千竈時家
千竈 時家(ちかま ときいえ、生年未詳(1270年頃?)~没年未詳)は、鎌倉時代後期の武士、御家人、御内人(得宗被官)。
前史
千竈氏は桓武平氏高望流秩父氏の末裔とされ、鎌倉時代を通じて尾張国千竈郷(現・名古屋市南区千竈通)を本拠地とした御家人であると同時に、得宗家の被官として海上交通を掌握したとされる。系図は次のものが伝わっている。
この系図によれば、時家は秩父重義の末子となっている。しかし、『尊卑分脈』等他の系図と比較すると、有重―重成は小山田有重・稲毛重成父子に比定されるので、有重の兄・重義は畠山重能のことであろう*2。従って、時家は畠山重忠・長野重清・渋江重宗などの末弟であったことになるが年代が合わず、更に、詳しくは後述するが時家より前には先代で父親とみられる「千竈六郎入道」の実在が確認できるので、恐らくは世代が抜けているものと思われるが、誤伝であろう(但し実際の真偽はともかく、千竈氏は平姓を称していたようである*3)。
鎌倉初期~中期の千竈氏については、鈴木勝也氏の研究*4が詳しい。
すなわち、『吾妻鏡』建久元(1190)年11月7日条には、源頼朝の上洛に従った後陣の随兵の十七番の一人に「近間太郎」の記載が見られるが、その読み方から「千竈太郎」であると考えられており*5、これが史料上での初見とみられる。
また、同じく『吾妻鏡』承久3(1221)年6月18日条には、いわゆる承久の乱において、同月14日に宇治川を渡河した際の幕府側での戦死者(多くは溺死)に「千竈四郎 同新太郎」が含まれており*6、特に千竈新太郎はまだ存命であった千竈太郎と区別されての呼称と思われる。鈴木氏は、尾張国の御家人の多くが京との結び付きが強い関係から後鳥羽上皇方についたのに対し、千竈氏一族はその例外であり、その後得宗被官化する契機になったのではないかと説かれており、恐らく次の史料が出された頃の弘安年間までには被官として薩摩国川辺郡に活動の舞台を移していったものと推測されている*7。
【史料B】弘安2(1279)年4月11日付「六波羅御教書案」(『大隅台明寺文書』)*8
去年三月之比、所被流遣硫黄嶋之殺害人松夜刄丸 南都児童 有可被尋子細、就雑色友貞、早速以守護次〔ママ〕、可被進也、仍執達如件、
弘安二年四月十一日 左近将監* 在御判 *六波羅探題南方・北条時国
千竈六郎入道殿
在口裏 千竈六郎入道殿 陸奥守時村
この史料の宛名「千竈六郎入道殿」は当時の千竃氏嫡流の当主であったとみられ、後述【史料A】における「故入道殿」と同人で、時家の父親にあたる人物とみられる*9。
千竈時家の譲状と烏帽子親について
【図A】千竃氏系図での時家については、次の史料3点により実在が確認できる。
【史料C】嘉元4(1306)年4月14日付「千竈時家処分状」(『千竈文書』)*10より一部抜粋
*文中 白色部分 は欠損部分。
ゆつりわたす(譲り渡す) そふん(処分)の事
合
ちやくし(嫡子)六郎貞泰かふん(貞泰が分)
(省略)
次男 弥六経家 かふん
(省略)
三男 くまやしや丸 かふん(熊夜叉丸が分)
(省略)
女子 ひめくま かふん(姫熊が分)
(省略)
女子 いやくま かふん(弥熊が分)
(省略)
右そふん、くたんのことし(件の如し)、めんヽのゆつりしやう(面々の譲状)にまかせて、ゐろんなくちきやうすへし(異論無く知行すべし)、かきりある御ねんく・御くうし(限りある御年貢・御公事)けたい(懈怠)あるへからす(有るべらかず)、もしわつらひをなさんともから(患いを成さん輩)におきてハ、時家かあと一ふん(時家が跡一分)も知行すへからす(知行すべらかず)、領内にもなかくけいくわいせさすへからす(長く経廻せさすべらかず)、そのあとハそうりやうさたやすちきやうすへし(惣領貞泰知行すべし)、そうりやう又へちなうのふん(別納の分)をゐらんいたさハ(違乱致さば)、次男経家・三男くまやしや丸、そのあとをことヽ くとうふん(悉く等分)にわけ知行すへし(分け知行すべし)、
今の同日一れん(一連)のゆつり(譲り)のほか、もしいつれの方よりもいたさん(いずれの方よりも致さん)状におきてハ、謀書たるへし(べし)、これをもちゐへからす(用いべらかず)、兼又ときいゑにきやうはいのやから(向背の輩)あまた(数多)あり、なかく領内けいくわいせさすへからす、もしこれをゆるさん子とも(子共)におきてハ不孝たるへし、同そのあとハ、この状文をかたくまもらん(固く守らん)子息等ちきやうすへし(知行すべし)、又ときいゑかおいとも(時家が甥共)に當時はからいあつるところヽ(当時計らい当つる所々)、さしたるさいくわ(然したる罪科)なからんにハ、ゆめヽあらためゐらんいたすへからす(努々改め違乱致すべらかず)、もしかの(もし彼の)仁等ふてう(不調)の事いてき(出(いで)来)たらむ時ハ、きやうたい(兄弟)よりあひ(寄合)てたんきをくわへて(談議を加えて)、さいくわ(罪科)をはからふへし、一人さうなく(左右無く)これをさたすへからす(沙汰すべらかず)、よりて(仍りて)のちのため處分のしやう(処分の状)、くたんのことし(件の如し)、
