Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

塩飽盛遠

塩飽 盛遠(しわく*1 もりとお、生没年不詳)は、鎌倉時代後期の得宗被官。官途は右近将監

尚、出家後の同人と思われる塩飽了暁(― りょうぎょう、右近入道)についても本項で扱う。

 

 

はじめに

最初に、次の史料をご覧いただきたい。

【史料1】元応2(1320)年9月25日付「関東下知状案」(『小早川家文書』)*2より

……如𪉩飽右近入道了曉執進寺家正和三年十月十八日請文者、永仁五年被寄進當寺之間、本主被収公之次第不存知云々、……

この史料から、正和3(1314)年10月18日に寺家に請文を発給*3した人物として「塩飽右近入道了暁」なる人物の存在が確認できる。次節以降ではこの塩飽了暁について、現存する史料からその活動の形跡を追ってみたいと思う。

 

得宗公文所職員としての活動と政治的立場

まず、次の史料に着目したい。

【史料2】延慶3(1310)年3月8日付「得宗公文所奉書案」(『明通寺文書』)*4

異國降伏御祈事、御教書如此、早任被仰下旨、可相觸若狭國寺社別〔当 脱字カ〕神主之由、可被下知代官候、仍執達如件、

 延慶三年三月八日 親經 在〻

          了曉 在〻

          時綱 在〻

          資□ 在〻

 工藤四郎右衛門尉殿

この【史料2】は、若狭国内の寺社に「異国降伏御祈事」を命じる関東御教書を施行したもので、工藤四郎右衛門尉(実名不詳)守護代へこのことを伝達するよう命じたもの(の写し)である。細川重男が述べるように、宛名の工藤氏は若狭守護代を複数人輩出した得宗被官であるから、この書状は得宗公文所奉行人連署奉書であり*5、「資□」と「時綱」に次ぐ奉者の第三位に「了暁」の名が確認できる。【史料2】と正和3年では時期が近く、「了暁」と号する人物が何人も存在したとは考えにくいため、塩飽氏である可能性が高いと思われる。

続いて次の史料に着目してみよう。 

【史料3】正和5(1316)年閏10月18日付公文所奉書(『多田神社文書』)*6

攝州多田院塔供養御奉加御馬事、先日被仰下之處、無沙汰云〻、不日可被沙汰進之由候也、仍執達如件、

 正和五年閏十月十八日 □直(花押)

            了□(花押:下記参照

            演心

            高資(花押)

 工藤右近入道殿

右は「工藤右近入道」こと工藤宗光*7法名不詳)に対し、摂津国多田院の塔供養奉加の馬について再度指令を下したものである。この宗光も、若狭国守護代を務め、多田院政所に多くの書下を発給している工藤貞祐*8とは同族(「南家伊東氏藤原姓大系図」)得宗被官であるから、【史料3】得宗公文所奉行人連署奉書である。

 

細川【史料2】【史料3】を照らし合わせ、

奉者第一位:「資□」=「(長崎)高資」

奉者第二位:「(尾藤)時綱」=「(尾藤)演心」

とされているから、

奉者第三位:「了暁」=「了□

とみなして良いのではなかろうか。【史料2】【史料3】は双方とも、長崎高資尾藤演心塩飽了暁が奉者の上位三つを占めて発給した奉書であったと推測される。塩飽了暁は長崎・尾藤両名と同じく得宗公文所の職員であり、家格は彼らに比べやや劣るかもしれないが、幕府の政務に携わる程の有力な得宗被官であったことは認められよう。

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こちらは【史料3】における「了□」の花押である。これと同じ花押を持つ史料として、他に以下2点が確認できる*9

 

【史料4】文保元(1317)年12月日付「陸奥国平賀郡大平賀郷正和四・五両年年貢結解状」(『南部文書』)

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【史料5】元応2(1320)年10月30日付「得宗公文所奉行人連署奉書」(『宗像神社文書』):奉者第三位「沙弥」の花押

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*花押の一致により、第一位「左衛門尉」=(長崎)高資、第二位「沙弥」=諏訪宗経(直性)と分かり、依然として執事家に次ぐ家格・地位を有していたことが推測される。

 

この他、元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時13年忌法要について記された『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)において「銭二十貫 太刀一 亀甲作、」を進上する「塩飽右近入道」についても、【史料1】との時期の近さからして『神奈川県史』での推定通り了暁に比定されよう*10。同史料で「常陸前司輔方」に「馬一疋栗毛」を「大夫土佐前司殿」が進上する際の御使を務めた「塩飽右近三郎*11は了暁の息子なのではないか。

 

 

了暁の俗名について 

前節までに触れてきた史料からは、了暁の俗名(出家前の実名・諱)について知ることは出来ない。また、塩飽氏については系図類も特に残されていない。

ところが、その手がかりとなる史料が近年発表された。次の記録である。 

【史料6】『嘉元三年雑記』宮内庁書陵部蔵『醍醐寺記録』所収)5月22日条 より一部抜粋*12

……正応六年平左衛門入道杲円被誅之後、自四月廿三日仏眼御修法被修之、伴僧八口、修法以後被成護摩一七ヶ日、以注文被成供、奉行二人塩飽右近将監盛遠・神四郎入道了儀*、……

* 尊経閣文庫蔵の写本では「了義」と表記*13

嘉元3(1305)年の嘉元の乱に関する史料中、回想する形で正応6(1293)年の平禅門の乱の際の法験について述べられた部分であるが、その奉行を務めた人物として塩飽盛遠の名が確認できる。この盛遠の官途は右近将監であり、嘉元3年当時のそれであったと見なして良いと思うが、前述の工藤宗光(右近将監→右近入道)に同じく、出家すると「右近入道」と呼ばれ得る。

そして、僅か約5年後の【史料2】で "右近入道" たる「了暁」が現れるから、時期の近さからし盛遠=了暁と見なして良いのではないか

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尚、『東寺百合文書』に所収の、卯月(4月)2日付「工藤貞景書状案」*14の宛名「塩飽入道殿」は、同日付の「塩飽右近入道書状案」*15の冒頭に「塩飽右近入道殿返状案」とあることから、正確な呼称が "塩飽右近入道" であったことが窺える。いずれも「嘉元二」との付記があるので【史料6】の前年の史料と分かり、この塩飽入道と盛遠は別人と見なすのが妥当である。

*この塩飽右近入道は貞和2(1346)年2月日付「若狭国太良庄禅勝申状案」(『東寺百合文書』)*16の文中にある同国恒枝保・富田郷などの給主「塩飽右近入道法〔ママ、塩飽右近入道道法か〕*17に比定されるのではないかと思われる。恐らくは盛遠(了暁)の父親もしくは先代ではなかろうか。

 

以上より、塩飽了暁の出家前の俗名は「盛遠」であったと推定される

前述の『北條貞時十三年忌供養記』に登場する「塩飽藤次高*18や、鎌倉幕府滅亡に殉じた塩飽聖(新左近入道、俗名不詳)*19とは「」の字が共通しており、親戚(同族)関係にあったと見て良いだろう。

 

 

脚注

*1:「しあく」などとも読まれる(→ 塩飽(しあく、しわく) -人名の書き方・読み方 Weblio辞書塩飽さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索No.1/名字由来net などを参照)が、正中元(1324)年のものとされる「東盛義所領収公注文」(『金沢文庫文書』所収/『鎌倉遺文』第37巻28943号)の端裏書に「塩涌〔ママ〕新右近入道」と書かれており、「(わ-く)」の読み方からすると「しわく」と読まれていたとみて良いだろう。塩飽氏が拠点にしていたと思われる瀬戸内海の塩飽諸島も現在この読み方である。ちなみにこの新右近入道は、同じく出家以前は右近将監在任であったとみられ、「右近入道了暁」と区別のために「新」が付されたものと思われ、盛遠(了暁)の嫡男或いは近親者であろう。

*2:『大日本古文書』家わけ第11『小早川家文書之二』P.160~163(二八五号)。『鎌倉遺文』第36巻27574号。

*3:但し、この書状については『鎌倉遺文』・『大日本古文書』等に収録されておらず、今のところ未確認である。

*4:『鎌倉遺文』第31巻23932号。

*5:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.184 註(73)。

*6:『鎌倉遺文』第34巻26002号。

*7:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大編『中世武家系図の史料論 上巻』、高志書院、2007年)P.113。

*8:星野重治「南北朝期における摂津国多田院と佐々木京極氏:分郡守護論(守護職分割論)の再検討を中心に」(所収:『上智史學』48号、2003年)P.71によれば、貞祐は多田院の領主である北条氏の意を受けて、現地で年貢・公事の徴収にあたる政所を指揮・管理する「多田院造営惣奉行」であったといい、その一方で父・杲暁同様に若狭国守護代を務めていたことが確認される(『若狭国守護職次第』)。前注今野氏論文P.114も参照のこと。

*9:『花押かがみ 四 鎌倉時代』(編:東京大学史料編纂所、1985年)P.96・No.2822「某(得宗家家人)」の項 より。

*10:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.707。

*11:前注『神奈川県史』P.706。

*12:菊池紳一「嘉元の乱に関する新史料について ―嘉元三年雑記の紹介―」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』第3章、八木書店、2008年)P.796~797。

*13:前注同論文 P.789。

*14:『鎌倉遺文』第28巻21782号。ミ函/15/1/:工藤貞景書状案|文書詳細|東寺百合文書ゑ函/12/:工藤貞景書状案|文書詳細|東寺百合文書

*15:『鎌倉遺文』未収録文書99900506号(データベース検索結果より)。ミ函/15/2/:塩飽右近入道書状案|文書詳細|東寺百合文書

*16:リ函/45/:若狭国太良庄禅勝申状案|文書詳細|東寺百合文書

*17:『東寺百合文書』リ之部24~34号-三 P.50『福井県史』通史編2 中世

*18:注10『神奈川県史』P.698・701。

*19:『太平記』巻10「塩飽入道自害事」

三浦貞連 (甲斐六郎左衛門尉)

三浦 貞連(みうら さだつら、生没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将、御家人甲斐一条氏武田時信(一条時信)の子で、三浦行連(佐原行連、甲斐守)の養子。通称は(三浦)甲斐六郎左衛門尉。

 

