Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

常葉重高

北条 重高(ほうじょう しげたか、1312年頃?~1333年5月22日?)は、鎌倉時代後期~末期の武将、御家人。北条氏一門、常葉流北条範貞の子で、常葉重高とも。通称(輩行名)三郎(越後三郎 → 駿河三郎?)

 

 

「正宗寺本 北条系図」での記載について

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こちら▲の記事でも紹介している通り、『正宗寺本北条系図*1では常葉範貞の子を「高重」と載せ、その通称として「長崎治郎〔ママ、音の共通より次郎の誤記か*2」「左近大夫将監」と注記されている。その他の記載は次の通りである。 

【史料A】

六波羅於番■自害

東鑑ニハ 鎌倉葛西谷東勝寺ニテ 相模入道自害之時 同自害ス 宗トノ一族四十三人門葉人貳百八十人同腹切

※■=「𠫓 十 に辶」(「𨓋」や「𨓫」に類似する漢字)。

鎌倉幕府滅亡時(1333年)に「自害」したという点では共通しているが、そのタイミングとして2通りの説を載せてしまっており、『東鑑』(=『吾妻鏡』)を参考にした旨の記載も見られることから、この注記は後世(恐らくは編纂時の江戸時代)に既存の史料に頼って書かれたものと考えられる。

 

最初の記載は、六波羅探題北方・北条仲時(普音寺仲時)らと近江国番場宿で運命を共にしたことを言っているのであろう。しかし、『太平記*3や『近江国番場宿蓮華寺過去帳』での死亡者のリストでは確認できない。或いは「左近大夫将監」の注記から、この時「越後左近大夫将監」を称していた六波羅探題南方・北条時益と混同したのかもしれない。

 

もう1つの説として、東勝寺合戦で「相模入道」=北条高時法名崇鑑)らに殉じたことを記載する。『東鑑』〔ママ〕に拠ったとするが、『太平記』の誤記である。『太平記』で該当箇所を確認すると、長崎高重摂津道準(親鑒)諏訪直性(宗経)高時長崎円喜(盛宗/高綱)と孫の新右衛門(高直?)城入道(=安達時顕 入道延明)の順に腹を切っていった後、次の者たちがその後を追っている。

【史料B】『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」より一部抜粋

(前略)……是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、…(略)…常葉駿河守範貞…(略)…、名越一族三十四人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人、総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。…(略)…嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

【史料A】と比較すると、「四十三(43)人」と「四十六(46)人」、「門葉人貳百八十(280)人」 と「門葉たる人二百八十三(283)人」*4の間で若干の誤差があるが、【史料A】は一応【史料B】の記述に拠ったものと判断して良いだろう。

しかしながら、名前の類似から長崎高重と同人としてしまったために「長崎治郎」「高重」と記すことになり、「塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人」の中に含めてしまったのであろう。『系図纂要』所収「長崎氏系図」など他の史料で、範貞の息子が得宗被官・長崎氏に養子入りしたという事実は確認できない。

 

但し、常葉重高が「塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人」の中に含まれていたこと自体は否定できず、父・範貞と運命を共にした可能性は十分に考えられる。

 

 

重高の年代(世代)と烏帽子親の推定 

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こちら▲の記事において、父・範貞の生年についての考察を行い、1280年頃の生まれと推定した。自害した時(前掲【史料B】)の享年は50代半ば程度だったことになる。

すると、現実的な親子の年齢差を考えて、重高は早くとも1300年初頭の生まれということになる。但し『尊卑分脈』での記載が「越後三郎」であることからすると、生涯無官であった可能性が高く、恐らく叙爵の年齢に達しないまま幕府の滅亡を迎えたと思われる。

上記記事において、祖父・時範の叙爵年齢が27歳で、父・範貞のそれも同じくらいであったと推定したので、幕府滅亡当時、重高は達していても20代前半の年齢であったのではないか。よって、逆算して1310年頃の生まれではないかと思われる。

 

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▲『尊卑分脈』(国史大系本) より*5

 

その根拠として『尊卑分脈』での記載「越後三郎」に再度注目してみたい。

父が越後守で、その「三郎(三男)」を表す通称名であり、この通称を名乗るには範貞が越後守に在任中である必要がある

範貞が越後守に任官したのは、正中2(1325)年10月26日。元徳元(1329)年12月13日に駿河守に転任し、これが最終官途となった(【史料B】)*6。すなわち、重高はこの間に元服の年齢を迎えたということになる

 

当該期間の得宗北条であり、正中3(1326=嘉暦元)年3月までは執権(第14代)の座にあった。重の「」はその偏諱を許されたものと考えられ、時と重は烏帽子親子関係にあったと判断できる。「重」は高祖父・北条重時の名から取ったものであり、重時系北条氏内の中では庶流であったためか、父に同じく得宗からの偏諱を下(2文字目)に置いている。

