二階堂光貞
二階堂 光貞(にかいどう みつさだ、1290年頃?~1336年カ)は、鎌倉時代後期の人物。父は二階堂宗実。官途は左衛門尉、下総守。法名は行全(ぎょうぜん)か。
『作者部類』(『勅撰作者部類』)に「頓阿 法師俗名貞宗。二階堂下野守〔ママ〕光貞子」*1、『続群書類従』所収「工藤二階堂系図」に「光貞 下総守 ― 貞宗 遁世、頓阿」*2とあり、僧・頓阿(とんあ / とんな、俗名:二階堂貞宗)の父として、二階堂光貞なる人物が確認できる。
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後に掲げるが『尊卑分脈』(以下『分脈』と略記)の二階堂氏系図*3にあるだけでなく、延元2/建武4(1337)年に成立し、正平17/康安2(1362)年に増補された『作者部類』*4に記載が見られることから、実在は認めて良いだろう。次の図は同系図より一部抜粋したものである。
【図A】
二階堂行泰の子・行実の孫に「下総守」等と注記される光貞の記載があり、「工藤二階堂系図」とは父・宗実までの系譜と官途が完全に一致することから、頓阿の父と同人には間違いないと思う。
但し、『分脈』では光貞の子として高実・政宗・行豊が記載されるのみで、頓阿の俗名とされる貞宗はむしろ光貞の兄となっている。「工藤二階堂系図」では光貞の子は貞宗・行秋(因幡守、法名行欽)・行豊となっているが、末子・行豊の名が共通していることを考えると、何かしらの混乱が生じたのではないかと推測される。
ここで、二階堂氏行泰流について、親子の年齢差を20歳と仮定して各人物の生年を推定すると次の図のようになる。
【図B】
図の中で、二階堂時元については生年が1288年と判明しているが、行頼―行元、行元―時元間の年齢差は20~40となっていて妥当と言えよう(恐らく行元は1260年頃の生まれで各年齢差を約30ずつとするのがより正確かもしれない)。実際の史料に現れる高元・高憲についても建武元(1334)年当時左衛門尉であったことが分かっており、図のように推定して十分的を射ていると思われる。
行実流でも同様の手法を試みると、光貞の生年は1276年前後、もしくはそれ以後と推定可能である。しかしその場合、貞宗(頓阿)については上記記事で1289年生まれ、もしくはそのほぼ同世代であることを紹介しているが、光貞14歳の時の子となってしまい、全くあり得ないこともないが、やはり現実的な想定ではないように思う。
ここで「光貞」の名乗りに着目すると、「光」は祖先・二階堂行光(行盛の父)に由来するものであろうから、「貞」が烏帽子親からの一字拝領と考えられるが、これは元服当時の得宗・9代執権である北条貞時(在職:1284~1301年)*5の偏諱であろう。尚、「貞」が下(2文字目)になっているのは、嫡男の兄・貞宗に対する庶子(或いは準嫡子)であったためと考えられ、光貞の生年は1290年以後と考えて良いだろう。
仮に1290年生まれとすると、貞時が執権を辞して出家した正安3(1301)年*6当時12歳と元服の適齢を迎え、嫡男・高実も次の得宗・北条高時(貞時の子)の一字拝領とみられるから、貞時と光貞は慣例に従って烏帽子親子関係にあったと判断される。
その関係性が窺える史料として、『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)には、元亨3(1323)年10月27日の貞時13年忌供養において「二階堂 下総前司」が「銀剱一 馬一疋置鞍、栗毛、」を献上しているが、これも光貞に比定されている*7。
あわせて次の史料も見ておきたい。
【史料C】『梅松論』下より*8
辰刻に敵二手にて河原と鞍馬口を下りにむかふ所に、御方も二手にて時を移さず掛合て、入替て数刻戦しに、御方討負て河原を下りに引返しければ、敵利を得て手重く懸りける。両大将御馬を進められて思召切たる御気色みえし程に、勇士ども我も我もと御前にすすみて防戦し所に、上杉武庫禅門(=兵庫頭憲房,法名:道欽)を始として三浦因幡守(=貞連)、二階堂下総入道行全、曽我太郎左衛門入道、所々に返合々々て打死しける間、河原を下りに七條を西へ桂川を越て御陣を召る。
延元元(1336)年1月27日の戦いにおいて上杉憲房(道欽)や三浦貞連らと共に「打死(=討ち死に)」したという「二階堂下総入道行全」は、入道(出家)前に下総守であったことを示しており、これも光貞に比定されるのではないかと思う。『分脈』の二階堂氏系図上でこの時期の下総守前任者として該当する人物は他に確認できない。
『梅松論』は元々軍記物語ではあるが、同日に合戦があったことは実際の書状に「正月廿七日 賀茂河原合戦」(「本田久兼軍忠状」)、「正月廿七日 鴨河原合戦」(「和田助康注進状」・「山田宗久注進状」)などと書かれて裏付けられ*9、翌延元2(1337)年3月16日には旧領であった「同国(下野国)中泉庄 二階堂下野入道、同下総入道跡」が結城入道道忠(宗広)に与えられている*10から、【史料C】が描く下総入道=光貞の戦死は史実であろう。また、下野入道については『分脈』(前掲【図A】)上で「下野守」「正中三三出家 行応」と注記される前述の二階堂時元(法名:行応)に比定され、同じ頃に亡くなったものとみられる。
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応安2(1369)年6月19日、道忠の孫・顕朝が養嗣子・千代夜叉丸(のちの満朝)に譲った所領の中にも「下野国中泉庄内 二階堂下野入道跡、同下総入道跡」が含まれており*11、時元(行応)・光貞(行全)両名の旧領は白河結城氏に継承されていったのであった。
