武田貞信
武田 貞信(たけだ さだのぶ、生年不詳(1270年代?)~1347年カ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。武田政綱を祖とする石和流武田氏の第3代当主。父は武田信家(宗信)。妻は安藤左衛門入道の娘か。子に武田政義・武田貞政。通称は三郎。官途は伊豆守か(系図類では甲斐守)。
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こちらの記事▲で紹介している、永仁2(1294)年の成立とされる、白河集古苑所蔵「結城系図」(結城錦一氏旧蔵)には、小山貞朝の母が「武田三郎入道女(=娘)」であったとの注記が見られ*1、市村高男氏はこの「武田三郎入道」を政綱(武田五郎三郎)に比定される*2。文永8(1271)年4月27日、得宗(8代執権)北条時宗より甲斐国甘利庄南方の地頭代に任じられた「武田三郎入道妙意」(『紀州三浦文書』)*3も政綱に比定されよう*4。
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こちら▲の記事で紹介の通り、貞朝の生年は1282年と判明しているので、その従兄弟にあたる貞信も近い世代の人だったのではないか。
『建武記』(『建武年間記』)建武元(1334)年10月14日条には北山殿笠懸射手の1人として「武田石禾三郎政義」が登場しており*5、貞信の嫡男・政義に比定される。その数年前、元弘の乱に際し幕府側に従軍して上洛する「武田三郎」(『伊勢光明寺残篇』)*6も政義であろう。元弘3(1333)年4月のリストでは「武田三郎 一族并甲斐国」とあり、『諏訪大明神絵詞』や『神氏系図』藤沢政頼(諏訪氏一族)の注記中、建武3/延元元(1336)年正月1日の出来事を記す箇所で「甲州守護武田駿河守」と書かれていて*7、政義が鎌倉幕府滅亡前後で甲斐国守護であったこと、建武年間中に駿河守任官を果たしたことが窺える*8。
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こちら▲の記事で考察しているが、鎌倉時代後半期における武田氏の国守任官年齢は40代であったようで、政義が1335年頃にその年齢を迎えていたとすれば1290年代の生まれと推定できる(但し時代を下るにつれ任官年齢が徐々に低下していた可能性もあり、南北朝時代に幼名を名乗っている息子・武田福寿丸との年齢差を踏まえると、1300年代初頭の生まれであったとも考えられる)。親子の年齢差を考慮すれば、その父・貞信は1270年代以前の生まれとすべきである。
また、同記事では『常楽記』元亨4(1324)年10月3日条の「武田伊豆前司(妻が安藤左衛門入道の息女)」を貞信と推定しており、当時伊豆守を辞していたから40代以上と推測され、逆算すると1270~1280年代の生まれと、同様の結果が得られる。
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こちら▲の記事で、貞信の父・宗信(信家)を1250年代の生まれと推定したので、貞信の生年はやはり1270年代とするのが妥当であろう。元服は通常10代前半で行われたから、既にご指摘の通り「貞信」の名は、得宗・北条貞時(執権在職: 1284~1301年)*9を烏帽子親とし、その偏諱を受けたものと見なして問題ないと思う*10。
『尊卑分脈』(以下『分脈』と略記)によると政綱(武田五郎三郎)も宗信(信家、石禾三郎)も「三郎」を称していたようで*11、政義に至るまで政綱(石和)流当主代々の仮名であったと推測される。嘉元の乱(1305年)の折、比留宗広を預かる際の使者を務めた「武田三郎」(『鎌倉年代記』裏書/『北条九代記』)*12は貞信に比定されるのではないかと思われる。
『分脈』での注記によれば、貞信は貞和3(1347)年6月に亡くなったといい、特に否定し得る史料が他に無いため、今のところ信憑性は認めて良いと思われる。但し、南北朝時代の史料に表立って現れている様子は無く、前述したように元弘の乱の段階では嫡男・政義に家督や甲斐守護*13を譲って事実上引退していたのではないかと推測される。
跡を継いだ政義(駿河守)については、その遺児(貞信の孫)武田福寿丸の書状(『八坂神社記録』)によると康永2(1343)年に戦死したという。
次男・貞政(上野介)については、観応3/正平7(1352)年正月日付の「佐藤元清(蔵人)軍忠状」(『伊勢佐藤文書』)、「武田文元(弥六)軍忠状」(浅草文庫本『古文書』4-上 所収)にある「甲州……武田上野介」*14に同定されよう。両書状によると、去る29日(=1351年12月29日)に(足利直義派勢力として)上野介以下の軍勢が七覚寺で退治されたとあるが、降伏して生き延びたのか、同年2月25日の笛吹峠の戦いについて描く『太平記』巻31「笛吹峠軍事」には、武田氏一族に加わって参戦した、貞政と思しき「武田上野守〔上野介か〕」の名が確認できる*15。但しこれ以後の動向は不明である。
そして福寿丸は、父・政義討死の影響であろう、南北朝時代初期に没収された石和御厨の還付を願い出たが、その後は特に史料上に現れていない。元服後の名前が確認できないことからすると、死因は不明ながら夭折した可能性が考えられよう。
貞信が亡くなる前年の段階で既に武田信武が武田氏惣領として扱われていたことが確認され*16、得宗との結び付きによって惣領格を得ていた政綱(石和)流武田氏は次第に衰退の一途を辿り、やがて貞信の血筋そのものも恐らくは断絶してしまったものと思われる。
備考
『分脈』以下系図類における貞信の注記には「建武武者所」の記載が見られ、一部異本では「信貞」と記すことから、先行研究において『建武記』延元元(1336)年4月日条にある建武政権・武者所結番の六番筆頭「武田大膳権大夫信貞(又は 武田大膳大夫信貞とも)」*17を貞信と見なすものがあるが、これが誤りで同族別系統に武田信貞が確認できることは下記記事を参照。尚、信貞とは別に貞信の掲載は確認できず、貞信の「建武武者所」注記は信貞と混同されたものとみられる。
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脚注
*1:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図H】参照。
*2:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 ―系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.101。
*3:韮崎市の地名 甘利庄(あまりしょう) : 山梨県歴史文学館。
*4:甘利荘 - Wikipedia より。典拠である、秋山敬『甲斐の荘園』(甲斐新書刊行会、2003年)P.112~113「甘利荘」の項 では政綱か信家(宗信)のいずれかとするが、政綱の方が当てはまるのではないかと思う。
*8:『大日本史料』6-2 P.526によると、『太平記』金勝院本の巻13「足利殿東国下向事付時行滅亡事」には、建武2(1335)年8月2日、中先代の乱に際し鎌倉に向けて進発した足利尊氏の軍勢の中に「武田駿河守政義」が含まれているとし、駿河守任官は建武2年の前半期であった可能性が高いと思われる。
*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*10:注1前掲高野氏著書 P.51。
*11:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『大日本史料』6-2 P.37。『史料稿本』後醍醐天皇紀・元弘3年 P.6。
*12:武田信貞 - Henkipedia【史料A】、『編年史料』後二条天皇紀・嘉元3年5~6月 P.3 参照。
*13:『分脈』貞信の注記に「甲斐守」とあるが、それを裏付けられる史料は今のところ確認されていない。むしろ本文で述べているように伊豆守であった可能性がある。南北朝時代においては同族の武田盛信が甲斐守となっており、当時引退していたと思われる貞信がその前後に同守を得ていたとは考えにくい。ただ、わざわざ付されている以上、「甲斐守」の注記を完全に否定・無視することも出来ない。そこで、上手いこと辻褄を合わせるとすれば「甲斐守」を「甲斐守護」の誤記(脱字)と考えるのが良いのではないか。あくまで推測ではあるが、政綱の系統が甲斐在国のままで同国守護を得ていた可能性は十分に高く、一説として掲げたい。
*14:『大日本史料』6-15 P.741~742。『信濃史料』巻6-2 P.118~121。
*15:『大日本史料』6-16 P.298。「太平記」笛吹峠軍の事(その3) : Santa Lab's Blog。
*16:『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録事」の文中に「一.同国一条郷蓬澤内田地一町七段 武田惣領源信武寄進、貞和二年十月十三日」とある(→『大日本史料』6-26 P.567)。
武田信宗
武田 信宗(たけだ のぶむね、1269年~1330年)は、鎌倉時代の武将、御家人。甲斐源氏武田氏第6代当主。父は武田時綱、母は名越朝時の娘と伝わる。通称は孫六。
(*画像は 武田家伝来の遺品 写真集 より拝借)
北条時宗の烏帽子子
『甲斐信濃源氏綱要』*1(以下『綱要』と略記)に掲載の武田氏系図での注記によれば、文永6(1269)年8月1日に甲府の館にて生まれ、建治3(1277)年11月11日、当時9歳(数え年、以下同様)にして、鎌倉において当時の執権・北条時宗を烏帽子親として元服、「宗」の偏諱を与えられて信宗と名乗ったという*2。
これを採用したのか、『系図纂要』にもわざわざ「建治三年十一ノ_元服北條時宗加冠號信宗」と注記しており、それまでの当主「信政―信時―時綱」の名乗りと照らし合わせても代々北条氏得宗の偏諱を受けたことに疑いはないから、信憑性は認められると思う。信政・信時・時綱3代の『吾妻鏡』登場年代から言っても妥当であり、逆に否定し得る史料は皆無である。ちなみに注記は少なめだが『尊卑分脈』(以下『分脈』と略記)の武田氏系図でも系譜は同じである*3。
尚、北条・武田両氏の場合は、武田信義以来の「信○」型の名乗りが原則として重んじられたのか、「時政→信政」「泰時→信時」「時頼→時綱」といったように同じ位置で偏諱を共有しており、時綱の嫡子・信宗が再び得宗からの偏諱を下(2文字目)にしているのもそのためではないかと思われる。引き続き得宗からの1字を許されたことが重要なのであって、「時宗―信宗」の一字共有は、両氏の対等で良好な関係を示しているものと解釈し得る。元々時宗と信宗は、血縁上でもはとこ(又従兄弟)の関係にあった(信宗の外祖父・北条(名越)朝時と時宗の外祖父・北条重時がともに北条義時の息子で同母の兄弟)。
流浪時代の信宗(伝承)
しかし、信宗の嫡男・信武以降は得宗(貞時―高時)の偏諱を受けた形跡が無い。『綱要』によれば、信武は正安3(1301)年正月11日に「祖社に於いて」元服したというが、烏帽子親については書かれておらず、仮に「武」の1字を与えた人物だとしても該当し得る者は思いつかない*4。また同じく『綱要』によれば、信武の子・氏信は足利貞氏の加冠により元服したといい、信宗・信武父子の時に何かしらの変化があったと推察される。