嘉元四年四月十四日 時家(花押)
こ入道とのゝしひち(故入道殿の自筆)のいましめのしやう(誠状)一つう(一通)これあり、ちやくしたるうへハ(嫡子たる上は)六郎かもとにをきて(六郎が許に於きて)、もしのわつらひもあらん時ハ、いつれの子とも(いずれの子供)の方へもこれをわたすへし(渡すべし)、
この状ハ、三つうおなしやうにかきおく(三通同じ様に書き置く)ところなり、六郎・弥六・熊夜叉丸一つうつゝわかちとるへし、(花押)
【史料D】嘉元4(1306)年4月14日付「千竈時家譲状」(『千竈文書』)*11
ゆつりあたふ(譲り与ふ)ちかまの弥六経家に、おハりの国(尾張国)ちかまの郷内ふとうのきうち(地頭垣内*12)の田畠、弥六経家にゆつりあたふるところなり、安堵御下文ハ嫡子六郎貞泰か方へつけわたす、要用之時ハ、可借用之、仍譲状如件、
嘉元四年四月十四日 左衛門尉時家(花押)
【史料E】嘉元4(1306)年4月14日付「千竈時家譲状」(『千竈文書』)*13
(花押:北条貞時)
(外題)
「件村々任此譲状 熊夜叉丸可令
領掌之状如件、
嘉元四年七月十七日」
ゆつりあたふ(譲り与ふ)ちかまの熊夜叉丸に、さつまの国(薩摩国)かハのへのこほり(河辺郡)の内、のさきの村(野崎村)・ひらやま村(平山村)・かミやまたの村(上山田村)・大とまりの津(大泊津)、用作分ひらやまに壱丁(平山に一丁)、嶋の分七嶋、かのところヽ(所々)は熊夜叉丸にゆつりあたふるところなり、かきりあらん(限りあらん)御年貢・御公事けたい(懈怠)あるへからす(有るべらかず)、仍譲状如件、
嘉元四年四月十四日 左衛門尉時家(花押)
これらの時家による譲状では、嫡男・貞泰に「きかいしま(鬼界島)、大しま(大島)」等を、次男・経家に「えらふのしま(沖永良部島)」を、3男・熊夜叉丸*14に七島を、女子ひめくまに「とくのしま」をと、分割して譲るとしている。
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史料での人物の名乗りに着目すると、時家が「左衛門尉」に任官済みであったのに対し、嫡男・貞泰は、当時の得宗・北条貞時の1字を受けて元服したばかりであったからか「六郎」と称するのみであったことが分かる。従って、親子の年齢差を考慮すれば、当時の時家は若くとも30代半ば程度であったと考えられる。
一方【史料B】で前述した通り、時家の父とされる「千竈六郎入道」は弘安2(1279)年までに無官のままで出家していたことが窺え、当時は30歳前後であったのではないかと思われる。よってこの時の時家は元服前後の少年であったと推測される。
従って、「時家」の「時」は執権・北条氏の通字を賜ったものと考えられるが、貞時の先代にあたる8代執権・北条時宗(執権在職:1268年~1284年*15)からの偏諱であろう。時宗の死から僅か7年後にあたる『実躬卿記』正応4(1291)年5月9日条に、この日の新日吉社五月会流鏑馬3番の射手として記載の人物は「干電二郎平家時」と読まれている*16が、「千竃二郎平時家」の誤記・誤読ではないかと思われる。年齢的には21~22歳位となり、左衛門尉任官の直前であったと推測される。
(参考ページ)
脚注
*1:『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ六』(1996年)P.425~426『千竃文書』二四号「平氏系図」を基に作成。一部『尊卑分脈』〈国史大系本〉第四篇 や 秩父氏 - Wikipedia #系図 と比較して異なる箇所については〔 〕で別名を記すか、赤字で修正・追加を施している。尚、緑字は『尊卑分脈』に記載のない情報である。
*2:重能の偏諱を受けたとされる葛貫能隆(河越重頼の父)についても「義隆」と表記されており、単に「よし」という読みが同じ「能」と「義」の表記違いと判断できる。
*3:江戸時代中期の歴代当主を載せる、注1前掲『鹿児島県史料』P.422~424『千竃文書』二三号「千竃氏系図」では「平家良―家正―家尚―家包―家教―正賢―嘉包」と記載されている。
