収:横瀬家蔵『集古文書』一 綸旨類)には、収公された北条氏の遺領10箇所の地頭職を与える旨が記されているが、その中に「同国(遠江国)大池荘 高家跡」とある*48。「維貞跡」(大仏嫡流)「泰家法師跡」(高時の弟)「顕業跡」(系譜不詳*49)と北条氏一族の名前が並ぶ中でのこの高家は名越高家に間違いないだろう。
● 足利尊氏が深堀時継の勲功を賞して「尾張前司高家跡」であった大隅国岸良村を与えるとする建武4(1337)年12月26日付の書状(『深堀系図証文記録』)あり*50。
● 興国3(1342)年6月27日付 阿蘇大宮司・宇治惟時宛ての書状(『阿蘇文書』所収)に「肥後国甲佐高家万寿丸等跡、健軍郡浦泰家法師跡、元弘の勅裁に任せ」(*読み下し、原漢文)、社領を安堵する旨の記載があり*51、同じく元弘3年の段階で収公されていたと考えられる。
建武元(1334)年7月3日、鎮西探題・阿蘇随時の一族とみられる「遠江掃部助三郎」・四郎兄弟ら北条氏方の残党が挙兵し、島津荘日向方(日向諸縣郡)南郷で乱暴狼藉を働いたとする書状が残っており*52、そのメンバーの中に「高家家人」であった「布施四郎兄弟」と「肥後兵衛次郎入道浄心」も含まれている。彼らは高家に仕えていたのであろう。他のメンバーのうち、「栗屋毛八郎左衛門尉」「久所十郎兵衛入道」「救二郷源太」の3名は「守時家人」であったといい、こちらも赤橋守時(鎮西探題・北条英時の兄、第16代執権)の旧臣だったようだ。
まとめ:名越高家・最新年表
●永仁7/正安元(1299)年頃?:名越時家の子として生まれる。
●延慶2(1309)年:6月8日に次兄・周時死す。代わって嫡子となる。
●応長元(1311)年?:新得宗・北条高時の加冠により元服か。
●文保元(1317)年:この年までに尾張守任官。3月20日、地頭となっていた大隈国肝付郡の弁済使・尊阿(肝付兼藤)の所職および所領を横領。
●元応2(1320)年:3月11日、幕府の命を受けた鎮西探題・北条随時の指令により、尊阿に横領した所職および所領を返還。これまでに尾張守を辞す。
●嘉暦元(1326)年:3月16日、金沢貞顕が第15代執権に就任。当日の評定に評定衆として参加。当日の遅刻の理由は不明。
●元弘3(1333)年:幕府の命により足利高氏とともに大将を務め上洛。4月27日、赤松則村(円心)の軍勢と合戦に及び、戦死(久我縄手の戦い)。『太平記』では赤松氏一門の佐用範家に討ち取られたとする。
高家の息子について ― 名越高郡(高邦)・名越高範
『続群書類従』所収「北条系図」には、高家の子に左近将監高郡を載せる。
『諸家系図纂』でも「高郡」とするが、その注記に『太平記』では「高邦」とする異説を紹介している*53。『太平記』巻九「高氏篠村八幡に御願書の事」では、高家討死の一報を受けた高氏が丹波国篠村にて、幕府に叛旗を翻す形で挙兵し、赤松円心や千種忠顕と合流して京(六波羅探題)を攻撃したことが描かれているが、天正本『太平記』では、彼らを迎え撃つ六波羅勢のうち、対足利部隊の大将をつとめる人物として「名越尾張将監高邦」が登場するという*54。
高家が国守にまで昇進し、享年が約30歳と推測されることからも、左近衛将監(従六位上相当)の息子がいても決しておかしくはない。通称を信ずれば、尾張前司高家の子で間違いなかろう。しかし、名越流でありながら、当時の将軍・守邦親王の偏諱を避けていないのに違和感があり、或いは将軍から一字拝領するとは考え難い*55ので、読みは「たかくに」で良いと思われるが、表記は「高郡」とするのが良いと思われる。
*「浅羽本北条系図」では、伊具時高(改め斎時)を名越時基の子とし、この時高の子を「時郡」と載せる*56。時高が得宗・高時の元服後まもなくその偏諱を避けて斎時と改名するような人物であるから *57、その子が当時の将軍・守邦親王の偏諱を避けずに「時邦」と名乗っていたとは考えにくい。高郡と関係があれば尚更、こちらも「時郡」が正確であった可能性は否めない。或いは父と同様に「時邦」を「時郡」に改めたのかもしれない。時郡(時邦)には高時の偏諱を許されたとみられる高有という兄弟がいる。
建武2(1335)年8月12日、中先代の乱の際の小夜中山合戦において、今川頼国は「名越」という敵の大将を討取っている。『太平記』では「名越式部大輔」と記すのみである*58が、一説によれば、この「名越」は高郡(高邦)であるという。
また別説によれば、頼国に討ち取られた人物を「名越太郎邦時」とする。単なる誤植かと思ったが、どうやら次の『掛川誌稿』の記述に拠ったもののようだ。
駅路南側林中ニアリ、来由傅ラス、按ニ建武二年八月、北條高時ノ餘類、名越太郎邦時、兵ヲ起シテ京ニ攻上ントシテ、小夜ノ中山ニ於テ今川式部大輔頼国ニ討ル、又享徳五年、今川義忠ノ一族、堀越陸奥守貞延、 小夜ノ山口ニ於テ横地勝田ノ為ニ討レ、共ニ戦死スルモノ数輩アリ、サレトモ鎧塚ハ名越太郎カ死骸ヲ埋ミタル所ナラン、今川頼国、名越邦時ヲ討テ、初テ本州ニ於テ大ニ功ヲ立タレハ、塚ヲ築テ其標トセシモノナルヘシ
(文章は http://www.ochakaido.com/kokon/tabi/6-2.htm より引用。)
「太郎」という通称名から、元服したばかりの無官であったことが窺えるが、それにしても得宗・高時の嫡男であった相模太郎(幼名:万寿丸)と同じ「邦時」を名乗っていることにはやはり違和感がある。相模太郎邦時が存命時に元服したのであれば尚更で、当時の将軍・守邦親王の偏諱を許されたとは到底思えない。よって、これは高邦(高郡)の誤記であろう。
元々、今川国氏の次女(基氏の妹)が高家に嫁いで婚姻関係にあったようで、頼国が従弟である高郡を討ち取ったものの、その弟・高範を養子に迎えて保護し*59、高範の系統は足利将軍家の奉公衆・那古野氏として存続したとされる。
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備考
名越流北条氏にはもう一人、「高家(名越高家)」の名を持った人物が確認できる。
『鎌倉年代記』裏書・元亨元(1321)年条に「九月九日、備前々司家政息 高家為御代官御出仕、若宮」とある。「備前前司(=前備前守)家政」は、『前田本 平氏系図』で名越宗長の次男(春時の弟、貞宗の兄)に載せる家政(備前守)*60に同定され、『正宗寺本 北条系図』では宗長の次男を「家貞」とするが、「備前守」の注記が家政と一致しており、その長男として高家の記載がある。「尾張守」の注記は、前節までに述べてきた高家と混同したものと思われるが、尾張入道道鑑(公時)の孫である尾張守(尾張前司)高家と、家政息子の高家は別人として扱うべきであろう。同じく高時の偏諱を受けて、父からの一字を継承したために同名になったとみられる。
脚注
*1:『正宗寺本北条系図』ほか。
*2:『諸家系図纂』所収「北条系図」、『続群書類従』 6上(系図部) 9ページ(桓武平氏系図)、65ページ・78ページ(北條系図)。
*3:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.49注(20) および 巻末・鎌倉政権上級職員表(基礎表)No.22「名越高家」の項。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その22-名越高家 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏ブログ記事:前注の改訂版)。根拠となった史料については本文にも掲げた通り。