 

 

参考外部リンク 

 常葉流北条氏 #北条重高

 

脚注

*1:正宗寺北条系図』。

*2:『諸家系図纂』所収「北条系図」での範貞の子・重高の注記に「次郎」とある。

*3:太平記』巻9「越後守仲時已下自害事」。

*4:門葉は「一門の分かれ」「一つの血筋につながる者」の意(→ 門葉(モンヨウ)とは - コトバンク 参照)。ここでは北条氏一門を指す。

*5:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』(吉川弘文館)P.19。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)より。

常葉範貞

北条 範貞(ほうじょう のりさだ、1280年頃?~1333年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。北条氏一門・常葉流北条時範の子で、常葉範貞(ときわ ー)とも呼称される。

 

詳しい活動内容・経歴については

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)

を参照のこと。 

以下、本稿では "不詳" とされる生年についての推定・考察を述べたいと思う。

 

 

常葉流歴代当主の世代

生年を推定するにあたって、一つ鍵になるのは父親との年齢差である。

しかしながら、ややこしいことに、父・時範の生年については複数の説がある*1

 

徳治2(1307)年8月

  11日、65歳で没:『武家年代記』嘉元元年条。

 → 1243年生まれ(Ⅰ)

  14日没(於・京都)

 享年49:『尊卑分脈』、『鎌倉年代記』嘉元元年条。

  → 1259年生まれ(Ⅱ)*2

 享年44:『関東開闢皇代并年代記事』

  → 1264年生まれ(Ⅲ)*3

延慶元(1308)年4月18日38歳没:

『鎌倉大日記』延慶元年条、『佐野本北条系図』(異説として14日とも)。

→ 1271年生まれ(Ⅳ)

 

※本稿作成にあたり、『鎌倉年代記』・『武家年代記』・『鎌倉大日記』の3点史料は、『増補 続史料大成 第51巻』(竹内理三氏編・臨川書店を参照した。

※年齢は全て数え年。以下本文においても同様とする。 

 

ここで更に祖父(時範の父)・時茂の生年を確認すると、仁治2(1241)年とするのが有力である*4。従って、現実的な親子の年齢差を考えれば、まずⅠではあり得ない

Ⅱだと(時茂が)19歳、Ⅲだと24歳、Ⅳだと31歳の時に生まれた子ということになるが、時茂が30歳で既に亡くなっているⅣのケースではあり得ない。よって、ⅡかⅢということになる。

 

そして、その息子・範貞

Ⅱの場合 → 1279年頃より後

Ⅲの場合 → 1284年頃より後

の生まれと推定できる。

 

 

常葉流歴代当主の叙爵年齢

生年を考える上でもう一つポイントになるのは、叙爵時の年齢である。

常葉流北条氏歴代当主の叙爵時期(年月日)は『鎌倉年代記』によって確認ができ、次の通りである。 

 

時茂:正嘉元(1257)年2月22日、左近将監・叙爵(17*5

時範:弘安8(1285)年3月11日、左馬助・叙爵(27*6

範貞:嘉元2(1304)年10月2日、左近将監・叙爵*7

 

前節でⅣ説を採れば、時範は15歳、範貞が1291年頃より後に生まれ、14歳以下で叙爵したことになり、この観点から言っても不審である。

よって、範貞の叙爵も父とさほど変わらないタイミングで行われたと思われる。仮に、当時の年齢を同じく27歳とすると、1278年生まれとなる。若干低年齢化していた可能性はあるので、前節Ⅱ説が妥当ではないかと思う。1280年頃の生まれとしておこう。

 

 

北条貞時との烏帽子親子関係

前節での生年を裏付けるものとして、「範貞」という実名に着目したい。 

1284年からは北条得宗および執権職(第9代)を継いでおり、元服は通常10数歳で行われたので、前述のⅡ・Ⅲいずれの説を採っても貞時執権期の元服であること確実である。 

そして「」の名は、父・時範からの継字「範」*8に対し、時の偏諱「貞」を許されたものと判断される。言うまでもなく烏帽子親子関係であろう。範は1290年代前半に時の加冠により元服したと考えられる。 

 

尚、「」の偏諱を下(2文字目)に置くのは、北条氏一門の例だと名越公名越朝塩田重、他の御家人だと足利家斯波宗氏*9千葉胤など庶子や庶流の人物に多く見られる。複数の系統に分かれた重時系(極楽寺流)北条氏の中で、常葉流が、得宗に次ぐ家格を持った嫡流赤橋流に対しての "庶流" に位置付けられていたからであると思われる。実際に、烏帽子親の面で将軍か得宗かという違いがあり、赤橋流に比べて出世も遅かった。範貞の息子・重高(『尊卑分脈』)も同様の名乗り方となっている。 

