Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

葛西清経

葛西 清経(かさい きよつね、1235年~1287年)は、鎌倉時代中期~後期の武将、御家人。葛西氏宗家第4代当主。通称および官途は 三郎、左衛門尉伯耆新左衛門尉)法名経蓮(きょうれん)か。父は葛西時清。妻は尼・仏心。子には、女子(富安三郎〈北条時嗣?〉室、のち和田茂長室)のほか、葛西宗清が嫡男であると思われる。

 

 

吾妻鏡』における清経

吾妻鏡』での初見は、建長4(1252)年11月11日条、将軍家御出供奉の一人「伯耆左衛門三郎清経」である*1。この通称(名乗り方)について分析すると次の通りである。

 伯耆左衛門三郎清経

 ●伯耆」=伯耆守清親

 ●伯耆左衛門」=清親の子・左衛門尉

 ●伯耆左衛門三郎」=左衛門尉の子・三郎清経

葛西氏で伯耆守に該当するのは清親であることは『吾妻鏡』等で確認できる*2。『尊卑分脈』でも、葛西氏の系図は掲載なしだが、後藤基頼の注記に「葛西伯耆守清親」とあって、裏付けとなっている。すなわち、同じく清親の孫である基頼は1238年生まれであったことが判明している。

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詳しくは後述するが、『盛岡葛西系図』によると清経は弘安10(1287)年11月7日に53歳(数え年、以下同様)で亡くなったといい、逆算すると文暦2/嘉禎元(1235)年生まれとなるが、基頼とほぼ同世代となるから、やはり清親の孫と見なすのが妥当であろう。葛西氏の系図の中には清経を清親の息子とするものもあるが、誤りと判断される。

 

尚、『吾妻鏡』において清経は6回登場する。

▼【表A】『吾妻鏡』における葛西清経の登場箇所

月日

概要

表記

建長4(1252)

11.11

将軍家御出供奉

伯耆左衛門三郎清経

11.20

将軍家新邸移従

伯耆左衛門三郎清経

12.17

鶴岡八幡宮社参供奉

伯耆三郎清経〔ママ〕

建長8(1256)

1.1

椀飯

伯耆左衛門三郎

6.29

放生会供奉人決定

伯耆三郎左衛門尉

同三郎

8.15

放生会供奉人

伯耆新左衛門尉清経

このうち、建長8年6月29日、8月15日条での表記について着目しておきたい。

8月15日条での「新左衛門尉」というのは、父親が左衛門尉任官の間に同じく息子も左衛門尉となった場合の呼称である。つまり、清経の父は左衛門尉で、その息子である清経自身は当初「左衛門三郎」と呼ばれていたが、建長8年の7~8月頃に同じく左衛門尉の官職を得たために、区別されて「新左衛門尉」と呼ばれるようになったと考えられる。

ところで、6月29日条での「伯耆三郎左衛門尉」が清経で、「同三郎」は息子の宗清とする見解もある。

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しかしその場合、清経が22歳で左衛門尉任官を果たしたのに対し、建長8年当時10代の適齢期を迎え元服を済ませていたことになる宗清が、その後更に弘安7(1284)年までの28年間無官であったということになってしまい、不自然である。しかも宗清は正応元(1288)年の段階で左衛門尉であったことが確認できるほか、その後は壱岐守にもなっていたというが、その年齢が歴代当主に比して遅くなってしまうのもおかしいと言わざるを得ない。更に清の「宗」は北条時偏諱であったと考えられるから、その父・北条時頼が執権在任中の建長8年6月29日当時元服済みで「三郎」を名乗っていた可能性は無いと言って良いだろう。

よって6月29日条の「伯耆三郎左衛門尉」は清経の父親で、「同三郎」が清経と見なすのが妥当であろう。前述の内容を踏まえると、8月15日条の「伯耆新左衛門尉」は「伯耆三郎左衛門尉」と区別するための呼称であり、「伯耆左衛門三郎清経」が左衛門尉に任官した直後は「伯耆三郎左衛門尉」ではなく「伯耆三郎左衛門尉」等と呼ばれるべきと思う。「三郎」は本来3男の意味だが、葛西氏では清元以来、嫡流継承者代々の称号と化していたとみられ、清経の場合も「三郎」が付かずに「伯耆新左衛門尉」と略記されたと思われる。

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『吾妻鏡』建長4(1252)年4月3日条に「伯耆三郎左衛門尉時清」が見えており、『吾妻鏡人名索引』では建長8年6月29日条の「伯耆三郎左衛門尉」もこの時清に同定する*3が、これが正しいと思う。『奥山庄史料集』所収「桓武平氏諸流系図」の葛西氏の部分では伯耆清親の子に三郎左衛門時清を載せており*4、この時清の嫡男が清経であったと判断される。

ちなみに「伯耆左衛門三郎清経」の初見と同年(建長4年)4月14日条に見られる「伯耆左衛門四郎清時(=葛西清時)」もその名乗り方からして、同じく時清の子で清経の弟と推測される。

 

 

伯耆新左衛門入道経蓮

保延3(1137)年から元徳2(1330)年までの香取社(現在の千葉県香取市にある香取神宮の様子を記した「香取社造営次第案」(『香取文書』所収)には、文永8(1271)年12月10日の香取神社𡡛殿正神殿の遷宮は「葛西伯耆前司入道経蓮」が雑掌として行われた旨が記録されている*5。この経蓮については他の史料でも確認ができる。

 

【史料B】正応元(1288)年7月9日付「関東下知状」(『陸奥中尊寺経蔵文書』)*6より

……如建治三年御下知状平泉白山別当顕隆伯耆新左衛門入道経蓮相論事者、於山野致違乱、以神官神人等、召仕狩猟事、……

 

