Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

足利頼氏

足利 頼氏(あしかが よりうじ、1240年~1262年)は、鎌倉時代中期の武将、鎌倉幕府御家人。足利宗家第5代当主。父は足利泰氏、母は北条時氏の娘北条時頼の妹)。初名は足利利氏(ー としうじ)。

 

吾妻鏡』における初見は建長4(1252)年11月11日条の「足利大郎〔太郎〕家氏 同三郎利氏」である。紺戸淳によると、家氏がこれまで『吾妻鏡』に寛元3(1245)年8月15日条~建長3(1251)年8月15日条までの7年間、5箇所で「足利三郎家氏」と記されてきた*1のに対して「三郎」を名乗る人物が利氏(頼氏)に変わっている。足利義兼以来、足利氏嫡流の当主は必ずしも兄弟の順序に関係なく代々「三郎」を称しており、母の出自の違い(家氏の母は名越朝時の娘)に伴って、建長3~4年の間に泰氏の嫡子の座が家氏から利氏(頼氏)へ変化したことを表すものであると考えられている*2

利氏が「三郎」の輩行名(通称)を名乗ったのは当然元服の時と思われるが、『吾妻鏡』建長4年4月1日条では家氏の通称が「足利大郎家氏」と変化しているので、この時までに利氏元服を済ませたと考えて良いだろう。更に、遡って建長3年12月2日には父の泰氏が出家しており(→『吾妻鏡』同日条)、これを受けて利氏家督を継承したと考えられるので、建長3年末までに元服も済ませていたのではないか。利氏の元服は建長3年8月15日~12月2日の間に行われたと推定される。

先行研究により仁治元(1240)年生まれとするのが有力であるが、その場合建長3年当時12歳(数え年、以下同様)となって、元服の年齢として妥当である。

 

この利氏がのちの頼氏であることは次の史料によって裏付けられる。 

【史料】『吾妻鏡』建長8(1256=康元元)年8月11日条 より

建長八年八月小十一日己巳。雨降。相州御息被加首服。号相摸三郎時利 後改時輔。加冠足利三郎利氏 後改頼氏

当時の執権「相州」=相模守・北条時頼の息子である北条時輔元服を伝える記事である。が加冠役(烏帽子親)を務めており、この時は「」の字が与えられて「(北条)時(ときとし)」と名乗ったようである。利氏自身も当時17歳と若かったが、母方の伯父でもあった時頼からの指名を受けたものと推察される。

この記事にも "後に改名した" と書かれているように、この頃から利氏の名前の表記が「」に変化しており、先行研究で既に説かれている通り、時が執権を辞する数ヶ月前のこの頃に、その「」の偏諱を与えられたと考えて良いだろう。この理由について筆者は、近く出家を考えていた時頼が、自身の引退前に時利(時輔)との烏帽子親子関係を形式上解消させておき、得宗たる自身と直接烏帽子親子関係にある状態を創り出す意図があったのではないかと推測する(詳しくは次の記事を参照していただきたいと思う)。

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その他詳細は

 足利頼氏 - Wikipedia

 足利頼氏(あしかが よりうじ)とは - コトバンク

を参照いただければと思う。

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.26「家氏 足利」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*2:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.13。

小笠原貞宗

小笠原 貞宗(おがさわら さだむね、1292年頃~1347年)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃守護。仮名は彦五郎。官途は信濃守。

小笠原貞宗 - Wikipedia

▲『集古十種』に掲載の小笠原貞宗卿 木像(鎌倉禅巨庵蔵)

 

幼名は豊松丸。今野慶信がご紹介のように、各種小笠原系図*1や『甲斐信濃源氏綱要』*2によると、徳治元(1306)年11月20日に13歳(数え年)元服したという*3。逆算すると永仁2(1294)年生まれ。「」の名乗りに着目すると、「宗」が父からの継字と考えられるから、わざわざ上(1文字目)に置く「」が烏帽子親からの一字拝領と推測されるが、鈴木由美が述べられる通り、当時の得宗北条偏諱で間違いないだろう*4

今野氏は徳治元年当時、貞時は法体の身であった法名:崇演)ことから烏帽子親として良いかについては回答を保留されているが、出家したからといって俗名が変わることはないし、またこの頃は得宗家当主として依然として権勢を保ち "副将軍" 等と呼称されていたこと*5、次期得宗である嫡子の成寿(のちの高時)がまだ元服の段階になかったこと*6を踏まえれば、貞時が加冠あるいは一字付与を行っていても良いのではないかと思う。

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こちら▲の記事で、父・宗長が他の御家人とは異なって、祖先・新羅三郎源義光以来の慣例に倣う形で園城寺新羅明神の社前において元服しており、「宗」字は得宗北条時宗に対して偏諱の申請を行い「一字書出」等のやり取りがあったのではないかと推測した。貞宗元服の場所は同じであり、同様に「貞」字の申請がなされたのではないかと思われる。

 

鈴木氏と花岡康隆の論考によれば、内閣文庫蔵『御的日記』延慶3(1310)年正月10日条・同4(1311=応長元)年正月10日条に「小笠原彦五郎貞宗*7の名が見られるといい、これが貞宗の史料上における初見である。応長元年10月26日まで時は存命であり*8、その「」の偏諱を許されていたことが分かる。

 

この後はしばらくの間を経て、次に示す鎌倉末期の史料に再び現れるようになる。 

 

史料1】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*9

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥(大仏貞直)       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏?)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎胤貞
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道(貞久)     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉(宇都宮高房)  安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々(高知?)          佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道祐宗       宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光?)     □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)       遠江前司
 武田伊豆守           三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)       狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道貞親        信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉(朝高)
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参

(*http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。) 

 

【表2】(正慶元/元弘2(1332)年)『太平記』巻6「関東大勢上洛事」*10における幕府軍の構成メンバー

<相摸入道(=得宗北条高時)一族>

阿曾弾正少弼(=治時)名越遠江入道大仏前陸奥守貞直・同武蔵左近将監・伊具右近大夫将監・陸奥右馬助

<外様>

千葉大介・宇都宮三河(=三河権守貞宗?)小山判官・武田伊豆三郎・小笠原彦五郎・土岐伯耆入道(=頼貞)・葦名判官(=盛貞)・三浦若狭五郎(=時明?)千田太郎・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守(=大原時重?)・結城七郎左衛門尉(=朝高)・小田常陸前司(=時知?)・長崎四郎左衛門尉(=高貞)・同九郎左衛門尉(=師宗?)・長江弥六左衛門尉(=政綱?)・長沼駿河(=駿河権守宗親?)・渋谷遠江(=遠江権守重光?)河越三河入道・工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司(=祐光)同大和入道・安藤藤内左衛門尉(=藤内左衛門入道円光)宇佐美摂津前司二階堂出羽入道・同下野判官(=二階堂高元)・同常陸(=二階堂宗元?)・安保左衛門入道(=道堪)・南部次郎・山城四郎左衛門尉、他132人

307,500余騎

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<その他>

河野九郎(通盛)ら四国勢:大船300余艘

厚東入道(武実)・大内介(重弘?)・安芸熊谷(直経?)ら周防・長門勢:兵船200余艘

甲斐・信濃源氏(武田・小笠原氏などか)7,000余騎

江馬越前守・淡河右京亮(時治か)ら率いる北陸道7箇国勢:30,000余騎

いずれも鎌倉幕府滅亡前、倒幕の挙兵に対して幕府側が京に派遣した軍勢のメンバーを載せたものである。その中の「小笠原彦五郎」は前述の『御的日記』に加え、『尊卑分脈*11等とも照らし合わせても、やはり貞宗に比定される。父・宗長もこの頃はまだ存命であったが、その呼称が「小笠原信濃入道」であったことはこちら▼の記事で述べた通りである。