 

 

"歌人の家系" 常葉流北条氏

尊卑分脈』の範貞の傍注には「続千作者」と書かれており、実際「続千」=『続千載和歌集』には次の和歌が収められている。

月待ちて 猶越え行かむ 夕やみは 道たど(たどたど)し 小夜の中山 *10

 平 範貞 *11

 

同じく『尊卑分脈』では、祖父・時茂に「続古続拾新後作者」続古今和歌集続拾遺和歌集・新後撰和歌集、父・時範にも「新後撰作者」(新後撰和歌集と注記されており、常葉流北条氏は代々、和歌に親しんでいたことが窺える。

 

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▲『尊卑分脈』(国史大系本) より*12

 

 

小串氏について

範貞の家臣の代表格として小串(おぐし)という一族が知られる。

藤原姓河村氏の出だと伝えられ、畿内周辺を拠点に活動し、鎌倉時代末期には六波羅探題北方であった範貞の家臣として六波羅探題の検断頭人や、播磨守護代を務めている*13

具体的には、小串範行(三郎左衛門尉)*14小串範秀*15小串貞(さだひで、新右衛門尉)*16小串貞雄(さだお?/さだかつ?、四郎兵衛尉)*17の実在が確認できる。彼らの系譜は明らかとなっていないが、後者2名(秀・雄)の「貞」は範偏諱とみられる。六波羅探題北方在任期間(1321年~1330年)中に与えたとみられ、故人・貞時からの1字を下げ渡すことは特に問題は無かった。

行・秀の「範」も常葉流北条氏(貞 または その父・時*18)から受けたものであろう*19

 

脚注

*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その33-常葉時範 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*2:細川重男氏はこの説を採っておられる。

*3:北条時範 - Wikipedia ではこの説を採用。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その32-常葉時茂 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*5:鎌倉年代記』康元元(1256)年条。注4同職員表も参照のこと。

*6:鎌倉年代記』嘉元元(1303)年条。注1同職員表も参照のこと。

*7:鎌倉年代記』元亨元(1321)年条。本文冒頭前掲・同職員表も参照のこと。

*8:この字の由来は、阿多見聖範と思われる(ちなみに姓氏は居住地であった現在の熱海を苗字としたものである)。初代執権・北条時政以前の系譜については諸説伝わるが、『尊卑分脈』では直接の先祖としており(「平直方―聖範(阿多見四郎禅師)―時直―時家(聖範子云々、北条四郎大夫)―時方―時政」)、(系譜の真偽はさておき)実際も先祖と仰いでいた可能性が高い。時範以前の使用例としては、時政と後室・牧の方との間に生まれた北条政範が挙げられる。

*9:北条得宗家と足利氏の烏帽子親子関係成立について - Henkipedia 参照。

*10:国歌大観 : 五句索引. 歌集部 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*11:注8に示したが如く、北条氏は桓武平氏の傍流を称し、平姓を名乗っていた。

*12:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』(吉川弘文館)P.19。

*13:小串氏(おぐしうじ)とは - コトバンク 参照。

*14:詳細は 小串範行 - Wikipedia を参照。

*15:詳細は 小串範秀(おぐし のりひで)とは - コトバンク を参照。

*16:『大日本古文書 家わけ第十九 東大寺文書之二十』1310号1313号1391号1393号同書の紹介記事も参照)や『鎌倉遺文』第37巻29183号、第39巻30241号(その他、第38巻29893号、29934号、第41巻31804号、31836号は『東大寺文書』に同じ)に記載あり。

*17:『鎌倉遺文』第38巻29946号に「小串四郎兵衛尉」、29961号に「貞雄」とあり(いずれも『大和福智院家文書』所収の書状)。奈良県地域史料目録 - 83播磨福泊島修築料升米文書案 (嘉暦2年)8月7日 (差出人)武蔵守(赤橋守時) (宛所)謹上 越後守殿(常葉範貞) も参照のこと。

*18:1303年12月~1307年の死没まで六波羅探題北方として在京。注1同職員表より。

*19:河村氏は藤原秀郷の末裔とされ(→ 武家家伝_河村氏)、範秀・貞秀の「秀」、範行の「行」、貞雄の「雄」は先祖と仰ぐ人物(村雄―秀郷―□―□―文行----(以下略)…)に由来するものと見受けられる。