*5:注3前掲基礎表No.21「名越時家」および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その21-名越時家 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*8:元々兵庫は「武庫」とも言った(→参考:兵庫(神戸)県名の由来、兵庫の名は、武庫川の武庫に由来する! とは(2013.1.21): 歴史散歩とサイエンスの話題)が、兵庫頭の唐名も「武庫令(ぶこれい)」であった(唐名 - Wikipedia より)。実際に兵庫頭で「武庫」と呼ばれた例としては他に長井貞秀が挙げられる(史料上では武庫、長井兵庫頭貞秀、長井武庫と記される)。小泉宜右「御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.718 を参照。時期的に貞秀は時家の後継の兵庫頭かもしれない。
*9:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉戎光祥出版、2013年)P.221。
*11:肝付氏第5代当主・肝付兼石(かねいし?、正しくは兼右(かねすけ)?=武家家伝_肝付氏の系図より)。肝付氏は、西方・東方弁済使や岸良村弁済使等の諸職を世襲する家柄で、地頭であった名越流北条氏の支配に抗して相論を繰り返した(『世界大百科事典 第2版』「肝付氏」の項、および、中野翠「中世高山城と肝付氏について」(所収:鹿児島県歴史資料センター黎明館『黎明館調査研究報告』補説、1984年)P.83-84)。
*12:この時家が名越時家であることは後述参照。
*13:竹内理三編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)所収。
*14:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について (下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.29に掲載。
*16:注1に同じ。
*17:左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク より。尚、他の系図では「左近大夫」とのみ記載されるが、「左近大夫将監」の略表記で同じ意味である。
*19:系図類で「四郎大夫・伊豆介」であった北条時家が確認できる。『尊卑分脈』では時政の祖父とする。
*20:この理由として、時家の弟・公貞が得宗・貞時から受けたとみられることが挙げられる。「公」は父・公時からの継字であり、貞時の偏諱を下(2文字目)にしているが、これは庶子故であろう。時家・公貞兄弟は、北条経時・時頼、安達盛宗・宗景、千葉宗胤・胤宗…などと同様のケースと考えられる。
*21:『吾妻鏡』正嘉元(1257)年11月23日条。実泰・実時父子は泰時の偏諱を受けており(『吾妻鏡』天福元(1233)年12月29日条によると実時の加冠役も泰時)、時方は同名の先祖(『尊卑分脈』では時政の父)より「方」字を選択したのに対し、「時」は時宗からの一字拝領で上(1文字目)においたと考えられる。時方改め顕時の嫡男・貞顕も貞時の偏諱授与者とみられている(永井晋『金沢貞顕』(吉川弘文館、2003年)P.3)。尚、時宗と時家はともに母方の祖父に重時を持つ、従兄弟関係にある。
*22:弟の頼章が時頼の烏帽子子であることは 名越頼章 - Henkipedia を参照。
*23:注14前掲山口論文、P.15。
*24:注2に同じ。
*25:関靖『金沢文庫の研究』(大日本雄弁会講談社、1951年)P.53。
*26:『正宗寺本北条系図』には宗宣の女子(維貞の妹)に「名越美作守妻」と記載があり、同系図(注1前掲同箇所)より美作守=時家であることが分かる。
*27:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その20-名越公時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*28:田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第5集、1985年)P.41。森幸夫『北条重時』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2009年)P.177・185。
*29:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.368。
*30:川添昭二『北条時宗』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2001年)P.276の「北条氏略系図」では時家の子を貞家、周時、高家として載せる。
*31:前掲注4に同じ。
*33:『鎌倉遺文』26117号。
*34:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その18-名越朝時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は『吾妻鏡』建永元(1206)年10月24日条。3代将軍・源実朝の加冠により「朝」の偏諱を拝領している。
*35:注11前掲・肝付兼石の子・兼藤(かねふじ、第6代当主)の法名とされる(鹿児島県の主要大名#肝付氏 より)。元応2(1320)年の裁定による所領の返還で相論が一旦は収まったかのように見えたが、その後元亨3(1323)年2月4日、兼藤は地頭代盛貞によって殺害されてしまった(肝付氏第6代兼藤の墓(鹿屋市串良町中郷): 鴨着く島 より)。
*36:この盛真と、尊阿と争った名越高家の地頭代・盛貞は、名前が類似している上、「真(眞)」と「貞」の両字も似ている(児玉幸多編『漢字くずし方辞典』P.266・P.401)ので、年代の近さもあって同一人物かもしれない。
*37:注9前掲前田論文、P.223表 および P.228 注(16)。
*39:『大日本史料』6-2 P.701 参照。
*40:太平記 巻第十四 (その一) より。
*41:注3前掲基礎表No.22「名越高家」では(注4前掲の改訂版とは異なり)尾張守であったことが確認できる史料について(恐らくは未発見のため)触れておらず、執筆当時の段階では特に考慮されていなかったと考えて良い。
*42:この場合、1287年頃の生まれとなるが、通常10代で行う元服当時の執権・得宗が貞時となってしまう。勿論、高時の代に入ってから改名したと考えることが出来なくもないが、系図類などの史料で初名を記載するものは確認できない。よって、高時家督初期の元服・叙爵であった可能性は高いと思われる。
*43:注9前掲前田論文、P.197・P.223 表。典拠は『道平公記抄』正慶2(1333)年4月27日条(同P.213 注(67))。
*44:『史料綜覧』、元弘日記裏書 (1巻) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム(4ページ目)。
*45:神明鏡 2巻. [2] - 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号.36~37。
*49:北条顕業 - Enpedia 参照。「顕」字からすると金沢顕時の子孫であろうか。
