千葉時秀
千葉 時秀(ちば ときひで、1215年頃?~1247年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。祖父の千葉常秀が上総国山辺郡堺郷を領したことから、上総時秀(かずさ ー)、堺時秀/境時秀(さかい ー)とも呼ばれる。通称は上総式部丞、上総式部大夫。
父は千葉秀胤。「千葉大系図」によると母は北条時房の娘であるという*1。
関連史料の紹介
まずは史料上での登場箇所を見ておきたい。『吾妻鏡』では次の箇所に現れている。
年 | 月日 | 表記 | 備考 |
仁治2(1241) | 8.15 | 上総式部丞時秀 | 式部丞は六位相当*3。 |
11.4 | 上総式部大夫 | 式部大夫という呼称から、式部丞で五位に叙せられたことが分かる*4。 | |
寛元元(1243) | 7.17 | 上総式部大夫 | |
寛元3(1245) | 8.15 | 上総式部大夫時秀 | |
8.16 | 上総式部大夫 | ||
寛元4(1246) | 8.15 | 上総式部大夫 | |
宝治元(1247) | 6.7 | 上総権介秀胤、嫡男式部大夫時秀 | 【史料B】 |
6.22 | 上総権介秀胤 同子息式部大夫時秀 | 【史料C】 |
廿二日、癸卯、去五日合戦亡帥以下交名、為宗分日来注之、今日於御寄合座及披露云々、
自殺討死等
(中略)
上総権介秀胤 同子息式部大夫時秀
同修理亮政秀 同五郎左衛門尉泰秀
同六郎秀景〔景秀〕
……(以下略)
上記史料2点は宝治合戦の際、一家で三浦方について共に滅んだことを伝えるものであるが、次の史料にも同様の記載が見られる。
【史料E】『関東評定衆伝』寛元4(1246)年条より、千葉秀胤の項*7
下総前司常秀男、〻任上総権介、仁治二年十一月十日叙爵(=従五位下)、寛元元年閏七月廿七日叙従五位上、宝治元年六月於上総国被誅、子息従五位上式部大夫時秀、修理亮政秀、五郎左衛門尉泰秀、一説秀綱、六郎秀景〔景秀〕等伏誅
生年と烏帽子親についての考察
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こちら▲の記事で紹介の通り、『吾妻鏡』宝治元年6月11日条より、弟・泰秀が当時、妻である東胤行入道素暹の娘との間に子供が生まれる位の年齢=およそ20歳以上であったと推測可能で、【史料B】・【史料D】を見ると、秀胤の息子たちの中で一番末(4男)の景秀(秀景)だけが無官で「六郎」を称していたことが分かるが、これは景秀自身が元服からさほど経っていなかったためと考えられ、10代~20歳程度と若い年齢であったと推測されるので、長兄である時秀も20代以上には達していたことになる。
これを裏付けるべく、不明である父・秀胤の生年の推察からアプローチしてみよう。
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こちら▲の記事にて、鎌倉時代初期の正確な千葉氏の系譜について述べたが、歴代の家督(嫡流家当主)は次の通りである。
[参考] 千葉氏嫡流歴代当主(平安後期~鎌倉初期)の通称および生没年
*( )内数字は史料に記載の没年齢(享年)。
● 千葉常胤(千葉介)
:1118年~1201年(84) …『吾妻鏡』建仁元(1201)年3月24日条 より
● 千葉胤正(胤政とも/千葉太郎→千葉新介→千葉介)
● 千葉成胤(千葉小太郎→千葉介)
:1155年~1218年
…生年:『千葉大系図』/没年:『吾妻鏡』建保6年4月10日条 より
● 千葉胤綱(千葉介)
● 千葉時胤(千葉介)
:1218年~1241年(24) …『千葉大系図』より
祖父(秀胤の父)千葉常秀もまた生年不詳だが、兄・成胤の生まれた1155年から、父・胤正の亡くなった1202年までの間であることは間違いない。『吾妻鏡』では元暦元(1184)年8月8日条に「境平次常秀」と初めて現れるから、これよりさほど遡らない時期に元服を済ませたと考えられよう*8。1170年頃の生まれと推定される。
すると、その長男・秀胤*9の生年も1190年以後であったと推定可能である。『吾妻鏡』では、仁治元(1240)年8月2日条にある「上総権介」が初出とされる*10が、同記事には「上総五郎左衛門尉」=泰秀も登場しており、【表A】で示した通り、翌2(1241)年8月15日条には時秀も「上総式部丞時秀」の名で登場するので、仁治年間当時、秀胤が上総権介であったことは間違いないだろう。
すなわちその当時、時秀・泰秀は若くとも20代には達していたと判断できるので、親子の年齢差を考慮すれば秀胤は40代以上であったと推測できよう。秀胤は1190~1200年代、時秀・泰秀兄弟は1210~1220年代生まれの世代であったと分かる。
この時秀・泰秀兄弟の実名に着目すると、「秀」が常秀―秀胤と継承された通字であるから、それに対して上(1文字目)に置かれる「時」や「泰」が烏帽子親からの一字拝領と考えられる。これは元服当時の3代執権・北条泰時(在職:1224年~1242年)*11の偏諱であろう。 泰時が亡くなる前年の段階で弟の泰秀が既に左衛門尉任官済みであったから、その元服は1230年代後半で、元服は多く10~15歳の頃で行われたから、逆算して1220年頃の生まれとするのが妥当と思われる。
従って、長兄である時秀の生年はこれを更に遡ることになるが、1224年以降に執権となった泰時から「時」字を拝領したと考えるのが自然であろうから、前述の内容も踏まえれば1210年代半ば以後とするのが良いだろう。冒頭で示したように母が北条時房(1175-1240)*12の娘と伝えられることがその裏付けになるだろう。外祖父―外孫の年齢差を考慮すれば、時秀の生年はおよそ1215年以後と考えるのが妥当であり、その頃の生まれと推測される。
脚注