(参考ページ)
脚注
*1:校訂増補五十音引勅撰作者部類 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*2:『大日本史料』6-35 P.260。続群書類従 - 伊達幕府女神隊 - アットウィキ。
*3:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*4:勅撰作者部類(チョクセンサクシャブルイ)とは - コトバンク より。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*6:前注に同じ。
*7:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.710。
*8:『大日本史料』6-3 P.16、鎌倉以後の三浦氏 より。
*9:『大日本史料』6-3 P.19~25の各史料を参照のこと。
二階堂貞宗
二階堂 貞宗(にかいどう さだむね、1289年?~1372年?)は、鎌倉時代後期から室町時代初期にかけての人物。
『作者部類』に「頓阿 法師俗名貞宗。二階堂下野守〔ママ〕光貞子」*1、『続群書類従』所収「工藤二階堂系図」に「光貞 下総守 ― 貞宗 遁世、頓阿」*2とあり、貞宗を僧・頓阿(とんあ / とんな)の俗名とし、二階堂光貞の子であったと伝えるものもある。
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『愚管記』・『東野州聞書』・『迎陽記』などによると、頓阿は応安5/文中元(1372)年3月13日に84歳で亡くなったといい*3、逆算すると正応2(1289)年生まれとなる。
『尊卑分脈』の二階堂氏系図上で二階堂光貞に該当するのは、二階堂行泰の子・行実の孫で「下総守」等と注記される人物以外にあり得ないだろう*4。ところが、この光貞の子には高実・政宗・行豊が記載されるのみで、貞宗はむしろ光貞の兄となっている。「工藤二階堂系図」では光貞の子は貞宗・行秋(因幡守、法名行欽)・行豊となっているが、末子・行豊の名が共通していることを考えると、何かしらの混乱が生じたのではないかと推測される。
ここで、二階堂氏行泰流について、親子の年齢差を20歳と仮定して各人物の生年を推定すると次の図のようになる。
図の中で、二階堂時元については生年が1288年と判明しているが、行頼―行元、行元―時元間の年齢差は20~40となっていて妥当と言えよう(恐らく行元は1260年頃の生まれで各年齢差を約30ずつとするのがより正確かもしれない)。実際の史料に現れる高元・高憲についても建武元(1334)年当時左衛門尉であったことが分かっており、図のように推定して十分的を射ていると思われる。
行実流でも同様の手法を試みると、光貞の生年は1276年前後、もしくはそれ以後と推定可能である。しかしその場合、貞宗(頓阿)が光貞14歳の時の子となってしまい、全くあり得ないこともないが、やはり現実的な想定ではないように思う。
『作者部類』(『勅撰作者部類』)は、延元2/建武4(1337)年に成立し、正平17/康安2(1362)年に増補されたもの*5で、頓阿在世中に書かれたものということになる。その成立年代から史料的価値は高いと思うが、前述の頓阿の部分に関しては「下総」を「下野」と誤記があるくらいなので、「光貞兄」とすべきところを「光貞子」と書いてしまったとも考えられる。
また、上の図で示した通り『尊卑分脈』での貞宗の法名は「法忠(ほうちゅう)」となっており、一方頓阿については『実隆公記』に「語及頓阿法師事、彼先祖者小野宮大納言能実 花山院左府家忠公 弟、大炊御門大納言経実卿 兄〔ママ〕也、後胤也、本名泰尋法印、妙法院出世法師也、遁世之後改頓阿云々、」*6とあって藤原師実の子・能実の末裔と伝えるから、むしろ(仮に俗名が「貞宗」であったとしても)頓阿=二階堂氏という『作者部類』の記載を疑うべきかもしれない。
とは言え、頓阿の生年1289年は、そのまま二階堂貞宗に適用してもほぼ問題はなかろう。「貞宗」の名は、父・宗実からの1字に対して「貞」は9代執権・北条貞時(在職:1284~1301年)*7の偏諱と考えられる。1289年生まれとした場合、貞時が執権を辞して出家した正安3(1301)年*8当時13歳と元服の適齢を迎え、二階堂貞宗と頓阿が同人か別人かに拘わらずほぼ同世代人であったとみなして良いと思う。光貞も同様に「貞」字を賜っているが、北条経時・時頼兄弟、安達盛宗・宗景兄弟、千葉宗胤・胤宗兄弟、平宗綱・飯沼資宗兄弟 などと同様に、嫡子・庶子(或いは準嫡子)の違いで偏諱の配置を逆転させた例と考えて良いだろう。宗実の嫡子は当初貞宗であったが、出家したためか、弟・光貞(実際は1290年頃の生まれであろう)に嫡流の地位が移り、その嫡男・高実に至るまで得宗家と連続的な烏帽子親子関係を結んだと推測される。
(参考ページ)
● 大東文化大学 浜口俊裕 電子ギャラリー 古筆 頓阿法師筆 業平歌 古筆了雪
脚注
二階堂貞雄
二階堂 貞雄(にかいどう さだお / さだたけ、1286年頃?~1333年カ)は、鎌倉時代後期から末期にかけての御家人。父は二階堂政雄(頼綱の弟)、母は二階堂行藤の娘(時藤・貞藤の姉妹にあたる)*1。子に二階堂行雄。通称は三郎兵衛尉、因幡守(因幡入道)。法名は行源(ぎょうげん)。