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鎌倉幕府滅亡後は、元弘3(1333)年8月4日付の「後醍醐天皇綸旨」東京大学史料編纂所蔵『小笠原文書』)の宛名には「小笠原彦五郎」とある*12一方、『建武記』(『建武年間記』)建武元(1334)年10月14日条に北山殿笠懸射手の1人として「小笠原信濃守 貞宗」と記載が見られる*13ので、貞宗信濃守任官はこの1年の間で行われたことになる*14足利高氏(のちの尊氏)に呼応して鎌倉攻めに参加した功績により建武政権から父がかつて就任していた信濃守への任官が許されたのであろう。同時に信濃守護職も与えられている。 

 

『師守記』貞和3/正平2(1347)年5月26日条に「今日小笠原信乃入道正宗他界」という記述があり*15、『開善寺過去帳』にも「泰山正宗大居士、貞和三年丁亥五月廿六日、世寿五十六載〔歳〕而逝矣、……」とある*16。『尊卑分脈』の貞宗の注記に「法名正宗 五十七才卒」*17とあること、「信乃(=信濃入道」という通称名が最終官途=信濃守で出家したことを表すものとして相応しいことから、小笠原貞宗を指すことは間違いなかろう。

過去帳と『尊卑分脈』で享年が若干異なるが、逆算すると1291~1292年頃の生まれとなる。これは冒頭で掲げた生年(1294年)と若干ずれるが、いずれにせよ1290年代前半の生まれということには間違いないだろう。『甲斐信濃源氏綱要』等にあった13歳での元服というのも年齢的に問題はなく、生年がいずれであってもその年次は1300年代初頭となり、当時の得宗北条貞時の1字を賜ったことは確実と言って良いと思う。

 

(参考ページ)

 小笠原貞宗 - Wikipedia

 小笠原貞宗(おがさわらさだむね)とは - コトバンク

南北朝列伝  #小笠原貞宗

小笠原貞宗 

 

脚注

*1:「越前勝山 小笠原家譜」(→『大日本史料』6-10 P.658)、「豊前豊津 小笠原家譜」(→ 同前 P.662)など。

*2:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*3:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.52 註(10)。

*4:鈴木由美「御家人得宗被官としての小笠原氏 ー鎌倉後期長忠系小笠原氏を題材にー」(所収:『信濃』第64巻第12号 (通巻755号)、信濃史学会、2012年)P.955 脚注24。

*5:得宗貞時・高時の「副将軍」呼称については、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.263~264 注(55)を参照のこと。

*6:高時の元服は延慶2(1309)年1月21日である。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*7:花岡康隆「鎌倉後期小笠原氏一門の動向について 信濃守護系小笠原氏と藤崎氏を中心にー」(所収:『信濃』第62巻第9号、信濃史学会、2010年)P.675。注4前掲鈴木氏論文 P.947。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*9:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*10:「太平記」関東大勢上洛事(その1) : Santa Lab's Blog より。

*11:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*12:『鎌倉遺文』第41巻32445号。『大日本史料』6-1 P.170『信濃史料』巻5 P.216

*13:『大日本史料』6-2 P.36

*14:建武2(1335)年の書状中にも「小笠原信濃貞宗」と書かれており(→『大日本史料』6-2 P.464)、建武政権下で任ぜられたことは確かであろう。

*15:『大日本史料』6-10 P.657

*16:前注同箇所。

*17:前注同箇所 および 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

小笠原宗長

小笠原 宗長(おがさわら むねなが、1272年~1333年)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将。信濃小笠原氏の当主。父は小笠原長氏、母は伴野長房(長泰の誤りか)の娘と伝わる。

 

 

北条時宗の烏帽子子

今野慶信がご紹介の通り、『甲斐信濃源氏綱要』(以下『綱要』とする)*1、『系図綜覧』*2や『諸家系図纂』*3に所収の各小笠原氏系図によると、弘安7(1284)年正月11日に13歳(数え年)元服したという*4。逆算すると文永9(1272)年生まれ。「」の名乗りに着目すると、「長」が小笠原氏の通字であるから、わざわざ上(1文字目)に置く「」が烏帽子親からの一字拝領と考えられるが、鈴木由美が述べられる通り、当時の執権・北条時偏諱で間違いないだろう*5時宗が同年4月4日に亡くなる僅か数ヶ月ほど前のことであった。

時宗の代にも「鎌倉府執政北條氏之第」で元服し「乞(こ)時宗偏諱」うたという石川時光や、鎌倉で元服したという戸次時親の例が挙げられるが、山野龍太郎が他の例を紹介されている通り、得宗が烏帽子親を務めた元服の儀は鎌倉にある北条氏の邸宅で行われる傾向にあった。それに対し『綱要』によれば宗長元服の場所は新羅明神の社前であったが、これは祖先・新羅三郎源義光以来の慣例に倣ったものである。時宗自身の元服を伝える『吾妻鏡』の記事には、烏帽子親である将軍・親王からの「時」と書いた「書下」の存在が確認され*6、今野氏はこれが後の一字書出(加冠状)に繋がるものと説かれている*7。時光などの例を見る限り、偏諱は申請して認可を受けるものだったようなので*8得宗専制が強まる中で協調・従属的な姿勢を示すためか、小笠原氏側から得宗家に「宗」字を請い、史料は残っていないが「書下(加冠状)」のようなものでやり取りが行われたのではないかと推測される。

 

 

当主としての活動

小笠原宗長の史料上における初見は、次の史料とされる。 

【史料1】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*9

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

(省略)

 四 番
  伊具三郎左衛門入道  小笠原孫次郎
  佐介殿        長崎三郎左衛門入道(=思元)
  土肥三郎左衛門尉   下山刑部左衛門入道
  塩飽三郎兵衛尉    佐野左衛門入道

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

徳治2年に定められた、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎」北条時宗忌日)における結番4番衆の一人に「小笠原孫次郎」の名があり、『尊卑分脈*10や『綱要』等との照合により宗長に比定される*11。前述の生年に従えばこの当時36歳。この時はまだ信濃に任官していなかったことになるが、武田氏など甲斐・信濃源氏の諸氏に関しては国守任官年齢が40代以上と遅い傾向にあったので特に問題は無いと思われる。

また『小笠原系図』によると、宗長の父・長氏は正安2(1300)年2月15日に出家したらしく*12、宗長が家督を譲られていた可能性が高い。この頃から小笠原氏当主として幕府に奉公していたと判断される。

 

『綱要』や『系図纂』等では、元亨3(1323)年2月15日に剃髪し、元徳2(1330)年9月6日に亡くなったとするが、この情報には疑問がある。実際の史料と照らし合わせてみよう。

『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)によると、元亨3年10月27日の貞時13年忌供養において「小笠原信乃前司」が「砂金20両 銀剣一 馬一疋 置鞍、栗毛、」を進上しており、『神奈川県史』はこれを宗長の子・貞宗に比定する*13が、後の史料により貞宗はこの頃「彦五郎」を名乗っていたと考えられるので、これは宗長とすべきであろう。すなわちこの当時はまだ出家していなかったことになる。前述の生年に従うとこの当時52歳。信濃守に任官し辞した年齢としては十分に適していると思う。

 

尊卑分脈』宗長の項では「信乃守」「孫二郎」の注記と共に「法名順長(じゅんちょう)」の記載があり、実際、貞時供養より後に出家していたことが後述【史料2】で確認できる。前述の剃髪の年月日は、元亨3年12月15日、元亨4年2月15日、元3(1331)年2月15日などの誤記であろう。

 

【史料2】(元弘3(1333)年4月日付)「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*14
大将軍
 陸奥大仏貞直遠江国       武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国
 遠江尾張国            武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国
 駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国  足利宮内大輔(吉良貞家)三河国
 足利上総三郎吉良満義        千葉介貞胤一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国         宇都宮三河権守貞宗伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国             小山大夫判官高朝一族
 小田尾張権守(高知)一族         結城七郎左衛門尉(朝高)一族
 武田三郎(政義)一族并甲斐国      小笠原信濃入道 一族
 東大和入道祐宗 一族        宇佐美摂津前司貞祐一族
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)一族    安保左衛門入道(道堪)一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族      河越参河入道貞重一族
 三浦若狭判官(時明)         高坂出羽権守(信重)
 佐々木隠岐前司清高一族      同備中前司(大原時重)
 千葉太郎胤貞

