Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

結城宗広

結城 宗広(ゆうき むねひろ、旧字表記:結城宗廣、1269年(1266年とも)~1339年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。

白河結城氏第2代当主。通称(官途)は弥七(孫七とする説も)、左衛門尉、上野介、結城上野入道。法名道忠(どうちゅう)

 

 

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▲ 結城宗広画像(光明寺 蔵、江戸時代末期・富沢利兵衛 筆)

 

生年と烏帽子親について

暦応元/延元3(1338)年11月21日(西暦:1339年1月1日)に病没したと伝えられる*1。下の写真にあるように、結城神社の由緒書では享年が73歳(数え年、以下同様)であったといい、逆算すると文永3(1266)年生まれとなる。

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http://www.komainu.org/mie/tsu/yuuki/zyuisho.html より拝借)

 

これに対し『白河古事考 巻之三』所収「結城系図」桑名図書館蔵)には「延元三年九月三日卒 年七十トナリ 左レバ文永六年(=1269年)ノ出生ナルベシ」と注記されていて*2矛盾してしまうが、いずれにせよ文永年間前半(1260年代後半)の生まれであったことは認められるのではないか。宗家当主の従兄弟・結城時広とほぼ同世代となるが、幾つかその裏付けとなる情報を示しておきたい。

 

まず、『太平記』巻20「奥州下向勢逢難風事」~「結城入道堕地獄事」*3によると次の通りである。

去る7月に新田義貞が北陸で戦死したとの訃報を受け意気消沈した南朝の人々の許へ宗広(道忠)が訪れ、奥州へ皇子を派遣しその者たちに恩賞を与えることで支持勢力を保つことを提案。これを聞いた後醍醐天皇以下左右に控える老臣ら全員が賛同し、急ぎ元服させた7歳の第7皇子・義良親王北畠親房・春日顕〔ママ〕*4宗広をつけて奥州へ、新田義興(義貞の子)北条時行を関東へ、第4皇子・宗良親王を東海へとそれぞれ派遣して各地方から京を目指す戦略を実行に移すべく、彼らは伊勢大湊から船団を組んで出発。しかし、遠江の沖で嵐に遭い、船団は散り散りになってしまったという。

宗広の乗った船は伊勢・安濃津(現・三重県津市)に吹き戻されて漂着し、10日ほど順風を待って奥州へ下る機会を窺っていたところで重病を患い、そのまま亡くなったと伝える。その際、次のように言って刀を抜き、それを手にしたまま歯ぎしりして死んだという。

「我已に齢七旬*5に及で、栄花身にあまりぬれば、今生に於ては一事も思残事候はず。只今度罷上て、遂に朝敵を亡し得ずして、空く黄泉のたびにをもむきぬる事、多生広劫までの妄念となりぬと覚へ候。されば愚息にて候大蔵権少輔(=結城親朝にも、我後生を弔はんと思はゞ、供仏施僧の作善をも致すべからず。更に称名読経の追賁をも成すべからず。只朝敵の首を取て、我墓の前に懸双て見すべしと云置ける由伝て給り候へ。」

太平記』は元々軍記物語であり、この描写は『平家物語』における平清盛の「あつち死(=熱死か)」のパロディともみられる*6ので、死に方に関しては場所なども含め*7多少なりとも脚色はあると思うが、舟で海上に出たこと自体は実際の史料でも確認できる*8ようで、70歳(もしくは70代)という宗広本人の発言についても特に否定する必要は無いのではないかと思う。

というのも、実際に2年前の延元元(1336)年4月2日付で道忠(宗広)が「孫子七郎左衛門尉顕朝」に向けて譲状を発給していることが確認できる*9からである。顕朝は古系図でも孫(親朝の子)として確認でき*10元服済みであるだけでなく左衛門尉に任官もしているから若くとも20歳程度には達していたと思われ、その祖父として宗広が延元年間に70歳近くであったというのは十分妥当と言えるだろう

 

もう一つ、「」の名に着目しておきたい。元亨元(1321)年12月17日のものとされる「相馬重胤申状」(後述【史料2】)には、「御使岩城二郎・結城上野前司」が「相馬五郎左衛門尉師胤分領三分一」を御内人長崎思元へ打渡したことが記されており*11、また津軽田舎郡の河辺郷・桜庭郷など各地の得宗領の地頭代であった(「結城道忠(宗広)知行得宗領注文」『伊勢結城文書』/『白河結城文書』)ことから、鎌倉幕府滅亡前は御家人でありながら事実上得宗被官(御内人)化していたことは既に指摘されている*12が、名前の面でも「(廣)」が祖父・朝広、父・祐広と継承されてきた通字であるのに対し、「」は文永年間当時の得宗/第8代執権・北条時*13偏諱と考えられる。1269年生まれを採っても時宗が亡くなった弘安7(1284)年4月*14当時16歳となり、元服は10代前半で行われるケースが多かったから、時宗執権期間内に加冠の儀を行ったことは確実とみて良いだろう。但し、幼い宗広自らが加冠役を指名するというのは流石にあり得ないだろうから、これは父・祐広の意向によるものではないかと思われる。

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▲【図A】『尊卑分脈』所収の結城氏系図より一部抜粋

 

というのも、荒川善夫の見解によると、同じ頃結城氏宗家を継いだ祐広の兄・結城広綱得宗家への従属を示す一環として、我が子・元服に際し宗にその烏帽子親となるよう願い出たのではと推測されている*15。 よって、弟である祐広も対抗して同様の行為を行ったと考えることは十分に可能であろう。

こうして祐広の系統(白河結城氏)は、宗家である広綱流に対抗すべく同様に得宗家との繋がりを構築し、他にも家祖・結城朝光以来の仮名「七郎」を代々名乗るなどして勢力を伸ばしていき、やがて建武政権から結城氏惣領として公認を受けるようになっていくのである*16

 

 

鎌倉末期における宗広とその出家時期

本節では、鎌倉時代当時の史料(書状類)を中心に、宗広に関するものを紹介する。また、その呼称の変化から出家の時期についても明らかにしたいと思う。

 

【史料1】文保2(1318)年2月16日付「関東下知状」(『白河文書』)*17:「……爰如白河上野前司宗広今年 文保二 正月如請文者、……」

*これが史料上における初見か。この当時50代にして上野介(前掲【図A】より)を退任済みであること、結城惣領家と区別されたのか白河氏呼ばわりされていたことが窺える。

 

【史料2】(元亨元(1321)年12月17日)「相馬重胤申状」(『相馬文書』)*18:「……御使岩城二郎結城上野前司……」

【史料3】(元亨3(1323)年)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』):同年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において「白河上野前司」が銭100貫文を進上*19

【史料4】(元亨4(1324=正中元)年)9月26日付「結城宗広書状」(『越前藤島神社文書』):発給者「宗廣」の署名と花押*20

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(*福井県の文化財 | 結城宗広自筆書状 より拝借)

宗広自筆の書状として貴重な史料であり、内容としては同年、正中の変の知らせを受けた宗広が、上野七郎兵衛尉(=長男・親朝か*21に書き送ったものである。

*『鎌倉遺文』第40巻31512号にある宗広書状(『伊勢藤島神社文書』所収とする)も全く同文であり、恐らくはこの【史料4】と同一物(重複掲載)であろう。 

 

 ★この間に出家か(法名: 道忠)。

*タイミングとしてあり得るとすれば、正中3(1326=嘉暦元)年3月13日の得宗北条高時の出家*22に追随した可能性が考えられよう。

 

【史料5】嘉暦4(1329)年3月23日付「関東御教書」(『陸奥飯野文書』)*23:宛名に「白河上野入道殿

【史料6】(元弘元(1331)年)『太平記』巻3「笠置軍事陶山小見山夜討事」:同年の元弘の変(笠置山攻め)に際し、幕府軍の一員として「結城上野入道」 が従軍。

大将軍 大仏陸奥守貞直 大仏遠江 普恩寺相摸守基時 塩田越前守 桜田参河守
赤橋尾張 江馬越前守 糸田左馬頭 印具兵庫助 佐介上総介
名越右馬助 金沢右馬助 遠江左近大夫将監治時 足利治部大輔高氏  
侍大将 長崎四郎左衛門尉        
三浦介入道 武田甲斐次郎左衛門尉 椎名孫八入道 結城上野入道 小山出羽入道
氏家美作守 佐竹上総入道 長沼四郎左衛門入道 土屋安芸権守 那須加賀権守
梶原上野太郎左衛門尉 岩城次郎入道 佐野安房弥太郎 木村次郎左衛門尉 相馬右衛門次郎
南部三郎次郎 毛利丹後前司 那波左近太夫将監 一宮善民部太夫 土肥佐渡前司
宇都宮安芸前司 宇都宮肥後権守 葛西三郎兵衛尉 寒河弥四郎 上野七郎三郎
大内山城前司 長井治部少輔 長井備前太郎 長井因幡民部大輔入道 筑後前司
下総入道 山城左衛門大夫 宇都宮美濃入道 岩崎弾正左衛門尉 高久孫三郎
高久彦三郎 伊達入道 田村刑部大輔入道 入江蒲原一族 横山猪俣両党

(表は http://chibasi.net/rekidai43.htm より拝借)

 

 

 

付記:初期白河結城氏当主の世代・烏帽子親の推定

最後に、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての白河結城氏当主の世代と烏帽子親の推定を試みたいと思う。まず結論から述べれば次の通りである。

結城(1266~):1280年頃、執権・北条時より一字拝領か。

結城(1290頃?~):のち親朝。北畠(1293-1330出家)より一字拝領か。

結城(1316頃?~):北畠(1318-1338)より一字拝領か。

 

