Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大仏貞宣

北条 貞宣(ほうじょう さだのぶ、1285年頃?~1320年)は、鎌倉時代末期の武将・御家人

大仏流北条氏の一族で、大仏 貞宣(おさらぎ さだのぶ)とも呼ばれる。官途は兵庫助、丹波守。

 

 

はじめに ー 貞宣の経歴

新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その78-大仏貞宣 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)*1による活動経歴は次の通りである。

 

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№78 大仏貞宣(父:大仏宣時、母:未詳)
  生没年未詳
  丹波守(『前田本平氏系図』。『正宗寺北条系図』。『佐野本北条系図』)
  従五位下(『佐野本北条系図』)
01:正和2(1313).07.26 四番引付頭人
02:元応1(1319).⑦,13 三番引付頭人
03:元亨2(1322).07.12 辞三番引付頭人
  [典拠]
父:『前田本平氏系図』。『正宗寺北条系図』。『佐野本北条系図』。
01:鎌記・正和2年条。
02:鎌記・元応元年条。
03:鎌記・元亨元年条。

 

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元服時期の推定

三人の兄 宗宣・宗泰・貞房 

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細川氏も言及されているが、大仏宣時の4人の息子*2の名乗りに着目すると、宣・泰が8代執権・北条時房・宣が9代執権・北条時の偏諱を受けていることが分かる。特に深い意味もないと思うが、貞宣は長兄・宗宣に同じく父・宣時の「宣」を引き継いでいる。

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こちらの記事▲で紹介の通り、房は文永9(1272)年の生まれと判明しているが、「」の偏諱を受けるには、北条貞時家督・執権職を継いだ弘安7(1284)年4月以後の元服でなくてはおかしい。

従って貞宣も、文永9年より後の生まれで、同じく弘安7年4月以後の元服だったはずである。 

 

甥・維貞の名乗り 

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もう一つ、ポイントになるのが、長兄・宗宣の嫡男(のちの大仏維貞)が元服後に名乗った初名である。

宣時のあと、「宗―貞―高」と「宣」が通字として継承されていってもおかしくはないように思うが、実際は「宗―貞―高」であった。

宗の実名は、北条時の偏諱」+父・宗宣の「宗」で構成されたことは間違いなかろう。「」の字は元々、宣が北条時(貞時の父)から拝領したものであり、貞時の偏諱拝領者が皆同様の名乗り方をすれば「貞宗」の名前の御家人がありふれてしまうことにもなり兼ねないため、特に事情が無ければ避けるのが普通と思われる。

 

<参考>「貞宗」を名乗った御家人 

実際に「貞宗」と名乗ったケースは、大友氏、小笠原氏、小田氏、小山氏、佐々木(京極)氏、二階堂氏*3、そして北条氏一門・名越宗長の子の一人(=名越貞宗)に見られる。いずれも時の偏諱拝領者であろう。

 

勿論、各々の家での事情があり一概に同じ理由が当てはまるわけではないが、小田氏は宗の兄弟(宗知の子)に知*4、小笠原氏も宗の兄(宗長の子)長がいたので、父から「宗」字を継承する形で「貞宗」を名乗ることになったのだと推測される。小山氏ではを養子に迎えた宗朝にも宗という実子があり(『尊卑分脈』)、貞朝が宗朝の養子となった後に元服し、その後の貞宗元服で名の重複が避けられた可能性もあり得よう。

 

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大友についてはこちらの記事▲で親時の子、の弟であると結論づけた。頼泰―親時―貞親と、北条時宗の「宗」字は受けておらず(但し親時の「時」が時宗偏諱の可能性はあり得る)貞宗の「宗」については由来が不明であるが、兄と同名を避けるのは勿論のこと、父の1字を継承して烏帽子親・北条貞時と同名、もしくは「時貞」と名乗るわけにもいかなかったことは容易に想像できる。

 

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京極宗綱の子・宗の場合は「貞綱」と名乗っても良さそうだが、当初嫡子であった次兄・時綱(17才で早世:『尊卑分脈』)が「綱」字を使用していたことが影響しているのかもしれない。

 

総括すると、「貞宗」を名乗った御家人は、先に元服を済ませていた兄が「貞時からの偏諱+家の通字」の構成で名乗り、それと同名を避ける目的で名乗ったケースが多かったことが窺える。つまり、そのような事情でも無い限り「貞宗」を名乗ることはなかなかなされないと思って良いだろう。

 

このような観点から、宗宣の嫡男が「貞宗」ではなく「貞宣」と名乗る可能性もあったのではないかと思うのである。勿論、「宣―貞」が「時―宗」と同じく父の上1文字を取ったものと考えられなくもないが、それ以外にも「貞宗」を名乗ることとなった事情があったのではないかと推測される。それが、既に「貞宣」と名乗る別の人物の存在と思われる。

 

すなわち、宗宣の弟が先に元服を済ませて「貞宣」と名乗り*5、その後に元服した宗宣の嫡男は同名を避けて「貞宗」(のち維貞)を名乗ったと考えられるのである。貞宣が維貞より後に生まれながら先に元服を遂げるとは考えにくいので、貞宣の方が生まれも元服も先(前)であったとみて良いだろう。

 

維貞は1285~86年の生まれとされ、正安3(1301)年の貞時出家前に式部少丞となって叙爵するまでには元服を済ませていたと考えられるが、次の史料により貞宣の生年が1285年以前であったことが裏付けられると思われる。

【史料A】

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上の史料は、『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用されている施薬院使・丹波長周の注進状である*6が、同月8日に鎌倉を襲った大火の被災者の中に「丹波貞宣」が含まれている。すなわち貞宣はこの当時丹波に在任であったことが分かる。国守任官に相応の年齢を考えると30代には達していたはずであり、生年は1285年より前と推定可能である

 