塩田重貞

北条 重貞(ほうじょう しげさだ、1282年頃?~1333年5月22日?)は、鎌倉時代後期~末期の武将、御家人北条重時の子・義政を祖とする塩田流北条時治(時春とも、義政の子)の子で、塩田重貞とも。『尊卑分脈』の北条氏系図上では「式部大夫」と注記される。 

 

実名を見ると、北条氏の通字「時」*1を用いておらず、「重」が曽祖父・重時から取ったものであろうから、「」が烏帽子親からの偏諱と考えられる。これは得宗(第9代執権)北条からの一字拝領であろう。

 

父・時治の生年は判明していない*2が、 祖父の義政が仁治3(1242)年生まれである*3ことから、現実的な親子の年齢差を考えれば、1262年頃よりは後と推定できる*4。これに従うと、は早くとも1282年頃の生まれで、1290年代当時執権であった(在職:1284~1301年)*5の加冠により元服したと考えて問題ないだろう。

尚、「」の偏諱を下(2文字目)に置くのは、北条氏一門の例だと名越公名越朝、他の御家人だと足利家斯波宗氏*6千葉胤など庶子や庶流の人物に多く見られる。恐らく時治の系統が塩田流北条氏の庶流となった*7 ことに起因するのではないかと思われる。

 

 

(外部リンク) 

南北朝列伝 #塩田時治

 塩田流北条氏 #北条重貞

 

 

脚注

*1:祖父の義政についても初め「時景」と名乗っていたと伝えられる(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その35-塩田義政 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)。改名後の「義政」は自身の曽祖父・時政と祖父・義時の各々1字により構成されたものであろう。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その39-塩田時春 | 日本中世史を楽しむ♪ より。時治については「時春」とも伝えられるが、『尊卑分脈』のほか、鎌倉時代に成立の『入来院本 平氏系図』では「時治」となっており(→ 山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.10)、こちらに信を置くべきではないかと思われる。

*3:注1前掲同箇所。

*4:注2の『入来院本 平氏系図』は1316~1318年の間に作成・成立したとされ(→ 山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(上)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4)、時治の項に「備中守」と記されるから、その当時、父・義政の駿河守任官年齢である29歳(注1同箇所より)は超えていたはずである。父の出家によりこの系統が没落していたことを考えると更に出世が遅れた可能性もあり、1260年代後半~1270年代には生まれていたのではないかと思う。この裏付けとして、父が弘安4(1281)年に亡くなったことが記され、弟の国時の項には「平左衛門入道(=平頼綱没倒之時、浴本領勲功賞」とあり、国時が正応6(1293)年の平禅門の乱当時、合戦に参加できる年齢に達していたことが推測できる。或いは、時治の「時」が得宗北条時宗からの一字拝領の可能性も考えられよう。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*6:北条得宗家と足利氏の烏帽子親子関係成立について - Henkipedia 参照。

*7:尊卑分脈』では、義政の子として時治・国時を載せ、国時の傍注に「家督」と記される。すなわち、義政より家督を継いだのは国時であった。注2の『入来院本 平氏系図』でも同じ兄弟順で掲載されているので、時治が庶兄、国時が嫡弟であったと考えて良いだろう。母親の出自の違いにより国時が嫡男に指名されたのではないかと思う(→ 南北朝列伝 #塩田時治)。

佐介貞俊

北条 貞俊(ほうじょう さだとし)は、鎌倉時代後期の武将、御家人歌人

尊卑分脈』等の系図類によると、佐介流北条時俊の子であり、佐介貞俊(さすけ ー)とも呼ばれる(『太平記』、後述参照)

 

 

北条貞時の烏帽子子

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▲【系図A】北条氏略系図

 

系図A】で明らかな通り、父・時俊に至るまで「時」を通字として代々用いてきたが、はその慣例に従っていない。「俊」が父からの継字であるから、上(1文字目)に戴いている「」字が烏帽子親からの偏諱と考えられるが、これは得宗・北条時から一字を拝領したものであろう。貞時は、北条時房とは僅か8歳違いの甥(兄・義時の子)北条泰時から5代目にあたり、【系図A】を見ると時房から同じく5代目にあたる貞尚貞資貞宗(のち維貞)、そして貞俊はその「貞」字を受けていることが分かる。貞時の烏帽子子であった彼らはほぼ同世代の人物であったと推測できよう。

 

*その裏付けとして、祖父・清時は北条時頼執政期に活動が見られ*1、その息子である父・時俊は北条時宗執権期の生誕・元服であったと考えられる*2

 

 

太平記』に描かれる貞俊の最期

軍記物語の『太平記』巻11「金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事」には貞俊の最期について描かれている。