勢多橋警護
 佐々木近江前司(京極貞氏?)       同佐渡大夫判官入道京極導誉

(*http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

倒幕の挙兵に対し、幕府側は軍勢を上洛させたが、その中に一族をまとめる「小笠原信濃入道」の名がある。同じく元弘年間に上洛した「小笠原彦五郎*15が前述の各系図類との照合により嫡男・貞宗に比定され、貞宗信濃守となったのも後のことであるため、この信濃入道は前述の「小笠原信乃前司」が出家した同人で、やはり宗長(順長)に比定されよう。 

 

また、『小笠原文書』には5月16日*16、6月7日・8日*17の各日付で足利高氏(のちの尊氏)が「小笠原信濃入道殿」宛てに送った書状が残されているが、後者6月の書状に「関東合戦……静謐*18」という記述が見られることから、元弘3(1333)年5月22日の鎌倉幕府滅亡前後に出されたものと推定される。高氏が「尊氏」と改名したのは幕府滅亡から数ヶ月後のことであり、それ以前に出された書状であることは確実である。従って、この頃も宗長はまだ存命であった。

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但し、同年8月4日付の「後醍醐天皇綸旨」東京大学史料編纂所蔵『小笠原文書』)の宛名には「小笠原彦五郎」とある*19ので、病気に悩まされていたのか、宗長から彦五郎貞宗に当主の座が譲られていることが窺えよう。

「元徳二年九月六日」は「元弘三年九月六日」とすべきところを書写の際に誤って記してしまい、そのまま誤伝されたものではないかと思う。

 

(参考ページ)

 源・小笠原宗長は中原宗長と同一人物か? - 九里 【九里】を探して三千里 

 

脚注

*1:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*3:『編年史料』後醍醐天皇紀・元徳2年8~12月 P.13

*4:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.52 註(10)。

*5:鈴木由美「御家人得宗被官としての小笠原氏 ー鎌倉後期長忠系小笠原氏を題材にー」(所収:『信濃』第64巻第12号 (通巻755号)、信濃史学会(以下同じ)、2012年)P.955 脚注24。

*6:北条時宗 - Henkipedia 参照。

*7:注4前掲今野氏論文 P.44。

*8:鎌倉時代の元服と北条氏による一字付与 - Henkipedia 参照。

*9:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*10:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*11:熊谷知未「小笠原氏と北条氏」(所収:『信濃』第43巻第9号、1991年)P.827~828。花岡康隆「鎌倉後期小笠原氏一門の動向について 信濃守護系小笠原氏と藤崎氏を中心にー」(所収:『信濃』第62巻第9号、2010年)P.675。注5前掲鈴木氏論文 P.948~949。

*12:注2同箇所より。尚、同系図によると小笠原長氏は延慶3(1310)年8月13日まで存命であったといい(享年65)、晩年は隠居していたのではないかと思われる。

*13:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.705・708。

*14:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*15:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*16:『鎌倉遺文』第41巻32165号。『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年5月15~20日 P.56

*17:『鎌倉遺文』第41巻32246号・32251号。『大日本史料』6-1 P.94『信濃史料』巻5 P.206~207

*18:世の中がおだやかに治まること。静謐(セイヒツ)とは - コトバンク より。

*19:『鎌倉遺文』第41巻32445号。『大日本史料』6-1 P.170

五大院宗繁

五大院 宗繁(ごだいいん むねしげ、1270年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武士、御内人得宗被官)。通称は五大院太郎右衛門尉か。

 

軍記物語であるが『太平記』の次の部分に宗繁なる人物が登場する。 

【史料1】『太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」より*1 

……中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入道殿(=北条高時の重恩を与たる侍なる上、相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、甥也。主也。……

1333年の鎌倉幕府滅亡直後の部分を描いた箇所であるが、通称名や「○繁」という名乗りの類似、年代の近さからであろうか、先行研究では専ら、元亨3(1323)年10月の故・北条貞時(9代執権、1311年逝去)13年忌供養について記した『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』、以下『供養記』と略す)にある「五大院右衛門太郎高繁*2と同人とされる。

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こちら▲の記事で筆者は【史料1】の「宗繁」は本来「高繁」と記すべきところを、単なる誤記か、軍記物語ゆえ意図的な脚色でわざと変えたかの理由で父親の名前を記してしまったものと推測した。『供養記』での高繁の通称「五大院右衛門太郎」は、「五大院右衛門(尉)」の「太郎(長男)」を表すものであり、高繁の父の通称が「五大院右衛門尉」であったことが分かるが、【史料1】での宗繁に等しい。勿論、1333年当時高繁が父親と同じく右衛門尉であった可能性も否めないが、「宗繁」という名をただの思いつきで書くとも考え難いので、先代の「五大院右衛門尉」の実名を記した可能性を一説として掲げたい。「繁」の名は14代執権・北条時からの一字拝領によるものに間違いないと思うが、「」の「」字も8代執権・北条時(高時の祖父)偏諱なのではないか。

 

高繁の父「五大院右衛門尉」と思しき人物は、次の史料で確認ができる。 

【史料2】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*3

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

(省略)

 八 番
  諏方左衛門尉    塩飽右近入道
  主税頭       諏方三郎左衛門尉
  安保五郎兵衛入道  五大院太郎右衛門尉
  本間五郎左衛門尉  岡田十郎

 

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

徳治2年、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎」北条時宗忌日)における結番8番衆の一人に「五大院太郎右衛門尉」の名がある。『鎌倉遺文』では高繁に比定するが、「太郎右衛門尉」は仮名(輩行名)が太郎で右衛門尉に任官済みであることを表すもので、「右衛門太郎高繁」とは別人とすべきである。但し、高繁と同じ「太郎」の仮名を持つことからすると、この人物が高繁の父である可能性が高い。

他の例を見ると右衛門尉には20~30代で任官する傾向にあったから、太郎右衛門尉の生年は遅くともおよそ1277~1287年の間に推定される。弘安7(1284)年4月までは北条時得宗家当主・8代執権の座にあった*4から、この太郎右衛門尉の実名が「繁」であったとしてもおかしくないだろう。

また上記記事で高繁の生年を1304年と推定した。現実的な親子の年齢差を考えれば、宗繁は1284年までに生まれたと考えられるから、時宗執権期間での元服はほぼ確実と言って良いだろう。元服は通常10~15歳で行われることが多かったので、生年は遅くとも1270年前後と推定される。

 

(参考ページ)

 五大院宗繁 - Wikipedia

 五大院宗繁(ごだいいん むねしげ)とは - コトバンク

御内人人物事典 ー 五大院宗繁

 五大院右衛門宗繁相模太郎を賺す事 | ぐりのブログ

 

脚注

*1:『大日本史料』6-1 P.55~ も参照のこと。

*2:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.692。

*3:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

五大院高繁

五大院 高繁(ごだいいん たかしげ、1304年頃?~1333年)は、鎌倉時代後期の武士、御内人得宗被官)。実際の史料で確認できる通称は五大院右衛門太郎。妹は北条高時の側室・常葉前(ときわのまえ)

 

 

生年と烏帽子親の推定

元亨3(1323)年10月の故・北条貞時(9代執権、1311年逝去)13年忌供養について記した『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』、以下『供養記』と略す)によると、同月21日の円覚寺法堂上棟の際に「禄役人」を務めるメンバーの一人に「五大院右衛門大郎〔ママ〕高繁」の名が含まれており*1、27日朝にも「五大院右衛門太郎」が「近衛少将(=徳大寺実茂か*2に「馬一疋葦毛、銀剱一」を「名越土佐前司殿」が進上した際の「御使」を務めていることが確認できる*3