兵庫助在任と生年・烏帽子親の推定

併せて、山口隼正が紹介された『入来院本平氏系図*7を見ておきたい。

【図B】

f:id:historyjapan_henki961:20191002154245p:plain山口氏はこの部分を含む北条氏系図について、成立時期を鎌倉時代後期の1316~1318年の間と推定されている*8。注目すべきは最終官途が「越前守」であることの明らかな三兄・貞房が「式部大夫」、貞宣についても「兵庫助」と、途中の官職を記している点であるが、古系図ゆえ、北条氏全体の編纂より前に書かれた当時の官職が書かれているわけである。長兄・宗宣が「奥州」=陸奥守となり(1301年就任)、次兄・宗泰が土佐守となって嘉元3(1305)年に他界した旨が記されているから、書かれたのはそれ以後で、翌徳治元(1306)年7月19日には貞房が越前守に昇っている*9から、その間(1305年9月頃~1306年7月)ということになる。従って、宗泰逝去から間もない段階では貞房・貞宣兄弟は昇進前であったと推測される

 

兵庫助は正六位下相当の官職であり、宗泰が亡くなった嘉元3年当時の貞宣は叙爵前であった可能性が高い。ここで考えるべきは大仏流北条氏における叙爵の年齢である。

細川氏のまとめ*10によると、大仏流嫡流では宣時が30歳、宗宣が24歳、維貞が17歳と次第に低年齢化しており、三兄・貞房も叙爵年齢は19歳であった。よって、貞宣もその例外ではなく10代後半~20代前半での叙爵であったと思われる。貞房と同じく19歳とした場合だと1287年頃の生まれ、宗宣と同じ24歳の場合だと1282年頃の生まれとなり、前述【史料A】の時期に30歳前後を迎える。

よって、貞宣は1284~1285年頃の生まれで、甥の維貞とほぼ同世代の人物であったと推定され元服当時執権の座にあった北条時が烏帽子親となって「」の偏諱を下賜したと判断される。 

 

 

『常楽記』元応2(1320)年5月15日条には「陸奥丹波他界」との記述が見られ、その通称名は父・宣時が陸奥守、自身が丹波守である貞宣に相応しく、この日に貞宣が亡くなったことが分かる*11。 

冒頭の経歴表で細川氏は、元亨2(1322)年7月12日に三番引付頭人を辞したことが『鎌倉年代記』に記載されている旨を紹介されているが、実際には引付頭人のメンバーが記されているのみで、元応元(1319)年と元亨2年で変化していることしか分からない。すなわち、元亨2年以前に貞宣が亡くなったとしても矛盾はなく、この人事の変化の一因が貞宣の死去であったことを裏付けていると言えよう。

 

(参考)『鎌倉年代記』より*12

元応元(1319)年条:「閏七月十三日 引付頭 守時 顕実 貞宣 貞将 時顕

元亨2(1322)年条:「七月十二日 引付頭 守時 顕実 時春 貞直 時顕

 

貞宣の子である時英・貞芙・高貞は、1333年の鎌倉幕府滅亡時の東勝寺合戦北条高時らと運命を共にしている。

 

(参考ページ)

● 北条貞宣 - Wikipedia

 大仏流朝直系宣時派北条氏 #北条貞宣

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.78「大仏貞宣」と同内容。

*2:厳密には他に、僧籍に入った寛覚と養子(苅田流北条為時の子)の宣覚がいる。

*3:鎌倉時代後期から南北朝時代の僧・頓阿(とんあ/とんな)の俗名とされる。生年は1289年と判明しているので、貞時執権期の元服で「貞」の偏諱を許されたことは間違いないだろう。一方、辞書類では二階堂光貞の子とするが、『尊卑分脈』を見ると「宗実―光貞―高実」と代々得宗からの偏諱を受けていることは明らかである。同じ二階堂氏の「行貞―貞衡」父子のように2代に亘って貞時の偏諱を受けた事例が無くもないが、1284~89年の間に光貞が元服し(元服の年齢は通常10代前半)、息子の貞宗が生まれたというのはあまり現実的でないように思う。『尊卑分脈』でも貞宗は光貞の兄となっており(但し法名は「法忠」)、こちらの方が正しい可能性が高いのではないか。藤原師実の末裔(具体的な家系は不詳)とする別説もあるが、いずれにせよ貞時の一字拝領者に間違いないだろう。

*4:尊卑分脈』〈国史大系本〉では知貞を兄として載せる。父・宗知の場合は、同じく時知の子(庶子)北条道知を弟として載せるので、兄弟順は系図の記載通りで良いと思う。小田知貞の場合、北条貞時からの偏諱「貞」を下(2文字目)にしていることから、母親の出自ゆえか、当初から庶子(庶兄)であったと思われる。但し父から「知」の字を継承したので、後に生まれ元服した小田貞宗は「宗」字を継承したものと推測される。

*5:貞宣が父の1字を継承した理由については次のように推察される。家祖・北条時の1字を用いた三兄・貞と同名を避けるのは言うまでもないが、次兄・宗が3代執権・北条時にあやかって選択したと思わしき「」字も、先に生まれ元服したであろう政村流北条貞(のちの煕時)と同名となるため使用の候補から外れたと思われる。時房の子・朝直の両字も候補に出来そうだが、特に案が出ていなかったかもしれない(ちなみに宗泰の子が "貞"、貞宣の子が "貞" を称している)。

*6:注1前掲細川氏著書 P.19。

*7:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.28。

*8:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(上)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その77-大仏貞房 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*10:注1細川氏著書 P.46。

*11:大仏流朝直系宣時派北条氏 #北条貞宣 より。

*12:竹内理三編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)P.30・31。

河津貞重

河津 貞重(かわづ さだしげ)は、鎌倉時代後期の武将、御家人系図によっては河津重貞とも。

父は河津祐重。妻・大野忠貞(紀三郎)の娘との間に嫡男・河津重房がいる。

 