宗広については前述の通りである。その孫・顕朝についても延元元(1336)年の段階で左衛門尉任官が確認できることから若くて20歳位と推測されることは既に述べたから、祖父・宗広との年齢差も考慮してその生年は1310年代半ば位であったと推測される。

よって、その間となる広(親朝)については弟・結城と揃って1290年代の生まれと推定可能である。兄弟共に「」字を有しており、「広」・「光」が結城朝光・朝広父子に由来することからしても烏帽子親からの一字拝領であることは確実と言って良いだろう。

「親」字を与え得る人物は、のちの顕家―顕朝の関係からして、顕家の父・北畠房しかいないのではないか*24。但し、これが正しければ1300年代~1310年頃に烏帽子親子関係が成立したと推測され、後醍醐天皇による倒幕計画以前から北畠・結城両氏間での交流があったことになる。

宗広が建武政権から結城氏惣領として認められたことは前述の通りだが、その背景には以前から続く北畠氏との関係があったのではないかと思う。事実上得宗被官化していたのは宗広だけでなく、得宗偏諱を受けていた宗家時広貞広―朝高〈朝祐〉)も同じであり*25、それだけでは惣領に昇り詰める要素になり得ないだろう。宗広は得宗家と良好な関係を保つのと並行して、北畠氏とも個人的な関係を築き*26、これが惣領として認められる結果に繋がったのではないかと思う*27

 

(参考記事)

takatokihojo.hatenablog.com

www.aoimon.net

 

(参考ページ)

 結城宗広 - Wikipedia

 結城宗広(ゆうきむねひろ)とは - コトバンク

 結城宗広

南北朝列伝 #結城宗広

長谷川端「結城宗廣と能『結城』」(所収:『文化科学研究』第12巻第1号、中京大学文化科学研究所、2001年)

 

脚注

*1:『大日本史料』6-5 P.223~の各史料を参照のこと。

*2:白川古事考 巻ノ三(全)廣瀬典編<桑名図書館蔵>に触れる ー conparu blog より。

*3:「太平記」結城入道堕地獄事(その1) : Santa Lab's Blog太平記巻第二十(その二)を参照。

*4:春日顕国北畠顕信を混同したものであろう。

*5:「七旬」とは「70歳」の意(→ 七旬(しちじゅん)とは - コトバンク)。

*6:南北朝列伝 #結城宗広 より。

*7:これについては 結城宗広 - Wikipedia を参照のこと。

*8:前注に同じ。

*9:『大日本史料』6-3 P.274

*10:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia 参照。

*11:相馬氏惣領 相馬重胤 より。

*12:相馬氏惣領 相馬重胤『新編弘前市史』通史編1(古代・中世) P.553『裾野市史』第二巻 資料編 古代中世(裾野市)中世編「南北朝・室町時代」P.215。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*14:前注同箇所。

*15:荒川善夫 「総論Ⅰ 下総結城氏の動向」(所収:同氏編著 『下総結城氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉戎光祥出版、2012年)P.11。

*16:『大日本史料』6-1 P.391

*17:『鎌倉遺文』第34巻26549号。

*18:『鎌倉遺文』第36巻27918号。

*19:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.709。

*20:『鎌倉遺文』第37巻28835号。書き下し文は 年代記元弘元年 を参照。

*21:南北朝列伝 #結城親朝 より。【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図I】親広(改親朝)の注記にも「白河七郎」・「左兵衛尉」とある。

*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*23:『鎌倉遺文』第39巻30546号。

*24:相馬氏惣領 相馬親胤(外部HP)でも、親胤も含めて同様の見解が示されている。

*25:川村一彦『結城氏一族の群像』アマゾン電子書籍紹介 より。

*26:北畠親房については、正中の変元弘の乱といった後醍醐天皇の倒幕運動に関わった形跡は特に確認されておらず、むしろ後醍醐も幕府が主導の両統迭立によって即位したのであるから、鎌倉幕府とも特に険悪な関係ではなかっただろう。故に、宗広が親房と関係を築いていたとしても幕府(北条氏)にとっては何ら問題なかったものと思われる。

*27:反対に宗家当主の朝祐は足利高氏と共に倒幕側に傾いて貢献したにもかかわらず、建武政権からは冷遇されていたと言われるが、この見解に従えば納得がいくと思う。

工藤貞行

工藤 貞行(くどう さだゆき、1280年代?~1338年?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武士。藤原南家為憲工藤氏の一族。通称は中務右衛門尉、右衛門尉。当初は得宗被官(御内人)であったとみられる。

子女に加伊寿御前(かいずごぜん、南部信政室、南部信光政光の母)福寿御前など5人の娘がいたという。

 

 

史料上における工藤貞行

まずは、貞行に関する史料を見ていきたいと思う。

 

【史料1】元亨3(1323)年11月3日付 「工藤貞行譲状」『遠野南部家文書』)*1

ゆつりわたす、ひたちの國田むらの村、みちの国いくのしやうかなはらの保のうち、かた山のむらの御たいくわんしき、ならひにかまくら西御門の地事、
右ところ々、むすめかいすこせんに、ゆつりわたす所也、たのさまたけあるへからす、もししせんの事あらは、のはからひたるへし、子なくは、いもうとともの中にゆつるへし、仍状如件

元亨三年十一月三日 右衛門尉貞行(花押)

 

(読み下し)

譲り渡す 常陸の国田村の村、陸奥国伊具の荘、金原の保の内片山の村の御代官職、並びに鎌倉西御門の地のこと
右所々、娘・加伊寿御前に譲り渡す所なり。他の妨げあるべからず。もし自然(=万が一)の事あらば、の計(はか)らいたるべし。子なくば妹どもの中に 譲るべし。仍って状 件(くだん)の如し。

元亨三年十一月三日 右衛門尉貞行(花押)

この史料は、万一に備え、生前に娘(嫡女:後掲【史料7】参照)加伊寿御前常陸国田村村等の所領 および その代官職を譲るとした内容となっているが、後述史料群と照合すれば、発給者「右衛門尉貞行」は工藤貞行に比定される。現在確認されている限りでは貞行の初出の史料であり、この当時右衛門尉任官済みであったことが窺える。

 

【史料2】『浅瀬石文書』より『身延町誌』に掲載)

南部大膳太夫源師行公之大将、結城七郎左衛門尉親光〔ママ〕、都築彦四郎入道、中務右衛門、安保弥五郎入道、弾正左衛門尉、浅石城主千徳頼行公之大将、内紀六郎入道、中村弥三郎祐高、伊賀右衛門資郎、毘沙門堂阿闍梨、大館城主鳴海三郎太郎行光之大将、小河入道弥四郎、武石右衛門惟俊、独錮城主浅利六郎四郎之大将、倉光孫三郎、和賀右衛門勝昌、大里城主成田小次郎之大将、滝瀬彦次郎入道、小川次郎宗武

この史料は、南津軽郡浅石村にある長寿院の延命地蔵尊の胎内から発見され、戦後公にされたという『浅瀬石(あせいし)文書』に収録されているもので、鎌倉幕府滅亡後の大光寺合戦(1333~34年)の際に南部師行が動員した部隊の名簿である*2鹿角四頭の安保氏・成田氏など多くの者が名を連ねる中で、「中務右衛門」は後述【史料4】との照合により工藤貞行に比定されよう*3

 

【史料3】建武元(1334)年8月21日付「工藤貞行譲状」(『遠野南部家文書』)

(端裏書)「かいす御せんか分ゆつり状」

譲渡  女子加伊寿御前

 一所 津軽山邊郡二想志郷内 下方 為大光寺合戦勲功

                 所々拝領貞行

 一所 田舎郡上冬居郷拾分参

右所譲与同加伊寿御前也、御下知并置文等者、預置于女房数子母許、自然有違目之時者、任彼證文等、可明申子継、但向後右出来男子者、改此譲、可配分之状如件、

建武元年八月廿一日  貞行(花押)

 

(読み下し)

加伊寿御前が分 譲状」
譲渡  女子加伊寿御前

一所 津軽山辺郡二想志郷内下方(大光寺合戦勲功の為貞行所々拝領なり)
一所 田舎郡上冬居郷拾分参
右は加伊寿御前に譲り与える所也 御下知並びに置き文等は女房(数子母)の許に預け置き 自然違い目あるときは彼の証文等に任せ子細を明かす申しべし

但し向後若し男子出来せば 此の譲りを改め配分すべしの状 件の如し
  建武元年八月廿一日  貞行(花押)

大光寺合戦での勲功として貞行は、津軽山辺郡二想志郷内の下方を拝領するが、これについても田舎郡内の所領と共に、娘・加伊寿御前に譲るとした内容の書状を出した。それがこの【史料3】であるが、①置文などは自身の妻(=後述史料でのしれんに預けておき、万一食い違いが生じたときにはそれらの証文に従うこと、②もし(加伊寿御前に)今後男子が出生した場合には改めて配分する、と付け加えている。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

【史料4】建武元(1334)年12月14日付「津軽降人交名注進状」(『遠野南部家文書』)より*4

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一、被留置津軽降人交名事

 (中略)

 工藤六郎入道道
 同三郎二郎維資  中務右衛門尉両人預之

 (中略)

右粗降人等交名注進如件
 建武元年十二月十四日

断続的に続いていた大光寺合戦は同年11月19日、持寄城に楯籠っていた旧鎌倉幕府方の名越時如工藤高景*5らが降伏したことにより終結。【史料4】はその後間もない12月14日に、南部師行が降伏した捕虜52人と預人21人を記載し、陸奥国司の北畠顕家など全軍に報告するための名簿としてまとめたものである。