*1:『大日本史料』5-22 P.163、房総叢書 : 紀元二千六百年記念. 第9巻 系圖・石高帳 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。
*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.192「時秀 千葉」の項 より。
*4:式部の大夫(シキブノタイフ)とは - コトバンク より。
*5:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*6:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*7:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*8:注2『吾妻鏡人名索引』P.255~256「常秀 境(千葉)」の項によれば、建久元(1190)年12月2日条まで「千葉平次常秀」と書かれていたものが、同月11日条では「左兵衛尉平常秀」と表記が変化しており、同2(1191)年正月1日以降もしばらくは「(千葉/境)平次兵衛尉常秀」で通され、嘉禎年間に上総介在任が確認できる。
*9:千葉秀胤の経歴については、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その123-千葉秀胤 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)を参照のこと。
*10:注2『吾妻鏡人名索引』P.231「秀胤 千葉」の項より。ちなみに、実名の初出は寛元2年8月15日条「上総権介秀胤」。
千葉泰秀
千葉 泰秀(ちば やすひで、1220年頃?~1247年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。祖父の千葉常秀が上総国山辺郡堺郷を領したことから、上総泰秀(かずさ ー)、堺泰秀/境泰秀(さかい ー)とも呼ばれる。通称は上総五郎左衛門尉。
父は千葉秀胤。母は『系図纂要』に「上総介秀胤妻」となって「子息四人」がいたとの記載がある三浦義澄の娘であろう*1。
関連史料の紹介
まずは史料上での登場箇所を見ておきたい。『吾妻鏡』では次の箇所に現れている。
年 | 月日 | 表記 | 備考 |
仁治元(1240) | 8.2 | 上総五郎左衛門尉 | |
仁治2(1241) | 1.23 | 上総五郎左衛門尉 | |
寛元元(1243) | 7.17 | 上総五郎左衛門尉 | |
寛元3(1245) | 8.15 | 上総五郎左衛門尉泰秀 | |
宝治元(1247) | 6.7 | (秀胤)三男左衛門尉泰秀 | 【史料B】 |
6.11 | 上総五郎左衛門尉泰秀 | 【史料C】 | |
6.22 | 同五郎左衛門尉泰秀 | 【史料D】 |
廿二日、癸卯、去五日合戦亡帥以下交名、為宗分日来注之、今日於御寄合座及披露云々、
自殺討死等
(中略)
同修理亮政秀 同五郎左衛門尉泰秀
同六郎秀景〔景秀〕
……(以下略)
B~Dの記事3点は宝治合戦の際、一家で三浦方について共に滅んだことを伝えるものであるが、次の史料にも同様の記載が見られる。
【史料E】『関東評定衆伝』寛元4(1246)年条より、千葉秀胤の項*6
下総前司常秀男、〻任上総権介、仁治二年十一月十日叙爵(=従五位下)、寛元元年閏七月廿七日叙従五位上、宝治元年六月於上総国被誅、子息従五位上式部大夫時秀、修理亮政秀、五郎左衛門尉泰秀、一説秀綱、六郎秀景〔景秀〕等伏誅
生年と烏帽子親についての考察
上の史料から読み取れる情報は次の3点である。
① 上総権介・千葉秀胤の3男で、仁治元年頃から「上総五郎左衛門尉」 と呼称されていたこと。
② 宝治合戦で父・秀胤や兄弟らと討伐を受け自殺(自害)したこと。
③ 宝治元年当時、泰秀の嫁=東入道素暹(=東胤行)*7の娘が生んだ男子が1歳(数え年であるためこの年に生まれたばかり)であったこと。
③より、亡くなった当時、泰秀は結婚し子供が生まれる位の年齢=およそ20歳以上であったと推測可能で、それは①にあるように左衛門尉に任官していることからも裏付けられる。ここで【史料B】・【史料D】を見ると、秀胤の息子たちの中で一番末(4男)の景秀(秀景)だけが無官で「六郎」を称していたことが分かるが、これは景秀自身が元服からさほど経っていなかったためと考えられ、10代~20歳程度と若い年齢であったと推測される。従って、すぐ上の三兄・泰秀も20代であったと考えられよう。
これを裏付けるべく、不明である父・秀胤の生年の推察からアプローチしてみよう。
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こちら▲の記事にて、鎌倉時代初期の正確な千葉氏の系譜について述べたが、歴代の家督(嫡流家当主)は次の通りである。
[参考] 千葉氏嫡流歴代当主(平安後期~鎌倉初期)の通称および生没年
*( )内数字は史料に記載の没年齢(享年)。
● 千葉常胤(千葉介)
:1118年~1201年(84) …『吾妻鏡』建仁元(1201)年3月24日条 より
● 千葉胤正(胤政とも/千葉太郎→千葉新介→千葉介)
● 千葉成胤(千葉小太郎→千葉介)
:1155年~1218年
…生年:『千葉大系図』/没年:『吾妻鏡』建保6年4月10日条 より
● 千葉胤綱(千葉介)
● 千葉時胤(千葉介)
:1218年~1241年(24) …『千葉大系図』より
祖父(秀胤の父)千葉常秀もまた生年不詳だが、兄・成胤の生まれた1155年から、父・胤正の亡くなった1202年までの間であることは間違いない。『吾妻鏡』では元暦元(1184)年8月8日条に「境平次常秀」と初めて現れるから、これよりさほど遡らない時期に元服を済ませたと考えられよう*8。1170年頃の生まれと推定される。