佐介左京亮(さきょうのすけ)貞俊」は、表向きは元弘の変まで幕府に従っていたが、得宗北条高時から冷遇されている*3ことに憤怒の念を抱いていたようで、相手方の千種忠顕から後醍醐天皇の綸旨を渡される形で誘われたことで、1333年5月初め頃に降伏。当初は阿波国への流罪で済まされていたが、同月22日の北条氏一門滅亡(東勝寺合戦)に伴って一族の徹底的な殲滅が強められる方針となったことで斬首に処された、という内容である。

 

詳細については以下2つの記事をご参照いただければと思う。

santalab.exblog.jp

ja.wikipedia.org

 

尚、処刑に際し、貞俊は辞世の句として次の歌を詠んだという。 

 

皆人の 世に有時は 数ならで 憂にはもれぬ 我身也けり 

(皆人の 世にあり時者(は) か数ならで うき(には)もれぬ 我身也けり) 

 

▲『英雄百首』に収録の歌川貞秀による佐介左京亮貞俊の絵

 

この時立ち会っていた僧は、貞俊の依頼により、その太刀と最期に身に纏っていた小袖を形見としてその妻の元へと届けたが、貞俊女房(出自は不詳)は悲嘆のあまり話を最後まで聞くこと無く、傍にあった硯を引き寄せて、形見の小袖の褄に次の一首を書き付けてから、小袖を頭から被り、太刀を胸に突き立て跡を追ったと伝えている。

 

誰見よと 信を人の 留めけん 堪て有べき 命ならぬに

(解釈:誰に見せよと、形見を残されたのでしょう。この悲しみに堪えて生き永らえる命とも思えませんのに。*4 

 

(参考ページ)

 佐介貞俊妻(さすけ さだとしの つま)とは - コトバンク

 

 

歌人としての貞俊 

尊卑分脈』において「続千作者」の注記がある通り、歌人でもあった。

前述の辞世の句もその一つであるが、続千=『続千載和歌集』には次の和歌が収められている。

絶えなばと 誓ひし末の 命さへ(命さえ) わがいつはり(我が偽り)に 存へ(ながらえ)にけり *5

 平 貞俊 *6

 

年をのみ 思ひ津守の 沖つ浪 かけても世をば 恨みやはする *7

 平 貞俊

 

外部リンク 

 大仏流時直系清時派北条氏 #北条貞俊

南北朝列伝 ー 佐介貞俊

宮崎繁吉『豪傑の臨終』(大学館、1900年)「佐介貞俊」の項

 

脚注

*1:北条清時 (時房流) - Wikipedia 参照。典拠は『吾妻鏡』。

*2:佐藤進一・細川重男 両氏の研究によると、延慶3(1310)年7月付の一番引付番文(『斑目文書』)頭人北条煕時の次位,評定衆長井宗秀の上位に記載されている「安芸守」が時俊とされ(→ 細川氏のブログ記事 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その79-北条時俊 | 日本中世史を楽しむ♪ より)、国守任官年齢のことを考えれば、当時40歳近くには達していたのではないかと思われる。逆算すると1270年頃の生まれとなる。或いは「時」字が時宗からの一字拝領の可能性も考えられるだろう。

*3:『正宗寺本 北条系図』によれば、貞俊の息子は宣俊・時俊といい、高時の「高」字を受けていない。この点も、得宗家と疎遠な関係になっていたことを示すものかもしれない。宣俊の「宣」は時房系北条氏の嫡流・大仏流北条氏(第11代執権・大仏宗宣か)からの偏諱であろう。

*4:「太平記」金剛山寄手ら被誅事付佐介貞俊事(その8) : Santa Lab's Blog より。

*5:国歌大観 : 五句索引. 歌集部 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*6:北条氏は桓武平氏平維時の末裔を称する平姓の一族である(『尊卑分脈』など)。

*7:国歌大観 : 五句索引. 歌集部 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

佐介貞資

北条 貞資(ほうじょう さだすけ、1283年頃?~13??年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人歌人。北条氏一門・佐介流の一族で、佐介貞資(さすけ ー)とも呼ばれる。

 

 

系図類での記載について

尊卑分脈(以下『分脈』)『前田本平氏系図(以下『前田本』)『諸家系図纂』所収「北条系図(以下『系図纂』)続群書類従』所収「北条系図(以下『類従』)では、佐介流北条時国 (旧字:時國/1263-1284) の子、北条時元の弟として掲載される。

 

『前田本』では「式部大輔 従五位下*1、『系図纂』『類従』では「備前守 続千作者」と注記される*2。「続千作者」の記載は『分脈』にも見られ、実際『続千載和歌集』には次の和歌が収録されている。

片敷の 袖のみぬれて いたづらに 見し夜の夢は 又も結ばず*3

 平 貞資 *4

 