【史料1】『河津伝記』(『宗像郡誌』下編 所収)*1より

……其(=河津右衛門尉祐重)孫次郎貞重、伏見帝ノ永仁元年三月、九州ノ探題平兼時ニ属テ、長州ヨリ始、筑前ニ来リ、粕屋郡迫門河内七百町賜リ、高鳥井ノ塁ヲ新築シ、探題附庸ノ城トシテ、是ヲ守衛シ、同小仲〔ママ〕庄ニ居住シ、館舎ヲ営構スル所ニ、霊石二面アリ。徃昔ヨリ二輪石ト称シ、邑民頗恐敬セリ。貞重其謂ヲ聞、先祖曾我両社八幡ノ一百年回、今永仁元年ニ当事、嘉瑞成ベシトテ、両社八幡宮ヲ迫門郷二勧請シ、彼霊石ヲ神体ニ崇、顕孝寺ヲ造営ス。千僧ヲ供養シ、祭祀甚厳重ナリシト云伝フ。高鳥井ノ城ハ、今川了俊迄附城トス。大内義弘代ヨリ大内ノ領トナリ、天文ノ比迄、彼幕下麻生河津等、彼城ヲ守ル。則文書数通顕明也。貞重嗣子河津次郎重房ニ到、……

この史料には、河津貞重の活動として、永仁元年3月、九州(鎮西)探題・北条兼時*2に属して筑前に移り、粕屋郡迫門郷の地を賜ったこと、同探題直属の城として高鳥居城を新築したこと、祖先ゆかりの曽我八幡宮を迫門郷に勧請する形で顕孝寺を造営し千僧供養を厳重に執り行ったこと が記されている。【史料1】には宝永3(1706)年の序文があり、後世・江戸時代に編纂されたものとみられるが、今のところ内容を否定し得る史料はなく、独自の情報として一定の価値を持つと思う。

 

あわせて次の史料も見ておきたい。『宗像郡誌』下編に所収の、別本『河津伝記』の巻末にある「藤原姓伊東河津之家系」からの抜粋である。

【史料2】「藤原姓伊東河津之家系」(『宗像郡誌』下編 所収)*3より

貞重

河津弥次郎 筑後 永仁元、*4長州僊於筑前、住于粕屋郡小中庄、守高鳥居城。永仁元年三月九州探題平兼時ニ属シテ、従長州来。筑前粕屋郡迫門河内七百丁〔ママ、町〕賜リ、高鳥井ノ塁ヲ新築シ、探題附庸ノ城トシテ、是ヲ守リ、小中庄ニ居住シ、館舎ヲ営構スル所ニ、霊石二面有。是往古ヨリ二輪石ト称シ、邑民頗恐敬セリ。貞重其謂所ヲ聞テ、我祖曾我両社八幡ノ百年会、今永仁元年ニ至ル事、則家門永久之佳瑞ナルベシトテ、両社八幡宮、迫門郷二勧請シ、彼霊石ヲ神体ト祝奉リ、顕孝寺ニ於テ千僧ヲ供養ス。

若干の違いはあるものの、書かれている内容は【史料1】と同じで、この系図からは嫡男・重房の母(=貞重の妻)が「大野紀三郎忠貞女」であることも分かる。

但し最終官途として「筑後」の記載があることに注目である。【史料1】での前略部分に父・祐重についての記述もあるが、その通称名は右衛門尉任官後のものとなっている。更には祐重の先祖を左衛門尉任官後の「河津八郎左衛門祐景」(伊東祐清の子・狩野四郎祐光の子という)とも記している。一方子孫では、子・重房が「河津次郎 駿河守」と注記されるが【史料1】では前者で書かれ、その孫(=貞重の曾孫)河津祐季についてこの系図では通称を「次郎三郎」と記すのみだが、『河津伝記』では任官後の「掃部允」「掃部介」となっている。

すると、【史料1】の部分も含んだ『河津伝記』では、その当時の通称名で書かれている可能性が高いのではないか。すなわち、最終的に筑後守となる貞重についても、永仁元年当時「孫次郎」または「弥次郎*5を名乗っていたのではないかと思われる。左衛門尉などの官職を持たない無官の通称名と判断されるが、元服からさほど経っていないためであろう

 

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河津氏は元々、伊東祐親が当初名乗り、曾我兄弟曾我祐成曾我時致の父でもある長男の河津祐泰がその名字を継承していたが、祐泰は祐親を狙った同族・工藤祐経の矢に当たって死亡し、のちに祐泰の弟・伊東祐清の子である祐光が本姓に復してその名跡を継いだのだという。

 祐清―祐光―祐景―□―□―□―祐重―貞重―重房……

祐光の子・祐景より4代目が祐重であるといい、「祐○」を代々の名乗りとしたことが推測されるが、祐重の子・はその慣例に従わなかったことになる。「重」の字を継いでわざわざ上(1文字目)に掲げる「」の字は、永仁元年当時の得宗・執権であった北条偏諱そのものであり、貞時が直接烏帽子親となって1字を与えたものと考えて良いだろう。同じく『宗像郡誌』下編に所収「河津家系図」の貞重の注記には「河津弥次郎 北条相模守貞時加冠、賜筑前国粕屋郡小中庄、永仁元年*6長州移小中庄」と明記されている*7

*このような観点から、実名については系図によって「重貞」とするものもあるが、「貞重」の方が適しているように思う。

 

河津氏はのちに守護大名戦国大名である大内氏の麾下に入ることになるが、「藤原姓伊東河津之家系」において祐季の子である家・氏兄弟が大内義、弘家系嫡流の「業―光―業」に「政―義―義」の偏諱を受けた形跡がみられ、隆業の3人の弟(載・光・重)も大内義の烏帽子子であろう。中身が若干異なるが、「河津家系図では前述の貞重のほか、祐季の弟・に「卿加冠」、に「蒙大内義加冠」、に「蒙大内義之加冠」と明記されており、これを裏付けている。

 

参考資料・リンク

「筑前高島居城跡 福岡県糟屋郡須恵町所在山城の調査」(『須恵町文化財調査報告書』第8集、2003年)P.13・17

宗像郡誌. 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション

河津氏 - Wikipedia

町史のひとこま =河津筑後守貞重=(『広報すえ』昭和55(1980)年9月号)

