Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大仏高政

北条 高政(ほうじょう たかまさ、1310年頃?~1333年?)は、鎌倉時代末期の武将、御家人。北条氏一門・大仏貞直の嫡男で、大仏高政(おさらぎ ー)とも。通称は五郎。

 

本項で扱うのは、次の史料に現れる人物である。 

【史料A】(嘉暦4年?)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*1より

去月廿七日御返事、長州上野前司使下向之便、今日到来、委細承候了、

一. 道蘊使節事、大略落居、近日可被出御返事之旨、承候了、治定分、北山殿さたハ、可有御存知候、内々御尋候て、可示給候、

一. 為重朝臣上洛候て、申旨候者、有御対面、委可被聞候、

一. 駿州子息五郎高政官途事、未申候哉、聞書出来之時、可写給候、

一. 同人長崎左衛門入道招請事、致用意被請候之処、固辞候て不参候之間、周章之由承候、彼固辞候上者、城入道も不参候歟、又京都ニハ可有上洛之旨風聞之由…

(以下欠)

ここでいう「駿州」とは当時の駿河であった人物を指すものであり、その息子として五郎高政なる人物が確認できる。元服からさほど経っていなかったためか、無官で「五郎」とのみ名乗っていたことが窺えるが、「官途の事、未だ申し候や(=まだ申していないのでしょうか)*2と言っているように、この当時高政に任官の話が出ていたことも分かる。

 

では、この高政の父である「駿州駿河守)」とは誰なのか。『鎌倉遺文』では北条(甘縄)顕実*3、『金沢文庫古文書』では北条(大仏)貞直、としていて意見が分かれており、これについて考証してみたい。

そのためにはまず、この書状が何時のものかを推定する必要がある。ここで注目すべきは、文中にある、高時政権の最高権力者、長崎円喜安達時顕法名:延明)両名の通称「長崎左衛門入道」・「城入道」である。

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こちら▲の記事で紹介の通り、円喜(俗名:長崎盛宗か)は延慶2(1309)年に出家済みであったが、「城入道」というのは秋田城介であった時顕が入道(出家)してから呼ばれる筈であり、その年は高時に同じく正中3(1326)年である。

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従って【史料A】は正中3年以後、鎌倉幕府滅亡時(1333年)までに書かれたものであることは確実である。上に示したように『鎌倉遺文』では嘉暦4(1329=元徳元)年と推定しているが、永井晋の研究によると同年3月、後醍醐天皇の譲位を巡る問題を重く見た幕府は道蘊こと二階堂貞藤を使者(東使)として上洛させたといい*4、「道蘊使節事、大略落居、…」以下の一節はそのことを言っているものなのであろう。

 

次いで、正中3年以後に駿河であり得る人物について考察したい。

 伊具斎時:不詳*5

*『常楽記』での逝去の記事で「伊具駿河入道」と記されることから、生前駿河守となってから出家したことが分かる。『鎌倉年代記』正和2(1313)年条には、7月26日に二番引付頭人として「斎時」の名があるから、出家はこれより後のことである。同文保元(1317)年条を見ると12月27日の引付改編で記載が無いことから、二番引付頭人を辞したことが分かるが、この時政界を引退した可能性が高く、同時に出家したのではないか。すなわち斎時の駿河守在任は1317年以前だったのではないかと推測される。

甘縄顕実:不詳*6

*弟・金沢貞顕の書状に現れる「駿川修理亮顕香」*7、「駿河大夫将監顕義」*8は『前田本 平氏系図*9により、『常楽記』にある「甘縄駿河入道(俗名顕実)」の子(貞顕の甥)とみなせるので、顕実の最終官途が駿河守であったことは認められる。斎時に同じく逝去時の通称から、生前駿河守となってから出家したことが分かるが、『鎌倉年代記』を見ると嘉暦元(1326)年5月13日における二番引付頭人に「顕実」とあって在俗であるから、出家の時期は逝去の直前であったことが窺える。

 大仏貞直:後述【史料B】より。

 常葉範貞:1329.12.13~1333.5.22(幕府滅亡)*10

 

判明しているだけでも駿河北条重時以来、北条氏一門により世襲されていたと言って良く、1301~1305年の北条宗方までは判明している*11。上記の彼らもまた、北条氏一門であり、【史料A】の高政が北条氏であることが確実となる。

ここで次の史料を紹介しておきたい。

【史料B】「鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙*12

相模左近大夫将監入道   刑部権大輔入道道鑒〔ママ*〕

城入道延明       山城入道行曉

出羽入道道薀        後藤信乃入道覺也

信乃入道道大        伊勢入道行意

長崎左衛門入道      同新左衛門尉高資

駿川守貞直

*:道準または親鑒の誤記か。

「城入道延明(安達時顕)」のみならず、相模左近大夫将監(北条泰家)行暁(二階堂行貞)覚也(後藤基胤)道大(太田時連)行意(二階堂忠貞)が出家後の通称で記載されていることから、彼らが正中3(1326=嘉暦元)年3月の北条高時剃髪に追随して出家した後に書かれたものであることは確実である。そしてこれは、行暁(行貞)が亡くなる嘉暦4(1329)年2月2日までに書かれた筈でもある。

すなわち、1326~1329年の間に貞直が駿河守在任であったことが確実となり、駿河守在任者の変化は

 顕実(1326~1327)貞直(1327~1329)範貞(1329~)

 貞直(~1326.5)顕実(1326.5~1327)(1327~1329)範貞(1329~)

のいずれかとなる。

前述したように【史料A】は1329年のものである可能性が高いから、「駿州」=顕実とする『鎌倉遺文』の人物比定は成立し得ない。

そして、のように顕実と範貞の間に駿河守であった人物が判明していないというのはどうも不自然であり、また貞直が駿河守を辞して「前駿河守」「駿河前司」等と呼ばれた形跡も史料で確認できない。

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こちら▲の記事で紹介の通り、貞直は1329年12月頃に「奥州拝任」をし、その後の元弘の変に際しては「陸奥守貞直」として幕府軍大将の一人を務めている。前述のように捉え、駿河守からそのまま陸奥守へ転任したと考えるのが自然なのではないか。

よって嘉暦年間当時の駿河守は貞直で、【史料A】の「駿州」=貞直とする『金沢文庫古文書』の見解が正しいと判断される。すなわち、系図には見られないが、貞直には高政という息子がいたことになる

上の記事で貞直の生年を1290年頃と推定したが、これに従い親子の年齢差を考慮すれば、高政の生年は早くとも1310年頃となる。この場合【史料A】当時20歳(数え年)位となり、北条氏一門で何かしらの官職に就く話が出る年齢としては相応であろう。

元服は通常10代前半で行われたから、「」の名は1326年までに14代執権・北条を烏帽子親とし、その偏諱を受けたものと判断される。大仏流北条氏では宣時の長男・宗宣の系統(宣―(維貞) )が嫡流として代々得宗家と烏帽子親子関係を結んでいたが、次男・宗泰の系統(泰―)も準嫡流として同様に一字を拝領していたのであろう。父・貞直は大仏朝直(宣時の父)の1字を用いたが、高政の「政」は更に遡った先祖・北条時政から取ったものと見受けられる*13。また「五郎」の輩行名は実際に5男だったわけではなく、貞直の嫡男として、宣時・宗宣父子が名乗った仮名を称したものであろう。

 

