Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

千葉氏胤

千葉 氏胤(ちば うじたね、1335年 または 1337年~1365年)は、南北朝時代の武将。父は千葉貞胤。母は曽谷教信(日礼)の姪・法頂尼と伝わる。通称は千葉新介、千葉介。

 

本土寺過去帳』によると氏胤は貞治4(1365)年9月13日に亡くなったとされ、『増上寺本 千葉系図』・『諸家系図纂』などの系図類では美濃国での病死と伝える*1

本土寺過去帳』を見ると、「千葉介代々御先祖次第」の項目では「第九氏胤 三十一 貞治四年乙巳九月十三日」と書かれているのに対し、中旬(中巻)でのもう1箇所では「十三日 千葉氏胤 貞治四 九月 御年□□」と欠字になっており、以下のように系図類でも異同がある。

増上寺本 千葉系図:同日に41歳

千葉大系図*2:同日に29歳

『諸家系図纂』:貞治2年に31歳

系図纂要:貞治5年に32歳

日付(命日)はどれも一致しており、恐らくは編纂の過程で誤伝・誤写などがあったのではないかと思われる。

このうち『千葉大系図』では、延元2(1337)年5月11日に京都で誕生したとも明記し、没年齢から逆算しても矛盾は無いため、下記参考ページなどではこの説が採用されているが、実際の史料である『本土寺過去帳』の情報も無視はできないと思う。但し過去帳の没年齢から逆算しても1335年生まれとなり、世代的にはさほど変わらない。

 

貞和元(1345)年8月29日に執り行われた天龍寺供養において、後陣の随兵のメンバーに「千葉新介」が見え(『園太暦』・『師守記』・『結城文書』・『天龍寺供養記録』)*3、『太平記』でこの内容を描く部分(巻24「天竜寺供養事付大仏供養事」)では「千葉新介氏胤」と書かれている*4。これらが史料上での初見とみられ、既に元服を済ませていたことも窺える。尚、「」というのは父 "千葉介" 貞胤との区別で付されたものであり、先立って戦死した兄・一胤*5に代わって「千葉新介」を称していた。

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ここで「」の名に着目すると、千葉氏通字の「胤」に対し、1文字目に戴く「」が烏帽子親からの偏諱とみられる(父・貞胤や兄・一胤(初め高胤)までは代々北条氏得宗家を受け、ほぼ一貫して1文字目に置いていた)。前述の生年に基づくと貞和元年には9~11歳と元服の適齢を迎え、「」は当時の将軍・足利尊(在職:1338年~1358年)*6からの一字拝領と判断して良かろう*7

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子の、孫のにも元服当時の鎌倉公方足利氏足利満から偏諱を受けた形跡が見られる。

 

参考ページ

 千葉氏の一族 #千葉介氏胤

 千葉氏胤 - Wikipedia

 千葉氏胤とは - コトバンク

 

脚注

千葉一胤

千葉 一胤(ちば かずたね、1312年頃?~1336年)は、南北朝時代の武将。父は千葉貞胤。通称は千葉新介。初名は千葉高胤 (たかたね) か。

 

千葉大系図』では貞胤の子、氏胤の兄弟として一胤を載せ、その注記では「」の部分について「」とする別説(「一 作高」)を載せる*1。すなわち別名を「高胤」とするが、これについては当初北条偏諱を受けた「」をのちに「一胤」に改めたものと解釈されており*2、筆者もこれに賛同である。

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一つには、貞胤に至るまで代々北条氏得宗からの偏諱を受けてきたこと(時胤―頼胤―胤宗―貞胤)が挙げられる。一胤(高胤)鎌倉時代末期から存命であったことは確実と言って良いと思うが、下記記事で紹介の通り、胤貞(貞胤の従兄)の次の肥前国小城郡地頭として実在が確認できるも「高」の字を受けた形跡があるから、「千葉介」を継承する千葉氏嫡流となっていた貞胤の嫡子が高時の一字を受けなかったとは考え難い。 

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そして、こちら▲の記事で紹介の通り、鎌倉幕府滅亡後には高時からの「高」字を棄てて改名した者が少なからずいたことが確認され、一胤(高胤)もその一人であったと考えて何ら問題は無いと思う。

★(参考)鎌倉期の千葉両家系図

      肥前千葉氏】
千葉頼胤―+―宗胤――胤貞――小太郎高胤
     |      
     |【下総千葉氏(千葉介家)】
     +―胤宗――貞胤――新介高胤(一胤)

https://chibasi.net/souke17.htm より引用)

 

太平記(巻15「三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事」)には、建武3(1336)年正月16日、南朝方の新田義貞軍に属していた「千葉新介」が、足利尊氏方の細川定禅と合戦に及んで矢で討たれ*3、『梅松論』ではそれより間もない三条河原での戦いにて「千葉介」が新田家臣の「船田入道由良左衛門尉*4」と共に討ち取られたとする*5通称名に若干の違いはあるが、「」というのは父 "千葉介" 貞胤との区別で付されたものであり、当時の千葉介であった可能性を暗示する。

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こちら▲の記事で紹介の通り、貞胤は観応2(1351)年に亡くなったと伝えられるので、『梅松論』において討ち取られたとする「千葉介」は貞胤とは別人とみなすべきである

また貞胤が存命であった貞和元(1345)年8月29日には、天龍寺供養における後陣の随兵のメンバーに「千葉新介」が見える*6が、これは『太平記(巻24「天竜寺供養事付大仏供養事」)で明記の通り「千葉新介氏胤*7に比定すべきであり、前述の討たれたという「千葉新介」はこの氏胤とも別人とすべきである