次節以降では、判明している父・時国の年代から、貞資の世代推定を試みたいと思う。

 

父・佐介時国の流刑とその息子たち

第8代執権・北条時宗が弘安7(1284)年4月に亡くなってから間もない6月、佐介時国が「悪行」を起こしたことを理由に六波羅探題南方を罷免の上で流罪となり、その数ヶ月後に亡くなるという事件が起きた。これについて各史料での記載に若干の違いはある*5ものの、配流先の常陸国で幕府からの討伐軍に追い詰められ自害したとみるのが正しいのではないかと思う。

同じ頃、8月に時国の伯父・佐介時光が謀反の罪を問われて佐渡国に配流された事件と共に、佐介流北条氏の没落を象徴する出来事であり、先行研究では、婚姻関係を通じた安達泰盛の与党として捉え、翌年の霜月騒動の前哨戦として、内管領平頼綱派による泰盛派への攻撃とする見解もある*6。 

 

六波羅守護次第』によると、事件当時の時国の享年は「廿二歳云々」(=22歳)であったといい*7、その息子たちはまだ幼少であったとみるべきであろう。配流先で子供をもうけたとは考えにくいので、1282~1283年頃には生まれていた(…【X】)のではないかと思われる。

 

北条貞時の烏帽子子

時宗が亡くなった後は、その嫡男・北条得宗および執権職(第9代)を継いでいた。実名の「」はその偏諱を許されたものと見受けられるが、前述【X】に基づけば1290年代の元服が確実となるので、貞時が烏帽子親を務めたと考えて良いだろう。

時国亡き後、その息子たちの面倒を見られるのはひとまずその母親であろうが、この一家は得宗家の庇護下に置かれたのであろう。

 

時国の事件が影響しているのか、頻繁に表立って活動した形跡は見られないが、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌法要について記された『北條貞時十三年忌供養記(『円覚寺文書』)*8において、「砂金五十両 銀剣一」を献上した人物として記載の「佐介備前〻司殿*9は、冒頭に掲げた『系図纂』・『類従』での注記から貞資に比定されており*10、貞時との関係性を窺わせる(各種系図類で見ても佐介流で「備前守」に任官した人物は他に見当たらない)。前述【X】に基づけば、1323年当時40歳くらいとなるので、備前守を辞した後の年齢としては妥当ではないかと思う。

尚、この法要では兄・佐介時元に比定される「佐介土佐前司殿*11も「砂金卅両 銀劔〔銀剣〕一」を献上しており、時元・貞資兄弟のこの頃までの生存は確認できる。

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.378。

*2:『諸家系図纂』所収「北条系図」続群書類従 6上(系図部) - Google ブックス より。

*3:国歌大観 : 五句索引. 歌集部 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*4:北条氏は桓武平氏平維時の末裔を称する平姓の一族である(『尊卑分脈』など)。

*5:北条時国 - Wikipedia 参照。

*6:前注に同じ。

*7:熊谷隆之「<研究ノート>六波羅探題任免小考 : 『六波羅守護次第』の紹介とあわせて」(所収:京都大学文学部内・史学研究会編『史林』第86巻第6号)P.102(866) 参照。

*8:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号。同書については以下、『神県史 資2』と略記する。

*9:『神県史 資2』P.708。「備前前司」は前備前守の意。

*10:注1前掲細川氏著書 P.50 注(26)。佐介流時盛系時員派北条氏 #北条貞資

*11:注1前掲細川氏著書 前注同箇所、および『神県史 資2』P.710。『分脈』『系図纂』『類従』等で時元の傍注に「土佐守」の記載がある。

佐介貞尚

北条 貞尚(ほうじょう さだなお?*1 / さだひさ?)は、鎌倉時代後期の武将、御家人

 

系図類では、佐介流北条盛房 (1242-1297) *2の子、北条宣房の弟として記載され、佐介貞尚(さすけ ー)とも呼ばれる。父に同じく丹波守・従五位下に昇ったという。

以上『尊卑分脈』に記載の情報以外に、他の史料では確認できず、活動の詳細は不明である。

 

親子の年齢差を考えれば、早くとも1262年頃の生まれ、1270年代後半での元服と推定できる。しかし、実名の「」は弘安7(1284)年4月より得宗および第9代執権となった北条偏諱を許されたものと見受けられるので、もう少し遅らせて、1270年前半以降の生まれ、貞時が執権となって間もない頃の元服とすべきだろう

尚、系図によっては盛房の子、宣房の弟を「貞高(佐介貞高)」と載せるものもある*3が、『正宗寺本 北条系図』上で「丹波守」と注記されることから、漢字の類似も考慮して 貞高=貞尚 と判断される。どちらが正しいかは判断材料が無いので分からないが、以下も引き続き「貞尚」で記述することにする。

