Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

北条時宗

北条 時宗(ほうじょう ときむね、1251年~1284年)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権、北条氏得宗家当主。

 

元服に際し、加冠役(烏帽子親)の第6代将軍・親王から「」の偏諱を賜り、北条時と名乗った。典拠は次の史料である。  

【史料】『吾妻鏡』康元2(1257)年2月26日条 より

康元二年二月大廿六日壬午。天晴風靜。今日午二點。相州禪室若公 御名正壽。七歳 於御所被加首服。奥州并御家人 各布衣下括 着西侍。於二棟御所有其儀。副東障子設御座 大文高麗縁。若公着童裝束 狩衣。袴繍。被着武州座下。時尅。將軍家出御。土御門中納言 顯方卿。直衣。出二棟南面妻戸。蹲居廊根妻戸間。向若公告召之由。若公被參御前。武州被奉扶持之。次賜御裝束御烏帽子。退下。於中御所西對渡廊。立屏風。被着所賜之御衣 浮線綾狩御衣。紫浮織物御奴袴。蘇芳二袙。紅單衣 則又被參簾中。武州扶持如先。其後置雜具。先秋田城介泰盛持參烏帽子 置柳筥 進御前簀子。擡御簾進入之。次壹岐前司泰綱取打乱筥。大宰權少貳景頼役泔坏 置柳筥 。已上作法如先。次奥州起侍座。經廊西縁。被候切妻戸庇。武州者爲理髪役被候簾中。其外人々廊西南座 北上。東切折束〔東〕。次武州參進理髪。次新冠候御座前給。御加冠。次新冠三拝。次本役人等參進撤雜具。武州出於簾中。加于庭上。次黄門出自二棟南面。上同西面御簾三ケ間。次進物。御釼武藏前司朝直。御調度尾張前司時章。御鎧刑部少輔教時。左近大夫將監公時。御野矢下野前司泰綱。御行騰和泉前司行方。
 一御馬 置鞍銀  陸奥六郎義政  原田藤内左衛門尉宗經
 二御馬 白伏輪鞍 陸奥三郎時村  工藤左衛門尉高光
 三御馬 同    相摸三郎時利  南條新左衛門尉頼員
新冠給御釼 自取之給。退出。武州更堂上扶持之。便被着侍座。次人々歸着同座。有三獻儀。次新冠御前杓 其座。武州已下如初。次預書下御名字 時宗。黄門給之。被授武州

 

 

二階堂時藤

二階堂 時藤(にかいどう ときふじ、1267年頃?~1352年?)は、鎌倉時代後期の武将、御家人法名道存(どうぞん)。

父は二階堂行藤。子に二階堂有藤(ありふじ、甥で養子、弟・貞藤の子)、女子、二階堂成藤(なりふじ、養嗣子、一族・荻薗盛行の子)二階堂行敦(ゆきあつ、妻は成藤の姉または妹)がいる。*1

 

 

生年と烏帽子親について 

寛元4(1246)年生まれとされる父・行藤*2との現実的な年齢差を考えれば、およそ1266年以後の生まれと判断できる。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

そして、こちら▲の記事にて、同じく行藤の子である貞藤の生年を1273年と結論づけたので、『尊卑分脈』の記載通りであれば、貞藤の兄である時藤はこれより前には生まれていることになる。

以上より、藤の生年は1266~1273年の間と推定できる。同記事でも述べた通り、「時」の字は当時の執権(8代)であった北条宗の加冠により元服し、その偏諱を受けたものとみられ、更に『尊卑分脈』には「備中守」「正安三八ゝ出家道存」と注記される*3ことから、正安3(1301)年までの国守任官ということを考えると、同年の段階で30代の年齢に入っていたことが推測できるので、1260年代後半には生まれていたのではないかと思う。それ以上は推定し得る史料が今のところ無いので、暫定で、上記記事で否定した貞藤の生年に関する有力な1267年説を、そのまま時藤に当てはめてみることにしよう。

 

ちなみに、『実躬卿記』永仁2(1294)年4月17日条には、この日の京都賀茂祭に後深草法皇(この記事上では「上皇」と記述が臨幸した際にお供した「官人」の中に「関東上洛之仁両人 丹後次郎判官行貞・出羽次郎判官時藤已上五位尉」が含まれており、出羽守・二階堂行藤の「次郎(本来は次男の意)」 である時藤に比定される。恐らくこれが史料上での初見であろう。「位尉」とも記されている通り、叙爵済みで、かつ左衛門在任であったため、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である「判官 (はんがん/ほうがん)*4を名乗っていたことが分かる。

従って左衛門尉任官年齢を考えると、この頃およそ20代以上であったと考えて良いと思われるので、遅くとも1270年頃の生まれとみなすことが可能である。よって、時藤の生年は1267~1270年あたりと推定される

 

 

時藤の生涯 と 子孫の活動 について

松平伯爵本『結城文書』所収の書状によると、興国元(1340)年7月17日、陸奥国の「岩瀬郡内西方道存跡」が「結城大蔵大輔殿」(=結城親朝に預けられ*5、有造館本『結城古文書写』所収の翌々日(19日)の書状にはその「岩瀬郡道存跡西方廿一ヶ郷」の管理が白河親朝に任せられたことが見える*6