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よって、建武3年正月に討たれたという「千葉新介」および「千葉介」は、『千葉大系図』において同月13日〔ママ〕三井寺で戦死と注記される一胤に比定される。

太平記』や『梅松論』は元々軍記物語ではあるが、正月16日に三井寺(園城寺)で合戦があったこと自体は実際の書状でも確認ができる*8ので、千葉一胤の討死も含め、実際の史実に基づいて描かれたと考えて良いと思われる。

 

ところで、『千葉大系図』での注記を再度確認すると「貞胤之(の)嫡子」として下総介に任じられたが、氏胤の下に列せられた故に家督を継がなかった、とある。しかし、前述の通りその後の注記では一胤が建武3(1336)年戦死とする一方、同系図の氏胤の注記には延元2(1337)年の誕生とあり、一胤の死後に氏胤が生まれたことになる。また、「嫡子」とは家督を相続する者の意味であるから、その者が誰かより格下で家督を継げなかったというのは明らかに矛盾しているし、同じ時を生きていない一胤・氏胤が家督を争える筈もない*9

千葉介」を継承できたということは、注記の最初にある通りでやはり「貞胤之嫡子」だったのであり、故に時の偏諱を受けたのである。

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父・貞胤については1292年生まれと判明しており、現実的な親子の年齢差を考えれば、一胤(高胤)の生年は早くとも1312年頃と推定可能である。仮に1312年生まれとすると、北条高時が執権を辞して出家した正中3(1326)年*10の段階で15歳とちょうど元服の適齢に達する。よって、元服が通常10代前半で行われることから考えて、一胤(高胤)の生年は1312~1316年あたりとするのが妥当であると思う。高時執権期間(1316年~1326年)*11内の元服であったことが確実となり、「」の偏諱を受けたと考えて差し支えない。

 

『伊勢光明寺残篇』を見ると、鎌倉幕府滅亡に至るまでの一連の戦い(元弘の乱)において父・貞胤と思われる「千葉介」が幕府側として従軍して参加しており、滅亡の直前、元弘3(1333)年4月のものと思われるリストにも「千葉介 一族伊賀国」が含まれている*12。詳細な名前は記されていないものの、この「一族」の中に一胤(高胤)も含まれていたのではないかと思われ、以後父と動向を共にして建武政権に従ったとみられる。

 

参考ページ

 千葉氏の一族 #千葉新介一胤

 千葉一胤 - Wikipedia

 

脚注

*1:『千葉大系図』下巻『大日本史料』6-2 P.1015

*2:千葉氏の一族 #千葉新介一胤

*3:『大日本史料』6-2 P.999

*4:実名不詳。由良具滋(新左衛門)の父と思われる。

*5:『大日本史料』6-2 P.1004

*6:大日本史料』6-9 P.249275278287304306

*7:『大日本史料』6-9 P.315

*8:『大日本史料』6-2 P.993~の各史料を参照のこと。

*9:氏胤の生年については『本土寺過去帳』での没年齢により1335年の可能性もあるが、それでも翌年に亡くなる一胤と家督を争うには無理がある。この頃貞胤が千葉介を譲るにしても、幼少の氏胤よりは、長男・一胤の方が適していたことは言うまでもなかろう。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*11:前注同箇所。

*12:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

千葉高胤

千葉 高胤(ちば たかたね、1310年頃?~1334年?)は、鎌倉時代末期の武将、御家人千葉胤貞の最初の嫡子とみられる。通称は千葉小太郎。

 

『神代本 千葉系図』には胤貞の子として小太郎 高胤の記載が見られ*1肥前国小城郡の雲海山岩蔵寺に所蔵されていた『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳(=『岩蔵寺過去帳』※焼失)にも、同郡の代々の地頭として「常胤胤政成胤胤綱時胤泰胤頼胤宗胤明恵 後室尼胤貞高胤胤平、直胤〔=貞胤カ〕、胤直〔=胤貞(再承)カ〕胤継(胤平弟)胤泰」と名を連ねている。

 

ここに記されるのは千葉氏の歴代当主宗胤以降はいわゆる九州千葉氏)やその代行者であるが、胤貞と胤平の間に「高胤」が小城郡地頭であったことは注目に値する。というのも、次の史料にある通り胤貞が、嫡子であることを理由に胤平に所領を譲る旨の書状を遺しているからである。

 

【史料1】建武元(1334)年12月1日付「千葉胤貞譲状」(『中山法華経寺文書』:『千葉県史料』収録)*2

ゆつりわたす(譲り渡す)所りやう(所領)の事
右、ひせん肥前の国小城郡下総国千田・八幡両庄内知行分のそうりやう(惣領)職、嫡子たるによりて孫太郎胤平に限、永代所譲渡也。庶子に分譲分ハ、か(彼)の状にまかせて、いらん(違乱)あるへからす(あるべからず)、乃譲状如件
 建武元年十二月朔日 胤貞(花押)

小城郡のほか、下総国千田庄・八幡庄内の所領を胤平に譲るとした内容で、当然ながらこの時小城郡地頭の座も胤平に渡る筈だが、前述の過去帳に加え、次の史料により同郡地頭として高胤が実在であったことが認められよう。尚、署名の「」というのは、千葉氏が桓武平氏良文流で姓であったことによる(『尊卑分脈』など)

 

【史料2】「平(千葉)高胤寄進状」(『中山法華経寺文書』:『千葉県史料』収録)