*54:南北朝についての日記?:名越高家の子・高邦、鎌倉幕府の衰亡(5) 六波羅探題の最期 より。
*55:確認できる限り、守邦親王の偏諱を許されているのは、当時の16代執権・赤橋守時と、得宗高時の嫡子・北条邦時のみである。
*56:『続群書類従』 6上(系図部) 78ページ目(北條系図)または 『諸家系図纂』所収「北条系図」27ページ目。尚、伊具流(北条泰時の弟・有時の系統)の部分(同前『続群書類従』83ページ目 または『諸家系図纂』30ページ目)でも他系図に同じく通時の子に時高を載せてはいるが「一作時基子」とわざわざ注記があり、時邦にも「一作齋時子」と記載して時郡と同人説を掲げる。青山幹哉氏によると同系図は江戸時代に成立のものでありながら、鎌倉期に成立の古系図に近く、原版としていた可能性を説かれている(→こちらを参照)。
*57:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その53-伊具斎時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*58:『太平記』巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」。尚、金勝院本『太平記』ではこの時の大将を「名越尾張五郎時基」とする(→ 真福寺 より)。
*59:頼国も小夜中山合戦よりわずか数日後に戦死し、実際には、代わって家督となった頼国の末弟・範国の庇護下にあったとみられる。「高」が父・高家からの継字であるから、範国が烏帽子親となって「範」の偏諱を与えたのだろう。
名越頼章
北条 頼章(ほうじょう よりあきら / よりあき、1245年~1256年)は、鎌倉時代中期の武将。
名越嫡流を継いだ名越時章の次男で、名越頼章(なごえ ー)とも呼ばれる。
頼章の生涯
●1245年、生誕か。
尾張守時章(『吾妻鏡人名索引』ほか)の子として「尾張三郎」と呼ばれた頼章(後述参照)と同時期に、公時(きみとき)が「尾張次郎」と呼ばれている(『吾妻鏡人名索引』)ことから、各系図類の通り兄であることは間違いなく、その生年は嘉禎元(1235)年である*1から、これ以後の生まれであることも確実である。
上に示したが如く、鎌倉時代当時に書かれたという『野津本北条系図』*2での注記に「十二叐亡云々」*3とあり、後述するが『吾妻鏡』に頼章死去の記事が見られるので、12という数字は逝去時の年齢(享年)を伝えるものと考えて良いだろう。逆算すると寛元3(1245)年の生まれとなる。次男でありながら、公時より10歳下と年の離れた弟だったようだ。
鎌倉時代中期までの一次史料『吾妻鏡』では、次に掲げる3箇所に登場する。
『吾妻鏡』より
建長六年八月小十五日乙酉。陰。鶴岡放生會。巳尅小雨降。將軍家御出於南面階間。爲親朝臣候御秡。陪膳伊与中將公直朝臣。役送左近大夫政茂。御出行列。
(中略)
御後 布衣
相摸右近大夫將監時定 尾張三郎頼章
(以下略)
「頼章」の初見である。前述に従えばこの当時数え10才で、「三郎」という無官の通称名から、元服して間もないことが分かる。
名乗りに着目すると「章」は父・時章から引き継いだもので、一方で当時の執権・北条時頼の偏諱「頼」を許されていることから、時頼の加冠により元服した可能性が高い*4。時章は名越流の中でも得宗に協調的であり、その一環として時頼に息子の烏帽子親を願い出たのかもしれない。生誕年の正確性を裏付けるものである。
●1256年1月2日:兄・公時と垸飯の沙汰人を務める。
『吾妻鏡』より
建長八年正月大二日甲午。晴。垸飯奥州御沙汰。今日將軍家出御南面。土御門中納言顯方卿。直衣被上御簾。御釼武藏守朝直。御弓箭刑部少輔教時。御行騰沓秋田城介泰盛。
一御馬 尾張次郎公時 同三郎頼章
二御馬 肥後次郎左衛門尉爲時 伊東三郎
三浦
三御馬 遠江三郎左衛門尉泰盛 同五郎左衛門尉
四御馬 上野太郎景綱 梶原左衛門太郎景基
五御馬 陸奥弥四郎時茂 同七郎業時
●1256年6月8日、死去。
*「平頼章」は北条氏が平姓(系図類では桓武平氏・平維時の系統)であることによる。
ここに死因や享年の記載はない。事件性はなく、病死であろうか。この頃の名越流では20数歳程度で従五位下に叙される者が多い*5のに対し、頼章は依然として「三郎」を称して亡くなっていることから、官職に就くことのないまま早世したことは確実とみて良いだろう*6。従って、前述の『野津本北条系図』にある享年12は的を射たもので、一方「左近大夫」*7の注記は誤って挿入されたものであろう*8。
ちなみに、頼章は次男にもかかわらず「三郎」、公時はその兄(時章の長男)でありながら「次郎」(前述『吾妻鏡』記事参照)、更には頼章の弟・篤時(あつとき)も「四郎」と名乗ったらしい*9。結果としてではあるが、朝時(相模次郎→越後守)―時章(越後次郎→尾張守)と名乗ってきた「次郎」がそのまま名越嫡流の家督継承者の称号のようなものと化したことにより、必ずしも輩行名が出生順を表すものではないことを示したものである。
*参考→ 輩行名 - Wikipedia
但し、名越流の場合は嫡男の称号が「次郎」である(長男であっても「太郎」ではなく「次郎」を称する)ことが重要視されただけで、次郎公時・三郎頼章・四郎篤時は出生順に沿って名乗っている。
備考:頼章―貞持父子説の誤り
江戸幕末期に成立の『系図纂要』 では頼章の子として貞持(さだもち)を載せる。亡くなった当時12歳であった頼章に息子がいたと考えるのは、現実的に考えて無理がある。仮に事実であるとした場合、貞持は遅くとも建長8(1256=康元元)年には生まれていなければおかしい。
前述の通り、頼章が時頼の烏帽子子とすれば、貞持は得宗・北条貞時(時頼の孫)の偏諱を受けたと考えるのが自然であろう。しかし、貞時の元服は建治3(1277)年12月2日、家督および執権職の継承が弘安7(1284)年であり*10、貞持が1256年生まれとした場合、数え22歳以降で一字を拝領したことになるが、元服するにしては遅く、また初名を伝える史料も皆無である。よって、このように推定するのは明らかに矛盾があり、誤りであること確実である。
『太平記』巻11「越中守護自害事付怨霊事」には、「越中の守護 名越遠江守時有」の甥として「兵庫助貞持」が登場する*11。この時有は『尊卑分脈』に公貞(公時の子/頼章の甥)の子として掲載される人物に比定され*12、軍記物語でありながら史実を伝えるものとして捉えて良いだろう。貞時の偏諱を受けたのは公貞であり、その孫である貞持は祖父の1字を用いたとするのが正しいようだ。
1256年生まれとすれば、亡くなった1333年当時数え78歳だったことになり、その伯父が存命であるのもまた不自然である。頼章と父子関係に無いことは確実で、恐らく元となった系図上で父子の線を誤ったか、書写の際に誤伝されたのであろう。『系図纂要』では頼章の没月を5月としたり、公貞を公時・頼章の弟としたりなど、随所に誤りが見られる。
(参考記事)
historyofjapan-henki.hateblo.jp
脚注
*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その20-名越公時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*2:主な収蔵資料 | 史料編纂書(皇學館大学 研究開発推進センターHP)。翻刻は、田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第5集、1985年)に掲載。