*4:鈴木勝也「中世尾張千竃氏に関する一考察 ー惣領制の観点からー」(所収:『皇學館論叢』第43巻第1号、皇学館大学人文学会、2010年)。
*5:前注鈴木氏論文 P.11。
*6:前注鈴木氏論文 P.12。
*7:前注同箇所。
*8:『鎌倉遺文』第18巻13550号。村井章介「中世国家の境界と琉球・蝦夷」(所収:村井章介・佐藤信・吉田伸之 編『境界の日本史』 山川出版社、1997年)P.119~120。
*9:前注村井氏論文 P.120、同鈴木氏論文 P.20 注(14)。
*10:注1前掲『鹿児島県史料』P.411~413『千竃文書』一号。『鎌倉遺文』第29巻22608号。注4前掲鈴木氏論文 P.3~6。注8前掲村井氏論文 P.109~111。
*11:注1前掲『鹿児島県史料』 P.413『千竃文書』二号。『鎌倉遺文』第29巻22609号。注4前掲鈴木氏論文 P.7。
*12:この部分について、注4前掲鈴木氏論文 P.7~8によると『鎌倉遺文』での「ち(ぢ)とうかきうち」の判読が正しいとする。
*13:注1前掲『鹿児島県史料』 P.413『千竃文書』三号。『鎌倉遺文』第29巻22610号。注4前掲鈴木氏論文 P.7。注8前掲村井氏論文 P.110。
*14:3通書状が出された段階ではまだ元服前で幼名を名乗っていたことが分かる。【図A】で時家の子に筆時(法名本阿)が載せられていることもあってか、この熊夜叉丸は、のち室町時代初期に現れる「千竈彦六左衛門入道本阿」のこととされている(→注8前掲村井氏論文 P.108)。
*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*17:自称の可能性もあるため、桓武平氏流秩父氏の末裔であるという【図A】の情報をそのまま信ずるにも慎重になるべきだが、注3で示したが如く平姓を称していたことは事実のようなので、実際の祖先が誰かにかかわらず、千竃氏自身に伝承されていた系譜を再現したものとする。そのため、この系図については今後検討の余地があり、後考を俟ちたいところである。
千竈貞泰
千竈 貞泰(ちかま さだやす、1290年頃?~没年不詳(1334年以後か))は、鎌倉時代後期の武士、御家人、御内人(得宗被官)。千竈時家の嫡男。通称は千竈六郎。
千竈氏は桓武平氏高望流秩父氏の末裔とされ*1、鎌倉時代を通じて、尾張国千竈郷(現・名古屋市南区千竈通)を本貫とした御家人であると同時に、得宗領である薩摩国河辺郡の地頭代官という側面では得宗被官として、海上交通を掌握したとされる。
【史料A】嘉元4(1306)年4月14日付「千竈時家処分状」(『千竈文書』)*2より一部抜粋
ゆつりわたす(譲り渡す) そふん(処分)の事
合
ちやくし(嫡子)六郎貞泰かふん(貞泰が分)
(省略)
次男 弥六経家 かふん
(省略)
三男 くまやしや丸 かふん(熊夜叉丸が分)
(省略)
女子 ひめくま かふん(姫熊が分)
一さつまのくに(薩摩国)、かハのへのこほり(河辺郡)の内、ふるとのゝむらはんふん(古殿村半分)、ならひにようさくふん(並びに用作分)、大みとう(大御堂?)、次とくのしま(徳之島)たゝし一このゝちハちやくし六郎さたやすかふんたるへし(但し一期の後は嫡子六郎貞泰が分たるべし)
女子 いやくま かふん(弥熊が分)
一さつまのくに、かハのへのこほりの内、ふるとのゝむらはんふん、ならひにようさくふん、ミやした(宮下)のしやうくわうハう(しょうこう房 ※漢字不明)かあと(が跡)の田壱丁(田一丁)、次やくのしまのしものこほり(屋久島下郡) たゝし一このゝちハちやくし六郎さたやすかふんたるへし
一さつまのくに、かハのへのこほりの内、きよミつのむら(清水村)、ミやしたのむら、ならひにようさくふん、かミやまたのその田(上山田の薗田) たゝし一このゝちミな(但し一期の後皆)ちやくし六郎さたやすかふんたるへし
一するかのくに(駿河国)、あさはたのしやう(浅服庄)の内、きたむらのかう(北村郷)のかうし(郷司)職 たゝし一このゝちハちやくし六郎さたやすかふんたるへし
右そふん、くたんのことし(件の如し)、めんヽのゆつりしやう(面々の譲状)にまかせて、ゐろんなくちきやうすへし(異論無く知行すべし)、かきりある御ねんく・御くうし(限りある御年貢・御公事)けたい(懈怠)あるへからす(有るべらかず)、もしわつらひをなさんともから(患いを成さん輩)におきてハ、時家かあと一ふん(時家が跡一分)も知行すへからす(知行すべらかず)、領内にもなかくけいくわいせさすへからす(長く経廻せさすべらかず)、そのあとハそうりやうさたやすちきやうすへし(惣領貞泰知行すべし)、そうりやう又へちなうのふん(別納の分)をゐらんいたさハ(違乱致さば)、次男経家・三男くまやしや丸、そのあとをことヽ くとうふん(悉く等分)に〔←※欠損部分〕わけ知行すへし(分け知行すべし)、