『尊卑分脈』二階堂氏系図(以下『分脈』と略記)の貞雄の項には次のように書かれている。
正中3(1326)年3月に出家して「行源」と号した旨の記載が見られるが、弟・行高(初名: 高雄)の項を見ると、貞雄と同時に出家した時28歳(数え年)であったと書かれている。従って兄である貞雄はそれより年長だったはずで、30代以上であったと考えて良いだろう。 貞雄・行高 (高雄) 兄弟の出家は、同月の得宗・北条高時の出家*2に追随したものであろう。
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こちら▲の記事で紹介の通り、伯父・頼綱は1239年生まれであったことが判明しており、その弟である父・政雄はどんなに早くとも1243年頃の生まれであろう*3。「政雄」の実名に着目すると、「政」は家祖・二階堂行政の1字とも考え得るが、「雄」の字もまた、更に遡った先祖・藤原雄友に由来する可能性がある*4。わざわざ上(1文字目)に置いていることからしても「政」は7代執権・北条政村からの偏諱なのではないか(すぐ下の弟・宗綱は8代執権・北条時宗からの一字拝領か)。政村執権期間(1264~1268年)*5の元服だとすれば政雄はおよそ1250年代の生まれとなる*6から、貞雄の生年は早くとも1270年代となる。更に、外祖父・二階堂行藤は寛元4(1246)年生まれとされるので、各親子間の年齢差を考慮すれば、貞雄は1286年頃より後の生まれとするのが妥当であり、その元服の年次が北条貞時9代執権期間(1284~1301年)になることは確実と言って良いと思う。
『分脈』を見ると政雄は正安3(1301)年8月23日に出家して「行海」と号したとあるが、同日の貞時の出家に追随したことは明らかであり、政村の代から執権に近い立場にあったと言えるだろう。貞時と貞雄は烏帽子親子関係にあったと判断される。
貞雄に関する史料としては、次の書状が確認できる。
【史料B】元𪪺(元弘)3(1333)年5月20日付「熊谷直経代同直久軍忠状」(『長門熊谷家文書』)*7より
(前略)……朝敵等、元弘三年五月十二日、直久相共罷向丹後国熊野郡浦家庄、押寄二階堂因幡入道之城墎〔=郭〕、令追罰畢、……(以下略)
丹後など4ヶ国の朝敵を討伐せよとの綸旨を賜った熊谷氏は、熊谷直清(彦三郎)を大将として出陣。元弘3年5月12日、直清や熊谷直久(太郎次郎)が率いる軍勢は丹後国熊野郡にある二階堂因幡入道の城郭に押し寄せ、これを追罰したとある。この因幡入道は『鎌倉遺文』や『大日本古文書』の通り、【史料A】で「因幡守」と注記される貞雄(行源)に比定して問題ないと思う。
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熊谷氏の動きは、同月7日足利高氏(のちの尊氏)らによって六波羅探題が滅ぼされたことに起因するのは間違いなく、『分脈』には弟の行高(行淳)が同月に亡くなったとの記載があるので、貞雄も事実上探題に殉ずる形での戦死であったとみられる。
(参考文献)
● 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.155「二階堂(伊勢)貞雄」の項
脚注
*1:『佐野本二階堂系図』より。『分脈』でも行藤の娘の一人に能登守政雄妻が確認できる。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*3:『分脈』での記載に従うならば、頼綱と政雄の間に盛綱、行景、行員の兄弟がいた。
*4:雄友については「おとも」と読む説がある(→藤原雄友(ふじわらの おとも)とは - コトバンク)一方、田代政鬴『新訳求麻外史』(求麻外史発行所、1917年)の文中では「たけとも」とルビが振られていて定かではない。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その45-北条政村 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*6:『分脈』などによれば、頼綱・政雄らの父・二階堂行綱は弘安4(1281)年6月7日に亡くなったといい、政雄の生年が1250年代でも全く問題はないと思う。
*7:『大日本古文書』家わけ第十四 第一 熊谷家文書 P.61(三六号)。『鎌倉遺文』第41巻32176号。
二階堂高雄
二階堂 行高(にかいどう ゆきたか、1299年~1333年)は、鎌倉時代末期の御家人。幼名は若寸丸。初名は二階堂高雄(たかお / たかたけ)*1。法名は行淳(ぎょうじゅん) または 行凉(ぎょうりょう)。父は二階堂政雄(頼綱の弟)、母は二階堂行藤の娘(時藤・貞藤の姉妹にあたる)*2。通称は四郎左衛門尉。
『尊卑分脈』二階堂氏系図(以下『分脈』と略記)の行高の項には次のように書かれている。
【史料A】
使 四郎左衛門尉 従五下 若寸丸
行高 本名高雄 叙留
正中三三出行淳 廿八
元弘三五ゝ死
正中3(1326)年3月に28歳(数え年)で出家したと書かれており、逆算すると1299年生まれと分かる。