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一方、得宗被官(御内人)化した、信時の弟・武田政綱の系統では、政綱の子・信家が「宗信」と改名し、その子も貞信と名乗り、得宗「時宗―貞時」の偏諱を受ける家系がこちらに移った様子が窺える。 historyofjapan-henki.hateblo.jp
ここで、『系図綜覧 第一』所収「武田源氏一流系図」を見ると、信宗の傍注には次のように書かれている*5。
「相伝十二代、伊豆守〔ママ〕甲斐両国守護、与一族若州守護有鉾楯之事、没落流浪。到武州瀧山、逢修行々人。尋覓楯旡(楯無)後、再還住本国。件行人還俗云々。」
これによれば、信宗は若狭国守護であった一族の者と争いをして没落、流浪の末に武蔵国滝山(現・八王子市)で修業僧に出会い、やがて甲斐国に帰還を果たしたという。武田氏の一族が若狭守護職を拝命したのは、永享12(1440)年に将軍・足利義教から任命された武田信栄(信宗―信武―氏信―信在―(信守―)信繫―信栄)の時であり*6、信宗と争ったという同族の者については不詳だが、同系図には信時・政綱の弟である六郎信綱(のぶつな)の注記に「若狭武田之祖」とあり、『分脈』には信綱の息子として又六長綱(ながつな)と六郎三郎信広(のぶひろ)を載せるので、そのいずれか或いはその息子に当たるのかもしれない。いずれにせよ、信時流武田氏(信宗)は一族との争いで一旦没落してしまい、得宗被官でもあった政綱流武田氏(宗信)が代わって勢力を伸ばしたものと思われる。
没落後の信宗については『甲陽軍鑑 品第十七』に書かれており、概要は次の通りである*7
「小山田弥三郎信茂〔ママ〕は、信玄公より十一代前の武田殿より甲州都留郡をもらい受けて在城している。小山田の先祖は修行僧であった。この頃の武田殿は浪々の身であり、武蔵国滝山でその修行僧に出会った。修行僧は、その方(ほう)はどこの人かと尋ねられたので甲州の者ですと答え、何事でもご奉公、走り回りをいたしますと申し出た。
そこで武田殿は甲州塩の山の後ろの大杉の根元に御旗・楯無を隠し置いたので取ってきてほしいと申された。修行僧は急いで甲州へ参り、を取って進上した。そのとき武田殿は本意を遂げて甲州へ入国できたならば、都留郡を永代にわたり修行僧に下さると約束をされた。その翌年、武田殿は本意を遂げられたので彼の修行僧を小山田になされ、更に信の字を下さった」
武田信玄より11代前(信玄〈晴信〉自身もカウントに含める)の「武田殿」は、前述した系図類により信宗に一致し、前述の「武田源氏一流系図」での注記の内容とも一致する。武蔵滝山で出会った修行僧はやがて還俗し、信宗から「小山田」の姓と「信」の偏諱を与えられたという。
小山田氏の始祖は桓武平氏の流れを汲む秩父重弘の子・小山田有重とされ、その息子・稲毛重成(三郎)や榛谷重朝(四郎)は元久2(1205)年6月、従兄弟の畠山重忠に連座して没落している(『吾妻鏡』)。この時、弟の小山田行重が運命を共にしたかは明らかにされておらず、僅かに『承久記』に小山田太郎の名は見えるものの、系譜は不明である*8。史料上に現れないことからすると、鎌倉時代前期に断絶し、信宗と出会った修行僧がその名跡を再興した可能性もある。応永元(1394)年になると小山田信澄が所領を寄進したことが『妙法寺記』に見えており、信茂に至るまで甲斐武田氏の家臣として「信」字を許されていたのではないかと思われる*9が、本題から逸れてしまうため、このあたりの詳細については、丸島和洋氏の著書*10に委ねたいと思う。
前述したように息子の信武が甲斐で元服を遂げたと伝えられるから、正安3年までには帰国したと思われる。また鎌倉時代末期の金沢貞顕(法名:崇顕)の書状に、信武と思われる「武田彦六」が登場し*11、元弘の乱に際しても幕府側として上洛している*12から、鎌倉時代後期の武田氏が鎌倉とさほど遠くない甲斐に在国していたことは認められよう。
没年について
『綱要』によると、元応2(1320)年12月11日52歳で剃髪し「光阿」または「向阿」(恐らくは前者が正確)と号し、 元徳2(1330)年11月9日に享年62で卒去したという。
こちら▲の記事には「『常楽記』に1330年11月9日、信宗没と見える。しかし1331年に楠正成の赤坂城攻撃軍の中に武田三郎と武田伊豆守があり、武田三郎は政義、伊豆守は信宗と考えられている。」とある。『常楽記』で同日条を確認してみると「諏訪遠江入道」なる人物の死去となっており*13、恐らくは『綱要』と混同したものと思われる*14が、先行研究では1330年に亡くなったと決めつけるのは誤りとされてきた*15。
ちなみに、1331年の史料というのは『伊勢光明寺文書残篇』にある元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」*16のことであり、大仏陸奥守貞直を大将とする軍に「武田三郎」が、江馬越前入道を大将とする軍に「武田伊豆守」の名が見られる。
この「武田伊豆守」が信宗とされた背景には、『分脈』に「伊豆守」とあることに加え、『甲斐国志』(江戸時代・1814年成立)に「興国六年(康永四年。一三四五)の天龍寺供養のとき先陣随兵に伊豆守また伊豆前司と二人あり、このとき前司というは信宗に当たるべし」と記述されている*17のが影響しているのではないかと思われる。
しかし、『参考太平記』によると毛利・北条・金勝院・南都の各本『太平記』および今川本の27巻では「武田伊豆前司信武」と記すようで*18、また実際の史料である『伊勢結城文書』にも「武田伊豆前司 信武」と明記される*19ことから、天龍寺供養における「伊豆前司」は嫡男・信武と判明する。よって、単に江戸時代当時の見解を記したに過ぎない『国志』での記述は否定され、元弘元年の「武田伊豆守」=信宗 の信憑性にも疑いが生じる。この「武田伊豆守」が武田信貞に比定し得ることは次の記事を参照のこと。
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尚、山梨県甲府市にある法泉寺(法泉禅寺)は、1330年信武が亡くなった父・信宗の菩提寺として創建したのに始まると伝えられ*20、これと整合性が取れることから、『綱要』での信宗の没年は信用して問題ないのではないかと思われる。
元弘の乱では嫡男の兵庫助信武が元弘3(1333)年4月3日の四条猪熊の戦いに参戦する*21など、当初は幕府側で戦ったが、やがて足利高氏(のちの尊氏)に呼応して難局を乗り切ることとなる。
(参考ページ)
脚注
*1:系図綜覧. 第一(国立国会図書館デジタルコレクション)所収。
*2:高野賢彦『安芸・若狭武田一族』(新人物往来社、2006年)P.56。
*3:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*4:武田氏と同族(源義光の子孫)にあたる南部氏では、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人物、御内人・長崎思元の聟として南部武行が確認できる(→ 長崎思元 - Wikipedia #俗名、系譜、親族について を参照)が、その「武」字が信武の偏諱の可能性も考えられる。但し、信武と武行は遠戚関係にあるだけで、史料等により直接的な接点・交流は確認できていないため、これについては後考を俟ちたい。
*5:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.153。注2前掲高野氏著書 P.61~62。
*6:武田氏 - Wikipedia #若狭武田氏、および 注2前掲高野氏著書 P.91 より。
*7:注2前掲高野氏著書 P.59~60より引用。
*9:信澄以降の系譜については前注HPを参照のこと。
*10:丸島和洋『郡内小山田氏』〈中世武士選書19〉(戎光祥出版、2013年)。
*11:元徳2(1330)年のものとされる正月7日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』、『鎌倉遺文』第40巻31118号)の文中に「…武田彦六も、只今入来候之間、…」とある。
*12:元弘3(1333)年4月3日の四条猪熊の戦いを描く『太平記』巻8「四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事」に登場の「武田兵庫助」が信武に比定される。これについては【論稿】鎌倉時代後期における「武田伊豆守」について - Henkipedia および 武田氏信 - Henkipedia を参照。
*14:『史料綜覧』後醍醐天皇紀・元徳2年8~12月 P.43。
*15:注2前掲高野氏著書 P.57。
*16:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*17:注2前掲高野氏著書 P.60 より引用。甲斐国志. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。
*20:法泉寺 (甲府市) - Wikipedia(典拠は『甲斐国志』)。法泉寺由緒、法泉寺と武田家(いずれも法泉寺の公式ホームページ内)および 注2前掲高野氏著書 P.60 より。
*21:注12参照。
武田宗信
武田 宗信(たけだ むねのぶ、生年不詳(1250年代?)~1326年カ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。父は武田政綱。子に武田貞信。『尊卑分脈』によれば、通称および官途は 石禾三郎、伊豆守。別名(初名か)は武田信家(のぶいえ)。
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父・政綱は生年不詳だが、『甲斐信濃源氏綱要』(以下『綱要』と略記)によれば兄(宗信伯父)の信時が承久2(1220)年に生まれて、寛喜元(1229)年に元服したようで*1、『吾妻鏡』では嘉禎3(1237)年6月23日条に「武田五郎次郎信時」として初めて現れる*2。政綱はその4年後、仁治2(1241)年正月23日条に「武田五郎三郎」として初出する*3ので、信時から見てさほど年の離れていない弟で1220年代に生まれたと推測できよう。
従って、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、信家(宗信)の生年は1240年代以降と推定可能である。
もう一つ、重要な情報がある。
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こちらの記事▲で紹介している、永仁2(1294)年の成立とされる、白河集古苑所蔵「結城系図」(結城錦一氏旧蔵)には、小山貞朝の母が「武田三郎入道女(=娘)」であったとの注記が見られ*4、市村高男氏はこの「武田三郎入道」を政綱に比定される*5。文永8(1271)年4月27日、得宗(8代執権)北条時宗より甲斐国甘利庄南方の地頭代に任じられた「武田三郎入道妙意」(『紀州三浦文書』)*6も政綱に比定されよう*7。
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こちら▲の記事で紹介の通り、貞朝の生年は1282年と判明しているので、その母親は遅くとも1260年頃、或いは少し遡って1250年代の生まれであったとするのが妥当に思われる。貞朝母の兄或いは弟にあたる信家(宗信)も同世代人だったのではないか。