江戸時代に中山信名がまとめた『関城書考』の記述によれば、この「道存(どうぞん)」は「二階堂備中守時藤法名」であるといい、「官軍ヲ勤メ正平中ニ至テ八幡ノ合戦ニ戦没」したことが「保土原系図」に見えるという*7。前述した系図での二階堂時藤の注記「備中守」「正安三八ゝ出家道存」に一致し、正中7(1352)年の八幡の戦い(正平の役)*8のことを言っているのであろう。

 

今一度整理すると、まず正安3(1301)年8月に出家したという。前述の通り『尊卑分脈』に記されるところであるが、父・行藤法名:道我 / 道暁 / 道円)も同月に出家したと書かれており、恐らく同月22日の9代執権・北条貞時の出家に追随したものであろう*9

それ故にか、その後の北条高時政権においては弟の貞藤(出羽入道道蘊)の活動が目立ち、時藤は事実上表舞台から引退していたとも言えよう*10。 

 

鎌倉幕府滅亡後、行藤流の中心(惣領)的な役割を担っていた貞藤は、建武政権下で雑訴決断所寄人を務めていたが、西園寺公宗による北条氏再興の陰謀に加担したとされて、建武元年12月(1335年1月)、長男の兼藤とともに六条河原にて処刑されてしまった。これに伴い、時藤(道存)が復帰することになり、やがて新たに成立した室町幕府に出仕したという*11

 

▲下記参考記事より拝借。(二階堂)安芸守成藤が、一族の道信・道照が(南朝によって没収されたとみられる)所領を未だに引き渡さないことを嘆き、白川殿(=白河結城親朝か)が道理の通りに沙汰してくれたことに対して感謝している(年不詳*12 )7月21日付の書状(『結城家文書』)

 

その後は一貫して、相続人の成藤と共に幕府・北朝方として活動したという。前述の領地没収は南朝方によって行われたものであるが、北朝方の吉良貞家岩瀬郡稲村城に入った観応2(1351)年の段階では領地を回復していた可能性が高い。翌1352年の八幡の戦いでも、北朝側に属しての討ち死にであったと考えて良いだろう。前述の「保土原系図」のほか、「二階堂浜尾系図」でも観応年間(1350~1352年、北朝方の元号表記)に討ち死にしたことが記載されているらしい。80代半ば近くの老齢に鞭打っての参戦であった。

 

1400年代に入ると、三河守定種の子とみられる「二階堂参河次郎」や、「三河守満種」といった保土原二階堂氏と思しき人物が確認される。また、応永11(1404)年7月、安積・田村・岩瀬郡を中心とする豪族20名が一揆契約を結び、笹川・稲村両公方に忠誠を誓った傘連判状には、二階堂信濃守行朝入道行珍の子孫とみられる「須賀川刑部少輔行嗣」に並んで「稲村藤原満」の名前が見られるという。「藤」や「種」の字を持つことから、彼らは成藤の子・行種(ゆきたね、『尊卑分脈』)の子孫ではないかと思われる。このように時藤の家系は稲村城主を務める家柄として存続したのである。この系統はやがて永享の乱結城合戦により没落したと考えられている。

 

(参考記事)

www13.plala.or.jp

 

 

脚注

*1:以上『尊卑分脈』〈国史大系本〉による。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*2:二階堂行藤(にかいどうゆきふじ)とは - コトバンク を参照。

*3:注1前掲系図を参照のこと。

*4:判官 - Wikipedia より。

*5:『大日本史料』6-6 P.237

*6:『大日本史料』6-6 P.250

*7:『大日本史料』6-5 P.731

*8:この詳細については 八幡の戦い - Wikipedia を参照のこと。

*9:同じく『尊卑分脈』を見ると、弟・宗藤が応長元(1311)年10月、弟・雅藤や甥・兼藤が正中3(1326)年2月(3月の誤記か?)に出家したと書かれており、各々貞時の逝去、高時の出家に追随した可能性が高い。

*10:二階堂貞藤 - Wikipedia より。典拠は 市古貞次『国書人名辞典 3』(岩波書店、1996年)P.548「二階堂時藤」の項。

*11:二階堂貞藤 - Wikipedia より。典拠は 木下聡 『室町幕府の外様衆と奉行衆』(同成社、2018年)P.240~242「二階堂氏」の節。

*12:時藤(道存)の旧領であった岩瀬郡西方二十一ヶ村が藤原英房や北畠顕信の料所と処分され、その管理が白河親朝に任せられた1340年(本文参照)から、康永2(1343)年8月に親朝が北朝方に転じるまでの間に出されたものと推測されている。二階堂成藤は建武新政府では雑訴決断所の所衆、その後室町幕府鎌倉府の政所執事に補任されている。

二階堂貞藤

二階堂 貞藤(にかいどう さだふじ、1273年~1335年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。官途は左衛門尉(出羽判官)、出羽守。法名道蘊(どううん)。

 

主な活動経歴や生涯については

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その170-二階堂貞藤 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ、以下「職員表」と略す)

二階堂貞藤 - Wikipedia

をご参照いただきたい。

 

本項では生年に関する再考察について述べたいと思う。

というのも、上記「職員表」で紹介されている通り、建武元(1334)年刑死時の没年齢(享年)について、次の2説*1が伝わっているからである*2

 

①『近江番場宿蓮華寺過去帳』:62

②『六波羅南北過去帳』:68

 

kotobank.jp

「職員表」に加え、こちら▲を見る限り、②享年68歳(=1267年生まれ)説が有力となっているようだが、これは誤りで、むしろもう一方の ①享年62歳(=1273年生まれ)説を採用すべきであるというのが結論である。