 

ここで次の史料も見ておきたい。 

【史料1】『太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」より*4 

……中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入道殿(=北条高時の重恩を与たる侍なる上、相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、甥也。主也。……

太平記』は本来軍記物語であるが、【史料1】はそのうち鎌倉幕府滅亡直後の部分を描いた箇所である。ここでは五大院宗繁(むねしげ)という人物が登場するが、通称名や「○繁」という名乗りの類似、年代の近さからであろうか、先行研究では専ら、宗繁=高繁とされる。

正中2(1325)年のものとされる11月22日付「金沢貞顕書状」*5には「太守御愛物 常葉前」が男子を出産したとの記載があり、北条邦時に比定される*6。そして【史料1】との照合により、この「常葉前」が宗繁(高繁)の妹であったと考えられる。従って現実的な親子の年齢差を考えれば、常葉前は遅くとも1305年頃までには生まれている筈である。夫の高時が嘉元元年12月2日(西暦:1304年1月9日)生まれである*7ことを考えると、ほぼ同世代とみて良いのではないか。その兄である宗繁(高繁)も1300年代初頭の生まれであろう。

 

『供養記』での高繁の通称「五大院右衛門太郎」は、「五大院右衛門(尉)」の「太郎(長男)」を表すものであり、元亨3年当時高繁はまだ無官であったことが窺える。父親と同じく右衛門尉に任官する可能性はあるだろうから、元服してさほど経っていない若年であったためと考えられよう。元服は通常10~15歳程度で行われることが多く、他の例を見ると右衛門尉には20~30代で任官する傾向にあったから、高繁の元服は1310年代~1320年代初頭にかけての期間に推定される。よって、世代的には高繁=宗繁としてもおかしくないと思う。

 

ではどちらの名乗りが正しいかと言えば、やはり史料の性格上「」を採用すべきであろう。詳しくは後述するが「繁」は五大院氏の通字の一つと考えられるので、一方の「」の字は、1311年に得宗家督を継ぎ、1316年から14代執権を務めた*8が烏帽子親となり、その偏諱を与えられたものに間違いないと思う。妹が嫁いでいる関係で高時は義弟にあたるが、高時は延慶2(1309)年に7歳で既に元服を済ませていた*9。高時正室の安達氏(兄弟)の例と同様に、婚姻関係と烏帽子親子関係に連動性があるものと推察される。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

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ところで【史料1】での五大院宗繁は、『供養記』での高繁と通称が異なるが、高繁の父「五大院右衛門(尉)」その人かもしれないし、或いは後に父と同じく右衛門尉に任官した可能性も考えられるので、親子か同人かは断定しづらい。

前述したように、世代的には邦時母の兄=高繁とするのが妥当だと思うが、『系図纂要』を見ると、邦時の母は「五大院右衛門尉宗繁女(=娘)」と記載されている。勿論、江戸時代幕末期の成立である『系図纂要』が単に『太平記』からの引用を誤った可能性も考えられるが、実際これが正しいのではないか。

すなわち【史料1】は本来「高繁」と記すべきところを、父親の名前で書いたとも考えられよう。単なる誤記かもしれないし、軍記物語ゆえ意図的な脚色でわざと変えた可能性もあるが、五大院繁は同じく「五大院右衛門尉」を称した、高繁の父の名前と推測される。恐らく「宗」の字は8代執権・北条時偏諱なのではないか。

 

高繁の最期

前掲【史料1】を読み進めると、宗繁(高繁)の最期について書かれている。鎌倉幕府の滅亡時に高時からその嫡男である邦時を託された宗繁だったが、北条の残党狩りが進められる中で、やがて褒賞目当てに邦時を敵方に差し出そうと考え、伊豆山に逃がした後に新田義貞の執事・船田義昌にその場所を密告した。邦時は伊豆へ向かう途上の相模川で捕らえられ、元弘3/正慶2(1333)年5月29日に処刑されたが、裏切りの事実が新田方に伝わると宗繁は逐電。その途上で手を差し伸べる者はおらず、「遂に乞食の如くに成り果て、道路の街にして、飢死」したという。死因が餓死であるから、1333年内には亡くなったと考えて良いだろう。

 

五大院氏について

ところで、五大院氏については「御内人(=得宗被官)」であったことが分かっているだけで、家系などその詳細は明らかになっていない。五大院氏が「御内人」であったことは次の史料により裏付けられる。 

【史料2】『武家年代記』裏書・嘉元3(1305)年条 より*10

嘉元二年

同三年

……同(四)廿三子刻。時村朝臣誤被誅了。同五二。時村討手族十一人被刎首了。七田〔ママ、和田〕七郎茂明。工藤中務丞有清。豊後五郎左衛門尉光家。海老名左衛門次郎秀経〔*秀綱〕。白井小二郎〔*小次郎〕胤資。五大院九郎高頼以上御内人岩田四郎左衛門尉宗家。赤土左衛門四郎(=長忠)。井原四郎成明〔*盛明〕。肥留新左〔*比留新左衛門尉〕宗広。甘糟左衛門太郎忠貞。土岐孫太郎入道行円〔*鏡円〕已上十一〔十二の誤記か〕人。此内茂明逐電了。……

は『鎌倉年代記』裏書・同年条における表記。 

この史料は、嘉元3(1305)年の北条時村殺害事件に関与したとして五大院高頼(たかより)を含む12名が斬首となったことを伝えるものである。『鎌倉年代記』裏書にも同様かつ更に詳細な記述が見られる*11が、高頼については「九郎」のみの名乗りで無官であったことが窺える。こちらも元服してさほど経っていなかったためと思われるが、高時の元服前に「高頼」と名乗っている以上、こちらは高時の偏諱ではないだろう。のちの高繁が「太郎」と名乗ったのに対し、九郎高頼は庶子であったと思われる。

 

同じく嘉元の乱に関する別の史料として菊池紳一が紹介された『嘉元三年雑記』に掲載の「関東御教書案」にも他の五大院氏一門の者が確認できる。

【史料3】『嘉元三年雑記』より*12

(朱書)『五月』

十八日、

駿川守〔ママ〕被誅之由、関東御教書案文、自或辺到来之状云、

駿河守宗方依有陰謀之企、今日午刻被誅了、可存其旨、且就此事、在京人并西国地頭・御家人等不可発向由、可被相触子細、以武石三郎左衛門入道道可・五代院平六左衛門尉繁員所被仰也、働執達如件、

嘉元三年五月四日  相模守(=執権・北条師時在判

遠江守殿(=北条時範:六波羅探題北方)

越後守殿(=北条貞顕六波羅探題南方)

苗字の表記が「五院」と若干異なりはするが、「(しげかず)」という名からして高と同族の可能性が高いだろう。このことからも「繁」は五大院氏における通字の一つであったと推測される。武石氏*13と共に得宗被官としての活動が確認できる。 

 

その2年後、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎」北条時宗忌日)においても五大院氏一門から2名が結番に割り当てられている。

【史料4】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*14

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

(省略)

 八 番
  諏方左衛門尉    塩飽右近入道
  主税頭       諏方三郎左衛門尉
  安保五郎兵衛入道  五大院太郎右衛門尉
  本間五郎左衛門尉  岡田十郎

(中略)

  十二番

  工藤右衛門入道   五大院左衛門入道

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

8番衆の一人「五大院太郎右衛門尉」について、『鎌倉遺文』では高繁に比定するが、「太郎右衛門尉」は輩行名が太郎で右衛門尉に任官したことを表すもので、高繁の「右衛門太郎」とは異なるので、この人物が高繁の父(宗繁?)であろう。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