既にご指摘の通り、「宗信」の「宗」は北条時宗(得宗家当主:1263年 / 執権:1268年~ 1284年)*8からの偏諱と推測される*9。1250年代の前半か後半かで、元服当時の得宗が時宗であったかどうかの判断は難しいが、「信家」から改名した可能性があることを考えると、「宗信」と名乗ったのは時宗執権期間内と考えて問題ないのではないかと思う。『綱要』や『系図纂要』によると建治3(1277)年に信時の孫が時宗の加冠により元服して「信宗」と名乗ったようで、これ以後の可能性もある。
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尚、こちら▲の記事において、以下4点史料の人物を宗信に比定した。
●【史料1】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*10:結番における5番衆の筆頭「武田伊豆守」
●【史料2】徳治2年7月12日付「鳥ノ餅ノ日記(矢開日記)」(『小笠原礼書』)*11:この矢開に参加した「武田伊豆守」
●【史料3】『北条貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』):元亨3(1323)年10月27日の北条貞時十三年忌法要において銭50貫と馬一疋置鞍、鹿毛を寄進する「武田伊豆入道」*12。
●【史料4】『常楽記』嘉暦元(1326)年7月5日条:「七月五日武田伊豆入道他界」*13
上記記事では、鎌倉時代後半期の武田氏における伊豆守任官年齢を当初は60代、次第に40~50代に低年齢化することを導き出し、特に【史料1】・【史料2】に書かれるメンバーが明らかに得宗被官、或いは被官化した御家人であることから、宗信と見なした。従って徳治2年当時既に伊豆守在任であったことになるが、これも前述の生年推定の根拠の一つである。
伊豆守以前の通称「石禾三郎(いさわのさぶろう)」については史料上で確認できないものの、『建武記』建武元(1334)年10月14日条には北山殿笠懸射手の1人として「武田石禾三郎政義」が登場しており*14、孫の武田政義が同じ通称名を名乗っていたことが分かるので、政綱(石和)流当主代々の仮名であったと推測される。その約30年前の嘉元の乱(1305年)の折、比留宗広を預かる際の使者を務めた「武田三郎」(『鎌倉年代記』裏書)が貞信ではないかと思われ、その父である宗信は当時の段階で伊豆守任官を果たしていたのではないかと思われる。
その後【史料3】までに入道(出家)しているが、その具体的な日時や法名は不明である。考えられるとすれば、応長元(1311)年の得宗・北条貞時(時宗の子)逝去時の可能性があるが、これについては後考を俟ちたい。嘉暦元年の逝去(【史料4】)時には享年60~70代であったと推定される。
脚注
*1:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 高野賢彦『安芸・若狭武田一族』(新人物往来社、2006年)P.48 より。
*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.259「信時 武田」の項 より。尚、本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。
*3:前注『吾妻鏡人名索引』P.278「政綱 武田」の項 より。尚、実名の初見は寛元2(1244)年8月15日条「武田五郎三郎政綱」である。
*4:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図H】参照。
*5:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 ―系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.101。
*6:韮崎市の地名 甘利庄(あまりしょう) : 山梨県歴史文学館。
*7:甘利荘 - Wikipedia より。典拠である、秋山敬『甲斐の荘園』(甲斐新書刊行会、2003年)P.112~113「甘利荘」の項 では政綱か信家(宗信)のいずれかとするが、政綱の方が当てはまるのではないかと思う。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*9:注1前掲高野氏著書 P.51。
*10:『鎌倉遺文』第30巻22978号。
*11:中澤克昭「武家の狩猟と矢開の変化」(所収: 井原今朝男・牛山佳幸 編『論集 東国信濃の古代中世史』、岩田書院、2008年)P.200・203。細川重男「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻第12号、 信濃史学会、2012年)P.959。
*12:『神奈川県史』資料編2 古代・中世 2364号(P.709)。
武田宗光
武田 宗光(たけだ むねみつ、生年不詳(1250年代半ば頃?)~没年不詳(1290年代?))は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。父は武田時隆。子に武田信貞、武田時信。通称は二郎五郎。
信光の子・武田七郎信隆(岩崎信隆とも)を祖とする系統の出身で、その次男である時隆以降は代々北条氏得宗からの偏諱を受けた形跡が見られる。
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上記2記事にて、父・時隆が1230年代、息子の信貞が1280年代の生まれと推定したので、宗光は間を取って1250年代半ば頃の生まれと推測される。宗光の「宗」は元服当時の得宗・北条時宗(得宗家当主:1263年 / 執権:1268年~ 1284年)*1からの偏諱と見なして良かろう。「光」は曽祖父・武田信光に由来するものと思われ、通称の「二郎五郎」は、"二郎"(七郎二郎)時隆の「五郎(本来は5男の意)」を表す。
今のところ宗光に関する史料は確認されておらず、『尊卑分脈』でも「二郎五郎」とあるのみであるから、国守任官に相応の40代を迎える前に亡くなったのかもしれない。
脚注
*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
武田信貞
武田 信貞(たけだ のぶさだ、生年不詳(1280年代?)~没年不詳(1336年以後))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。父は武田宗光。弟に武田時信(七郎五郎)。仮名は弥五郎、官途は伊豆守・大膳権大夫(または大膳大夫)。
建武政権武者所での活動
『建武記』(『建武年間記』)には、延元元(1336)年4月、建武政権での武者所六番の筆頭に結番された人物として「武田大膳権大夫信貞(又は 武田大膳大夫信貞とも)」の記載がある*1。
『尊卑分脈』の武田氏系図(以下『分脈』と略記)を見るとこれに該当し得る人物が2名確認できる。一人は武田信政の子(信時の弟)政綱の孫で「建武々者(=建武武者)所 甲斐守」「信貞イ(異本では「信貞」と記載 の意味)」と注記される貞信*2、もう一人は信政の弟・信隆の曽孫で「建武々者所 大膳大夫 伊豆守」との注記がある信貞*3である。いずれも武田信光から5代目にあたりほぼ同世代であったと考えられるが、官途・実名の一致からすると後者の信隆流武田信貞に比定するのが妥当であろう。ちなみに武者所結番の中に貞信の名は確認できず、貞信での注記は信貞と混同されたが故に誤って挿入されたものと思われる*4。
そして『建武記』からは延元元年当時、信貞が正五位上相当の長官である大膳大夫*5或いはその権官であったことも窺える。
信貞の世代推定
次に、信貞と同様、信光から5代目にあたる人物について確認してみたい。
武田信宗
本家筋(信時流)では武田信宗となる。『系図綜覧』所収『甲斐信濃源氏綱要』(以下『綱要』と略記)によれば、文永6(1269)年に生まれ、建治3(1277)年に執権・北条時宗の加冠によって元服したと伝えられる*6。尚、鎌倉期歴代当主の親子の年齢差は「信光―(34)―信政―(36)―信時―(25)―時綱―(24)―信宗―(23)―信武」(平均28.4歳)となっている。
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武田貞信
政綱流(石和流武田氏)では前述した武田貞信である。祖父の政綱は兄・信時の生まれた1220年より後に生まれた筈だが、『吾妻鏡』での初出が仁治2(1241)年正月23日条の「武田五郎三郎」であるから、信時とさほど年の離れていない弟で1220年代に生まれたと推測される。従って、その孫である貞信もはとこ(又従兄弟)にあたる信宗とさほど離れていない世代の人物であったと思われ、前述の平均年齢を用いれば1270年代後半の生まれと推定可能である。『建武記』建武元(1334)年10月14日条には北山殿笠懸射手の1人として、元服を済ませていた貞信の子「武田石禾三郎政義」が登場しており*7、その数年前元弘の乱に際して上洛した鎌倉幕府軍のメンバーの一人「武田三郎」(『伊勢光明寺文書残篇』)*8も政義であろう。その二十数年前、嘉元の乱(1305年)の折、比留宗広を預かる際の使者を務めた「武田三郎」が貞信ではないかと思われる。
今年嘉元三……四月……廿三日、子刻、左京権大夫時村朝臣誤被誅訖、子息親類脱殃訖、五月二日、時村討手先登者十二人被刎首、和田七郎茂明、預三浦介入道、使工藤右衛門入道、茂明逐電了、工藤中務丞有清、預遠江入道(=名越時基?)、使諏方三郎左衛門尉、豊後五郎左衛門尉光家、預陸奥守、使大蔵五郎兵衛入道、海老名左衛門次郎秀綱、預足利讃岐入道、使武田七郎五郎、白井小次郎胤資、預尾張左近大夫将監、使長崎次郎兵衛尉、五大院九郎高頼、預宇都宮下野守、使広沢弾正忠、赤土左衛門四郎長忠、預相模守、使佐野左衛門入道、井原四郎左衛門尉盛明、預掃部頭入道、使粟飯原左衛門尉、比留新左衛門尉宗広、預陸奥守、使武田三郎、甘糟左衛門太郎忠貞、預兵部大輔(=甘縄顕実?)、使工藤左近将監、岩田四郎左衛門尉宗家、預相模守、使南条中務丞、土岐孫太郎入道鏡円(=定親)、預武蔵守、使伊具入道、同月四日、駿河守宗方被誅、討手陸奥守宗宣、下野守貞綱、既欲攻寄之処、宗方聞殿中師時館、禅閤(=北条貞時入道崇演)同宿、騒擾、自宿所被参之間、隠岐入道阿清為宗方被討訖、宗方被管〔被官〕於処々被誅了、於御方討死人々、備前掃部助貞宗、信濃四郎左衛門尉、下条右衛門次郎等也、被疵者八人云々、同十四日、禅閤并相州師時移武蔵守久時亭、今日禅〔評〕定始、七月十六日、金寿御前逝去訖、
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武田助政
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こちら▲の記事でも紹介の通り、信貞に同じく信隆を祖とする別系統では、はとこ(又従兄弟)にあたる武田助政(すけまさ)の名が、正中3(1326)年3月23日付「関東下知状」(『甲斐大善寺文書』)*10で確認でき、8年半後の建武元(1334)年9月27日には、後醍醐天皇の加茂神社行幸に足利尊氏が供奉した際の「汲兵」の筆頭に「武田八郎次郎信助」(『小早川家文書』)*11の名が見られ、助政の子・武田信助(のぶすけ)が元服済みで活動期間に入っていたことが窺える。すなわち、元服は通常10代前半で行われたから、信助は遅くとも1320年代の生まれ、その父・助政は1300年代以前の生まれと推定可能である。但し建武元年当時の信助が10代とすると随兵として同行するには若過ぎるように思われるので、助政・信助父子の生年は更に遡るだろう。すると助政の生年も1270~90年代になってくると思われる。