先行研究でも貞直の子としてあまり浸透していないためか、関連する史料が残されていないこともあって大仏高政の動向は不明である。但し、父・貞直は1333年5月22日の鎌倉幕府滅亡東勝寺合戦時に戦死、同日には高時以下一門も自害しており*14、その「佐介の人々」または「門葉たる人二百八十三人」の中に高政も含まれていたのではないかと思われる。『系図纂要』には貞直の子として大仏顕秀の記載があり、恐らくは15代執権・貞顕の偏諱を受けた高政の弟と思われるが、同じく幕府滅亡時に戦死したと伝わる。

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第39巻30702号。『金沢文庫古文書』688号(武将編P.126 391号)。

*2:「未」は漢文における再読文字で「いまだ~(せ)ず」(→ 高等学校古文/漢文の読み方/再読文字 - Wikibooks)。「申候」は「申します」、「候哉」は「…でしょうか/…するであろうか」の意(→ 古文書の勉強候の用例辞典 - 古文書ネット)。

*3:他にも 北条高政 (顕実の子) - Enpedia(典拠は北条氏研究会 『北条氏系譜人名辞典』 〈新人物往来社、2001年〉P.206)でもこの説を採用するが、本項ではこれを否定する。

*4:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.118。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その53-伊具斎時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は『尊卑分脈』および 『常楽記』嘉暦4(1329)年9月3日条「伊具駿河入道他界六十八」。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その59-甘縄顕実 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は『常楽記』嘉暦2(1327)年3月26日条「甘縄駿河入道殿他界五十五俗名顕実」。

*7:元徳2年カ)2月22日付書状(『鎌倉遺文』第39巻30917号)。

*8:元徳2年2月26日のものとされる書状(『鎌倉遺文』第39巻30930号)。

*9:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.375。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*11:駿河国 - Wikipedia  #駿河守 参照。

*12:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*13:大仏流の近親者では、貞直の弟(高政の叔父)・大仏宣政や、貞房の末子・大仏貞政(『分脈』、貞直の従兄弟)がこの字を用いている。

*14:「太平記」巻10 高時並一門以下於東勝寺自害の事(その3) : Santa Lab's Blog

二階堂高行

二階堂 高(にかいどう たかゆき、1312年頃?~1392年?)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人物。通称は三郎。のちに二階堂行光(ゆきみつ、二階堂行元とも)に改名か。

尊卑分脈*1(以下『分脈』と略記)によると父は二階堂貞衡。兄・二階堂行直(初名:高衡)には母が秋田城介・安達時顕の娘と注記されるのに対して、高行については特に記載が無く、その異母弟なのかもしれない。

 

 

生年と烏帽子親の推定

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こちら▲の記事で紹介の通り、父・貞衡については正応4(1291)年生まれと判明しており、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、早くとも1311年頃の生まれと推測可能である。historyofjapan-henki.hateblo.jp

そして、こちら▲の記事で兄・行直が南北朝時代初期に得宗北条偏諱を受けた「衡」から改名したことを紹介したが、弟であるも同様であったと考えて問題なかろう。北条高時執権期間(1316~1326年)*2内の元服であろうから、高衡(行直)とさほど年齢の離れていない弟であったと推測される。

 

 

二階堂行光(中務少輔)とその関連史料について 

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ところで筆者はこちら▲の記事で、『分脈』において別々に書かれている高貞(改め行広)の子・行元が、高行が改名後の同人でないかと推測した*3。兄・高衡が「行直」と改名したのに対し、弟である高行がそうでないというのは不自然に感じるからである。

また、『分脈』を見ると、行元の注記に「実貞衡子」と書かれており、高行・行元両者とも「三郎」を称したという。同系図にはないものの、貞衡の嫡男・高衡(行直)が「次郎」を称したことは史料で確認できるが、その下に「三郎」を名乗る弟が2人いたというのもまた不自然と言わざるを得ない。

いずれにせよ、『分脈』での「実貞衡子」行元(=行光)の記載は後世、豊臣秀吉の命を受けた山中長俊によって編纂された『中古日本治乱記』*4巻8「持氏渡御於佐介 三浦義高夜討評定事」の文中に「二階堂山城守行直・舎弟中務少輔行光」とある*5によっても裏付けが可能であり、後述するが如く行直の地位継承者でもあった。

尚、行元(行光)の実名については、崩し字が似ているため「元」と「光」での混乱があるようだが、正しくは「行光」であろう。木下聡は「系図によっては『行光』とするものもあるが、崩し字の誤読による誤伝」として「行元」説を採られるが、後述するように当時の史料に現れるのは「行光」の方であり、それらが誤読とは考え難い。逆に「行元」と読まれているのはそれこそ系図である『分脈』や軍記物語の『太平記』(一部)ぐらいしかなく、史料的な質を考慮すればむしろこちらを疑うべきではないか(典拠不明ながら息子・忠広の別名が「元栄」であったというがこちらも正しくは「光栄」の可能性がある)。同名の祖先にあやかって「行光」に改名したのではないかと思われる。

以下、行光に関する史料を列挙する。

 

【史料1】康永4(1345)年8月、故・後醍醐天皇七回忌供養のため天竜寺に参詣した足利尊氏・直義兄弟に随兵として同行。

尊卑分脈:「康永天竜供養随兵」 

南北朝遺文 関東編第三巻』(東京堂出版)1581号:「山城三郎左衛門尉行光

同1382・1585号:「山城三郎左衛門尉

同1583・1584・1586号:「二階堂山城三郎左衛門尉

『太平記』巻24「天龍寺供養ノ事大佛供養ノ事」:文中に「二階堂美濃守行通・同山城三郎左衛門尉行光」。  

 

【史料2】『太平記』巻27「御所囲事」足利直義高師直両派間の対立が頂点に達していた貞治5/正平4(1349)年8月、師直派がクーデターを起こした際に、師直邸に集結した武将たちの中に「二階堂山城三郎行元」。

 

【史料3】『鎌倉大日記』観応2(1351)年条:「『政所』山城大夫判官 行光 行恵行暁の誤記貞衡

 

 ★ 1363年、2代将軍・足利義詮政権下で中務少輔に任官。

 

【史料4】貞治2(1363)年12月26日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

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 伊勢国石上寺恒例

 歳末巻数令披露

 候了、仍執達如件、

  貞治二年十二月廿六日 中務少輔(花押)

 

【史料5】貞治3(1364)年12月27日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

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 伊勢国石上寺歳末

 巻数入見参候了、

 仍執達如件、

  貞治三年十二月廿七日 中務少輔(花押)

 

【史料6】貞治4(1365)年12月22日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

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 伊勢国石上寺歳末

 巻数入見参候了、

 仍執達如件、

  貞治四年十二月廿二日 散位(花押)

 

【史料7】貞治5(1366)年12月22日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

 

 ★ 1367年、将軍・義詮の死去を悼んで出家(法名:行照)。

 

【史料8】応安元(1368)年12月27日付「二階堂行元巻数返事」(『石上寺文書』)

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 伊勢国石上寺歳末

 御祈禱巻数入見参

 候了、仍執達如件、

  應安元年十二月廿七日 沙弥(花押)

*「沙弥」とは「剃髪して僧形にありながら、妻帯して世俗の生活をしている者」の意で、日本ではしばしば "入道" あるいは "法師" と呼ばれる者がこれを用いることがあった*6

 

【史料9】『花営三代記』応安4(1371)年11月1日・2日条*7:この年の後円融天皇即位に関連して、1日、幕府御即位の沙汰が管領細川頼之の邸宅にて行われ、この際の奉行人の筆頭に「山城中務少輔入道 于時政所」。翌2日の御所における御沙汰においても「相州(=相模守であった頼之)中書入*8」らが参加。