*3:「叐」は夭折の「夭」の異体字である(→ u592d (夭) - GlyphWiki)。
*4:『入来院本平氏系図』(所収:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について (下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.29)では頼章に「本名時賢(ときかた)」と記すが、この当時は十分元服の適齢であり、慌ただしく改名を行ったとは考えにくい。或いは時賢の「時」が時頼の偏諱とみなせるかもしれないので、いずれにせよ時頼とは烏帽子親子関係にあったと判断しておきたい。
*5:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.45~46。
*6:『続群書類従』 6上(系図部) 所収「桓武平氏系図」では頼章の項に「三郎 早世」と注記されている。同所収2種の「北條系図」および『諸家系図纂』ではいずれも「建長八年正月〔ママ〕八日卒」、『系図纂要』では「建長八年五〔ママ〕ノ八死」とし、『吾妻鏡』にほぼ一致した記載である。
*7:従六位上相当の左近衛将監でありながら五位に叙せられた者の呼称。左近大夫(サコンノタイフ)とは - コトバンク より。
*8:前掲注1同箇所より、頼章が亡くなったこの年に、22歳であった兄・公時が叙爵して「左近大夫将監」と呼ばれるようになっており、頼章がこれを超えるとは到底考えられない。
*9:注4前掲『入来院本平氏系図』での篤時の項に「尾張四郎」の注記があるほか、『吾妻鏡』文永3(1266)年7月4日条にも「尾張四郎篤時」とある。
*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*11:『系図纂要』における頼章の子・貞持の傍注に「兵庫助 元弘三年五ノ十七討死」とあるため、同人と判断される。恐らくこの『太平記』に拠った記載と思われるが、時有の従兄弟としてしまった理由は不明である。
*12:『太平記』の同箇所には時有の弟として「修理亮有公(ありきみ)」を載せるが、その名が公貞・時有それぞれの1字によって構成されていることから、公貞の子に時有・有公を載せる『系図纂要』の通りで正しいだろう。
足利尊氏
足利 尊氏(あしかが たかうじ、1305年~1358年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。初めは鎌倉幕府の御家人で 足利高氏(読み同じ)を名乗っていた。のち室町幕府の初代征夷大将軍。
父は足利貞氏。母は上杉頼重の娘・清子。
人物・生涯については
を参照いただければと思う。
本項では、「高氏」「尊氏」それぞれの名前に焦点を当てて解説する。
足利高氏の命名
『続群書類従』所収の「足利系図」によれば、尊氏の元服は、元応元(1319)年、15歳 (数え年) の時であったという*1。
『尊卑分脈』には尊氏が当初「高氏」と名乗っていたことが記載されているが、多くの史料によって確かであることは先行研究で明らかにされており、改めて言うまでもない。この高氏とその父・貞氏の命名について、南朝側の所伝をまとめたという『(異本)伯耆巻』には次のように書かれている*2。
▲〔史料A〕『伯耆巻』(名和伯耆太郎兵衛長興家蔵本)の写(30ページ目)より一部抜粋
「足利讃岐守、相模守貞時が烏帽子子にて貞氏と号し 其(その)子高氏は赤橋武蔵守久時が聟(むこ)と成て治部大輔に任ぜられける 高氏も高時が称号の一字を受て高氏とぞ付ける」
冒頭は、"足利讃岐守は北条貞時の烏帽子子であったので「貞氏」と名乗った" というニュアンスで捉えられ、実際に一字を与えられたことは見て明らかである。この史料の記述が実際の出来事を記録したものであるのかは分からないが、仮に後世の創作であったとしても、偏諱を受けた理由=烏帽子親子関係 として解釈されていることが分かる。
高氏についても、「高氏モ…」と書いているから、高時から一字を受けた理由も烏帽子親子関係として読み取れる。『尊卑分脈』には、兄に高義がおり、弟の直義が当初「高国」を名乗っていたことも記されていて、同様であったことに疑いはない。
(参考記事)
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元服当時、嫡男であった高義が既に亡くなっていたにもかかわらず、足利氏の家督継承者が称する「三郎」を名乗っていないことについては、高義の遺児の成長をにらんで高氏の家督継承が直ちに確定したわけではなかったとする見解がある*3。「高氏」の名は、それまでの当主に見られる「得宗の偏諱+通字の氏」の構成にはなっているが、「氏」字の使用はあくまで高義と同名を避けただけであり、必ずしも嫡子としての名乗りを意味するものではなかったようだ。但し、それまでの嫡流継承者と同じ構成の名乗りであることも事実で、逆に、貞氏が亡くなり、高氏が中継ぎの当主として家督を継ぐことを見込んでいた可能性も否定はできない*4。
足利尊氏への改名
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足利高氏の改名については、水野智之氏の著書*5に詳しいので、それに従って概要を記しておきたいと思う。
それによれば、高氏が「尊氏」と表記を改めたのは、鎌倉幕府滅亡後まもない頃であったことが次の史料により明らかとなっている。
「尊」の字に改めた経緯については、『太平記』に記されている。
〔史料C〕『太平記』巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」
(前略)…足利宰相高氏卿……去ぬる元弘の乱の始、高氏御方に参ぜしに依て、天下の士卒皆官軍に属して、勝事を一時に決候き。然ば今一統の御代、偏に高氏が武功と可云。…(中略)…征夷将軍の事は関東静謐の忠に可依。東八箇国の官領の事は先不可有子細とて、則綸旨を被成下ける。是のみならず、忝も天子の御諱の字*を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。……
* 天子(=後醍醐天皇)の諱「尊治(たかはる)」の「尊」の字。
この記事(『太平記』)は改名の時期を中先代の乱(1335年7月)の折としているが、あくまで軍記物語であるため、上の『公卿補任』が示す元弘3(1333)年8月5日が正しいとされる。
しかしながら、偏諱の授受については『太平記』のような書物が流布したことによって、後醍醐天皇(尊治*6)から高氏(尊氏)へ一字が下されたとの解釈で伝えられていったようである。
天皇がたかが関東の一武人に自分の名の一字を与えるというこの現象は前代未聞のことであったが、なぜ上の字(一文字目の「尊」)を下賜したのか、ということについては、明治時代に疑問が提起された*7ようであり、これに対する帝国大学教授・星野恒 氏の回答についても水野氏著書に詳しく解説されている。要約すると次の通りである。
上の『公卿補任』の記事(〔史料B〕)に掲げたように、従三位に叙せられた当日に「高」を「尊」に改めたというから、これは別に綸旨や宣旨で正式に偏諱を与えたというわけではないようだ。そもそも足利尊氏は、母が北条氏一門(赤橋流)の出身者であり、頼氏や貞氏の例に倣う形で得宗・高時の偏諱を受け「高氏」を名乗っていたので、朝廷への臣属を示すにあたり、たまたま「高」の字と同訓(読みが「たか」)である、後醍醐天皇の諱「尊治」の「尊」の字を賜って改名したい旨を自ら申請したのではないかという。