12番衆の「五大院左衛門入道」については、『続群書類従』所収「遠藤系図」によると、遠藤為俊の娘の一人に「相模修理亮平宗頼朝臣室。女一人出生云々。後嫁五大院左衛門尉同太郎左衛門尉母也。」と注記されており*15北条時頼(相模守)庶子宗頼(修理亮)が弘安2(1279)年6月に亡くなった*16後に五大院左衛門尉と再婚したことが分かるが、前述の「五大院左衛門入道」はこの左衛門尉が出家した同人ではないかと推測される。

同年8月日付「紀伊阿弖河荘地頭陳状案」(『高野山文書又続宝簡集』78 所収)*17にも「五大院六郎左衛門尉」の名があり、いずれも実名は分からないが、同じ「左衛門尉」の官途を持つ前述の五大院繁員の近親者なのかもしれない。

 

そして、再び『供養記』を見ると、元亨3年10月の貞時13年忌供養には高繁以外にも五大院氏一門の人物が2名参加していることが確認できる。

五大院七郎:10月27日朝、「上野四郎左衛門尉」が「馬一疋栗毛、銀剱一」を「一条侍従(=能氏)」に、「石河大寺孫太郎」が「馬一疋鹿毛」を「駿川駿河左近大夫*18」に、それぞれ進上した際の「御使」*19

● 五大院左衛門入道:10月27日の法要において「銭十貫文」を進上*20。前述の「五大院左衛門入道」或いはその息子「太郎左衛門尉」と同人か。

 

その後は、嘉暦4(1329)年正月24日付「前将軍久明親王百ヶ日仏事布施取人交名案」(『佐伯藤之助所蔵文書』)*21には「五大院兵衛太郎」なる者が確認できるが、建武元(1334)年の奥州式引付衆一番の一人「五大院兵衛太郎(『建武年間記』)*22と同人であろう。その後、興開〔興国〕元(1340)年11月26日付の「沙弥宗心」の書状にある「五大院兵衛入道*23 および 康永2(1343)年9月日付の結城親朝の書状にある「五大院兵衛入道玄照(げんしょう)*24は、兵衛太郎の父親が出家した姿であろう。五大院氏にはこのように鎌倉幕府滅亡に殉ずることなく生き残った者もいたことが窺えよう。

 

管見の限り、史料上で確認できる五大院一族は以上に挙げたものに留まる。

「五大院太郎右衛門尉(宗繁か)右衛門太郎高繁」や「五大院左衛門尉―太郎左衛門尉」等のように親子関係が分かるものもあるが、高頼(九郎)・繁員(平六)・七郎某など史料に現れる人物との関係は不明で、系図の復元は非常に困難である。

繁員の通称「平六」は、北条時定三浦義村大多和義勝*25などといった他の例を見る限り、本来は平姓で「六郎」を表す通称名の可能性がある。根拠が無く全くの推測になってしまうが、五大院氏も同じく桓武平氏に連なる家柄と考えても良いのではないか。「繁」を通字とする家柄としては、平繁盛平国香の子、平貞盛の弟)の系統が挙げられる*26。高頼の「高」は高時と同じく、祖先の平高望(国香(良望)の父)から取って命名されたとも考えられよう。このあたりは後考を俟ちたいところである。

 

 

(参考ページ)

 五大院宗繁 - Wikipedia

 五大院宗繁(ごだいいん むねしげ)とは - コトバンク

御内人人物事典 ー 五大院宗繁

 五大院右衛門宗繁相模太郎を賺す事 | ぐりのブログ

 

脚注

*1:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.692。

*2:前注『神奈川県史』P.696、P.701に「近衛少将実茂朝臣」とあり、徳大寺公直の子・実茂に該当か。

*3:前注『神奈川県史』P.705。尚、この箇所で「名越土佐前司殿」を重村(北条重村)とするが、政村流北条政長の子であり、名越流に養子入りしたとの情報も確認できないので誤りと思われる。『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」には、鎌倉幕府滅亡時の自害者の一人に「名越土佐前司時元」とあり、むしろこちらの可能性が高いだろう。名越流で該当し得るのは、年代的にやや疑問は残るが、北条時幸の子・時元である。

*4:『大日本史料』6-1 P.55~ も参照のこと。

*5:金沢文庫古文書』武将編368号、『鎌倉遺文』第38巻29255号。

*6:鎌倉年代記』裏書と同内容を記す『北条九代記』によると、元弘元(1331)年12月15日に7歳であった高時の第一子が幕府御所に於いて元服し「邦時」を名乗ったという(→『編年史料』元弘元年10~12月 P.110)。既に指摘されている通り、将軍・守邦親王が加冠役となって「邦」の偏諱を受けたものであろう。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)、北条高時 - Wikipedia より。

*8:前注同箇所。

*9:前注同箇所。

*10:国史大系. 第5巻 吾妻鏡 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*11:工藤時光 - Henkipedia【史料15】参照。

*12:菊池紳一「嘉元の乱に関する新史料について―嘉元三年雑記の紹介―」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』第3章、八木書店、2008年)P.787、P.795。

*13:千葉常胤の3男・三郎胤盛を祖とする家柄(→ 詳細は 千葉氏の一族 ー 武石氏 を参照)。武石入道道可の実名は不明だが、胤盛の仮名を継いでいることから、武石氏嫡流の者かもしれない。

*14:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*15:生駒孝臣「鎌倉中・後期の摂津渡辺党遠藤氏について ―「遠藤系図」をめぐって」(所収:『人文論究』第52巻2号、関西学院大学、2002年)P.23。

*16:『編年史料』後宇多天皇紀・弘安2年6~8月 P.5

*17:『鎌倉遺文』第30巻23037号。

*18:注1前掲『神奈川県史』P.696・698・701に「駿川左近大夫範貞」とあるので実名が「範貞」であることは確実で、P.696・706では常葉範貞に比定する。しかし、P.710の「六波羅 遠江左近大夫将監殿」をも常葉範貞としており、当時六波羅探題北方であった(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪)こと、父・時範の最終官途が遠江守である(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その33-常葉時範 | 日本中世史を楽しむ♪)ことからしても後者が正しいと判断される。ちなみに常葉範貞が駿河守となったのは6年後のことであり、「駿川左近大夫範貞」は常葉範貞と別人とすべきであるが、書状等の史料や『尊卑分脈』等の系図類で該当し得る人物は確認できず、姓氏不詳である。

*19:注1前掲『神奈川県史』P.706。

*20:注1前掲『神奈川県史』P.708。

*21:『鎌倉遺文』第39巻30497号。

*22:『大日本史料』6-1 P.414。『鎌倉遺文』第42巻32865号。

*23:『大日本史料』6-5 P.121。尚、この史料の年号は後から書き入れられたものであるらしく、実際は延元3(1338)年のものではないかとされる。

*24:『大日本史料』6-7 P.707

*25:「太平記」巻10 三浦大多和合戦意見の事(その1) : Santa Lab's Blog より。

*26:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 11 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

普音寺高基

北条 高基(ほうじょう たかもと、1316年頃?~1333年)は鎌倉時代末期の武将。普音寺流北条氏の一門。第13代執権・北条基時(普音寺基時)の子で、普音寺高基普恩寺高基(ふおんじ ー)とも呼ばれる。

 

まずは次の史料をご覧いただきたい。

【史料1】 (年次未詳)「金沢貞顕書状」(『金沢称名寺文書』)より*1

(前略)

御乗之路次無為一昨日 十七日酉刻 下着候了。左候□、同前候。返ゝ目出喜入候。神宮寺殿御乳母両人進物、去夕被遣候之処、領納。悦喜候之間、悦思給候。左候者、五月其憚候之間、来月可見候。此程も無心本候。