これに基づき、紺戸淳氏の手法に従って元服の年次を推定すると、およそ1308~1313年となるが、「高雄」の名は1311年から得宗家家督となった北条高時が烏帽子親となり、その偏諱を受けたものと考えて良いと思う。理由は不明ながらのちに二階堂氏通字の「行」を用いて「行高」と改名したが、「高」の字は残しており、下(2文字目)に置くことについても高時の許容範囲であったことが窺える。若い年齢ながら正中3年に出家したのも、同月の高時出家*3に追随したことに間違いないだろう。『分脈』によれば兄・貞雄も同じくこの時に出家したという。
細川重男氏のまとめによると『続群書類従』所収「二階堂系図」では法名を「行凉」とし(下記参考文献参照)、『分脈』の国史大系本にも『仁和寺文書』では「行凉」と書かれているとの注記が見られる*4(筆者の方では未確認)。「淳」と「凉」は(特に崩し字にすると)字が類似することから誤読・誤写などが生じたのであろう。
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【史料A】にあるように、元弘3(1333)年5月に亡くなったといい、享年は35と若かった。その死因については明らかにされていないが、5月12日には追討の綸旨を賜った熊谷氏の軍勢が、「朝敵」の一人で兄・貞雄(法名:行源)と思われる「二階堂因幡入道」のいる丹後国熊野郡に攻め入っており*5、行高(行淳)の死もこれに無関係ではないだろう。
日にちの部分にあたる「ゝ」について、細川氏は(5月)5日と解釈されているが、『分脈』における「ゝ」は必ずしも繰り返しを意味するとは限らない(数字等不詳の場合に付す場合がある)。
行高が貞雄と同地に居たかどうかは分からないが、少なくとも同様に在京だった可能性はあり、5月7日には足利高氏(のちの尊氏)らに攻め込まれて六波羅探題が滅ぼされているので、これに殉じた可能性も考えられよう。
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いずれにせよ、35歳での早死にであることも踏まえれば、最期まで幕府(六波羅探題)側に付いての "殉死" であったとみられる。
(参考文献)
● 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.156「二階堂(伊勢)行高」の項
脚注
*1:「雄」の由来 および 読み方については 二階堂貞雄 - Henkipedia 注4を参照。
*2:参考文献・細川氏著書より。典拠は『佐野本二階堂系図』。『分脈』でも行藤の娘の一人に能登守政雄妻が確認できる。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*4:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.506。
*5:『大日本古文書』家わけ第十四 第一 熊谷家文書 P.61(三六号)。『鎌倉遺文』第41巻32176号。
二階堂高元
二階堂 高元(にかいどう たかもと、1310年頃?~没年不詳(1342年以後))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人物。のちに二階堂行春(ゆきはる)と改名。父は二階堂時元。通称は下野判官。
【史料A】建武元(1334)年正月付「関東廂番定書写」(『建武(年間)記』)*1
定廂結番事、次第不同、
番 〔※原文ママ、"一"番脱字カ〕
( 略 )
二番
( 略 )
丹後三郎左衛門尉盛高 三河四郎左衛門尉行冬
三番
( 略 )
山城左衛門大夫高貞 前隼人正致顕
四番
( 略 )
小野寺遠江権守道親 因幡三郎左衛門尉高憲
遠江七郎左衛門尉時長
五番
伊東重左衛門尉祐持 後藤壱岐五郎左衛門尉
美作次郎左衛門尉高衡 丹後四郎政衡
六番
中務大輔満儀〔満義カ〕 蔵人伊豆守重能
下野判官高元 高太郎左衛門尉師顕
加藤左衛門尉 下総四郎高宗(※高家とも)
実在が確かめられる史料として、上記【史料A】にある関東廂番の四番衆の一人に「下野判官高元」と書かれている。この高元は以下に示す二階堂氏の一門と考えて良いだろう。
▲【図B】二階堂氏略系図
この【図B】は『尊卑分脈』*2に基づいたものであるが、同系図の行春の傍注には元の名が「高元」、官途が左衛門尉であった旨の記載が見られる。【史料A】における高元の通称は、父・時元が下野守で、自身が左衛門尉となっていたため、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である「判官 (はんがん/ほうがん)」*3を称したものと分かる。
すなわち、建武元年初頭まで初名の「高元」を名乗っていたことになるが、結論から言えばその改名の理由は、「高」が前年(1333年)に滅亡した得宗・北条高時の偏諱であったからに他ならないだろう。
(参考記事)
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改めて【図B】を見ると、同族の行佐(ゆきすけ)流では行時が正安3(1301)年8月24日、その子・行憲が正中3(1326)年3月にそれぞれ出家したと書かれているが、各々当時の得宗である北条貞時・高時の出家*4に追随したことは明らかで、その当時の人物であったことの証左となる。特に行憲と同じく行泰の曾孫(行憲のはとこ)にあたる高元(行春)の父・時元もやはり高時に追随して出家しており、行泰から見て代数の同じ者同士はほぼ同世代の人物と扱って良いと思う。