これに対して後醍醐天皇も、倒幕に貢献した高氏に対し無下に拒みづらく、かと言って関東の一武士に対し公然と一字を綸旨や宣旨の形で与えた前例も無いため、ただ位記に「尊氏」と記すという形でうまく対応したようだ。故に、後に尊氏が天皇に叛逆した際も、天皇としては元々綸旨や宣命(せんみょう)等で正式に「尊」字を与えたという認識ではなかったので、官位の剥奪は出来ても、「尊氏」の名乗りを辞めさせることが出来なかったのだという。
弟の直義(初め高国)をはじめ、鎌倉幕府滅亡後に北条高時からの偏諱「高」を棄てた御家人が多く確認される*8が、その中で、実のところ、後醍醐天皇(尊治)から一字を賜ったのは尊氏だけではないようで、小田高知より改名した小田治久の「治」がその偏諱であったらしい*9。
その他、Wikipedia等ネットでの情報なので史料的根拠が定かではないが、一応紹介しておくと、吉見氏から渋川直頼の猶子となった渋川尊頼(吉見尊頼)*10も後醍醐天皇から一字を賜ったようである。
ちなみに、尊氏自身も一族の吉良尊義*11や家臣の饗庭尊宣*12に「尊」の字を与えていたようであるが、尊義や尊宣の元服*13の段階では後醍醐天皇は既に亡くなっていた*14ので、尊氏が自身の偏諱として与えることに特に問題は無かったと思われる。
脚注
*1:この系図の尊氏の項には「元応元年叙従五位下。同日任治部大輔。十五歳元服。無官。号足利又太郎。」と書かれている。紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.11。
*2:この史料については、今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要』第24号、2017年)P.49 を参考とした。
*3:清水克行 「足利尊氏の家族」 (所収:櫻井彦、樋口州男、錦昭江編『足利尊氏のすべて』(新人物往来社、2008年))P.125~142。
*4:恐らく足利氏としては、高義遺児が成長した段階では得宗の地位は高時の嫡男に移っており、その新・得宗からの一字拝領を想定していたのかもしれない。歴史学としては本来仮説で論じるのはよろしくないが、仮に倒幕の動きが無ければ、高義遺児は高時の嫡男・邦時を烏帽子親として「邦氏」「邦義」等を名乗っただろう。
*5:水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.62-66。
*6:『鎌倉年代記』・『武家年代記』元応元(1319)年条など。
*7:『史学雑誌』第六編第一号(1895年刊行)の「答問」に、山口県の河田心順氏より。
*8:これについては、北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia を参照のこと。
*9:『大日本史料』6-17 P.294(典拠は『常陸誌料』五 小田氏譜上)に「治久、初名高知、後醍醐天皇賜偏諱、因更治久、……(中略)……自延元元年至興國二年、……賜御諱…(以下略)」とある。
*11:『寛永諸家系図伝』や『系図纂要』の吉良氏系図では「尊義」、『尊卑分脈』では「義尊」または「義実」とする(『大日本史料』6-20、P.853-854。)。同時代の史料である「寂光寺殿松岩猷公大禅定門十三周忌拈香并陞座」(『友山録』)では「義貴」とあり、ネット情報では初名とする。
*12:詳しくは、小林輝久彦「室町幕府奉公衆饗庭氏の基礎的研究」(所収:『大倉山論集』第63輯、大倉精神文化研究所)P.160 を参照。
*13:『源威集』によると、饗庭尊宣の元服は1354年11月に行われたという(前掲小林論文同箇所)。一方、吉良尊義の生年は1348年であり、同じ頃の元服であったと推測される。
*14:『武家年代記』元応元(1319)年条によると、後醍醐天皇の崩御は暦応2(1339=延元4)年8月16日である(暦応2年条にも同日に52歳 (数え年) で亡くなったことが記されている)。
【論稿】北条得宗家と足利氏の烏帽子親子関係成立について
[目次]
北条・足利両家の一字共有
鎌倉時代の御家人に対する、北条氏得宗家による一字付与については、これまでに多くの研究成果が出されてきた。
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その最初である、紺戸淳 氏の論文*1では、御家人の元服する史料がほとんど残っていないことから、生年の確定した御家人の10~15歳位までの年代が、当該時期の得宗と実名の一字が共通している御家人を洗い出すという考証的な作業によって、得宗家からの一字付与を受けた形跡のある御家人を11家抽出された*2が、その最初の例に挙げていたのが足利氏であった*3(次の系図参照)。
これにより先行研究では、"鎌倉時代の足利氏嫡流の歴代当主は基本「得宗からの偏諱+通字の氏」で名前を構成することを伝統とし、足利氏は代々得宗を烏帽子親とする家柄であった" と解釈されてきた。しかし、頼氏は改名によって得宗の偏諱を受けたのであり、また「家時」や高氏の兄「高義」は名前の構成が異なっており、厳密には少々誤った解釈である。
本項では、得宗家と足利氏との間に出来た継続的な烏帽子親子関係について、その成立の過程を丁寧に考察していきたいと思う。
得宗からの一字拝領の慣例化
足利泰氏の一字拝領 と 北条・足利両家の関係性
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確かに、泰氏は3代執権・北条泰時から偏諱を受けていることから、泰時が加冠を務めたことは間違いなかろうが、これは泰時が執権の座にあっただけでなく、泰氏の外祖父(母方の祖父)であったという理由によるものだと思われる。最近、今野慶信氏が、泰時の嫡男・時氏の「氏」が足利義氏(泰氏の父)からの偏諱であった可能性を指摘されており*5、後には泰氏の嫡男・利氏が5代執権・北条時頼の長男・時利(のちの時輔)の加冠を務めたことが次の史料で確認できる。
従って、北条氏と足利氏はお互いに烏帽子親子関係を結び合う、対等な関係にあり、北条氏の側も当初はそれによって足利氏より優位に立とうという政治的な意図は無かったと判断される。
泰氏の子の命名 と 足利頼氏の改名の意味
泰氏の子は、家氏、兼氏、利氏と名付けられた。長男・家氏は名越朝時(泰時の弟)の娘との間に生まれた子で当初は嫡子の地位にあったが、特に得宗の偏諱を受けていない。「家」の字は祖先の源義家に由来するものとみられ*6、恐らく泰氏自身が加冠・命名に関与したのではないかと思われる。次男・兼氏*7も足利義兼(泰氏の祖父)の一字を取って命名されたのであろう。
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そして、三男・利氏も同様であったとみられる*8が、のちに時頼から偏諱を受けて頼氏に改名した(【史料B】参照)。紺戸淳氏の説によれば、「太郎」を称する家氏に代わって、得宗家出身の母(北条時氏の娘/時頼の妹)を持つ利氏が嫡子として「三郎」を称したので、時頼が甥との関係をより緊密にするための方法として行ったのだという*9。しかし、実際のところは時頼の子・時利(時輔)の烏帽子親を務めてからの改名である(【史料B】参照)から、同年(1256年)11月22日に執権を退任(23日に出家)するにあたって、形式上、時利との烏帽子親子関係(同じ一字「利」を共有する関係)を解消させ、逆に得宗と(元々親戚関係にあるが)烏帽子親子関係にある状態を創り出したものと考えられる*10。