(中略)
嘉元四年四月十四日 時家(花押)
こ入道とのゝしひち(故入道殿の自筆)のいましめのしやう(誠状)一つう(一通)これあり、ちやくしたるうへハ(嫡子たる上は)六郎かもとにをきて(六郎が許に於きて)、もしのわつらひもあらん時ハ、いつれの子とも(いずれの子供)の方へもこれをわたすへし(渡すべし)、
この状ハ、三つうおなしやうにかきおく(三通同じ様に書き置く)ところなり、六郎・弥六・熊夜叉丸一つうつゝわかちとるへし、(花押)
【史料B】嘉元4(1306)年4月14日付「千竈時家譲状」(『千竈文書』)*3
ゆつりあたふ(譲り与ふ)ちかまの弥六経家に、おハりの国(尾張国)ちかまの郷内ふとうのきうち(地頭垣内*4)の田畠、弥六経家にゆつりあたふるところなり、安堵御下文ハ嫡子六郎貞泰か方へつけわたす、要用之時ハ、可借用之、仍譲状如件、
嘉元四年四月十四日 左衛門尉時家(花押)
上の史料2点は鎌倉時代後期の得宗被宮・千竈時家による譲状である。嫡男・貞泰に「きかいしま(鬼界島)、大しま(大島)」等を、次男・経家に「えらふのしま(沖永良部島)」を、3男・熊夜叉丸に七島を、女子ひめくまに「とくのしま」をと、分割して譲るとしている。
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ここで注目してみたいのが、各人物の名乗りである。
時家の嫡男で惣領の座を約束された「六郎貞泰」は、のちに父と同じく左衛門尉に任官したことが確認される(後述参照)が、この当時は「六郎」*5と称するのみで無官であったことが窺える。これは元服からさほど経っておらず若年であったためであろう。
次弟・経家も元服は済ませて「弥六」を称しているが、三弟はまだ幼名の熊夜叉丸を名乗っていた。熊夜叉丸は室町時代初期に現れる「千竈彦六左衛門入道本阿」のこととされており*6、これが正しければ系図*7上に見える筆時が俗名となる(「時」は父・時家の1字を継承か)が、筆時(本阿)の子は忠家を名乗っており、その後千竈家徳氏に至るまで時家―経家間で継承された「家」が千竈氏の通字であったことが窺える。
それに対し、貞泰は嫡男であったにもかかわらず父・時家の字を継承していないが、「時家―貞泰」の名乗りは、得宗「時宗―貞時」から連続的に偏諱を受けていることが分かる。北条貞時は正安3(1301)年8月に出家して9代執権を辞したものの、嘉元4年当時も「得宗家当主・副将軍」として健在であった。次弟・経家までもが元服を済ませていたことを考えると、恐らく千竈貞泰は執権在任であった貞時(在職:1284年~1301年)*8を烏帽子親として元服を遂げたのではないか。
約1年後にあたる次の史料において、貞時の下、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*9)」の結番の一人となっている「千竃六郎」 も貞泰に同定される*10。
【史料C】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*11より一部抜粋
(前略)
七 番
安東左衛門尉 工藤右近将監
佐介越前守 南條中務丞
小笠原四郎 曾我次郎左衛門尉
工藤左近将監 千竃六郎
(以下略)
右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
徳治二年五月 日
以後、しばらく史料上でその名を確認することは出来ないが、村井章介氏によると次の書状の宛名「千竈六郎左衛門入道殿」が年代的に貞泰ではないかとしている*12。これが正しければ【史料C】の後、父・時家と同じく左衛門尉に任官して出家し、鎌倉幕府滅亡後も存命であったことになる。
【史料D】建武元(1334)年6月26日付 観忍 書下写(『旧記雑録前編』1-1699号)
薩摩国河辺郡内黒嶋郡司職事、以円覚如本所被返付也、可被存其旨之由、依仰執達如件、
建武元年六月廿六日 観忍 奉
千竈六郎左衛門入道殿
(参考ページ)
脚注
*1:『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ六』(1996年)P.425~426『千竃文書』二四号「平氏系図」より。