右馬助貞冬罷当職一級事令申候之処、一昨日有御沙汰、御免候。御教書進之候。小除目之次、可有申御沙汰候。同時ニ駿川駿河大夫将監顕義(=貞顕の兄・金沢顕実の子)越後大夫将監時益*2相模前右馬助高基相模右近大夫将監時種等御免候了。此人ゝゝ自貞冬上首候之間、不可超越候程ニ不知存候。仍竹万庄沙汰人帰洛之由、令申候之際、事付候。此人ゝゝ同時ニ被叙候之様 (中欠) 人と同日ニ可被叙候。評定衆昇進之時、引付衆・非公人之上首候哉覧と沙汰ある事ハ古今無沙汰事候。旧冬四人評定衆・鎮西管領(=赤橋英時*3御免候しも、引付衆・非公人の上首、御さたなく候き。今度始御沙汰候歟。高基時種等を被付上候。背本意候。官途執筆高親眼□事候之際、父道準(=高親の父・摂津親鑒)令申沙汰候。城入道(=安達時顕)・長崎入道(=長崎円喜はかり相計候云ゝ。内挙も罷官申候も、所望の方人にて候事なと、つやゝゝ無存知人候之間、歎入候。

(以下略)

 

(切封墨引)  五月十九日

この【史料1】は年次未詳であるが、文中に「城入道」とあることから、秋田城介・安達時顕法名:延明)が出家した嘉暦元(1326)年以後に書かれたものであることは確実である。細川重男によれば、この書状は金沢貞顕の次男・貞冬の官位昇進についてのものであるという。貞冬は右馬助を辞して一級昇進することが認められたが、貞冬の「上首」であった顕義時益高基時種を超越する形で貞冬だけを昇進させるわけにいかないということで、「上首」4名も同時に昇進することとなったようである。この4名は北条氏一門に間違いなかろう。このような処置に対し貞顕は、前年の冬に評定衆および鎮西探題が昇進した際には「引付衆・非公人」で「上首」であった者には何の沙汰も無かったという前例まで挙げて不平不満を述べていることがこの書状で窺える。

相模前右馬助」という通称名は、父が相模守で、北条高基自身が「前・右馬助」であることを表すものである。相模守は、北条時頼以降のほぼ全ての執権(6代長時と11代宗宣を除く)世襲した役職であり*4、「」の字の共通からしても、高の父はこの当時も存命であった13代執権の時に間違いなかろう。『正宗寺本 北条系図』には基時の子、仲時の弟として「高基 右馬亮〔ママ〕元弘自害」の記載が見られるが、自害については下記【史料2】により裏付けられる。『太平記』は元々軍記物語であり、「右馬助」は単に「右馬助」とすべきところの誤りであろう。 

【史料2】(元弘3(1333)年5月22日)『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」より 

…………其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実〔ママ、朝貞カ〕常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津形部〔ママ、刑部〕大輔入道・伊具越前々司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時〔正しくは、城加賀前司師景、城越前(権)守師顕 か〕・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時相摸右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部太輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量〔ママ〕同式部大夫顕高同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内大輔高親・同左近大夫将監親貞……我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。……元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

 

北条仲時は徳治元(1306)年生まれ*5で、父・基時が21歳(数え年、以下同様)*6の時の子であった。よって、高基の生年が徳治元年より大幅に遡ることはないだろう

父・基時は14歳で左馬助正六位下相当*7となって叙爵(=従五位下、19歳で越後守従五位下相当、国守)となっている。兄・仲時も25歳で六波羅探題北方となった時、既に越後守に任官済みであった*8から、基時と同様の昇進コースを歩んだのではないかと思われる。

これに対し、高基は右馬助正六位下相当*9止まりであったから、一門と共に自害した【史料2】当時はまだ国守任官の19歳に達していなかったのではないか。叙爵従五位下は【史料1】のタイミングで成されたのかもしれない。仮に享年18として逆算すると1316年頃の生まれと推定できる。

 

これに基づくと、得宗北条高時が14代執権を辞して出家した正中3(1326=嘉暦元)年には11歳と元服の適齢となる。基の「」は時が烏帽子親となって偏諱を与えられたものであろう。高基は父・基時法名:信忍)と共に鎌倉に居住し、【史料2】の通り高時と運命を共にしたのであった。

 

(参考ページ)

 普恩寺流北条氏 ー  北条高基

 

脚注

摂津高親

摂津 高親(つ の たかちか*1、1306年頃?~1333年)は、鎌倉時代末期の武士・吏僚、得宗被官(御内人)。摂津親鑒の嫡男。官途は宮内大輔。

 

 

史料上における摂津高

細川重男がまとめられた経歴表*2を示すと次の通りである。

 

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№129 摂津高親(父:摂津親鑒、母:未詳)
  生年未詳
  従五位上分脈。『中原系図』<続類従・系図部>)

  宮内大輔(分脈。『中原系図』<続類従・系図部>)
  引付衆(分脈。『中原系図』<続類従・系図部>)

1:元徳2(1330).2.   在官途奉行

2:元弘3(1333).5.22 没(為鎌倉滅亡)
 [典拠]
父:分脈。『中原系図』(続類従・系図部)。『中原系図』(『門司文書』)は親鑒の弟とす。
1:金文419に「官途執筆宮内大輔高親」とある(→後掲【史料4】)。

2:太平記・巻10 「高時幷一門以下於東勝寺自害事」(→後掲【史料8】)。

 

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次に津高の実在および活動が確認できる史料を以下に列挙する。 

 

【史料1】(元徳元(1329)年)8月29日付「金沢貞顕(崇顕)書状」(『金沢文庫文書』)*3:「…兼日為宮内大輔高親奉行…」

【史料2】(元徳元年)12月22日付「金沢貞顕(崇顕)書状」(『金沢文庫文書』)より*4

(前略)

一 常陸前司(=小田時知)伊勢前司(=伊賀兼光)佐ゝ木隠岐前等、一級所望事、宮内大輔奉行、其沙汰候。被訪意見候之間、皆可有御免之由、申所存候了。而城入道(=安達時顕 入道延明)常陸隠岐両人者、可有御免、伊せ〔伊勢〕ハ難有御免之由被申候云ゝ。刑部権大輔入道同前候歟之旨推量候。伊勢常陸よりも年老、公事先立候。丹後(=長井宗衡)筑後(=小田貞知)日来座下候。近此頭人にてこそ候へ、伊せハ十余年頭人候。器量御要人候之間、一級御免不可有其難候歟之由、再三申候了。宮内大輔披露いかゝ候らん。不審候。あなかしく。

十二月廿二日

(切封墨引)

元徳二正二、北方雑色帰洛便到」 

 

【史料3】(元徳元年?)極月29日付「金沢貞顕(崇顕)書状」(『金沢文庫文書』)*5:「…宮内大輔退座事、…」 

【史料4】(元徳2(1330)年)2月19日付「金沢貞顕(崇顕)書状」(『金沢文庫文書』)より*6

(前略)

注文一通給候了。さしつかひて、前に関東にて官途所望事承候了。無勿体候。此注文を長崎左衛門入道(=長崎円喜ニ見せ候て、返事のやうにしたかひて、官途執筆宮内大輔高親か方へわたすへく候。

(中略)

二月十九日

(切封墨引)

元徳二二廿九、芝三郎便到」

 

【史料5】元徳2年3月26日付「宮内大輔某奉書案」(『越後三浦和田文書』)*7の発給者「宮内大輔

【史料6】元徳3(1331)年12月14日付「宮内大輔某奉書」(『筑前中村文書』)*8:「宮内大輔」の署名と花押

 

【史料7】 (年次未詳)「金沢貞顕書状」(『金沢称名寺文書』)より*9 

(前略)

御乗之路次無為一昨日 十七日酉刻 下着候了。左候□、同前候。返ゝ目出喜入候。神宮寺殿御乳母両人進物、去夕被遣候之処、領納。悦喜候之間、悦思給候。左候者、五月其憚候之間、来月可見候。此程も無心本候。