実のところ、時頼は最明寺を建立する*11より前から引退・出家を計画しており、その真の目的は、幼少の嫡子・時宗をいち早く後継者に指名し、時宗への権力移譲を平穏に実現することにあったという*12。
一方で時頼は庶長子である時利(時輔)を不当に扱うことなく、烏帽子親に足利氏嫡流の当主を指名したのはその待遇の一つであったようだ*13。しかし、同時に時利が「反得宗(時宗)的な動きの結節点になる可能性」*14も視野に入れていたので、その烏帽子親である利氏に対する牽制(得宗への忠誠の確認)の意図で「頼」の偏諱を与えたのだろう。この時、時宗(幼名: 正寿丸)はまだ元服前であった。
時宗による足利家時への一字付与
文応元(1260)年、頼氏とその "家女房"(侍女)であった上杉重房の娘との間に長男が誕生した*15。2年後に頼氏が早世したので、家督を代行した家氏*16のもとで"事実上の養子"として育てられたとみられ*17、この男子は「家時」と命名された。「時」は北条氏の通字を拝領したものとみられ*18、恐らくこの字を与えた烏帽子親は【図A】の通り、得宗(8代執権)・北条時宗で良いと思われる。
田中大喜氏は「家時の母は、被官上杉氏の出身であり、家時自身は北条氏との血縁関係を持たなかった」*19と述べられているが、一応、家時の祖母*20は得宗家出身であり、時宗にとっても家時は従甥(時宗と頼氏が従兄弟関係)にあたる。但し、得宗家が足利氏の外戚で無くなってしまったという意味では重要な指摘である。
ところが、『系図纂要』には時宗の子女として、嫡男・貞時の他に「足利讃岐守貞氏室」となった女子を載せており、永井晋氏はこのことを根拠に、『入来院家所蔵平氏系図』*21に見える北条氏一門・金沢顕時の2人の娘、「足利伊予守室」(「足利讃岐守室」の誤りか*補1)と「為時宗子譲所領」と注記される時宗の養女が同一人物とする見解を示されている*22。安達泰盛の娘(時宗の義姉妹)を母に持つことや、顕時自身が時宗の烏帽子子であったことが選考の理由であったと思われ、時宗が足利氏との婚姻関係を重視していたことは間違いないだろう。得宗家が足利氏の外戚で無くなることで関係が薄れてしまうことを憂えた時宗はその対策を講じることに積極的であったと考えられるのだ。
その最も簡単な方法はやはり時宗自らが家時の烏帽子親を務めて自身の一字を与えることで、親子に準じた関係を構築することであっただろう*23。泰時が泰氏に、時頼が頼氏に与えた前例に倣ったことで、ここに得宗・足利両家が同じ一字を共有することが慣例となり、以後継続的に烏帽子親子関係を結ぶことになったのである。
*補1)同じく『入来院家所蔵平氏系図』には、北条時茂の娘に「足利伊予守家時後室」とわざわざ載せるため、一応注意を要する。『尊卑分脈』でも足利貞氏の母を「平時茂女」とするので、時茂と貞氏の年齢差を疑問視する見解もある*24が、時茂の娘が家時に嫁いで貞氏を生んだことは間違いないだろう。
一方、『続群書類従』所収「足利系図」では高義の母について「按貞氏妻金沢越後守顕時女也云々」とあり、顕時の娘が貞氏に嫁いで高義を生んだというのが通説となっている。時茂の娘が「後室」ということは、貞氏が生まれたとされる文永10(1273)年までに顕時の娘が家時と離縁するか、もしくは先立って死去しなければおかしい。しかし当時顕時は26歳であり、現実的に考えて娘が誰かに嫁ぐような年齢であるはずがない。家時が亡くなった弘安7(1284)年でも顕時は当時37歳で、娘は10歳代を超えることはなく、やはり顕時の娘が(前妻であってもなくても)家時に嫁ぐには無理がある。よって、「足利伊予守室」は誤記であること確実である。
"得宗専制"下での烏帽子親子関係
家時と宗家
ところで、「家時」という名からすると、元服は頼氏の死後、家氏の生前に行われた可能性が高く*25、嫡男の宗家に対し、事実上の養子・家時が庶子として扱われたのではないかと推測される*26。彼らの命名や北条時宗への加冠も家氏の主導によるものと思われる。
しかし、文永5(1268)年に時宗が執権となって政治を主導する立場になる*27と、同じ頃に家氏が亡くなった*28こともあり、名越流の血を引く宗家よりも、母が得宗家出身という理由で家督を継いだ頼氏の遺児である家時を優遇することを考えたのではないかと思われる*29。
というのも、文永9(1271)年には名越流の北条時章・教時兄弟が誅殺された、いわゆる二月騒動が起きており*30、彼らが家氏の母方の叔父(宗家の大叔父)にあたることから、宗家が将来的に自身(得宗)を脅かし得る存在になる可能性が頭をよぎったのではないかと考えられるからである。
【史料C】『勘仲記』弘安5(1282)年11月25日条
(前略)
今夕被行小除目僧事、
権少外記中原師鑒、兼、 侍従藤原公尚、
少内記家弘、 伊勢守藤盛綱、
伊豫守源家時、 按察卿二男右近少将源親平、
清原泰尚、
(以下略)
この史料中の「伊予守源家時」は、「瀧山寺縁起」温室番帳に「同(六月)廿五日 足利伊与守源ノ家時、弘安七年逝去、廿五才、」*31とある足利家時に比定される。前述の通り、家時が伊予守となったことは系図類にも記されるところで、上の【史料C】はそれを裏付けるものである。先行研究では、この家時の伊予守補任は、時宗による対蒙古政策としての源氏将軍復活に連動した “源義経の再現” を意図したものであったと解されている*32。
『勘仲記』弘安5年11月25日条に見える伊予守は私だが、従五位下に叙位されている源宗家は叔父尾張入道蓮阿(家氏)の子左近将監宗家のことなのだろうか。
— 足利家時bot (@ietoki1284) October 30, 2018
そして、もう1つ注目すべき所は、この除目において足利家氏の子・宗家と思しき「源宗家」*33が家時と同じ従五位下に叙されていることである。恐らくこの時に左近大夫将監となった*34ものとみられるが、家時は既に従五位下・式部丞となっており*35、この段階でやっと家時と宗家が従五位下で並んだことになる。家時には源氏にゆかりのある国守の地位を与え、宗家には家時に並ぶ位階とすることで、時宗は両者の対立を未然に防いだと考えられる。
貞時による足利貞氏への「足利氏嫡流」「源氏嫡流」公認
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時宗が亡くなって間もない頃は、霜月騒動や平禅門(平頼綱)の乱など、源氏将軍を擁立する動き(類似したもの含む)が度々起こっており、近年、得宗・執権の北条貞時(時宗の子)がその対策として足利氏(足利貞氏)を「源氏嫡流」として公認していたという説が出されている*36。
言うまでもないが、「源氏嫡流」として公認していたということは、足利氏の嫡流としても認めていたということに他ならない。
さて、時宗の死の翌年に起きた霜月騒動で足利(斯波)宗家が連座したらしい*37。北条貞時は、宗家の遺児・家貞*38と、家時の子・貞氏に偏諱を与えているが、騒動の影響からか、貞氏の方を足利氏の嫡流として扱っていたことが分かる*39。恐らく貞氏・家貞の元服は霜月騒動以後であったと推測される*40。