そして、投降人のうち工藤入道道(どうこう、俗名不詳)*6工藤維資(これすけ)の2名を預かる「中務右衛門尉」も前掲【史料2】に名を連ねていたが、次に示す【史料5】により同族の貞行に比定される。

 

【史料5】建武2(1335)年正月26日付「北畠顕家国宣(下文)写」(『曾我文書』)*7

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(端裏書)めやの郷(目谷の郷)御下文案

---------------------------------------------
    御判
可令早工藤中務右衛門尉

 貞行領知、津軽鼻和郡目

 谷郷 工藤右衛門尉貞祐法師 外濱野尻郷

 等事、

右為勲功賞㪽〔=所〕被宛行也、早守

先例、可被其沙汰之状、㪽〔=所〕仰如件、

建武二年正月廿六日

 

(読み下し)

早く工藤中務右衛門尉貞行に領地せらるべし津軽鼻和郡目谷郷(工藤右衛門尉貞祐法師)外ヶ浜野尻郷等の事

右は勲功の賞のため宛行われる所なり 早く先例を守り其の沙汰せらるべきの状 仰する所件の如し  建武二年正月二十六日

historyofjapan-henki.hateblo.jp

大光寺合戦における北条方鎮圧の勲功(恩賞)として、(【史料3】に記載の地に加え)工藤貞祐 ""(=旧領、この場合は没収地の意)*8であった津軽国鼻和郡目谷郷貞行に与えられたという史料である。

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こちら▲の記事で紹介の通り、貞祐若狭国守護代摂津国多田庄政所をつとめるなど、父・杲暁と共に有力な得宗被官(御内人)としての活動が確認でき、建武元年末に処刑された「工藤次郎右衛門尉」が通称名や世代の一致から貞祐ではないかと推測したが、いずれにせよ鎌倉幕府滅亡に伴って貞祐の旧領が没収されていたことは認められよう。翌建武3(1336)年にも同じく貞祐と思われる「工藤右衛門尉」の旧領・駿河国沼津郷が曽我時助に与えられている*9

"次郎右衛門尉"貞祐については、【史料5】のように単に「工藤右衛門尉」と記す史料も数点残されていることから、得宗被官工藤氏の中では事実上惣領のような家格にあったと考えられ、【史料5】でも貞祐と区別されて貞行は「工藤中務右衛門尉」と呼ばれていたことが窺える。父親が中務丞で、貞行自身が右衛門尉であったことを表すものと判断される。

次の史料にも「工藤中務右衛門尉(=貞行)」の名が見られる。

 

【史料6】暦応2(1339)年5月20日付「曽我貞光目安状」(『南部文書』)*10

目安
曾我太郎貞光大光寺合戦忠節次第事
一、去三月為大将軍先代越後五郎殿、南部六郎〔親類并成田小次郎左衛門尉、同六郎、工藤中務右衛門尉若党等、安保小五郎、倉光孫三郎、滝瀬彦次郎入道以下御敵等、令乱入国中、大光寺外楯打落之処馳向貞光最前、令致散々合戦之間、一族曾我次郎師助代官等馳来、令致合力候処、経三ヶ月令退散了、此間分取打死手負 不可勝計、仍賜御判、為備後証、粗々目安言上如件、
 
 暦応二年五月廿日  承候了(花押 *安藤太師季

この史料でまず注目すべきは、【史料3】での貞祐に同じく「」という表現が付されていることである。後掲【史料7】・【史料8】と照らし合わせても、この時「工藤中務右衛門尉」=貞行は亡くなっていたと判断されよう。一説には北畠顕家にそのまま従って西上し、延元3/暦応元(1338)年の和泉国堺における石津の戦いで顕家や師行らと共に戦死したとも言われている*11

そして、【史料6】の内容としては、暦応2年3月、北条越後五郎*12を総大将として、南部政長(師行の弟)*13の親類、並びに、成田頼時(小次郎左衛門尉)*14、故・貞行の遺臣(若い郎党・従者*15や、【史料2】にも名を連ねていた安保氏*16倉光孫三郎滝瀬彦次郎入道等の南軍が領内に乱入し、大光寺城を攻撃。これに対し曾我貞光津軽曾我氏本家筋にあたる曾我師助(もろすけ)*17所領の代官などの来援を得ながら、3ヶ月で南朝方を退散させたと伝えている。 

 

【史料7】興国4(1343)年6月20日付「尼しれん譲状」(『南部文書』)*18

(包紙)信光 あましれんより娘加伊寿御前への譲状

時に興国四年六月廿日、加伊寿御前信光の母也

ゆつりわたす

 くろいしの所りやうの事

さたゆきのゆつりに、いつれの所りやうもこけいちこのほとハしりて、のちにハ女しともに、あいはからいてゆつるへしと候、くろいしハいつれの女しともの中にも、もちぬへからんにゆつるへしと候、をなしこともと申なから、心さしあるによて、ちゃく女なんふとののねうハうかいすこせんに、ゑいたいをかきりてゆつる、ししそんそんにいたるまて、たのさまたけあるへからす、たたしいしなさかをは、ふくしゆこせんに、ゑいたいをかきりてゆつる、心さしあるによて、いもをとふくしゅこせんにゆつるなり、ミはなち給へからす、いつれのいもをとこせんをも、はからいとして、ミさはつり給へし、これはこけしれんかしひつなり、よのゆつりありとゆふとも、もちいへからす、よてゆつりしやうくたんのことし、

 

こうこく四年六月廿日  あま志れん(花押)

 

(読み下し)

譲り渡す 黒石の所領のこと
貞行の譲りにいずれの所領も 後家一期の程はしりて 後には女子共に相計らいて譲るべしと候 黒石はいずれの女子共のなかにも 持ちぬべからん(=黒石の所領をずっと保持できる者)に譲るべしと候 同じ子どもと申しながら志あるによって 嫡女南部殿の女房・加伊寿御前に永代を限りて譲る 子々孫々に至る迄 他の妨げあるべからず
但し石名坂をば福寿御前に永代を限りて譲る 志あるによって妹福寿御前譲るなり 見放なち給うべからず いずれの妹御前をも計らいとしてみさはつり給う(=面倒を見る)べし これは後家しれんが自筆なり 余の譲り有りというとも用いべからず 仍って譲り状件の如し
 興国四年六月二十日  尼しれん

 

【史料8】興国5(1344)年2月13日「尼しれん譲状」(『南部文書』)*19

(包紙)「信光 幼名力寿丸 興国五年二月十三日 あましれんより譲状」

(端裏書)「りきしゅ丸

ゆつりわたすりきしゅ丸

 つかるいなかのこをりくろいしのかう、

おなしきまん所しきの事

右所は、くとうゑもんのせうさたゆき、ちうたい乃所りやうたるあいた、しれんか乃こけとして、さうてんちきよういまにさうゐなし、そのしさいゆつりしやうにみえたり、しれん一こ乃のちハ、ちやくそんりきす丸に、此ところをゆつりあたうる也、よのしそんらいらんあるへからす、たたし此所のうち、女し五人ニすこしつゝ一このあいたゆつる也、ゆつりしやうめんめんにあり、これをたかうへからす、いつれもしひつなり、しひつにてなからんをハ、もちいへからす、よてゆつりしやうくたんのことし、

 

こうこく五ねん二月十三日  志れん(花押)

 

(読み下し)

譲渡す 力寿丸
 津軽田舎の郡黒石の郷、同じき政所職の事
右所は、工藤右衛門尉貞行重代の所領たる間、しれん彼の後家として、相伝知行今に相違なし、其の子細譲り状に見えたり、しれん一期の後は、嫡孫力寿丸に、この所を譲り与うる也、余の子孫等違乱あるべからず、
但し此の所のうち、女子五人に少しずつ一期の間譲る也、譲り証文にあり、これを違うべからず、いずれも自筆也、自筆にてなからんをば、用いべからず
依って譲り状件の如し、
 興国五年二月十三日  しれん(花押)

【史料7】・【史料8】双方の文中にある「こけ(=後家)」とは「夫に死別し、再婚しないで暮らしている女性」の意味である*20から、「しれん(=故・工藤右衛門尉貞行)後家として」という部分により、「しれん」という女性が貞行の妻(未亡人)であったことが分かる。自ら「尼」と書いているから夫の死を悼んで剃髪したのであろう。【史料1】・【史料3】で書いた通り、夫・貞行死後の工藤家を取り仕切っていたことが窺える。

【史料7】では、「しれん」が嫡女・加伊寿御前に黒石の所領を永代に譲り子々孫々まで与え、石名坂の地に関しては同じく娘(加伊寿御前の妹)福寿御前に譲るとしていたが、【史料8】で加伊寿御前が生んだ孫・力寿丸に改めて所領を譲り渡すとしている。

 

この「力寿丸」は『八戸南部系図』に「幼名力寿丸……工藤右衛門尉藤原貞行、号加伊寿御前南朝正平……十年三月十五日、顕信卿奉勅詔任大炊助、同十一年十一月十九日、亦任薩摩守、……」と注記される南部信光*21に比定して良かろう。信光の生年は明らかにはなっていないものの、【史料3】より1334年8月21日以後であることは確実で、【史料7】の出された1344年までに生まれたと考えられる。

そして同系図南朝……」以降の部分は、各々記載の日付通りに、「源信*22が「大炊助」に*23、そしてこの「大炊助源信」が「薩摩守」に*24推挙されていることが、実際の書状から裏付けられる。

正平15(1360)年6月5日には「南部薩摩守」=信光が黒石郷(【史料7】・【史料8】)・目谷郷(【史料5】)などを安堵されており*25貞行の旧領が外孫の信光に渡っていることが確認できる。