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そのような観点に加え、実際に【図C】のように各人物の生年を推定すると、行泰の玄孫にあたる、行実流の二階堂高実、行憲の子・高憲、そして高元はほぼ同世代人と言え、共通して高時の偏諱「高」を受けていることがその証左になると言えよう。
▲【図C】二階堂氏行泰流の各人物生年の推定
この【図C】は、行泰の息子たちは皆、生年が判明しており、そこから親子の年齢差を20歳としてその子孫の生年を算出したものである。しかし、二階堂時元については【図A】に1326年に出家した時39歳とあるから生年が1288年と分かり、高元(行春)も1308年頃より後の生まれと推定可能である。
前述の【史料A】において高元は判官(=左衛門尉)であったことが窺えるので、その年齢は20代以上であったと考えて良いと思う。当時20歳として逆算すれば遅くとも1315年の生まれとなるから、高元(行春)の生年はおよそ1310年前後で、北条高時執権期間(1316~1326年)*5内に元服して「高」の偏諱を許されたと判断できる。
尚、軍記物語ながら実際の史実をある程度で反映させている『太平記』を見ると、巻23「土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事」の文中に「二階堂下野判官行春」と書かれており*6、暦応5(1342)年までに改名していたと考えて良いだろう。この記事には、光厳上皇の御幸の列に出会った土岐頼遠と行春(高元)が狼藉を働き、頼遠は斬首、行春は讃岐国に配流となったと記されている。
以後の動向は不明であるが、二階堂駿河入道行春(法名・忻恵)が貞治元/正平17(1362)年から翌年にかけて鎌倉府政所執事を務めたとする史料が確認されており、これを復帰して駿河守となり出家した後の行春(高元)とみなす説もある(下記参考ページ参照)。
(参考ページ)
脚注
*1:『南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)39号 または『大日本史料』6-1 P.421~423。【論稿】北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔史料A〕も参照。
*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『大日本史料』6-1 P.423。
*3:判官 - Wikipedia より。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)参照。
二階堂高憲
二階堂 高憲(にかいどう たかのり、1300年代初頭?~没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかえての人物。出家の直前に二階堂行清(ゆききよ)と改名。父は二階堂行憲。法名は行珍 または 行孫 とされる。通称は因幡三郎左衛門尉。
【史料A】建武元(1334)年正月付「関東廂番定書写」(『建武(年間)記』)*1
定廂結番事、次第不同、
番 〔※原文ママ、"一"番脱字カ〕
( 略 )
二番
( 略 )
丹後三郎左衛門尉盛高 三河四郎左衛門尉行冬
三番
( 略 )
山城左衛門大夫高貞 前隼人正致顕
四番
( 略 )
遠江七郎左衛門尉時長
五番
伊東重左衛門尉祐持 後藤壱岐五郎左衛門尉
美作次郎左衛門尉高衡 丹後四郎政衡
六番
中務大輔満儀〔満義カ〕 蔵人伊豆守重能
下野判官高元 高太郎左衛門尉師顕
加藤左衛門尉 下総四郎高宗(※高家とも)
実在が確かめられる史料として、上記【史料A】にある関東廂番の四番衆の一人に「因幡三郎左衛門尉高憲」と書かれている。「三郎左衛門尉」という通称名の一致や、この定書きの写しにおいて二階堂氏一門と推定される人物に「二階堂」の苗字が付されていないことから、この人物も以下に示すその一門と考えて良いだろう。
▲【図B】二階堂氏略系図
この【図B】は『尊卑分脈』*2に基づいたものであるが、同系図の行清の傍注には「建武元丶丶出(=出家)」、その異本によっては具体的に「建武元三(=三月)出」と記すものもあり、前述史料から僅か2ヶ月の間に「高憲」から「行清」に改名し、間もなく出家した可能性が高い。
すなわち、建武元年初頭まで初名の「高憲」を名乗っていたことになるが、結論から言えばその改名の理由は、「高」が前年(1333年)に滅亡した得宗・北条高時の偏諱であったからに他ならないだろう(ちなみに行憲・高憲父子の「憲」は祖先・藤原為憲、高憲改名後の「行清」は為憲の祖父・藤原清夏に由来するものと思われる)。
(参考記事)
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改めて【図B】を見ると、祖父・行時が正安3(1301)年8月24日、父・行憲が正中3(1326)年3月にそれぞれ出家したと書かれているが、各々当時の得宗である北条貞時・高時の出家*3に追随したことは明らかで、その当時の人物であったことの証左となる。特に行憲と同じく行泰の曾孫(行憲のはとこ)にあたる二階堂時元もやはり高時に追随して出家しており、行泰から見て代数の同じ者同士はほぼ同世代の人物と扱って良いと思う。