武田盛信
助政の弟・盛信(武田十郎太郎*12、甲斐守)については、以下の史料が確認できる。
● 『太平記』巻16「聖主又臨幸山門事」:延元元(1336)年、湊川の戦いで敗れたことに伴い、三種の神器と共に京を離れ、比叡山のある東坂本に臨幸した後醍醐天皇に随行した護衛兵の中に「武田甲斐守盛正〔ママ〕」*13。この頃は南朝方であったようである。
●『石清水八幡宮記録』:暦応3(1340)年12月12日、86貫355文で厳島神社への小神殿造営に当たった「武田甲斐守」*14
●『御的日記』康永3(1344)年正月29日条:この日の弓始の第一試合に参加した「武田甲斐守」*15
●『伊勢結城文書』/『太平記』巻24:康永4(1345=貞和元)年8月29日の足利尊氏・直義兄弟の天龍寺供養に随行した「武田甲斐前司 盛信」*16
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こちら▲の記事で言及の通り、この頃の武田氏における国守任官年齢は40代ほどであったから、1336年当時甲斐守(従五位下相当)*17であった盛信の生年は遅くとも1290年代と推定可能である。
観応3(1352)年6月7日付の「武田参河(=三河)守殿」宛の足利尊氏書状(『新渡戸文書』)にある「亡父武田甲斐入道聖観跡」*18も時期の近さからして盛信に比定して良かろう。天龍寺参詣より数年ほどで出家し、同年までに亡くなったことが分かる。また、系図には載せられていないため実名不詳ながら、盛信(聖観)の嫡男が三河守に任官していたことも窺え、同様に40代ほどであったと推測される。逆算すると1310年代以前の生まれで、父・盛信と親子の年齢差で問題ない。同年8月5日にも武田三河守に関する書状2点が残存している*19。
武田時信
最後に、『分脈』に信貞の弟として記載される時信(ときのぶ)については、『御的日記』嘉元3(1305)年正月2日の的始の第一試合において曽我次郎左衛門尉忠重に敗れた「武田七郎五郎時信」*20に比定されよう。『分脈』では仮名「七郎二郎」と記載されるが、「二」は「五」が伝写の過程で誤って書かれてしまったものと思われる。
同年の嘉元の乱に際し、北条時村殺害犯の一人、海老名季綱(左衛門次郎秀綱と表記)を足利貞氏(義観)に預ける時の使者を務めた「武田七郎五郎」(前掲【史料A】)および 徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(後掲【史料B】)における5番衆の一人「武田七郎五郎」も時信に同定されよう。
すなわちこの頃、兄である信貞も元服済みであったと推測可能で、次節で述べるが、大斎番文での12番衆の一人「武田弥五郎」が信貞に比定される可能性がある。元服は通常10代前半で行われたから、1290年以前の生まれと考えて良いだろう。
以上、信貞と同じく信光の玄孫にあたる人物の年代推定を行ったが、信貞の生年も1270~80年代とするのが妥当であろう。次節以降では通称・官途の変化を頼りにその裏付けをしていきたいと思う。
鎌倉時代末期における「武田弥五郎」について
【史料B】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*21
(前略)
五 番
武田伊豆守 万年馬〔右馬カ〕入道
武田七郎五郎 渋谷十郎入道(=宗重)
粟飯原後家 亘理四郎左衛門尉(=亘理胤継)
但馬新左衛門尉 斎藤図書左衛門尉
(省略)
十二番
工藤右衛門入道 五大院左衛門入道
出雲守 妙鑑房
武田弥五郎 諏方兵衛尉
内嶋後家 水原図書允
右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
徳治二年五月 日
この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*22)」の結番を定めたものであり、前述したが、結論から言うと12番衆の一人「武田弥五郎」も信貞に同定されると思う。
『分脈』を見る限り、この人物は「彌五郎」と注記される武田基綱(もとつな)と武田信貞のいずれかに該当し得る*23。基綱については正和3(1314)年12月23日謀叛を企てたとして誅されたとも書かれ、【史料B】当時存命であったと思われるが、『系図綜覧』所収『甲斐信濃源氏綱要』上では「彌三郎」と記載される*24から、「武田弥五郎」は信貞の可能性の方が高いのではないか。
というのも、当時の北条貞時は既に執権職を従弟の北条師時に譲って出家し、あくまで得宗家当主として "副将軍" の立場にあり*25、信貞もその「貞」の偏諱を賜って元服を済ませていたと考えられるからである*26。「武田弥五郎」は元服してさほど経っていないため無官であった当時の信貞の呼称として相応に思う。前述したが、5番衆には弟の「武田七郎五郎」時信も結番されている。
また、『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)には、元亨3(1323)年10月27日の貞時13年忌供養において、朝には「兵衛佐有範(=日野有範か)」に「馬一疋 栗毛、」を進上し、その後の法要においても「砂金卅両 銀剱一 馬一疋 置鞍、栗毛、」を進上する「武田弥五郎」の名が見られる*27が、これは間違いなく信貞であろう(前述の通り基綱は1314年に亡くなっているため)。ここからも以前の貞時との関係性が垣間見える。
伊豆守から大膳大夫へ ー若狭武田氏を例にー
冒頭で述べたように『分脈』での信貞には「建武々者所 大膳大夫 伊豆守」と注記される。結論から言うと、この記載が正しければ、官途の順序は伊豆守→大膳(権)大夫であったと考えられる。
その根拠として、後世の例にはなってしまうが、大膳大夫に代々任ぜられてきた若狭武田氏を題材に考察してみたいと思う。
5代当主・武田元信は『綱要』によると文明3(1471)年に元服した際、烏帽子親・細川勝元から「元」の偏諱を受けたという*28。以後実名が確認できる史料で、明応8(1499)年8月6日付「室町幕府奉行奉書」の文頭に「武田伊豆守元信」*29とあったものが、三条西実隆の歌日記『再昌草』*30永正16(1519)年12月20日条には「武田大膳大夫元信朝臣、過(すぎ)し廿六日(=11月26日)得度す」とあり*31、伊豆守から大膳大夫へと昇進していること、その大膳大夫が得度(出家)前の最終官途であったことが窺える。
6代・武田元光は父・元信(或いは同様に細川氏)と祖先・武田信光、各々の1字による名乗りであろうか。『親孝日記』大永元(1521)年10月6日条に「武田伊豆守殿」とあり*32、『若狭神宮寺文書』には同じ宛名(「根本神宮寺衆徒」宛て)と花押を持ち、同3(1523)年11月17日付で各々「伊豆守」・「元光」と署名している書状が収録されていて*33、元光も父同様に伊豆守任官を果たしたことが窺える。そしてこの後に現れる「武田大膳大夫」も転任後の元光と考えられている。
7代・武田信豊(初め光豊)も天文8(1539)年12月に伊豆守に任ぜられた(『歴名土代』)*34が、この頃同族である甲斐の武田晴信(のちの信玄)が任官されていたこともあって最後まで大膳大夫に任ぜられることはなかったという*35。
これらを見るだけでも、 伊豆守→大膳大夫という順序で昇進することは十分にあり得たと考えられる。
*その他、国守→大夫となったケースとしては、政村流北条時村(陸奥守→武蔵守→左京権大夫)*36、金沢貞顕(越後守→右馬権頭→武蔵守→修理権大夫)*37、大仏維貞(陸奥守→修理大夫)*38などが挙げられる。
信貞の伊豆守、大膳権大夫任官
筆者は、信貞が元亨3年以後、『分脈』での記載通り「伊豆守」に任官したのではないかと推測する。
『分脈』そのものが南北朝時代から室町時代初期にかけての成立であり*39、同族の部分でも武田盛信の注記「甲斐守」や、その甥・武田信助の「八郎次郎」が実際の史料で裏付けられることは前述した通りであるから、信貞の弟・時信の注記がほぼ正確であることからしても、信貞の注記「伊豆守」だけが誤りであるとは思えない。
そして、前節で述べたように、伊豆守→大膳大夫という順序で昇進することは十分にあり得たから、信貞は大膳(権)大夫任官前の鎌倉時代末期に伊豆守になっていたのではないかと推測される。
前述の『伊勢光明寺文書残篇』にある元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」*40にある「武田伊豆守」が信貞と推測されることは次の記事を参照のこと。
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そもそも大膳大夫とは、令制での大膳職における、正五位上相当の長官であり*41、大膳権大夫はその権官である。大膳大夫・権大夫で各々定員が1名と定められていた*42。
直近では、建武元(1334)年に長井広秀が大膳権大夫に補任されており(『関東将軍家政所執事次第』)*43、同年正月の関東廂番結番(『建武記』)*44および冒頭で掲げた武者所の四番筆頭*45にも「長井大膳権大夫広秀」の名が確認できるが、『師守記』暦応3/興国元(1340)年正月27日条で「長井前大膳権大夫広秀」*46と書かれるまでには辞したようである。
考えられるとすれば、
● 延元元年の武者所結番で「長井大膳権大夫広秀」が「長井前大膳権大夫広秀」の誤り(脱字)で、その後継として信貞が大膳権大夫となった。
● 恐らくは鎌倉幕府滅亡の1333年頃、信貞が大膳権大夫となり、翌建武元年を迎えるまでに正官(大膳大夫)となり、後継の大膳権大夫(権官)に広秀が就任。延元元年の武者所結番では「長井大膳権大夫広秀」と「武田大膳大夫信貞」が並ぶ。
のいずれかであろう。恐らくは後者と思われるが、伊豆守の後に建武政権下で大膳権大夫→大膳大夫への昇進が認められたと推測されよう。
事績のまとめ(推定)
● 徳治2(1307)年:5月、鎌倉円覚寺での大斎結番12番衆「武田弥五郎」
● 元亨3(1323)年:10月27日の北条貞時13年忌供養に参加の「武田弥五郎」
● 元弘元(1331)年:10月15日、元弘の乱に際し江馬越前入道を大将とする軍勢に「武田伊豆守」が従軍し上洛。
● 延元元(1336)年:4月、建武政権での武者所六番筆頭「武田大膳大夫信貞」
脚注
*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*3:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*4:『甲斐国志』では『建武記』の「武田大膳権大夫」を政綱(石和)流の貞信に比定する(→ 甲斐国志. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション)が、これも誤りであろう。
*5:大膳の大夫(だいぜんのだいぶ)とは - コトバンク より。
*6:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*8:『鎌倉遺文』第41巻32135号・32136号。『群書類従. 第拾七輯』P.258・261 も参照のこと。
*9:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店、1979年)P.59。『編年史料』後二条天皇紀・嘉元3年5~6月 P.2~4。
*10:『鎌倉遺文』第38巻29446号。
*11:『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 P.169 二九四号。