 

尚、上記の他、次の史料により貞行が生前上総国にも所領を持っていたことが窺える。

【史料9】観応3(1352)年7月4日「足利尊氏寄進状案」*26

寄進 円頓宝戒寺

上総国武射郡内小松村工藤中務右衛門出羽国小田島庄内東根孫五郎跡事、 
右為当寺造営料所、限永代所寄進之状如件、

 観応三年七月四日 正二位源朝臣(御判)

 

 

系譜・世代・烏帽子親についての一考察

近年、今野慶信が「南家 伊東氏藤原姓大系図(以下「大系図」と略記)に着目し、工藤景光に始まる得宗被官・工藤氏の主要な系図を次のようにまとめられた*27。 

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▲【図A】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図

 

貞祐の旧領を継承していることからも、貞行についてもこれと同族とみなすのが有力である。但し「大系図」には工藤景光のその他の息子およびその子孫についてもある程度詳細に書かれているが、その中に貞行の掲載は無い。

一方、工藤祐経の末裔に貞行を載せる系図もあり(下記【図B】)、これに比定する見方もある。しかし、「大系図」では祐朝の子は祐藤( "東鑑{=吾妻鏡}では「祐泰」" との注記もあり)となっており、祐盛・祐綱はむしろ祐朝の弟(祐光・祐頼の兄)に載せられていて、祐朝の子孫が叔父や大叔父にあたる人物と同名を名乗るというのもやや不自然に感じる。また、祐時の当初の嫡男であった祐朝は分家して早川氏の祖となっており*28、その子孫が工藤に復姓したというのも奇妙である。よって、この系譜の信憑性については検討を要する。

 

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▲【図B】藤原南家・工藤氏略系図*29

 

ここで、藤原為憲の子孫をまとめた【図B】に着目すると、行に同じく為憲から見て13代目、もしくは1世代少ない12代目にあたる、父・祐盛(※系図上)のはとこ伊東、別の系統でも二階堂や、記載は無いがその従兄弟にあたる二階堂行宗の子・(およびその息子・景光流工藤氏の工藤、そしてが皆、「」の字を持つことに気付く。 

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こちら▲の記事で、共通の祖先からの代数が同じ者同士(場合によっては途中の親子の年齢差の関係で1~2代ずれているケースも含む)がほぼ同世代人であることを検証した。よって、貞行は、前述の中で生年が判明している二階堂行貞貞衡父子や、父親との年齢差から世代推定が可能な伊東貞祐二階堂貞綱と同じく、得宗・第9代執権北条貞時の1字を賜った世代と判断される。

仮に【図B】が正しいとすれば祐時の玄孫にあたるから、貞行が早くとも1265年頃の生まれであることが確実となり、それまでの通字「祐」を用いていない理由を考えても、行は時執権期間内に元服し、その偏諱」を受けたと推測される。この点からしても貞行も得宗被官(御内人)であったと考えて良いだろう。尚、元亨3年の段階で右衛門尉任官済みであったことは冒頭の【史料1】で確認できるので、得宗被官工藤氏であることも考慮してその当時30代に達していたと推測され、逆算すると1280年代に生まれ、1290年代に当時の執権・時を烏帽子親として元服したことになる

この推測は【史料1】からも裏付けられよう。改めて見ると、まず鎌倉にも所領を持っていたとあるから、幼少期に(或いは生まれた時から)在鎌倉であった可能性がある。そして、娘・加伊寿御前に対し、もし万一のことがあって子が無ければ妹に渡るよう指示しており、元亨3年当時、加伊寿御前が子供を産むような年齢に達していたことが窺える。この時彼女は10代後半~20代であったと思われるので、1334~1344年の間に生まれた息子・南部信光(前述参照)との年齢差を考えても、加伊寿御前の生年は1300年代と推測され、その父・貞行はやはり遅くとも1280年代の生まれとなる

 

前述したように、貞行の父親は「中務丞」であったことになる。【図B】での祐朝の系譜についてあまり信憑性が無いことも既に述べたが、祐盛が中務丞であったという史料も未確認である。むしろ、年代的には嘉元3(1305)年の連署北条時村殺害犯の一人として処刑された「工藤中務丞有清*30の方がまだ該当する可能性があるだろう。

*或いは【図B】の貞行が、本項の中務右衛門尉貞行と同姓同名の別人の可能性もあり得るので、下記理由からも工藤祐経の後裔説は否定しておきたいと思う。

 

また、貞の「」が工藤に通じる可能性がある。行光の名は父・景光と曽祖父・行景の各々1字によって構成されたものと思われるが、息子が「工藤中務次郎長光」と称されている*31ことから、行光が最終的に中務丞に任官したことが分かる。「大系図長光の項には「布施(二郎)右衛門尉」とあり、「大系図」には無いが【図B】を見ると、右衛門尉(大尉:従六位下、少尉:正七位上 相当)*32中務丞従六位上相当)*33を代々継承した家系があったのではないか。これ以上は検証が困難だが、一説として行光の曽孫または玄孫であった可能性を提示しておきたい。

 

いずれにせよ、貞行は有力な得宗被官であった工藤貞祐とほぼ同世代人で、鎌倉幕府滅亡後は貞祐とは分かれて建武政権側について生き残り、その旧領を継いだのであった。但し貞行は男子には恵まれなかったので、その領地は娘が嫁いだ南部氏へと引き継がれていくこととなり、信光の系統(根城南部氏・八戸氏)は後世、盛岡藩主となった南部本家を家老として支えていくこととなる。

 

(参考ページ)

 工藤貞行 - Wikipedia

工藤貞行関係資料

 安東氏関連 武将列伝 #工藤貞行

 Roots №3 (工藤貞行 その2) - 龍田 樹(たつた たつき) の 【 徒然ブツブツ日記 】

 津軽工藤氏と根城南部氏 - 「じぇんごたれ」遠野徒然草

 橋本竜男「元弘・建武津軽合戦に関する一考察」(所収:『国史談話会雑誌』53巻、東北大学文学会、2012年)

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第37巻28573号。

*2:『身延町誌』第三編 第三章 第五節 より。

*3:前注同箇所。

*4:『大日本史料』6-2 P.137も参照のこと。写真は『新編弘前市史』通史編1(古代・中世)P.553<写真157>より引用。

*5:安達高景とする説が誤りと思われることは 【論稿】大光寺合戦における工藤氏一族について - Henkipedia 参照。

*6:熊野奥照神社(現・青森県弘前市)には、建武3(1336)年3月19日付で「道光禅門」の没後五十七日忌にあたって建立された板碑(供養塔)があり、この道光が工藤六郎入道に比定されている。熊野奥照神社板碑 - 弘前市『新編弘前市史』通史編1(古代・中世)口絵6

*7:『新編弘前市史 通史編1(古代・中世)』P.318https://core.ac.uk/download/pdf/144248047.pdfhttp://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/sadayuki.htm津軽工藤氏と根城南部氏 - 「じぇんごたれ」遠野徒然草

*8:跡 (御家人) - Wikipedia も参照のこと。

*9:苅米一志「西国における曽我氏の所領と文書」(所収:『就実大学史学論集』33号、就実大学人文科学部総合歴史学科、2019年)P.84。原始から現代/沼津市工藤貞祐 - Henkipedia【史料18】参照。

*10:『大日本史料』6-5 P.455曾我氏関係史料知られざる南朝の重鎮・鎮守府将軍北畠顕信  #第四章 〜延元(三)〜

*11:津軽工藤氏と根城南部氏 - 「じぇんごたれ」遠野徒然草知られざる南朝の重鎮・鎮守府将軍北畠顕信  #第四章 〜延元(三)〜

*12:貞和3(1347)年5月日付「曽我貞光申状案」の文中でも、【史料6】と同内容で「暦應二年三月、御敵越後五郎 号先代一族 南部六郎、成田小次郎左衛門尉以下輩、率数百騎、責入津軽中之間、……」と書かれる通り、「先代」=北条氏のことで、越後五郎はその一族を称していた。その通称は「越後守」の「五郎(本来は5男の意)」を表しており、北条氏一門でこの頃の越後守に該当し得るのは北条時敦(1310-1320逝)、金沢貞将(1324当時)、常葉範貞(1325-1329)、普音寺仲時(?-1333)くらいであろう(→ 越後国 - Wikipedia)。

*13:建武元(1334)年5月3日付「後醍醐天皇綸旨」(『南部文書』)の文中に「南部六郎政長」とあるによる。『大日本史料』6-1 P.552 参照。

*14:【史料2】の「大里城主成田小次郎」が左衛門尉に任官した同人であろう。

*15:若党(わかとう)とは - コトバンク より。

*16:仮名から察するに、小五郎は弥五郎入道の嫡男だったのではないかと思われる。

*17:前述の曾我時助の孫にあたる。また、【史料6】から3年後に貞光を猶子にしたという(→『大日本史料』6-7 P.150)。

*18:『大日本史料』6-7 P.915~916

*19:『大日本史料』6-8 P.632

*20:後家(ごけ)とは - コトバンク より。

*21:『大日本史料』6-48 P.290

*22:南部氏清和源氏より分かれた源姓の家柄であった。

*23:『大日本史料』6-19 P.752

*24:『大日本史料』6-20 P.919

*25:『大日本史料』6-23 P.181

*26:千葉介の歴代 #千葉介氏胤 より。

*27:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。

*28:日向伊東氏略系図 より。

*29:武家家伝_奥州工藤氏武家家伝_伊東氏 および 注27前掲今野氏論文 P.115(=【図A】)により作成。

*30:工藤時光 - Henkipedia【史料15】参照。【図B】には掲載されていないが、為憲流工藤氏一門の者で使用例がある「清」字を持つことから、やはりその一族とみなして良いだろう。