すると、その長男・秀胤*9の生年も1190年以後であったと推定可能である。『吾妻鏡』では、仁治元(1240)年8月2日条にある「上総権介」が初出とされる*10が、【表A】で示した通り「上総五郎左衛門尉」=泰秀も登場しており、翌2(1241)年8月15日条には泰秀の長兄・千葉時秀も「上総式部丞時秀」の名で登場するので、仁治年間当時、秀胤が上総権介であったことは間違いないだろう。
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すなわちその当時、時秀・泰秀は若くとも20代には達していたと判断できるので、親子の年齢差を考慮すれば秀胤は40代以上であったと推測できよう。秀胤は1190~1200年代、時秀・泰秀兄弟は1210~1220年代生まれの世代であったと分かる。
この時秀・泰秀兄弟の実名に着目すると、「秀」が常秀―秀胤と継承された通字であるから、それに対して上(1文字目)に置かれる「時」や「泰」が烏帽子親からの一字拝領と考えられる。これは元服当時の3代執権・北条泰時(在職:1224年~1242年)*11の偏諱であろう*12。 泰時が亡くなる前年の段階で泰秀は既に左衛門尉任官済みであったから、その元服は1230年代後半であろう。元服は多く10~15歳の頃で行われたので、逆算すると1220年代前半の生まれとするのが妥当と思われる。
脚注
*1:『大日本史料』5-22 P.166 より。尚、「千葉大系図」によると長兄・時秀の母が北条時房の娘であるといい(→『大日本史料』5-22 P.163)、「子息四人」とは政秀・泰秀・景秀と『吾妻鏡』宝治元年6月17日条にある「故上総介末子一人、一才、」を指すと考えられる。
*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.326「泰秀 千葉」の項 より。
*3:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*4:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3. 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*6:群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*7:東胤行(とう たねゆき)とは - コトバンク、 東胤行 ー 千葉氏の一族 より。典拠は『古今相伝人数分量』(早稲田大学図書館蔵)P.4、『尊卑分脈』など。東時常の祖父にあたる。
*8:注2『吾妻鏡人名索引』P.255~256「常秀 境(千葉)」の項によれば、建久元(1190)年12月2日条まで「千葉平次常秀」と書かれていたものが、同月11日条では「左兵衛尉平常秀」と表記が変化しており、同2(1191)年正月1日以降もしばらくは「(千葉/境)平次兵衛尉常秀」で通され、嘉禎年間に上総介在任が確認できる。
*9:千葉秀胤の経歴については、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その123-千葉秀胤 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)を参照のこと。
*10:注2『吾妻鏡人名索引』P.231「秀胤 千葉」の項より。ちなみに、実名の初出は寛元2年8月15日条「上総権介秀胤」。
上山泰経
上山 泰経(かみやま やすつね、生年不詳(1220年代前半?)~1256年カ)は、鎌倉時代前期の武将。長井時広の3男で長井泰経(ながい ー)とも。
娘が長井茂重(もちしげ)に嫁ぎ、その間に生まれた上山宗元が泰経の名跡を継いだ。
まずは、次の系図3種をご覧いただきたい。
A.『那波系図』(新田俊純所蔵本、東京大学史料編纂所謄写本)より
B.『毛利家系図』(国立歴史民俗博物館蔵・高松宮家伝来禁裏本)より
系図Cを見ると、泰経に「上山(=上山氏)」との注記があり、同じ「上山」の注記が宗元の項にもある。
また系図Bを見ると、泰経が「上山と号し」、その娘が丹後守茂重に嫁いで修理亮宗元の母になったとある。佐々木紀一氏は、系図Bの他に永正本系図でも泰経の娘に「因幡二郎茂重妻」の注記が見られるから、茂重―宗元(宗光とも)の父子関係が認められるとし、Bにおいて(縦書きで)運雅の下に宗元・宗衡兄弟が置く形態があったために、A・Cで系線の引き間違えが生じてしまったのではないかと説かれている*1が、筆者も同意である。
従って、長井氏の分家として時広の庶子・泰経が上山氏を立てたが、男子に恵まれなかったためか、外孫(娘の子)である宗元がその名跡を継いだと考えれば、系図Cで泰経・宗元双方に「上山」の注記があるのにも頷ける。
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ここで次の史料を見ておきたい。
ここには、備後国世羅郡上山郷(現・広島県三次市三和町付近)を領したのに因んで「上山」を称したと書かれている*2。備後国は長井氏六波羅評定衆家(時広―泰重―頼重―貞重)が代々守護を務めていた国であり*3、泰経は次兄・泰重から上山郷の領地を与えられていたのであろう。
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『萩藩閥閲録』所収の上山氏系図*4を見ると、系譜が「泰重―泰経―頼重」と父子関係で繋いでいくのと矛盾しながらも、泰経の項に「勤甥頼重陣代」との注記が見られる。「陣代」とは、主君が幼少のとき、家族または老臣などで軍務・政務のすべてを統括した者 の意味であり*5、泰重が亡くなった時に頼重が若年であったため、泰経が事実上家督を代行する役割を担ったのであろう。