【史料C】正中2(1325)年9月7日付「関東下知状」(『越後三浦和田文書』)*7

和田左衛門四郎茂長女子平氏与姉平氏富安三郎息女*8相論、亡母平氏葛西新左衛門入道経蓮女子遺領武蔵国坂戸郷田畠在家、下総国金町郷田事
  右、整訴陳之状擬是非之處、今年正中二正月廿日両方令和與訖、如妹平氏状者、以和與之儀、金町郷田壱町内田弐段、其外買地内朝長三郎次郎跡田伍段、屋敷之畠参段半并稲毛新庄坂戸郷内河面三郎跡屋敷之畠北之間々波多仁寄天三段、安芸尼跡中溝之北之波多仁寄天田伍段、此内参段小有公事、避賜永代之上者、永留沙汰云々、如姉平氏状者、子細同前、此上不及異儀、任彼状、向後相互無違乱可領地者、依鎌倉殿仰、下知如件
 正中二年九月七日  相模守 平朝臣 花押(執権・北条高時
          修理権大夫平朝臣 花押連署北条貞顕

 

【史料D】元徳3(1331)年12月23日付「関東下知状」(『越後三浦和田文書』)*9

和田左衛門四郎茂長女子平氏越後国塩澤村塩谷村田五段畠山野以下得分物事
右村々、和田彦四郎茂実(=茂長の孫)押領之間、下総三郎兵衛尉清胤女子平氏就訴申、延慶三年九月十二日預裁許之處、死去之刻、譲与祖母尼佛心葛西伯耆新左衛門入道経蓮後家(=清経の妻・未亡人)佛心又依譲給孫女平氏、仰御使、元徳元年五月晦日被打渡訖、而御下知以後得分物、可返給之由、氏女申之、宜糺返者、依鎌倉殿(=守邦親王仰、下知如件
 元徳三年十二月廿三日 右馬権頭平朝臣 花押連署・北条茂時)
            相模守 平朝臣 花押(執権・北条守時

ここで注目すべきは、B~Dの関東下知状3点で経蓮が「(伯耆)新左衛門入道」と書かれていることである。【表A】と照らし合わせると「伯耆新左衛門(尉)」は左衛門尉任官後の清経が呼ばれていた通称名であり、そのまま出家すれば「伯耆新左衛門入道」と呼ばれる。よって、清経=経蓮 であったと推測可能である。

その裏付けとして、『龍源寺葛西氏過去帳』では清経の法名が「経蓮」で弘安10(1287)年11月死没、『葛西氏過去牒』でも清経の戒名が「開口院殿實相經蓮大居士」で同月7日の死没と記録されているようである*10。渡辺智裕も「蓮」の法名は、実名「清」の一字である「」の字と葛西氏当主代々の法名に付く「蓮」の字の組み合わせから成っていると説かれている*11

すなわち、清経は左衛門尉任官後、国守へ昇進することなく出家したことになる。恐らく国守任官に相応の年齢を迎える前に、若くして剃髪したのであろう。

 

従って「香取社造営次第案」での「葛西伯耆前司入道経蓮」は

「葛西伯耆新左衛門入道経蓮」

「葛西伯耆前司入道(=清親の法名:行蓮または清蓮)

いずれかの誤記と考えられるが、次の書状により経蓮(清経)と判断される。

 

【史料E】(文永年間?)10月27日付「葛西経蓮(清経)書状」(『香取文書』)*12

正神殿御簀寸法長

短并御殿内御障子帳

寸法次第、委注給、可致

沙汰候、但ミすは、鎌倉へ

可誂候之間、忩承た<候、

恐々謹言、

 十月廿七日 経蓮(花押)

 太〔ママ、大〕祢宜殿

内容としては、発給者の「経蓮」が香取社大禰宜に対し正神殿の御簀の寸法の長短や内殿の障子帳寸法を詳しく注進させ、御簾は鎌倉から取り寄せるよう指示したものであり、この「経蓮」が正神殿の造営を差配する人物であったことが窺える。「香取社造営次第案」と照らし合わせれば、法名の合致から、文永8(1271)年12月10日の遷宮の際に正神殿雑掌を務めた「葛西伯耆前司入道経蓮」と見なせる。

【史料E】は無年号文書となっているが、渡辺はこの発給時期を正神殿山口祭が執り行なわれた文永2(1265)年4月16日*13から文永8年遷宮までの間に絞られ、遷宮の前年または前々年(文永6~7年頃)のものではないかと推定されている*14

 

【表F】文永8(1271)年の香取社殿の造営負担交名(『市川市史 第二巻』より)

所領名 人名 負担(石)
不明 葛西経蓮 1,050
上野方郷 辛島地頭等 150
匝瑳北条 地頭等(飯高氏か) 70
印西条 地頭越後守金沢実時:北条一族) 180
小見郷 地頭弥四郎胤直(小見胤直:東 一族) 170
匝瑳北条 地頭等(飯高氏か) 30
神保郷 地頭千田尼 30
大戸庄
神崎庄
地頭等(国分胤長?:国分一族)
   (神崎景胤?:千葉一族)
100
猿俣郷 地頭葛西経蓮 60
平塚郷 地頭越後守実時金沢実時:北条一族) 60
風早郷 地頭左衛門尉康常(風早康常:東 一族) 70
矢木郷 地頭式部太夫胤家(矢木胤家:相馬一族) 70
萱田 地頭千葉介頼胤 50
結城郡 地頭上野介広綱(結城広綱) 120
埴生西条 地頭越後守実時 50
河栗遠山方 地頭等(遠山方信胤?:千葉一族) 100
大須賀郷 地頭等(大須賀宗信?:大須嫡流
行事所沙汰
行事所沙汰
100
30
30
遠山方二丁
葛東二丁
千葉介頼胤 30
下野方郷 地頭武藤長頼(?)
吉橋郷 地頭千葉介頼胤 30
埴生西条富谷郷 地頭越後守実時金沢実時:北条一族) 30
下野方郷 地頭武藤長頼(?)
行事所沙汰
行事所沙汰
30
30
30
印東庄 地頭千葉介頼胤 100
葛西郡 地頭葛西経蓮 100
大方郷 地頭諏訪真性
行事所沙汰
100
30
国分寺 地頭弥五郎時道女房(大戸国分時通の妻) 60
  正神殿雑掌(葛西入道経蓮
正神殿雑掌(葛西入道経蓮
行事所沙汰
50

(*表は https://chibasi.net/souke13.htm より)

 