*12:父・政嗣が「太郎(七郎太郎)」で、『分脈』曰く兄・助政も当初は「太郎四郎」を名乗ったらしいので、盛信も正しくは「太郎十郎」であったかもしれないが、史料上では確認できないので後考を俟ちたい。
*16:『大日本史料』6-9 P.287・315。他に 同書P.247・250・275・304の各史料でも「武田甲斐前司」の名が確認できる。
*20:梶川貴子「得宗被官の歴史的性格 ー『吾妻鏡』から『太平記』へー」(所収:『創価大学大学院紀要』34号、創価大学大学院、2012年)P.395 注43。太刀岡勇気「政治力を示す場としての弓場始」(2006年)。
*21:『鎌倉遺文』第30巻22978号。
*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ (細川重男氏のブログ)によると、時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日。
*23:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*24:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*25:得宗貞時・高時の「副将軍」呼称については、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.263~264 注(55)を参照のこと。
*26:「貞」の偏諱を2文字目にしているのは、恐らく既に元服していた武田貞信との重複を避けるためであろう。又は貞信(石和流)に対する庶流扱いのためとも考えられる。
*27:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.706・708。
*28:元信の父・国信は畠山持国(徳本)の俗名から、叔父(国信の弟)の元綱も同様に勝元から、各々1字を賜ったと思われる。いずれも元服当時の幕府管領であった人物からの一字拝領である。
*29:『大日本古文書』家わけ第八『毛利家文書之一』P.147(一六七号)。
*30:三条西実隆とは - コトバンク より。
*31:『大日本史料』9-10 P.34・同9-13 P.380。
*34:『史料稿本』後奈良天皇紀・天文8年11~12月 P.95。
*35:武田信豊 (若狭武田氏) - Wikipedia より。典拠は 木下聡「若狭武田氏の研究史とその系譜・動向」(所収:『若狭武田氏』〈シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻〉戎光祥出版、2016年)。
*36:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その46-北条時村 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*37:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*38:北条維貞 - Wikipedia より。修理大夫は従四位下相当官(→修理職・修理大夫(おさめつくるつかさ)とは - コトバンク)。
*39:尊卑分脈 - Wikipedia、尊卑分脈とは - コトバンク より。
*40:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*41:大膳大夫とは - コトバンク より。
武田時隆
武田 時隆(たけだ ときたか、生年不詳(1230年代?)~没年不詳(1263年以後))は、鎌倉時代中期の武将、御家人。父は武田信隆(のぶたか)。子に武田宗光。通称は七郎二郎(七郎次郎)。
岩崎流武田氏について
父・武田信隆
上図に掲げた『尊卑分脈』(以下『分脈』と略記)を見ると、(黒坂)太郎朝信、悪三郎信忠、小五郎信政、(一条)六郎信長に次ぐ武田信光の子として七郎信隆が載せられ*1、「号岩崎」の注記があるように岩崎氏を称したという。数字(輩行名)の順に掲載されることから、「七郎」の仮名の通り信光の7男だったのであろう。
そして信隆の息子には、七郎政隆、七郎二郎時隆、七郎三郎信方、岩崎五郎貞経が掲載される*2。政隆にも「号岩崎」の注記はあるものの、その子孫は武田を称しており、実際には貞経の系統が岩崎氏となったようである。
武田信隆(岩崎信隆とも)に関する史料としては、『吾妻鏡』寛元2(1244)年正月5日条にある御弓始の射手一番「武田七郎」*3が信隆に比定される可能性がある*4。その他には、広島市安佐南区西原の「楊柳観音」に関する伝承や『長楽寺由来記』などによると、弘安6(1283)年に安芸国4郡(安南、安北、佐西、佐東)の地頭職を賜って下向したと伝えられるほか、安(やす)(現・広島市安佐南区高取北1丁目)の光明寺には正安2(1300)年に信隆が寄進した鰐口が保存されているという*5。
*鰐口の刻銘として、片面には「夜珠円妙院毘盧遮那佛尊前」(夜珠は現在の地名「安」の旧表記)、その反対側には寄進者「武田駿河守信隆寄進之」、寄進年月「正安二歳(=年)庚子三月吉祥日」と彫られており、武田七郎信隆と同人であれば、信隆が駿河守任官を果たしていた可能性がある。
政隆流武田氏について
武田政隆(まさたか)・政嗣(まさつぐ)父子については特に史料上で確認できないが、政嗣の子・武田助政(すけまさ)については、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養において「銭廿貫文」を進上する「武田八郎」(『相模円覚寺文書』所収『北條貞時十三年忌供養記』)*6 および その約2年半後にあたる正中3(1326)年3月23日付「関東下知状」(『甲斐大善寺文書』)*7の文中に「武田八郎助政・同四郎三郎政泰」とあるのが確認できる。
「八郎」というのは『分脈』での注記「太郎四郎」と仮名が異なるが、『分脈』には助政の子・信助(のぶすけ)に「八郎次郎」の注記があり、父・助政が「八郎」を称していたことを暗示している。建武元(1334)年9月27日、後醍醐天皇の加茂神社行幸に足利尊氏が供奉した際、「帯刀廿一番」の一番として「武田八郎次郎信明〔ママ〕」が随行している(『朽木文書』)*8が、同内容を記したと思われる「足利尊氏行幸供奉随兵次第写」(『小早川家文書』)で「汲兵」の筆頭にある「武田八郎次郎信助」*9に同定されるから、『分脈』での記載通り武田信助は「八郎次郎」を称していた。
従って、父の助政は初め「七郎」政隆の"太郎(長男)"=「七郎太郎」である政嗣の"四郎(本来は4男の意)"として「太郎四郎」を称していたが、後に「八郎」に改め、息子の信助が「八郎次郎」を称したと見なされる。
尚、四郎三郎政泰については系図に見えないが、その仮名や「政」字を持つことからすると助政の弟・弥四郎隆盛の息子あたりが考えられようか。
その他にも、系譜不明であるが、嘉元2(1304)年の記録に見られるという「岩崎一分ノ地頭武田筑前守武政」*10も同族とみられ、観応2(1351)年7月に上総国市原八幡宮別当職を醍醐寺の地蔵院僧正に渡すべく下地遵行を実施している武田七郎三郎資嗣(すけつぐ)*11も仮名や「嗣」字の共通からすると、この政隆流武田氏から出た人物の可能性が高いと思われる。
史料における武田時隆
信隆の次男・時隆に関する史料としては次の記事が挙げられる。
弘長三年五月小十七日丙申。天晴。鷺集于左典廐(=北条時宗)御亭。頃之指永福寺山飛去。被卜筮之處。文元。晴茂。晴宗。泰房。頼房等。為口舌兆之由占申。爰武田七郎次郎追彼鷺。射殺之持参。入夜。依鷺恠被行泰山府君百怪白鷺等祭云云。
内容としては、得宗嫡子・北条時宗(当時は左馬権頭)の屋敷に集まってきた鷺が喧嘩口論の兆しだという占いの結果が出たので、「武田七郎次郎」がその鷺を射殺して持参してきたとのエピソードを載せる。通称は「武田七郎」の「次郎(次男)」を表しており、さほど年代が離れていないことから、寛元2(1244)年初頭に確認できる「武田七郎」=信隆(前述参照)の子・時隆に比定されよう*12。当時、既に適齢の10代前半を迎えて元服を済ませていたことも窺え、遅くとも1250年頃までには生まれている筈である。
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次に、こちら▲の記事で紹介の通り、嫡流を継いだ伯父・信政については建久7(1196)年生まれとされるので、その弟である信隆の生年は1200年代に入ってからであろう。そして信隆は、父・信光が亡くなる宝治2(1248)年までには生まれている筈である。『分脈』を見る限り、信隆には弟が複数いたようなので、前述の通り寛元2年の段階で元服済みだったとすれば、遅くとも1230年代の生まれであろう。
『系図綜覧』所収『甲斐信濃源氏綱要』(以下『綱要』と略記)でも『分脈』とほぼ同内容の記載が見られるが、追加の情報として信隆の注記に「本名(=初名)政平」とある*13のに注目である。この情報が正しければ、「政」の字は、兄・信政の烏帽子親を務めた翌年(1205年)に引退した北条時政というよりは、信政からの偏諱であった可能性が高い。逆に誤りだとしても、信隆の嫡男・政隆の「政」はやはり信政に関係するものと考えて差し支えないと思う。
信隆の息子の中で政隆と時隆が「隆」の字を継承している。ここで着目したのがもう一方の「時」の字である。
父・信隆(政平)或いは兄・政隆が本家筋から「政」字を受けたのと同様に、時隆も信時または時綱から「時」字を受けた可能性は必ずしも否めない。これは子の宗光にも同様のことが言える。『綱要』によると、嫡流では信政から信宗までの4代に亘って代々得宗家当主を烏帽子親としてその偏諱を受けたという。
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しかし、宗光の子・信貞の「貞」は年代からしても北条貞時からの一字拝領と推測されるから、それ以前の「時隆―宗光」も得宗から直接一字を拝領したと考えるのがやはり自然だと思う。
宗光が北条時宗からの一字拝領だとすれば、時隆は北条時頼(時宗の父)からの一字拝領であろう。前掲【史料】当時も得宗家当主・前執権として時頼(法名: 道崇)は存命であり(同年11月に発病して22日に逝去)、その1字を許されていたとみられる。
仮に信隆が1230年代の生まれだとすれば、親子の年齢差を考慮して、時隆の生年は1250年代以後と推定可能である。仮に1250年とした場合【史料】当時は14歳という元服の適齢となって矛盾は無い。ただ、弓を鷺を射ることが出来る程の技量を持っていたことを考慮するならもう少し遡っても良かろう。恐らく時隆が1230年代の生まれで、寛元4(1246)年から5代執権となっていた時頼*14がその烏帽子親であったと推定しておきたい。
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*3:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.505(通称・異称索引)より。尚、本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。
*4:http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.iwasaki.htm より。
*6:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.708。