*2:前注『鹿児島県史料』P.411~413『千竃文書』一号。『鎌倉遺文』第29巻22608号。
村井章介「中世国家の境界と琉球・蝦夷」(所収:村井章介・佐藤信・吉田伸之 編『境界の日本史』 山川出版社、1997年)P.109~111。
鈴木勝也「中世尾張千竃氏に関する一考察 ー惣領制の観点からー」(所収:『皇學館論叢』第43巻第1号、皇学館大学人文学会、2010年)P.3~6。
*3:注1前掲『鹿児島県史料』 P.413『千竃文書』二号。『鎌倉遺文』第29巻22609号。注2前掲鈴木氏論文 P.7。
*4:この部分について、注2前掲鈴木氏論文 P.7~8によると『鎌倉遺文』での「ち(ぢ)とうかきうち」の判読が正しいとする。
*5:弟の経家、筆時(本阿)も「弥六」「彦六」を称しており、この場合は必ずしも6男を意味するものではない。弘安2(1279)年4月11日付「六波羅御教書案」(『大隅台明寺文書』、『鎌倉遺文』第18巻13550号)の宛名「千竈六郎入道殿」は当時の千竃氏嫡流の当主であったとみられ、【史料A】における「故入道殿」と同人で、恐らくは時家の先代(父親)にあたる人物ではないかと思われる(→ 注2前掲村井氏論文 P.120、同鈴木氏論文 P.20 注(14))。
*6:注2前掲村井氏論文 P.108。
*7:注1前掲『鹿児島県史料』P.425~426『千竃文書』二四号「平氏系図」。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*9:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)。
*10:注2前掲鈴木氏論文 P.15。
*11:『鎌倉遺文』第30巻22978号。
*12:注2前掲村井論文 P.120~121。
石川時光
石川 時光(いしかわ ときみつ、1260年頃?~1335年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏の第13代当主。
時光公
母堂経時朝臣女、称六郎、実山月公之季子、先公養為世子、於鎌倉府執政北條氏之第加首服、乞時宗之偏諱、改時光、元弘三年(※注記省略)七月朔日上洛、以足利治部大輔高氏、為御味方上洛之旨、……(以下略)
この系図では石川家光の子としながらも、実は「山月公」=石川盛義(諡:山月成川)の末子*2であったとしており、長兄・家光の世子(養嗣子)*3となったようである。そして、鎌倉幕府執権・北条氏の邸宅*4で元服して北条時宗の偏諱を乞(こ=請)い、(幼名から)時光に改めたと伝える。
母は経時の娘であったというが、4代執権・北条経時のことだろう*5。すなわち、時光の母親は時宗の従姉妹にあたり、この縁もあって烏帽子親を依頼したのではないかと思う。
経時 (1214-1246) の外孫にあたる時光の生年は早くとも1250年代半ばと推定可能で、北条時宗執権期(在職:1268年~1284年*6)の元服であることは間違いない。
兄・家光の子で自身の養子に迎えた貞光も次期得宗・北条貞時を烏帽子親として元服したと伝わる。
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上記【史料】での「元弘三年~」の記載は、足利高氏(のち尊氏)が花押を据えた、元弘3(1333)年7月2日付の書状(『板橋文書』)に「陸奥国石河□〔六カ〕郎源時光、□為御方、今月一日参洛候」とある*7によって、その実在とともに確認ができる。 鎌倉幕府滅亡から間もないこの頃には安芸国の三戸頼忠、肥後国の宇治(上島)惟頼など、全国各地から御家人が京都に馳せ参じ、建武新政権に参加したのであった。
(参考ページ)
● 石川氏一千年史. 上卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション
脚注
*1:『大日本史料』6-2 P.374。『大日本史料』6-1 P.163。
*2:季子が末子の意。季子(キシ)とは - コトバンク より。
*4:聚楽第などの例があるように、史料上では邸宅の意で「第」の1字が使われることが少なくない(→ 第(ダイ)とは - コトバンク)。また、北条氏の邸宅で元服が行われた他の事例については 鎌倉時代の元服と北条氏による一字付与 - Henkipedia を参照のこと。
*5:石川盛義 - Wikipedia、石川氏一千年史. 上卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。