肥前国小城郡東方内高胤手取内田地伍町在地令進之候、恐々謹言
 八月十三日 平 高胤 上(花押)
  進上 中山殿 *日祐上人のことか。

これらの史料から、胤貞の次に小城郡地頭の座を継いだのは高胤であったが、恐らくは早世したため、改めて弟の胤平が嫡子に定められ、所領およびその惣領職が譲られたものと推測される。この推測が正しければ、高胤は【史料1】が出された建武元(1334)年12月以前に亡くなったことになる。

 

父の胤は正応元(1288)年、父(高胤祖父)宗胤の下向先の小城郡円明寺辺りで生まれたとされるが、正安3(1301)年の北条貞時出家以前には鎌倉に入って時の偏諱を受け元服し、以後鎌倉に居住していたと考えられている*3。従って、高胤や胤平も鎌倉または下総千田庄で生まれ育った可能性が高い*4。現実的な親子の年齢差を考慮すれば早くとも1310年頃の生まれとするのが妥当だと思う。

元服は通常10代前半で行われることが多かったから、その時期は14代執権・北条の在任期間(1316~1326年)*5内であった可能性は濃厚で、「」の名もその偏諱を受けたものとみなして良いだろう*6

 

尚、高胤に関する史料としては【史料2】の他にも、『一期所修善根記録』に「高胤聖霊*7、『祐師文書事』日祐自筆文書目録)にも前掲【史料2】を指すと思われる「高胤御寄進状一」の記載が見られる*8

 

参考ページ

 千葉氏の一族 #千葉高胤

 千葉高胤 - Wikipedia

 

脚注

*1:『大日本史料』6-3 P.896。尚、同系図では高胤の兄として小太郎胤高を載せるが、仮名が同じであることや実名の類似から恐らくは重複ではないかと思われる。

*2:千葉氏の一族 #千葉胤平 より。

*3:千葉胤平千葉胤貞 より。

*4:千葉胤平 より。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:千葉氏の一族 #千葉高胤 より。

*7:『大日本史料』6-40 P.432

*8:『大日本史料』6-40 P.447

北条宗政

北条 宗政(ほうじょう むねまさ、1253年~1281年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。北条氏得宗家の一門。北条時頼の子(準嫡子)、北条時宗の弟。子に10代執権・北条師時(四郎)北条時信(五郎)*1政助頼助弟子)北条忠時(万寿、十郎)*2などがいる。

幼名は福寿(ふくじゅ)または福寿丸。通称は相模四郎、武蔵守(武州)。法名道明(どうみょう)

 

尊卑分脈(以下『分脈』と略記)・『関東評定衆伝』・『弘安四年鶴岡八幡遷宮記』*3等によると、宗政は弘安4(1281)年8月9日に29歳で亡くなったと伝えられ*4、逆算すると建長5(1253)年生まれとなる。

ここで『吾妻鏡』を見ると、同年正月28日条に「相州(=相模守時頼)……男子」生誕の記事があり*5、これが宗政に比定される。尚、2月3日には「相州新誕若公名字」が「福寿」に定まったといい*6、これが宗政の幼名と分かる。

吾妻鏡』ではその後、正元2(1260)年正月11日、8歳で将軍・宗尊親王鶴岡八幡宮参詣に供奉したという記事において、「相模太郎時宗に次いで「(相模)四郎宗政」の名で登場しており*7、この段階では既に元服を済ませていたことが窺える。

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こちら▲の記事で紹介の通り、時宗は康元2(1257)年に7歳で元服しており、森幸夫・高橋慎一朗両氏は宗政も同じく7歳であった前年(正元元(1259)年)に元服を遂げたのではないかと推測されている*8が、筆者もこれに賛同である。

 

前述の通り、時宗は長男ではなかったものの、曽祖父で3代執権の北条泰時の仮名に因んだものか、「太郎」を称しており、以後 "相模太郎"邦時(『分脈』・『太平記』etc.)に至るまでの得宗嫡子時宗―貞時―高時―邦時)が代々称したと思われる。一方で宗政の仮名「四郎」は、元々北条時政・義時(江間小四郎)、そして伯父で4代執権の北条経時(弥四郎)が称していたものであったが、高時の弟・泰家の例を踏まえると、時頼以降の得宗においては嫡子に次ぐ庶子(準嫡子と呼ぶ)に与えられる仮名であったと推測される。実際、前述の正元2年正月11日条では「相模太郎(=時宗 同四郎宗政 同三郎時利(=のちの時輔)*9の順で記されている。

 

ここで、北条氏得宗家における男子の烏帽子親について、その前例を見てみたい。

北条義時の長男・泰時(初め江間太郎時)は本来、庶長子であったが、義理の伯父でもある初代将軍・源朝に気に入られて「」の偏諱を賜り、最終的には義時の後継者となった。義時の嫡男正室の長男)であり、3代将軍・源実の1字を受けたが、実朝の怒りを買ったために義時からも義絶されると、代わって(のちの実泰)朝の偏諱を受けている。

父・も本来、兄・に対する北条時氏庶子であったが、それでも "準嫡子" 格であったためか、同じく4代将軍・九条頼経の加冠および偏諱を受けた。

このように、得宗家では嫡子とそれに準ずる存在を用意して、その両名が将軍を烏帽子親にすることを慣例としたと思われる。従って、も嫡兄・時に同じく6代将軍・親王偏諱を受けたのではないかと推測される。一方の「」は「四郎」と連動して初代執権の時にあやかったものであろう。 