高鳥居城(福岡県糟屋郡)の詳細情報・周辺観光|ニッポン城めぐり−位置情報アプリで楽しむ無料のお城スタンプラリー

筑前・高鳥居城(城郭放浪記)

 亀山城−ふるさと紀行

 

 

脚注

*1:宗像郡誌. 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション(河津伝記)。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その15-北条兼時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)によれば、兼時の鎮西下向は3月7日のこととされる。

*3:宗像郡誌. 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション(河津家系)。

*4:「~より」と読み、場所を示す名詞の前に付いて起点を示す(→ 自(ジ)とは - コトバンク)。

*5:「孫」と「弥」は特に崩し字では形が似通っており、他の史料で同様の例があるように、いずれかの誤記または誤写であると推測される(例:「長崎四郎泰光」と「長崎四郎泰光」)。

*6:注4に同じ。

*7:宗像郡誌. 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション(P.62)参照。

矢野貞倫

矢野 貞倫(やの さだとも、生年不詳(1270年代後半か)~没年不詳(1300年代初頭?))は、鎌倉時代の幕府実務官僚。三善氏の末裔で三善貞倫(みよし ー)とも。

 

<三善姓矢野氏略系図*1

康信―行倫―倫重―倫長―倫景(倫経弟)貞倫(倫綱兄)

 

鎌倉遺文フルテキストデータベース東京大学史料編纂所HP内)によると、次の史料3点が矢野貞倫に比定されている。

(正応5(1292)年?)11月30日付「鎌倉幕府政所召文」金沢文庫所蔵『首楞厳義疏注経 十之二 包紙文書』)*2の発給者の一人に「貞倫(花押)

正応6(1293=永仁元)年8月4日付「公氏書状案」(『豊前永弘文書』)*3に「矢野豊後前司殿

(永仁2(1294)年?)11月30日付「鎌倉幕府奉行人連署奉書」金沢文庫蔵『首楞厳経義疏注経 裏文書』)*4の発給者の一人に「貞倫(花押)

 

これら以外に "矢野貞倫" の活動が確認できる史料できる史料が残っている。

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次に掲げるのは、太田時連の日記『永仁三年記』の閏2月12日条である*5

十二日 丁巳 晴
評定、奥州(大仏宣時)武州北条時村、遠入(名越時基、法名:道西)越入上州、野入(宇都宮景綱、法名:蓮瑜)隠州能州(京極流佐々木宗綱)、勢州(二階堂盛綱、法名:行誓)豊州(三善矢野倫景)、摂入(摂津親致、法名:道厳)時連。引付、民部少、摂州、常州。常葉備州(常葉時範)丹後の廷尉四番、摂州三番に遷えらる、皆由図書の助一番文副、飯尾中務政有矢野八郎貞倫二番、元政所津戸小二郎為行、二番合奉、富来孫十光康、四番、肥後二郎頼平、元政所召人、三番、明石民部二郎盛行、三番、岡田五郎左衛門の尉景実、四番、当所公人に召し加えらる、越前孫七政親、五番、召し加えらるべきの由これを仰せ出さる。明石彦次郎、豊前左京の進、皆吉彦四郎侍所に召し加えらると云々。

永仁3(1295)年当時「(矢野)八郎」を称していたことが分かるが、元服からさほど経っていなかったために無官であったと推測できよう。年齢的には10代後半~20代前半であったと思われるが、時期の近さからして、前述の「貞倫」も同じく矢野貞倫で良いと思われるので、元服の年次は正応5(1292)年からさほど遡らない時期=1290年前後であったと推定され、の「矢野豊後前司」は、まだ「八郎」を名乗る貞倫ではなく、史料中の「豊州」こと、貞倫の父である矢野倫景とすべきであろう*6

 

そして「」の名乗りに着目すると、それまでの「倫○」型の名乗りに反してわざわざ「」を上(1文字目)に戴いていることからしても、元服当時の得宗・執権であった北条 (在職:1284年~1301年)*7偏諱を許されたことが分かる。実際に貞時が烏帽子親を務めたと推測される。 

この頃は同族でも同様の傾向が見られる。太田氏では前述の太田が北条宗、その息子・が同じく時の1字を受けており、細川氏は町野氏の康・(政康の弟か)(政康の子か)について、歴代の執権(村・時時)の偏諱を受けたと推測されている*8。このように、得宗専制が強まる中で三善氏一門も一字付与の対象者となったことが窺える。 

 

尚、上記史料では、元・政所奉行人で二番引付奉行人となった旨が注記されており、これが鎌倉幕府における貞倫の役職であった*9

 

倫景の終見から11年後の延慶元(1308)年6月、二階堂時綱三河守)とともに「矢野加賀守倫綱」が東使として上洛したことが確認できる*10細川氏は、東使に任命されるのは評定衆クラスの者で、実際に倫綱・時綱はともに評定衆であったと推測されており、この倫綱を時期的にみて倫景の息子と判断されている*11

翌年末には倫綱が寺社奉行であったことが確認される*12が、これもかつての倫景の地位*13を継承したものと言えよう。

国守(加賀守)任官年齢(=他の御家人の例を踏まえると30代が多い)も考慮すれば、倫綱は貞倫とほぼ同世代となり、細川氏が推定の如く兄弟であった可能性が高い(冒頭系図参照)が、得宗時の偏諱を受けた倫ではなく倫綱が倫景の地位を継承していることからすると、貞倫が家督を継がずに早世した可能性が考えられよう。よって貞倫は1300年代前半頃には亡くなったのではないかと推測される。

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.412掲載 細川氏作成による「康信流三善系図」より一部抜粋。

*2:『鎌倉遺文』第23巻18055号。

*3:『鎌倉遺文』第24巻18296号。

*4:『鎌倉遺文』第24巻18578号。

*5:永仁3年記 より引用。

*6:注1細川氏著書 P.277に紹介の通り、鎌倉幕府追加法650条に「一 直被聞食被棄置輩訴訟事 永仁二 十二 二評 奉行 豊後権守倫景 明石民部大夫行宗」とあるによる。またこの追加法により、史料中の「明石民部二郎盛行」は「行」字の共通や通称名からして明石行宗の息子、「明石彦次郎」はその近親者と推測される。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*8:注1前掲細川氏著書 P.413系図・P.418。