〈その他参考史料〉 

『香取文書纂』巻一 P.20 

(文永2年?)「下総香取社𡡛殿遷宮用途注文」(『香取神宮文書』、『鎌倉遺文』第13巻9257号)

 

 

北条経時の烏帽子子

最後に「」の実名に着目してみたい。

今野慶信は、葛西氏の通字である「清」に対して、「」は鎌倉幕府第4代執権・北条(在職:1242年~1246年)*15偏諱を受けたものではないかと推測されている*16

前述したように、清経の生年は1235年とされるが、経時治世期には8~12歳となり、元服を遂げるには適齢である。尚、経時に1字を与えた4代将軍・九条頼経は寛元2(1244)年に将軍職を子の頼嗣に譲り、翌3(1245)年には出家して「行賀」と号しており、頼経から清経に直接「経」字が下賜された可能性はほぼ皆無と言って良いだろう。よって清経は経時を烏帽子親として元服し、同時にその1字を賜ったと判断される。

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.284「清経 葛西」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*2:吾妻鏡人名索引』P.287「清親 葛西」の項 より。

*3:吾妻鏡人名索引』P.198「時清 葛西」の項 より。

*4:千葉氏の一族 #葛西清重 参照。

*5:葛飾区史|第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)千葉氏の一族 #葛西清経

*6:『鎌倉遺文』第22巻16692号。

*7:『鎌倉遺文』第37巻29193号。

*8:富安三郎は伊具流北条時嗣のことか。「前田本平氏系図」を見ると伊具有時の子・八郎兼義の長男・時嗣に「冨安三郎」、次男・政助に「同四郎」の注記が見られ(→ 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』〈吉川弘文館、2000年〉P.376・377)、年代・世代的にも矛盾はないと思う。北条氏は平維将平維時の末裔を称する平姓の家柄で「平氏」の記載とも辻褄が合う。和田氏も坂東平氏の一族である。どうやら経蓮(清経)の娘は最初富安氏に嫁いで長女を生み、のち和田茂長に再嫁して次女を生んだと見受けられるが、この異父姉妹が相論を起こしていたようである。

*9:『鎌倉遺文』第40巻31571号。

*10:千葉氏の一族 #葛西清経 より。

*11:渡辺智裕「早稲田大学図書館所蔵「香取文書」について」(所収:『早稲田大学図書館紀要』43号、1996年)P.75。

*12:前注渡辺氏論文 P.72写真② および P.73~74 史料② より。

*13:同年4月11日付「香取社正神殿雑事日時勘文案」(『香取神宮所蔵文書』、『鎌倉遺文』第13巻9256号)。

*14:注11前掲渡辺氏論文 P.76。

*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*16:今野慶信「鎌倉御家人葛西氏について」(所収:入間田宣夫 編 『葛西氏の研究』〈第二期関東武士研究叢書3〉、名著出版社、1998年)P.78~79。

江間頼時

江間 頼時(えま よりとき、1183年〜1242年)は、鎌倉時代前期の武将、御家人江間小四郎義時北条義時の長男。母は阿波局*1。幼名は金剛(こんごう)。通称(仮名)は太郎。表記は「江馬」とも。北条頼時(ほうじょう -)とも呼ばれる。

のちに北条泰時(- やすとき)に改名し、鎌倉幕府第3代執権となるが、本項ではそれ以前の内容についてのみ扱う。

 

江間」とは、父・義時が伊豆国田方郡江馬庄(現・静岡県伊豆の国市江間〈旧・江間村〉)を領するようになったのをきっかけに称したものである。ちなみに、桓武平氏経盛流を称し、戦国時代には江馬輝盛を輩出した江馬氏も同庄を発症の地として北条氏との関係も示唆している。

吾妻鏡』では、建久3(1192)年5月26日条江馬殿金剛殿」を初見とし、翌4(1193)年9月11日条江間殿嫡男」、次いで下記の元服の記事で登場する。

【史料A】『吾妻鏡』建久5(1194)年2月2日条

建久五年二月小二日甲午。快霽。入夜。江間殿嫡男 童名金剛。年十三。元服於幕府有其儀。西侍搆鋪設於三行。……(参列者中略)……時剋。北条殿(=時政)相具童形参給。則将軍家出御。有御加冠之儀。武州千葉介等取脂燭候左右。名字号太郎頼時次被献御鎧以下。新冠又賜御引出物。御釼者里見冠者義成伝之云々。次三献。垸飯。其後盃酒数巡。殆及歌舞云々。次召三浦介義澄於座右。以此冠者。可為聟之旨被仰含。孫女之中撰好婦。可随仰之由申之云々。

この日、将軍家=源頼朝(初代鎌倉殿)がお出ましになり、「御加冠」の儀式を行ったとあるから、頼朝が烏帽子親を務めたことが分かる。そして金剛は「太郎」と名乗っており、朝の偏諱」を賜ったことが窺える。頼朝から見て頼時(泰時)は、妻・政子の甥にあたるから、単に親戚付き合いとして烏帽子親子関係が結ばれたに過ぎないのかもしれないが、北条氏一門・江間氏の将来の跡取りとして期待している面もあったのだろう。

▲2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、第25回から「頼時」の名乗りで登場。【史料A】の元服のシーンは描かれなかったが、第21回で頼朝が義時の息子・金剛が元服の折には、烏帽子親を務める発言をしていた。

画像 画像

吾妻鏡』を見ると、正治2(1200)年2月26日条で「江間大郎頼時」と書かれていたものが、翌建仁元(1201)年9月22日条では「江間太郎殿 泰□〔時〕」と変化しており、改名はこの間と推定される。この時期は烏帽子親である頼朝が亡くなった正治元(1199)年の直後であり、頼朝の死も無関係ではないと思われるが、近年では源氏将軍からやや距離を置いたのではないかとの見解もある*2。「」は従兄でもあり、肉親・北条氏とも対立した2代目鎌倉殿の1字でもあるから、これを避けたのかもしれない。