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そのような観点に加え、実際に【図C】のように各人物の生年を推定すると、行泰の玄孫にあたる、行実流の二階堂高実、行憲の子・高憲、時元の子・高元はほぼ同世代人と言え、共通して高時の偏諱「高」を受けていることがその証左になると言えよう。
▲【図C】二階堂氏行泰流の各人物生年の推定*4
前述の【史料A】において高憲は左衛門尉、高元は判官(=左衛門尉)*5。であったことが窺えるので、その年齢は20代以上であったと考えて良いと思う。従ってその約8年前、高時および行憲・時元が出家した時には、高憲・高元は既に元服を済ませていたと考えて良く、【図C】も参考にすれば、北条高時が得宗家家督となった1311年から、出家する1326年までの間の元服であることは確実と判断できる。
脚注
*1:『南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)39号 または『大日本史料』6-1 P.421~423。【論稿】北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔史料A〕も参照。
*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『大日本史料』6-1 P.423。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)参照。
*4:行泰の息子たちは皆、生年が判明しており、そこから親子の年齢差を20歳としてその子孫の生年を算出した。二階堂時元については【図A】に出家時39歳とあることから生年が判明する。
*5:「判官(はんがん/ほうがん)」とは、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称(→ 判官 - Wikipedia)。
規矩高政
北条 高政(ほうじょう たかまさ*1、1307年頃?~1334年カ)は、鎌倉時代末期の北条氏一門。肥後国守護。豊前国規矩郡(のちの企救郡、現・福岡県北九州市)を領したので、規矩高政(きく ー)とも呼ばれる。通称は上総掃部助、規矩掃部助。
▲規矩高政の花押(『豊津町史』より)
関連史料の紹介
父は金沢流北条氏の一門で鎮西探題を務めた金沢政顕。『深堀系図証文記録』*2には「探題英時猶子規矩掃部助高政」とあり(後述【史料11】参照)*3、最後の鎮西探題・赤橋英時の猶子(家督や財産などの相続を必ずしも目的としない、形式上の養子)であったという。
まずは、この高政に比定し得る史料での登場箇所を列挙しておきたいと思う。
●【史料1】嘉暦2(1327)年5月10日付「規矩高政施行状」(『相良家文書』):「掃部助」の署名と花押*4
●【史料2】嘉暦3(1328)年3月9日付「鎮西御教書」(『肥前深江文書』):宛名に「上総掃部助殿」*5
●【史料3】元徳2(1330)年3月11日付「肥後守護規矩高政施行状案」(『島津家文書』):「掃部助」の署名と花押*6
●【史料4】元徳2年8月10日付「鎮西御教書案」(『肥後藤崎八幡宮文書』):「掃部助」の署名と花押*7
●【史料5】『博多日記』*8:正慶2/元弘3(1333)年3月25日、「規矩殿(=高政)」が肥後・阿蘇惟直の領地を攻撃し(惟直は一旦鞍岡城に退却するも菊池二郎武重と脱出)*9、4月4日博多に帰還*10。
●【史料6】『太平記』巻12「安鎮国家法事付諸大将恩賞事」*12より
元弘三年春の比、筑紫には規矩掃部助高政・糸田左近大夫将監貞義と云平氏(=平姓北条氏)の一族出来て、前亡の余類を集め、所々の逆党を招て国を乱らんとす。又河内国の賊徒等、佐々目憲法〔ママ、顕宝カ〕僧正と云ける者を取立て、飯盛山に城郭をぞ構ける。是のみならず、伊与国には赤橋駿河守が子息、駿河太郎重時と云者有て、立烏帽子峯に城を拵、四辺の庄園を掠領す。……(中略)……されども此法の効験にや、飯盛丸城は正成に被攻落、立烏帽子城は、土居・得能に被責破、筑紫は大友・小弐に打負て、朝敵の首京都に上しかば、共に被渡大路、軈て被懸獄門けり。東国・西国已静謐しければ、自筑紫小弐・大友・菊池・松浦の者共、大船七百余艘にて参洛す。……(以下略)
『太平記』では時期を元弘3年春とするが、「前亡の余類」というのは同年5月22日に滅んだ北条氏(一門や関係者)*13の残党であろうから、翌元弘4年(=1334、建武元年)の誤記であろう。
●【史料7】建武元年7月28日付「相良頼広着到状」2通(『相良家文書』)*14
●【史料8】同日付「相良祐長着到状」(『相良家文書』)*15
この3通の冒頭に「就上総掃部助高政同(上総)左近大夫貞義謀叛、騒動之間、……」とあるなど、高政らの反乱については多数の書状が伝えるところであるが、この結末については下記の一部史料に記されている。
●【史料9】『上妻文書』:「依謀叛人上総掃部助高政、同左近大夫将監貞義誅伐事、……」*16
●【史料10】『中村家古文書』:「去七月九日謀叛人上総掃部助高雅〔ママ〕、同左近大夫貞義等誅伐之時、……」*17
●【史料11】『深堀系図証文記録』:「探題英時猶子規矩掃部助高政……少弐頼尚等誅伐高政以下逆徒……」*18
●【史料12】『歴代鎮西志』 :「……累攻高政遂陥城、北条上総掃部助平高政於豊〔「前」脱字カ〕規矩殲、……」*19
●【史料13】『松浦家譜』松浦定の注記 :「…建武元年北条高政據豊前帆柱城、北条貞義據筑後堀口城、三月、少弐頼尚攻帆柱城、定従之先登、高政遁走、追撃殲之(之:これ=高政)、…」*20