 

(参考ページ)

 北条宗政 - Wikipedia

 

脚注

北条宗頼

北条 宗頼(ほうじょう むねより、1246年頃?~1279年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。北条氏得宗家の一門。北条時頼庶子(庶長子か?)。母については弘安8(1285)年9月晦日付『豊後国図田帳』*1の中に見える「相模七郎殿母御前辻殿」が該当すると考えられている*2が、「相模七郎」は長男・兼時の可能性も考えられる(後述参照)ので要検討である。幼名は曼珠王(『野津本北条系図』)*3。通称は相模七郎、相模修理亮。

 

 

宗頼の初見史料 

死没の時期については、『尊卑分脈』、『諸家系図纂』、『一代要記』、『関東開闢皇代并年代記事』所収「関東執権六波羅鎮西探題系図」の各史料・系図類で、弘安2(1279)年6月と一致している*4

一方、生年については1259年とする説がある*5が、細川重男も兄・宗政が弘安4年に29歳で亡くなっている*6ことを理由に、弘安2年における宗頼の没年齢も20代後半以下であったと推測されており*7、事実上この説を支持する形となっている。

しかし、そうすると文永元(1264)年生まれの長男・兼時*8が、宗頼が僅か6歳(数え年,満年齢だと4~5歳)の時の子となってしまう矛盾が生ずる。

 

他方で同じく細川氏は、翌文応元(1260)年、6代将軍・宗尊親王が二所詣のため北条重時邸に入御した際の供奉人を記した次の記事を史料上での初見とされる*9。すると、生年を1259年とするのは無理と言える

【史料A】『吾妻鏡』文応元(1260)年11月21日条より

文應元年十一月大廿一日甲申。将軍家依可始二所御精進御。中御所入御陸奥入道*亭。
供奉人
 相摸大〔太〕 同四郎重政〔ママ、宗政の誤記か〕

 同三郎時利   同七郎宗頼
(以下略) 

*陸奥入道=前連署北条重時法名:観覚、最終官途:陸奥守)。

 全23名の供奉人中、時頼の息子としては、次兄・相模太郎 時宗(10)、三兄・相模四郎 宗政(8)、長兄・相模三郎 時利(のちの時輔)(13) に次いで四位にあり、細川重男は「四郎」を称する宗政が8歳で、かつ供奉人となり得たことから、当時宗頼は5~6歳程度であったのではないかと推測されている*10

しかし、「(相模)七郎宗頼」と書かれていることからこの段階で既に元服済みであったことは明らかで、時輔が9歳、時宗が7歳で元服し、時宗に次ぐ準嫡子であった宗政についても7歳で元服したのではないかと考えられていることから、彼らに準ずる扱いを受けていた宗頼が5~6歳で元服を済ませていたとは考えにくく、【史料A】の段階では7歳以上であったと考えるのが妥当ではないかと思われる。

*「相模七郎」という通称名は、父が相模守で、その「七郎(本来は7男の意)」であったことを表すものである。この頃の相模守として該当し得るのは北条時頼北条政村である*11が、政村の息子のうち政方が「相模七郎」を称したらしい*12ので、相模七郎宗頼の父たる相模守はやはり時頼しかあり得ないだろう。後述するが長男・兼時(相模守時宗の猶子)が「相模七郎」を称したのと同様に、実は時頼の猶子であった可能性も一応は考えるべきかもしれないが、いずれにせよ時頼―宗頼の間に親子関係が成立していたことは揺るがない。

 

また、『鎌倉年代記』嘉暦元(1326)年条によると、第16代執権となった赤橋守時の注記に「修理亮宗頼」とあり、守時の母が宗頼の娘であったことを伝える。『北条時政以来後見次第』東京大学史料編纂所架蔵影写本)では宗頼の長男・兼時の娘と記すらしいが、細川氏は永仁3(1295)年に、当時32歳であった兼時の娘(現実的に考えると12~14歳程度か)が守時を生むのには無理があるとして、『鎌倉年代記』の方が信憑性が高いとしている*13。或いは兼時の "姉" または "妹" の誤記なのかもしれない。

いずれにせよ、細川氏の言われる通り、現実的な親子の年齢差を考えるならば、守時母は1275年頃より前の生まれ、そしてその父・宗頼の生年は1255年以前であったと考えるべきであろう。これによっても1259年生年説が成り立たないことが分かる。

 

 

宗頼の息子と生年についての考察

長男・北条兼時について

次に触れておきたいのが、宗頼の息子である。前述の守時母の女子以外に、系図類では北条兼時北条宗方の2名が確認できる。

細川氏の研究によると、兼時は文永元(1264)年*14、宗方は弘安元(1278)年*15の生まれであるという。兼時については『武家年代記』弘安8(1285)年条に「正応二六廿六従五上廿七才、(=正応2(1289)年当時、数え27才)と記すのに従った場合、弘長3(1263)年生まれとなるが、いずれにせよその頃の生まれであった可能性は高いのではないかと思われる。

 

その裏付けとして、弘安4(1281)年閏7月11日付「関東御教書」(『東寺文書五常』)*16中に「相模七郎時業」の記載があり、前3(1280)年のものとされる書状2通(ともに『山城醍醐寺文書』所収)*17中の「相模七郎」も時業に比定されるが、この「時業」は宗頼の長男・兼時の初名と判断され*18宗頼の死から間もないこの頃では、兼時(時業)は既に元服を済ませていたことが窺える。前述の生年に基づけばこの当時17~19歳となり、元服から数年経った年齢として妥当である。