▲『鎌倉殿の13人』第29回では、頼家から直接「頼時」から "天下平" の1字を取った「時」に改名するよう命じられ、頼時(泰時)は渋々頼朝から賜った「頼」の字を改めることを受け入れた。すなわち頼家から遠ざけた形であり、翌年に叔父・時連(時房)も改名させられていることを踏まえると、一説としてあり得ない話でもない。

 

吾妻鏡』を見ると、父・義時元久元(1204)年3月6日に叙爵して相模守に任官する*3までほぼ一貫して「江間殿」或いは「江間四郎(または江間小四郎)」と呼ばれていたことが窺えるが、任官後の7月24日条から暫くは「相州」と書かれるようになっており*4、江間氏を称した形跡は無い。

同年11月5日には後妻・牧の方との間に生まれ、時政の嫡男であったとみられる "遠江左馬助" 政範(頼時より6歳年下の叔父にあたる)が16歳で亡くなり、一方で義時自身は翌元久2(1205)年閏7月20日には2代執権に就任しており、名実共に北条氏の家督を継承したと言えよう。

頼時改め泰時も、建仁3(1203)年9月10日条「江馬大郎殿」とあったものが、父・義時の相模守任官後、建永元(1206)年2月4日条「相模太郎」から表記が変わっている*5。この時「江間泰時」から「北条泰時」になったと考えて良いだろう。

 

ちょうど建永元年の10月24日には、義時と正室姫の前比企朝宗の娘)との間の第一子・朝時元服の儀が執り行われている。

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3代将軍・源実の加冠により、同じく13歳で元服したが、義時の子としては次男であったため「次郎」と命名されている(幼名は不詳)

そして、朝時が当初、義時の嫡男だったのではないかとする見解もあるが、仮名を「次郎」とされた点に着目すると若干疑問が残る。というのも、義時の子でも、有時(4男、1200年生)*6が「六郎」と称されたのに対し、義時の継室・伊賀の方所生の政村(5男、1205年生)*7が「四郎」、実泰(6男、1208年生)が「五郎」と逆転している(『吾妻鏡』)例があるからである。

泰時(頼時)の元服当時、前年(1193年)に朝時は誕生していたから、後の北条時輔(初名: 時利、長男で「相模三郎」)北条時宗(次男で「相模太郎」)兄弟のように【史料A】の段階で「太郎」と名付けられる必然性は無かった筈であるが、【史料A】で「嫡男」と明記するところからしても、頼時が当初から義時の嫡男として扱われていたと考えて良いのではないか

勿論「嫡男」記載については、【史料A】の『吾妻鏡』が北条氏得宗家(泰時流)=嫡流であることを示すための脚色の可能性も一応は考慮すべきではあるが、当初はあくまで義時流江間家としての「嫡男」だったのであり、また北条氏としても時政の嫡男は政範で、義時の次男・朝時に嫡流が渡る想定はなかった筈である(政範と朝時は血縁上、叔父―甥の関係ながら僅か5歳差である)

年齢的な問題もあるかもしれない。義時としては、正室との最初の子・朝時が生まれたとしても、先に成長していた長男の頼時(泰時)を後継に考えていたのだろう。頼朝の烏帽子子であったというのがその一因になっていたのではないかと思う。

 

(参考ページ)

 北条泰時 - Wikipedia

 北条泰時とは - コトバンク

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)

 

脚注

*1:鎌倉年代記』元仁元年条・『武家年代記』承久3年条(いずれも 竹内理三編『続史料大成』第51巻 所収)。『北条九代記』(→ 史籍集覧. 第5冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。『系図纂要』(→『大日本史料』5-2 P.313)。

*2:水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.46。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は『鎌倉年代記』・『武家年代記』の各元久2年条。

*4:吾妻鏡人名索引』P.54。元久元年2月25日条「江間四郎」が "江間" 表記の終見である(同年4月18日条では「四郎」とのみ記載)。

*5:吾妻鏡人名索引』P.320。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その52-伊具有時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その45-北条政村 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

北条時連

北条 時連(ほうじょう ときつら、1175年〜1240年)は、鎌倉時代前期の武将。北条時政の3男で、北条政子北条(江間)義時の異母弟。北条(大仏)朝直らの父。鎌倉幕府初代連署。仮名は五郎。

本項では、後に北条時房(- ときふさ)と改名するまでを扱う。

 

次の記事は、幕府御所において、三浦(佐原)義連を烏帽子親として元服した様子を伝える記事である。

【史料A】『吾妻鏡』文治5(1189)年4月18日条

文治五年四月小十八日庚寅〔ママ、己酉か〕北條殿(=父・時政)三男 十五歳 於御所被加首服。秉燭之程。於西侍有此儀。武州駿河守広綱遠江守義定参河守範頼江間殿(=兄・義時)新田蔵人義兼千葉介常胤三浦介義澄同十郎義連畠山次郎重忠小山田三郎重成八田右衛門尉知家足立右馬允遠元工藤庄司景光梶原平三景時和田太郎義盛土肥次郎実平岡崎四郎義実宇佐美三郎祐茂等著座 東上 二品(=源頼朝出御。先三献。江間殿令取御杓給。千葉小太郎成胤相代役之。次童形依召被参進。御前蹲居。次三浦十郎義連被仰可為加冠之由。義連頻敬屈。頗有辞退之気。重仰曰。只今上首多祗候之間。辞退一旦可然。但先年御出三浦之時。故広常義実諍論。義連依宥之無為。其心操尤被感思食キ。此小童御台所(=姉・政子)殊憐愍給之間。至将来。欲令為方人之故。所被計仰也。此上不及子細。小山七郎朝光八田太郎朝重(=小田知重、知家の子 / 泰知の父)取脂燭進寄。梶原源太左衛門尉景季同平次兵衛尉景高。持参雑具。義連候加冠。名字 時連五郎 云々。今夜加冠役事。兼日不被定之間。思儲之輩多雖候。当座御計。不能左右事歟。

烏帽子親子関係となった義と時の間で「連」の字が共有されており、義連から時連へ偏諱が与えられたと見受けられる。加冠役のことは事前に定められておらず、突如指名された義連は恐れ多いあまり辞退しようとしたが、将軍・頼朝が言うには、以前に上総広常と岡崎義実の諍いを宥めて止めたことを評価しており、自身の妻でもある政子が大変可愛いがっている(弟な)ので、将来を考えて頼りになる人にしようと、考えた末に決めたのだという。他にも自分ではないかと期待している者が多かっただろうが、頼朝のその場での配慮に、異議を唱える者は無かったと伝える。