 

ところで、上記史料における「山城」とは本来、父が山城守である場合に付けられる筈である*9。兄・行直も当初は父・美作守貞衡の官途にちなんで「美作次郎左衛門尉高衡」・「美作大夫判官」と呼ばれていたことが確認できる(下記記事参照)。 

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それにもかかわらず、高行 或いは 行光が「美作三郎」ではなく「山城三郎」、そしてその後も「山城三郎左衛門尉」・「山城中務少輔入道」と呼ばれているのは妙である。『分脈』に従えば、行光は叔父・高貞の養子であったが、上記で紹介した複数の「巻数返事」発給は、兄・行直が政所執事として行っていたことを引き継いだものであると言え、最終的には行直の後継者の立場にあったと捉えられる。その通称名から兄・行直の養子(或いは猶子)に転じたのではないかと思われる。 

 

(参考ページ)

 二階堂行元 - Wikipedia

南北朝列伝 ー 二階堂行元

『亀山市史』古代中世資料綱文・史料リスト

亀博WEB図録 亀山市内に伝わる中世文書

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本史料』6-1 P.423

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪

*3:『分脈』には同一人物が別々に書かれているケースが無いわけではない。例えば、北条時頼の弟として為時・時定が載せられるが、この2人は花押の一致によって同一人物であることが判明している。

*4:山中長俊(やまなか ながとし)とは - コトバンク より。

*5:『大日本史料』7-25 P.141

*6:沙弥(しゃみ)とは - コトバンク より。

*7:『大日本史料』6-34 P.357

*8:「中書」は中務省唐名(→ 中書(ちゅうしょ)とは - コトバンク)、「入」は入道の略。

*9:「山城宮内(少輔)」と呼ばれた氏貞は山城守行直の嫡子とされ、他にも二階堂忠貞(=摂津判官)、二階堂貞藤(=出羽判官)など、父の官途を付した通称を名乗っていた者は二階堂氏一門に多く見られる。

二階堂高貞

二階堂 高貞(にかいどう たかさだ、1300年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人物。『尊卑分脈*1(以下『分脈』と略記)によると、のちに二階堂行広(ゆきひろ)に改名。通称は三郎左衛門、山城左衛門大夫、丹後守。従五位下。父は二階堂行貞で、二階堂貞衡の次弟にあたる。

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、兄・貞衡については正応4(1291)年生まれと判明しており、高貞はこれより後に生まれた筈である。

ここで、次の史料に着目したい。

史料A建武元(1334)年正月付「関東廂番定書写」(『建武(年間)記』)*2

定廂結番事、次第不同、

  番 〔※原文ママ、"一"番脱字カ〕

 ( 略 )

 

二番

 ( 略 )

丹後三郎左衛門尉盛高 三河四郎左衛門尉行冬

 

三番

 ( 略 )

山城左衛門大夫   前隼人正致顕

相馬小次郎高胤

 

四番

 ( 略 )

小野寺遠江権守道親   因幡三郎左衛門尉

遠江七郎左衛門尉時長

 

五番

丹波左近将監範家    尾張守長藤

伊東重左衛門尉祐持    後藤壱岐五郎左衛門尉

美作次郎左衛門尉  丹後四郎政衡

 

六番

中務大輔満儀〔満義カ〕   蔵人伊豆守重能

下野判官      高太郎左衛門尉師顕

加藤左衛門尉       下総四郎高宗(※高家とも)

実在が確かめられる史料として、上記〔史料A〕にある関東廂番の三番衆の一人に高貞の名が記載されている。通称名は、亡父・行貞の最終官途が「山城守」、自身は左衛門尉従六位下相当)でありながら叙爵済み従五位下であった*3ことを表すもので、二階堂高貞に間違いない。そして、左衛門尉に任官できるほどの年齢=若くとも20歳前後に達していたことが窺えるので、遅くとも1310年代前半には生まれていたと考えて良いだろう。

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ところで、『分脈』の二階堂高貞の傍注には「改行廣」とあって、後に改名したことが窺えるが、〔史料A〕当時はまだ改名していなかったことが窺える。『分脈』二階堂氏系図によると、高貞のみならず〔史料A〕における太字人物貞・憲・衡・元)は皆、後に「」の字を棄てて改名したという(〔図B〕参照)

 

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こちら▲の記事で言及の通り、彼らが一斉に改名の理由は、「」が前年(1333年)に滅亡した得宗北条偏諱であったからに他ならないだろう。 

それまでの「行」が代々得宗と烏帽子親子関係を結んでいたことが指摘されており*4、貞衡の子衡・行兄弟も時から一字を拝領した形跡が見られる。衡は前述の生年から、北条時晩年期の元服であることは確かで、その弟である貞は代替わりした後の(貞時の子、1311年家督継承/14代執権在職:1316~1326年*5からの一字拝領と考えて良いと思う。

 

その後「行廣(行広)」への改名が裏付け得る史料を紹介しておきたい。

まずは、建武元年9月27日付「等持院殿足利尊氏行幸供奉随兵次第」(『小早川家文書』*6・『朽木文書』*7にある「二階堂信濃三郎左衛門行廣」であろう。「山城」ではなく「信濃」となっているのがやや妙であるが、二階堂行忠の系統が「信濃」を苗字化していたとの指摘があり*8、父・行貞も山城守となる前に信濃守であった経歴がある*9ので、「三郎左衛門」の通称からしても高貞(行広)に比定し得ると思う*10。これが正しければ〔史料A〕から僅か8ヶ月の間に改名を行ったことになる。

また、『師守記』康永元/興国3(1342)年6月12日条には「二階堂丹後守……等位階、可被注給、」、その裏書にも「二階堂前丹波〔ママ〕行廣 建武五年正月廿四日叙爵」とあり*11、これは『分脈』にある高貞の注記「改行廣」・「丹後守」を裏付けるものと言えよう。

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本史料』6-1 P.423

*2:南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)39号 または『大日本史料』6-1 P.421~423【論稿】北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔史料A〕も参照。

*3:左衛門大夫(サエモンノタイフ)とは - コトバンク左衛門の大夫(さえもんのたいふ)とは - コトバンク より。

*4:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.15。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪

*6:『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 P.169(二九四号)

*7:『大日本史料』6-1 P.914

*8:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.81 註(32)。

*9:二階堂行貞 - Henkipedia 参照。

*10:この頃二階堂氏で「信濃守」を称していた人物としては、「信濃入道行珍」=二階堂行朝が挙げられるが、『分脈』を見ると行朝の次男・行通の注記に「四郎左衛門尉」とあるから、建武2年に討たれたという長男・左衛門尉行親の通称が「三郎左衛門尉」であった可能性が考えられるが、この行親が「行広」と名乗ったという記載も史料的根拠も無い。

*11:『大日本史料』6-7 P.182

二階堂行直

二階堂 行直(にかいどう ゆきなお、1311年頃?~1348年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人物。室町幕府政所執事。初名は二階堂高衡(たかひら)。『尊卑分脈*1(以下『分脈』と略記)によると父は二階堂貞衡、母は秋田城介・安達時顕の娘。通称は美作次郎左衛門尉、美作大夫判官、山城守。

 

 

生年と烏帽子親の推定

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こちら▲の記事で紹介の通り、父・貞衡については正応4(1291)年生まれと判明しており、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、早くとも1311年頃の生まれと推測可能である。

また次の史料に着目したい。 

史料A建武元(1334)年正月付「関東廂番定書写」(『建武(年間)記』)*2

定廂結番事、次第不同、

  番 〔※原文ママ、"一"番脱字カ〕

 ( 略 )