 

 

その理由として実名に着目しておきたい。

二階堂氏(にかいどううじ)とは - コトバンク より拝借)*3

 

すなわち、「貞藤」という名前を見ると、「藤」は父・二階堂行藤(ゆきふじ)から継いだものであるから、「貞」が烏帽子親からの偏諱と考えられる。兄の二階堂時藤(ときふじ)と共に、二階堂氏に多い「行●」型の名乗りでないのはそのためであろう。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

時藤の「時」は執権家・北条氏の通字であり、貞藤の「貞」も第9代執権・北条貞時を連想させるものである。実際、前述のいずれの没年齢を採っても、貞藤若年期当時の得宗・執権は貞時(在職:1284~1301年)と分かるから、元服時にこの貞時から「貞」の偏諱を許されていたことは間違いなかろう。従って、北条時 と 二階堂藤 は烏帽子親子関係にあったと判断される

そのためには、元服当時の執権が貞時である必要がある。紺戸淳の論考・手法*4に従って元服の年次を算出(推定)すると、

●②の場合:1276~1281年

●①の場合:1282~1287年

となる。特に初名があって改名した形跡も確認できないことからも、先代・北条時宗執権期にあたる②は採用し難い(②で貞時執権期の元服とすると、18歳以上で行ったことになってしまい、元服のタイミングとしては遅く感じられる)。よって①説が有力たることの証明になると思う。

 

まとめると、貞藤は文永10(1273)年に生まれ、12歳となった弘安7(1284)年、時宗の死に伴い貞時が跡を継ぐと、元服適齢期であった藤は間もなく時の加冠により元服したと推測できる*5。兄・藤は、北条宗の1文字目を拝領したものと考えられよう。 

*『尊卑分脈*6には、貞藤のすぐ下の弟に二階堂宗藤(むねふじ)の掲載がある。「三郎」貞藤に対して通称が「四郎」であり、以下の弟も、五郎雅藤(政藤)、七郎藤村の順で載せることから、輩行名・系図の兄弟順の通り貞藤より年少とみて良いだろう。「宗」は北条時宗をも連想させる字であるが、時宗から一字を拝領した者からの偏諱とも考えられなくない(貞藤より後の元服であれば尚更、故人である時宗からの偏諱の下げ渡しに問題はないと思われる)ので、一見貞藤と逆転しているかのような現象に問題はないだろう。

 

貞藤が北条貞時執権期間内に元服していたことを示す史料を紹介しよう。

永仁2(1294)年11月17日付で「和田三郎左衛門尉殿(=和田茂連)跡」に宛てた「鎌倉幕府政所執事奉書写」(『出羽中条文書』)の発給者を、『鎌倉遺文』では二階堂氏とは見なすものの「貞德(花押影)」と読んでいる*7が、中条家文書目録データベース | 山形大学附属図書館で該当書状の写真を見てみると、前嶋敏の論文*8でもそう読んでいる通り「貞藤 在判」と読める(後筆であろうか、朱字で「二階堂出羽守」と注記されており、後に出羽守となる本項の二階堂貞藤のことで間違いない)。「藤」の所で若干虫食いの類で欠けていたためにこのような齟齬が生じたのであろうが、いずれにせよ「」の字は綺麗な状態で確実に読めるのであり、時の偏諱が許されていたことが断定できる。

 

また、『実躬卿記』嘉元2(1304)年4月15日条には京都賀茂祭検非違使として参加したメンバーの中に「忠貞 関東、号摂津判官 貞藤 同、号出羽判官 祐行 同、号宇佐美判官*9」の名が見られ、「判官 (はんがん/ほうがん)」は律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である*10から、この当時も左衛門尉在任で検非違使であったことも分かる。尚、二階堂忠貞の「摂津判官」はその父・盛忠が摂津守であったことによるもので、貞藤も父・行藤の官途出羽守に因んで「出羽判官」と呼ばれていたことが窺えよう(後述の通り貞藤自身ものちに同じく出羽守に任官した)

 

以上の考察に従い、細川氏の「職員表」(主に年齢に関する部分)を以下のように訂正する。

 

>>>>>>>>>>>>>>>

 

№170 二階堂<出羽>貞藤(父:二階堂行藤、母:未詳)
  従五位下(分脈)
  越訴頭人(『二階堂系図』<続類従・系図部>)
01:文永10(1273).    生(1)
02:年月日未詳      左衛門尉・検非違使
03:年月日未詳      出羽守
04:延慶1(1308).⑧.  東使(36
05:元応2(1320).02.  出家(法名道蘊)(48
06:元徳2(1330).01.24 五番引付頭人58
07:元弘1(1331).01.23 辞五番引付頭人59
08:元弘1(1331).09.  東使
09:元弘2(1332).01.24 政所執事60
10:元弘3(1333).05.22 辞政所執事(為鎌倉滅亡)(61
11:建武1(1334).08.  八番制雑訴決断所四番衆(62
12:建武1.12.28 (1335.1.23)没


 [典拠]
父:分脈。
01:『近江番場宿蓮華寺過去帳』の没年齢より逆算。
02:分脈。『二階堂系図』(続類従・系図部)。但し、『実躬卿記』嘉元2(1304)年4月15日条に「貞藤 出羽判官」とあることから、この以前の左衛門尉・検非違使任官であったことが分かる