*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
石川貞光
石川 貞光(いしかわ さだみつ、生年不詳(1280年代?)~1341年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。大和源氏の流れを汲む陸奥石川氏の第14代当主。
系図では石川時光の子としながらも、実は「通山公」=石川家光(時光の兄、諡:通山道宗)*2の嫡子であった故に世子に立てられたとする。先代の叔父・時光は家光の養嗣子となっていたが、恐らく貞光が生まれていなかったか、幼少であったためだと思われる。
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家光嫡男の加冠(元服)は鎌倉幕府において行われ、9代執権・北条貞時の偏諱を乞(こ=請)い「(石川)太郎貞光」と名乗ることを許されたというが、同系図によれば先代・時光も8代執権・北条時宗の邸宅で元服してその偏諱を受けたといい、この「嘉例」によったものだと伝える。成長した貞光が時光の跡目に定められ、当時の得宗・貞時を烏帽子親としたのであった。
上記【史料】では、貞光の母を「義生朝臣」の娘と伝えるが、畠山義生(よしなり?、畠山泰国の子)のことであろうか。『尊卑分脈』*3によると義生の母は北条資時(1199-1251*4)の娘であり、各親子間での年齢差を考慮すれば、義生の生年は早くとも1240年頃と推定可能である。従ってその外孫である貞光は早くとも1280年頃の生まれと推定できる。すると、貞時執権期(在職:1284年~1301年*5)の元服であった可能性は高いと判断できよう。
*『石川氏一千年史』上巻によると、家光の項に「夫人大内備前守多々良義業朝臣ノ女珉子」の記載があるが、多々良姓大内氏(周防大内氏)に「義業」の名の当主は確認できない(→ 大内氏 - Wikipedia)。「義業」が「よしなり」と読めることから、前述の畠山義生と混同され、誤って伝えられたのではないかと考えられる。
同じく『源流無尽』の系図には、貞光の弟として板橋高光(通称:二郎)の掲載があるらしい*6が、こちらは準嫡子として次の得宗・北条高時の偏諱を受けたのかもしれない。
(参考ページ)
● 石川氏一千年史. 上卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション
脚注
結城時広
結城 時広(ゆうき ときひろ、旧字表記:結城時廣、1267年(1271年とも)~1290年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。下総結城氏第4代当主。
父は結城広綱。母は二階堂行忠の娘*1。
市村高男氏の見解によれば、結城氏第2代当主・朝広の息子の中で、嫡男・広綱だけが「広○」型、その他の庶子が「○広」型の名乗りであることから、当初嫡流の継承者だけが「広○」型で名乗った可能性が高いが、その後「時広―貞広」と「○広」型の名乗りに変化しているのは得宗(北条時宗―貞時)からの偏諱を上(1文字目)に戴いたからであると説かれている*2。
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詳しくはこちら▲の記事で紹介しているが、幾つか伝わる系図類や過去帳によれば、時広は正応3(1290)年7月1日に20歳または24歳で死没したという。逆算すると文永4(1267)年または同8(1271)年の生まれとなる。 元服は通常10~15歳程度で行われることが多く、前述の生年に基づけば元服当時の執権は確実に北条時宗(在職:1268年~1284年*3) である。
これについて荒川善夫氏は、父である広綱が得宗家への従属を示す一環として、我が子(時広)の元服に際し、得宗家当主である時宗にその烏帽子親となるよう願い出たものではないかとしている*4。その頃は北条氏得宗家が専制体制(いわゆる "得宗専制" )を築く段階であり、結城氏も家の存続のために得宗家に接近し、また従属する姿勢を示しており、その中で得宗からの一字を受けたとみられる*5。鎌倉後期の「時広―貞広―朝高(のち朝祐)」は、御家人身分を維持したまま北条得宗家の被官となったとの指摘もあり*6、歴代得宗「時宗―貞時―高時」と烏帽子親子関係にあったことが窺える。
(参考ページ)
脚注
*1:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図H】に「母信濃判官入道行一女」(「行一」は二階堂行忠の法名)、【図I】に「母信乃判官行忠女」との注記がある。