 

二番

 ( 略 )

丹後三郎左衛門尉盛高 三河四郎左衛門尉行冬

 

三番

 ( 略 )

山城左衛門大夫   前隼人正致顕

相馬小次郎高胤

 

四番

 ( 略 )

小野寺遠江権守道親   因幡三郎左衛門尉

遠江七郎左衛門尉時長

 

五番

丹波左近将監範家    尾張守長藤

伊東重左衛門尉祐持    後藤壱岐五郎左衛門尉

美作次郎左衛門尉  丹後四郎政衡

 

六番

中務大輔満儀〔満義カ〕   蔵人伊豆守重能

下野判官      高太郎左衛門尉師顕

加藤左衛門尉       下総四郎高宗(※高家とも)

実在が確かめられる史料として、上記〔史料A〕にある関東廂番の五番衆の一人に高衡の名が記載されている。通称名は、亡父・貞衡の最終官途が「美作守」、その「次郎(本来は「次男」の意)」にして左衛門尉であったことを表すもので、二階堂高衡(行直)に間違いない。そして、左衛門尉に任官できるほどの年齢=若くとも20歳前後に達していたことが窺えるので、やはり1310年代前半には生まれていたと考えて良いだろう。

ところで、『分脈』二階堂行直の傍注には「本高衡」とあって高衡が行直の初名であったことが分かるが、この頃はまだ改名していなかったことが窺える。『分脈』二階堂氏系図によると、高衡のみならず〔史料A〕における太字人物貞・憲・衡・元)は皆、後に「」の字を棄てて改名したという(〔図B〕参照)

 

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こちら▲の記事で言及の通り、彼らが一斉に改名の理由は、「」が前年(1333年)に滅亡した得宗北条偏諱であったからに他ならないだろう。 

特に高衡(行直)の場合、それまでの「行」が代々得宗と烏帽子親子関係を結んでいたことが指摘されており*3、「高衡」の名も時と父・貞の各々1字により構成されたものに間違いない。

前述の通り、高衡(行直)は1310年代前半の生まれと推定されるので、北条高時執権期間(1316~1326年)*4内に元服したことは確実と言って良い衡はそれまでの慣例に従って得宗時を烏帽子親として元服し、その一字を拝領したのであった。

 

 

関連史料の紹介(行直時代) 

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〔史料A〕の後、「行直」の名が確認できるのは、管見の限り『鎌倉大日記』暦応2(1339)年条(下記【史料C】)『武家年代記』興国元/暦応3(1340)年条(下記【史料D】)である*5。1338年、足利尊氏によって開かれた室町幕府でも、鎌倉幕府に倣って政所および政所執事が設けられ、二階堂氏惣領の行直が補任されたのであった。「直」の字は尊氏の執事・高師直(もろなお) または 尊氏の弟・足利直義(ただよし) に関係するのかもしれない。

以下、『大日本史料』や『花押かがみ』*6などによって、高衡改め行直の関連史料を掲げたいと思う。

 

【史料C】『鎌倉大日記』:「政所  暦応二己卯行直山城守、美作入道行恵男、

【史料D】『武家年代記』:「政所  興国元、暦応三山城守行直、」

【史料E】暦応4(1341)年閏4月23日付「政所執事二階堂行直等連署書下」(『大友文書』):発給者の一人「行直」の署名と花押

*以下『石上寺文書』などに収録の書状は、この行直と花押が一致すること、またその官途から二階堂行直に比定される。

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▲二階堂行直の花押

 

【史料F】(興国3/康永元(1342)年12月5日)『天龍寺造営記録』:「小笠原信濃前司貞宗 二階堂参河前司成藤 同美作大夫判官行直 同美濃守行通 同丹後守*7

*「美作」は前述した通り、父・貞衡の最終官途によるもので、「大夫判官」は検非違使庁の尉(三等官、六位相当)で、五位に叙せられた者の呼称である*8。すなわち、この当時も左衛門尉(左衛門少尉)であると同時に検非違使を兼ねていたことが分かる。

 

【史料G】康永元年12月9日付「二階堂行直巻数返事」(『石上寺文書』)

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 伊勢国石上寺恒

 □〔例(恒例)〕歳末御巻数

 入見参候了、仍

 執達如件、

 康永元年十二月九日 左衛門少尉(花押)

 

 ★ この間に山城守任官か。

*山城守は、家祖・二階堂行政*9や祖父・行貞にゆかりのある官職である。

 

【史料H】康永2(1243)年12月8日付「二階堂行直巻数返事」(『石上寺文書』)

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 □〔石〕上寺歳末御巻数

 入見参候了、仍

 執達如件、

 康永二年十二月八日 山城守(花押)

  石上寺別当御房御返事

 

【史料H】康永3(1344)年2月4日付「幕府奉行人連署奉書」(鹿児島『新田神社文書(新田八幡宮文書)』):「山城守」の署名と花押

【史料I】康永3年3月21日付引付番文(白河集古苑 所蔵『結城文書』):五方引付方の交名における二番衆の一人、および 三方内談方の交名に記載の「山城守*10

【史料J】(康永3年5月1日)「六条八幡宮神宝・文書奉納目録」(『醍醐寺文書』):「使者二階堂山城大夫判官行直〔ママ〕*11

【史料K】康永3年12月19日付「二階堂行直巻数返事」(『石上寺文書』)

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 □〔伊〕勢国石上寺御

 巻数入見参候訖、

 □〔仍〕執達如件、

 康永三年十二月十九日 山城守(花押)

  別当御房御返事

 

 ★ この間(1345年)に山城守を辞任か。

 

【史料L】貞和元(1345)年12月5日付「二階堂行直巻数返事」(『清水寺文書』):「山城守」の署名と花押

 

【史料M】貞和4(1348)年正月18日付「幕府奉行人連署巻数返事」(『尊経閣古文書写』):「山城守」の署名と花押

【史料N】『常楽記』貞和4年6月5日条(行直逝去の記事):「貞和四年六月五日、二階堂山城守行  」*12

*「行□〔直〕」以下は、脱字もしくは保存状態により文字が消えてしまったと考えられるが、上記史料と照合すれば行直であることは明らかで、この『常楽記』は死没年月日を記す過去帳であるから、行直の他界を伝える記事とみなして良いだろう。

 

上記のほか、豊臣秀吉の命を受けた山中長俊によって編纂された『中古日本治乱記』*13巻8「持氏渡御於佐介 三浦義高夜討評定事」の文中にも「二階堂山城守行直・舎弟中務少輔行光」とある*14

尚、『鎌倉大日記』康安元(1361)年条において、通称「山城宮内(=父が山城守で自身が「宮内少輔」の意)」と注記される次の政所執事二階堂は、初代将軍・偏諱を受けた、山城守行直(高衡)の嫡男であろう。

 

(参考ページ)

 二階堂行直(にかいどう ゆきなお)とは - コトバンク

南北朝列伝 ー 二階堂行直

『亀山市史』古代中世資料綱文・史料リスト

亀博WEB図録 亀山市内に伝わる中世文書

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本史料』6-1 P.423

*2:南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)39号 または『大日本史料』6-1 P.421~423【論稿】北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔史料A〕も参照。

*3:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.15。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪

*5:『大日本史料』6-11 P.575

*6:東京大学史料編纂所編『花押かがみ六・南北朝時代二』(吉川弘文館、2004年)P.8~9 No.3434「二階堂行直」の項。

*7:『大日本史料』6-7 P.429

*8:大夫の判官(タイフノホウガン)とは - コトバンク より。

*9:『日本大百科全書』(ニッポニカ)「二階堂行政」の項(執筆:菊池紳一、コトバンク所収)より。

*10:田中誠「康永三年における室町幕府引付方改編について」(所収:『立命館文學』624号、立命館大学、2012年)P.713(四二五)。 『南北朝遺文』東北編 706号。

*11:『大日本古文書』家わけ第十九 醍醐味文書之十四 P.98(3173号)

*12:『大日本史料』6-11 P.575阪本龍門文庫本『常樂記』

*13:山中長俊(やまなか ながとし)とは - コトバンク より。

*14:『大日本史料』7-25 P.141

二階堂貞衡

二階堂 貞衡(にかいどう さだひら、1291年~1332年)は、鎌倉時代後期から末期にかえての御家人鎌倉幕府政所執事。父は二階堂行貞。官途は左衛門尉、美作守。法名行恵(ぎょうけい)

 

北条九代記(『鎌倉年代記』と同内容)に「行恵 美作入道 俗名貞衡 元徳四年正月七日四十二」とあるなど、複数の史料で元徳4/元弘2(1332)年1月7日に42歳(数え年、以下同様)で亡くなったことが確認でき*1、逆算すると正応4(1291)年生まれとなる。

紺戸淳の見解によると、元服の年齢を10~15歳と仮定した場合その時期は1300~1305年と推定可能で、「」の名は当時の得宗北条(執権在職:1284~1301年、1311年逝去)*2が烏帽子親となって偏諱を与えたものとする*3。 

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貞時が執権を辞して出家した正安3(1301)年当時、貞衡は11歳と十分元服の適齢であったが、小笠原貞宗のように貞時が得宗(副将軍)の立場でその後も暫く一字付与を行っていた可能性があり(1309年の嫡男・高時の元服までと推測される)、貞衡が同様の事例であった可能性も否定はできない。いずれにせよ、貞時が亡くなる1311年には貞衡は21歳となり元服を済ませていたことは確実と言って良いだろう

貞時からの一字拝領とするもう一つの理由として、『尊卑分脈』二階堂氏系図*4には、弟に(のち行広)、息子に(のち行直)(のち行光)の記載が見られるが、いずれも次の得宗・北条時の偏諱を受けたことは間違いない。鎌倉幕府滅亡後の建武元(1334)年までその名を名乗っていたことが確認され、改名がその後であったことは明らかで、等しく「」の字を棄てているからである。(これについては下記記事▼を参照のこと。) 

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衡と2代続けて時の偏諱を賜った例は大変珍しいが、父と同名を避けるためもう1字には二階堂氏通字の「行」ではなく「」を用いている。これは祖先にあたる藤原為憲の父・維幾(これちか)の初名「真衡(藤原真衡)(『尊卑分脈』)*5に由来するものと思われ、嫡男・も同字を継承している。烏帽子親子関係を通じて得宗家と関係を深めた様子が窺え、正中3(1326)年3月の出家も高時の出家*6に追随したものであろう。 

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文保3(1319)年3月11日付「将軍家守邦親王政所奉行人連署奉書」(『色部文書』)*7には奉者の一人「前美作守」の署名と花押が据えられている(上図)が、これは貞衡のものではないかとされる*8。貞衡が美作守であったことは冒頭の『北条九代記』や『常楽記』に「美作入道」とあるほか、嫡男の高衡が「美作次郎左衛門尉高衡」と呼ばれている(『建武年間記』)ことからも裏付けられ、前述の生年に基づけばこの当時29歳となるが、国守に任官し辞した年齢としては決しておかしくはないだろう。

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この頃も父・行貞法名:行暁)政所執事の座にあったが、 その嫡子として代理を務めることがあったのかもしれない。貞衡が執事を継ぐのは父が亡くなった嘉暦4/元徳元(1329)年のことであるが、冒頭で示した通りその約3年後に「頓死」(『鎌倉大日記』)してしまった。それ故か、政所執事としての発給書状など貞衡に関する史料はほとんど残されていないようである。

 

(参考ページ・文献)

 二階堂貞衡 - Wikipedia

 二階堂貞衡(にかいどう さだひら)とは - コトバンク

南北朝列伝 ー 二階堂貞衡

細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.160「二階堂(信濃)貞衡」の項

 

脚注

二階堂行貞

二階堂 行貞(にかいどう ゆきさだ、1269年~1329年)は、鎌倉時代後期から末期にかけての鎌倉幕府御家人政所執事。父は二階堂行宗。官途は左衛門尉、信濃守、山城守。通称は丹後次郎、山城入道など。法名行暁

 

 

生没年と烏帽子親について

武家年代記』によると、行暁(俗名:行貞)が嘉暦4(1329=元徳元)年2月2日に俄かの中風で亡くなったとし(後述【史料12-b】)、『常楽記』・『北条九代記』でも同日に61歳(数え年、以下同様)で亡くなったと伝えており*1、逆算すると文永6(1269)年生まれとなる。

紺戸淳の見解によると、は16歳となった弘安7(1284)年以後に元服し、その名は同年から新たな得宗・執権となった北条*2より偏諱を与えられたものとする*3。 他家に比べるとやや遅めではあるが、同い年で時の1字を受けたとみられる人物としては島津が挙げられ、家格の高い足利氏でも高氏(のちの尊氏)の15歳といった例がある*4ので、特に問題視する必要はないと思う。

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関連史料の紹介

本節では、細川重男によるまとめ*5に基づきながら、行貞に関する史料を以下に提示したいと思う。

 

【史料1】『北條九代記』正応3(1290)年1月3日(『鎌倉年代記』裏書と同内容)

今年 正応三 正月三日、丹後次郎左衛門尉行貞出仕之処、於二階堂小路被射、自身不被疵、所従一両人被疵、

通称名丹後守行宗の「次郎(本来は次男の意)*6」で左衛門尉(左衛門少尉)に任官していたことを表すもので、二階堂行貞に比定される。前述の生年に基づけばこの当時22歳。この日幕府に出仕していたが、二階堂小路を歩いていたところを何者かに射られ、行貞の家臣が負傷する事件があったことを伝える。

細川氏の見解によれば、この年に政所執事となった行貞が僅か4年後に二階堂行藤と交替させられている(後述【史料2-b】・【史料6】参照)ように、この頃はポスト二階堂行忠(行貞の祖父)の座(政所執事)を巡る二階堂氏内部の抗争があり、元々行忠は傍系でありながら、長兄・行泰、次兄・行綱各流の惣領が相次いで没したという偶然の結果により政所執事=二階堂氏惣領の地位に就いたという経緯があるので、幕府評定衆を輩出してきた隠岐流から出た行藤にもその資格があるとの自負があり、その「指嗾」*7によってこの襲撃が行われたのではないかとしている*8

 

この年の11月14日に政所執事に就任したことは、以下3点の史料で確認ができる。

史料2-a】『北條九代記』正応3年条(『鎌倉年代記』と同内容)

右衛門尉〔ママ〕 後山城守

行貞 法名行暁

十一月十四日補之(之:これ=政所執事、正応四十廿一蒙使宣、左衛門尉、同五十一叙留、永仁三六任信濃守、同六十一遷山城守、正安三八出家

【2-b】『武家年代記』同年条:「二階堂 山城守 法名行暁  行貞 至永仁元、治四年

【2-c】『鎌倉大日記』同年条:「「政所」山城守 行貞 法名行暁  行忠孫  行宗男

 