元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時鎌倉幕府第9代執権)13年忌法要について記された『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』、以下『供養記』と略記)を見ると、「銀劔一 馬一疋 鹿毛」を進上する人物として「三浦甲斐六郎左衛門尉」の名が見られる*1。また、同日に「阿野中将」こと阿野実廉(右中将として将軍・守邦親王に仕える)に「馬一疋 鹿毛銀劔一」を進上する「甲斐六郎左衛門尉*2も同一人物と見なして良いだろう。

この人物は、次の【図A】に示す『尊卑分脈武田(一条)氏系図以下『分脈』と略記)一条時信の子に「三浦甲斐守養子」・「六郎左衛門尉」と注記される貞連*3に比定されよう。

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▲【図A】『分脈』甲斐一条氏系図

ところで、『続群書類従』巻122所収「浅羽本 武田系図」では時信の子・貞連の注記に「養子 本氏平家三浦也 慶良𠮷元祖」とあり*4平姓三浦氏から一条時信に養子入りした、と解釈し得る。三浦貞連の位置づけ(外部リンク)ではこれを採用するが、もし甲斐一条氏に養子入りしたのであれば「武田甲斐六郎左衛門尉*5或いは「一条甲斐六郎左衛門尉*6と書かれて然るべきである。

そもそも【図A】で見る限り子沢山であった時信*7に養子入りする理由が不明であり、近世成立の浅羽本系図に必ずしも信を置く必要性は無い。よって【図A】ほか『諸家系図纂』・『系図纂要』等複数系図の記載通り、一条氏→三浦氏への養子入りと見なすのが正しいと判断される。

 

甲斐六郎左衛門尉」という通称名は、既にご指摘のように、父が「甲斐守」で、貞連自身の仮名が「六郎」、官職が「左衛門尉」であったことを表す。【図A】にもある通り、貞連の実父・時信も甲斐守であった*8が、養父も「三浦甲斐守」であり、この場合の「甲斐」は養父の官途と見なすのが妥当である。 

「三浦甲斐守」とは誰なのか。三浦氏の系図類を見ると、三浦義連を祖とする佐原流に「甲斐守 行連 六郎左衛門尉 貞連」父子が確認できるから、行連が「三浦甲斐守」で、貞連がその養子であったのだろう。

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▲【図B】武家家伝_横須賀氏掲載の図より一部抜粋

『諸家系図纂』や『系図纂要』によれば、盛連の母(義連の妻)武田信光の娘だったらしく*9、行連は信光の玄孫にあたる。この行連には一応男子がいたようだが、早世したためか、同じく信光の血を引く貞連を養子に迎える運びとなったと思われる。

 信光―女子―盛連―時連―行連
   └ 信長―信経―時信―貞連

では、武田氏側から貞連の世代を推定してみよう。 

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こちら▲の記事にある通り、信光の嫡男・武田信政は『甲斐信濃源氏綱要』によると1196年生まれとされる。この信政の同母弟とされる武田(一条)信長の生年は当然これ以後となる。『吾妻鏡』において、承久元(1219)年7月19日条「武田小五郎」が信政の初見とみられ(上記記事参照)貞応2(1223)年正月5日条「武田六郎」が信長の初見と判断される*10。従って信長は信政と年の離れていない弟で生年も1200年頃であったと推定される。

*ちなみに『吾妻鏡』建長8(1256=康元元)年7月17日条には、信長の子と見られる「武田八郎信経」が登場しており*11、信経の生年は1240年代以前であったと推測可能である。

よって各親子の年齢差を20歳と仮定した場合で、貞連は早くとも1260年代の生まれと推定可能である。但し【図A】で見る限り、信経と貞連が長男でなかった(兄がいた)ことを考慮すれば、更に下らせても良いと思う。

 

そして、元服は通常10代前半で行われることが一般的であったから、その当時の執権が(在職:1284年~1301年)*12であった可能性が十分に高く、連の「」もその偏諱を受けたものと判断される。貞時執権期間内の元服であれば、遅くとも1290年頃までには生まれていただろう。冒頭の貞時13年忌法要への参加は、生前烏帽子親子関係を結んでいたことも一因だったのではないか。

尚、本項の貞連については『供養記』以外には確認できない。元亨3年当時左衛門尉であったが、年齢的にはそれより間もなく官途の面で昇進した可能性も考えられる。ただ、それを裏付けられる史料は今のところ無いため、これについては後考を俟ちたいところである。

 

脚注

*1:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.711。

*2:前注同書 P.705。

*3:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.329。

*4:続群書類従. 巻122 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*5:『供養記』には甲斐武田氏一門とみられる者として「武田八郎(=助政)」、「武田弥五郎」、「武田伊豆入道」、「武田孫七郎」、「武田源太」、「武田十郎五郎入道」の名が見られる。

*6:甲斐一条氏の者が確認できる史料として、『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録」中に「一条甲斐太郎信方/一条甲斐守信方(=時信の孫)」、「一条八郎六郎入道(=時信の弟・宗信か?)女子尼本阿」、「一条十郎入道道(=時信の子・時光か?)」、「一条八郎入道源阿(=時信の子・貞家か?)」の名が見られる(→『大日本史料』6-26 P.567~568・570、人物比定は【図A】による)。特に一条信方の場合、【図A】での注記は「(一条)太郎」とあるのみだが、実際は祖父・時信の官途に因んで「甲斐太郎」と呼ばれ、後に同じく甲斐守となったことが窺える。もし貞連が一条氏に養子入りしたのであれば同様に「一条甲斐六郎左衛門尉」と呼ばれた筈である。

*7:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*8:実際の史料でも『一蓮寺過去帳』に「阿弥陀 信光四男信長四男信綱〔ママ =信経〕嫡男 武田甲斐守時信 武川祖」とあるのが確認できる(→ 甲府市/一蓮寺過去帳)。

*9:大日本史料』5-9 P.645-31 P.101

*10:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.261「信長 武田」の項によると、次いで翌3(1224=元仁元)年2月11日条に「武田六郎信長」と現れ、その後仁治2(1241)年8月25日条に至るまで14回登場する。その後弘長3(1263)年8月9日条に「武田六郎子息一人」が登場するが、この頃 "武田六郎" を称していた武田時綱の息子は系図を見る限り1269年生まれの信宗のみであったから、これも信長に比定されよう。「子息」は【図A】での義長・頼長・信経・信久・信行のいずれかと思われる。

*11:前注『吾妻鏡人名索引』P.257「信経 武田」の項 より。

*12:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

三浦貞連 (因幡守)

三浦 貞連(みうら さだつら、1290年頃?~1336年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人

「横須賀系図(『諸家系図纂』11上所収)*1などによると、父は三浦時明(安芸守)、母は同族・大多和行秀の娘。初名は三浦貞明(さだあき)。通称は六郎左衛門尉、因幡守。曽祖父の佐原時連が宝治合戦の恩賞として相模国三浦郡横須賀郷(現・神奈川県横須賀市を与えられたことに因み、先行研究では横須賀貞連(よこすか ー)*2、或いは時連の子・宗明の家系が杉本氏を称したことから杉本貞連(すぎもと ー)とも呼ばれる。

 

 

生年と烏帽子親の推定

【図1】北条・平(長崎)・三浦(佐原) 3氏略系図

北条泰時
 ||―時氏―時頼―時宗―貞時
矢部禅尼
  ||―光盛―――娘
  ||―盛時    ||――貞宗
  ||―時連―――宗明
三浦盛連     ||―時明―貞明(貞連)―貞清
    平頼綱――娘
        └ 宗綱           

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こちら▲の記事でも紹介の通り、時連は、矢部禅尼法名:禅阿)北条泰時と離縁し、佐原盛連に再嫁した後に産んだ息子の一人である。禅阿が泰時との間に産んだ長男・北条時氏建仁3(1203)年生まれである*3から、時連の生年は確実に同年より後で、初出の『吾妻鏡』文暦元(1234)年正月1日条の段階では兵衛尉に任官済み(同(佐原)六郎兵衛尉)で10代後半~20代に達していたと思われるから、1210年代前半であったと推測される。従って各親子間の年齢差を20歳と仮定した場合、貞連は早くとも1270年代の生まれと推定可能である

この場合、同じく禅阿の玄孫にあたる得宗北条貞時(1271年生まれ)とほぼ同世代となり、また元服は通常10代前半で行われることが一般的であったから、連の「」はの執権期間(1284年~1301年)*4内に、その偏諱を受けたものと判断される。

但し貞連の生年はもう少し下るだろう。貞時の乳母父にして執事(内管領)でもあった平頼綱は1230年代前半~中ごろの生まれと考えられており*5、【図1】に示したように貞連の曽祖父にあたるから、同じように各親子間の年齢差を20歳と仮定すると、貞連は1290年代の生まれとなる。この場合でも元服当時の得宗は変わらず貞時となるから、その一字を拝領したと考えて問題無い。貞時が執権職を辞す正安3(1301)年までの元服の可能性が高いことや、後掲【史料2】にあるように1334年の段階で因幡守を退任済みであったことを考慮すれば、1290年頃の生まれとするのが妥当ではないか。

尚、元服時には祖父以来の通字「明」*6を用いて「貞明」と名乗ったが、理由は不明ながら後に曽祖父までの通字により「貞連」と改めたと伝えられる。

 

 

史料における因幡守貞連

以下、鈴木かほるのまとめ*7に従って、関連史料を列挙して紹介する。

 

【史料2】建武元(1334)年9月27日?)「足利尊氏行幸供奉随兵次第写」(『小早川家文書』):「大概」の一人に「三浦因幡前司貞連*8

◆関連史料:「足利尊氏随兵交名」国立公文書館『朽木文書』)*9

一番 武田八郎次郎信明     十一番 小早川弥太郎 浅利太郎家継
二番 佐々木備中前司時綱     十二番 香川四郎五郎 二階堂丹後三郎
三番 千葉太郎胤貞 大高左衛門尉重成   十三番 香川左衛門尉頼行 何某
四番 佐々木源三左衛門尉秀綱 小笠原七郎頼氏   十四番 南部弥六政氏 三浦秋庭平三秀重
五番 野本能登四郎朝行 土肥佐渡次郎兵衛氏平   十五番 隠岐守兼行 海老名彦四郎秀家
六番 宇津宮遠江守貞泰 上椙蔵人朝定   十六番 萩原四郎基仲 萩原七郎三郎重仲
七番 二階堂信濃三郎左衛門行広 嶋津下野三郎師忠   十七番 日田次郎永敏 河野新左衛門尉通増
八番 三浦因幡前司□□〔貞連〕      十八番 足立安芸守遠宣 嶋津三郎左衛門尉
九番 小笠原七郎次郎頼長(頼氏の子) 田代豊前次郎   十九番 山名近江守兼義政氏の子) 土岐近江守貞経(頼貞の甥)
十番 橘 佐渡弥八公好 小早川又四郎亮景   二十番 細川帯刀直俊 吉見三河守頼隆氏頼の父)
        二十一番 富士名判官雅清 伊勢山城守元貞