*9:注1前掲細川氏著書 P.412系図・P.415 註(5)。佐藤進一「鎌倉幕府職員表復元の試み」(同『鎌倉幕府訴訟制度の研究』(再版)〈岩波書店、1993年〉付録)正応4年条・永仁3年条。

*10:注1前掲細川氏著書 巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.185「矢野倫綱」の項。典拠は『興福寺略年代記』延慶元年条。尚、ほぼ同内容を記す『歴代皇記』徳治3年6月24日条『武家年代記』延慶元年7月12日条では「野加賀守倫綱」とするが単なる誤記(または誤読)であろう。

*11:注1前掲細川氏著書 P.412系図・P.415 註(6)。

*12:注1前掲細川氏著書 巻末基礎表 No.185「矢野倫綱」の項。典拠は延慶2年12月21日付「矢野倫綱奉書」(『九条家文書』)

*13:注1前掲細川氏著書 巻末基礎表 No.184「矢野倫景」の項。

大仏宗泰

北条 宗泰(ほうじょう むねやす、生年不詳(1260年代後半か)~1305年?)は、鎌倉時代後期の武将・御家人。通称は六郎。官途は民部少輔、土佐守。

大仏流北条宣時の子、第11代執権・北条宗宣の弟で、大仏宗泰(おさらぎ ー)とも呼ばれる。

 

 

はじめに

新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その75-大仏宗泰 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)*1に従って主な活動経歴を示すと次の通りである。

 

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№75 大仏宗泰(父:大仏宣時、母:未詳)
  生没年未詳
  従五位下(『佐野本北条系図』)
  民部少輔(『前田本平氏系図』。『佐野本北条系図』)
  土佐守(『正宗寺本北条系図』)
01:永仁3(1295).   在引付衆
02:永仁6(1298).04.09 四番引付頭人
03:正安1(1299).04.01 三番引付頭人
04:正安3(1301).08.  二番引付頭人
05:乾元1(1302).02.18 三番引付頭人
06:嘉元3(1305).08.01 二番引付頭人
07:嘉元3(1305).08.22 辞二番引付頭人
 [典拠]
父:『前田本平氏系図』。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。
01:永記・閏2月12日条。引付にみえる「民部少」が官途から宗泰に比定される。
02:鎌記・永仁6年条。
03:鎌記・正安元年条。
04:鎌記・正安3年条。
05:鎌記・乾元元年条。
06:鎌記・嘉元3年条。
07:鎌記・嘉元3年条。

 

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細川氏が述べられるように、「大仏氏の庶流の人ですが、」泰は息子の直とともに、得宗(時時)の偏諱を受けたことが窺える。名乗りや時期からして正しい推測と思われるが、以下本項では具体的な元服の時期を推定するなどして、これについての裏付けを試みたいと思う。

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

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尚、系図類によると、宣時の4人の息子*2のうち、宗泰は次男(=宗宣の弟、貞房の兄)に位置付けられている。宗宣が1259年、貞房が1272年の生まれとそれぞれ判明しているので、宗泰の生年は1259~1272年の間とすべきであろう。これを前提に、以下考察をしたいと思う。

 

宗泰の叙爵と民部少輔任官

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上記職員表に示したように、細川氏は、太田時連の日記である『永仁三年記』の閏2月12日条において、引付にみえる「民部少」を宗泰の史料上での初見とする(下記【史料A】参照)

【史料A】(*永仁3年記(http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/nendai/129599.html) より引用)

十二日 丁巳 晴
評定、奥州(大仏宣時)武州北条時村、遠入(名越時基、法名:道西)越入上州、野入(宇都宮景綱、法名:蓮瑜)隠州能州(京極流佐々木宗綱)、勢州(二階堂盛綱、法名:行誓)、豊州(三善矢野倫景)、摂入(摂津親致、法名:道厳)時連。引付、民部少、摂州、常州。常葉備州(常葉時範)丹後の廷尉四番、摂州三番に遷えらる、皆由図書の助一番文副、飯尾中務政有矢野八郎貞倫二番、元政所、津戸小二郎為行、二番合奉、富来孫十光康、四番、肥後二郎頼平、元政所召人、三番、明石民部二郎盛行、三番、岡田五郎左衛門の尉景實、四番、当所公人に召し加えらる、越前孫七政親、五番、召し加えらるべきの由これを仰せ出さる。明石彦次郎、豊前左京の進、皆吉彦四郎侍所に召し加えらると云々。

この史料での人名は、筆者自身の「時連」を除いては原則、通称名で書かれているが、「奥州」=陸奥(=父・宣時)、「上州」=上野介(=兄・宗宣)、「遠入」=遠江入道 のように略記されている。従って「民部少」は民部少輔の略である。

そして、民部少輔従五位下相当の官職であり*3、この当時叙爵*4済みであったことが推測される。細川氏はこの人物を『前田本平氏系図』と『佐野本北条系図』で「民部少輔」(前田本では民部 "小" 輔とするが単なる誤記であろう)と注記される宗泰に比定されたのである。

 

ここで考えたいのが、大仏流北条氏における叙爵の年齢である。

細川氏のまとめ*5によると、大仏流嫡流では宣時が30歳、宗宣が24歳、維貞が17歳と次第に低年齢化していることが分かる。更に生年が判明している宗宣の弟・貞房が庶子でありながら叙爵年齢は19歳であった。従って、宗宣以降の大仏流は嫡流・庶流にかかわらず、叙爵年齢が10代後半に向かって低年齢化していたと判断される。すると、宗泰もその例外ではなく20歳前後だったのではないかと思われる。

【史料A】が叙爵と同年かは分からないが、数年後の史料である可能性も考えて当時20歳位として良いのではないかと思う。

 

 