03:分脈。『二階堂系図』・『工藤二階堂系図』(続類従・系図部)。
04:『興福寺略年代記』延慶元年条、『皇年代記』延慶元年条、9月2日入洛とす。『歴代皇紀』徳治3年条、後8月29日入洛とす。興福寺年代記』および『歴代皇紀』に「(二階堂)出羽前司貞藤」とあるので、この時までに出羽守を辞していたことが分かる。
05:分脈。『二階堂系図』・『工藤二階堂系図』(続類従・系図部)。左記史料は法名を「道薀」とするが、『花園天皇宸記』元弘元年10月1日条別記・20日条・21日条、鎌記裏書・元徳3年条、太平記などに拠り、「道蘊」とす。
06:鎌記・元徳2年条。
07:鎌記・元弘元年条。
08:『光明寺残篇』元弘元年9月18日条。『花園天皇宸記』元弘元年10月1日条別記・20日条・21日条。鎌記裏書・元徳3年条。武記裏書・元弘元年条。*11 
09:鎌記・正慶元年条。「天徳四正廿四補之」とあるが、元徳四=元弘2=正慶元年の誤。武記・正慶元年条に、2月23日政所評定始とある。
10:鎌倉滅亡により、政所自体が消滅。
11:『雑訴決断所結番交名』(続類従・雑部)。
12:『金網集第六巻裏書』。『近江番場宿蓮華寺過去帳』(類従・雑部)・『六波羅南北過去帳』(東大謄写)、30日とするも、文書史料である『金網集』裏文書に従う。没年齢、『近江番場宿蓮華寺過去帳』62歳、『六波羅南北過去帳』68歳とす。両書は同一史料の写しであり、いずれかの誤写であるが、俗名「貞藤」の「貞」は元服当時の得宗であった北条貞時からの偏諱と考えられ、各々の没年齢から算出される生年および元服の推定時期と照合して矛盾のない『近江番場宿蓮華寺過去帳』に従うべきである。常楽記・建武元年条、11月21日とす。

 

>>>>>>>>>>>>>>>

脚注

*1:いずれの説を採っても60代ということになるが、同じく建武元年の正月には孫の長藤(『尊卑分脈』)尾張守(国守)に任官の上で関東廂番に加えられていることが確認できる(→ 北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia 冒頭〔史料A〕参照)ので、その祖父にあたる年齢としては十分に妥当である。

*2:細川氏(「職員表」)によると、上記2点の史料は同一史料の写しであり、いずれかが誤写であるという。命日については、これら2点は12月30日で一致するが、『金網集第六巻裏書』では12月28日、『常楽記』では11月21日である、ということを紹介しながら、文書史料であることを理由に『金網集』裏文書での記載を採用されている。故にか、二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)とは - コトバンク での各辞典等でも建武元年12月28日死去説に従っている。西暦・新暦に直すと厳密には1335年1月23日となるが、年の変わり目はあくまで当時の旧暦に従うため、この場合の建武元年も計算(逆算により生年を算出)する上では1334年の扱いとなる。

*3:より詳しく載せる『尊卑分脈』所収の系図は 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション を参照。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.11。10~15歳での元服とした場合。

*5:参考までに、同様の事例としては、足利貞氏が挙げられる(→ 足利尊氏 - Henkipedia 参照)。史料数点により貞氏は1331年に59歳で死去と伝えられ(→ 足利貞氏 - Wikipedia 参照)、逆算すると1273年生まれ、貞藤と同い年となる。これについては数年遅らせる見解もあるが、1284年当時12歳というのは十分元服の適齢期であり(息子の足利高氏でさえ15歳であったと伝えられる)、7月以降執権に就任したばかりの貞時が烏帽子親を務めることは別におかしくも無いように思う。

*6:注3前掲外部リンク参照。

*7:『鎌倉遺文』第24巻18698号。鎌倉遺文フルテキストデータベース - 検索でも同様である。

*8:前嶋敏「米沢藩中条氏における系譜認識と文書管理」(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第182集、2014 年)P.125【表2】「目録」番号24 より。同箇所では文書の別名として「貞藤御判物」とも呼称している。

*9:宇佐美祐行宇佐美貞祐の父。

*10:判官 - Wikipedia より。

*11:詳しくは 安達高景 - Henkipedia を参照のこと。

安達義景

安達 義景(あだち よしかげ、1210年~1253年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人

 

詳しい生涯・活動内容については

安達義景 - Wikipedia

を参照のこと。本項では名乗りに関する内容を扱う。

 

 

義景の元服と名乗り

義景」の名乗りは、「景」が父・安達景盛から継いだものであるから、上(1文字目)に頂いていることからしても「義」の字が烏帽子親からの偏諱と考えられる。 

【史料A】『吾妻鏡』より

建長五年六月小三日庚戌。晴。巳尅。秋田城介従五位上藤原朝臣義景法師 法名願智 年四十四

次の史料により義景が建長5(1253)年に44歳(数え年)で亡くなったことが分かる*1ので、逆算すると承元4(1210)年生まれである。当時の執権は第2代・北条義時であり、義時が元仁元(1224)年6月13日に亡くなった*2時、義景は15歳と元服の適齢期であった。すなわち、この期間内に元服した可能性は高く、名乗りからしても義時から「義」の一字*3を拝領したと考えて良いだろう*4。北条時と安達景は烏帽子親子関係にあったと思われる。