(*表は http://chibasi.net/kyushu11.htm より)

 

*以下に掲げるうち、【史料3】・【史料5】は元々軍記物語、【史料4】の押紙は後世に付されたものであり「因幡守」は「因幡守」の脱字もしくは省略と見なして良かろう。

 

【史料3】『太平記』巻14「節度使下向事」*10建武2年11月)、「箱根竹下合戦事」*11(同年12月):「三浦因幡」 

【史料4】建武2(1335)年12月12日付「大炊正供着到状案」(『大友文書』)*12:「三浦因幡在判」の押紙あり。

「大友一族大炊四郎入道正供」が伊豆国佐野山で尊氏側に転じた際、その着到をチェックした書状の案文(控え)であり、貞連がそのチェックに当たったことが窺える。

 

【史料5】『梅松論』下*13より

建武3(1336)年)1月17日*14両侍所佐々木備中守仲親*15三浦因幡守貞連、三條河原にて頭の実検ありしかば千余よぞ聞えし。

1月27日*16辰刻に敵二手にて河原と鞍馬口を下りにむかふ所に、御方も二手にて時を移さず掛合て、入替て数刻戦しに、御方討負て河原を下りに引返しければ、敵利を得て手重く懸りける。両大将御馬を進められて思召切たる御気色みえし程に、勇士ども我も我もと御前にすすみて防戦し所に、上杉武庫禅門(=兵庫頭憲房,法名:道欽)を始として三浦因幡二階堂下総入道行全、曽我太郎左衛門入道、所々に返合々々て打死(=討ち死に)しける間、河原を下りに七條を西へ桂川を越て御陣を召る。

京都賀茂河原での戦いにおいて、尊氏の母方伯父・上杉憲房(道欽)二階堂光貞(行全)らと共に貞連も戦死したと伝えている。この『梅松論』は元々軍記物語ではあるが、同日に合戦があったことは実際の書状に「正月廿七日 賀茂河原合戦(「本田久兼軍忠状」)、「正月廿七日 鴨河原合戦(「和田助康注進状」・「山田宗久注進状」)などと書かれて裏付けられ*17、更に同年9月20日付の足利尊氏下文によれば「宇麻本荘」等の地頭職が合戦での討ち死にの賞として「三浦因幡前司貞連(=後継者の三浦貞清を指すか)に宛行われている(『宮城県史』30所収『宝翰類聚』)*18から、貞連の戦死は史実と判断して良いだろう。前節での推定生年に従えば、享年47ほどであったことになる。

 

【史料6】貞治元(1362)年12月18日付「三浦貞清寄進状」(『前田家所蔵文書』)*19

寄進

 上総国飯富庄内本納・加納両郷事、

右件両郷、任亡父因幡先年避状、且為天下安全、且為家門繁昌、永所奉寄進飫富大明神也、向後更不可有相違、至于子孫、敢不可依違者也、仍奉寄〔進 脱字か〕之状如件、

 貞治元年十二月十八日 前安芸守平貞清(花押)

この史料の発給者「前安芸守平貞清」とその亡き父・因幡守は、『横須賀系図』・『系図纂要』などから三浦貞清とその父貞連に比定される*20。ここには貞連が生前に残した避状(この場合、領有権放棄の意向)に従って飯富大明神に本納・加納両郷を寄進したと記されている。

この【史料】からは貞清が貞治元年当時安芸守を既に辞していたことも窺え、40~50代には達していたと思われる。逆算すると1310~1320年代の生まれと推定可能で、その父・貞連の生年はやはり1290年頃の生まれとして妥当である

 

(参考ページ)

 三浦貞連とは - コトバンク

 三浦貞連の位置づけ

 杉本氏 - Wikipedia

 

脚注

*1:『大日本史料』6-3 P.41

*2:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.280~281。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.115。

*6:この字は元々、祖先の三浦義明に由来するものであろう。

*7:注2鈴木氏著書 P.311。

*8:『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 P.169 二九四号

*9:『大日本史料』6-1 P.914

*10:『大日本史料』6-2 P.744

*11:『大日本史料』6-2 P.787792

*12:『大日本史料』6-2 P.780

*13:鎌倉以後の三浦氏 より。

*14:『大日本史料』6-2 P.1005

*15:佐々木大原氏系譜(2訂): 佐々木哲学校

*16:『大日本史料』6-3 P.16

*17:『大日本史料』6-3 P.1925の各史料を参照のこと。

*18:『角川日本地名大辞典(旧地名編)』「宇摩荘(中世)」解説ページ より。

*19:『千葉県の歴史』資料編・中世4 P.500『尊経閣古文書纂』8。『大日本史料』6-24 P.648 および 上総国 - 「ムラの戸籍簿」データベース望陀郡」> 本納郷・加納郷 の項 より。

*20:系図纂要|国史大辞典|吉川弘文館 - ジャパンナレッジ より。典拠は『日本歴史地名大系』第12巻「おふのしょう【飫富庄】」の項。

山河貞重

山河 貞重(やまかわ さだしげ、生年不詳(1270年代?)~没年不詳(1320年代後半?))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。表記は山川貞重とも。父は山河重義(山川重義)、母は網戸朝村あじと ともむら/十郎、法名:蓮忍)の娘。結城朝光は父方・母方双方で曽祖父にあたる。同母弟に山河光義(山川光義)。子に山河親重(山川親重)、女子(小田知貞室)*1。通称は三郎左衛門尉、判官入道。法名暁尊(ぎょうそん)か。

 

 

生年と烏帽子親の推定 

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▲【系図1】山河貞重周辺関係図

 

父・山河重義

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こちら▲の記事で紹介した系図のうち、『尊卑分脈(【図A】)では貞重の項に「実父時光」と注記されるが、それより遡る鎌倉時代後期の成立とみられる『結城小峯文書』所収「結城系図(【図I】)では、貞重の父・重義(しげよし)の項に「養時光子(時光の子を養う) 母同時村」と書かれているので、「実父時光」の注記は誤って重義の息子(貞重)の所に挿入されてしまったものと考えられよう。すなわち、重義の実父が寒河時光(寒川時光)で、叔父(時光弟)山河重光(山川重光)に養子入りしたことになる。

後者「結城系図」を見ると、重義の伯父・寒河四郎時光の子に次郎時村寒河時村)の記載があり、「母信乃民部大夫行盛女」の注記がある。よって、時村の同母弟にあたる重義も、同じく二階堂行盛(1181-1253)*2の娘が母親であったことになるが、行盛の嫡男・行泰が建暦元(1211)年*3、次男・行綱が建保4(1216)年*4、3男・行忠が承久3(1221)年*5生まれであるから、行盛女子もほぼ同じ位の世代だったのではないかと思われる。

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よって、父・重義の生年はおよそ1240~1250年代位であったと推定される。

 

母・網戸朝村の娘

母方についても確認しておこう。外祖父・朝村は「十郎」という輩行名の通り、朝光の10男だったのであろう。時光や重光の弟ということになる。

吾妻鏡』では暦仁元(1238)年5月16日条に「上野十郎朝村」として初出する。仁治元(1240)年3月12日条に「結城上野十郎」、同2(1241)年11月29日条に「上野十郎朝村 朝広舎弟」、康元元(1256)年11月23日条に「前大蔵権少輔朝広 法名信仏上野四郎左衛門尉時光 法名□□暍名*6同十郎朝村 法名蓮忍、以上結城、各兄弟」とあるから、結城(網戸)朝村に相違ない*7。暦仁元年の段階で元服を済ませていたことが窺えるので、遅くとも1220年代半ばの生まれであろう。

1190年生まれとされる長兄・朝広*8は、『吾妻鏡』での表記の変化に従うと貞応2(1223)年頃に兵衛尉(当時34歳)、文暦元(1234)年に左衛門尉(当時45歳)、仁治2年に大蔵権少輔(当時52歳)と昇進を重ねている*9。嘉禎3(1237)年に初出の時光は仁治元(1240)年から「上野弥四郎左衛門尉時光」*10、寛喜元(1229)年初出の重光も仁治元年から「上野五郎兵衛尉重光」*11と呼ばれているから、各々朝広と同じような昇進を遂げたと考えられ、それは末弟たる朝村にも該当し得たと思われるが、康元元年の段階でも兵衛尉或いは左衛門尉に任官していないのは、年齢がまだそれ相応に達していなかったからであろう。

よって、朝村の生年は1220年代半ば位であったと推測され、その娘は夫・重義とほぼ同世代だったのではないか

 

貞重の生年と烏帽子親の推定

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こちら▲の記事で紹介した系図のうち、白河集古苑所蔵「結城系図(【図H】、結城錦一氏旧蔵)は、端裏書への記載や、結城貞広が幼名の「犬次郎丸」で記されていること、他の系統もそれまでの記載で途切れていることから、永仁2(1294)年の成立と考えられている。この系図で山河氏の部分を見ると、重義の子に貞重(三郎左衛門尉)・光義(五郎)と書かれている。すなわち、永仁2年の段階で兄弟が元服済みであったことが窺え、兄の貞重は左衛門尉任官を果たしていたことも分かる

*ちなみに、同系図では貞重の傍注に「下総守」ともあるが、冒頭で掲げた『分脈』や『結城小峯文書』所収「結城系図」等により、これは父・重義に書かれるべき官途であったと分かるので、永仁2年当時貞重は下総守在任でなかったと判断できる(後述するが、貞重は国守に任官しまいまま出家している)。

結城氏における左衛門尉任官年齢は、前述した通り当初は40代ほどであったが、次第に低年齢化し、ともに20代で亡くなった時広・貞広父子でさえもが左衛門尉任官を果たしていた。貞広の子・朝高(のちの朝祐)もやはり10代後半~20代の間で左衛門尉に任官していたことが判明している。

系図を見る限り、それは結城氏宗家に限らず、庶流でも同じ傾向にあったと判断されるので、貞重も永仁2年当時20代には達していたと判断されるが、前節までに考察してきた父母との年齢差を考慮すれば、1270年代の生まれとするのが妥当と思われる。