よって宗頼の長男・兼時の生年は1264年で問題ないと判断される。

 

修理亮任官時期と生年の推定 

「時頼(1227年生*19 )―兼時(1264年生)」の「祖父―孫」間、37年の年齢の開きがあるので、「時頼―宗頼」、「宗頼―兼時」各々の年齢差をほぼ均等にすると18, 19歳と算出でき、親子の年齢差としては問題ない。すると、宗頼の生年は1246年頃と推定でき、初見の1260年当時は15歳と元服適齢期となるので、元服を済ませたばかりのタイミングとしては十分妥当ではないかと思う。時頼の庶長子とされてきた北条時輔は宝治2(1248)年生まれであり*20、1246~47年生まれというのが本当であれば、宗頼が時輔より早くに生まれた時頼の庶長子であった可能性が高くなる。少なくとも、建長3(1251)年生まれの時宗*21、建長5(1253)年生まれの宗政*22より年長だったのではないかと思う。 

 

宗頼の最終官途が修理亮従五位下相当)*23であったことは『尊卑分脈』や『諸家系図纂』等の系図類に記されるだけでなく、『鎌倉年代記』での守時の注記(前述参照)や、当時の書状類でも確認ができる(後述参照)。得宗家での前例としては、曽祖父の泰時が29~34歳の間、修理亮であったことがあり*24、祖父の時氏も25歳の叙爵時に修理亮への任官を果たし*25、そのまま28歳で早世した*26。従って宗頼の修理亮任官年齢も同様に20代後半以上であったと考えるのが妥当であろう

また、参考までに時氏以降の叙爵年齢を確認してみると、第4代執権・北条経時が14歳*27、初めはそれに次ぐ準嫡子の地位にあった父・時頼が17歳*28であり、その息子たちは、時宗が11歳*29、宗政が13歳*30、時輔が18歳*31であった。宗政と時輔は同月での叙爵であり、嫡子・準嫡子以外の庶子の昇進は遅かったことが窺える。そして、時輔より格下に位置付けられる宗頼は18歳以上での叙爵であったと判断できよう

 

ここで宗頼の修理亮在任時期を確認しておきたい。

吾妻鏡』では【史料A】以降、文永3(1266)年7月4日条までに17回登場するが、その呼称は一貫して「相模七郎 (宗頼)」であった*32

その後、文永11(1274)年5月29日付「北条宗頼書状写」(『肥後阿蘇文書』)の発給者の署名は「修理亮宗頼」となっており*33、翌建治元(1275)年のものと推定される次の史料での「相模修理亮殿」も宗頼に比定される*34

【史料B】「諸国守護職注文」東大寺図書館所蔵『梵網経戒本疏日珠抄 紙背文書』)*35より

(前欠)

 本給人 信濃判官入道*1  

長門国

 本給人 周防前司*2   相模修理亮殿

周防国          

 本給人 大友出羽前羽〔ママ、出羽前司カ〕*3  (異筆)「北六ハラ殿」

筑後国        武蔵守殿*4

……(以下略)

 

*1:二階堂行忠 *2:藤原親実 *3:大友頼泰 *4:北条宗政

『長門国守護代記』にも「十七. 相模修理亮殿宗頼 建治二年正月十一日当国下着 代官太郎殿頼茂」と記されており、宗頼の修理亮任官は1266~1274年の間であったと推定可能である。ちなみに通称名は「相模」が前述に同じく父・時頼の最終官途で、自身が修理亮であったことを表すものである。仮に、間を取って1270年に泰時や時氏に同じく20代後半で任官した場合、逆算すれば1240年代後半の生まれとなり、これより時期が大幅に下ることは考えにくいと思う。

従って、以上の考察により宗頼の生年は1246年頃と推定するのが妥当ではないかと思う。 すなわち、系図類では時頼の末子として扱われていたが、実は庶長子であった可能性が出てきた

 

 

烏帽子親について

最後に「」という実名について考察してみたい。

」は言うまでもなく父・時の1字を継承したものと見受けられるので、1文字目に掲げる「」が烏帽子親からの偏諱である可能性が極めて高い。系図を見れば、兄弟でも時政がこの字を得ており、特に時の加冠役が将軍・尊であったことは次の記事で紹介の通りである。

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時頼の子の元服については、建長8(1256)年に時輔(幼名:宝寿、初名:時利)が9歳で行ったものの、翌年(1257年)には時宗(幼名:正寿)も僅か7歳で元服を遂げたことが『吾妻鏡』に記録されている。

*『吾妻鏡』により判明しているだけでも、北条氏得宗家における前例として、泰時(初め頼時)・朝時が13歳、経時時頼がともに11歳であった。他には朝時の異母弟、政村・実泰が各々7歳での元服であったが、これは義時の継室の子であったためであろう

前述の推定生年からすると、時宗が生まれた1251年当時宗頼もまだ幼少であったと考えられ、時宗誕生に伴って早くより家督継承者からは外されていたとみられる。従って、宗頼の元服は、時輔や時宗とほぼ同時期に行われたとみて良いのではないか。時輔が元服を遂げた1256年の段階では11歳位となり、父・時頼のケースとほぼ同年齢での元服だったのかもしれない。