 

ところで、同じく『尊卑分脈』の北条氏系図では、宣房(のぶふさ)を兄、貞尚を弟として載せている。しかし、宣房は父・盛房の1字は継承しているものの、得宗・貞時の偏諱は受けておらず、「宣」の字から、時房系北条氏の嫡流として隆盛した大仏流北条氏時 または 宗を烏帽子親としたことが推測される。『尊卑分脈』で見る限り、宣房の官職が「左将監(=左近将監)」止まりであることからしても、丹波守(国守)にまで昇った貞尚が上位(=すなわち嫡男)の地位にあったのではないかと思われ、烏帽子親の違いに繋がっているのだろう。兄弟順が逆の可能性も考えられるし、或いは母親の身分の違いによるものか、宣房は庶兄だったのかもしれない。

 

北条時盛を祖とする佐介流北条氏は、貞時が得宗・執権職を継いで間もない弘安7(1284)年6月に佐介時国が、8月にはその伯父・佐介時光が、それぞれ流罪となったことにより没落していた。幸い、時国の息子たちは幼少のため難を逃れたようだが、代わって惣領的な役割を担っていたのが父の佐介盛房であった。

時房の系統全体で見ると、その地位は嫡流の大仏流北条氏に圧倒されていたが、盛房は評定衆引付衆となって存在感を示し、盛房―貞尚の2代に亘って丹波守(国守)任官を果たしている。貞尚については史料上で表立った活動が確認できないので、北条氏一門の中では変わらず存在感が薄かったことが窺えるものの、佐介流の中では比較的厚遇されていたと言え、事実上佐介流の惣領的立場にあったのではないかと思う。貞時との烏帽子親子関係が効いているのかもしれない。

 

但し『尊卑分脈』には貞尚の子の掲載はなく、一方、宣房には時継(左近将監)・時有(弥三郎)という2人の息子を載せる。貞尚の跡は、宣房の系統が佐介流の惣領を継いだのだろう。佐介時継は、1333年5月の鎌倉幕府滅亡時まで運命を共にしたと伝わる*4

 

脚注

*1:佐介流時盛系政氏派北条氏 #北条貞尚 より。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.66「佐介盛房」の項より。

*3:『入来院本 平氏(北条氏)系図』(山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.21)、 『前田本 平氏系図』(前注細川氏著書 P.378)、『正宗寺本 北条系図』 。注1同箇所では別人で兄弟とする。

*4:佐介流時盛系政氏派北条氏 #北条時継 より。『正宗寺本 北条系図』に「元弘三五自害」とあるのが典拠か。

北条朝直

北条 朝直(ほうじょう ともなお、1206年~1264年)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人。北条氏一門で初代連署北条時房の嫡男(4男)。母は足立遠元の娘。大仏流北条氏の祖で大仏朝直(おさらぎ ー)とも。 

 

論稿としては異例だが、先に結論を述べる。

実名の「」は3代将軍・源実を烏帽子親として元服し、その偏諱を受けたものとみられる。既に従兄(伯父・北条義時の次男)が同じく実朝の加冠により元服して「朝時(=北条朝時名越朝時と名乗っていたので、同名を避けるため、もう片方の字には通字の「時」ではなく祖先に由来する「*1が用いられた。

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

先行研究によれば、生年は1206年である*2。父・時房と同じ15歳(数え年、以下同じ)元服であれば1220年に行ったことになるが、前述の朝時など、従兄弟たち(義時の息子)の例を見れば低年齢化の傾向にあり、前年(1219年)に実朝が亡くなるまでに元服を済ませた可能性が高いだろう。朝時は朝直が生まれた年の10月に元服済みであり、前述のように推測することは十分可能である。

吾妻鏡』での初見は、建暦2(1212)年3月6日条朝直」とされる。前述の生年に従えば当時7歳のこの時までに元服を済ませたことになり、いささか早過ぎる感じも否めないが、後述する北条政村の例もあるので特に疑問視する必要は無いかもしれない。 

 

ここで確認しておきたいのが、兄たちの生年および『吾妻鏡』での初見記事である。烏帽子親に関する考察(推論)とともに次に示す。  

長兄・時盛

1197年生まれ*3

元仁元(1224)年6月29日条「掃部助時盛 相州一男」 *4

の烏帽子親は不明であるが、父・時房(初め時)の烏帽子親を務めた佐原義の甥(兄・杉本義宗の子)和田義(~1213年没)がその候補になるのではないかと思う。また、義連の嫡男は佐原といい、「」字の共通から時盛と烏帽子親子関係にあった可能性がある(義盛→時盛、時盛→盛連)。別の候補として、姉または妹が嫁いだ安達義景の父・景盛が考えられるが、他に安達氏が北条氏一門の烏帽子親を務めた事例は確認できない。いずれにせよ、時盛の烏帽子親が他氏御家人であったことは間違いなく(少なくとも将軍や執権からの一字拝領ではない)、次に示す弟・時村の名乗りを見ても、三浦氏一門が烏帽子親であったと思われる。 