 

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ちなみに、重光の外孫にあたる安達時顕は、霜月騒動(1285年)当時、父・宗顕が21歳で一門に殉じ、難を逃れた自身は "襁褓(むつき)を出たとはいえ、未だに乳母の懐の中を離れない" ほどの幼児であったと判明しており、1282年頃の生まれであったと推定されている。

貞重はこの時顕とは、形の上では従兄弟、実際の血縁関係でもはとこ(又従兄弟)の関係にあたるから、年齢的に大幅に離れない、1270年代の生まれとして十分自然であると思う。

そして、先行研究において重の「」は得宗北条偏諱と考えられてきた*12が、これについての考証的な研究は無かったように思う。しかし、1270年代の生まれとすれば、通常10代前半で行う元服が貞時の執権就任(1284年)*13から永仁2年までであったことが確実となり、立証可能である。「」の字は初代当主・光が北条時から1字を受けたものとされ*14北条貞時と山河貞重はそれ以来となる烏帽子親子関係にあったと判断される。

 

 

"山河判官入道暁尊" の活動

まずは、『金沢文庫文書』に収録されている、元亨元(1321)年8月に書かれた次の史料2点をご覧いただきたい。 

【史料2】元亨元年8月日付「沙弥暁尊(山河貞重寄進状案」*15

寄進 下総国結城郡下方内毛呂郷西毛呂河農西岸次、限北大町界、武井界於毛呂河農堰面江堀界、限東加々間堀於上仁、但水面者、半分進退、自毛呂中村原江越、□〔小〕堤東□小橋下与利溝堀於上仁、彼小橋東爪界、其与利久田留、大町農香取宮森於直仁見充天、大界郷界万天堀於保留、限南屋崎与志目波・毛呂二ケ郷乃加々間堀乃橋与利西江六尺杖定弐町捌段四杖者、鎌倉大道於限、自其毛呂与志目波田乃界江見充天、毛呂河江堀於堀、但堰代仁武井郷内田弐段加之、委細絵図并坪付別紙在之、此内自余分無之、

右、所者、暁尊相伝所領也、而且為関東御祈祷、且為先祖仏事報恩、限永代、為不輸免之地、所奉寄進称名寺也、若於彼所仁致違乱兄弟子孫等者、為不孝仁、不可知行暁尊之跡、仍状如件、

 元亨元年八月 日 沙弥暁尊 在判

 

【史料3】元亨元年8月7日付「鎌倉将軍家御教書案」*16

奉寄 称名寺

 下総国結城郡下方毛呂郷

右、任山河判官入道暁尊申請、所被寄進也者、依鎌倉殿(=将軍・守邦親王仰、奉寄状如件、

 元亨元年八月七日 相模守平朝臣(=執権・北条高時在判

          前武蔵守平朝臣(=連署金沢貞顕在判

これらの史料において、下総国結城郡下方毛呂郷(現・茨城県結城市北南茂呂一帯)武蔵国称名寺に寄進することを幕府に申請した「山河判官入道暁尊」は貞重法名とされ*17、近世成立とされる正宗寺本「結城系図」の貞重の注記に「判官入道」とあることもその裏付けとなる。そもそも「判官(ほうがん/じょう)」とは、長官(かみ)・次官(すけ)に次ぐ、律令官制における四等官の三位の官職のことであり*18、中世になると "九郎判官"源義経、"佐渡大夫判官"佐々木高氏(導誉)、"塩冶判官" 佐々木高貞 など、左衛門尉となった者の呼称としても使われていた*19。すなわち入道(出家)前の暁尊の最終官途が左衛門尉であったことを暗示しており、山河氏では嫡流の人物にしか該当しない。やはり暁尊=貞重と見なして良かろう。「」の字は北条貞時の当初の法名「崇」に由来する可能性もあり、正安3(1301)年8月の貞時の剃髪または逝去の際に出家したのかもしれない。

*言うまでもなく重光はこの当時故人であろう。重義については実際の史料で、息子とみられる人物が「下総五郎禅門道暁」(茨城県長勝寺焚鐘の銘文より=山川光義か)*20、「山河下総七郎殿」(延元2年6月25日付書状の宛名)*21と名乗っていることから、系図類での記載通り「下総守」であった可能性は濃厚で、出家後「判官入道」と呼ばれることはない(「下総入道」と称される筈)。

貞重の子・重は、前述の『結城小峯文書』所収「結城系図」(1320年前後成立か)に「使(=検非違使) 左衛門尉 親重 三郎」と加筆されており、少なくとも元亨元年当時出家していなかったと判断される。同じく結城朝光の玄孫にあたる白河結城親広(親朝)親光兄弟(宗広の子)と同様、「」は北畠房の偏諱ではないかと思われる。

また、元弘3(1333)年8月には 「山川五郎入道、同三郎」が、同年5月の鎌倉幕府滅亡後の混乱に乗じて、毛呂郷への狼藉(侵入・横領)を働いたとする史料が伝わっており(後述【史料5】参照)、光義法名道教または道暁)・景重父子に比定される。すなわち貞重の弟・光義は無官のまま出家していたことになり、景重も当時無官であったことが窺える。

この頃の結城郡では、北部を結城氏宗家、南部を山河氏がそれぞれ支配していたが、暁尊が所領の一部である毛呂郷を寄進したのである。これについては、武蔵国の金沢称名寺が元々貞顕の祖父・金沢実時が建立した寺院であり、貞顕と共に高時政権を支えていた、はとこの安達時顕を介して、北条氏から寄進の働きかけがあったか、または貞重の方から寄進を願い出る動きがあったのではないかと考えられている。 

翌元亨2(1322)年のものとされる「阿日書状」金沢文庫蔵『伝授次第裏文書』)の文末「山河はんくわん(=判官)□□〔入道*22および 次の【史料4】での「山河判官入道殿」も同じく暁尊(貞重)に比定されよう。  

【史料4】正中2(1325)年6月6日付「鎌倉幕府奉行連署奉書」(『鹿島大祢宜家文書』)*23

常陸国大枝郷給主能親与地頭野本四郎左衛門尉貞光和泉三郎左衛門尉顕助等相論、鹿島社不開御殿仁慈門造営事、丹塗格子之外者、悉可為給主役之由、元亨三年八月晦日注進之間、依被急遷宮、任注申之旨、加催促可造畢、於理非、追可有其沙汰之由雖被仰下、遷宮于今遅引、而当郷地頭・給主折中之地也、任先規両方可勤仕之旨、云度々御教書、云木田見・大王・藤井・田子共等之例、炳焉之由、能親所申有其謂、爰国奉行人成敗雖区、下地平均課役可随分限之条、相叶理致、然地頭・給主共可造進之旨加催促、急速可被終其功之条、依仰執達如件、

  正中二年六月六日 散位(花押)

           前長門介(花押)

           左衛門尉(花押)

           前加賀守(花押)

 山河判官入道殿

 小田常陸太郎左衛門尉殿

 大瀬次郎左衛門尉殿

 下郷掃部丞殴

市村高男によると、この史料は常陸国鹿島社不開殿仁慈門造営をめぐる同国大枝郷の給主・中臣能親と地頭の野本貞光和泉顕助らとの相論に際し、幕府が「当郷(=大枝郷)は地頭・ 給主折中之地」であるから、「下地平均課役可随分限」そして「地頭・給主共に造進すべきの旨、催促を加」え、速やかに遷宮を実現させるよう、山川・ 小田氏ら4名に対して命じたものであるという*24。この書状は、貞重(暁尊)常陸国の有力な在地領主並に扱われていたと同時に、北条氏被官たる大瀬・下郷両氏(大瀬は得宗被官)と同様の立場にあったことを明示している、と市村氏は説かれている*25

 

(参考記事) 

tochigi-burg.com

 

合わせて次の史料も見ておきたい。 

【史料5】元弘3(1333)年8月3日付「弾正忠某施行状案」(『金沢文庫文書』)*26

(端裏書)「毛呂郷可打渡執行案 元弘三年八月三日并建武・元弘之御執行案文渡状等具書

金沢称名寺下総国結城郡内茂呂〔=毛呂〕事、山川五郎入道同三郎已下之輩、致濫妨狼籍云々、早莅彼所追出之、可沙汰付寺家之雑掌、若不承引、任法可有其沙汰、使節緩怠、可処罪科之由候也、仍執達如件、

 元弘三年八月三日 弾正忠 判

阿曾沼四郎次郎入道(=阿曽沼公郷殿

前述したように、「山川五郎入道同三郎」は山川光義法名道教または道暁)・景重父子に比定され、この両名はこの年5月の鎌倉幕府滅亡後の混乱に乗じて、以前貞重(暁尊)称名寺に寄進した毛呂郷に侵入し、乱暴狼藉を働いたことが分かる。貞重は【史料2】の文末で「もし彼(か)の所において兄弟子孫等が違乱致さば、不孝の仁(ひと)であるから、暁尊の跡(=旧領)を知行すべからず」と記していたが、この約束が破られた形となる。もし貞重がこの頃存命であれば、弟・光義らを止めていたと思うが、恐らくこの当時貞重は故人だったのではないか。従って貞重は【史料4】以後、1320年代後半から1330年前後の間に亡くなったものと推測される

 

 

正宗寺本「結城系図」には貞重の子・景重に「三郎 実 光義子也」、光義の子・景重に「三郎 貞重養子トナル」との注記があり、貞重に男子が無かったので、甥の景重がその養子となって「三郎」の仮名を継承した可能性がある。前述『結城小峯文書』の系図上で加筆された貞重の子・親重(三郎左衛門尉)も実は景重と同一人物かもしれず、検討の余地を残しているが、山河(山川)氏の嫡流が光義の系統に移ったことは認められよう。貞重死後の光義は、後世の島津久光*27のような立ち位置にあったと思われ、家督の景重と共にかつての旧領を横領したと見なされる。【史料7】の「山川判官」は景重であろう。 

【史料6】「山川氏系図(山川泰 氏所蔵)*28

 重義

下総前司 弘安三年正月廿日譲を受く、同五年十二月安堵を給う、

 

 光義

山川五郎、法名道教

永任〔ママ、永仁〕五年正月七日譲を受く、嘉元元年十二月十一日安堵を給う、

 

 景重

三郎判官 法名道勝

 

【史料7】康永4(1345)年「造営所役注文」『千葉県史料』所収『香取文書』)