 

 

義景の烏帽子子

義景はその後、執権が泰時~時頼の代に活躍した。この期間の御家人には何名か義景の偏諱を受けたと思われる人物が見られる。

 

まずは、先行研究で既にご指摘のある、宇都宮景綱である*5。これについては次の記事で扱った。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

すなわち、系図上では景綱の弟に位置づけられている宇都宮が、実は宇都宮泰綱の当初の嫡男で、「経」の字も4代執権・北条時から受けたものであるとし、綱はそれに対する庶子(準嫡子)として北条氏と縁戚関係にあった安達氏の当主・義を烏帽子親にした、ということを述べさせていただいた。景綱は義景の娘を妻に迎えている(『尊卑分脈』)

 

 

他には、同じ安達氏一門、大曾禰長泰(おおそね ながやす)庶子である 大曾禰義泰(よしやす)大曾禰景実(かげざね) が候補に挙げられる。

次の【系図B】に示す通り、大曾禰氏(大曾根とも書く)は景盛の弟・時長の系統が称したが、「時長長泰長経宗長(『尊卑分脈』)と、安達盛長より続く「長」を代々の通字としていた。もう片方の字は北条氏得宗家からの偏諱であろう。

f:id:historyjapan_henki961:20190404004555p:plain

▲【系図B】安達氏略系図*6

 

従って、安達宗家で景盛が最初に用いた「*7と、義景が北条義時から受けた「」は、大曾禰氏には本来関係のない字だったのである。特に義泰 は「泰」が父・長泰からの継字であるから「義」が烏帽子親からの偏諱の可能性が高い。従って、義泰・景実の兄弟は宗家の安達氏と烏帽子親子関係を結んでいた、というのが結論である。

この2人は、長兄である大曾禰長経が1232年生まれ*8なので、これ以後に生まれたと考えるべきであろう。前述したように義景が亡くなったのは1253年で、1240年頃の生まれだとしても元服当時の安達氏当主であったと推測できる。

長泰の嫡男であった長は、北条時が4代執権に在職の間(1242~1246年)に元服し「経」の偏諱を受けたと判断できる*9ので、それに対する庶子であった*10*11もこの少し後に安達氏宗家当主の義景*12を烏帽子親として元服したと考えられる。

 

脚注

*1:尊卑分脈』にも「建長五六三卒四十四」の注記がある。本項における『尊卑分脈』については吉川弘文館より刊行の国史大系本に拠っているが、同内容を載せる 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*2:吾妻鏡』同日条より。

*3:この字(=義時に「義」字を与えた人物)について、細川重男は三浦氏(三浦義明 または 三浦義澄)からの偏諱ではないかと説かれている(細川氏著書『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17 より)。

*4:福島金治 『安達泰盛鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.40。鈴木宏美 「安達一族」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、八木書店、2008年)P.330。

*5:江田郁夫 「総論 下野宇都宮氏」(所収:江田編『下野宇都宮氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻〉(戎光祥出版、2011年))P.9。

*6:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。詳しい系図は注1リンクを参照。

*7:安達景盛については『尊卑分脈』に「或盛景」とも記されるが、『吾妻鏡』等で見られる名は前者である。「盛」が父・盛長からの継字であるから、「景」が烏帽子親からの偏諱であり、これを上(1文字目)に置いたと考えられる。景盛の生誕年・元服・烏帽子親について確かめられる史料は見つかっていないが、「景」を通字とする鎌倉氏一族(大庭・梶原・長尾等の各氏)からの一字拝領ではないかと思われる。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№94-大曾禰長経 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*9:吾妻鏡』での初見は、建長3(1251)年正月11日条「大曾禰左衛門太郎長継〔ママ〕」、同4(1252)年4月14日条「大曾禰左衛門太郎長経」。

*10:吾妻鏡』では16回登場。初見は正嘉元(1257)年正月1日条「大曾禰上総三郎義泰」、同年10月1日条からは「(上総)三郎左衛門尉義泰」の名で書かれているので、その間の左衛門尉任官が確認できる。晩年期の活動については、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№97-大曾禰義泰 | 日本中世史を楽しむ♪ を参照。

*11:吾妻鏡』では、弘長元(1261)年正月1日条、同月7日条、8月15日条に「上総四郎」として登場。同年3月20日条にある「上総前司長泰」の「四郎(四男)」に比定されるから、『尊卑分脈』において「上総介 長泰」の息子で「四郎左衛門」と注記される景実と判断できる(→ 注1リンク参照)。

*12:吾妻鏡』を見ると、安達景盛は宝治2(1248)年まで存命で事実上の惣領の立場にあったが、秋田城介となった翌年の建保7(1219)年正月、近臣として仕えていた3代将軍・源実朝の死を悼んで出家しており、嘉禄3(1227)年11月29日には義景が秋田城介となっているから、同年より義景が当主の座にあったと考えて良いだろう。

武田信政

武田 信政(たけだ のぶまさ、1196年~1265年)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人甲斐武田氏第3代当主。

 