*31:『吾妻鏡』承久4(1222)年正月7日条

*32:右衛門の尉(うえもんのじょう)とは - コトバンク より。

*33:黛弘道「中務省に関する一考察 ー律令官制の研究(一)ー」(所収:『学習院大学文学部研究年報』18号、学習院大学、1972年)P.96 より。

工藤貞光

工藤 貞光(くどう さだみつ、生年不詳(1280年代?)~1334年?)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏助光流の当主。

「南家伊東氏藤原姓大系図*1(以下「大系図」と略記)によると工藤宗光の嫡男。「大系図」では「新右近」と注記されるが、史料上では工藤右近将監とも呼ばれ、御内侍所の長官も務めた(後述参照)

 

まずは次の系図をご覧いただきたい。

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▲【図A】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図*2

 

こちらは「大系図」を基に今野氏がまとめられたものであるが、同氏は以下の各史料における「工藤右近将監」が年代的に工藤貞光であると結論付けられた*3


【史料1】(元亨3(1323)年)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』):元亨3年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において、一品経(妙音品 10貫)の調進、砂金50両・銀剣・馬一疋の供養等を行う「工藤右近将監*4

管見の限り、これが史料上における初見と思われる。右近将監(=右近衛将監)任官済みであることから、この当時20代後半~30代には達していたと考えられ、逆算すれば遅くとも1290年代までには生まれていたと推測可能である。

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また、こちら▲の記事で父・宗光を1260年代の生まれと推定したので、親子の年齢差を考慮すれば貞光は早くとも1280年代の生まれである。

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▲【図B】「大系図」より、景光流工藤氏の系図*5

 

ところで、冒頭で紹介した「大系図」での注記「新右近(【図B】参照)は、父・宗光が右近将監である期間に同じ官職となり、それと区別するために用いられる呼称の筈である。今野氏もご指摘のように、【図B】の工藤氏系図はどの系統も景光から4~6代目の人物で途切れているから、鎌倉時代後期の成立とみられるが、その当時貞光は「新右近」と呼ばれていたことになる。

但し、正和5(1316)年までに宗光は出家して「工藤右近入道」と呼ばれていた*6ようで、この当時貞光がとりわけ「新右近」と呼ばれる必要は無いと思われるので、貞光の右近将監任官はこれより少し前になるだろう。

仮に1310年頃であったとすると1280年代の生まれとするのが妥当で、通常10代前半で行われる元服の時期が貞時執権期間(1284~1301年)*7内であったことがほぼ確実となる。よって工藤得宗北条の加冠によって元服し、その偏諱」を受けたと判断され、その関係から貞時13年忌法要にも参加したのであった。

 

【史料2】嘉暦4(1329=元徳)年11月11日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*8

(前欠)宗正与黨〔=党〕拷問白状等注進、今日付長崎新左衛門尉候之由、来申候、且彼案文追可書進候、

同与黨人等も、今日申剋、下着之間、為御内侍所工藤右近将監沙汰、被預御内之仁等之旨、承候、無相違下着、悦存候、

(中略)

あなかしく

        三月十三日

  (切封墨引)

(異筆)「嘉暦四四三、尭観   事」

嘉暦4年3月13日のこと。六波羅探題より、捕らえて拷問していた宗正(姓不詳)とその一味の自白書等が注進され、内管領長崎高資の許に届くと同時に、宗正の共謀者たちの身柄も同日申の刻に鎌倉に到着したが、この当時「御内侍所」の長官であった工藤右近将監の沙汰として「御内之仁(=御内人」たちに預けられることとなった。この書状は、こうした話を聞いた貞顕が、同探題南方であった息子・貞将に向け、彼の任務が無事完了したことを報告したものであり*9、「工藤右近将監」については当初工藤光泰の一族と推測されるのみであった*10が、これも貞光に比定される。

 

【史料3】建武元(1334)年7月29日付「陸奥国宣」(『遠野南部家文書』)*11

(花押 *北畠顕家

糠部郡七戸内工藤右近将監、被宛行伊達右近大夫将監行朝畢、可被沙汰付彼代官者、依国宣、執達如件、
 建武元年七月廿九日  大蔵権小輔清高 奉
  南部又次郎殿

【史料2】との時期的な近さからしてこの「工藤右近将監」も貞光に比定されるが、鎌倉幕府滅亡の翌年に、陸奥国糠部郡七戸内にあった貞光の旧領が伊達行朝に宛がわれていることが窺える。よって、1333~34年の大光寺合戦において、得宗被官であった貞光も討伐されたと考えられよう。

尚、一説によれば、同地にあった七戸城*12鎌倉時代末期に工藤右近将監(=貞光)が構築したとも言われる*13

1334年後半期には、惣領的立場にあった宗光・貞光父子を喪い、工藤高景を中心とした残りの一族が名越時如を奉じて北畠顕家側の勢力と戦い降伏している。

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脚注

*1:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。

*2:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。

*3:注2前掲今野氏論文 P.113。

*4:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.698・705・707。

*5:注2前掲今野氏論文 P.130~132 より引用。尚、こちらは東京大学史料編纂所所蔵謄写本を基にしており、注1前掲飯田論文に掲載のものとは一部で若干の相違があるが、貞光の注記「新右近」は両者で共通している。

*6:同年閏10月18日付「得宗公文所奉書」(『多田神社文書』)より。『鎌倉遺文』第34巻26002号 または 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.204~205に掲載。工藤宗光 - Henkipedia【史料3】も参照のこと。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。

*8:小泉聖恵「得宗家の支配構造(研究)」(所収:『お茶の水史学』第40巻、お茶の水女子大学比較歴史学講座読史会、1996年)P.31 および『鎌倉遺文』第39巻30531号より。『金沢文庫古文書』387号にも収録。

*9:前注小泉氏論文 同箇所。

*10:注6前掲細川氏著書 P.114~115。

*11:『大日本史料』6-1 P.657北畠顕家関係文書60号。

*12:別名:柏葉城。現在は城跡が史跡公園(柏葉公園)となっている。

*13:七戸城 より。

工藤宗光

工藤 宗光(くどう むねみつ、生年不詳(1260年代?)~1333年頃?)は、鎌倉時代後期から末期にかけての武士。北条氏得宗家被官である御内人藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏助光流の当主。工藤頼光系図では光頼)の嫡男で工藤貞光の父。官途は右近将監。

 

まずは次の系図をご覧いただきたい。

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▲【図A】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図*1

 

「南家伊東氏藤原姓大系図*2(以下「大系図」と略記)を基に今野氏がまとめられたものであるが、同氏は以下の各史料における「工藤右近将監」が年代的に宗光(「大系図」では「工藤右近将監」と明記)であると結論付けられた*3

 

【史料1】『親玄僧正日記』永仁元(1293)年10月1日:「…姫御前護刀事、乳夫子息工藤右近為使者示送…」

工藤右近(工藤右近将監)北条貞時(当時の9代執権)娘の乳母夫(乳父)の子息(すなわち貞時娘と乳兄弟)であったと伝えており、今野・山内吹十(やまのうち・ふきと)*4両氏は年代を考慮してこの「工藤右近」を宗光、貞時娘の乳父はその父親である頼光としている。

今野氏によると、前日9月30日条には、親玄僧正がこの工藤右近(宗光)と面会していることも記されているという。

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父・光についてはこちら▲の記事で、その生年を1230年代後半と推測した。今野氏が言われるように「」は元服時に5代執権・北条時偏諱を受けたものと考えられ、時頼治世下の『吾妻鏡』建長5(1253)年正月1日条でその名を確認できるからである。

よって、親子の年齢差を考慮すれば、宗光の生年は1260年頃より後と推測可能である。元服は通常10代前半で行われたから、少なくとも宗尊親王が解任の上で京都に送還された文永3(1266)年*5までにその1字を賜ることは不可能で、得宗被官であること、のちに息子・光も得宗時の偏諱を受けた様子であることからしても、光は北条時の8代執権在職期間(1268~1284年)*6内に元服し、今野氏の推測通り時から「」の偏諱を受けたと判断される。

そして、永仁元年当時右近将監(=右近衛将監)任官済みであったことからすると、当時20代後半~30代に達していた可能性が高いと思われるので、1260年代の生まれとするのが妥当であろう。 

 

【史料2】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*7

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

(省略)

 二 番

  工藤次郎右衛門尉  粟飯原左衛門尉

(略)

 七 番

  安東左衛門尉(重綱?貞忠?) 工藤右近将監

  佐介越前守     南條中務丞

  小笠原四郎     曾我次郎左衛門尉

  工藤左近将監    千竃六郎

(略)

  十二番

  工藤右衛門入道   五大院左衛門入道

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(時宗忌日*8)」の結番を定めたものであるが、"工藤右衛門入道" 杲暁"工藤次郎右衛門尉" 貞祐父子など工藤氏一族が多く割り当てられる中で、7番衆の一人に「工藤右近将監」も含まれている。

この後の史料で「工藤右近入道(出家後の右近将監)」、「工藤右近将監」と2名の登場が確認でき、【図A】より各々宗光・貞光に比定されることは明らかである。

但し「大系図」での貞光の注記は「新右近」であり、基となった系図が作成された当時、同じく右近将監であった父・宗光と区別されてそう呼ばれていたことが分かる。仮に徳治2年当時貞光が右近将監であったとしても、年代的にその呼称は「新右近」であったと考えられるので【史料2】の「工藤右近将監」=宗光と見なすのが妥当であろう。