(*http://chibasi.net/osuga2.htm#zouei より)

  注進 下総国香取太神宮廿一ヶ年一度造替諸社役所雑掌人事
 一当国諸御家人勤仕役所
 
  一宇 正神殿 千葉介貞胤
  一宇 同大床舞殿 当国上猿嶋郡役所 地頭常陸前司跡
  一宇 𡡛殿 当国大戸神崎両庄役所
  一宇 同大床舞殿 同役所
  一宇 仮𡡛殿 同役所
  一宇 内院中門 同北条庄南北役所 地頭飯高彦二郎以下
  一宇 楼門 同埴生印西庄役所
  一宇 東廻廊五間 同風早庄役所
  一宇 脇門 印西庄役所
  一宇 二間廻廊
  一宇 西廻廊五間 同矢木庄役所
  一宇 脇門 印西庄役所
  一宇 不開殿 同小見郷役所 地頭小見四郎左衛門入道跡
  一宇 佐土殿 同北条庄役所 地頭飯高彦二郎
           小鮎猿俣役所 地頭伊豆四郎入道
  一宇 財殿 西伊豆入道明蓮跡
  一宇 勢至殿 仁保代枝役所 地頭千葉大隈守
  一宇 若宮社 吉橋郷役所 地頭千葉介
  一宇 日御子社 同役所
  一宇 勢至殿 仁保代枝役所 地頭千葉大隈守
  一宇 息洲社 同役所
  一宇 南庁 結城山川庄役所 地頭結城七郎跡 山川判官
  一宇 北庁 大須賀保役所 地頭大須賀下総前司入道跡
  一宇 酒殿并高倉 遠山形役所
  一宇 外院中門 印西所役
  一宇 忍男 千田庄役所
  一宇 瞻男
     印東庄役所
  一鳥居 千葉介役所
  二鳥居 西伊豆入道明蓮跡
  三鳥居 当国大方庄役所
    已上廿九ヶ所
 
 一大行事造進所々
   …【中略】…
 
  色々御神宝物以下調進物 大行事所役也、

 右大概粗注進如件、
 
     康永四年三月   日

 

(参考ページ)

 山川氏 - Wikipedia

 武家家伝_山川氏

● 『角川地名大辞典(旧地名)』「山河荘」解説ページ

 

脚注

*1:知貞(手野知貞)は小田貞宗の庶兄(→ 小田貞宗 - Henkipedia)。正宗寺本「結城系図」によれば、山川貞重の娘が「小田手野四郎左衛門妻」であったといい、市村高男はこの「小田手野四郎左衛門」を小田知貞とする(→ 市村高男「鎌倉末期の下総山川氏と得宗権力 ―二つの長勝寺梵鐘が結ぶ関東と津軽の歴史―」(所収:『弘前大学國史研究』100号、弘前大学國史研究会、1996年)P.42 註(9) 参照)。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.144「二階堂行盛」の項 より。

*3:前注同基礎表 No.144「二階堂行泰」の項 および 二階堂行泰 - Henkipedia より。

*4:前注同基礎表 No.144「二階堂行綱」の項 より。行綱は二階堂頼綱の父。

*5:前注同基礎表 No.157「二階堂行忠」の項 より。

*6:寒河時光の法名については 【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図I】を参照のこと。

*7:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.368「朝村 結城(小山)」の項。尚、本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*8:結城朝広とは - コトバンク より。

*9:吾妻鏡人名索引』P.358~359「朝広 結城(小山)」の項。

*10:吾妻鏡人名索引』P.190「時光 結城(小山)」の項。

*11:吾妻鏡人名索引』P.237「重光 結城」の項。

*12:結城市史 第四巻 古代中世通史編』(結城市、1980年)P.297。樋川智美 「鎌倉期武家社会における婚姻の意義 ー小山・結城氏の事例による考察ー」(所収:荒川善夫編 『下総結城氏』 戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉、2012年)P.142~143。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。正安3(1301)年8月の出家まで執権在任。

*14:注1前掲市村氏論文 P.26。

*15:『鎌倉遺文』第36巻27851号。

*16:『鎌倉遺文』第36巻27825号。P.143。

*17:P.74。『結城市史』第四巻 古代中世通史編(結城市、1980年)P.294~298。

*18:判官とは - コトバンク より。

*19:判官 - Wikipedia 参照。

*20:注1前掲市村氏論文 P.30。

*21:注1前掲市村氏論文 P.24。

*22:『鎌倉遺文』第36巻28151号。

*23:『鎌倉遺文』第37巻29132号。注1前掲市村氏論文 P.26。

*24:注1前掲市村氏論文 P.27。

*25:前注同箇所。

*26:『鎌倉遺文』第41巻32442号。注1前掲市村氏論文 P.29。

*27:兄・斉彬の死後、その養嗣子として薩摩藩主を継いだ茂久(忠義)の実父として「国父」と称され、藩政の実権を掌握した(→ 島津久光とは - コトバンク)。

*28:結城市史』第四巻 古代中世通史編(結城市、1980年)P.295 より。

京極貞氏

佐々木 貞氏(ささき さだうじ、1290年頃?~1355年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。

京極流佐々木宗氏の子*1。母は佐々木宗綱の娘貞宗の姉)京極貞氏(きょうごく ー)、鏡貞氏(かがみ ー)とも呼ばれる。息子に鏡高治長岡貞高伊吹秀氏松下秀敦鏡貞佑がいたと伝わる*2

 

 

生年と烏帽子親の推定

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こちら▲の記事で紹介した通り、父・宗氏については1269年生まれと判明しており、現実的な親子の年齢差を考えれば、貞氏の生年は1289年頃より後とすべきである。

 

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また、こちら▲の記事で紹介した弟・高氏(のちの佐々木導誉の生年=1296年 より前には生まれているはずである。『尊卑分脈』では、宗氏の子を貞氏高氏の順で載せるだけでなく、母親にあたる宗綱の女子の注記にも「佐渡判官宗氏妾 貞氏高氏等母」と書かれており(下図参照)、通称(輩行名)の点でも高氏が「四郎」なのに対し、『諸家系図纂』によると貞氏は「三郎」であったという*3ので、貞氏が兄で先に生まれたと判断される。

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▲【図A】『尊卑分脈』より

 

以上より、貞氏の生年は1289年頃~1290年代前半と推定される

紺戸淳の論文では、の名が得宗北条から偏諱を受けたものと推測されている*4。貞時は正安3(1301)年まで第9代執権を務め、その後も "副将軍" として応長元(1311)年まで存命であり*5、前述の推定に従えば、貞氏の元服当時の得宗となる。父・が北条時、弟・が北条時の偏諱を賜ったことは上記各記事で述べた通りであるから、氏も時と烏帽子親子関係を結んで一字拝領を許されたと判断して問題ないだろう。1289年の生まれとすれば、貞時が執権を辞した年に13歳(数え年、以下同様)元服の適齢を迎えるので、貞時執権期間内に済ませたものと判断される。

 

 

宇多源氏佐々木氏の国守任官年齢について

ここで、他の例も見ながら、佐々木氏における国守任官年齢について考察してみたい。

家祖にあたる高祖父・佐々木信綱は養和元(1181)年頃の生まれとされ、『民経記』によると寛喜3(1231)年正月29日に近江守に任官したという*6。すなわち任官年齢は51歳ほどであったことになる。

承久2(1220)年生まれの曽祖父・氏信は、『吾妻鏡』での表記の変化から建長8(1256)年に37歳で対馬となっていたことが分かる*7。正嘉2(1258)年8月には対馬守を辞しているが、弘安6(1283)年10月には64歳で父・信綱にゆかりの近江守への任官が認められている*8

氏信の息子たちについても見ていこう。長男・頼氏(1242年生)44歳の時、霜月騒動での恩賞として豊後守への任官が認められている。頼氏に代わって跡目となった4男・宗綱(1248年生)の場合、『関東評定衆伝』弘安4(1281)年条で「佐々木能登源宗綱」と記されており*9引付衆となった34歳までに国守任官を果たし辞していたことが分かる。3男・満信は【図A】に弘安2(1279)年に24歳で亡くなったとあるが、息子の宗氏・黒田宗満兄弟との年齢差の観点から、享年は『諸家系図纂』にある34が正しい。そして前述の通り宗氏が「佐渡大夫判官」を称していることから、父である満信が亡くなる34歳までに佐渡守任官を果たしていたことが推測できよう。

参考までに、佐々木氏嫡流となった、氏信の兄・泰綱の六角流佐々木氏でも、泰綱が28歳壱岐守、その嫡男・頼綱も恐らくは同年齢で備中守となったことが判明している。恐らく "準嫡流" たる京極流の者がこれより若い年齢で任官を果たすことは無いだろう。

 

以上の考察により、佐々木氏では時代を下るにつれ、30代前半にまで低年齢化していたと推測される。 

 

 

近江守貞氏の出家

【図A】によれば貞氏近江守に任官したといい、「佐々木近江入道」等の名が多くの史料上で確認できることは後述するが、その在任時期が生年の判断基準の根拠になり得ると思う。

系図にある通り、弟の高氏(道誉)は正中3(1326)年3月23日に烏帽子親である北条高時の剃髪に追随する形で、国守任官を果たさないまま出家を遂げたため、その後は「佐々木佐渡(大夫)判官入道」等で呼称されている*10。それに対し兄であった貞氏は国守にまで昇進していたことになる。

ここで、元亨3(1323)年10月27日の貞時13年忌供養について記された『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)を見ると、「佐々木近江前司」が「銀劔一 馬二疋 置鞍、栗毛、、」、「佐渡大夫判官」が「太刀一 左巻、馬一疋 置鞍、栗毛 、」をそれぞれ進上しているが、『神奈川県史』は各々貞氏高氏に比定する*11。これが正しければこの時には貞氏は近江守を既に辞していたことになり、1290年頃の生まれとすればこの当時34歳となって、祖父である満信や宗綱と同様になるので、十分にあり得る想定である。一方、弟の高氏は28歳であったから国守に任官するには少々早かったものと見受けられ、3年後の出家の際には近く国守任官の予定があったのかもしれない。

 

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但し、こちら▲の記事で紹介の通り、同元(1321)年12月29日付「除目聞書」(『二階堂氏正統家譜十』)*12には「近江守源貞清」とあり、この日の小除目*13で同族の佐々木貞清(塩冶貞清)近江守に任ぜられたことが窺え、正中2(1325)年5月には「守護人 前近江守源朝臣」の署名で書状を発給しているため、「佐々木近江前司」はこの貞清にも比定し得るので注意が必要である。