次兄・時村

生年1198年か(異説として1205年*5

建保6(1218)年5月5日条「次郎時村*6

建保元(1213)年12月28日、三浦義の加冠により北条政(当時7)が元服を遂げている(『吾妻鏡』)が、政村が父・義時の1字を継承しなかったのは、「義」の場合だと烏帽子親と同名になり、また「時村」を名乗る人物が既にいて同名を避けた結果ではないかと推測される。該当し得る人物は政村より年長の北条時村(佐介時)であり、烏帽子親は同じく義ではないかと思われる。父兄に同じく三浦氏一門を烏帽子親にした可能性は高いのではないか。 

三兄・資時

1199年生まれ*7

承久元(1219)年7月19日条「相模三郎」。また翌年正月の記事で「相州息…三郎資時」の記述あり(後述参照)*8

わざわざ上(1文字目)に置いていることからも「資」字を与えた人物が烏帽子親であった可能性が高く、やはり一般の御家人であろう(将軍・執権は該当しない)。但し、父や2人の兄に同じ三浦氏一門では該当者なし*9。名乗りの面で「時●」型の兄たちに対し「●時」型であるのは、朝直の同母兄であったことも関係するだろう。 

 

吾妻鏡』によると、承久2(1220)年正月14日、「相州息 次郎時村、三郎資時」が「俄(にわか)に以(もっ)て出家」したという*10。この理由・経緯については明らかにされておらず、当時の人々も不審に思ったらしい*11が、前年に源実朝が殺害されたことが契機になったとも、朝直との家督争いに敗れたともいわれている*12

しかし、前述の通り建暦2年の段階で朝直が元服を済ませた可能性が濃厚であるとすれば、同年の段階で既に嫡男に定められていた*13可能性が高く、そのことを示すために急ぎ元服が執り行われたのではないかと推測される。加冠役を将軍・実朝が務めることになったのも、父・時房の意向・依頼によるものなのであろう。後者の可能性は考えられると思う。

 

元服後の活動内容・生涯については

北条朝直 - Wikipedia

を参照いただければと思う。 

 

脚注

*1:尊卑分脈』などの系図類を見ると、平直方、平時直(阿多見時直)が祖先として載せられている。

*2:大仏朝直(おさらぎ ともなお)とは - コトバンク より。『尊卑分脈』・『関東評定衆伝』に文永元(1264)年5月に59歳で死去した旨の記載がある。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.70「大仏朝直」の項も参照。

*3:注2細川氏著書 巻末職員表 No.64「佐介時盛」の項より。

*4:吾妻鏡人名索引』P.198「時盛 北条」の項。

*5:北条時村 (時房流) - Wikipedia より。

*6:吾妻鏡人名索引』P.200「時村 北条」の項。

*7:注2細川氏著書 巻末職員表 No.69「北条資時」の項より(→ 同氏のブログ記事 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その69-北条資時 | 日本中世史を楽しむ♪ も参照のこと)。『吾妻鏡』建長3(1251)年5月5日条に記載の没年齢53歳からの逆算による。

*8:吾妻鏡人名索引』P.182「資時 北条」の項。

*9:三浦義村の子、泰村の弟に三浦資村がいるが、泰村が1204年生まれである(→ 三浦泰村 - Henkipedia 参照)から、資時の烏帽子親を務めることは不可能である。場合によっては資村の烏帽子親も資時と同じだった可能性もあり得るだろう。また、同時期では『吾妻鏡』承久4(1222)年正月7日条に兄弟とみられる横溝五郎資重同六郎義行(資重の初見は前3(1221)年5月22日条「横溝五郎」、『吾妻鏡人名索引』P.182)が確認できるが、この横溝資重と何か関係があるのかもしれない。

*10:『吾妻鏡』同日条より。

*11:倉井理恵「『法名』『出家』にみる中世武士の精神 ―鎌倉北条氏を事例として―」(所収:『駒沢史学』58号〈葉貫磨哉先生追悼号〉、駒沢大学歴史学研究室内 駒沢史学会、2002年)P.75。

*12:北条時村 (時房流) - Wikipedia および 北条資時 - Wikipedia を参照。

*13:注2細川氏著書 P.35。