北条義時の息子で泰時(時)・時・泰が源氏将軍の偏諱を賜った前例を踏まえると、時政・頼も皆、将軍・親王偏諱を受けたのではないかと推測される。

但し、宗頼が庶長子であったとして、【史料A】等で弟・時輔より下位に置かれた理由、それに反して宗尊の「宗」字を受けられた理由、またその仮名が(間の「次郎」「五郎」「六郎」ではなく)七郎」となったのかなど、まだまだ疑問の余地を残す部分はあるが、これについては後考を俟ちたいところである。

 

(参考史料) 

kijima.lib.kumamoto-u.ac.jp

 

脚注

*1:内閣文庫所蔵。『鎌倉遺文』第20巻15701号。

*2:川添昭二北条時宗』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2001年)P.14。高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.224。渡辺澄夫「二豊の荘園について(一) ―豊後国図田帳を中心として―P.55。

*3:前注高橋氏著書 同箇所。尚、高橋氏は「曼寿」または「萬寿(万寿)」の当て字である可能性も指摘されている。

*4:『編年史料』後宇多天皇紀・弘安2年6~8月、P.5。注2前掲川添氏著書 P.243。

*5:北条宗頼(ほうじょう むねより)とは - コトバンク。「関東執権六波羅鎮西探題系図」での宗頼の注記「字相模七郎」「本名宗長 為異国警固下向長門国 弘安二六五於彼国卒年廿一 于時修理亮」(=弘安2(1279)年6月、年21才で卒去、→『編年史料』後宇多天皇紀・弘安2年6~8月、P.6)に従って逆算すると1259年生となり、これに拠ったものか。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その11-北条宗政 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)も参照のこと。

*7:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.290。

*8:北条兼時(2)(ほうじょう かねとき)とは - コトバンク 参照。

*9:注7前掲細川氏著書 P.51 注(30)。『吾妻鏡人名索引』P.314「宗頼 北条」の項。

*10:注7前掲細川氏著書、同箇所。

*11:相模国 - Wikipedia #相模守 より。尚、時頼の前任者であった北条重時は相模守から転任した陸奥守が最終官途である。

*12: 政村流北条氏 #北条政方 より。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その30-赤橋守時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その15-北条兼時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その16-北条宗方 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*16:『鎌倉遺文』第19巻14388号。

*17:『鎌倉遺文』第18巻14031号、14032号。

*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その15-北条兼時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は「六波羅守護次第」(→ 熊谷隆之「<研究ノート>六波羅探題任免小考 : 『六波羅守護次第』の紹介とあわせて」(所収:京都大学文学部内・史学研究会編『史林』第86巻第6号)P.102(866) も参照のこと)。また、「入来院本 平氏系図」でも普音寺業時の娘(時兼の妹)の注記に「兼時室 本名時業」とあり、該当し得る人物は宗頼の子、宗方の兄として掲載の兼時である(山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.10、16)。

*19:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その10-北条時輔 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その11-北条宗政 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*23:修理の亮(しゅりのすけ)とは - コトバンク より。

*24:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*25:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*26:『吾妻鏡』寛喜2(1230)年6月18日条

*27:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。嘉禎3(1237)年2月、左近将監任官の翌日。

*28:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。寛元元(1243)年閏7月、左近将監に任官の時。

*29:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。弘長元(1261)年12月、左馬権頭に任官の時。

*30:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その11-北条宗政 | 日本中世史を楽しむ♪ より。文永2(1265)年4月、右近将監に任官の時。

*31:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その10-北条時輔 | 日本中世史を楽しむ♪ より。文永2(1265)年4月、式部丞に任官の時。

*32:吾妻鏡人名索引』P.314「宗頼 北条」の項。

*33:『鎌倉遺文』第15巻11662号。

*34:永井晋「北条実政と建治の異国征伐」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』〈八木書店、2008年〉第2章-第1節)P.302。【史料B】本文および人物比定もこれに拠った。

*35:横須賀市史 史料編 古代・中世1』一三七五号。

矢部禅尼

矢部禅尼(やべぜんに、1187年頃?*1~没年不詳)は、鎌倉時代前期から中期にかけての三浦一族の女性。俗名は不詳。法名禅阿(ぜんあ)鎌倉幕府の有力御家人三浦義村の娘。三浦泰村三浦光村の姉にあたる。

 

 

2回の結婚と息子たち

まず、三浦氏の系図類における義村女子の一人の注記を掲げてみよう。

『諸家系図纂』:「号矢部尼、北条泰時室、時氏母、後嫁悪遠江守盛連光盛盛時時連三人母、」*2

系図纂要:「矢部禅尼、北条泰時朝臣室、後佐原盛連室」*3

『佐野本 三浦系図:「母同上(=長兄・朝村に同じく土肥弥太郎遠平女)北条武蔵守泰時室、号矢部禅尼、修理亮時氏母、後離別、再嫁佐原遠江守盛連、生会津遠江守光盛三浦介盛時蘆名判官時連、」*4

 

北条時氏(最終官途:修理亮)の側でも、『諸家系図纂』では「三浦義村」、系図纂要では「母矢部禅尼、三浦義村*5とあるなど複数系図類で注記が見られるほか、『鎌倉年代記』にも「駿河守泰村〔義村の誤記*6」とある*7

 

すなわち、三浦義村の娘の一人が初め北条泰時に嫁いで時氏を産み、離別後は佐原盛連(父・義村の従弟にあたる)に再び嫁いで光盛盛時時連を産んだということになる。この根拠となる史料が『吾妻鏡』にある次の記事である。