右馬助貞冬罷当職一級事令申候之処、一昨日有御沙汰、御免候。御教書進之候。小除目之次、可有申御沙汰候。同時ニ駿川駿河大夫将監顕義(=貞顕の兄・金沢顕実の子)越後大夫将監時益*10。・相模前右馬助高基(=元執権・普恩寺基時の子)・相模右近大夫将監時種等御免候了。此人ゝゝ自貞冬上首候之間、不可超越候程ニ不知存候。仍竹万庄沙汰人帰洛之由、令申候之際、事付候。此人ゝゝ同時ニ被叙候之様 (中欠) 人と同日ニ可被叙候。評定衆昇進之時、引付衆・非公人之上首候哉覧と沙汰ある事ハ古今無沙汰事候。旧冬四人評定衆・鎮西管領(=赤橋英時*11御免候しも、引付衆・非公人の上首、御さたなく候き。今度始御沙汰候歟。高基時種等を被付上候。背本意候。官途執筆高親眼□事候之際、道準令申沙汰候。城入道(=延明)長崎入道(=円喜)はかり相計候云ゝ。内挙も罷官申候も、所望の方人にて候事なと、つやゝゝ無存知人候之間、歎入候。

(以下略)

 

(切封墨引)  五月十九日

  

【史料8】(元弘3(1333)年5月22日)『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」より 

去程に高重(=長崎高重)走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門(=長崎高直?)に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。道準盃を取て、「あはれ肴や、何なる下戸なり共此をのまぬ者非じ。」と戯て、其盃を半分計呑残て、諏訪入道が前に指置、同く腹切て死にけり。諏訪入道直性、其盃を以て心閑に三度傾て、相摸入道殿(=北条高時の前に指置て、「若者共随分芸を尽して被振舞候に年老なればとて争か候べき、今より後は皆是を送肴に仕べし。」とて、腹十文字に掻切て、其刀を抜て入道殿の前に指置たり。…………其外の人々には、……摂津形部大輔〔ママ〕入道……摂津宮内大輔高親同左近大夫将監親貞、……我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。……元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

 

【史料4】と【史料7】により、鎌倉時代末期には宮内大輔に任官し「官途執筆(=官途奉行)」という役職に就いていた高親という人物がいたことが分かる。そして【史料7】では高親の父が道準であったことも明記されている。同じ頃に「摂津刑部大輔親鑑〔鑒は鑑の異体字」「摂津刑部大輔入道々準」等と書かれた史料が残ることから、【史料7】での道準(親鑒)・高親父子が摂津氏であることが認められよう。軍記物語である【史料8】の内容とも矛盾なく一致しており、他の史料で単に「宮内大輔」と書かれるものも高親に比定される。

官途奉行は幕府において御家人などの官爵叙任を司る役職であった*12が、細川氏によると高親の役割は単なる事務手続きといった形式的なものに過ぎず、官途の推挙(申請)の取捨を行う等の実権は、安達時顕・長崎円喜の手にあったという(官途推挙については他に父・親鑒や金沢貞顕の計4名が発言権を有していたようである)。恐らく高親は若手であったので、政権上層部の意向に従って事務的な作業を行うだけで良かったのであろう。

 

高親の子・摂津時親

『士林証文』には、暦応4(1341)年8月12日付の摂津親秀の譲状が多く収録されており*13、自身の所領を「惣領 能直(よしなお)分」などに分割して相続させる旨を記しているが、その中で唯一例外的に「摂津三郎時親」という項目がある*14。その中身は次の通りである。

【史料9】暦応4(1341)年8月7日付「摂津親秀譲状」

一.摂津三郎時親

右親類等悉所分*1之上者、尤雖可計宛、及訴訟之間不能所分、雖然御沙汰落居*2之後、為惣領之計、以備後国重永別作内本庄半分、武蔵国岩手砂下方半分、可去与時親也、但違惣領之命者、可申賜当所之状 如件、

 暦応四年八月七日  掃部頭親秀

*1: 所領*15

*2: 物事の決まりが落ち着くこと*16 

「右(=摂津時親)親類等」の悉くの所領の事(扱い)について、訴訟に対する沙汰が決定した後に、惣領の計らいとして「備後国重永別作内本庄半分、武蔵国岩手砂下方半分」を摂津時親に与える旨を記したものであるが、「等(など)」という表現からすると当然時親以外の一門も含まれると考えられる。【系図】と照らし合わせれば、対象となり得るのは、親如(ちかゆき)・致顕(むねあき)父子の系統か、時親の系統であろう。

しかし、細川氏によると同文書に「一.隼人正入道宗準 分」と書かれている*17のは、『建武年間記』の関東廂番三番衆の一人に「前隼人正致顕」*18、康永3(1344)年3月21日付「室町幕府引付番文」(『白河結城文書』)の四番に「摂津隼人正入道」と見える*19ことから、致顕が出家した同人ではないかという。すなわち、致顕は別の項目で書かれていることが分かる。

従って、「等」に含まれるのは時親を含む兄・親鑒(道準)の系統で、「親類等悉所分」というのは、北条氏と運命を共にした親鑒やその嫡男・高親の遺領をも指す表現ではないかと思われる。【史料2】・【史料7】などを見れば、鎌倉時代末期において親鑒が摂津氏をまとめる立場にあったことは明白であるが、暦応4年の段階で次の「惣領」に嫡孫・能直を指名できる立場にあったことも踏まえると、親秀は親鑒高親父子の死に伴って摂津氏惣領の座を継承していたと考えられる。

建武元(1334)年5月、別府尾張権守幸時(別府幸時)が、後醍醐天皇から恩賞として「刑部権大輔入道道準」であった「(上野国)下佐貫内羽禰継」の地を給する綸旨を賜っており(『別符文書』)*20、一方で親秀は1330年代後半から安堵方頭人・引付方頭人としての活動が確認できる*21ので、【史料8】は軍記物語でありながら史実に基づいたものと考えて良いだろう。

尚、当時の時親は「三郎」と称するのみでまだ無官であったことが分かるが、元服してさほど経っていない段階であったからであろう。当時の年齢を元服適齢の10代前半と仮定すると、父・高親の活動期にあたる1330年頃には生まれていたことになる。従って親子の年齢差を考えれば、高親は1310年頃までには生まれていたと推定可能であろう。

 

 

摂津氏歴代の任官年齢

【史料1】より、1329年夏の段階で宮内大輔正五位下相当)*22であったことが分かる。

ここで、次に掲げる摂津氏歴代当主の官職歴を参考にしながら、高親の年齢を推定したいと思う。

 中原師員:1185年~1251年*23

権少外記正七位上相当/権官(13)

少外記(同上/正官)・叙爵従五位下(14)

大蔵権少輔従五位下相当・次官級/権官(15)

従五位上(21)

越前介正六位下相当・国介(次官級))(22)

正五位下・辞大蔵権少輔(31)

兼 大外記正六位上相当)・摂津守従五位下相当・国守(長官級))(47)

兼 大膳権大夫正五位下相当)(50)

従四位上(54)

正四位下(57)  

 中原師連:1220年~1283年*24

権少外記正七位上相当/権官(17)

兼 掃部権助・叙爵従五位下(18)

従五位上(19)

正五位下・辞掃部権助(21)

縫殿頭従五位下相当・長官級(22)

長門介(27)

 摂津親致:1247年~1303年*25

左近将監従六位上相当)(25)

摂津守従五位下相当・国守(長官級)/叙爵?*26(32)

出家(38)  北条時宗逝去に伴う。

 摂津親鑒:1280年頃?~1333年*27

1306~1307年:隼人正正六位下相当)

1310年代?:刑部権大輔正五位下相当・次官級/権官 

*嘉元3(1305)年12月15日付「摂津親鑒下知状」(『金剛三昧院文書』)*28には「散位親鑒」とあったものが、徳治3(1308)年2月7日付「関東下知状」(『東京国立博物館所蔵文書』)*29では「前隼人正親鑑」と記されており、隼人正在任はこの間であったことが分かる。また、文保元(1317)年3月のものとされる「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*30には「刑部権大輔近日上洛之間、」とあり、この時までに刑部権大輔に任官していたことも分かる。