宗泰の最終官途 および 没年について

冒頭職員表で細川氏は、宗泰の父が宣時である根拠(典拠)として『前田本平氏系図*6『正宗寺本北条系図』・『佐野本北条系図』の3つを掲げておられるが、もう一つ同じように記す系図がある。山口隼正が紹介された『入来院本平氏系図である。次に該当部分を掲げる*7

【図B】

f:id:historyjapan_henki961:20191002154245p:plain山口氏はこの部分を含む北条氏系図について、成立時期を鎌倉時代後期の1316~1318年の間と推定されている*8。そのような古系図なだけあって、編纂前に書かれたからか、最終官途が「越前守」「丹波守」であることが明らかな弟の貞房・貞宣に(途中の官職である)「式部大夫」「兵庫助」と記すなど、独自の貴重な情報も散見される。

そして宗泰についても「土佐守」「嘉元三他□」の注記がある。細川氏によると、『正宗寺本北条系図』は江戸時代の成立で、常葉重高について長崎高重と混同した記載がある*9等の杜撰な誤りも見られるため、正確性には注意を要するという*10。前述の通り『前田本平氏系図』と『佐野本北条系図』で「民部少輔」と注記するのとは異なって、正宗寺本系図では「土佐守」と記すが、上図の入来院本系図によって裏付けができる。すなわち、宗泰は最終的に民部少輔から昇進して国守任官を果たしたと考えられよう

 

「嘉元三他□」については欠字の部分(解読不能か)があるが、山口氏は「他」であると推定される。その嘉元3(1305)年の8月には、二番引付頭人を就任から僅か21日で辞しており、急病等の何かしらの変化があったことが推測される。同年の段階で宗泰が土佐守であったことを確認できる史料は今のところ発見されていないが、『実躬卿記』嘉元4(1306)年3月30日条にある除目の記事で橘以守(もちもり)の土佐守任官が確認でき*11、時期からすると宗泰逝去に伴う人事だったのではないか。よって引付頭人の辞任からさほど経たないうちに亡くなったと推測され、山口氏の(もちもり)見解は正しいと判断できよう。

 

ここで確認したいのが、国守任官の年齢である。

wallerstein.hatenadiary.org

細川氏のまとめによると、大仏流嫡流では宣時が30歳の叙爵と同時に武蔵守、宗宣が43歳で陸奥守と一旦は高年齢化するが、維貞が30歳で陸奥守となって低年齢化している*12。宗宣の弟・貞房は35歳で越前守任官を果たしており、大仏流の国守任官年齢は30代であったと考えて良いだろう*13。従って、宗泰も土佐守任官時30代には達していたと推測される。

 

生年と烏帽子親の推定

以上の考察をまとめると

永仁3(1295)年:民部少輔 … 20歳位

嘉元3(1305)年:土佐守(?) … 30歳位

となり、遅くとも1275年頃には生まれていたことになる。冒頭で述べたように、弟・貞房が生まれた1272年より前になるはずだから、もう数年遡らせて良いだろう。あくまで1295~1305年の間に30歳位で土佐守任官を果たしたとすれば良いので、その時期は【史料A】から数年以内だったのかもしれない。従って宗泰の生年は1260年代後半と推定して良いだろう

その判断材料として、冒頭に述べた北条時宗からの一字拝領の問題がある。時宗が亡くなった弘安7(1284)年4月までに元服を済ませたはずだが、1260年代の生まれとすれば確実に時宗執権期間内の元服となる。よって、大仏は「」の字が(直接の先祖には当たらないと思われるが)第3代執権・北条時にちなんだものとみられるので、兄に同じく得宗北条時を烏帽子親として元服し「」の偏諱を賜ったとみなして問題ないと判断できる*14

【図C】

その裏付けになり得るものとして、田中稔が紹介された、『福富家文書』所収『野津本北条系図*15を掲げておきたい。田中氏などによれば、最終的には豊後国の野津院で嘉元2(1304)年に写されたとされる*16が、奥書には弘安9(1286)年9月7日に新旧校合して書写された旨が記されており、実際に北条氏各系統の系図は当時の得宗・貞時とほぼ同世代の人物で終わっている*17。よって、兄・宗宣(上野前司五郎)の注記「六波羅南方、永仁五年」等一部の追記を除いた大半の部分は弘安9年までに書かれたと考えて良いだろう。宗泰には「六郎」と記すのみで、元服前であったと推測される弟の貞房・貞宣の記載はなく*18弘安9年当時の宗泰は元服から間もない無官(民部少輔任官前)の青年であったと判断できよう。すなわち、宗泰の元服時宗晩年期に行われたと推定可能で、前述の如く生年を1260年代後半とすれば辻褄が合う。よってこれを以って結論としたい。

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.75「大仏宗泰」の項と同内容。

*2:厳密には他に、僧籍に入った宣覚(注1前掲細川氏著書 P.379『前田本平氏系図』では寛覚、或いは寛覚とは別に苅田流北条為時の子に宣覚がいて養子に迎えたとも)がいる。

*3:民部の少輔(みんぶのしょう)とは - コトバンク より。

*4:律令制で、六位から(古代・中世の日本においては貴族として下限の位階であった)従五位下に叙せられること。叙爵(ジョシャク)とは - コトバンク および 叙爵 - Wikipedia より。

*5:注1細川氏著書 P.46。

*6:注1前掲細川氏著書 P.379。

*7:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.28。

*8:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(上)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4。

*9:常葉重高 - Henkipedia 参照。

*10:注1前掲細川氏著書 P.45。

*11:『鎌倉遺文』第29巻22591号。尚、この時名越公貞が民部少輔への任官を果たしている。

*12:注1前掲細川氏著書 P.36。

*13:宗宣の場合は、武蔵守より転任した父・宣時が得宗北条貞時に追随して出家したのを受けての陸奥守任官であったためタイミングが遅れただけであり、細川氏が「当時の鎌倉政権の家格尊重主義を示す事例」(前注同箇所)とされるように、むしろ宣時―宗宣―維貞3代に亘って同じ国守任官を認められたことこそ評価すべきであろう。従って宗宣は大仏流の国守任官年齢を考える上で例外とみなして良いと思う。