信政の元服について、『諸家系図纂』での注記には次のように書かれている*1。 

……元久元年十一十五首服、加冠平時政、理髪三浦介、号小五郎、年十、信光三男也、請加冠諱字、既為嘉例也……

加冠役(=烏帽子親)を務めた「平時政」は、元久元(1204)年当時、初代の執権の座にあった北条時政で間違いないだろう*2。その名前からして、時が武田信に「政」の偏諱を下賜したことが窺える*3

 

吾妻鏡』では次の3箇所に登場するとされる*4

 建久6(1195)年8月16日条「武田小五郎」

 承久元(1219)年7月19日条「武田小五郎」

 同3(1221)年6月5日条「武田五郎 同小五郎」

 

については、承久元年正月27日条、同3年6月24日条などに「武田五郎信光」とあることから、この時期の「武田五郎」=信光と分かる*5で明らかな通り、五郎信光と区別されて「小五郎」と呼ばれる人物は信政に比定される(『尊卑分脈』)。 

父の信光は応保2(1162)年生まれと伝わる*6。一方で信政の母は、新田義重(1135~1202)*7の養女となった、源義平(1141~1160)*8の娘であったと伝わる*9。同様に親子の年齢差を考慮すれば、義平が刑死した時、その女子は生まれたばかりの幼児であっただろうから、これを義重が引き取って養育したと考えられよう。すなわち、夫となる信光とはほぼ同世代人だったことになる。 

従って、現実的な親子の年齢差を考えれば、1182年頃より後の生まれであることは間違いない。但し『尊卑分脈』以下の系図類で見られるだけでも、信政には太郎朝信*10悪三郎信忠(のち高信)といった兄がおり「五郎」という輩行名の通り5男であった可能性が高い*11ので、もう少し下らせて早くとも1180年代後半、或いはこれ以後の生まれと判断できる。

 

するとの段階では若くとも10歳前後の年齢となるので、この時までに信政が元服していたとは考えにくく、の「武田小五郎」が信政ではないことは確かであろう。よって、冒頭に掲げた生年 および 元服の時期は信用して良いと判断される。その場合、の段階で信政は生まれてすらいなかったことになるが、『尊卑分脈』以下の系図類で「武田小五郎」と書かれるのは信政のみである。恐らく①は「武田五郎」の誤記なのではないか。①の部分は父・信光のことではないかと思われる。

 

脚注

*1:『大日本史料』5-27 P.257『史料稿本』亀山天皇紀・文永2年正月~2月 P.16。また、高野賢彦『安芸・若狭武田一族』(新人物往来社、2006年)P.28 でも言及されている通り、「甲斐信濃源氏綱要」でも同内容の記載がある(→ 系図綜覧. 第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照)。

*2:北条氏は桓武平氏平維時の末裔を称する家柄である(『尊卑分脈』)。

*3:注1の『甲斐信濃源氏綱要』より父・信光に至るまでの元服に関する記述を抜き出すと次の通りである。

源義光新羅三郎、刑部少輔)

源義清:寛治元年十一月十五日首服(歳十三)、加冠伯父義家、号刑部三郎

源清光:大治元年正月十一日元服(歳十五)、加冠足利加賀介義国、号武田源太

武田信義:保延六年正月十六日、元服於洛陽(歳十三)、加冠六条判官為義、号名信義、字武田太郎

武田信光:承安三正十一首服(年十二)、加冠遠光、号石和五郎

信義までは親戚間で烏帽子親子関係が結ばれたようで、ほぼ源氏嫡流筋の人物が加冠役(=烏帽子親)を務めている。当該期は偏諱を授けるという慣習はまだ定着していなかった段階らしく、「義国清光」はまさにその例外に当てはまっているが、信義の場合、「義」の字は祖父・義清までの通字(頼義義光―義清)を用いたという見方もできる一方、父・清光が「義」字を用いておらず、信義自身が烏帽子親・源為義と同じ「○義」型の名乗り方をしていることからすると、「義」は為義からの偏諱と考えることもできるだろう。

少なくとも「信」の字が烏帽子親・源為義偏諱でないことは明らかだが、この字は祖先・源頼信(頼義の父)に由来するものであろう。同系譜に従えば、以降、この「信」を通字として、信光は叔父・加賀美遠光を、信政から信宗にかけては鎌倉幕府執権・北条氏を烏帽子親としてその偏諱を受けた形跡がみられる。

*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(第5刷、吉川弘文館、1992年)P.260「信政 武田」の項より。

*5:吾妻鏡人名索引』P.258「信光 伊沢(武田)」の項 より。

*6:武田信光(たけだ のぶみつ)とは - コトバンク より。『諸家系図纂』・『甲斐信濃源氏綱要』の両系図には応保2年3月5日に甲州石和で生まれたとあり(→『大日本史料』5-27 P.268)、承安3(1173)年正月11日の元服当時12歳(→『大日本史料』5-27 P.268~269)および 宝治2(1248)年当時の享年数え87(→『大日本史料』5-27 P.251)から逆算しても矛盾はない。信光の没年については『一蓮寺過去帳』にも記載があって裏付けられる(→ 同前P.251)。

*7:新田義重(にったよししげ)とは - コトバンク より。

*8:源義平(みなもとのよしひら)とは - コトバンク より。

*9:『大日本史料』5-27 P.257

*10:信光の長男・朝信(黒坂朝信)の「朝」字については、注1前掲高野氏著書 P.28において、源頼朝からの偏諱と推定されている。

*11:冒頭に掲げた『諸家系図纂』で「信光三男」とするのは無事成長できた男子の中で朝信・信忠に次ぐ3番目であったことによるものであろう。信政の次男・4男はともに夭折していたのかもしれない。