【史料A】『吾妻鏡』嘉禎3(1237)年6月1日条*8

六月大一日庚辰、矢部禅尼 法名禅阿和泉国吉井郷御下文之事、前遠江守盛連依令譲附也。彼御下文、五郎時頼、被持向三浦矢部別庄云々。是駿河前司義村娘也。始為左京兆室、故修理亮。後為盛連室、為光盛盛時時連等母云々。

『明月記』によると、「関東遠江守」(=盛連)は天福元(1233)年5月22日に官兵の静止を無視して上洛を強行しようとして殺害されたといい*9、【史料A】は幕府が矢部禅尼に対し、亡き夫・盛連の遺領である和泉国吉井郷を給与するといったものである。この記事の後半には、先に述べた矢部禅尼についての説明がある。

尚、この時には、夫の死を悼んでのことであろうか、出家して尼になっていたことも窺える。この当時も幕府の執権は泰時であり、離縁したとはいえ前妻であった矢部禅尼に対し寛大な処置を施したのであろう。

 

泰時との離縁の時期について

ここで矢部禅尼が泰時と離縁した時期について考察してみたい。

まず、泰時とは建仁2(1202)年8月23日に結婚し*10、間に生まれた長男・北条時氏の生年は翌3(1203)年と判明している*11から、これ以後ということになる。

一方、泰時の次男・時実(通称:武蔵次郎)については、母が安保実員(七郎左衛門尉)の娘と伝えられ(『諸家系図纂』)*12、嘉禄3(1227)年に家人の高橋次郎光繁(『前田本 平氏系図』ほか)に殺害された当時16歳であったといい(『吾妻鏡』・『鎌倉年代記』)*13、逆算すると建暦2(1212)年生まれと分かる。

この女性は泰時の継室であったといい、『佐野本 北条系図』によると早世した三浦泰村継室の母でもあったとも伝えられ*14、泰村に嫁いだ娘は元久3/建永元(1206)年生まれと判明している*15

すなわち、矢部禅尼が泰時と離縁させられたのは1203~1206年の間であったことになる。従って同時に、盛連と再婚して光盛・盛時・時連らを産んだのは1203年より後であることも確定する

 

 

再嫁後の息子たち

前述の通り、2番目の夫・盛連は天福元(1233)年に亡くなっており、光盛・盛時・時連らは同年までに生まれていなければおかしい。実際『吾妻鏡』での初見箇所も、光盛が嘉禎3(1237)年正月1日(「佐原新左衛門尉」)*16、盛時が貞永元(1232)年正月1日(「佐原五郎左衛門尉」)*17、時連が文暦元(1234)年正月1日(「佐原六郎兵衛尉」)*18となっており、左衛門尉や兵衛尉の官職を得ていることから、遅くとも1220年頃までには生まれていたと判断できる。

このうち盛連は、父・盛連の1字と「」字で実名を構成している。「」は言うまでもなく執権・北条氏の通字であり、実際に北条氏から一字を拝領したものとみられる。三浦氏佐原流では三浦義(盛連の父)北条時房(初め時の烏帽子親を務めて「」の字を与えた事例があり*19、自身の離縁後にも父・義北条政(泰時の異母弟)*20、元夫・時が年の離れた弟・村の加冠役となる*21など、北条・三浦両氏間で偏諱のやり取りが盛んに行われていたことが窺える。

泰村の例も踏まえると、矢部禅尼が息子たちの加冠を泰時に願い出ることは割と容易だったのではないか。泰時は元仁元(1224)年から3代執権となっており*22、息子たちの元服当時の執権となる可能性が高い。盛連の「」は泰からの偏諱であったと推測される。

こうした考察を踏まえると、離婚後も泰時との関係は良好であったと考えられ、離縁の理由は夫婦仲ではなく、政治的な思惑が絡んでいた可能性が高いとみられる。

 

 

北条時頼の「祖母」について 

 『吾妻鏡』康元元(1256)年4月10日条には、「武州前刺史禅室(=北条泰時後室禅尼」が食欲不振の病気によって70歳で亡くなり、執権・時頼(相模守)が50日の喪に服したという記事がある(逆算すると文治3(1187年)年生まれ)*23。言うまでもなく自身にとっての「祖母」だったからであろう。時頼は同年11月に執権を辞して出家した*24が、正嘉2(1258)年3月20日にもこの女性の3年忌法要を建長寺にて行っている*25

吾妻鏡人名索引』*26矢部禅尼 - Wikipedia などではこの女性を矢部禅尼のこととされているが、泰時の最終的な正室としては前述の継室(安保実員娘、谷津殿*27)が当てはまるのではないか

確かに血縁上は時頼の実の祖母は矢部禅尼であるが、前述の内容も踏まえると時頼が生まれた段階では既に離婚しており、時頼が直接 "祖母"と呼べる人物は谷津殿であったと考えられる。時頼は数え4歳で父・時氏を亡くした後、養育者として母の松下禅尼安達義景の妹)*28が存命でありながら、祖父・泰時からも大変気に入られていたようである*29が、その泰時の当時の継室(谷津殿)も時頼に少なからず影響を与える存在だったのではないか。

従って『吾妻鏡』での以下箇所については、禅阿(矢部禅尼)に比定する『吾妻鏡人名索引』での一部見解は誤り(泰時との結婚記事および【史料A】は除く)で、全て谷津殿を指すものと見なすべきである。

 

【表B】泰時継室安保氏(谷津殿)の登場箇所

月日 表記
寛喜元(1229) 2.2 武州
8.15 武州
寛喜3(1231) 3.1 (国司)室家
暦仁元(1238) 1.2 室家
2.3 左京兆室
建長8(1256) 4.1 武州前刺史禅室後室禅尼卒去
7.6 前武蔵禅室後室禅尼(葬儀)
正嘉2(1258) 3.2 前武州禅室御後室(3回忌)