*7:『鎌倉遺文』第38巻29446号。
*9:『大日本古文書』家わけ第十一 『小早川家文書之二』P.169(二九四号)。
*10:http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.iwasaki.htm より。典拠は『甲斐国志』。
*11:『大日本史料』6-15 P.129。小助官兵衛の部屋 #武田三郎信之 および 櫻井敦史「市原八幡宮と中世八幡の都市形成(2)」(市原市埋蔵文化財調査センター 研究ノート24)第2項-4-①「観応2年から文和3年(1351~1354)にかけての相論」より。
*12:前掲『吾妻鏡人名索引』P.216「時隆 武田」の項より。
*13:系図綜覧. 第1 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
【論稿】鎌倉時代後期における「武田伊豆守」について
はじめに
後述するが、鎌倉時代後期には「武田伊豆守」なる人物が散見される。しかしそれらの実名は明らかにされておらず、人物比定が困難である。というのも、『尊卑分脈』武田氏系図*1(以下『分脈』と略記)には、次の【図A】に示すように「伊豆守」と注記される者が多く、またその情報が正しいとは限らないからである。
【図A】
但し、伊豆守を含む国守任官に推挙されるには、それ相応の年齢に達する必要があったとみられ、僅かに判明している例からその年齢を明らかに出来れば、各「武田伊豆守」の生年も推測可能なのではないかと思う。
尚、鎌倉時代前期・中期の武田氏嫡流各当主の生没年(および元服の年月日)については、『系図綜覧』所収の『甲斐信濃源氏綱要』(以下『綱要』と略記)に記載があり*2、その信憑性に疑いが無いことについては以下各項目を参照していただきたい。
● 武田信政(1196年~1265年)
● 武田信時(1220年~1289年)
● 武田時綱(1245年~1307年)
● 武田信宗(1269年~1330年)
武田氏嫡流当主の伊豆守任官
では、まずは信光・信武を例に挙げて、武田氏における伊豆守任官年齢を推定してみたいと思う。史料での表記・呼称に基づいて各々掲げると、次の通りである。
- ~正治2(1200)年「伊沢(石和)五郎信光」(39)
- ~承久3(1221)年7月12日条「武田五郎信光」(60)
<この間に伊豆守任官 および 出家 か>
- 延応元(1239)年12月13日条「武田入道」(78)
- 仁治2(1241)年(4回)「武田伊豆入道光蓮」
- 寛元3(1245)年8月16日条「伊豆入道」
(1248年逝去)
- 建長2(1250)年3月1日条「武田伊豆入道跡」
武田信武(1292年~1359年 or 1362年)
- 元徳2(1330)年?正月7日「武田彦六」(39) (28)
- 建武3(1336)年6月25日「武田兵庫助信武」(45) (34)
- 暦応4(1341)年「武田伊豆守信武」(50) (39)
- 康永4(1345)年「武田伊豆前司 信武」(54) (43)
- 文和年間(1352-1356)「武田陸奥守信武」(60代) (50代)
*典拠となる史料については後述参照。
*信武の生年を嘉元元(1303)年説とした場合の年齢。但し以前の当主に比べ父・信宗との年齢差が離れ過ぎてしまうのと、長男・氏信(1312年生まれ)との年齢差を考慮してもこの説が成り立つ可能性はほぼ無いと言って良い。また、陸奥守在任時60代とするのが妥当であることは後述参照。
2代当主・信光の場合、60~70代での任官だったことが窺える。鎌倉時代前期の主要な御家人の例を見ると、北条義時は42歳で相模守となるまで無官、のち55~60歳の間に右京権大夫 兼 陸奥守を務めており*4、三浦義村も駿河守在任が確認できる承久2(1220)年末当時60歳位であったとみられ*5、信光の任官年齢も彼らと遜色ないものである。
しかし武田氏の場合、その後の当主も国守任官のタイミングは比較的遅かったようである。例えば4代当主・信時は、初出の嘉禎3(1237)年(当時18歳)*6以来、次の史料(当時57歳)に至るまで長いこと無官で「五郎次郎」と呼ばれていた。
【史料B】建治2(1276)年8月24日付「関東御教書案」2通(『東寺百合文書』り・ア 所収)*7
異国用心の事、山陽、南海道勢を以て長門国を警固せらるべきなり。地頭補任の地に於いては、来十月中、子息(=時綱か?)を差し遣わすべきの由、仰せ下されをはんぬ。早く安芸国の地頭、御家人並びに本所一円の地の住人等を催し具し、長門国を警固せしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。
そして7代当主・信武の代になっても、最初に何かしらの官職は得られても、伊豆守を含む国守任官が叶うのはやはり40~50代であったことが窺える。尚、次に示す『太平記』巻31には「武田陸奥守 子息安芸守」と記す箇所があり、正平7(1352)年当時、信武の次男・信成も相応の年齢に達して安芸守となっていた*8から、父・信武は当時60代とするのがやはり妥当であろう。
【史料C】『太平記』巻31「笛吹峠軍事」*9における武田氏一門の人物比定(主に『分脈』による)
●「太平記」笛吹峠軍の事(その2) : Santa Lab's Blog より:
武田陸奥守(信武)、子息安芸守(信成)、同薩摩守(公信か)、同弾正少弼(直信?信明?)
●「太平記」笛吹峠軍の事(その3) : Santa Lab's Blog より:
甲斐源氏武田陸奥守(従五位上相当・信武)、同刑部大輔(正五位下相当・信成?)、子息修理亮(従五位下相当・信春か)*10、武田上野介(正六位下相当・貞政)、同甲斐前司(盛信か)、同安芸守(従五位下相当・信成)、同弾正少弼(正五位下相当・直信?信明?)*11、舎弟薩摩守(正六位下相当・公信か)
尚、信武の長男・氏信も伊豆守となっているが、その年齢は41歳であったと思われる。このことについては次の記事をご参照いただきたい。
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鎌倉時代後期の史料における「武田伊豆守」
該当史料の紹介
最初に鎌倉時代において「武田伊豆守」の名が確認できる具体的な史料を示しておきたいと思う。
●【史料①】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*12
(前略)
五 番
武田伊豆守 万年馬〔右馬カ〕入道
武田七郎五郎 渋谷十郎入道(=宗重)
粟飯原後家 亘理四郎左衛門尉(=亘理胤継)
但馬新左衛門尉 斎藤図書左衛門尉
(省略)
十二番
工藤右衛門入道 五大院左衛門入道
出雲守 妙鑑房
武田弥五郎 諏方兵衛尉
内嶋後家 水原図書允
(以下略)
右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
徳治二年五月 日
●【史料②】徳治2年7月12日付「鳥ノ餅ノ日記(矢開日記)」(『小笠原礼書』)*13
一 鳥ノ餅ノ日記 徳治二年七月十二日
成就御所〔=成寿:北条高時幼名〕ノ六歳ニテ雀ヲアソハシ給フ、横溝次郎(=景宗か)*14イタキ申テアソハセタリ、鳥ハ工藤七郎左衛門尉是ヲ取、同廿六日ニ御餅是アリ、食手一番三浦安芸守(=三浦(横須賀)時明か?)*15、二番小笠原孫次郎、三番武田伊豆守、鳥ノ切手長崎木工左衛門尉、鳥ノ加用工藤次郎衛門尉、
(中 略)
一 鳥ノ餅ノ時役人
式御肴 ウチミ アツモノ |
御剱 長崎左衛門尉盛宗(=円喜か) 御馬 同木工左衛門四郎 |
||
式御肴 ウチミ アツモノ |
御剱 諏訪左衛門尉宗秀(=宗経/直性か) |
||
三浦安芸守(=時明?) |
白餅 黒餅 赤餅 |
武田彦七 太刀 南条左衛門尉 |
|
白餅 黒餅 赤餅 |
太刀 長崎宮内左衛門尉 |
||
武田伊豆守 |
白餅 黒餅 赤餅 |
太刀 長崎弥四郎左衛門尉 小笠原四郎 |
●【史料③】『北条貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』):元亨3(1323)年10月27日の北条貞時十三年忌法要にて「武田伊豆入道」が銭50貫と馬一疋置鞍、鹿毛を寄進*16。
●【史料④】『常楽記』元亨4(1324=正中元)年条
「十月三日安藤左衛門入道息女他界武田伊豆前司妻」*17
●【史料⑤】『常楽記』正中3(1326=嘉暦元)年条
「七月五日武田伊豆入道他界」*18
●【史料⑥】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*19
陸奥守(大仏貞直) 河越参河入道(貞重)
小山判官(高朝) 佐々木近江入道(貞氏?)
佐々木備中前司(大原時重) 千葉太郎(胤貞)
武田三郎(政義) 小笠原彦五郎(貞宗)
諏訪祝(時継?) 高坂出羽権守(信重)
島津上総入道(貞久) 長崎四郎左衛門尉(高貞)
大和弥六左衛門尉(宇都宮高房) 安保左衛門入道(道堪)
加地左衛門入道(家貞) 吉野執行
一手北 自八幡于佐良□路
武蔵右馬助(金沢貞冬) 駿河八郎
千葉介(貞胤) 長沼駿河権守(宗親)
小田人々(高知?) 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
伊東大和入道(祐宗) 宇佐美摂津前司(貞祐)
薩摩常陸前司(伊東祐光?) □野二郎左衛門尉
湯浅人々 和泉国軍勢
一手南西 自山崎至天王寺大路
江馬越前入道(時見?) 遠江前司
武田伊豆守 三浦若狭判官(時明)
渋谷遠江権守(重光?) 狩野彦七左衛門尉
狩野介入道(貞親) 信濃国軍勢
一手 伊賀路
足利治部大夫(高氏) 結城七郎左衛門尉(朝高)
加藤丹後入道 加藤左衛門尉
勝間田彦太郎入道 美濃軍勢
尾張軍勢
同十五日 佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
同十六日
中村弥二郎 自関東帰参
各「武田伊豆守」の世代推定
これらの「武田伊豆守」について、各々同年での任官とし、当時50~60代と仮定して生年を推定すると次のようになる。但し、任官はもう少し遡るであろうから、それに伴い生年も若干遡ると考えていただければと思う(あくまで "遅くとも" ということである)。
①・② 徳治2(1307)年「武田伊豆守」
→ 1247~1257年生まれ
③ 元亨3(1323)年「武田伊豆入道」
→ 1263~1273年生まれ
④ 元亨4(1324)年「武田伊豆前司」
→ 1264~1274年生まれ
⑤ 正中3(1326)年「武田伊豆入道他界」
⑥ 元弘元(1331)年「武田伊豆守」
→ 1271~1281年生まれ
①・②の「武田伊豆守」については武田時綱とほぼ同世代ということになる。但し『綱要』によると時綱は正安2(1300)年5月に出家、徳治2年7月3日に逝去とするので、時綱とは断定し難い。時綱と世代が近い可能性が高い人物としては従兄弟の信家(宗信)が挙げられよう。父の五郎三郎政綱は得宗被官化して北条氏に近侍したとされ、文永8(1271)年4月27日、執権・北条時宗より甲斐国甘利庄南方の地頭代に任じられた「武田三郎入道妙意」(『紀州三浦文書』)*20も政綱に比定される可能性があり*21、無官のまま出家を遂げた可能性が高い。前述の通り、兄の信時は1270年代当時も「五郎次郎」を称していたから、弟である政綱もそれを超えて任官していたとは考えにくい。