曾我時致

曾我 時致(そが ときむね、1174年~1193年)は、鎌倉時代初期の武将。

 

月岡芳年 画「芳年武者旡類 五所五郎丸 曽我五郎時宗〔ママ〕」(国立国会図書館所蔵)

http://www.photo-make.jp/hm_2_1/minamoto_soga.html より拝借)

 

通称は「曾我五郎」。兄・曾我祐成(曾我十郎)と共に父親河津祐泰の仇である工藤祐経を討った "曾我兄弟の仇討ち" 事件で知られる。この時致の元服については次の史料が残されている。  

史料:『吾妻鏡』より

建久元年九月大七日戊午。甚雨。入夜故祐親法師孫子祐成 号曾我十郎 相具弟童形 号筥王 参北條殿。於御前令遂元服。号曾我五郎時致

建久元(1190)年9月7日、曾我十郎祐成(故・伊東祐親法師の孫)が弟・筥王を連れて北条殿(=北条時政)の所に参り、筥王は政の御前で元服を遂げて、曾我五郎と名乗った。その名前からして「」の偏諱が与えられたことが分かる。

「時致」については異説として「時宗」と伝える史料がある*1ぐらいなので、「ときむね」と読んで良いだろう。

 

▲2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』22話より。左から 曾我五郎時致、曾我十郎祐成、五郎の烏帽子親・北条時政

 

(参考記事) 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

脚注

*1:冒頭に掲げた挿絵のほか、『尊卑分脈』〈国史大系本〉の系図上では「時宗」、「南家 伊東氏藤原姓大系図」の時致の項にも「五郎幼名筥王 イ宗」の注記があるなど、こちらの表記も多数見られる。

大友親時

大友 親時(おおとも ちかとき、1248年?~1295年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人大友頼泰の嫡男。官途は因幡守。

 

 

親時に関する史料(書状類)の紹介 

因幡守在任から辞任まで 

 【史料1】弘安11(1288)年3月20日付「豊後守護大友親時書下」(『志賀文書』)*1の発給者「因幡」 の花押

f:id:historyjapan_henki961:20190408023120p:plain

花押の一致により、この署判(署名+花押)が大友親時のものであることは後述するが、その初出の史料である。すなわち弘安11年までに親時は因幡守に任ぜられ、大友氏家督としての役割を担っていたことが窺える。

 

 

 【史料2】(年不詳)8月3日付「大友親時書状」(『大悲王院文書』)の「(前)因幡守親時の花押

f:id:historyjapan_henki961:20190408023728p:plain

 

この文書には「親時」という実名が記されており、図のように反転させると【史料1】の花押に一致することが分かる。花押は恐らく書状の裏面から据えたのであろう。 

従って、以上2つの史料が「因幡守親時」による発給書状であることが分かる。該当し得る人物は、系図で「因幡守」と注記される大友親時である。

 

 【史料3】正応4(1291)年3月18日付「鎮西奉行召文」(『比志島文書』)*2の「因幡の花押

f:id:historyjapan_henki961:20190408024614p:plain

花押は【史料1】【史料2】と一致し、これも大友親時による発給書状である。親時が「因幡」名でこの花押を据えた書状は7通ほど残っているが、この【史料3】はその中で最も時期の遡るもの=すなわち因幡守」の初出である。従って、親時は正応4年までに因幡守を辞したことが推測できる。
 

 

親時の生没年と世代推定について 

 【史料4】永仁2(1294)年2月21日付「豊後守護大友親時施行状」(『永弘文書』)*3の「因幡の花押

f:id:historyjapan_henki961:20190408030959p:plain

紙の状態が悪いのか、文字が見づらくなっているが、花押もこれまでの史料に一致しており、この段階までの親時の生存は確認できる。続いて次の史料をご覧いただきたい。 

 

 【史料5】「大友家過去帳(『志賀文書』)*4:永仁3(1295)年9月23日死去

 前因州太守道徳大禅定門 永仁三年九月廿三日逝

 従五位上因幡守兼行*5左近将監親時

 (大友)親時であることもわざわざ記載しているが、前因州(=前因幡守)の最終官途はこれまでの史料に一致する

数年後の正安年間からは、次代(嫡男)の大友貞親家督としての活動期に入っており、この頃に当主の交代があったことは認められよう。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

そして、筆者は別稿で大友貞宗を貞親の実弟とし、1290年頃の生まれと推定したが、親時晩年期の息子ということになり、一応矛盾は生じない。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

尚、系図類では享年を60歳とするが、逆算すると1236年生まれとなる*6。 しかしこれが正しいとは思えない。

一つ目には、親との年齢差の問題である。父の頼泰は1222年生まれとされている*7が、すると頼泰15歳の時の子となってしまい、全くあり得ないとは言わないまでも、あまり現実的でないように思う。しかも親時より前に長男の泰能が生まれたとなると尚更である。

二つ目に、国守任官時の年齢の問題である。前述した通り、任官の時期は1287年頃と推定されるが、前述の生年を採用した場合だと52歳となる。しかし、他家と比較してみても30~40代での任官が一般的であり、父・頼泰でさえも46歳であった文永4(1267)年には「前出羽守」であった*8から、任官の年齢としては遅すぎるように感じられる。

 