尚、前述の『貞時供養記』には法要への参加者として「友近江守」の名があり、大友貞宗が元亨3年当時現役の近江守在任者であったことが分かる。貞宗は出家する正中3年まで近江守に在任していた。

 

【史料1-a】(元徳元(1329)年)12月5日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*14

(前欠)可得其意候、

一.彼堂事、月公状并注文給候了、のとかに能々み候て、不審候者、重可申候、

一.北方(=六波羅探題北方・常葉範貞)使者山本九郎帰洛之由、承候了、

一.能書人不尋出之旨同前、猶々可有御尋候、宗人等者、はか々々しく尋出候ハしと覚候、他所の仁に申され候へく候、一童雑色等事、子細同前、

一.刑部権大輔入道(=摂津道準)代官参申旨承候了、可被入御意候、

一.長門六郎兵衛入道跡事、同承候了、尤不審候、舎兄者、行意か諸事計申候之旨、語申候き、不実候哉、あなかしく、

 十二月五日

(切封墨引)「元徳元十二、親政下人便到、」

 

【史料1-b】(元徳元年)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*15

長門六郎兵衛入道跡、いかやうにゆつりて候やらん、子息等年少にて、弥御要人不足に候事、返々々歎入候々々、又京都も不審候、能々内々者可有御用心候也、今月十二日御札、同廿三日到来候了、

一.佐々木近江入道子息等返状、慥賜候了、

一.出雲次郎左衛門尉(=波多野通貞?)返状、同到来候了、

一.聞書一通、同前、返状、同到来候了、

一.聞書一通、同前、

一.神津五郎兵衛尉秀政、於播州所領他界之旨、承候了、暇も不申候て下向之条、不可思儀〔議〕候、右筆奉行五人つゝにて候しか、刑部権大輔入道奉行にて、近年六人になされ候事、不可然覚候、時に欠出来もくるしからす

【史料1-a】は、出家後の摂津親鑒法名:道準)に比定される「刑部権大輔入道」の他、正中3(1326)年に出家した二階堂忠貞(の法名)と思しき「行意」 が文中に現れることから、1326年以後の史料であることは確実で、墨引にあることから元徳元(1329)年に書かれたものと見なせる。

そして、同じく「長門六郎兵衛入道跡」について言及されている【史料1-b】も元徳元年、或いはその前後といった時期に書かれた可能性が高い。この史料中に「佐々木近江入道」なる人物が確認できる。

前述した元亨3年の「佐々木近江前司」の出家後の姿である可能性が極めて高い。但し、元弘の乱塩冶高貞の活動が確認できることから、『諸家系図纂』の記載通り正中3(1326)年3月28日に亡くなったと思われる、その父・貞清に比定される可能性は低く、「佐々木近江入道」=貞氏だったのではないかと思う(この理由については後述も参照)

『諸家系図纂』「佐々木系図*16では貞氏は建武2(1335)年の出家とするが、実際には鎌倉幕府滅亡前に済ませていたと推測される。弟の高氏(道誉)に同じく高時の出家に追随した可能性が高いのではないか。

 

併せて『光明寺残篇』に収録の、次の史料3点も見ておきたい。

 

【史料2-a】元徳3/元弘元(1331)年9月5日付「関東御教書案」(『伊勢光明寺文書残篇』)

 被成御教書人々。次第不同。
武蔵左近大夫将監  遠江入道
江馬越前権守    遠江前司
千葉介       小山判官
河越参河入道
    結城七郎左衛門尉
長沼駿河権守
(宗親) 佐々木隠岐前司
千葉太郎
      佐々木近江前司
小田尾張権守    
佐々木備中前司(大原時重)
土岐伯耆入道     小笠原又五郎
佐々木源太左衛門尉(加地時秀) 狩野介入道

佐々木佐渡大夫判官入道 讃岐国守護代 駿河八郎

 以上廿人。暫可在京之由被仰了。

 嶋津上総入道
  大和孫六左衛門尉高房

*この史料は、『新校 群書類従』に『光明寺残篇』の翻刻を掲載する際に、その異本から挿入された部分であるといい、『鎌倉遺文』にも収録されている*17

 

【史料2-b】元弘元年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*18

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥守        河越参河入道
 小山判官       佐々木近江入道
 佐々木備中前司(大原時重)  千葉太郎
 武田三郎         小笠原彦五郎
 諏訪祝(時継?)     高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道       長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉     安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞) 吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助      駿河八郎
 千葉介      長沼駿河権守(宗親)
 小田人々       佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道   宇佐美摂津前司
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)  □野二郎左衛門尉
 湯浅人々     和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道       遠江前司
 武田伊豆守       三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)  狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道       信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫    結城七郎左衛門尉
 加藤丹後入道    加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道  美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参
 
【史料2-c】元弘3(1333)年4月日付関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*19
大将軍
 陸奥守遠江国       武蔵右馬助伊勢国
 遠江尾張国       武蔵左近大夫将監美濃国
 駿河左近大夫将監讃岐国  足利宮内大輔三河国
 足利上総三郎        千葉介一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国   宇都宮三河権守伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国      小山大夫判官一族
 小田尾張権守一族      結城七郎左衛門尉一族
 武田三郎一族并甲斐国    小笠原信濃入道一族
 伊東大和入道 一族      宇佐美摂津前司一族
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)一族 安保左衛門入道(道堪)一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族 河越参河入道一族
 三浦若狭判官(時明)    高坂出羽権守(信重)
 佐々木隠岐前司一族     同備中前司(大原時重)
 千葉太郎

勢多橋警護
 佐々木近江前司  同佐渡大夫判官入道(高氏/導誉)

(*史料2-b・2-cはいずれも http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

これら史料3点は、元弘の乱に際して上洛した鎌倉幕府軍の名簿であり、「佐々木近江前司」と「佐々木近江入道」の2名が確認できる。【史料1-b】より後の史料であるから、各々別人と判断して良いと思われ、【史料2-a】での「遠江入道(=名越宗教カ?)」・「遠江前司」と同様に、同じ国守を退任して出家した者とそうでない者がいたことになる。

「佐々木近江前司」を貞氏とした場合、「佐々木近江入道」に該当する人物がいなくなる。ちなみに前述の貞清系図類も含めて出家したとする記録が確認できない。故に、【史料1-b】も含めて「佐々木近江入道」を貞氏と判断した次第である。

 尚、「佐々木近江前司」については、建武元(1334)年9月27日、後醍醐天皇の加茂神社行幸足利尊氏が供奉した際の随兵の一人「佐々木近江前司貞継*20に比定されるのではないかと思われる。但し貞継については、掲載されていないことから系図上での位置は不明であり、研究の余地を残している。

 

 

南北朝時代における貞氏

最後に、鎌倉幕府滅亡後の貞氏(善観)に関する史料を紹介する。

 

【史料3】暦応4(1341)年正月20日足利直義、「佐々木近江入道」を遣わし、大和国の神官・雑賀西阿を攻撃(『朽木文書』)*21。 

【史料4】貞和3(1347)年11月21日:「佐々木近江守 法師 法名善観」、将軍・足利尊氏から近江多賀社の地頭職を与えられる(『正閏史料』)*22

冒頭(端裏書か)には「近江守貞氏善観ハ高氏道誉ノ兄」の注記があり、『分脈』(【図A】)での貞氏の注記「近江守」・「法名善観」に一致する。更に、永徳元(1381)年12月12日付書状(『周防佐々木文書』)の文中に「…佐々木近江四郎義敦祖父善観譲状…父秀敦対舎兄対馬守秀氏……」とあり*23、 『分脈』と照合すれば善観=貞氏であることは確実となる。

【史料5】『園太暦』観応2(1351)年正月16日条:「佐々木近江入道善願〔ママ〕*24

【史料6】観応2年2月13日:将軍・尊氏、細川頼和(細河余一頼和、和氏の子)に「越後国白河荘上下条 佐々木近江入道」を与える(『野田文書』)*25

【史料7】観応2年6月24日:「佐々木近江守法師、法名善観」、将軍・尊氏から遠江国浅羽荘の地頭職 および 同国小杉郷を与えられる(『佐々木寅介氏所蔵文書』)*26

【史料6】から【史料7】へは、貞氏の領地の鞍替えが行われたものと推測される。

【史料8】(文和2(1353)年)2月28日興福寺が出した訴状の宛名に「佐々木近江入道殿*27

【史料9】『賢俊僧正日記』文和4(1355)年2月1日条:将軍・尊氏、「佐々木近江入道」らを遣わして成就寺行宮を警固*28

【史料10】『賢俊僧正日記』文和4年11月19日条:「十一月十九日、佐々木近江入道今暁他界云々、判官入道篭居、依之恩沙汰延引了、」*29

「判官入道」とは "佐渡大夫判官入道" 導誉(高氏) を指すと思われ、篭居*30しているのは、近江入道=兄・貞氏(善観)で、その死を悼んだからであろう。貞氏の没年月日は文和4年11月19日であったと判断される。 

*【史料3】や【史料6】の「佐々木近江入道」については六角流佐々木時信(頼綱の子)に比定する説もある。時信は29歳であった建武元(1334)年の段階ではまだ左衛門尉で「備中大夫判官」と呼ばれており、それから間もない頃、嫡男・氏頼元服する暦応元(1338)年までに近江守に補任されたとみられるが、その後1346年に亡くなるまでに出家したことは管見の限り特に確認できない。

 

(参考ページ)

 佐々木貞氏 - Wikipedia

 京極貞氏(きょうごく さだうじ)とは - コトバンク

佐々木貞氏 ー 南北朝列伝

 佐渡大夫判官高氏(佐々木導誉): 佐々木哲学校(佐々木哲のブログ記事)

 

脚注

*1:『大日本史料』6-38 P.7275

*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*3:『大日本史料』6-38 P.76。『諸家系図纂』。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.17。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:『大日本史料』5-6 P.227239

*7:京極頼氏 - Henkipedia より。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№99-京極氏信 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№100-京極宗綱 | 日本中世史を楽しむ♪群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*10:「大夫判官」は検非違使庁の尉(三等官、六位相当)でありながら従五位下に叙爵された者の呼称(→ 大夫の判官(タイフノホウガン)とは - コトバンク)。高氏は左衛門尉、検非違使となっており、これが最終官途となった。