*すると、1187~1256年を生きた泰時の妻は安保氏であったことになり、矢部禅尼の生没年は不明となるが、父・義村が1168年頃の生まれと推測され*30、前述の通り長男・北条時氏が1203年生まれであることを踏まえれば、神奈川県ホームページが示す1187年頃の生まれというのはほぼ妥当な推定で、世代的には従来の説とさほど変わらない。

 

では、矢部禅尼と時頼が全くの無関係だったかというと、そういうわけではない。【史料A】にあるように和泉国吉井郷を給与する旨の「御下文」を当時11歳の五郎時頼が三浦矢部の別荘まで持っていっており、その折に実の祖母と直接対面したと推測される。

宝治合戦(1247年)の折、盛連の息子たちは6人(経連・広盛・盛義・光盛・盛時・時連)とも、宗家の泰村ではなく時頼の許に参じた。「匠作(=時氏)の旧好を重んじ」たためであったという。前述の内容を踏まえるとこの当時矢部禅尼が存命であったかは分からないが、時氏や時頼の話は息子たちに語っていたであろう。

 

こうして矢部禅尼は、2回の結婚によって北条・佐原両氏が自身の血を引くこととなり、両氏を繋ぐ役割を果たしていたのであった。泰村らが滅んだ後、時はその甥でもある盛時に「三浦介」家再興を許し、従弟にあたる(盛時の子)(時連の子)には「」の偏諱を与えたのであった。

 

脚注

*1:三浦一族に関する人物紹介 - 神奈川県ホームページ より。

*2:『大日本史料』5-14 P.407

*3:『大日本史料』5-22 P.118

*4:『大日本史料』5-22 P.137

*5:『大日本史料』5-5 P.756 

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。【史料A】にもある通り駿河守は義村の官途であり、若狭守となった泰村のそれではない(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その113-三浦泰村 | 日本中世史を楽しむ♪)。

*7:『大日本史料』5-5 P.755

*8:『大日本史料』5-11 P.263

*9:『大日本史料』5-9 P.63

*10:吾妻鏡』同日条に「江馬太郎(=泰時)殿、嫁三浦兵衛尉(=義村)女子」とある。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*12:『大日本史料』5-5 P.803

*13:『大日本史料』5-3 P.856857

*14:『大日本史料』5-22 P.147

*15:『吾妻鏡』寛喜2(1230)年8月4日条 に「武州(=武蔵守泰時)御息女 駿河次郎(=泰村)妻室 逝去 年廿五。産前後数十ヶ日悩乱。」とある。『佐野本 三浦系図』によると、この女性は泰村の嫡男・景村や、小田時知の母となった娘などを産んでいる(→『大日本史料』5-22 P.135)。

*16:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.132「光盛 佐原(三浦)」の項 より。

*17:前注『吾妻鏡人名索引』P.294「盛時 三浦」の項 より。

*18:前注『吾妻鏡人名索引』P.216「時連 佐原(三浦)」の項 より。

*19:吾妻鏡』文治5(1189)年4月18日条(→『大日本史料』4-2 P.596)。

*20:吾妻鏡』建保元(1213)年12月28日条(→『大日本史料』4-12 P.949)。

*21:『大日本史料』5-22 P.134

*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*23:『史料稿本』後深草天皇紀・康元元年3~4月 P.48

*24:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*25:『史料稿本』後深草天皇紀・正嘉2年3~5月 P.25

*26:前掲『吾妻鏡人名索引』P.556(女子名索引)「禅阿」の項 より。

*27:伊藤一美「東国における一武士団 ー北武蔵の安保氏についてー」(所収:『学習院史学』9号、1972年)P.29。

*28:『徒然草』第184段 より。

*29:北条時頼 - Wikipedia 参照。

*30:三浦義村 - Wikipedia三浦泰村 - Henkipedia 参照。

徳川慶喜

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ / よしひさ、旧字体:德川 慶喜、1837年~1913年)は、江戸時代の武将。江戸幕府第15代将軍。

 

一橋徳川家譜』によると、弘化4(1847)年、当時の12代将軍・徳川家慶の意向を受け、9月朔日(ついたち=1日)、嗣子の無かった一橋徳川家を相続、12月朔日には家偏諱を受けて元服し「」を称したという*1

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▲2021年NHK大河ドラマ『青天を衝け』初回より

大河ドラマ青天を衝け』の初回終盤でも、徳川斉昭の子・七郎麻呂が当時の将軍である家慶に拝謁。家からは息子に似ていると気に入られたようで、ナレーションで「」の1字を賜った旨が解説された。

尚、『徳川水戸家譜』によると、慶喜と名乗る前、七郎麻呂に次いで(あきむね)を称していたらしい*2。父・斉の1字によるものと思われ、元服前の幼名として名乗っていたのであろう。

慶応2(1866)年、徳川宗家(将軍家)を継ぎ15代将軍となったが、先代・家茂(14代将軍、初め慶福)のように「家○」型への改名は行わなかった。田安家から継いだ16代・家達以降では再び「家」を通字としたが、慶喜以降の徳川慶喜家慶喜―慶久―慶光―慶朝)では「」を代々の通字として用いたのであった。

 

本項では以上一字拝領についての解説のみに留めたい。

その他活動内容については

徳川慶喜 - Wikipedia

などをご参照いただければと思う。

 

脚注