【史料3】正応4(1291)年12月7日付「将軍家久明親王政所下文案」(『越前島津文書』):「左衛門少尉藤原」の署名と花押*9

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*「令」とは鎌倉時代における政所の次官*10。初代令が二階堂行政であるなど、政所執事世襲する二階堂氏が兼ねる場合もあり、次の【史料4】に示す行貞の花押と一致することから、二階堂行貞に比定される。二階堂氏は藤原南家の流れを汲む家柄である。

 

【史料4】(正応5(1292)年?)11月30日付「鎌倉幕府政所召文」金沢文庫所蔵『首楞厳義疏注経十之二包紙文書』):連名での発給者「貞倫(花押)重実(花押)行貞(花押)」*11

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*『鎌倉遺文』で言及の通り、行貞が政所執事在任であった正応3年(【史料2】)~同6(=永仁元)年10月(後掲【史料6】)の間に出されたものと推定される。

【史料5】永仁元(1293)年10月6日付「二階堂行貞寄進状」(『伊豆伊豆山神社文書』):上野佐野莊内板倉郷を伊豆走湯山東明寺に寄進する「左衛門尉*12

【史料6】『鎌倉年代記』永仁元年条:10月二階堂行藤が政所執事に就任しており*13、この時行貞が退任したことが分かる。

【史料7】『実躬卿記』永仁2(1294)年4月17日条:この日の京都賀茂祭に後深草法皇(この記事上では「上皇」と記述が臨幸した際にお供した「官人」の中に「関東上洛之仁両人 丹後次郎判官行貞出羽次郎判官時藤已上五位尉、(時藤は行藤の子)。 

*「丹後次郎」については【史料1】で前述した通り。この頃も左衛門あったので、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である「判官 (はんがん/ほうがん)」*14と呼称されている。前述の生年に基づけばこの時26歳。

【史料8】永仁2年12月25日付「鎌倉幕府政所奉書写」(『出羽中条文書』):「沙弥(花押影)散位左衛門尉(花押影)」*15

【史料9】『永仁三年記』(太田時連日記、1295年)引付衆のメンバーの一人。6月中旬ごろ、信濃任官。

閏2月12日条「丹後廷尉」、同月23日条「民小卿、備小卿、常州丹廷

3月7日・12日・16日・23日条、4月6日・13日・23日・28日条、5月2日・23日・27日条「備州(=常葉時範)民少、摂州(=二階堂盛忠)常州丹廷」の全員または一部が評定会議に参加。

6月2日条では加入者が増えて「備州、民少、武庫(=名越時家)、摂州、常州丹廷、因州」であったものが、同月23日条では「民少、武庫、摂州、常州信州、因州」と変化。

*人物比定は細川氏の見解による。「丹後」は前述に同じく父・行宗の官途に由来するもので、「廷尉」は検非違使を兼ねた(左)衛門尉の唐名である*16。この年の6月に信濃守に任官したことは【史料2-a】にある通りで、後者への表記の変化がそれを裏付けている。この時27歳での国守任官となる。

 

【史料10】『興福寺略年代記』永仁4(1296)年4月条:「四月日宗綱行貞両人自関東入洛。為南都沙汰云々」とあり、京極宗綱と共に東使として上洛したことが分かる。

 

 ★ 永仁6(1298)年10月1日:山城守転任(【史料1】より)

*山城守は家祖・二階堂行政にゆかりの官職である*17信濃守の後任はこの年の12月28日に就いた太田時連であろう。

 

【史料11】『実躬卿記』正安3(1301)年正月18日条:「関東御使……両使 隠岐前司時清山城前司行雲〔ママ〕」が昨17日に六波羅、18日当日には「今出川相国禅門」=西園寺実兼今出川兼季の父)の邸宅に向かう。同内容を記す『興福寺略年代記』同日条に「東使入洛 佐々木隠岐前司宗清〔ママ〕二階堂山城前司行貞」とあるほか、『歴代皇紀』同月17日条に、『一代要記』(日付の10月7日は誤記であろう)に「東使入洛 山城守〔ママ〕行貞 隠岐前司時清」とあることから行貞に比定される。

 

 ★正安3年8月23日、出家。行暁と号す。

『尊卑分脈』二階堂氏系図 の行貞の項を見ると【史料2-a】とほぼ同内容の記載が見られるが、出家については「正安三八廿三出行暁」と具体的な日付が書かれており、同日の貞時の出家*18に追随したことは明らかである。根拠に弱いが「暁」の字も貞時の初めの法名「崇暁」から与えられたものなのかもしれない。

 

【史料12】乾元元(1302)年11月:行藤逝去に伴って政所執事に再任*19。以下3点の史料で確認ができる。

【12-a】『鎌倉年代記』同年条:「山城入道 行暁 俗名行貞  乾元々十一月還補、嘉暦四二々死六十一

【12-b】『武家年代記同年条:「行暁 俗名行貞  還補  嘉暦四二二俄受大中風之所労死去

【12-c】『鎌倉大日記』同年条:「行暁 「政所」俗名行貞 再任

 

※この間、乾元2(1303)年2月3日付「将軍家(久明親王)政所下文案」(『鹿島大祢宜家文書』)の「令左衛門少尉藤原 知家事」を『鎌倉遺文』では二階堂行貞に比定する*20が、この当時は既に出家済みで「左衛門少尉」の官途と矛盾するから、行貞とは別人とみなすべきであろう。

 

【史料13】『元徳二年三月日吉社並叡山行幸記』:「十一月東使山城入道行暁信濃前司時連上洛」とあり、延慶2(1309)年11月に東使として時連と上洛したことが分かる。

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【史料14】『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』):元亨3(1323)年10月27日の貞時13年忌供養への参加者の中に「山城前司入道廿貫」または「山城入道」と記載*21

 

【史料15】(正中3(1326=嘉暦元)年)3月「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*22

愚老執権事、去十六日朝、以長崎新兵衛尉被仰下候之際、面目無極候。当日被始行評定候了。出仕人々、陸奥守・中務権少輔・刑部権大輔入道山城入道長崎新左衛門尉 以上東座、武蔵守駿河守尾張前司 遅参・武蔵左近大夫将監・前讃岐権守後藤信濃入道 以上西座、評定目六并硯役信濃左近大夫孔子布施兵庫允、参否安東左衛門尉候き。奏事三ヶ条、神事・仏事・□〔乃貢の事、信濃左近大夫(以下欠)

【読み下し】愚老執権の事、去る十六日朝、長崎新兵衛の尉を以て仰せ下され候の際、面目極まり無く候、当日評定を始行せられ候いをはんぬ。出仕の人々……(以下略)

文中の「愚老」・「予」とは一人称*23、すなわち筆者である貞顕で、3月16日に長崎新兵衛尉(実名不詳、新左衛門尉高資の一族であろう)から15代執権就任の知らせを聞いた直後に書かれたものであることが分かる。そして同日の評定のメンバーに「山城入道」が含まれており、次の史料によって行暁(行貞)であることが裏付けられる。

 

【史料16】「鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙*24

相模左近大夫将監入道   刑部権大輔入道道鑒〔ママ*〕

城入道延明       山城入道行暁

出羽入道道薀        後藤信乃入道覚也

信乃入道道大        伊勢入道行意

長崎左衛門入道      同新左衛門尉高資

駿川守貞直

*:道準または親鑒の誤記か。

 