 

【史料3】正和5(1316)年閏10月18日付「得宗公文所奉書」(『多田神社文書』)*9

攝州多田院塔供養御奉加御馬事、先日被仰下之處、無沙汰云〻、不日可被沙汰進之由候也、仍執達如件、

 正和五年閏十月十八日 □直(花押)

            了□(花押)

            演心

            高資(花押)

 工藤右近入道殿

のちに「御内侍所」長官を務める「工藤右近将監(=貞光)」が現れるので、この史料において内管領長崎高資や、尾藤演心塩飽了暁得宗公文所より、摂津国多田院の塔供養奉加の馬について指令を受ける「工藤右近入道殿」は、その父・宗光に比定するしかなかろう。すなわち、この時までに出家していたことが分かる。尚「大系図」には特に出家・入道等の注記は無く、法名についても不明である。

ところで、細川重男の研究*10によると、この時の右近入道(宗光)は多田院造営総奉行であったという。同じく『多田神社文書』には、翌文保元(1317)年5月10日にも同奉行であった「工藤次郎右衛門尉」=貞祐宛ての奉書が収録されているが、こちらは(高資・演心など政治的地位の高い者を含まない)下級職員のみの奉者であることから、細川氏は同じく工藤氏でも右近入道(宗光)次郎右衛門尉(貞祐)では公文所内部での地位に格差があったのではないかと推測されている。

この2人は【図A】により同族であることが判明したが、各々兄・三郎助光と弟・六郎重光の家系であるという違いが元々あり、官途の面でも右近将監(=右近衛将監、従六位上相当)*11の方が右衛門尉(大尉:従六位下、少尉:正七位上 相当)*12より官位が高い。この2つの系統が得宗被官として勢力を伸ばしたことは間違いないが、助光流の方が(得宗から見て)惣領家に位置付けられていたことが窺えよう。


【史料4】元弘4(1334)年2月晦日陸奥国宣」(『留守文書』)*13

(花押 *北畠顕家

陸奥国二迫栗原郷内外栗原并竹子澤内 工藤右近入道 事、為合戦勲功賞、所宛行也、可被知行之由、国宣所候也、仍執達如件、
 元弘四年二月晦日  大蔵権少輔清高 奉
  留守彦二郎殿

留守氏一門・余目家任(いえとう)が「合戦勲功賞」として「二迫栗原郷(のちの栗原郡、現在の宮城県栗原市栗原 并びに 竹子沢内」にあった工藤右近入道(宗光)(=旧領)の知行を命じられている。【史料3】以降宗光の活動は確認できず、没年に関しても不詳であるが、同年7月29日にも「糠部郡七戸内 工藤右近将監」が伊達行朝に宛がわれている*14から、前年(1333年)の鎌倉幕府滅亡時まで息子・貞光の領地とは別に宗光の領地があったと考えられ、故にその頃まで存命であったと推測される。

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脚注

*1:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。

*2:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。

*3:注1前掲今野氏論文 P.113。

*4:山内吹十「得宗家の乳母と女房 : 得宗―被官関係の一側面」(所収:『法政史学』第80巻、法政大学史学会、2013年)P.30。

*5:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。

*7:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*8:注6同箇所によると、時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日である。

*9:『鎌倉遺文』第34巻26002号。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.204~205。

*10:前注細川氏著書 P.118 註(13)。

*11:右近将監(うこんのじょう)とは - コトバンク より。

*12:右衛門の尉(うえもんのじょう)とは - コトバンク より。

*13:『大日本史料』6-1 P.464~465笠原信男「栗原郡における中世の修験 ー羽黒先達及び熊野先達ー」(所収:『東北歴史博物館研究紀要』、東北歴史博物館、2010年)P.54。『鎌倉遺文』第42巻32855号。『仙台市史』資料編1 古代中世(仙台市史編さん委員会、1995年)P.155。

*14:『大日本史料』6-1 P.657

工藤頼光

工藤 頼光(くどう よりみつ、生年不詳(1230年代?)~没年不詳(1290年代?))は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏の一族。系図では工藤光頼(みつより)とも。工藤光長(または光泰の嫡男で工藤宗光の父とされる。通称は次郎、左衛門尉。

 

『吾妻鏡』建長5(1253)年正月1日条を見ると、当時の第5代執権・北条時頼の沙汰によるこの日の椀飯の馬引(御馬五番)をその弟・北条六郎時定と共に務める人物として「工藤次郎左衛門尉頼光」の実在が確認できる。

 

【図A】「南家伊東氏藤原姓大系図」 より一部抜粋*1

       家朋寺禅門代   彦三郎

 工藤庄司 工藤左衛門入道 右近将監 大厩左衛門入道 工藤右近将監  新右近

 景光――資光―――光長――光頼――宗光――貞光

今野慶信の見解によれば、この頼光通称名の一致から、この【図A】において「大厩左衛門入道」と注記される光頼〔ママ〕に比定されるのではないかとする*2。今野氏は「大厩」=将軍家の厩のこと、「光」の名は時偏諱を受けたものと推測されているが、前述の通りまさに時頼治世下で登場しながらその1字が認められているから、筆者も賛同である(以降の宗光貞光得宗から一字を拝領した形跡が見られる)。1246年に時頼が執権を継いで*3間もない1240年代後半(1246~1250年)元服し、1250~1252年頃に左衛門尉任官を果たしたものと思われる。

 

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そして、こちら▲の記事でも紹介の通り、頼光(光頼)の父・光長について今野氏は『吾妻鏡』に時頼の側近の一人として現れる工藤光泰に比定されるのではないかと説かれている。

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▲【図A】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図*4

 

但し『吾妻鏡』を見ると、宝治2(1248)年1月15日条に「工藤右近次郎(異本によっては右近五郎と記すものも)」、建長3(1251)年1月8日条同4(1252)年11月18日条に「工藤右近三郎」の名が見られ、この当時「工藤右近将監」という人物が実在し、各々その息子であったことを暗示している。すると「大系図」にある "右近将監" 光長は誤記ではなく、年代的に考慮してこれに該当し得るのではないか。すなわち、右近次郎が後の次郎左衛門尉頼光、右近三郎は(系図には書かれていないが)頼光の弟であった可能性がある。もしこの推定が正しければ、1246~1247年の間に「頼光」を名乗ったことになり、時頼が執権を継いで間もない頃に元服とした前述の内容を裏付けるものとなる。

但し、頼光は得宗偏諱を受けるほか、後に北条貞時娘の乳母夫となる(後述参照)等、有力な得宗被官という光泰の地位を継承したものと言えるのも事実で、恐らく尾藤氏の例と同様に光泰が甥(兄・光長の子)である頼光を後継者にしたというのが実際のところではないかと思う。

 

改めて工藤頼光の登場箇所と思われる史料を掲げると次の通りである。

【史料1】『吾妻鏡』宝治2(1248)年1月15日条:「工藤右近次郎」(※推測)

【史料2】『吾妻鏡』建長5(1253)年正月1日条:「工藤次郎左衛門尉頼光

【史料3】『吾妻鏡』弘長元(1261)年4月25日条:「工藤次郎右衛門尉」(?) 

*『吾妻鏡人名索引』の推定による。史料上で「衛門尉」と「衛門尉」の書き間違いはしばしばあるが、年代的には頼光(光頼)のはとこにあたる、朝光流の「二郎右衛門」資房にも比定し得る*5ので、必ずしも頼光と断定できるとは限らない。但し逆に、同時代には父の従兄弟にあたる工藤高光が「次郎左衛門尉」を称しており、同じ通称名であったとも考えにくいので【史料2】が誤記である可能性も否めない。

【史料4】『親玄僧正日記』永仁元(1293)年10月1日:「…姫御前護刀事、乳夫子息工藤右近為使者示送…」

工藤右近(工藤右近将監)北条貞時(時頼の孫、第9代執権)娘の乳母夫の子息であったと伝えており、今野・山内吹十(やまのうち・ふきと)*6両氏は年代を考慮してこの「工藤右近」を宗光、その父親である貞時娘の乳母夫は頼光としている。「故…」(故人)等の記載が特に無いので、永仁元年当時まで存命であったのかもしれない。

 

脚注

*1:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。

*2:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.113。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。

*5:正確な生年が分かっていないので、或いは重光流工藤高光の子である「二郎右衛門(入道)」時光の可能性も決して排除は出来ないが、筆者は年代的に考慮してそれは低いと判断する。

*6:山内吹十「得宗家の乳母と女房 : 得宗―被官関係の一側面」(所収:『法政史学』第80巻、法政大学史学会、2013年)P.30。

工藤光泰

工藤 光泰(くどう みつやす、生年不詳(1210年代?)~没年不詳(1277年以後?))は、鎌倉時代前期の武士。藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏の一族。北条氏得宗家被官である御内人で、鎌倉幕府小侍所所司も務めた。法名道恵(どうけい)か。通称は三郎、右衛門尉(または左衛門尉)

 

 

吾妻鏡』における光泰

工藤光泰については『吾妻鏡』でその実在が確認できる。光泰の登場箇所とされる部分を表にまとめると次の通りである。

 