*2:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 ―系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.97。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:荒川善夫 「総論Ⅰ 下総結城氏の動向」(所収:同氏編著 『下総結城氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉戎光祥出版、2012年)P.11。
結城貞広
結城 貞広(ゆうき さだひろ、旧字表記:結城貞廣、1289年~1309年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。下総結城氏第5代当主。
父は4代当主・結城時広。母は小山時村の娘*1。子に結城朝高(朝祐)。
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▲【図A】「結城系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本/原本:松平基則氏所蔵)*2より抜粋
「鎌倉執権北条貞時一字を授く。故に貞広と名す*3」と直接的な表現で記載されているのは珍しい。
ここには、延慶2(1309)年に21歳で亡くなったことも記されているが、他の系図類・過去帳でも確認ができることはこちら▼の記事を参照のこと。
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逆算すると正応2(1289)年生まれとなる。その裏付けとして、永仁2(1294)年の成立とされる「結城系図」*4では、時広の子が幼名で「犬次郎丸」と記載されており、当時6歳(数え年、以下同様)位であったこの頃の段階ではまだ元服を済ませていなかった事が窺える。
そして、北条貞時が出家して第9代執権を辞した正安3(1301)年*5には貞広が13歳と元服の適齢を迎えるので、それまでに元服して「貞」の偏諱を受けたと考えられるが、荒川善夫氏が紹介された次の史料により証明が可能である。
【史料B】正安2(1300)年9月日付「結城貞広・禅尼定書写」(「結城家譜草案」、『松平文庫』No.242)*6
制止 妙法寺之内狼藉事
右、被定置四至・堺上者、於〔向〕後寺中之間、郡内上下道俗男女之輩殺生以下狼藉事、令停止之、若自今以後違犯之仁者、可被行罪科旨、所定如件、
正安二年九月日
禅尼
(花押影)
是者、貞広君御十二之時、母公御判物之制止也、
この史料は、貞広とその母「禅尼」(時広未亡人、小山時村娘)が連署で発給し、結城氏の所領内にあった妙法寺(所在地不詳、荒川氏は日蓮宗寺院と推測)において、殺生以下の狼藉の停止を命じたものである*7。『結城市史』*8では「山川氏の末裔山川修二氏の所蔵の文書の中に、かつて『結城貞広公御母公御制止一通』があったと記してある」というが、荒川氏はこの【史料B】がそれに当たるのではないかと説かれている*9。
そして注記もあるように貞広は当時12歳で、その名から貞時がまだ執権在職であったこの時には既に元服済みであったことが明らかである。よって【図A】の注記の信憑性は認められよう。
(参考ページ)
脚注
*1:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図H】に「母小山判官入道女」、【図I】に「母小山四郎判官時村女」との注記がある。
*2:『結城市史』第一巻 古代中世史料編(結城市、1977年)P.664。
*3:『結城市史』第四巻 古代中世通史編(結城市、1980年)P.297。
*4:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図H】参照。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*6:荒川善夫 編著 『下総結城氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉戎光祥出版、2012年)P.359~360 より。
*7:注6前掲荒川氏著書 P.377~378。
*8:注3同箇所。
*9:注7同箇所。
【論稿】結城氏の系図について