以上2つの考察により、系図類に記載の没年齢は誤伝であり、因幡守となった1287年頃は30代半ば前後であったのではないかと思う。仮に35歳とすると1253年生まれ、40歳としても1248年生まれとなり、父・頼泰との年齢差を考えればこちらが妥当であろう。

奇しくも1248年は次代・大友貞親の生年とされる年である*9が、これが誤りであることは別稿にて指摘した。恐らく各当主の生年を混同した可能性も考えられるのではないか。

従ってこの1248年を貞親ではなく、親時の生年としておきたい。頼泰27歳の時の子となり、仮に多少の誤差があったとしても1240年代後半の生まれではないかと思う。貞親については別稿で1273年頃の生まれと推定したが、親時26歳の時の子となって問題ない。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

 

親時の烏帽子親

「親時」の名は、「親」が祖父(頼泰の父)親秀の1字であることから、「時」が烏帽子親からの偏諱と推測される。この「時」の字は、執権を務めていた北条氏の通字であり、同氏から一字拝領を受けたのではないかと思われる。次の図で示す通り、大友氏一門では父の頼泰も含め、北条氏得宗から一字を受けたと記す系図が確認できる。

 

f:id:historyjapan_henki961:20190406191359p:plain

▲【図6】『続群書類従系図部における大友氏一族の得宗からの一字拝領に関する注記*10 

 

前節での推定生年に従うと、北条時頼が出家して執権職を辞した1256(建長8/康元元)年では9歳、時頼が亡くなった1263年の段階では16歳となり、この間に元服を済ませていたと推定できる。10代で元服の場合だと時頼が烏帽子親であったとは直ちに断定できないが、北条時頼得宗期での元服であったことは確実である。

但し、1256~1263年の間は時頼が嫡男の時宗を指名する形で烏帽子親子関係を結ばせていた可能性があり*11、親の烏帽子親は幼少の宗だったのかもしれない*12 。 

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第22巻16551号。

*2:『鎌倉遺文』第23巻17575号。

*3:『鎌倉遺文』第24巻18487号。

*4:『編年史料』伏見天皇紀・永仁三年九~十一月 P.15 より。

*5:「行(こう)」とは、位階が官職の本来の官位よりも高い場合に付すもの。この場合、因幡守が従五位下相当であるため、"行"を付記しているのであろう。詳しくは、行 - ウィクショナリー日本語版#接頭辞 も参照のこと。

*6:大友親時(おおとも ちかとき)とは - コトバンク

*7:大友頼泰 - Henkipedia 参照。

*8:同年のものとされる正月17日付「大友頼泰書状」(『壬生家文書』、『鎌倉遺文』第13巻9639号)に「前出羽守頼泰」、3月24日付とされる「某書状」(『書陵部所蔵八幡宮関係文書』29、『鎌倉遺文』第13巻9678号)に「豊後国守護大友出羽殿」とある。

*9:大友貞親(おおとも さだちか)とは - コトバンク大友貞親 - Henkipedia も参照のこと。

*10:貫達人円覚寺領について」(所収:『東洋大学紀要』第11集、1957年)P.21 に掲載の図を基に作成。

*11:吾妻鏡』正嘉元(1257)年11月23日条によると、金沢顕時(初名:時方)元服北条時頼の邸宅で行われたが、その烏帽子親を務めたのはその息子・時宗であったという。これについては、亭主である時頼が嫡男を加冠役に指名したのではないかという解釈がある(山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年)P.167~168)。また、村井章介の論考(「執権政治の変質」)によれば、時頼は病気となる以前から執権引退・出家を計画していたといい、その理由は幼少の嫡子・時宗をいち早く後継者に指名し、時宗への権力移譲を平穏に実現することにあったのだという(高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.154)。この2つの見解を合わせれば、この期間の時頼入道道崇は、ゆくゆくは得宗・執権を継ぐ嫡男の時宗を指名する形で烏帽子親子関係を結ばせていたのではないかと推測される。時頼の出家から僅か3ヶ月後、顕時の元服より約9ヶ月前の2月26日に、僅か7歳であったにもかかわらず時宗元服式が行われた(『吾妻鏡』正嘉元年2月26日条)のもそのためではないかと思われる。この頃、京極宗綱・二階堂行宗など、時宗得宗となる前に「宗」字を拝領した御家人が現れるが、顕時に同じく時頼の邸宅で時宗の加冠を受けた人物とも考えられよう。

*12:この場合「時」の偏諱を下(2文字目)に置いていることになるが、同様の例とされている人物としては足利家が挙げられる(→ 北条得宗家と足利氏の烏帽子親子関係成立について - Henkipedia 参照)。また、時頼のケースでも頼の邸宅で元服したと伝わる平賀惟が同様の例に該当する(『平賀家文書』所収「平賀氏系譜」(『大日本古文書』家わけ第十四 平賀家文書 二四八号 P.727)および 前注山野氏論文 P.181)。時自身も九条頼経からの1字を下にしており、鎌倉時代ではこのようなことは珍しくもなかった。但し、時頼の場合は兄の時に対しての庶子(準嫡子)の扱いであったが故の名乗り方で、安達氏や千葉氏にも同様の例が確認できるので、親時の場合も兄・泰能がいたのでそうされた可能性も考えられるが、泰能自身は北条氏の偏諱を受けていないようなので、この点については後考を俟ちたい。