【表A】『吾妻鏡』における工藤光泰の登場箇所*1

月日 表記
仁治2(1241) 1.5 工藤三郎
寛元2(1244) 1.5 工藤三郎
建長3(1251) 1.8 工藤三郎衛門尉光泰
5.27 工藤三郎衛門尉光泰
建長4(1252) 1.13 工藤三郎衛門尉光泰
4.17 工藤二郎〔ママ〕<>衛門尉光泰
4.24 工藤三郎衛門尉光泰
正嘉元(1257) 9.18 工藤三郎衛門尉光泰
正嘉2(1258) 1.2 工藤三郎衛門尉光泰
文応元(1260) 1.1 工藤三郎衛門尉光泰
1.2 工藤三郎衛門尉光泰
2.2 工藤三郎衛門尉
4.18 工藤三郎衛門尉光泰
7.6 工藤三郎衛門尉光泰
7.7 光泰
7.29 工藤三郎衛門尉光泰
12.29 光泰
弘長元(1261) 1.2 工藤三郎衛門尉光泰
1.4 工藤三郎衛門尉光泰
1.9 工藤三郎衛門尉光泰
7.1 工藤三郎衛門尉
7.13 工藤三郎衛門尉光泰
7.29 光泰
8.13 工藤三郎衛門尉光泰
9.3 工藤三郎衛門尉光泰
9.19 工藤三郎衛門尉光泰
弘長3(1263) 1.11 工藤三郎<>衛門尉光泰
6.28 光泰
11.20 工藤三郎<>衛門尉
文永2(1265) 1.1 工藤三郎衛門尉

鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の代にその側近的な役割を担った様子が主な活動内容であり*2、時頼臨終の前日にあたる弘長3年11月20日条にも、最後の看病を許された得宗被官7人中に光泰とみられる「工藤三郎<左>衛門尉」が含まれるなど、得宗被官化していたことが窺える。

所々で衛門尉衛門尉の表記ゆれがあるが、登場回数の多い1260年代初頭で表記が安定している「右衛門尉」の可能性が高いのかもしれない(一般的に「右」よりも「左」の方が上位とされる*3。建長3年の段階で左〔右?〕衛門尉に任官していたことが窺えるから、20~30代以上であったと推測できる。また、任官後14年以上(初出から24年以上)存命であったことを考えると、この当時の平均的な寿命を考慮して、任官当時50~60代以上であったとはあまり考え難いだろう。

仮に40歳としても1210年頃の生まれとなり、通常10代前半で行われた元服の年次が、第3代執権・北条泰時の在任期間(1224~1242年)*4内であったことは濃厚と言えるだろう。実際「」の名乗りは、工藤氏通字の「光」に対し「」は時の偏諱と判断される*5。初出当時も泰時は存命(亡くなる前年)であり、左衛門尉任官前の「工藤三郎」という呼称からすると、実際には恐らく泰時の加冠によって元服してからさほど経っていない、10~20代だったのではないかと思われる。

 

 

系譜上での位置について

鎌倉時代の様々な史料において、工藤氏が得宗被官として活動していたことが窺えるが、光泰も含めその系譜はあまり明らかにされてきていなかった。

しかし近年、今野慶信によって「南家伊東氏藤原姓大系図(以下「大系図」と略記)の伊東氏以外の他家の部分について、その正確性の考証がなされた*6ことで大きく前進したと言える。次に掲げるのは、そのうち工藤景光の系統を抜粋したものである。

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▲【図B】「大系図」より、景光流工藤氏の系図*7

 

光泰については【図B】上に記載は無いが、今野氏は系図中の光長(みつなが)が光泰を指すのではないかと推測されている。同氏の見解に従えば、まず、光長の父・資光については「すけみつ」という読みの共通から、『吾妻鏡』に景光の子息として登場する「工藤三郎助光」に比定される。その主な活動としては、文治5(1189)年の奥州合戦に兄・小次郎行光や同族の狩野五郎親光と共に従軍したことが確認できるが、資光の傍注「最明寺禅門代 工藤三郎 左衛門入道」というのが年代的に合わない。しかし「最明寺禅門」=時頼*8の代官というのは、【表A】に示した光泰の事績そのものに当てはまるから、この注記は資光の子・光長の項にあるべきもので、「長」が「泰」の誤記*9、或いは光泰の初名であったのではないかと説かれている。

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▲【図C】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図*10

 

また【図B】における光長の子・光頼についても、今野氏は「二郎(次郎)」・「左衛門」の通称の一致から、『吾妻鏡』建長5(1253)年正月1日条に登場する「工藤次郎左衛門尉頼光」に比定される。

ここで注意しておきたいのが、同氏の推測通り「」の字が時偏諱であれば、1246年に5代執権に就任*11して間もない頃に元服して「工藤次郎光」を名乗り、間もなく左衛門尉に任官したことになるが、すると1244~1251年の間に左衛門尉(或いは右衛門尉)に任官した光泰(【表A】)とほぼ同時期であったことになる。工藤氏における左衛門尉任官年齢が低年齢化していた可能性もあるが、この点から光泰と頼光を実の親子関係とみなすのはやや難があるように思われる。

 

【図B】の工藤氏系図は、景光の男子はほとんど載せてはいるものの、彼ら各々の子孫はほぼ一つか二つの系統しか載せておらず、元々伊東氏の系図の中で、初期に分かれた一族という位置づけで一部が書かれたに過ぎないのであろう。よって、助光の系統が代々一人っ子であったとは限らない。

ここで『吾妻鏡』を見ると、宝治2(1248)年1月15日条に「工藤右近次郎」、建長3(1251)年1月8日条同4(1252)年11月18日条に「工藤右近三郎」なる人物が確認できる。彼らの通称は各々、「工藤右近将監」の「次郎(次男)」、「三郎(3男)」を表すものであろうから、「工藤三郎<右>衛門尉光泰」とは別に、彼らの父親として「工藤右近将監」なる人物が実在していたことを暗示していると言えよう。よって世代的にも【図B】における工藤光長を否定する必要性は無いと思う。

従って、工藤助光には光長(彦三郎、右近将監)光泰(三郎、右衛門尉)という2人の息子がおり、前者の子「右近次郎」が「次郎左衛門尉頼光」と同人で、やがて叔父・光泰の地位を継承した可能性が考えられる。右近将監従六位上相当)*12の方が右衛門尉(大尉:従六位下、少尉:正七位上 相当)*13より官位が高いので、光長の方が兄で早世していたのかもしれない。

頼光自身は光泰に同じく左衛門尉(または右衛門尉)となったが、その後の宗光―貞光は光長がなっていた「右近将監」の官途継承が認められたのであった。

【図D】得宗被官工藤氏・右近将監(御内侍所)家 推定系図

     三郎     右近将監  次郎右衛門尉  右近将監   右近将監

 景光――助光――光長――――――

        ┗ ┗某(右近三郎)

        三郎右衛門尉

*同様の例としては得宗被官化した尾藤氏が挙げられる。泰時の代に家令となった尾藤景綱の後継者、景氏『尊卑分脈』によると実は甥(弟・中野景信の子)であったといい、以後頼景時綱と続いた。

 

最後に、次の史料を見ておきたい。 

【史料E】『建治三年記』(1277年)6月5日条(原文は漢文体、読み下し文は建治3年記より)

五日、晴
武蔵禅門御遁世の間、留め申されんが為御使い工藤三郎右衛門入道道を立てらると云々。御遁世去る月廿二日の由披露するの處、定日は二十八日と云々。 

この史料は、太田時連の父・三善康有(太田康有)の日記であるが、塩田流北条義政(武蔵入道政義)の遁世*14を留めるための使者として工藤入道道得宗(8代執権)北条時宗によって派遣されたと伝える。今野氏の見解では、この道恵もその通称名の一致から光泰に同定されるのではないかとする。これが正しければ、この頃まで存命であったことになる。

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.134~135「光泰 工藤」の項 により作成。

*2:工藤光泰 - Wikipedia 参照。

*3:右と左の話 : 同志社女子大学 ー 吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授) などを参照。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.113。

*6:前注今野氏論文。

*7:前注今野氏論文 P.130~132 より。尚、翻刻は 飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)にも掲載されているが、本項では東京大学史料編纂所所蔵謄写本を基にした前者・今野論文を用いた。

*8:『金剛仏子叡尊感身学正記』 中巻 弘長2(1262)年正月2日条に「最明寺禅門俗名相模守平時頼、法名道崇、」とあるほか、『口伝鈔』一切経御校合の事」に「最明寺の禅門の父修理亮時氏」(→ 口伝鈔 - WikiArc)、『四十八巻伝』26にも「西明寺の禅門」(→ 北条時頼 - 新纂浄土宗大辞典)とあるのが確認できる。

*9:崩し字が似ていることから、今野氏は誤写の範囲とする。実際の例としては、伊賀光政(式部兵衛太郎)の弟とみられる伊賀光『吾妻鏡』建長4(1252)年12月17日条で「式部兵衛次郎光」と書かれている例が挙げられる(→『吾妻鏡人名索引』P.135「光長 伊賀(藤原)」の項 より)。

*10:注5前掲今野氏論文 P.115。P.130~132。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*12:右近将監(うこんのじょう)とは - コトバンク より。

*13:右衛門の尉(うえもんのじょう)とは - コトバンク より。

*14:塩田義政は同年4月4日に出家、【史料D】にもある通り5月22日に遁世したという(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その35-塩田義政 | 日本中世史を楽しむ♪ より)。

【論稿】代数論:世代推定の試み② ー藤原南家・工藤氏一族ー

 

まずは藤原氏の始祖・藤原鎌足から工藤氏一門(他に伊東氏・二階堂氏など)に至るまでの略系図を掲げておきたい。

 

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▲【図A】藤原南家・工藤氏略系図*1

 

弟河から為憲まで

鎌足から雄友までの生没年は判明しているが、その子・弟河(弟川とも)以降のそれは不明となっている。しかし、雄友までがほぼそうであるように、現実的に考えても親子間で20~27くらいの年齢差がある筈であるから、その世代を推定することは決して不可能ではない。