下野の豪族・結城(ゆうき)氏は、三上山の百足退治の伝説や平将門の乱で有名な "俵藤太" こと藤原秀郷を祖とし、末裔である小山政光の3男・朝光のときに烏帽子親の源頼朝から下総国結城(現・茨城県結城市)を与えられて本領とし、これを姓としたことに始まる一族である。
鎌倉幕府の御家人、室町時代の守護大名・戦国大名として続いたが、鎌倉期の人物については多くの系図が残されており、以下本項ではそれらについて紹介したいと思う。
『尊卑分脈』結城氏系図の紹介
『尊卑分脈』は周知の通り、諸氏のものをまとめた系図集の中では成立年代が比較的古いこともあって最も信頼度が高いとされる*1。その中に結城氏の系図も収録されており、吉川弘文館より刊行の国史大系本では次の通りである*2。
この系図の特徴として、各人物の注記に書かれる情報が輩行名(「四郎」「七郎」etc.)や官途(「左衛門尉」「上野介」etc.)くらいであり、他氏と比べても実に簡素なものであることが言える。従って、この系図のみでは情報量が少なく、生没年に関するものやその他の兄弟など更なる情報の把握には、他の史料や系図類に頼る必要がある。
但し、この系図は(室町時代の成立ゆえに当然と言えばそうなのではあるが)南北朝時代初頭の人物までしか書かれておらず、足利氏など他氏で後世の者による加筆の例もある中で、比較的信憑性が高いと言えよう。
『続群書類従』所収 結城氏系図の紹介
次に、江戸時代に編纂された『続群書類従』に収録される4種類の結城氏系図を紹介する。紙面の都合上、『尊卑分脈』で書かれる部分に相当する、鎌倉時代の歴代家督を中心とした一部の抜粋のみに留める。
前節の『尊卑分脈』と明確に異なるところは、注記の情報の多さで、特にその他の兄弟や生没年に関する情報は貴重なものと言える。生没年(および享年)については次に挙げる2点の史料によって裏付けが可能である。
【図G】は系線が引かれていない系図史料であるが、寺に伝わるものであり、諸家の系図を集成したものよりは信憑性が高いだろう。【図F】では享年と命日(日付)しか記されておらず、いつ亡くなったかは書かれていないが、【図G】と照合すれば『続群書類従』の系図とほとんど一致する。或いは『続群書類従』編纂にあたってこの2点の史料が参照されたのかもしれない。
鎌倉期成立の結城氏の古系図について
市村高男氏の論文*5で紹介されている通り、前節までに紹介した系図・過去帳以外にも、鎌倉時代に成立したとされる系図が2点残されている。
▲【図H】〔永仁2(1294)年成立カ〕白河集古苑所蔵「結城系図」(結城錦一氏旧蔵)より一部抜粋*6
▲【図I】〔1320年前後成立カ〕『結城小峯文書』所収「結城系図」より一部抜粋*7
大きなポイントとして、結城氏嫡流に着目すると、【図H】では貞広が「犬次郎丸」、【図I】では貞広の嫡男(のちの朝高→朝祐)が「犬鶴丸」と、各々元服前の幼名で書かれていることが挙げられ、その他の系統でも、書かれている世代が当時元服済みであった代までで途切れていることが分かる。
例えば、小山貞朝と結城貞広はともに得宗・北条貞時(執権在職:1284年~1301年、1311年逝去)*8の偏諱を受けながら、【図H】では「貞朝」「犬次郎丸」と書かれる違いがあるが、これは貞朝が1282年生まれで元服適齢の13歳に達していたのに対し、犬次郎丸(貞広)は1289年生まれでまだ6歳であったからに他ならない。
同じく「貞」字を持つ、寒河貞光・山河貞重も、のちの【図I】で息子の世代まで書かれていることから、やはり貞時執権期に元服を遂げた、貞朝とほぼ同世代の人物と考えて良いだろう。
脚注
*1:『尊卑分脈』の使い方(記事執筆:細川重男氏)より。
*2:同内容を載せる 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 5 - 国立国会図書館デジタルコレクション もあわせて参照のこと。
*3:『結城市史』第一巻 古代中世史料編(結城市、1977年)P.689。
*4:『結城市史』第四巻 古代中世通史編(結城市、1980年)P.931。紙面の都合で原本とは配置を若干変えている。
*5:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 ―系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)。
*6:前注市村氏論文 P.68~72。
*7:前注市村氏論文 P.78~82。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。