 

祖父・親致との現実的な年齢差を考えれば、高親の生年は早くとも1290年頃の筈である。父・親鑒は生年不詳だが、歴代の官職歴を参考にすれば、正六位下相当の官職を得た1306年頃には20~30代だったのではないかと思われる。勿論、与えられる官職は官位と必ずしも一致するわけではないが、その数年後、正五位下相当の刑部権大輔に任官を果たした時には、中原師員が正五位下になったのとほぼ同じ30歳前半となる。

親子の年齢差を考えれば、この位の時期に高親が生まれたと推測するのが妥当ではないかと思う。前節で1310年頃までに生まれたと推定したが、これで1300年代後半生まれである可能性が濃厚になったと言えよう。

仮に1306年生まれとすると、1329年当時24歳(数え年)にして宮内大輔に昇っていたことになる。親鑒が同じく正五位下相当の刑部権大輔に任官した時30歳程度と推定したから、低年齢化した可能性は十分に考えられる。これより時代が下れば更に低年齢での宮内大輔任官となってしまうため、遅くとも1300年代半ば頃には生まれたと考えるのが良いだろう。よって、高親の生年は1306年頃と推定する

 

*前掲【史料8】の傍線部を見ると、諏訪直性(経)が、先に切腹した長崎高重、摂津道準(親鑒)を「若者共」と呼び、自身を「年老」と発言する部分がある。直性は北条時執権期に元服し「」の偏諱を受けた世代であろうから、遅くとも1270年代の生まれと考えられ、親鑒の方が年少となって辻褄が合う。

 

 

北条高時の烏帽子子

最後に「高親」の名乗りについて考察したい。

」の字については、祖父・致の代から使われているが、細川氏によると中原能を意識して使い始めたものではないかという*31。親致は親能の直系の子孫ではないが、師員を親能の子とする史料が存在しており、実際両者とも中原貞を先祖とするので、その1字を "復活" させたのであろう(前述の摂津能直・能秀(よしひで)父子や、時親の子・能連(よしつら)に見られるように一時期、南北朝時代の摂津氏では親能の「能」字も使われている)

摂津氏では、致―鑒と「親○」型の名乗りであり、他にも【史料8】・【史料9】での貞や秀も同様であった。それに対しはその例外であったが、わざわざ上(1文字目)に掲げる「」が烏帽子親からの一字拝領だったからではないかと推測される。これは言うまでもなく当時の得宗北条からの偏諱であろう。

元服は通常10代前半で行われることが多かったから、前節での推定生年に基づけば、元服当時の執権は、第14代執権・高時(在職:1316年~1326年)*32であることは確実である。当初は将軍側近の家であった摂津氏だったが、得宗専制が強化される中で親致―親鑒の2代に亘り得宗家に接近し、高時政権の中枢を担った親鑒が我が嫡男(高親)の加冠を高時に願い出たのであろう*33。若年での宮内大輔任官も推挙があってのものかもしれないが、親は烏帽子親・時と良好な関係を築き、その政権を支える若者として従い、そのまま運命を共にしたのである。

 

(参考ページ)

 摂津高親 - Wikipedia

 南北朝列伝 ー 摂津氏

 

脚注

*1:苗字「摂津」の読み方については 摂津親鑒 - Henkipedia【史料4】を参照のこと。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」P.89。

*3:『鎌倉遺文』第39巻30730号。

*4:注2細川氏著書 P.326より引用。『鎌倉遺文』第39巻30829号。『金沢文庫古文書』414号。金沢貞顕書状 · 国宝 金沢文庫文書データベース

*5:『鎌倉遺文』第39巻30846号。

*6:注2細川氏著書 P.326より引用。『金沢文庫古文書』419号。『鎌倉遺文』第39巻30909号。

*7:『鎌倉遺文』第40巻30992号。

*8:『鎌倉遺文』第40巻31561号。

*9:注2細川氏著書 P.324~325 より引用。尚、この史料は年次未詳であるが、文中に「城入道」とあることから、秋田城介・安達時顕(法名:延明)が出家した嘉暦元(1326)年以後に書かれたものであることは確実である。細川氏によれば、この書状は金沢貞顕の次男・貞冬の官位昇進についてのものであるという。貞冬は右馬助を辞して一級昇進することが認められたが、貞冬の「上首」であった従兄弟の甘縄顕義や北条時益・普音寺高基・北条時種を超越する形で貞冬だけを昇進させるわけにいかないということで、「上首」4名も同時に昇進することとなったようである。これに対し貞顕は、前年の冬に評定衆および鎮西探題が昇進した際には「引付衆・非公人」で「上首」であった者には何の沙汰も無かったという前例まで挙げて不平不満を述べていることが分かる。『鎌倉年代記』裏書によれば、元徳3(1331=元弘元)年9月の幕府軍上洛の段階でも大将の一人として「右馬助貞冬」と名乗っていたから、右馬助を辞す話が出るとすればこれ以後であろう。記載の日付も踏まえると1332年または1333年と推定される。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪。尚、『武家補任』によると時益は元徳2(1330)年の上洛の段階で既に左近将監に任官済みであったという(→ 『史料稿本』後醍醐天皇紀・元徳2年4~7月 P.51)。

*11:鎮西探題在職は1321年頃~1333年(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その31-赤橋英時 | 日本中世史を楽しむ♪ より)。

*12:官途奉行(カントブギョウ)とは - コトバンク より。

*13:『大日本史料』6-6 P.881~

*14:『大日本史料』6-6 P.885

*15:所分(しょぶん)とは - コトバンク より。

*16:落居(ラッキョ)とは - コトバンク より。

*17:『大日本史料』6-6 P.884

*18:【論稿】北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔史料A〕を参照のこと。

*19:田中誠「康永三年における室町幕府引付方改編について」(所収:『立命館文學』624号、立命館大学、2012年)P.713(四二五)。

*20:3.鎌倉幕府の滅亡と鎌倉後期の佐貫荘 - 箕輪城と上州戦国史幡羅郡家は別府郷にあった成田四家

*21:注2前掲基礎表 No.132「摂津親秀」の項。

*22:宮内省 - Wikipedia  #職員 より。

*23:注2前掲基礎表 No.125「中原師員」の項中原師員(なかはらの もろかず)とは - コトバンク中原師員 - Wikipedia より。

*24:注2前掲基礎表 No.126「中原師連」の項、中原師連(なかはらの もろつら)とは - コトバンク中原師連 - Wikipedia より。

*25:注2前掲基礎表 No.127「摂津親致」の項、摂津親致(せっつの ちかむね)とは - コトバンク より。

*26:『関東評定衆伝』弘安元(1278)年条によると、同年2月に、同じく引付衆であった金沢顕時と共に評定衆に加えられることとなったが、顕時が「左近大夫将監」と記されるのに対し、親致の表記は「左近将監」のみである。両者とも左近衛将監であったが、五位の通称「大夫」を持つ顕時が叙爵済みであったことが窺えよう(→ 左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク を参照)。逆に親致は同年5月の摂津守任官と同時の叙爵だったのではないかと推測される。

*27:注2前掲基礎表 No.128「摂津親鑒」の項、摂津親鑒(せっつの ちかあき)とは - コトバンク摂津親鑑 - Wikipedia より。

*28:『鎌倉遺文』第29巻22417号。

*29:『鎌倉遺文』第30巻23167号。

*30:『鎌倉遺文』第34巻26127号。

*31:注2細川氏著書 P.60。

*32:注2前掲基礎表 No.9「北条高時」の項 より。

*33:高親の遺児・時親については、【史料9】より鎌倉幕府滅亡後の元服と推測されるが、「時」の字は亡き高時の1字を取って命名されたものなのかもしれない。