●【史料14】『松浦家世伝』 :「三月、少弐頼尚、率肥筑兵、進入豊、攻帆柱城、公(=松浦定)与 原田、秋月、宗像従之先登、高政不能拒、出城遁、追撃殲之…」*21
●【史料15】『太平記大全』12 :「規矩高政ハ、故探題英時ガ猶子也、…(略)…帆柱向イ城ヲ責ル事六十余日、高政亡(ほろぼ)シヌ、長野(=長野七郎貞安)ハ降参シテンケリ、」*22
「誅伐」の「誅」や「殲」には、「殺す」「滅ぼす」「尽きる」などの意味があり*23、【史料15】と照合しても、苗字の地・規矩で戦った高政は帆柱城を落とされ、逃れようとしたところを追撃されて滅亡した、という解釈で良いだろう。糸田貞義についても【史料12】の続きに「糸田左近将監平貞義以下、伴類悉(ことごとく)死」とあるなど、史料上で同様に滅ぼされた旨の記載が見られ、兄弟の反乱は完全に鎮圧されたのであった。
乱鎮定後、建武元年11月25日付の後醍醐天皇綸旨(『豊後入江文書』)には、塚崎次郎貞重へ勲功の賞として「豊後国岩室村地頭職 高政跡」(「跡」は以前得ていた所職・旧領などの意)が与えられている*24ほか、翌2(1335)年には「当国(=肥後国)大浦・皆代地頭職 高政跡」が詫磨宗直(詫摩宗直)に与えられており*25、先の規矩・糸田の乱で高政が滅ぼされたことを裏付けていると言えよう。
実政流北条氏(実政・政顕)について
前節で掲げた高政の通称の一つ「上総掃部助」は、父が「上総介」で、自身が「掃部助」であったことを表すものである。父である当該期の上総介に該当し得るのは、下記史料のほか、「政」字が共通することからも、金沢流北条氏の庶流・上総家*26の北条政顕と考えられ、これが定説となっている。
ここで、嘉元2(1304)年12月10日付「関東御教書案」(『薩藩旧記 前編』巻12所収『国分寺文書』)の宛名に書かれている、のちの高政と同じ通称名を持った「上総掃部助殿」*27について考えてみたい。これもやはり同じく父が「上総介」で、自身が「掃部助」であったことを表しているが、この場合の父・上総介に該当し得るのは北条実政であろう。
近い時期でも例えば、正安3(1301)年7月12日付「関東下知状」(『肥前小鹿島文書』)に「上総前司実政」とあり*28、翌4(1302=乾元元)年のものと推定される「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)に「上総入道殿去七日子刻、令他界給之由、……」*29と、貞顕が叔父である実政の他界(逝去)を伝えている*30。
『尊卑分脈』(以下『分脈』と略記)を見ると実政の子息として載せられているのは政顕のみで、その他の男子としては鎌倉時代後期に成立の『入来院本 北条系図』に政盛が載せられる位*31であるが、「上総掃部助殿」に該当し得るのは政顕しかいない。『分脈』では政顕の傍注に「上総介」と記すのみだが、次に示す通り花押の一致から当初は掃部助であったことが分かるからである。
(左から)
・正安4(1302)年8月18日付「鎮西下知状」(『志賀文書』)*32
・嘉元2年10月26日付「鎮西下知状」(『来島文書』):「掃部助平」
・嘉元3(1305)年4月6日付「蒙古合戦勲功賞配分状」(『二階堂文書』):「上総介平朝臣」
・嘉元4(1306)年12月16日付「鎮西御教書」(『禰寝文書』):「前上総介」
花押カードデータベース(東京大学史料編纂所HP内)で調べると、この花押と署名で発給された書状は多数残るが、それらは鎮西探題としての発給書状(鎮西下知状 または 鎮西御教書)であり、『分脈』等と照らし合わせても、正安3(1301)年11月2日に33歳(数え年、以下同様)で鎮西探題となった政顕(『帝王編年記』、逆算すると文永6(1269)年生まれ)*33に間違いない。
そして、政顕が「上総掃部助」と名乗り得るのは、父・実政が35歳で叙爵し上総介となった弘安6(1283)年*34以後の筈であり、実政はそれまで無官であったようなので、政顕が父より先に掃部助に任ぜられることも無かろう。従って政顕は15~34歳の間で掃部助となり、37歳で上総介に昇ったことになる。
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「掃部助(従六位上相当)」は実政の父である金沢実時も経た*35、ゆかりのある官職であり、庶流のため若干の遅れはあるかもしれないが、政顕の任官年齢も同じく15歳、或いは10代後半あたりであったと考えて良いのではないかと思われる。実政に比べれば初任官年齢は早く、その後も実政とさほど変わらない年齢で同じ上総介への任官が認められており、ある程度の待遇は受けていたと言っても良いだろう。
諱に関して言えば、実政の名は実泰―実時の「実」と先祖・北条時政の「政」で構成されていると思われ、その1字を継いだ息子・政顕の「顕」は伯父・顕時の偏諱によるものと見受けられる。
生年と烏帽子親の推定
高政については、【史料1】や【史料2】により嘉暦年間の段階で「掃部助」であったことが分かり、その官途は最期まで変わらぬままであった。
しかし、兄弟の糸田貞義(上総左近大夫将監)とは違ってかつての父・政顕と同じ「上総掃部助」を称し、後述するが得宗・北条高時の偏諱「高」を受けていることからしても、政顕の後継者としてゆくゆくは上総介への任官が認められる可能性があったのではないかと思われる*36。従って前節での考察を踏まえると、1334年当時30代後半には達していなかったものと推測され、生没年ともに1300年代であった可能性が高いと判断できる。