▲2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、元服直後の21話から当時の名乗りで登場

 

ところが、建仁2(1202)年に時房と改名する。

吾妻鏡』では次の箇所に時連から時房に改名した経緯についての記事が見られる。

【史料B】『吾妻鏡』建仁2(1202)年6月25日条

建仁二年六月小廿五日戊戌。陰。尼御台所(=政子)入御左金吾(=左衛門督・源頼家 / 政子長男 / 2代将軍)御所。是御鞠会雖為連日事。依未覽行景已下上足也。此会適可為千載一遇之間。上下入興。而夕立降。遺恨之処。即属晴。然而樹下滂池〔沱〕。尤為其煩。爰壱岐判官知康解直垂帷等。取此水。時逸興也。人感之。申剋。被始御鞠。左金吾伯耆少将(=藤原清基)北條五郎。六位進(=盛景、姓不詳)紀内。細野兵衛尉。稻木五郎。冨部五郎。比企弥四郎大輔房源性加賀房義印。各相替立。々〔ママ〕員三百六十也。臨昏黒。事訖。於東北御所有勤盃。及数巡。召舞女微妙。有舞曲。知康候鼓役。酒客皆酣。知康進御前。取銚子勤酒於北條五郎時連。此間。酒狂之余。知康云。北條五郎者。云容儀。云進退。可謂抜群処。實名太下劣也時連字者。貫錢貨儀歟。貫之依為哥仙。訪其芳躅歟。旁不可然。早可改名之由。将軍直可被仰之云々。全可改字之旨。北條被諾申之。

内容としては、酒に酔った平知康が時連に対し、容姿や行動は「抜群」なのだが、「実名 太(=甚だ)下劣なり」と指摘している。知康は「時連」の「(つら)」が、銭貨をくの意味(実際、銭の単位に「貫」がある)或いは、和歌の名人・紀之を連想させるとして、将軍(=当時は2代・源頼家が直々に(改名の旨を)仰せられるべきとも述べて、時連は「連」の字を改めることを承諾したと伝える。

 

尚、翌26日条には、姉・政子がこの知康の言動や、彼を側に置いて承諾した長男・頼家に対し怒りを見せる場面が見られる。

【史料C】『吾妻鏡』建仁2年6月26日条

建仁二年六月小廿六日己亥。陰。尼御台所(=政子)令還給。昨日儀。雖似有興。知康成獨歩之思。太奇恠也。伊予守義仲法住寺殿。依致合戦。卿相雲客及耻辱。其根元。起於知康凶害也。又同意義経朝臣。欲亡関東之間。先人殊令憤給。可被解官追放之旨。被経奏聞訖。而今金吾(=頼家)忘彼先非。被免昵近。背亡者御本意之由。有御気色云々。

 

(参考ページ)

 北条時房 - Wikipedia

 北条時房とは - コトバンク

 

脚注

河越泰重

河越 泰重(かわごえ やすしげ、生年不詳(1210年代?)~1246年頃?)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武蔵国河越館の武将、鎌倉幕府御家人。通称および官途は 次郎、掃部助。河越重時の嫡男。子に河越経重

 

 

泰重の活動について

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こちら▲の記事に紹介の、中山信名撰『平氏江戸譜』静嘉堂文庫蔵)所収「河越氏系図*1には、次のように記載される。

【史料A】『平氏江戸譜』河越氏系図 より

「泰時ノ一字」掃部助

泰重

「東鑑嘉禎元」

吾妻鏡人名索引』に従うと、『吾妻鏡(別表記:『東鑑』)での初見は、文暦2(1235=嘉禎元)年6月29日条、五大堂の新造御堂の安鎮祭が執り行われた際に4代将軍・九条頼経に供奉した「後陣の随兵」の筆頭「河越掃部助泰重」であり*2、「掃部助」の官途と「東鑑嘉禎元」の正確性が裏付けられる。『入間郡誌』でも同記事を初見とする*3

よって、【史料A】系図は近世成立でありながら、『東鑑(吾妻鏡)』という出典を明確にした、江戸時代当時の研究成果として捉えて問題ない。泰重以降の当主には「○○ノ一字」の記載を付して、代々北条氏得宗家から一字を拝領していたと考えられていたことも窺える。「泰時ノ一字」の正確性についての考察は後ほど次節にて述べたい。

 

その後『吾妻鏡』においては、寛元4(1246)年8月15日条河越掃部助」に至るまで15回登場する*4が、『吾妻鏡正嘉2(1258)年3月1日条では「河越掃部助 香山三郎左衛門尉」と書かれており、その頃泰重の旧領は香山氏に引き継がれていたことが窺える*5。また、これに呼応するかのように、約2年前の建長8(1256=康元元)年6月29日条からは「河越次郎経重」が幕臣として活動している様子が確認できる。経重は【史料A】も含む系図類で泰重の子に位置付けられているから、1246~1256年の間に当主の交代があったものと推測され、それは泰重の逝去に伴うものであったと見なすのが妥当であろう。『新編武蔵風土記稿』によると、現在の埼玉県川越市にある養寿院は、寛元年間(1243~1247年)に河越経重が開基となり、密教大闍利円慶法印を開山として創建されたとの伝えがあるという*6から、泰重は終見である寛元4年の8月以後、もしくは翌年あたりには亡くなったのかもしれない。

 

生年と元服についての考察

伯母の郷御前源義経正室が仁安3(1168)年生まれ*7、伯父の河越重房が同4(1169)年生まれ*8と判明している。その弟である父・重時についても、兄・重房や弟・重員共々、河越重頼(重時の父/泰重の祖父)が誅殺された文治元(1185)年までには生まれたと考えるのが妥当で、『吾妻鏡』では畠山重忠の乱について記した元久2(1205)年6月22日条河越次郎重時(・同三郎重員)」が初見である。