*11:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.706・711。

*12:『鎌倉遺文』第36巻27934号。『二階堂氏正統家譜 十』

*13:大臣以外の官を任ずる儀式として春と秋に行われる恒例の除目以外に臨時に実施される小規模な除目。詳しくは 臨時除目 - Wikipedia を参照。

*14:『鎌倉遺文』第39巻30796号。

*15:『鎌倉遺文』第39巻30797号。

*16:『大日本史料』6-38 P.76。『諸家系図纂』。

*17:『鎌倉遺文』第40巻31509号。『新校 群書類従』第19巻 P.738

*18:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*19:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*20:『大日本古文書』家わけ第十一 小早川家文書之二 P.169(二九四号)

*21:『大日本史料』6-6 P.627

*22:『大日本史料』6-10 P.965

*23:『大日本史料』6-20 P.904

*24:『大日本史料』6-14 P.439

*25:『大日本史料』6-14 P.739

*26:『大日本史料』6-15 P.73

*27:『大日本史料』6-17 P.719

*28:『大日本史料』6-19 P.659

*29:『大日本史料』6-20 P.70

*30:(修行・物忌み・謹慎などのために)家の中に引きこもること(→ 篭居の意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典)。

武田貞信

武田 貞信(たけだ さだのぶ、生年不詳(1270年代?)~1347年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。武田政綱を祖とする石和流武田氏の第3代当主。父は武田信家(宗信)。妻は安藤左衛門入道の娘か。子に武田政義武田貞政。通称は三郎。官途は伊豆守か系図類では甲斐守)

 

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こちらの記事▲で紹介している、永仁2(1294)年の成立とされる、白河集古苑所蔵「結城系図(結城錦一氏旧蔵)には、小山貞朝の母が「武田三郎入道女(=娘)」であったとの注記が見られ*1、市村高男はこの「武田三郎入道」を政綱(武田五郎三郎)に比定される*2。文永8(1271)年4月27日、得宗(8代執権)北条時宗より甲斐国甘利庄南方の地頭代に任じられた「武田三郎入道妙意(『紀州三浦文書』)*3も政綱に比定されよう*4

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こちら▲の記事で紹介の通り、貞朝の生年は1282年と判明しているので、その従兄弟にあたる貞信も近い世代の人だったのではないか

 

建武記』(『建武年間記』)建武元(1334)年10月14日条には北山殿笠懸射手の1人として「武田石禾三郎政義」が登場しており*5、貞信の嫡男・政義に比定される。その数年前、元弘の乱に際し幕府側に従軍して上洛する「武田三郎(『伊勢光明寺残篇』)*6も政義であろう。元弘3(1333)年4月のリストでは「武田三郎 一族并甲斐国」とあり、『諏訪大明神絵詞』や『神氏系図藤沢政頼諏訪氏一族)の注記中、建武3/延元元(1336)年正月1日の出来事を記す箇所で「甲州守護武田駿河」と書かれていて*7、政義が鎌倉幕府滅亡前後で甲斐国守護であったこと、建武年間中に駿河守任官を果たしたことが窺える*8

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こちら▲の記事で考察しているが、鎌倉時代後半期における武田氏の国守任官年齢は40代であったようで、政義が1335年頃にその年齢を迎えていたとすれば1290年代の生まれと推定できる(但し時代を下るにつれ任官年齢が徐々に低下していた可能性もあり、南北朝時代に幼名を名乗っている息子・武田福寿丸との年齢差を踏まえると、1300年代初頭の生まれであったとも考えられる)。親子の年齢差を考慮すれば、その父・貞信は1270年代以前の生まれとすべきである。

また、同記事では『常楽記』元亨4(1324)年10月3日条の「武田伊豆前司(妻が安藤左衛門入道の息女)」を貞信と推定しており、当時伊豆守を辞していたから40代以上と推測され、逆算すると1270~1280年代の生まれと、同様の結果が得られる。 

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こちら▲の記事で、貞信の父・宗信(信家)を1250年代の生まれと推定したので、貞信の生年はやはり1270年代とするのが妥当であろう元服は通常10代前半で行われたから、既にご指摘の通り「」の名は、得宗北条(執権在職: 1284~1301年)*9を烏帽子親とし、その偏諱を受けたものと見なして問題ないと思う*10

尊卑分脈(以下『分脈』と略記)によると政綱(武田五郎三郎)宗信(信家、石禾三郎)も「三郎」を称していたようで*11、政義に至るまで政綱(石和)流当主代々の仮名であったと推測される。嘉元の乱(1305年)の折、比留宗広を預かる際の使者を務めた「武田三郎(『鎌倉年代記』裏書/『北条九代記*12貞信に比定されるのではないかと思われる。

 

『分脈』での注記によれば、貞信は貞和3(1347)年6月に亡くなったといい、特に否定し得る史料が他に無いため、今のところ信憑性は認めて良いと思われる。但し、南北朝時代の史料に表立って現れている様子は無く、前述したように元弘の乱の段階では嫡男・政義家督や甲斐守護*13を譲って事実上引退していたのではないかと推測される。

 

跡を継いだ政義駿河守)については、その遺児(貞信の孫)武田福寿丸の書状(『八坂神社記録』)によると康永2(1343)年に戦死したという。

次男・貞政(上野介)については、観応3/正平7(1352)年正月日付の「佐藤元(蔵人)軍忠状」(『伊勢佐藤文書』)、「武田文元(弥六)軍忠状」浅草文庫本『古文書』4-上 所収)にある「甲州……武田上野介*14に同定されよう。両書状によると、去る29日(=1351年12月29日)に(足利直義派勢力として)上野介以下の軍勢が七覚寺で退治されたとあるが、降伏して生き延びたのか、同年2月25日の笛吹峠の戦いについて描く『太平記』巻31「笛吹峠軍事」には、武田氏一族に加わって参戦した、貞政と思しき「武田上野守〔上野介か〕」の名が確認できる*15。但しこれ以後の動向は不明である。

そして福寿丸は、父・政義討死の影響であろう、南北朝時代初期に没収された石和御厨の還付を願い出たが、その後は特に史料上に現れていない。元服後の名前が確認できないことからすると、死因は不明ながら夭折した可能性が考えられよう。

貞信が亡くなる前年の段階で既に武田信武が武田氏惣領として扱われていたことが確認され*16得宗との結び付きによって惣領格を得ていた政綱(石和)流武田氏は次第に衰退の一途を辿り、やがて貞信の血筋そのものも恐らくは断絶してしまったものと思われる。

 

備考

『分脈』以下系図類における貞信の注記には「建武武者所」の記載が見られ、一部異本では「信貞」と記すことから、先行研究において『建武記』延元元(1336)年4月日条にある建武政権武者所結番の六番筆頭「武田大膳権大夫信貞(又は 武田大膳大夫信貞とも)*17貞信と見なすものがあるが、これが誤りで同族別系統に武田信貞が確認できることは下記記事を参照。尚、信貞とは別に貞信の掲載は確認できず、貞信の「建武武者所」注記は信貞と混同されたものとみられる。

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脚注

*1:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図H】参照。

*2:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.101。

*3:韮崎市の地名 甘利庄(あまりしょう) : 山梨県歴史文学館

*4:甘利荘 - Wikipedia より。典拠である、秋山敬『甲斐の荘園』(甲斐新書刊行会、2003年)P.112~113「甘利荘」の項 では政綱か信家(宗信)のいずれかとするが、政綱の方が当てはまるのではないかと思う。

*5:『大日本史料』6-2 P.36

*6:『鎌倉遺文』第41巻32135号32136号

*7:『大日本史料』6-2 P.917

*8:『大日本史料』6-2 P.526によると、『太平記』金勝院本の巻13「足利殿東国下向事付時行滅亡事」には、建武2(1335)年8月2日、中先代の乱に際し鎌倉に向けて進発した足利尊氏の軍勢の中に「武田駿河守政義」が含まれているとし、駿河守任官は建武2年の前半期であった可能性が高いと思われる。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*10:注1前掲高野氏著書 P.51。

*11:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション『大日本史料』6-2 P.37『史料稿本』後醍醐天皇紀・元弘3年 P.6

*12:武田信貞 - Henkipedia【史料A】、『編年史料』後二条天皇紀・嘉元3年5~6月 P.3 参照。

*13:『分脈』貞信の注記に「甲斐守」とあるが、それを裏付けられる史料は今のところ確認されていない。むしろ本文で述べているように伊豆守であった可能性がある。南北朝時代においては同族の武田盛信が甲斐守となっており、当時引退していたと思われる貞信がその前後に同守を得ていたとは考えにくい。ただ、わざわざ付されている以上、「甲斐守」の注記を完全に否定・無視することも出来ない。そこで、上手いこと辻褄を合わせるとすれば「甲斐守」を「甲斐守護」の誤記(脱字)と考えるのが良いのではないか。あくまで推測ではあるが、政綱の系統が甲斐在国のままで同国守護を得ていた可能性は十分に高く、一説として掲げたい。

*14:『大日本史料』6-15 P.741~742『信濃史料』巻6-2 P.118~121

*15:『大日本史料』6-16 P.298「太平記」笛吹峠軍の事(その3) : Santa Lab's Blog

*16:『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録事」の文中に「一.同国一条郷蓬澤内田地一町七段 武田惣領源信武寄進、貞和二年十月十三日」とある(→『大日本史料』6-26 P.567)。

*17:『大日本史料』6-3 P.333

武田信宗

武田 信宗(たけだ のぶむね、1269年~1330年)は、鎌倉時代の武将、御家人甲斐源氏武田氏第6代当主。父は武田時綱、母は名越朝時の娘と伝わる。通称は孫六

 

 

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(*画像は 武田家伝来の遺品 写真集 より拝借)

  

北条時宗の烏帽子子

『甲斐信濃源氏綱要』*1(以下『綱要』と略記)に掲載の武田氏系図での注記によれば、文永6(1269)年8月1日に甲府の館にて生まれ、建治3(1277)年11月11日、当時9歳(数え年、以下同様にして、鎌倉において当時の執権・北条時を烏帽子親として元服、「」の偏諱を与えられてと名乗ったという*2