そして、嘉暦2(1327)年の段階で掃部助に任官済みであったことも分かっているので、前節で見た実時・政顕の例を参考にすれば、15歳以上であったと推測可能である。よって、遅くとも1312年頃までには生まれている筈だろう。本項では嘉暦2年当時20歳位と仮定して1307年頃の生まれとしておく。
すると、実泰や実時がそうであったように、元服は通常10代前半で行われたので、高政の元服当時の得宗は間違いなく北条高時(1311年家督継承、14代執権在職:1316~1326年)となる。よって高時と高政は烏帽子親子関係にあったと判断される。前節で述べた通り、金沢流上総家は実政の代から庶流として分かれた故、得宗と烏帽子親子関係を持っていなかったが、その例外となる。結ばれた経緯は不明であるが、規矩流北条氏という(金沢流から)独立した家の初代当主として認める方向性があったのかもしれないし、何よりも赤橋英時の猶子になったことと無関係ではないのではないかと思われる。
実父を亡くした後、倒幕運動によって鎌倉の烏帽子親、鎮西の猶父と相次いで喪った高政は、その仇討ちに建武新政権への反乱を起こして散ったのであった。
(参考ページ)
脚注
*1:『中村家古文書』(本文中【史料10】)や『蠹簡集残篇』(→『大日本史料』6-1 P.427)に見られるように、実際の書状の中には実名を「高雅」と書いているものもあるが、これがかえって「たかまさ」と読まれていたことを裏付けている。本文で述べるが如く、実政―政顕から継承した「政」(高政)が正式な表記であろう。
*2:この史料については 長崎市│深堀家系図・深堀系図証文記 を参照のこと。
*4:『大日本古文書』家わけ第五 相良家文書之一 P.104(四九号)。(肥後守護規矩高政施行状)〔尼妙阿地頭職安堵〕 | 慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクションDigital Collections of Keio University Libraries。永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.198。
*5:『鎌倉遺文』第39巻30178号。
*6:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之三 P.18(一一七四号)。
*7:『鎌倉遺文』第40巻31178号。
*8:この史料については 史料編−501博多日記 を参照のこと。
*11:『大日本史料』6-1 P.424~429、P.507~508、P.664~672 の各史料を参照のこと。
*14:『大日本古文書』家わけ第五 相良家文書之一 P.118(六八・六九号)。
*15:『大日本古文書』家わけ第五 相良家文書之一 P.119(七〇号)。
*18:注3同箇所。
*23:誅 | 漢字一字 | 漢字ペディア、殲 | 漢字一字 | 漢字ペディア より。
*24:注4前掲永井氏著書 同ページ。典拠は『南北朝遺文 九州編』162号。『大日本史料』6-2 P.149、年代記建武元年 も参照のこと。
*25:前注永井氏著書 同ページ。典拠は『南北朝遺文 九州編』263号。『大日本史料』6-2 P.425 も参照のこと。
*26:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.29 における呼称。本文にある通り、代々上総介となっていることから。
*27:『鎌倉遺文』第29巻22052号。
*28:『鎌倉遺文』第27巻20824号。
*29:『鎌倉遺文』第28巻21322号。
*30:この貞顕書状の時期については、『分脈』の実政の注記に「正安四五十八卒 五十四才」とあることから推定可能である。
*31:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.14。政顕の兄の位置に記載されて傍注には「式部大夫 出家」とあり、家督継承者からは外れたのであろう。
*34:『編年史料』後宇多天皇紀・建治元年10~11月 P.55。
*35:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その54-金沢実時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*36:これらの観点から、筆者は高政が政顕の嫡男だった可能性を考える。『分脈』には政顕の子に種時を載せているが、その官途は『分脈』に左近将監とあるのみであり、鎮西探題に関しても政顕の離任直後の僅かな期間のみ職務の代行が認められただけであった。このことから種時が政顕の嫡男であったとは考え難いと思われる。尚、注31同箇所では種時は政顕の4男として書かれ、長男には師顕の記載がある。この北条師顕は10代執権・北条師時の偏諱拝領者と考えられ「上総州□」と注記されることからも当初の嫡男だったのではないか。恐らく師顕は早世し、それに代わる嫡子が高政だったのではないかと推測する。また種時の弟・顕義に「掃部助」の注記があるが、元応元年のものとされる「鎮西下知状」(『豊前宮成文書』/『鎌倉遺文』第35巻27095号・27353号)では「(豊前)守護人上総兵部大輔顕義」と書かれているので、高政と混同されているのかもしれない。