▲【図B】河越氏略系図(河越館跡史跡公園内展示資料、画像は河越館跡史跡公園で探る川越の歴史|源義経の正妻、郷御前の故郷へ - 川越 水先案内板より拝借)

 

桓武平氏支流のうち、秩父重綱の子孫は「重○」型の名乗りを慣例としており、次男・重隆の系統でも従兄・畠山重(重隆の兄・重弘の子)偏諱を受けた葛貫(重頼の父)を除き、その例外では無かった。しかし河越氏では嫡流の泰重以降「○重」型に切り替わっており、家督継承者の〇は『平氏江戸譜』が示すように得宗からの偏諱と見て間違いないだろう*9

 

ここで見ておきたい記事がある。

吾妻鏡安貞2(1228)年7月23日条、将軍・頼経が三浦義村の別邸遊覧の際の「先の随兵」12名の一人「河越次郎(表記は二郎とも)」について、『吾妻鏡人名索引』では重時に比定する。しかし、重時は前述の通り1185年までには生まれている筈で、仮にその年に生まれたとすると当時44歳(数え年、以下同様)でありながら無官で「次郎」を名乗っていたことになる。

勿論、嘉禄2(1226)年4月10日条を見ると、武蔵国留守所総検校職に補任された重時の弟・重員が「河越三郎重員」と呼ばれており、同様に40代以上の年齢であったと思われるので、年齢だけを理由に「次郎=重時」でないとする理由にはなり得ない。

しかし、僅か6年後の貞永元(1232)年12月23日、重員が嫡子「河越三郎重資」に与えた「武蔵国惣検校職国検時事書等、国中文書之加判及机催促加判等之事」について、先例の如く沙汰すべき旨が武蔵国(=武蔵守)である3代執権・北条泰時*10の庁宣で指示され*11、建長3(1251)年5月8日、その庁宣の通り重資が武蔵国惣検校職に補された当時「河越修理亮重資」と名乗っていたことが同じく『吾妻鏡』の中で確認される*12。すなわち、1230年頃に重員の子・重資が元服し、父と同じ仮名「三郎」を通称として名乗ったことが推測できる。

だとすると、同じ頃に重資の従兄である泰重元服を済ませた筈である。前述の通り1235年の段階では「掃部助従六位上相当)*13」の官職を得ており、その頃に嫡男・経重も生まれているだろうから、それなりの年齢に達していないとおかしい。

泰重の仮名が「次郎」であった証左はないが、父・重時、嫡男・経重、更には『平氏江戸譜』で直系子孫とされる高重までが「河越次郎」を名乗っていたことが『吾妻鏡』や『建武記』*14で明らかであるから、重員―重資父子が「三郎」を継承したのと同様に、嫡流歴代当主の通称が「次郎」であったと考えて良いだろう。すなわち、泰重が元服後、掃部助の官職を得る前まで「河越次郎」を名乗っていたことは十分に考えられる

よって、重は北条時の執権就任 (1224年) から間もない頃に元服し、『平氏江戸譜』(【史料A】)の記載通りその偏諱を受けたとみられ、安貞2(1228)年の「河越次郎」は重時ではなく泰重に比定されよう*15。これがかえって泰重が当初「次郎」を名乗ったことの裏付けになると思う。

 

備考

ところで『吾妻鏡』等の史料には、寛元2(1244)年と建長3(1251)年の閑院内裏造営(再建)に際し修理の費用を担ったという記録があるが、寛元2年7月26日*16、宝治3(1249)年の焼亡に伴う建長3年6月27日*17の「閑院遷幸」に向けた事業を指しているものであろう。『百錬抄』では、この「閑院」に「関東よりこれを造進す」と注記されているので、関東の御家人たちがその造営(修理)に際しての雑掌(=請負人)を担ったことが窺えるが、幕府が閑院造営の雑掌を奏することを記した建長2(1250)年3月1日条(以下『建長帳』と呼ぶ)には、その請負人の中に「河越次郎跡」、「河越三郎跡」の名が確認できる。

このうち「河越次郎」は、前述の意味合いで言えば重時泰重のいずれにも比定し得る(これより後に存命が確認できる経重ではあり得ない)が、もし泰重なのであれば、ちょうど8年後の前述正嘉2年記事にある「河越掃部助」のように最終官途で記される筈である。同じことが「河越三郎」の方にも言えることは、前述した河越重資の名乗りの変化(三郎→修理亮)で分かると思う。すなわち、河越次郎=重時、河越三郎=重員に比定すべきで、この兄弟は無官のままで亡くなったことが伺えよう。「大友豊前々司(=大友能直跡」=大友頼泰(能直の孫)*18などの例もあるように、『建長帳』では「(初代当主名)跡」という形で書かれているようなので、「河越次郎(=重時跡」=孫・経重と見なしても問題は無く、必ずしも建長2年当時泰重が存命であったことの証左にはならない。

また、建治元(1275)年『六条八幡宮造営注文』「武蔵国」の項の筆頭にも「川越次郎跡」「同三郎」の記載がある。『建長帳』も含む『吾妻鏡』を考慮に入れながら、川越次郎=重時、川越三郎=重員に比定する*19が、筆者も同感である。

*三郎の方は「跡」が脱字であるが、重員の子・重資は前述したように建長3年当時修理亮在任で、弘安8(1285)年12月に書かれたとみられる「但馬国太田文」*20に、同国下賀陽郷上村を「地頭河越修理亮(=旧領)」とする記載があり*21、同国大浜庄の地頭に任じられている「河越太郎蔵人重氏」*22がその息子と考えられている*23。よって該当し得る人物は重員しかいないと思われる。

よって、泰重の父・重時は官職を得ぬまま亡くなったことになる。文暦2年当時、泰重が無官の父を差し置いて掃部助に任官するとはほぼ考えられず、重時は故人であったとみて良いだろう。承久元(1219)年1月27日、鶴岡八幡宮で行われた3代将軍・源実朝の右大臣拝賀の式に「河越次郎重時」が(式典の帰り道で実朝は暗殺される)*24、同年7月19日次期将軍として迎えられた頼経(この頃は元服前で幼名の「三寅」)の鎌倉下向の列に「河越次郎」が随兵として加わった*25という記録以降しばらく活動は見られず、9年後の安貞2年に「河越次郎」として重時が再登場するというのは妙であり、その間に若くして亡くなったと考えられる。よって、繰り返すが安貞2年の「河越次郎」=泰重と見なせる。