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但し【史料D】に戻ると、建長8(1256)年5月8日に遠江国菊川において戦死したとの記載がある。当時甥の頼重は10代前半くらいと推定され、これだけだと確かに泰経が「陣代」を務める条件は満たしてみると思うが、この頃頼重の父・泰重もまだ存命だったようであり、また菊川での合戦がどのようなものであったかについて他の現存史料で裏付けることも困難なため、『福原家譜』・『萩藩閥閲録』各々の情報は検討の余地を残していると言えよう。
最後に生年と烏帽子親についての考察をする。
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こちら▲の記事で、外孫の宗元を1260年代後半の生まれと推定した。従って、祖父―孫の年齢差を考慮すれば、泰経の生年は遅くとも1220年代後半と推測可能である。
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次兄の泰重が1220年頃の生まれであることはこちら▲の記事で述べた通りなので、泰経が1220年代生まれであることはほぼ確実と言って良いだろう。北条泰時執権期間(1224年~1242年)*6内の元服であることも認められ、「泰」の字は兄の泰秀・泰重らに同じく泰時を直接烏帽子親として偏諱を賜ったものと判断される。
脚注
*1:佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(下)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第42号、2015年)P.6~7。
*2:小泉宜右「御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.761。
*3:備後国 - Wikipedia、長井氏(ながいうじ)とは - コトバンク、武家家伝_長井氏 より。
*4:『萩藩閥閲録』巻40「上山庄左衛門」巻末に所収。重広までの系図は、前注小泉論文 同箇所にも掲載あり。
*5:陣代(ジンダイ)とは - コトバンク より。
*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
上山貞泰
上山 貞泰(かみやま さだやす、1290年頃?~没年不詳(1330年代?))は、鎌倉時代後期の武将。
『尊卑分脈』や『毛利家系図』*1、『萩藩閥閲録』所収の上山氏系図*2に上山宗元の子として載せられており、「従五位下」「左衛門尉」「因幡守」の注記が見られる。
宗元・貞泰父子の事績については史料が未確認のため不明であるが、『萩藩閥閲録』には貞泰の子・上山宗家(むねいえ)以降の系譜が載せられており、上山広房(実広とも)以降の当主は実際の史料にも現れている*3から、その祖先として実在は認めても良いだろう。
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こちら▲の記事で紹介の通り、父・宗元については、『尊卑分脈』や『萩藩閥閲録』のように長井運雅(うんが)の子とする系図もある*が、正しくは1260年代後半、長井茂重(もちしげ)と上山泰経の娘との間に生まれた長男で、「宗」は得宗・北条時宗からの一字拝領と推定した。
*『萩藩閥閲録』上山氏系図では嗣子の無かった貞頼が若宮別当・連雅〔運雅の誤記か〕の長子・宗元を養子に迎えたとあり、『那波系図』(新田俊純所蔵本、東京大学史料編纂所謄写本)でも宗元を貞頼の実子とする。これらは『毛利家系図』で運雅の下に宗元・宗衡兄弟が置く形態があったために、『尊卑分脈』において系線の引き間違いが生じたのに起因して誤解されたものとみられる*4。
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また、こちら▲の記事で紹介の通り、『常楽記』には「上山修理亮高元(=上山高元)」が貞和4(1348)年1月5日に38歳で戦死した旨の記載が確認でき*5、逆算すると1311年生まれである。「元」の字と「修理亮」の官途が通ずることから上山宗元の子孫の可能性が高く、「高」は最後の得宗・北条高時(時宗の孫)からの一字拝領と推定される。
貞泰は宗元の子であるから、生年は早くとも1290年前後の筈だが、そうすると高元とは親子とするのにちょうど良い年齢差であると言えよう。貞泰―高元を親子とみなす史料や系図類は今のところ確認されていないが、宗元・貞泰・高元の実名は各々、歴代の北条氏得宗(時宗―貞時―高時)から偏諱を賜ったものと判断される。
前述の『那波系図』では宗元の子を「貞元」 としており、貞泰と同人(「元」が「泰」の誤記)か兄弟かは分からないが、いずれにせよ貞泰または貞元が高元の父親であろう。「貞」の字は正安3(1301)年まで9代執権の座にあった北条貞時を烏帽子親として元服した折に賜ったものと推測される。
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下の図で示した通り、惣領家で同じ字を持つ長井貞秀とも長井時広の玄孫という共通点があり、世代的に近い人物であったと判断できる。
前述の通り事績については不明なので、没年不詳であるが、因幡守になったとの系図での記載が信用できれば、国守任官に相応の30代以上は生きていたと考えられる。但し、貞和4年の段階で既に高元が活動期間に入っていたことを考えると、鎌倉幕府滅亡の頃に貞泰の隠退または死去による家督の交代があったと考えても良いかもしれない。この辺りは新たな史料の発見等による後考を俟ちたいところである。
脚注