*補2)前述の通り、かつて家氏が足利氏惣領の家督を代行していたこともあるので、家氏流の家貞 と 頼氏流の貞氏 で嫡流・庶流の区別を明示することが貞時の中で重要な案件だったのだろう。兼氏 (義顕) 流の渋川貞頼(義顕の孫)も貞時の偏諱を受けたとみられるが、こちらは分家したものとして特にその必要性はないと判断し、逆に渋川氏の嫡流とみなす形で「貞●」の形で名乗らせたと推測される。同じ足利一門では、吉良貞義・貞氏、畠山貞国、上野貞遠(頼氏の弟・義弁の子)も貞時の偏諱授与者とみられるが、概ねそれぞれ各家の嫡流継承者と認められての名乗りとみられる。
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田中大喜氏は、足利氏が「源氏将軍」としての公認を受けていたと説かれるにあたり、貞氏の長男・高義の命名に清和源氏の通字「義」が使われていることをその証左としている*41。恐らく足利氏としても、歴代の当主が必ずしも「氏」字を使用したわけではなかったので、むしろ義氏以前の慣例(源頼義―義家―義国―足利義康―義兼―義氏)の復活となる「義」字の使用は歓迎すべきことだったと考えられる。
貞氏の次男・高氏(尊氏)の命名には、先立って亡くなった高義と同名を避けるため、それまで続いた「氏」が選択されたのだろう*42し、三男・高国がのちに「直義」と改名したほか、尊氏の嫡男・義詮の家系(室町幕府将軍家)が「義」を通字とするようになった。決して、清和源氏の通字は「義」だけではなく、源氏の将軍家復活を示すのであれば、むしろ頼信―頼義に因んで頼朝―頼家と続いた「頼」、或いは義朝―頼朝―実朝と続いた「朝」を使っても良さそうだが、それでも足利氏にゆかりのある「義」字の使用にこだわったのだろうと思われる。
一方で、この段階までに事実上足利氏の家督(義氏―泰氏―頼氏―家時―貞氏―高氏)が代々使用する形となった「氏」の字は、義詮の弟(基氏)の命名に使用され、その系統(鎌倉公方家)の通字となったのである。
まとめ
●現代の我々が、北条氏得宗家と足利氏嫡流の系図を【図A】のようにして並べると、足利氏の歴代当主が「得宗からの偏諱+通字の氏」の名乗りを原則としていたように見え、先行研究でもそれが慣例(伝統)であったと解釈されてきた。
●しかし、実際には両家は烏帽子親子関係を結び合う対等な関係にあり、泰氏の子は得宗を烏帽子親としておらず、北条時頼が利氏(頼氏)に偏諱を与えて改名させ、続く時宗も家時(および宗家)の加冠・偏諱の授与に応じたことで、足利氏が得宗から一字を拝領する慣習が成立したのである。
●時宗の子・貞時もこの慣例を遵守し、その偏諱の位置によって、比較的得宗家に近い貞氏を足利氏の嫡流、霜月騒動に連座した宗家の子・家貞を庶流として差別化するだけでなく、貞氏を「源氏嫡流」として公認することで源氏将軍を擁立する動きを抑えた。そのため、貞氏の長男は清和源氏の通字「義」の使用を許されて「高義」と命名されたが、ここからも「氏」の使用にこだわっていなかったことが窺える。
●足利高義は父に先立って早世し、高義の子の成長を待たずして貞氏も亡くなったので、高氏(尊氏)が家督を継ぐこととなり、結果として「氏」の付く者(義氏―泰氏―頼氏―家時―貞氏―高氏)が歴代当主となる形となった。従って「得宗からの偏諱+通字の氏」の名乗りを特に伝統(原則)としていたわけでなかったことが分かる*43。
特に、家時についてはこの原則(名前の構成)の例外として「足利氏の政治的地位をいっそう低下させ、また北条氏との関係も円滑さを欠くようになった」と評価する見解もあった*44が、家時(の元服)に至るまでは、泰氏―頼氏のたかが2代続いたのみ*45で、しかも頼氏は改名によって得宗の偏諱を受けたのであり、貞氏―高氏がまだ生まれていないこの段階で「得宗の偏諱+氏」の名乗りを "伝統" として解釈すべきではない。むしろ頼氏が最初から得宗の偏諱を受けていない理由と、逆に家時が最初から北条氏の通字でもある「時」の使用を許された理由を考えることが重要なのではなかろうか。
本項では、足利氏嫡流の歴代当主1人1人を順に追っていき、その一字拝領を丹念に考察することによって、他の家柄とは異なった、得宗家と足利氏の継続的な烏帽子親子関係の成立過程を明らかにした。
他の家柄に着目してみても、武田氏は時政の代から、安達氏は義時の代から、佐々木氏六角流・義清流、二階堂、大江長井、千葉、河越、小田、安達、三浦、宇都宮各氏などは泰時の代から、葛西氏、少弐氏などは経時の代から、小山氏、佐々木氏京極流、大友氏などは時頼の代から、結城氏などは時宗の代から、といった具合に偏諱を賜るようになったタイミングは異なっており、得宗が次第に一字付与の対象者を増やしていることが窺えるが、同様に1つ1つの家柄について調べることでその実態を明らかに出来るかもしれず、今後もそうした作業が求められるだろう。
脚注
*1:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)。
*2:前掲紺戸論文、P.15。具体的には、二階堂氏、大江長井氏、佐々木氏の近江(六角)流・京極流・義清流、千葉氏、河越氏、北条氏大仏流、小山氏、小田氏、足利氏の11家。
*3:前掲紺戸論文、P.11~14 第二節「足利氏の嫡流における元服の年次と嫡子の条件」。
*4:前掲紺戸論文、P.12に掲載の図に修正を加えて作成。年(西暦)は、北条氏は各々得宗の座にあった期間(経時は省略)、足利氏は推定される元服の年次を示す。
*5:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.42。
*6:前掲今野論文、P.39では、実名の「家」字が八幡太郎義家に由来するとみられる人物として、その子孫にあたる鎌倉幕府第2代将軍・源頼家を挙げられている。
*7:理由は不明だが、後に義顕に改名している(『尊卑分脈』)。渋川氏の祖。
*8:「利」の由来は不明であるが、元服当時この字をもった御家人は確認できない。そもそも「氏」の字は泰氏の父・義氏の代から用いられており、その父・義兼が文字を選択したものと推測される。従って、利氏の名も泰氏が任意で名付けたものと考えられる。
*9:前掲紺戸論文、P.13。
*10:細川重男氏は、著書『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力―』(〈日本史史料研究会研究叢書1〉日本史史料研究会、2007年)P.70(第三章「相模式部大夫殿―文永九年二月騒動と北条時宗政権―」)にて、建長8(1256)年8月11日、当時9歳で元服した北条時輔は、烏帽子親・足利利氏の偏諱を受けて初め「時利」と名乗ったが後に改名し、利氏も北条時頼の偏諱を受けて「頼氏」に改名した、ということについて、「二人の改名を重視する見解もあるが、改名したところで、烏帽子親子関係が解消するわけではない」と述べられている。
*11:『吾妻鏡』建長8(1256)年7月17日条によれば、同日将軍・宗尊親王が山ノ内の最明寺を参詣したが、時頼が出家の準備を内々に進めていたのでこの日の参詣になったといい、最明寺は時頼が出家に備えてこれより少し前の時期に建てたものであった(高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.152)。
*12:前掲高橋氏著書 P.154。典拠は村井章介「執権政治の変質」。
*14:川添昭二『北条時宗』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2001年)P.12。