*14:細川氏のほか、紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15・21・23 にも同様の言及がある。

*15:田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』」(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第5集、1985年)。

*16:前注田中氏論文 P.46。主な収蔵資料 | 史料編纂書(皇學館大学 研究開発推進センターHP)

*17:前注田中氏論文 P.33・45。

*18:前注田中氏論文 P.45。

千葉時胤

千葉 時胤(ちば ときたね、1218年~1241年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。千葉氏第7代当主。通称は千葉介。子に千葉頼胤

 

時胤の系譜について

時胤の系譜については、各系図によって異なっている。

『神代本千葉系図』『徳島本千葉系図』『平朝臣徳嶋系図:胤綱―時胤

伊豆山権現『般若院系図:胤綱―時胤(泰胤兄)

『千葉大系図』:成胤―時胤(胤綱・泰胤弟)

※『千葉大系図』でも他系図に同じく「成胤―胤綱―時胤」とはするが、時胤の傍注に「実成胤之三男也」と記して、成胤の3男とする。

 

上記古系図における「胤綱―時胤」の父子関係は、『吾妻鏡』にある胤綱の享年21(数え年、以下同様)*1から算出すると、時胤が生まれた建保6(1218)年当時11歳となることから否定され、江戸時代の『千葉大系図』編纂の際に兄弟として改められた。またその際、父となる成胤が建保6年に亡くなったのに対し、同年に生まれた時胤の後(次)に泰胤が生まれるのはおかしいとして胤綱、泰胤、時胤の兄弟順とされた。

 

「千葉介代々御先祖次第」(本土寺過去帳 所収)

「第四 胤綱 卅一歳、安貞二年戊午五月廿八日」

……『平朝臣徳嶋系図』に掲載の享年(31)、および『吾妻鏡』での没年月日に一致。逆算すると建久9(1198)年生まれ。

ja.wikipedia.org

ところが、後にこの史料が発見されたことで『吾妻鏡』での胤綱の享年21が誤りであることが判明し、それを信用した『千葉大系図』のように修正を行う必要が無くなったため、今日では「胤綱―時胤(泰胤兄)」が正しいと結論付けられている。

(参考ページ)⇒ 千葉時胤 - Wikipedia #時胤の系譜の問題

ja.wikipedia.org

 

 [参考] 千葉氏嫡流歴代当主(平安後期~鎌倉初期)の生没年

 *( )内数字は史料に記載の没年齢(享年)。

 ● 千葉常胤:1118年~1201年(84)

 …『吾妻鏡』建仁元(1201)年3月24日条 より

 ● 千葉胤正:1136年~1202年(67)

 …『本土寺過去帳』より

 ● 千葉成胤:1155年~1218年

 …生年:『千葉大系図』/没年:『吾妻鏡』建保6年4月10日条 より

 ● 千葉胤綱:1198年~1228年(31)

 …『本土寺過去帳』より(前述参照)

 

 

烏帽子親の推定

生没年については、『千葉大系図』に、建保6(1218)年8月11日に生まれ、仁治2(1241)年9月17日24歳で亡くなったという記載が見られ*2、これ自体に矛盾はない。前節で同系図が系譜の面で誤解のあったことを述べたが、この生没年に関しては父・胤綱との年齢差や史料での登場時期と辻褄が合うことから十分採用に値すると思う。

また、同系図には仁治2年に嫡男の頼胤が3歳と幼少でありながら家督を継いだとあり、これも時胤の早世を裏付ける根拠になり得る。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

紺戸淳は、『続群書類従』所収「千葉系図」に従うと1200年生まれとなる*3ため、1224年まで2代執権の座にあった北条義*4からの一字拝領を想定されている*5。しかし、この場合父・胤綱より先に生まれたことになって矛盾するから、記載の享年42(没年は『千葉大系図』と一致)は数字が逆転してしまった誤記であろう。

但し、千葉氏通字「胤」に対する「時」が烏帽子親からの一字拝領と考えられ、紺戸氏が述べられる通り、北条氏の通字を賜ったと考えて良いだろう。前述の生年に従って紺戸氏の手法を用いると、元服の年次はおおよそ1227~1232年と推定可能*6で、「」の偏諱を与えた烏帽子親は当時の3代執権・北条泰*7と推測される。

吾妻鏡』では、千葉胤綱死後の寛喜3(1231)年10月19日条に「千葉介」が登場し、これが史料上での時胤の初出とされる*8。この時までに元服を済ませたと考えて良いだろう。

 

千葉介時胤(外部リンク)などでご紹介の通り、この頃に「千葉介」等と書かれた史料は少なからず残っているが、それが時胤であることは次の史料によって裏付けられる。

 

嘉禎4(1238)年3月15日「関東御教書写」(『常陸香取文書』)*9

依香取造営事、千葉介時胤被免除京上御共畢、然者、
於相随彼役仁者、早令帰国、至在国地頭者、御下向之時不参向、
而守先例、可専造営之状、依仰執達如件、

 嘉禎四年三月十五日  左京権大夫(花押)=執権・北条泰時
            修理権大夫(花押)連署北条時房
下総国地頭中

この史料の中で、香取社の造営が終わっていないことを理由に、時胤が将軍・九条頼経の上洛への供奉を「免除」されたことが述べられている。

 

このほか、元徳2(1330)年6月24日付「下総香取社造営次第」(『香取神宮文書』)*10に「……被下宣旨於嘉禎二年丙申六月日千葉介時胤宝治三年己酉三月十日御遷宮……」とあり、香取社遷宮の宣旨が下された嘉禎2(1236)年6月から宝治3(1249)年3月10日までの遷宮に際し、千葉時胤がその責任者であったことが記録されている(途中で亡くなった後は、弟の泰胤や、幼少の嫡男・頼胤を補佐する家老たちが代行か)

 

参考ページ

 千葉介時胤

 千葉時胤 - Wikipedia

 