*3:小泉宜右「御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.761 によると、上山氏関係の古文書の上限は、宛名に「上山加賀守殿」とある永正4(1507)年12月13日付「山名致豊書状」(→ 『萩藩閥閲録』巻40「上山庄左衛門」)であるといい、この加賀守は系図より広房に比定される(→ 『萩藩閥閲録』巻40「上山庄左衛門」)。
*4:佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(下)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第42号、2015年)P.6~7。
上山宗元
上山 宗元(かみやま むねもと、生年不詳(1260年代後半?)~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将。通称は太郎、修理亮、備前守。系図によっては「宗光 (むねみつ)」とするものもある。
長井茂重(もちしげ)の長男。母は上山泰経の娘。弟に長井宗衡がいる。
まずは、次の系図3種をご覧いただきたい。
A.『那波系図』(新田俊純所蔵本、東京大学史料編纂所謄写本)より
B.『毛利家系図』(国立歴史民俗博物館蔵・高松宮家伝来禁裏本)より
一部系線が異なる箇所があるが、宗元(むねもと)の近親者(弟または従兄弟)に宗衡(むねひら)を載せ、「貞」字を持った息子(貞泰または貞元)を持つ点では3つとも共通している。そして、「宗元―貞元(貞泰)」という系譜だけ見ると、北条氏得宗「時宗―貞時」からの一字拝領を想起させる。
ところが、A・Cでは宗元・宗衡が長井貞重の甥となっている。
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こちらの記事▲で述べたように、貞重は得宗・9代執権の北条貞時から偏諱を受けたことが確実である。従って宗元・宗衡がその甥(弟の息子)であれば、元服は貞重より後になるはずで、亡き8代執権・北条時宗(貞時の父)から「宗」の偏諱を賜ることは不可能となる。
しかし宗元・宗衡の名乗りは、「元」が大江広元、「衡」が大江匡衡または大江成衡といった祖先と仰ぐ人物から1字を取ったものとみられるから、兄弟ないしは従兄弟関係で共通する「宗」が烏帽子親からの偏諱と考えるべきであると思われる。
その観点からBの系図に着目すると、宗元・宗衡兄弟が貞重の従兄弟となっている。
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頼重の生年についてはこちらの記事▲で推定したが、30歳位の時に嫡男の貞重が生まれたことになる。10代後半~20代で授かることも多かった鎌倉時代当時としては遅めともいえよう。故に、茂重が頼重より若干年少の弟で、貞重が生まれるよりも前に宗元・宗衡兄弟を20代で授かったと想定することは十分可能と思われる。
系図Cを見ると、泰経に「上山(=上山氏)」との注記があり、『福原家譜』8巻によれば備後国世羅郡上山郷(現・広島県三次市三和町付近)を領したのに因んで称したという*1が、同じ「上山」の注記が宗元の項にもある。また系図Bを見ると、泰経が「上山と号し」、娘が丹後守茂重に嫁いで修理亮宗元の母になったとある。長井氏の分家として時広の庶子・泰経が上山氏を立てたが、男子に恵まれなかったのか、外孫(娘の子)である宗元がその名跡を継いだと考えるのが良いだろう。
佐々木紀一氏は、系図Bの他に永正本系図でも泰経の娘に「因幡二郎茂重妻」の注記が見られるから、茂重―宗元(宗光とも)の父子関係が認められるとし、Bにおいて(縦書きで)運雅の下に宗元・宗衡兄弟が置く形態があったために、Cで系線の引き間違えが生じてしまったのではないかと説かれている*2が、筆者も同意である。Aについても、貞頼・運雅兄弟の下に書かれたために、各々の息子とする線の記入ミスがなされたものであろう。
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以上より、宗元・宗衡兄弟は茂重の子で、貞重とは従兄弟関係にあったと判断され、上記記事で宗衡の生年を1270年頃と推定し、ともに北条時宗の偏諱を受けたとしたが、次の観点からも裏付けられよう。
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こちら▲の記事で紹介の通り、『常楽記』には「上山修理亮高元(=上山高元)」が貞和4(1348)年1月5日に38歳で戦死した旨の記載が確認でき*3、逆算すると1311年生まれである。この人物は最後の得宗・北条高時の偏諱を許されたとみられ、「元」の字と「修理亮」の官職が宗元に通ずる*4 ことからも、宗元―貞元(または貞泰)―高元と3代に亘って得宗(時宗―貞時―高時)と烏帽子親子関係を結んでいたことが推測される。宗元は高元の祖父またはそれと同世代人であったとみなせるから、祖父―孫の年齢差を考慮すれば1270年頃までには生まれていたと推定可能で、前述の内容に合致する。
*そして、このことは宗元が運雅の子ではないことを補強するものとなる。宗元が1272年生まれの貞重*5の甥であれば、1311年生まれの高元とほぼ同世代となってしまう。その場合宗元の弟・宗衡は、鎌倉幕府滅亡前の段階で丹後守を辞していることは史料で確認できるので、10数年で国守へと昇り詰めたことになるが、長井氏本家ですら20代後半で国守に任官したのを上回るのはあり得ないと言って良いだろう。また、宗元=修理亮高元と仮定しても弟の宗衡より下の官位であったことになって不自然であり、宗元の最終官途を備前守と載せる系図類にも矛盾する。
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下の図で示した通り、惣領家で同じ字を持つ長井宗秀とも大江広元の玄孫という共通点があり、ほぼ同世代人であったと判断できる。