そもそも①の結番、②の矢開きに参加のメンバーは北条氏一族や長崎・諏訪・尾藤などの得宗被官(御内人)が中心で、武田とも遠戚関係にある三浦(佐原流)・小笠原両氏も本来は御家人でありながら事実上被官化していたと考えられている家柄である。従って①・②での「武田伊豆守」も得宗被官化していた政綱(石和)流の人物とみなすのが妥当であろう。『分脈』で「伊豆守」と注記される武田宗信に比定しておきたい。
*ちなみに、永仁4(1296)年7月5日付「前太政大臣(堀川基具? 西園寺実兼?)家政所下文」(『豊後詫摩文書』)に「前伊豆守源朝臣」とある*22のが確認できる。勿論、堀川氏を出した村上源氏、佐々木氏ら宇多源氏など、源氏は武田氏の源流である清和源氏とは限らないが、武田氏も一応その候補にはなり得る。仮に武田氏の場合、この当時信時は故人であるため、その子・時綱に比定し得ると思うが、伊豆守を辞していたことになり、徳治の武田伊豆守=宗信 説を補強するものとなる。但しこれは根拠に弱く、あくまで一仮説に留めておきたい。
次に、③・④を並べると、元亨年間(1320年代前半)に伊豆守を退任後に出家した者、在俗であった者の2名が実在したことになる。伊豆入道に関しては世代がもう少し前になるかと思うが、②の「武田伊豆守」がその後出家した姿であった可能性は十分に考えられる。結論から言えば「武田伊豆入道」もやはり宗信に比定される可能性が高いのではないか。
④について整理しよう。「安藤左衛門入道」とは正和年間成立『当社記録鶴岡八幡宮』〈國學院大學所蔵本〉にある「安藤左衛門入道昌顕」*23、或いは安東左衛門入道聖秀に比定されるのであろうか。その娘が「武田伊豆前司」の妻であったという。
安藤(安東)氏も得宗被官として知られ、同氏と婚姻関係を結ぶ「武田伊豆前司」も同じく得宗被官であったと考えられる。これは宗信の子・貞信の可能性が高いのではないか。貞信が伊豆守であった可能性については後述する。
⑤については、④の「武田伊豆前司」が間もなく出家して亡くなったとするよりは、③の「武田伊豆入道」に比定するのが自然かと思う。高野賢彦氏は④・⑤を共に信家(宗信)として扱ってしまっている*24が、誤りであろう。また、④が貞信だとすれば【図A】にあるように貞和3年6月逝去でなければおかしい。よって1326年7月5日に亡くなった⑤も宗信に比定される。
【史料⑥】では退任者の場合「○○前司」と記されているから、⑥の「武田伊豆守」は④「武田伊豆前司」の後に武田氏一族で伊豆守任官を果たした人物であったことになる。これについては、『甲斐国志』(以下『国志』と略記)に基づくものだろうか、同史料での「武田三郎」=石和流の政義*25に対し、信時流の武田信宗であるとされてきた*26。高野氏もそれに加え、同じく『国志』に「興国六年(康永四年。一三四五)の天龍寺供養のとき先陣随兵に伊豆守また伊豆前司と二人あり、このとき前司というは信宗に当たるべし」と書かれている*27として、『綱要』にある元徳2(1330)年死亡説に疑問を呈されていた*28。
しかし『参考太平記』によると毛利・北条・金勝院・南都の各本『太平記』および今川本の27巻では「武田伊豆前司信武」と記すようで*29、また実際の史料である『伊勢結城文書』にも「武田伊豆前司 信武」と明記される*30ことから、単に江戸時代当時の見解を記したに過ぎない『国志』(1814年成立)での記述は否定される。すると、同書で⑥「武田伊豆守」=信宗とする見解にも信憑性に疑いが出てくる。
そもそも冒頭に掲げた『綱要』の生年から算出すると、仮に⑥と同年の任官である場合、当時63歳で伊豆守在任であったことになる。鎌倉初期の2代・信光と比べれば遜色ないかもしれないが、世代が下るにつれ任官年齢は多少でも低年齢化するのが自然であり、実際、息子の信武は43歳で(後述次節参照)、その長男・氏信は41歳で*31伊豆守となっている。それに比べると信宗はあまりにも高齢で、次代(信武)でいきなり20歳も低年齢化しているのも不自然と言わざるを得ない。
山梨県甲府市にある法泉寺(法泉禅寺)は、元徳2年に信武が亡くなった父・信宗の菩提寺として創建したのに始まると伝えられ*32、これと整合性が取れることから、『綱要』での信宗の没年は信用して問題ないのではないかと思われる。尚『綱要』を信ずるならば、元応2(1320)年12月11日に52歳で剃髪済み(法名:光阿)で「伊豆守」と称される筈は無いのである。
また、『国志』では、元弘2(1332)年(同巻「正成天王寺未来記披見事」より)9月20日に鎌倉を発ち上洛した鎌倉幕府軍のメンバーを載せる『太平記』巻6「関東大勢上洛事」の「武田伊豆三郎」*33を信武に比定する。その通称名は、父が伊豆守(前任者でも可)で、無官である自身は仮名の「三郎」を名乗っていたことを示すが、信武については金沢貞顕の書状で「武田彦六」の名が確認できる*34上、むしろ翌3(1333)年4月3日の四条猪熊の戦いを描く巻8「四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事」文中の「武田兵庫助」*35に比定されると思われる*36ので、伊豆三郎と同人の可能性は無いと思われる。
当時「三郎」を称するのは、やはり先に紹介した "武田三郎" 政義であろう。従って政義の父・貞信は伊豆守任官歴があったと考えられる。家督の座は政義に譲っていたようだが、まだ存命であった貞信は④以来この当時も「伊豆前司」のままであったとみられる。もしかすると、④にあった「妻」とは政義・貞政兄弟の母親だったのではないか。
では、⑥において「武田三郎」とは別に参加する「武田伊豆守」とは誰なのか? 結論から言えば、これは【図A】にも掲げた信隆流武田信貞の可能性が高いのはないかと思う。
信貞については『建武記』(『建武年間記』)に延元元(1336)年4月、建武政権での武者所六番の筆頭に結番された人物として「武田大膳権大夫信貞」とあるのが確認できる*37が、名の類似のためであろう、『分脈』上では『建武記』に載せられていない貞信に対しても「建武々者所」と記したり(前掲【図A】参照)、『国志』でも「武田大膳権大夫信貞」を貞信と見なしたり*38と長らく混同されてきた。そして先行研究では、信時流と政綱流の嫡流をめぐる抗争というところがクローズアップされるばかりに、信貞を輩出した信隆流武田氏はまるで "無視" されてきたように思われる。
特に信隆の次男・時隆の系統は「時隆―宗光―信貞」と、得宗「時頼―時宗―貞時」の偏諱を受けた痕跡が見られ、この烏帽子親子関係を通じて得宗に接近し、政綱流に同じく事実上得宗被官化していたのではないか。前掲【史料①】の「武田弥五郎」も信貞の可能性が高く、分家から抜擢され重用されていたと思われる。
*ちなみに、【史料①】において「武田伊豆守」と同じく5番衆の一人となっている「武田七郎五郎」については、永井晋・梶川貴子両氏の研究によると『御的日記』38年分の正月的始の記録の中で、一番筆頭の射手を4回務めた人物として「武田七郎五郎時信」の名が確認できるといい*39、『分脈』上での信貞の弟・時信(七郎二郎)に比定されよう。「二」は「五」が伝写の過程で誤って書かれてしまったものと思われる。嘉元の乱(1305年)に際し、北条時村殺害犯の一人、海老名季綱(左衛門次郎秀綱と表記)を足利貞氏(義観)に預ける時の使者を務めた「武田七郎五郎」*40も同じく時信に比定される。
*建武元(1334)年正月付「関東廂番定書写」*41において一番衆の一人に書かれる「武田孫五郎時風(ときかぜ?)」についても『分脈』以下の系図類に記載が無く系譜不詳だが、「時」字を持つことから信貞・時信兄弟に同じく時隆の系統に属する近親者だったのではないかと思われる。
武田信武の「伊豆守」任官と安芸守護在任
前節に関連して、建武3(1336)年8月、伊予国忽那島泰山城に攻め寄せた「安芸国守護武田之伊豆守」(『忽那島開発記』)*42、「安芸武田伊豆守」(『長隆寺文書』)*43の人物比定を行いたいと思う。
同年6月25日付の「逸見有朝軍忠状」には安芸国安木町村地頭であった有朝が「大将 武田兵庫助信武」に属して摂津国水田城を攻めたと書かれており*44、この当時信武は兵庫助であったことが窺える。このことは毛利元春自筆の書状(永和2(1376)年のものとされる)の写しにも回想として「建武二年冬……(略)……武田奥陸守〔ママ、陸奥守の誤記〕信武 未為兵庫助之時(=まだ兵庫助であった時)、」*45と書かれていて裏付けられる。
そして、同年9月日付「周防親経申状」文中に「七通 大将軍当国(=安芸国)守護人武田兵庫助一見状案」とあり*46、兵庫助信武がこの当時の安芸守護であったことも分かる。
以上より、建武3年に安芸守護であったという「武田兵庫助(信武)」と「武田伊豆守」は、別人と考えるよりも、同年に官職が変わった同一人物と見なすべきであろう。従って忽那島を攻めたという「武田伊豆守」=信武に比定され、この年に43歳で伊豆守任官を果たしたことになる。9月の書状では証文の目録の中で、出された当時の呼称として「武田兵庫助」と書かれたに過ぎず、8月には伊豆守であったと思われる。
次に示すように、暦応4(1341)年には「武田伊豆守信武」と明記された書状が複数確認できる。
●【史料D】暦応4(1341)年6月6日付「足利直義軍勢催促状写」
【D-1】(『萩藩閥閲録』58「内藤次郎左衛門」所収)*47
【D-2】(「萩藩譜録」児玉文書)*48
石見国凶徒退治事、所遣武田伊豆守信武也、早令発向、可致軍忠之状如件、
暦応四年六月六日 直義ノ判
児玉
●【史料E】暦応4年11月10日付「武田信武請文」(『吉川家文書』)*49
吉河紀次郎経朝*申、父三郎師ー*平字有憚事、去六月三日御奉書、謹承候畢、而彼師平*、去建武二年十二月廿六日、於芸州矢野城、熊谷四郎三郎入道蓮覚誅伐之時、為御方討死之条、無子細候、此条偽申候者、
八幡大菩薩御罰お〔を〕可罷蒙候、以此旨可有御披露状候、恐惶謹言、
暦応四年十一月十日 伊豆守信武請文(花押)
*吉川師平・経朝父子は播磨吉川氏。本文に書かれているように、師平は建武2(1335)年12月26日安芸矢野城における熊谷蓮覚との戦いの中で足利尊氏方(信武側)として戦死している。
前述の通り1345年の段階では退任済みで「武田伊豆前司 信武」と呼ばれており、伊豆守を数年で退任したようである。尚、貞和6(1350)年11月日付「吉川経盛申状」(『吉川家文書』)に「当国(=安芸国)守護武田兵庫助」*50とあるほか、前述の元春書状に「歓〔観の誤記〕応元年(=1352年)……(略)……芸州
尚、『毛利文書』所収、金子平内左衛門尉信泰宛ての文和年間の書状数点には「武田陸奥守」と書かれており(→『大日本史料』6-16 P.240など)、文和4(1355)年12月17日付の書状で「武田陸奥守信武」と記される(→『大日本史料』6-20 P.94)ことから、信武が伊豆守を辞して「前伊豆守」や「伊豆前司」と称されていた後に陸奥守に任官していたことも判明している。信武の通称・官途の変化は「彦六(無官)」→「兵庫助(正六位下相当・次官級)」→「伊豆守(従六位下相当・長官級/国守)」→「陸奥守(従五位上相当・長官級/国守)」であったことになる。
まとめ
以上の考察より、鎌倉時代後期の複数史料における「武田伊豆守」は、各々次のように比定する。
● 徳治2(1307)年「武田伊豆守」→「武田伊豆入道」:武田宗信(信家)
●「武田伊豆前司(安藤入道娘婿)」:武田貞信
* 1324年逝去の妻(安藤左衛門入道娘)は政義・貞政兄弟の母か。
*「武田伊豆三郎」・「武田三郎」は"石禾三郎"政義か。
● 元弘元(1331)年「武田伊豆守」:武田信貞(のち大膳権大夫)
● 建武3(1336)年「武田伊豆守」:武田信武(初め兵庫助)