*15:臼井信義「尊氏の父祖―頼氏・家時年代考―」、前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」。各々、田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)P.67・P.189。
*16:吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」(所収:前掲田中氏著書)P.166-167。
*17:前掲前田論文(田中氏著書 P.211)によると、『前田本源氏系図』には「尾張守家氏子云々」と注記されるが、系図類ではどれも頼氏の子として掲載されるので、形式上の親子関係と判断するのが妥当と思われる。『諸家系図纂』所収の上杉氏系図で重房の女子(頼重の妹)の注記を確認してみても、「深谷上杉系図」には「足利治部大輔頼氏室 伊豫守家時母…」、「関東管領上椙両家及庶流伝」にも「足利治部大輔頼氏室 伊豫守家時母堂」と書かれており、重房娘が家氏に嫁いだ証左は全く確認できない。
*18:小谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」(所収:前掲田中氏著書)P.131。
*19:前掲田中氏著書、P.22。
*20:『吾妻鏡』宝治元(1247)年3月2日条には、泰氏の妻であった時頼の妹の逝去の記事があり、家時生誕時には既に亡くなっている(前掲吉井論文 前掲田中氏著書P.163)。『尊卑分脈』には時頼の妹に「源頼氏母」を載せており、泰氏に嫁いで頼氏を生んだことが明らかである。
*21:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』60号・61号、2002年)上・下を参照のこと。
*22:永井晋『金沢北条氏の研究』(八木書店、2006年)P.32。
*23:或いは、家時が生まれた当時まだ時頼が実質的な権力者として存命であったことを考えると、頼氏の子に偏諱を与えることも時頼が生前に示した方針であった可能性も考えられる。
*24:前掲小谷論文(所収:前掲田中氏著書)P.126。
*25:【図A】では建治2(1276)年8月2日付「関東下知状案」(『紀伊金剛三昧院文書』、『鎌倉遺文』第16巻・12437号)で「足利式部大夫家時」として確実に実名が現れるまでの元服としたが、実際は家氏の主導により早くに元服が行われたものと考えたい。
*26:前掲紺戸論文、P.14でも「家時は元服当時嫡子の地位になかった」と推測されている。先行研究では、頼氏が北条時盛の娘を正室に迎えており、その間に嫡子が生まれることを見込んで庶子扱いであったという解釈であるが、家時が生まれてから頼氏が亡くなる2年の間に元服したとは考え難く、頼氏の死後の段階ではその嫡子に定められても良いはずだが、偏諱の位置以外にも、足利氏嫡流の継承者が称する「三郎」ではなく「太郎」を称していることから、この推測は正しい可能性が高い。すると、事実上頼氏と同じ「足利尾張三郎」を称した宗家が嫡子扱いであった可能性があり、これが正しければ、家氏が家督を代行し、家時を事実上養子として育てていたことの裏付けとなる。
*27:前掲川添氏著書 P.70。
*28:家氏の没年について、前掲吉井論文では、家時による書状が現れることを理由に1266~69年頃と推定されている(前掲田中氏著書、P.167)。
*29:但し、宗家の母は北条時頼の弟・為時(初め時定)の娘であり(『尊卑分脈』)、宗家も時宗の従甥(時宗と宗家母が従兄弟関係)にあたる、得宗家の血を引く人物であり、故に家氏の子を足利氏の嫡子として扱わざるを得なかったのかもしれない。
*30:前掲川添氏著書 P.107。
*31:前掲田中氏著書P.402、前掲前田論文(前掲田中氏著書P.189)。この記事に信憑性があることは、新行紀一「足利氏の三河額田郡支配―鎌倉時代を中心に―」(同書P.286)で述べられており、家時の正確な生没年の根拠となっている。「伊与」は「伊予」の別表記である。
*32:前掲前田論文(前掲田中氏著書P.203)。
*33:源姓で「宗家」を名乗る人物は、『尊卑分脉索引』〈国史大系本〉P.220で確認できる限り、源宗家(三条天皇の曾孫・従四位下、三巻P.558・559)と足利宗家(三巻P.258、四巻P.144)の2名のみであり、年代と官位が一致するのは後者である。
*34:『尊卑分脉』以下の足利系図による。『尊卑分脉』四巻P.144の略系図では「右近衛将監」とするが誤りか。
*35:注25参照。
*36:前掲田中氏著書P.24。
*37:熊谷隆之「斯波宗家の去就―越中国岡成名を緒に、霜月騒動におよぶ―」(所収:『富山史壇』181号、越中史壇会、2016年)。→ こちらでご覧いただけます。
*38:『尊卑分脈』には「本名宗氏」とあるが、父・宗家と息子の高経が各々時宗、高時の偏諱を受けており、宗家―宗氏と2代続けて時宗の偏諱を受けたとは考え難く、また同名の弟がいること(又三郎宗氏の実在は古文書で確認できる)から、初めから北条貞時の加冠により家貞を名乗っていたものと思われる。仮に初め時宗の偏諱を受けて宗氏を名乗っていたとしても、得宗からの偏諱が下(二文字目)に変化したことになり、尚更その意味を考えざるを得ない。
*39:同じような事例は千葉氏に見られる。頼胤の子はともに時宗の偏諱を受け、長男の宗胤が嫡子、次男の胤宗が庶子として扱われていたようであるが、貞時の代に入って宗胤の子は胤貞、胤宗の子は貞胤と名乗っており、のちに胤宗の系統に嫡流の地位が移ったことが窺える。
*40:貞氏は文永10(1273)年の生まれとされ、貞時が得宗・執権となった弘安7(1284)年の段階では12歳と元服適齢期である。一方、小川信 氏の説によれば、家貞の父・宗家は1262年の段階で成人の域に達していたとされ、ここで言う「成人」が具体的にいくつぐらいの年齢かは不明だが、恐らく元服適齢期の十数歳と考えて良いだろう。これに従えば、現実的に考えて家貞は1270年頃、もしくはそれ以後の生まれであったと推定できるので、騒動当時は20歳を超えることはなかったと判断でき、貞時治世下での元服の可能性がかなり高いと言えよう。判明している息子・高経の生年(1305年)当時に30代前半となり特に問題はない。
*41:前掲田中氏著書P.25。
*42:清水克行「足利尊氏の家族」(所収: 櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』、新人物往来社、2008年)P.125-142によれば、『続群書類従』第五輯上所収「足利系図」や『系図纂要』には高義の息子として安芸守某と田摩御坊源淋の記載があり、高義の死後に元服した高氏の仮名が宗家嫡男に付けられる「三郎」ではなく「又太郎」であったことから、高義の遺児の成長もにらんで高氏の家督相続が直ちに確定したわけではないようである。この指摘に従えば、「氏」字の使用が必ずしも嫡男としての名乗りを意味するものではなかったと解釈できよう。
*43:前掲田中氏著書 P.19によると、新田氏嫡流は政氏以降、基氏、朝氏と代々足利氏嫡流より「氏」字を拝領してきたようだが、これもたまたま足利氏の当主が家時以外であったからで、朝氏の子・義貞の「義」が足利高義の偏諱とする同氏の見解には賛同である。
*44:注18に同じ。
*45:泰氏の父・義氏の「義」については、年代的には北条義時から偏諱を受けたという見方が出来るかもしれないが、元々源氏から続くそれまでの通字とみるのが妥当と思われるので、この字は義時とは特に関係は無いと判断したい。