宗元・貞泰父子の事績については史料が未確認のため不明であるが、『萩藩閥閲録』にはそれ以降の家系(宗元―貞泰―宗家―昭泰―元信―広房(実広)―広信―重広―元理(元忠)―広忠)*6が載せられており、室町~戦国時代にかけて山名氏、次いで同じく大江広元末裔の毛利氏に仕えた。
脚注
*1:小泉宜右「御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.761。
*2:佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(下)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第42号、2015年)P.6~7。
*4:この理由から、茂重の長男が「宗元」を名乗っていたことは間違いないと思われる。「宗光」を別名として名乗っていたかについては史料的な裏付けが出来ないので判断を差し控えたいが、毛利氏なども含め大江氏一族での「元」と「光」の誤記・混乱は系図上で散見される。
*5:長井貞重 - Henkipedia 参照。
*6:『萩藩閥閲録』巻40「上山庄左衛門」巻末に所収。重広までの系図は注1前掲小泉論文 同頁にも掲載あり。
上山高元
上山 高元(かみやま たかもと、1311年~1348年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。通称は六郎左衛門、修理亮。
【史料】『常楽記』より*1
貞和四年戊子 正月五日 上山修理亮高元 卅八 東條合戦打死
この史料により、貞和4(1348)年1月5日に38歳で亡くなった人物として「上山高元」の実在が確認でき、逆算すると応長元(1311)年生まれ。同年10月26日には北条貞時が亡くなって*2、子の北条高時が得宗の地位を継いでおり、十数年後の元服当時、鎌倉幕府第14代執権の座にあった高時(在職:1316年~1326年)*3から「高」の偏諱を許されたとみて間違いないだろう。
系図上で高元の名を見出すことは出来ないが、「元」の字と「修理亮」の官途が通ずることから、『尊卑分脈』大江長井氏の系図上にある上山宗元の子孫と判断される。世代からすると、宗元の孫(貞元または貞泰の嫡男)だったのではないかと思われる。
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この推定が正しければ、宗元―貞泰(または貞元)―高元と3代に亘り、北条氏得宗(時宗―貞時―高時)と烏帽子親子関係を結んでいたことになる。宗元は長井茂重の長男であったが、父方では大叔父、母方でも祖父にあたる上山泰経の名跡を継いだようであり、泰経が北条泰時の偏諱を受けたのに倣って慣例化していたものと推測される。
『太平記』巻26にも、「四条縄手合戦事 付上山討死事」と題して、同じく貞和4年1月5日に「上山六郎左衛門」なる者が高師直の身代わりとなって討ち死にしたことが描かれている*4が、この「上山六郎左衛門」も高元と考えて良いだろう*5。最終官途が実際と異なるが、修理亮となる前の高元の通称名をそのまま採用したものではないか。また異本によっては「長井修理亮」と書かれているものもあるらしく、かえってこれが長井氏一門の上山氏で修理亮=高元であったことを裏付けているとも言えよう。
高元の鎌倉幕府滅亡時の詳しい動向は不明だが、北条氏とは運命を共にせず、足利尊氏の執事である師直の家臣として立派な最期を遂げたのであった。
(参考ページ)
● 宮崎繁吉『豪傑の臨終』(大学館、1900年)「上山高元」の項
脚注
長井宗衡
長井 宗衡(ながい むねひら、1270年頃?~1355年頃?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。通称・官途は次郎、丹後守(丹後前司・丹後入道)。
長井茂重(もちしげ)の次男。母は不詳。兄に上山宗元、子に長井秋衡がいる。
史料上における宗衡
まずは、長井宗衡の実在および活動について確認できる史料を紹介したいと思う。以下列挙する。
●【史料1】(正中2(1325)年?)「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*1:文中に「一.縫殿頭同持参之時、出羽左近大夫入道・丹後前司・小早川安芸前司(=小早川宣平カ*2)・水谷兵衛蔵人(=水谷秀有カ*3)・佐々木源太左衛門尉(=加地時秀カ)等、同参之旨、承候了、」
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佐々木紀一氏は縫殿頭=長井貞重と共に参加する「出羽左近大夫入道」を長井頼秀(法名:道可)に比定される*4が、同じく苗字を冠しない「丹後前司」も長井氏一門の宗衡であろう。これが正しければ、この史料が初見ということになり、この頃は丹後守を既に辞していたことになる。
●【史料2】『光明寺残篇』元弘元(1331)年8月25日条*5:「廿五日。万里小路大納言宣房卿、侍従中納言公明卿、宰相成資〔ママ〕卿、別当右衛門督実世卿、以上四人、被召捕之。於宣房被預因幡左近大夫将監。公明者被預波多野上野前司。成資〔ママ〕者被預丹後前司。実世卿者筑後前司被預之。……」
いわゆる元弘の変に関する史料である。同年に倒幕の挙兵の計画が露見し、8月24日に後醍醐天皇が御所を脱出すると、翌25日に京に残っていた後醍醐腹心の公家たちが一斉に捕縛された。その一人「成資」は、「なりすけ」と読めることや「宰相」と呼ばれることから "平宰相" こと平成輔に比定され、その身を「丹後前司」が預かったという(翌年に処分が言い渡され、河越貞重が鎌倉の手前まで護送の上で斬首刑となった)。