脚注

*1:『吾妻鏡』安貞2年5月28日条

*2:『大日本史料』5-11 P.612~613

*3:千葉頼胤 - Henkipedia【図A】参照。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.18。

*6:元服の年齢を数え10~15歳と仮定した場合。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*8:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.185「時胤 千葉」の項 より。尚、本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*9:『鎌倉遺文』第7巻5218号。

*10:『鎌倉遺文』第40巻31078号。

二階堂頼綱

二階堂 頼綱(にかいどう よりつな、1239年~1283年)は、鎌倉時代中期の御家人鎌倉幕府政所執事

 

尊卑分脈』によれば、父は二階堂行綱。その次男・頼綱の項に「弘安六十廿四卒四十五(弘安6(1283)年10月24日、数え45歳で死去)とあり*1、逆算すると延応元(1239)年生まれとなる。 

」という名は、「綱」が父・行綱から継承したものであるから、「」が烏帽子親からの偏諱と考えられる。紺戸淳の論考に従えば、10~15歳での元服とした場合、元服の年次はおよそ1248~1253年頃と推定でき、当時の執権・北条時 (在職:1246~1256年)*2を烏帽子親として「頼」の1字を許されたと考えて良いだろう*3

 

吾妻鏡』での初見は、文応元(1260)年正月1日条「伊勢次郎左衛門尉行経 同三郎左衛門尉頼綱」であり、当時22歳(数え年)で左衛門尉に任官済みであるのに問題はない。以降、弘長3(1263)年1月7日条まで9回登場する*4 。

尚、通称名は「伊勢前司行綱(前伊勢守行綱)」の「三郎(三男)」を表しており、前述の『尊卑分脈』では父・行綱の項に「伊世守〔ママ〕」、兄・行経に「二郎左衛門」と注記されているので、問題なく一致する。

 

紺戸氏は、(一部の)一般御家人にとって、北条氏得宗家との烏帽子親子関係(=得宗からの1字)は、嫡流の地位と、氏族相伝の職帯有の資格の象徴であったと説かれており、その一例として二階堂氏でも得宗の1字を受けるようになった家系が、行泰系→行綱系→行忠系と移っていくに従って、政所執事を務める系統が移ったことを指摘されている*5

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しかし、頼綱の元服の頃では、行泰(~1265年没)・行頼(~1263年没)父子はまだ存命であり、当時の段階では、行綱・頼綱父子が政所執事を継ぐ予定は無かったはずである。ところが綱は実際に得宗・時の1字を与えられているのであるから、得宗との烏帽子親子関係と政所執事の継承権との間に、必ずしも絶対的な関係があったわけでは無いと判断される。

継承権が行綱系に移ったのは、行頼が父に先立って逝去し、再承した行泰、その跡を継いだ次男(行頼の弟)行実が相次いで亡くなったためである。但し、頼綱が時頼の烏帽子子であったということは、行綱系が得宗に接近していたことを暗示するものであり、そうした関係性が、多くの系統に分かれていた中で政所執事を継ぐ家柄に選ばれた一因で無かったとは言えまい。政所執事就任の最低条件として、比較的得宗に近い関係にあった家系ないしは人物が選ばれていたと言えよう。

 

(参考)歴代の鎌倉幕府政所執事

氏名 在職期間
二階堂行光  ????~承久元(1219)年
伊賀光宗 承久元(1219)年~貞応3(1224)年
二階堂行盛 貞応3(1224)年~建長5(1253)年没
二階堂行泰 建長5(1253)年~弘長2(1262)年
二階堂行頼 弘長2(1262)年~弘長3(1263)年
二階堂行泰(再承) 弘長3(1263)年~文永2(1265)年
二階堂行実 文永2(1265)年~文永6(1269)年没
二階堂行綱 文永6(1269)年~弘安4(1281)年没
二階堂頼綱 弘安4(1281)年~弘安6(1283)年没
二階堂行忠 弘安6(1283)年~正応3(1290)年
二階堂行貞 正応3(1290)年~永仁元(1293)年
二階堂行藤 永仁元(1293)年~正安4(1302)年没
二階堂行貞(再承) 乾元元(1302)年~嘉暦4(1329)年没
二階堂貞衡 嘉暦4(1329)年~元徳4(1332)年没
二階堂貞藤 元徳4(1332)年~正慶2(1333)年

http://www13.plala.or.jp/hideyuki25/kamakurasituji.htmlを基に作成)

 

その他、活動経歴などについては次のページを参照のこと。

 二階堂頼綱 - Wikipedia

 二階堂頼綱(にかいどう よりつな)とは - コトバンク

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.424「頼綱 二階堂」の項による。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*5:注3前掲紺戸氏論文 P.15系図・P.20・22。

武石高広

武石 高広(たけいし たかひろ、1297年~1339年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人

 

実際の史料上では確認できないが、「千葉大系図」によると、通称は四郎、暦応2(1339)年5月22日の和泉国石津の戦いで高師直の軍勢に敗れ、大将の北畠顕家と共に43歳で討ち死にを遂げたという*1。逆算すると1297年生まれ

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▲『千葉大系図』より一部抜粋(注記は省略)*2

 

実名「」は、先代当主までの通字「胤」系図参照)を使用していない名乗りであるが、1文字目に戴く「」の字は、最後の得宗北条偏諱を受けたものと考えられる*3。紺戸淳の論考に従って、前述の生年に基づく元服の年次を推定するとおおよそ1306~1311年となる*4が、1309年次期得宗として「高時」を名乗り、1311年には父・北条貞時の死に伴って得宗家督を継承している*5から、前述の推定は正しいだろう(16歳以上での元服であれば高時得宗期になされたことが確実となる)

 

(参考ページ)

 亘理氏 - Wikipedia

 

脚注

*1:『千葉大系図』中巻『大日本史料』6-4 P.822武石氏 ー 武石高広

*2:武石氏略系図 −参考資料− より。

*3:武石氏 - より。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)。元服の年齢を10~15歳とした場合。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より