【史料17】(正中3/嘉暦元年?)「金沢貞顕書状」金沢文庫蔵『東寺御影供順礼作法裏文書』:文中に「……行暁□□□□前々司定昇進候歟、……」*25

*「々司(=前司)」は前任の国守の意であり、その前に入り得る旧国名は越前、備前筑前豊前肥前のいずれかである。

【史料18】(嘉暦4(1329)年?)正月25日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』):文中に「山城入道行暁*26

【史料19】(嘉暦4年)正月30日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』):文中に「山城入道*27

【史料20】(嘉暦4年?)2月2日付「崇顕金沢貞顕書状」金沢文庫所蔵『鉢撞様裏文書』)*28

    □□言事、自北方*1可有御

□□□□□□□□に被指置候事、不可然

□□□□□□□□の御状も見給候了、筑

□□□□□□□□□候、一両日こうつより

□□□□□□□□き北方被申候者、忩々

□□□□□□□□顕元*2ニ度々被仰候由、

□□□□□□□□□□□所領にとゝまり候て、以

□□□□□□□□て候事承候了、

□□□□□□□□注進状到来之間、可

□□□□□□□□行人*3山城入道行暁

□□□□□□□□候之間、評定奉行を刑部*4

□□□□□□□□れて候よし承候、後日ニ

□□□□□□□□かしく*5二月二日

 

*1:六波羅探題北方のことか。

*2:貞顕の被官である大江顕元か。

*3:「行人」だけだと「仏道を修行する人」の意味があり、山城入道行暁に強ち繋がらなくもないが、恐らくは「奉行人」等と書かれていたのではないかと思われる。

*4:【史料15】にある刑部権大輔入道=摂津親鑒入道道準のことか。

*5:「あなかしく」か。恐惶謹言と同義で、貞顕の書状でもしばしば日付の前、手紙の文末にしばしば書かれる。

実物は未確認だが、この書状は保存状態(紙の劣化・虫食い等)により、恐らくは上のような形で破損していると思われ、内容の把握には難解・困難な史料である。文末に記載の発給日、2月2日は冒頭で紹介の通り行貞(行暁)の命日に同じであり、まさにその亡くなった時に出されたものと考えられている。

文中の「評定奉行」とは鎌倉幕府の政所評定を総管し、評定衆の進退を指図した職であり、北条氏一門以外で引付頭人を兼ねる評定衆中の長老から選任されていた*29。次の室町幕府でも設置された同奉行は初代・畠山国清の後、佐々木・二階堂・摂津氏から選ばれていたようである*30が、その前例として行貞(行暁)摂津親鑒(刑部権大輔入道道準、高親の父)も評定奉行を務めたのではないかと思われる。親鑒はこの当時、五番引付頭人であった*31。「評定奉行を刑部□□□□□〔権大輔入道□□□れて候よし(=由)承候」の部分は、奉行を親鑒に任せる旨を伝え聞き、了承したことを書いたのではないか。

そうなった経緯を考えると、前述の【史料12-b】を照合すればこの日「俄かの中風」で亡くなった行貞(行暁)に代わって、急遽親鑒(道準)が奉行に選任されたと解釈し得る。

 

上記のほか、行貞死後の南北朝時代に以下2点の史料が確認される。

 

【史料21】康永2(1343)年3月4日付「室町幕府引付頭人石橋和義奉書案」(反町英作氏所蔵『色部文書』)*32

 (張紙)「十四、左衛門佐遵行状案」

青木四郎左衛門尉武房等申越後国小泉庄事、申状具書如此、於色部遠江権守長倫・平蔵人長高(=色部長高)秩父左衛門次郎持長・山城入道行暁・安富大蔵大夫空円(=安富長嗣)者、所被糺明也、至城入道後藤信濃入道闕所分者、不日止本庄左衛門次郎(=持長)以下輩濫妨、任御下文、可被沙汰付、更不可有緩怠之儀之状、依仰執達如件、

 康永二年三月四日  左衛門佐(=和義)

  上椙民部大輔殿  在判

 

【史料22】延文2(1357)年6月11日「越後守護代芳賀高家施行状」(『桜井市作氏所蔵文書』)*33

当国瀬波郡小泉庄内城介入道五藤〔ママ、後藤〕信乃入道二階堂山城入道等事、為兵粮料所々被預置也、一族并同心之輩、依忠浅深、可被配分之由候也、仍執達如件、

 延文二年六月十一日 伊賀守(花押)

  色部遠江(=色部長忠)殿

越後国小泉庄内にあった行暁(行貞)安達時顕後藤基胤ら【史料16】にも名を連ねる高時政権中枢メンバーの旧領が、幕府滅亡後闕所地となり、【史料22】は色部長忠が芳賀高家(正しくは高貞か)よりこれらの闕所地を「忠の浅深」によって「一族并びに同心の輩」に配分する権利を得たものである。 

 

 (参考ページ)

 二階堂行貞 - Wikipedia

二階堂行貞(にかいどう・ゆきさだ)とは - コトバンク

 二階堂行貞(1)(にかいどう ゆきさだ)とは - コトバンク

南北朝列伝 ー 二階堂行貞

 

脚注

*1:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元徳元年正~7月 P.15

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.8「北条貞時」の項 より。

*3:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.15。

*4:足利尊氏 - Henkipedia 脚注1参照。典拠は『続群書類従』所収「足利系図」。

*5:注2前掲細川氏著書 同基礎表 No.159「二階堂行貞」の項。

*6:吾妻鏡』を見ると父・行宗も当初は「信濃次郎左衛門尉」・「信濃判官次郎左衛門尉」と呼称されていたことが窺え、また孫の高衡(行直)も『建武年間記』に「美作次郎左衛門尉高衡」と記されているので、「次郎」は次男か否かに拘らず、行宗以降代々の家督継承者の称号と化していたことが分かる。このような傾向・慣例は、足利・平(長崎流)・葛西・島津氏の「三郎」、結城氏の「七郎」など他家でも確認ができる。

*7:人に指図して、悪事などを行うように唆すこと(→ 指嗾(シソウ)とは - コトバンク)。

*8:注2前掲細川氏著書 P.82 註(33)。

*9:『鎌倉遺文』第23巻17766号。

*10:政所 - Wikipedia令(りょう)とは - コトバンク より。

*11:『鎌倉遺文』第23巻18055号。

*12:『鎌倉遺文』第24巻18386号。『編年史料』永仁元年9・10月 P.33

*13:『編年史料』永仁元年9・10月 P.41

*14:判官 - Wikipedia より。

*15:『鎌倉遺文』第24巻18717号。

*16:廷尉(テイイ)とは - コトバンク左衛門尉 - Wikipedia より。

*17:『日本大百科全書』(ニッポニカ)「二階堂行政」の項(執筆:菊池紳一、コトバンク所収)より。

*18:注2同箇所より。

*19:『編年史料』乾元元年10~11月 P.98

*20:『鎌倉遺文』第28巻21351号。

*21:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.698・705・708。

*22:『鎌倉遺文』第38巻29390号。『金沢文庫古文書』374号。注2前掲細川氏著書 P.319、年代記嘉暦元年 にも掲載あり。

*23:愚老(グロウ)とは - コトバンク より。

*24:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*25:『鎌倉遺文』第38巻29391号。

*26:『鎌倉遺文』第39巻30506号。

*27:『鎌倉遺文』第39巻30502号。

*28:『鎌倉遺文』第39巻30507号。

*29:評定奉行(ひょうじょうぶぎょう)とは - コトバンク より。

*30:前注同箇所参照。

*31:注2前掲細川氏著書 同基礎表 No.128「摂津親鑒」の項 より。典拠は『鎌倉年代記』嘉暦2年条。

*32:清水亮「南北朝期における在地領主の結合形態 ―越後国小泉荘加納方地頭色部一族―」(所収:『埼玉大学紀要 教育学部』第57巻第1号、埼玉大学教育学部、2008年)P.8。『新潟県史 資料編 中世』1047号文書。