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(参考ページ)

 河越泰重 - Wikipedia

 武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越泰重

 

脚注

*1:川越市史 第二巻中世編』(川越市、1985年)P.162。

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.326~327「泰重 河越」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*3:入間郡誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション河越及河越家 : 総説 : 川越町 : 入間郡誌。但し『入間郡誌』での記述は子・経重に関する部分などで『吾妻鏡』等他の史料と整合性が合わない内容もあるので、信憑性の観点で情報の扱いには十分に注意が必要である。

*4:注2同箇所。

*5:」とは本来その人物が持っていた旧領などの財産・地位・業績などを意味し、通常はその相続人を指す。以下本文中に掲げる「跡」もこれに同じである。

*6:『新編武蔵風土記稿』8(『大日本地誌大系』第12巻 所収)巻ノ162ー入間郡ノ7「養寿院」の項 より。

*7:『吾妻鏡』文治5(1189)年閏4月30日条、前伊予守・源義経自害の記事における「妻 廿二歳」(享年22) の記載からの逆算による。尚、「源廷尉」に嫁いだのが河越重頼の娘であったことは元暦元(1184)年9月14日条を参照。同月2日条により「源廷尉」=義経と分かる。

*8:寿永3(1184)年1月の木曾義仲追討当時16歳であったとの『源平盛衰記』の記述に従った場合。

*9:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15系図・P.18・19。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*11:『吾妻鏡』貞永元年12月23日条

*12:『吾妻鏡』建長3年5月8日条

*13:掃部の助とは - コトバンク より。

*14:『大日本史料』6-1 P.421。『鎌倉遺文』第42巻32865号。『南北朝遺文 関東編』第1巻39号。

*15:武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越泰重 でもこの説を採っている。

*16:『平戸記』7月26日条・『百錬抄』同日条『吾妻鏡』8月8日条・『平戸記』8月25日条

*17:『吾妻鏡』6月21日条・『百錬抄』6月27日条『吾妻鏡』7月4日条「大日本史料 第五編之三十五」(『東京大学史料編纂所報』第49号、2013年、P.34~35)も参照のこと。

*18:大友頼泰 - Henkipedia【史料4】参照。

*19:海老名尚・福田豊彦「資料紹介『田中穣氏旧蔵典籍古文書』「六条八幡宮造営注文」について」(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第45集、国立歴史民俗博物館、1992年)P.375。

*20:『鎌倉遺文』第21巻15774号。但馬国太田文

*21:但馬国太田文 P.30。

*22:但馬国太田文 P.42。

*23:武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越重資

*24:『吾妻鏡』承久元年1月27日条

*25:『吾妻鏡』承久元年7月19日条

河越経重

河越 経重(かわごえ つねしげ、1230年頃?~1285年頃?)は、鎌倉時代中期の武蔵国河越館の武将、鎌倉幕府御家人。通称および官途は 次郎、遠江権守。苗字の表記は「川越(川越経重)」とも。

河越泰重の嫡男。子に河越宗重河越貞重

 

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こちら▲の記事に紹介の、中山信名撰『平氏江戸譜』静嘉堂文庫蔵)所収「河越氏系図*1には、次のように記載される。

【史料A】『平氏江戸譜』河越氏系図 より

「経時ノ一字」安芸守

経重

一本作 遠江

「川越山王経重寄進ノ鐘也、文応元年也、」

上記記事でも言及しているが、この系図は江戸時代に編纂されながらも、『吾妻鏡』や既存の系図など他の史料に基づいた記載が多く見られる。

まずはについて。「安芸守」に対して「一本作 遠江(他の系図一本では「遠江守」に作る(=遠江守とする))」とあり、恐らくただ他の系図からの情報を載せただけと思われるが、これは『吾妻鏡』により裏付けが可能である。すなわち、建長8(1256=康元元)年6月29日条に将軍・宗尊親王の随兵の中に「河越次郎」と見えるのを初見とし(次いで同年7月17日条に「河越次郎経重」とあり)弘長3(1263)年8月9日条河越次郎経重」に至るまで10回登場*2、終見の文永3(1266)年7月4日条では「河越遠江権守経重」と書かれており、1260年代半ば頃には遠江従五位下相当)権官への任官を果たしたことが窺える。

 

次に、の「経時ノ一字」の正確性について考察してみたい。

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これについては生年とも連動する問題であるが、系図上での息子・河越宗重が文永8(1271)年生まれとされるから、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、経重の生年は遅くとも1251年とするのが妥当である。但し、前述の通り「次郎経重」と名乗っていた建長8(1256)年までには、適齢の10代前半を迎え元服を済ませていたとみられるから、実際は1240年代前半以前にまで遡って問題ないと思うし、文永3(1266)年の段階で遠江権守であったことを踏まえると、遅くとも1230年代には生まれていたと考えるのが良いと思われる。

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▲【写真B】埼玉県川越市の養寿院(https://www.yoritomo-japan.com/kawagoe/yojyuin.html より拝借)

ちなみに『新編武蔵風土記稿』によると、現在の埼玉県川越市にある養寿院は、寛元年間(1243~1247年)に河越経重が開基となり、密教大闍利円慶法印を開山として創建されたとの伝えがあるという*3養寿院のHPでは寛元2(1244)年創建とする)

 

養寿院境内にある銅鐘には次のように文字が刻まれており、が指すものである。

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▲【写真C】:養寿院について | 養寿院 - 曹洞宗 青龍山養寿院 より拝借

【史料D】川越市養寿院鐘銘重要文化財の銘文

(※一部、新字体に改めている。)

武蔵国河肥庄
 新日吉山王宮
奉鋳椎鐘一口長三尺五寸
  大檀那 朝臣經重
  大勧進 阿闍梨円慶
 文応元年大歳庚申十一月廿二日
       鋳師 丹治久友
         大江真重