これを採用したのか、『系図纂要』にもわざわざ「建治三年十一ノ_元服北條時宗加冠號信宗」と注記しており、それまでの当主「信―信綱」の名乗りと照らし合わせても代々北条氏得宗偏諱を受けたことに疑いはないから、信憑性は認められると思う。信政・信時・時綱3代の『吾妻鏡』登場年代から言っても妥当であり、逆に否定し得る史料は皆無である。ちなみに注記は少なめだが『尊卑分脈(以下『分脈』と略記)の武田氏系図でも系譜は同じである*3

尚、北条・武田両氏の場合は、武田信義以来の「信○」型の名乗りが原則として重んじられたのか、「時→信」「泰→信」「頼→綱」といったように同じ位置で偏諱を共有しており、時綱の嫡子・信が再び得宗からの偏諱を下(2文字目)にしているのもそのためではないかと思われる。引き続き得宗からの1字を許されたことが重要なのであって、「時―信」の一字共有は、両氏の対等で良好な関係を示しているものと解釈し得る。元々時宗と信宗は、血縁上でもはとこ(又従兄弟)の関係にあった(信宗の外祖父・北条(名越)朝時と時宗の外祖父・北条重時がともに北条義時の息子で同母の兄弟)

 

 

流浪時代の信宗(伝承)

しかし、信宗の嫡男・信武以降は得宗(貞時―高時)偏諱を受けた形跡が無い。『綱要』によれば、信武は正安3(1301)年正月11日に「祖社に於いて」元服したというが、烏帽子親については書かれておらず、仮に「」の1字を与えた人物だとしても該当し得る者は思いつかない*4。また同じく『綱要』によれば、信武の子・足利貞の加冠により元服したといい、信宗・信武父子の時に何かしらの変化があったと推察される。

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一方、得宗被官(御内人)化した、信時の弟・武田政綱の系統では、政綱の子・信家が「」と改名し、その子もと名乗り、得宗「時時」の偏諱を受ける家系がこちらに移った様子が窺える。 historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

ここで、『系図綜覧 第一』所収「武田源氏一流系図」を見ると、信宗の傍注には次のように書かれている*5

相伝十二代、伊豆守〔ママ〕甲斐両国守護、与一族若州守護有鉾楯之事、没落流浪。到武州瀧山、逢修行々人。尋覓楯旡(楯無)後、再還住本国。件行人還俗云々。」

これによれば、信宗若狭国守護であった一族の者と争いをして没落、流浪の末に武蔵国滝山(現・八王子市)で修業僧に出会い、やがて甲斐国に帰還を果たしたという。武田氏の一族が若狭守護職を拝命したのは、永享12(1440)年に将軍・足利義教から任命された武田信栄(信宗―信武―氏信―信在―(信守―)信繫―信栄)の時であり*6、信宗と争ったという同族の者については不詳だが、同系図には信時・政綱の弟である六郎信綱(のぶつな)の注記に「若狭武田之祖」とあり、『分脈』には信綱の息子として又六長綱(ながつな)六郎三郎信広(のぶひろ)を載せるので、そのいずれか或いはその息子に当たるのかもしれない。いずれにせよ、信時流武田氏(信宗)は一族との争いで一旦没落してしまい、得宗被官でもあった政綱流武田氏(宗信)が代わって勢力を伸ばしたものと思われる

没落後の信宗については『甲陽軍鑑 品第十七』に書かれており、概要は次の通りである*7

小山田弥三郎信茂〔ママ〕は、信玄公より十一代前の武田殿より甲州都留郡をもらい受けて在城している。小山田の先祖は修行僧であった。この頃の武田殿は浪々の身であり、武蔵国滝山でその修行僧に出会った。修行僧は、その方(ほう)はどこの人かと尋ねられたので甲州の者ですと答え、何事でもご奉公、走り回りをいたしますと申し出た。

そこで武田殿甲州塩の山の後ろの大杉の根元に御旗・楯無を隠し置いたので取ってきてほしいと申された。修行僧は急いで甲州へ参り、を取って進上した。そのとき武田殿は本意を遂げて甲州へ入国できたならば、都留郡を永代にわたり修行僧に下さると約束をされた。その翌年、武田殿は本意を遂げられたので彼の修行僧を小山田になされ、更に信の字を下さった」

武田信玄より11代前(信玄〈晴信〉自身もカウントに含める)の「武田殿」は、前述した系図類により信宗に一致し、前述の「武田源氏一流系図」での注記の内容とも一致する。武蔵滝山で出会った修行僧はやがて還俗し、宗から「小山田」の姓と「」の偏諱を与えられたという。

小山田氏の始祖は桓武平氏の流れを汲む秩父重弘の子・小山田有重とされ、その息子・稲毛重成(三郎)榛谷重朝(四郎)元久2(1205)年6月、従兄弟の畠山重忠連座して没落している(『吾妻鏡』)。この時、弟の小山田行重が運命を共にしたかは明らかにされておらず、僅かに『承久記』に山田太郎の名は見えるものの、系譜は不明である*8。史料上に現れないことからすると、鎌倉時代前期に断絶し、信宗と出会った修行僧がその名跡を再興した可能性もある。応永元(1394)年になると小山田信澄が所領を寄進したことが『妙法寺記』に見えており、信茂に至るまで甲斐武田氏の家臣として「信」字を許されていたのではないかと思われる*9が、本題から逸れてしまうため、このあたりの詳細については、丸島和洋の著書*10に委ねたいと思う。

 

前述したように息子の信武が甲斐で元服を遂げたと伝えられるから、正安3年までには帰国したと思われる。また鎌倉時代末期の金沢貞顕法名:崇顕)の書状に、信武と思われる「武田彦六」が登場し*11元弘の乱に際しても幕府側として上洛している*12から、鎌倉時代後期の武田氏が鎌倉とさほど遠くない甲斐に在国していたことは認められよう。 

 

 

没年について

『綱要』によると、元応2(1320)年12月11日52歳で剃髪し「光阿」または「向阿(恐らくは前者が正確)と号し、 元徳2(1330)年11月9日に享年62で卒去したという。 

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こちら▲の記事には「『常楽記』に1330年11月9日、信宗没と見える。しかし1331年に楠正成の赤坂城攻撃軍の中に武田三郎と武田伊豆守があり、武田三郎は政義、伊豆守は信宗と考えられている。」とある。『常楽記』で同日条を確認してみると「諏訪遠江入道」なる人物の死去となっており*13、恐らくは『綱要』と混同したものと思われる*14が、先行研究では1330年に亡くなったと決めつけるのは誤りとされてきた*15。 

 

ちなみに、1331年の史料というのは『伊勢光明寺文書残篇』にある元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」*16のことであり、大仏陸奥守貞直を大将とする軍に「武田三郎」が、江馬越前入道を大将とする軍に「武田伊豆守」の名が見られる。

この「武田伊豆守」が信宗とされた背景には、『分脈』に「伊豆守」とあることに加え、『甲斐国志』(江戸時代・1814年成立)に「興国六年(康永四年。一三四五)天龍寺供養のとき先陣随兵に伊豆守また伊豆前司と二人あり、このとき前司というは信宗に当たるべし」と記述されている*17のが影響しているのではないかと思われる。

しかし、『参考太平記』によると毛利・北条・金勝院・南都の各本『太平記』および今川本の27巻では「武田伊豆前司信武」と記すようで*18、また実際の史料である『伊勢結城文書』にも「武田伊豆前司 信武」と明記される*19ことから、天龍寺供養における「伊豆前司」は嫡男・信武と判明する。よって、単に江戸時代当時の見解を記したに過ぎない『国志』での記述は否定され、元弘元年の「武田伊豆守」=信宗 の信憑性にも疑いが生じる。この「武田伊豆守」が武田信貞に比定し得ることは次の記事を参照のこと。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

尚、山梨県甲府市にある法泉寺(法泉禅寺)は、1330年信武が亡くなった父・信宗の菩提寺として創建したのに始まると伝えられ*20、これと整合性が取れることから、『綱要』での信宗の没年は信用して問題ないのではないかと思われる。

元弘の乱では嫡男の兵庫助信武が元弘3(1333)年4月3日の四条猪熊の戦いに参戦する*21など、当初は幕府側で戦ったが、やがて足利高氏(のちの尊氏)に呼応して難局を乗り切ることとなる。

 

(参考ページ)

 武田信宗 - Wikipedia

 武田信宗画像|呉市の文化財 - 呉市ホームページ

 

脚注

*1:系図綜覧. 第一(国立国会図書館デジタルコレクション)所収。

*2:高野賢彦『安芸・若狭武田一族』(新人物往来社、2006年)P.56。

*3:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*4:武田氏と同族(源義光の子孫)にあたる南部氏では、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人物、御内人長崎思元の聟として南部武行が確認できる(→ 長崎思元 - Wikipedia #俗名、系譜、親族について を参照)が、その「武」字が信武の偏諱の可能性も考えられる。但し、信武と武行は遠戚関係にあるだけで、史料等により直接的な接点・交流は確認できていないため、これについては後考を俟ちたい。

*5:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.153。注2前掲高野氏著書 P.61~62。

*6:武田氏 - Wikipedia #若狭武田氏、および 注2前掲高野氏著書 P.91 より。

*7:注2前掲高野氏著書 P.59~60より引用。

*8:武家家伝_小山田氏 より。

*9:信澄以降の系譜については前注HPを参照のこと。

*10:丸島和洋『郡内小山田氏』〈中世武士選書19〉(戎光祥出版、2013年)。

*11:元徳2(1330)年のものとされる正月7日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』、『鎌倉遺文』第40巻31118号)の文中に「…武田彦六も、只今入来候之間、…」とある。

*12:元弘3(1333)年4月3日の四条猪熊の戦いを描く『太平記』巻8「四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事」に登場の「武田兵庫助」が信武に比定される。これについては【論稿】鎌倉時代後期における「武田伊豆守」について - Henkipedia および 武田氏信 - Henkipedia を参照。

*13:『常楽記』元徳2年条

*14:『史料綜覧』後醍醐天皇紀・元徳2年8~12月 P.43

*15:注2前掲高野氏著書 P.57。

*16:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*17:注2前掲高野氏著書 P.60 より引用。甲斐国志. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*18:『大日本史料』6-9 P.312

*19:『大日本史料』6-9 P.284

*20:法泉寺 (甲府市) - Wikipedia(典拠は『甲斐国志』)。法泉寺由緒法泉寺と武田家(いずれも法泉寺の公式ホームページ内)および 注2前掲高野氏著書 P.60 より。

*21:注12参照。