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●【史料3】『太平記』巻2「師賢登山事付唐崎浜合戦事」*6:「……搦手へは佐々木三郎判官時信・海東左近将監・長井丹後守宗衡・筑後前司貞知(=小田貞知)・波多野上野前司宣道(=波多野宣通)・常陸前司時朝に、美濃・尾張・丹波・但馬の勢をさしそへて七千余騎、大津、松本を経て、唐崎の松の辺まで寄懸たり。……」
【史料2】から間もない8月27日、後醍醐が比叡山へ立てこもったものとみた六波羅探題が東坂本(比叡山の東入口、大津側)と西坂本(京側)の両面に軍勢を差し向けたが、東坂本方面に出陣した中に宗衡が含まれている。
【史料2】の『光明寺残篇』でも27日条に「被差向佐々木大夫判官・海東備前左近大夫・波多野上野前司等。於山門東坂下(=東坂本)。」とほぼ同内容の記述が見られるが、「等(など)」の中に宗衡が含まれるかどうかは明記されていない。但し、この日に軍勢を差し向けた後、春宮(=皇太子)の量仁親王(のち9月20日に即位して光厳天皇)が御所の持明院殿から、同じく持明院領の六条殿に"行啓"した際に「供奉軍兵」として「丹後前司・筑後前司」ら数百騎がお供をしたとあり、『太平記』巻2でも次の「持明院殿御幸六波羅事」にほぼ同内容のストーリーが描かれている(『太平記』は元々軍記物語である)ので、厳密にはこちらが正しいのであろう。
いずれにせよ、『太平記』で実名が明かされていることにより、以上3つの史料での「丹後前司」は宗衡に比定して良いだろう。
*ちなみに、下沢敦氏は『光明寺残篇』・『太平記』双方の内容を総合し、東坂本(唐崎)方面への搦め手の軍勢の中に交っていた宗衡が、同じ27日のうちに京都へ取って返して「供奉軍兵」を務めるのは時間的にほぼ不可能であるとして、「丹後前司」と「長井丹後守宗衡」が別人の可能性も考えられるとする*7が、筆者は単に『太平記』が軍記物語ゆえの脚色として宗衡の登場箇所を少し変えただけではないかと推測する。下沢氏自身が述べられている通り、時間的な制約については「筑後前司貞知」も全く同じ条件下にあったと言え、「丹後前司・筑後前司」=「長井丹後守宗衡・筑後前司貞知」と見なすのがやはり自然ではないか。『太平記』での搦手軍は、実際は量仁親王に随行した宗衡と貞知を加えて誇張したものと判断され、「丹後守」も本来「丹後前司(または前丹後守)」とすべきところをわざと変えたものであろう。
●【史料4】元弘3(1333)年5月13日付「伊達道西(貞綱)軍忠状」:「……去月八日兄弟三人、道西、宗幸、宗重等、押寄二條大宮、焼拂〔払の旧字体〕丹後前司之役所、……」*8。
同月22日に鎌倉幕府が滅亡する直前のタイミングで出された書状であるが、4月8日の合戦において、千種忠顕の軍勢に馳せ参じていた貞綱(法名:道西)・宗幸・宗重の伊達三兄弟*9が「二条大宮」に押し寄せ、「丹後前司の役所」を焼き払ったと伝える。下沢氏の研究によれば、ちょうどこの頃の成立とされる『沙汰未練書』での定義に従えば、この "役所" とは「在京人役所」であった京都の篝屋*10と推測され「丹後前司」が在京人であったことになるから、【史料1】~【史料3】での「丹後前司(=宗衡)」と同人と見なして問題ないだろう*11。
幕府滅亡の直前まで宗衡が六波羅探題に従っていたことが窺え、この時も何とか敵方を撃退したようであるが、対する後醍醐方の伊達氏側でも、伊達宗幸が左肩を射られ負傷、「家人和田次郎、中間十郎太郎」が討ち死にするなどの損害を受けている。【史料4】は伊達入道道西が彼ら死傷者も含む家臣たちの軍忠を上申するために書いた披露状となっている。
●【史料5】建武元(1334)年8月付「雑訴決断所結番交名」:鎌倉幕府滅亡後に発足した建武新政下で、雑訴決断所の寄人七番の一人に「長井丹波前司 宗衡」〔「丹波」は「丹後」の誤記〕*12。足利高氏(のち尊氏)に同調して後醍醐天皇に恭順したことが窺える。
●【史料6】(建武元年9月27日?)「足利尊氏行幸供奉随兵次第写」(『小早川家文書』):「汲兵」の一人に「長井丹後前司宗衡」*13。
★この間に出家か(法名不詳)。
●【史料7】康永3(1344)年3月21日付引付番文(『結城文書』)の五番:「長井丹後入道」*14
●【史料8】正平10(1355=文和4)年3月27日付 軍忠状(『毛利文書』)の宛名「長井丹後入道館」*15
●【史料9】正平10年8月3日付 軍忠状(『毛利文書』)の宛名「長井兵衛蔵人館」*16
2番目の「長井兵衛蔵人」は、『江氏家譜』に宗衡(次郎、丹後守)の息子として掲載の長井秋衡(あきひら、蔵人大夫)に比定される*17。上の文書2点はいずれも南朝から軍功を賞されたもので、宗衡・秋衡父子が南朝に忠節を尽くしていたことが分かる。
宗衡の系譜について
宗衡が大江姓長井氏の人物であることは系図類で確かめられるが、その種類によって家系が異なっている。下に3つの例を挙げる。
A.『那波系図』(新田俊純所蔵本、東京大学史料編纂所謄写本)より
B.『毛利家系図』(国立歴史民俗博物館蔵・高松宮家伝来禁裏本)*18より
Bでは茂重の子で次郎を仮名(輩行名)とし丹後守になったと記されるのに対し、AとCの系図では運雅(うんが)の子で因幡守に任官したとする。これについて佐々木氏は、Bで上山泰経の娘に「丹後守茂重妻 修理亮宗元母」とわざわざ記し、永正本系図でも泰経の娘に「因幡二郎茂重妻」の注記が見られるから、茂重―宗元(宗光とも)の父子関係が認められるとし、Bにおいて(縦書きで)運雅の下に宗元・宗衡兄弟が置く形態があったために、Cで系線の引き間違えが生じてしまったのではないかと説かれている*19。Aについても、貞頼・運雅兄弟の下に書かれたために、各々の息子とする線の記入ミスがなされたものと見受けられる。
Bの通り、太郎宗元が茂重の長男、次郎宗衡が次男であったとみなして良いだろう。B・Cを総合すれば、上山泰経の外孫であった兄の宗元が上山氏の名跡を継承し、代わって弟である宗衡が父・茂重の跡(茂重流長井氏)を継いだと判断される。