勿論、『分脈』や僅かな史料からの推定に過ぎないので、今後の新史料発見次第で訂正の余地は残している。ただ、『分脈』以下系図類での信時流武田氏(信時・時綱・信宗)の「伊豆守」注記は信憑性に疑いがあることは指摘しておきたい。管見の限り、従来の研究では信時流と政綱(石和)流による嫡流争いに焦点が当てられることがほとんどであったと思われるが、それ以外で別系統から信貞が「伊豆守」 と注記される点には着目すべきである。
2代・信光にゆかりの「伊豆守」への任官は、武田氏内部で嫡流を主張するにあたって大きな意味があったとみられ、高野氏は鎌倉時代後期において幕府が「政綱系の甲斐武田家を武田本家として扱っていた可能性」*52を指摘する。近年の研究では「信時系は信時の孫信宗に至って安芸守護職と伊豆守を再び手に入れた」*53とされるが、信宗が安芸守護および伊豆守であったということが確認できる史料は今のところ無く(前者は『分脈』に「安木〔ママ〕守護」とあるのみで必ずしも信用できるものではない)、実際には息子・信武の代にそれが叶えられたというのが本当なのではないか。
一部系図によれば信宗は一時没落していたようで、信武以降得宗の偏諱を受けていないことがその証左の一つになり得よう。前述したように、鎌倉時代末期には "武田彦六" 信武も御家人として復帰しつつあり、「兵庫助」への任官も叶ったが、その立場は、庶流から台頭してきた宗信・貞信父子や信貞の後塵を拝するものであったと思われる。
幕府に殉じた一族もいる*54中、信武・貞信の子政義・信貞はいずれも殉ずることなく乗り切り、建武政権下で各々伊豆守、駿河守*55、大膳(権)大夫に昇進したとみられる。信武にとって信光以来の伊豆守任官が許されたことは有難いことであったと思われるが、官位相当の面では依然として政義や信貞に劣っており、足利尊氏に従いながら勢力回復を目指したとみられる。貞和2(1346)年には既に信武が武田氏の惣領として認められていたと判断される*56。
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*2:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション。高野賢彦『安芸・若狭武田一族』(新人物往来社、2006年)P.28・48・54・56 にもこれに関する言及あり。
*3:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.258「信光 伊沢(武田)」の項 より。尚、本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*5:『吾妻鏡』承久2年12月1日条より。義村の生年(推定)については 三浦泰村 - Henkipedia を参照。
*6:『吾妻鏡』嘉禎3年6月23日条に「武田五郎次郎信時」とある。
*7:年代記建治2年、『鎌倉遺文』第16巻12449・12450号、リ函/12/:関東御教書案|文書詳細|東寺百合文書・ア函/27/2/:関東御教書案|文書詳細|東寺百合文書 各ページを参照のこと。
*8:『大善寺文書』1351年10月26日付の書状に「安芸守信成」とある(→ 『大日本史料』6-15 P.546)により武田信成に同定される。
*10:『武田家過去帳』に「甲州武田修理亮・伊豆守・陸奥守信春」と記載されている(→『大日本史料』7-18 P.381)ほか、『大善寺文書』には文和4(1356)年2月25日付で「修理亮信春」発給の書状が収録されており(文中にも「武田修理亮信春」とあり)(→『大日本史料』6-19 P.715)、『国志』でも信春書状についての言及の上で「太平記観応三年ノ記」の「刑部大輔子息修理亮」を信春とする(→『大日本史料』7-18 P.387)。
*11:『師守記』正平19/貞治3(1364)年5月23日条には、同月12日に「武田前弾正少弼信明」が従四位上への昇叙と陸奥守への任官を認められたことが記されている(→『大日本史料』6-25 P.774)ほか、『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録事」の文中にも前年の貞治2(1363)年7月20日に「同郷(=甲斐国一条郷)内道場西屋敷一宇」を寄進した人物として「弾正少弼信明」とあるのが確認できる(→『大日本史料』6-26 P.567)。よってこれ以前に武田信明が弾正少弼であったことが分かる。信明については『分脈』や『綱要』に記載が無く、前述の通り陸奥守任官が確認できることから、僅かに『武田源氏一流系図』に信武の子の一人として載せられる「大井陸奥守信明」に比定されようか。一方、これら3つの系図では弾正少弼任官者を信武の別の子・直信(ただのぶ)とするが、信明が弾正少弼であったことは明白であり、実は直信=信明だったのではないか。直信は足利直義から偏諱を受けていたが、後にその字を棄てて信明に改名したものと推測され、『分脈』の武田氏系図はその改名および陸奥守任官以前に成立していたため信明が書かれなかったのではないかと思われる。
*12:『鎌倉遺文』第30巻22978号。
*13:中澤克昭「武家の狩猟と矢開の変化」(所収: 井原今朝男・牛山佳幸 編『論集 東国信濃の古代中世史』、岩田書院、2008年)P.200・203。細川重男「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻第12号、 信濃史学会、2012年)P.959。
*14:梶川貴子「得宗被官の歴史的性格 ー『吾妻鏡』から『太平記』へー」(所収:『創価大学大学院紀要』34号、創価大学大学院、2012年)P.395 注43 によると、『御的日記』38年分の正月的始の記録の中で、一番筆頭の射手を2回務めた人物として「横溝次郎景宗」の名が確認できるという。
*16:『神奈川県史』資料編2 古代・中世 2364号(P.709)。
*19:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*20:韮崎市の地名 甘利庄(あまりしょう) : 山梨県歴史文学館。
*21:甘利荘 - Wikipedia より。典拠である、秋山敬『甲斐の荘園』(甲斐新書刊行会、2003年)P.112~113「甘利荘」の項 では政綱か信家のいずれかとするが、仮にどちらかが正しいとすれば政綱の可能性が高いことは本文を参照。
*22:『鎌倉遺文』第25巻19094号・19095号。
*23:梶川貴子「得宗被官南条氏の基礎的研究 ー歴史学的見地からの系図復元の試みー」(所収:『創価大学大学院紀要』第30号、2008年)P.437 によれば、坂井法曄「南条一族おぼえ書き(下)」(所収:『興風』第16号、興風談所、2004年)に翻刻が掲載されているという。
*24:注2前掲高野氏著書 P.71。
*25:『建武記』(『建武年間記』)建武元(1334)年10月14日条に北山殿笠懸射手の1人として「武田石禾三郎政義」と記載が見られる(→ 『大日本史料』6-2 P.36)。『分脈』では信家(宗信)の傍注に書かれる「石禾三郎」を、その孫である政義も継承したと判断される。
*26:注2前掲高野氏著書 P.57。甲斐国志. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。
*27:注2前掲高野氏著書 P.60 より引用。甲斐国志. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。
*28:前注高野氏著書 同箇所。
*31:武田氏信 - Henkipedia 参照。
*32:法泉寺由緒、法泉寺と武田家(いずれも法泉寺の公式ホームページ内)および 注2前掲高野氏著書 P.60 より。
*33:「太平記」関東大勢上洛事(その1) : Santa Lab's Blog 参照。
*34:元徳2(1330)年のものとされる正月7日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』、『鎌倉遺文』第40巻31118号)の文中に「…武田彦六も、只今入来候之間、…」とある。
*35:「太平記」四月三日合戦の事付妻鹿孫三郎勇力の事(その9) : Santa Lab's Blog。
*36:武田氏信 - Henkipedia 参照。
*38:甲斐国志. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*39:梶川貴子「得宗被官の歴史的性格 ー『吾妻鏡』から『太平記』へー」(所収:『創価大学大学院紀要』34号、創価大学大学院、2012年)P.395 注43。典拠は 永井晋「鎌倉幕府の的始」(所収:『金沢文庫研究』296 号、1996 年)。
*40:工藤時光 - Henkipedia【史料15】参照。
*41:『大日本史料』6-1 P.421。『南北朝遺文 関東編 第一巻』39号。
*44:『大日本古文書』家わけ第十一『小早川家文書之二』P.349(五六一号)。
*45:『大日本古文書』家わけ第八『毛利家文書之一』P.19(一五号)。
*46:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.310(一一四五号)。
*48:http://www5b.biglobe.ne.jp/~sho-rai/kodamatoichizokunodoukou.no.7-1.ht 一二三号。
*49: 『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.175(九九九号)。
*50:『大日本古文書』家わけ第九「吉川家文書之一」P.193(二一七号)。『大日本史料』6-13 P.684・6-14 P.66。
*51:『大日本古文書』家わけ第八『毛利家文書之一』P.22(一五号)。
*52:注2前掲高野氏著書 P.71より引用。
*53:注2前掲高野氏著書 P.51より引用。
*54:『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年5月9~14日 に掲載の『近江国番場宿蓮華寺過去帳』を見ると、六波羅探題・北条仲時に殉じた者の中に、武田下条十郎光高(21)(P.23)、武田与次光方(42)(P.28)が含まれており、『分脈』以下の系図類で記載は見られないが、信光の「光」を有することから甲斐武田氏の一族であったと推測される。
*55:『一蓮寺過去帳』に「武田太郎駿河守信義」(→『大日本史料』5-27 P.251)、『諸家系図纂』所収「武田系図」信義の注記に「駿河守」とある(→『大日本史料』5-27 P.259)が、『吾妻鏡』での逝去の記事には「武田太郎信義」と書かれており(→『大日本史料』4-1 P.188)生涯無官であったとみられる。『諸家系図纂』にある別の「武田系図」には「賜駿河国守護」とあり(→『大日本史料』5-27 P.261)、駿河守と駿河守護が混同されたのかもしれない。いずれにせよ、政綱流では「駿河守は家祖・信義にゆかりのある官職」という認識があった可能性が高く、政義或いは父・貞信がこの駿河守への推挙を願い出たものと思われる。またこの官職は鎌倉時代にほぼ一貫して北条氏一門によって世襲されており、その跡を引き継ぎたい思いもあったかもしれない。
*56:『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録事」の文中に「一.同国一条郷蓬澤内田地一町七段 武田惣領源信武寄進、貞和二年十月十三日」とある(→『大日本史料』6-26 P.567)。