例えば藤原弟河であれば、生年は早くとも773年頃の筈であり、父・雄友の死から2年後にあたる弘仁4(813)年の段階で従五位下に叙爵して伊勢介に任ぜられたという『六国史』の記載とも矛盾はない。

弟河の子・高扶793~800年頃の生まれとすれば、『尊卑分脈(以下『分脈』と略記)により天長元(824)年生まれと分かっている息子・有蔭*2との年齢差で辻褄が合う。『続日本後紀』によれば高扶は天長10(833)年に従五位下、承和4(837)年に従五位上となっており、その長男(有蔭の長兄)にあたる有年も『六国史』によればその20年ほど後に地方官を歴任したようなので*3、次男・藤原清夏(有年の弟、有蔭の兄)諸共、820年前後生まれの世代であろう。

 

そして、清夏の孫・藤原為憲(工藤為憲)の生年は早くとも860年頃と推測可能であるが、『分脈』によると為憲の母親は平高望の娘であったという。為憲は従兄弟(高望の孫)にあたる平貞盛と共に、同じく従兄弟の平将門の乱を鎮圧し、その功によって「木助」となって“藤”を称したことでも知られ、年代的にも問題ないだろう。 

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母方の桓武平氏についてはこちら▲の記事にて考証したが、高望(850-)、国香(良望)(870-)、貞盛(900-) くらいとするのが妥当という結論に達した。よって、国香らの姉また妹にあたる高望の娘も870~890年代くらいの生まれであったと思われ、その息子である藤原為憲の生年は890~910年頃に推定される。天慶2(939)年頃には為憲が将門との抗争に敗れたというので、遅くとも900年代初頭には生まれていたと考えて良いだろう。

 

 

為憲からその子孫に至るまで

『分脈』にも書かれている通り、為憲の子孫はその後、工藤氏や二階堂氏など多くの氏族に分かれて繁栄したことが窺える。そして源頼朝治世期に活動が見られる人物については一部生年が判明している。本節では為憲からその人物に至るまでの年数と代数の整合性について考証してみたい。

まずは、鎌倉時代初期に幕府の政所執事を務めた二階堂行光(1164-1219)を取り上げたい。この行光については『吾妻鏡』承久元(1219)年9月8日条に56歳で亡くなった旨の記事があり*4、その生年が長寛2(1164)年と分かる。

【図A】にもある通り、『分脈』上では、行光は為憲9世の孫にあたるので、為憲の生年を仮に900年とすると、行光に至るまで1164-900=264年経ていることになり、各親子間での平均的な年齢差は 264÷8=33 となるが、次に紹介する工藤祐経・伊東祐時父子の年齢差に等しく、十分妥当な数値と言えるだろう。

 

次に、工藤祐経(1152?-1193)伊東祐時(1185-1252)父子と比較する。

「南家 伊東氏藤原姓大系図*5(以下「大系図」と略記)を見ると、祐経は15歳となった仁安元(1166)年に平重盛(1138-1179)を烏帽子親として元服し、建久4(1193)年5月28日に曾我祐成時致兄弟に討たれた*6際、42歳であったという。いずれからも逆算すると仁平2(1152)年生まれとなる。

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一方、祐時については「大系図」での注記より一部抜粋すると、童名(幼名)が犬房丸、将軍・源頼朝(在職:1192~99)を烏帽子親として元服したこと、建長4(1252)年6月17日に68歳で亡くなったことが記載されており*7、逆算すると文治元(1185)年生まれと分かる。『吾妻鏡』と照合すると、前述の父・祐経逝去の翌日にあたる建久4年5月29日条では、討手・曾我時致の助命の話が出たものの、9歳で元服前の「祐経息童 犬房丸(=祐時)が泣いて訴えたことによって処刑の運びとなったとの記述があり、建長4年6月17日条でも祐時逝去の記事が確認でき、注記の情報を裏付けている。

前述と同じ手法を採ると、為憲からその8世孫である祐経に至るまで1152-900=252年経っており、各親子間での平均的な年齢差は 252÷7=36 と算出される。祐経―祐時父子の年齢差33とほぼ大差ない数値で全く問題ないと思う。

*二階堂行光と伊東祐時はともに為憲9世の孫でありながら親子ほどの年齢差があるが、これは時理の子である時信・維景が年齢の離れた兄弟であったことによるものではないかと思われる。特に時信については『分脈』を見ると、時理の子としながらも「或説時理舎弟云々」と注記されており*8、この頃の名乗り方からすると「時」字を共有する時理・時信は親子ではなく兄弟だったのではないか。恐らく時信は時理と年の離れた弟で、兄の養子または猶子(すなわち時信―維景は叔父―甥で養兄弟)だったものと推測される。

 

 

工藤景光一族の世代推定

最後に得宗被官・工藤氏(奥州工藤氏)の祖となった工藤景光の生年を推定してみたいと思う。正確な生没年は不詳であり、『日本人名大辞典』によると、80歳ごろの建久4(1193)年に富士の巻狩りで大鹿を射損じ、まもなく病没したとされる*9

吾妻鏡』を確認してみると、治承4(1180)年8月25日条から建久4年5月27日条までの19回「工藤庄司景光」等の名で登場し*10、5月27日条というのが、前の富士の巻狩りについての記事で、ちょうど前述の工藤祐経逝去の前日にあたる。同記事の中で、大鹿一頭を射損じた直後の景光自らが「工藤庄司景光は十一歳からずっと狩猟の技を自慢としていました。そして七十余歳*11の今まで弓手の獲物を捕れないことはありませんでした。*12と述べるシーンがあり、1193年当時70数歳であったことが明かされている。ちなみに、この後続いて「それなのに今は、意識がボーっとしてとても的が定まりませんでした。これはきっと、あの鹿は山の神の乗馬であることは疑い有りませんよ。神が乗っている馬を狙ったので私の寿命は縮まってしまうでしょう。後日皆さん、何かあったら思い出してください。*13と発言し、恐らくは半分冗談で言っただけだとは思うが、この日の晩に景光は「発病」してしまい、間もなく亡くなったのか、次いで正治2(1200)年10月21日条では嫡男・工藤小次郎行光の発言の中で「亡父景光」と述べられている*14

従って工藤景光の生没年は1120年頃~1190年代半ば頃であったと推測される。

 

為憲から見ると景光は8世の孫にあたり、その生年同士にはおよそ(1120-900=)220年ほどの開きがある。よって親子の年齢差は 220÷7=約31 となり、これまでに見てきた例とほぼ同様の数値となる。

よって景光の生年は1120年頃で問題ないだろう。同じく為憲8世孫にあたる祐経とは30歳ほど離れるが、途中の親子の年齢差によってずれているだけであり、むしろ同じ代数の者同士の年齢差が1世代分程度のずれに留まっていることこそ注目すべき点であると思われる。

*ちなみに『分脈』を見ると途中、為憲の曽孫で景光の高祖父にあたる工藤景任(かげとう)の注記に「母正度女」とある*15が、『尊卑分脈』〈国史大系本〉索引で見る限りでも、景任母の父親「正度」に該当し得るのは桓武平氏平正度くらいしかいないだろう。前述したように為憲の母も平氏出身だったのだから、再び平氏と婚姻関係を結ぶことは十分にあり得る話だと思う。正度についても前述別稿でその生年を980~990年代と推定しているから、景任がその外孫であるとすると1020~1030年代以後の生まれと推測可能である。前述の年齢差を適用すると景任は900+31×3=993年(以後)の生まれとなるが、為憲から景任に至るまでにもう少し年齢差が開いている親子があったのかもしれない。仮に景任の生年を1030年とした場合でも、景光に至るまでの各親子の平均的な年齢差は90÷4=22.5となり、十分妥当と言える。

 

さて、前述したように正治2年の段階では「小次郎」と呼称されていた行光だったが、「大系図」には「中務丞」と注記されており、今野氏は『吾妻鏡』承久4(1222=貞応元)年正月7日条の「工藤中務次郎長光」を、同系図での中務丞行光の子・工藤長光(ながみつ)に比定されている*16。すなわち1222年の段階で景光の孫・長光元服済みであったことが窺え、その生年は遅くとも1200~1210年頃と推測される。すると景光長光の年齢差は80代以下となるから、祖父―孫の関係として適切な数値と言えよう。

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▲【図B】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図*17

 

脚注

*1:武家家伝_奥州工藤氏武家家伝_伊東氏 および 今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115(=【図B】)により作成。

*2:仁和元(885)年に62歳で卒去したとの記載があり(→ 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション)、逆算すると824年生まれ。

*3:他にも実際の史料として、讃岐介在任中の貞観9(867)年に作成した申文である「讃岐国司解藤原有年申文」が現存している。藤原有年 - Wikipedia より。

*4:吾妻鏡入門第廿四巻九月 より。

*5:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.69。

*6:曾我兄弟に討たれたことは『吾妻鏡』同日条にもその記事がある。

*7:注5前掲「大系図」P.70。

*8:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*9:工藤景光(くどう かげみつ)とは - コトバンク より。

*10:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.87~88「景光 工藤」の項 より。

*11:本文中の「七旬」は「70歳」の意(→ 七旬(しちじゅん)とは - コトバンク)、「餘」は「余」の異体字(→ 餘 - ウィクショナリー日本語版)。

*12:現代語訳は 吾妻鏡13巻建久4年5月 より。

*13:前注に同じ。

*14:更にもう1箇所、嘉禎3(1237)年7月19日条にも「工藤景光」が現れるが、これは頼朝時代を回想する形での登場である。

*15:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*16:注1前掲今野氏論文 P.112。注5前掲「大系図」P.67。

*17:注1前掲今野氏論文 P.115 より。