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烏帽子親の推定
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ところで、武士の家系は普通、1つの字を通字として継承するものであり、泰重流長井氏も「重」が代々用いられるなどその例外ではなかったが、その中で宗元・宗衡兄弟は「宗」字を共有し、父・茂重から1字を継承していない。勿論、他氏も含め父の字を継承しないケースも珍しくはなかったが、兄弟間で「宗」という同じ字を持つのには何かしらの理由があると考えて然るべきである。宗元の息子も同様で「貞泰(または貞元)」と名乗っているからである。
そうした観点から兄弟の実名に着目すると、宗元の「元」は大江広元、宗衡の「衡」は大江匡衡や大江成衡といった具合に、先祖と仰ぐ人物に由来することが分かる。わざわざ上(1文字目)にしていることからしても「宗」は烏帽子親からの一字拝領を想起させるが、これは得宗・鎌倉幕府第8代執権の北条時宗(在職:1268年~1284年)*20からの偏諱に間違いないだろう。兄・宗元の系統(上山氏)を見ると、宗元の息子は次の得宗(9代執権)北条貞時の1字を受けたとみられ、『常楽記』ではその次の得宗(14代執権)北条高時の1字を持つ上山高元の実在も確認できる*21。
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上記記事で祖父・泰重が1220年頃の生まれ、伯父・頼重が1243年頃の生まれと推定した。従って頼重の弟である父・茂重の生年は早くとも1245年前後と考えられるから、親子の年齢差も考慮すれば、宗元・宗衡兄弟は1260年代半ば以後の生まれと推測可能である。
そして、この2人は時宗が亡くなる弘安7(1284)年4月までに元服の適齢である10代前半に達して「宗」字を拝領したと考えるべきであろうから、遅くとも1270年頃には生まれていたとも推測可能である。よって宗元・宗衡兄弟の生年は1260年代後半の生まれと推定される。次の図に示したように、惣領家で同じく「宗」字を持つ長井宗秀とは "はとこ"(=ともに大江広元の玄孫)の関係で、ほぼ同世代人であったことになる。
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また、【史料1】に戻ると、正中2(1325)年の段階で宗衡は50代の年齢であったことになるが、丹後守を辞した後の年齢として全く問題ないだろう(御家人の国守任官は概ね30代以上で行われることが多かった)。
(参考ページ)
脚注
*1:『鎌倉遺文』第37巻29177号。
*2:『浦家文書』所収「浦家家系」には、土肥実平以降の歴代当主の名が記されており、「浦左衛門太郎氏実」の父を「小早川安藝守宣平」とする(→『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二・附録「浦家文書」一〇八号 参照、氏実は「宣平七男」と記される)が、年代的にも妥当であろう。宣平が安芸守であったことは、『小早川家文書』に息子の氏平(小泉氏祖)が「小早河安藝五郎左衛門尉氏平」と表記された書状が幾つか収録されていることからも裏付けられよう。
*3:注1同箇所による。ちなみに秀有は『尊卑分脈』秀郷流水谷氏系図および大江流水谷氏系図双方に掲載あり。
*4:佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(上)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第41号、2014年)P.18 注(20)。
*5:小泉宜右「御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.726。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。
*6:「太平記」師賢登山の事付唐崎浜合戦の事(その3) : Santa Lab's Blog より。
*7:下沢敦「『太平記』の記述に見る京都篝屋」(所収:『共栄学園短期大学研究紀要』第18号、2002年)P.189~190、および P.180 注(69)。
*8:『大日本古文書』家わけ第三 伊達家文書之一 P.2 二号。
*9:道西の俗名(=貞綱)や伊達氏支流の但馬伊達氏については、但馬伊達氏とその一族の系譜や前注同文書 P.13~15 二〇号「(雲但)伊達家系図」を参照のこと。
*10:鎌倉時代において、京の警固に当たった武士の詰め所のこと。篝屋(カガリヤ)とは - コトバンク 参照。
*11:注8前掲下沢氏論文 P.190~191。
*13:『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 P.169 二九四号。
*14:田中誠「康永三年における室町幕府引付方改編について」(所収:『立命館文學』624号、立命館大学、2012年)P.713(四二五)。注5前掲小泉氏論文 P.733。
*17:前注同箇所。
*18:データベースれきはく 館蔵資料データベース > 館蔵高松宮家伝来禁裏本 > 資料名称「毛利家系図」で検索。
*19:佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(下)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第42号、2015年)P.6~7。
*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。