*33:前注清水氏論文 P.10。『新潟県史 資料編 中世』2755号。

二階堂忠貞

二階堂 忠(にかいどう たださだ、1280年~1333年)は、鎌倉時代後期から末期にかけての御家人。通称は左衛門尉、摂津判官、伊勢守(伊勢前司/伊勢入道)法名行意(ぎょうい)

『尊卑分脈』二階堂氏系図(以下『分脈』と略記)によると、父は二階堂盛忠(行忠の子、行宗の弟)。弟に二階堂貞景(四郎左衛門)二階堂時冬(五郎左衛門、初名盛時)、子に二階堂忠宗、女子(時冬妻)二階堂時基がいたという。

 

『分脈』の忠貞の項には次のように書かれている。

【史料1】

使 従五下 伊世守 左衛門尉

忠貞

正中三三出行意

元弘三五八於江州馬場自害 

得宗(14代執権)・北条高時の出家*1に追随したものであろう、正中3(1326)年3月に出家して「行意」と号したこと、元弘3(1333)年5月8日〔9日の誤記〕近江国馬場〔正しくは番場、後述参照〕で自害したことを伝えている。

 

その他、細川重男による研究成果*2も踏まえながら、史料上における忠貞の登場箇所を以下に列挙する。尚、典拠は後述するが生年=弘安3(1280)年として一部には当時の年齢(数え年)も載せる。

 

【史料2】『実躬卿記』嘉元2(1304)年4月15日条:京都賀茂祭検非違使として参加したメンバーの中に「忠貞 関東、号摂津判官」。次いで「貞藤 同、号出羽判官 祐行 同、号宇佐美判官*3」の名も見られる。

*これが史料上における初見であろう。生年に基づくとこの当時25歳。「摂津判官」を称していたというが、「摂津」は父・盛忠が摂津守であった*4ことに因んでおり、忠貞自身はこの当時左衛門であったため、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である「判官 (はんがん/ほうがん)」*5を名乗っていたことが分かる。

 

【史料3】(元応元(1319)年?)3月8日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』):文中に「……二階堂伊勢前司去年約束申されて候漆一多留、被進候、令取進候、……」*6

*この当時40歳。伊勢前司は「前伊勢守」の意であり、既に伊勢守を退任していたことが窺えるが、国守に任官して辞した年齢としては十分に相応である。

 

【史料4】『花園天皇宸記』*7:正中2(1325)年2月、忠貞が東使(関東御使)として上洛。

2月9日条「東使伊勢前司忠定〔ママ〕云々

同19日条「東使 伊勢前司忠貞

*これにより【史料3】の「二階堂伊勢前司」=忠貞とみなすことが可能である。また、「忠定」という誤記から、かえって読みが「たださだ」であったことが裏付けられる。

 

 ★同3(1326)年3月:得宗北条高時に従って出家(→前述【史料1】参照)。

 

【史料5】「鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙*8

相模左近大夫将監入道   刑部権大輔入道道鑒〔ママ*〕

城入道延明       山城入道行暁

出羽入道道薀        後藤信乃入道覚也

信乃入道道大        伊勢入道行意

長崎左衛門入道      同新左衛門尉高資

駿川守貞直

*:道準または親鑒の誤記か。

 

【史料6】(嘉暦4年8月4日?) 「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』):「……去々年行意下向之……」*9

金沢文庫文書』には他にも、同じく嘉暦4/元徳元(1329)年のものとされる9月21日付*10、12月5日付*11、および日付なしの書状2通*12の貞顕の書状文中に「行意」が登場、同年のものとされる貞顕の書状金沢文庫所蔵『花供導師作法裏文書』)の文中には「…忠貞伊勢入道…」*13と書かれている。

元徳2(1330)年のものとされる6月11日付貞顕書状には「行意奉行にてし候から」*14とあり、幕府内で何かしらの「奉行」という役職に就いていたのであろう。他にも「行意」が登場する貞顕の書状として、この年とされるものが2通確認されている*15

 

【史料7】元弘3(1333)年5月9日近江国番場宿蓮華寺において自害。前掲【史料1】の他、次の史料2点でも自害した者の中に忠貞(行意)が含まれている。

【7-a】『近江番場宿蓮華寺過去帳』:「二階堂伊勢入道行照〔ママ〕五十四歳*16

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【7-b】『太平記』巻9「越後守仲時已下自害事」:「二階堂伊予〔ママ〕入道

太平記』は元々軍記物語であり、多くの種類の異本が伝わるが、この部分について金勝院本では「伊勢守」、今出川・北条・西源院・南都の各本では「伊勢入道」とするらしく*17、恐らく「伊予」は誤写・誤伝であろう。また、『過去帳』においては「行照」と法名が異なっているが、次の史料によりこれらは行意(忠貞)と同人とみなせる。 

【史料8】元弘3年5月14日付「五宮守良親王令旨」(『近江多賀神社文書』)*18より

……遂果去九日奉成先帝*1 両院*2 臨幸於城中、忽滅六波羅北方越後守仲時・東使伊勢入道行意隠岐前司清高等数百騎軍勢、東夷爰滅亡、西都忽安寧、……

*1 先帝:光厳天皇

*2 両院:兄弟である後伏見(第93代、光厳の父)・花園(第95代)両上皇

遡る形で同月9日に、六波羅探題北方の北条仲時、東使であった行意佐々木清高など数百騎の軍勢が「(たちまち)」んだとあり、前述の『過去帳』・『太平記』の内容を裏付けている。

よって、忠貞(行意)は東使として上洛中に六波羅探題の襲撃に巻き込まれ、仲時らと運命を共にしたのであった。『過去帳』を信ずれば享年54で、逆算すると1280年生まれとなる。

これに基づき、紺戸淳の手法*19に倣うと、元服の年次は1289~1294年と推定可能であるが、「」の名乗りに着目すると、父・盛忠の「忠」に対し「」はその当時の執権・北条(在職:1284~1301年)*20偏諱と考えられる。初見である【史料2】当時も貞時法名:崇演)は存命であり、と共にその1字を許されていたことが窺えよう。

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.9「北条高時」の項。

*2:前注細川氏著書 同基礎表 No.162「二階堂(信濃)忠貞」の項。

*3:宇佐美祐行宇佐美貞祐の父。

*4:注1前掲細川氏著書 同基礎表 No.161「二階堂(信濃)盛忠」の項 より。

*5:判官 - Wikipedia より。

*6:『鎌倉遺文』第35巻27134号。

*7:史料大成. 続編 第34 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*8:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*9:『鎌倉遺文』第39巻30331号・30687号。

*10:『鎌倉遺文』第39巻30733号。

*11:『鎌倉遺文』第39巻30733号。

*12:『鎌倉遺文』第39巻30498号・30782号。

*13:『鎌倉遺文』第39巻30505号。

*14:『鎌倉遺文』第40巻31063号。

*15:『鎌倉遺文』第40巻31064号・31065号。

*16:『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年5月9~14日 P.27

*17:『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年5月9~14日 P.15

*18:『鎌倉遺文』第41巻32160号。

*19:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)。元服の年齢を数え10~15歳とした場合。

*20:注1前掲細川氏著書 同基礎表 No.8「北条貞時」の項 より。