「平」は河越氏が桓武平氏の支流により称していた姓であり、経重は河肥(=河越)荘を領していた河越経重に疑いない。円慶も前述した養寿院開山と同人と見なせる。この銅鐘は文応元(1260)年に経重が荘内の新日吉山王宮(現在の上戸日枝神社に奉納したものとされ、これを鋳た丹治久友が鎌倉の大仏の鋳造も担当したことから、河越惣領家と北条氏との関わり合いを示す史料の一つになり得るものとしても注目されている。そうした河越・北条(得宗)両家の関係性は、前述の烏帽子親子関係がその基盤の一つになっていたのであろう。

 

次の史料にも着目しておきたい。

【史料E】高野山慈尊院道町石 111町石(高さ約2.82m、和歌山県九度山町笠木、国指定史跡 および 世界遺産の銘文*4

〈右側面〉 遠江権守平朝臣経重

〈 正 面 〉   百十一町

〈左側面〉 文永九季〔=年〕 五月 日

文永2(1265)年、高野山の僧・覚斅(かくきょう)上人の発願により、安達泰盛の主導のもと、高野山の参道20km余りに亘って1町(約109m)ごとに町石卒塔婆が建立された。これには泰盛のほか、北条義政平頼綱など多くの有力御家人得宗被官が参加しており*5、111番目の町石は同9(1272)年経重により寄進されたものであったことが窺える。

その官途・通称からして同3年の「河越遠江権守経重」(前述参照)に同定して問題ないと思われ、文永9年当時も経重は官職そのままで存命であったことになる。

 

経重の死没については、岩城邦男正応2(1289)年以前であったと推定されている*6が、その根拠と思われるものが次の史料である。

【史料F】『とはずがたり』巻4 より一部抜粋

……飯沼の新左衛門は歌をも詠み、数寄者(すきもの)といふ名ありしゆゑにや、若林の二郎左衛門といふ者を使にて、たびたび呼びて、続歌(つぎうた)などすべきよし、ねんごろに申ししかば、まかりたりしかば、思ひしよりも情けあるさまにて、たびたび寄り合ひて、連歌・歌など詠みて遊び侍りしほどに、師走になりて川越の入道と申す者の跡なる尼の、「武蔵の国小川口といふ所へ下る。あれより年返らば善光寺へ参るべし」と言ふも、便り嬉しき心地して、まかりしかば、雪降り積もりて、分け行く道も見えぬに、鎌倉より二日にまかり着きぬ。……

この辺りの研究については、須田亮子の論文*7を参考にしたい。内容としては、作者の後深草院二条(久我雅忠の娘)が正応2(1289)年12月、河越入道後家尼に招かれて川口にしばらく滞在したというものである*8が、ここに出てくる「川越の入道」は前述の「河越遠江権守経重」(が後に出家したもの)とする見解が有力である法名は不詳)

そして「跡なる尼」とはその後家(未亡人)にして髪を下ろした女性と考えられ、この当時「川越の入道」が既に故人であったことが窺える。すなわち経重が文永9年5月以後に出家し、それより間もない頃に亡くなったと推測されよう

 

(参考ページ)

 河越経重 - Wikipedia

 武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越経重

 

脚注

*1:川越市史 第二巻中世編』(川越市、1985年)P.162。

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.81「経重 河越」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*3:『新編武蔵風土記稿』8(『大日本地誌大系』第12巻 所収)巻ノ162ー入間郡ノ7「養寿院」の項 より。

*4:国指定史跡 河越館跡 パンフレット川越市教育委員会 発行)より。

*5:https://www.kinsei-izen.com/area_data/29_Wakayama.html 参照。

*6:岩城邦男「河越氏系譜私考」(『埼玉史談 第21巻第2号』(埼玉郷土文化会、1974年7月号)所収)P.11~12。

*7:須田亮子「『とはずがたり』信濃善光寺参詣記事について」(所収:『女子大國文』第142号、京都女子大学国文学会、2008年)P.31~32 および P.38~39 注(6)。

*8:日本列島「地名」をゆく!:ジャパンナレッジ 第49回 川口(かわぐち)が河口(かこう)だった頃(2)

葛西高清

葛西 高清(かさい たかきよ、1312年~1365年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代前期にかけての武将。

系図類によると、葛西貞清の長男。母は長崎円喜の娘。通称および官途は 八郎、左衛門尉、陸奥守、因幡守 と伝わる。

 

まず、次の系図2種を見ておきたい。

 

【史料A】『五大院葛西系図』(抄録)より:

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【史料B】『中舘葛西系譜』より:

f:id:historyjapan_henki961:20220316025300p:plain

(*いずれも 郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編) より引用)

 

注目すべき点として、Bの方では独自の情報として「北条相模守高時授諱字」とあり、清の「」が得宗・北条時からの偏諱であったことが明記されている。

ちなみに、高清以降の当主も足利将軍家から一字拝領したことが明記されている。

葛西:「賜将軍権大納言諱字

葛西:「柳営大相国義賜諱一字」

葛西*1:「柳営内大臣賜諱一字」

 

嫡男・高清の母について【史料A】では長崎宗資の娘であったといい、【史料B】では宗資の法名を「円喜」と記す。すなわち、得宗被官(御内人)にして、安達時顕(延明)と並ぶ高時政権の最高権力者、長崎円喜の外孫であった可能性が高い。

円喜の俗名については『系図纂要』上で「高綱(長崎高綱)」とあったり*2、近年では「鳥ノ餅ノ日記」(『小笠原礼書』)徳治2(1307)年7月12日条にある「盛宗(長崎左衛門尉盛宗)」が有力とされたり*3する。ただ、「資」という名も、息子・高資と「資」の字を共有し、「盛」とも恐らくは北条時偏諱である「」の字が共通するので、宗資=円喜(盛宗)の可能性は高いのではないかと思う。いずれにせよ、円喜・高資ら長崎氏一族と縁戚関係にあったことは認められよう。この点からも、貞清・高清父子が得宗ないしは得宗被官と深い結び付きがあったことが伺える。

 

【史料B】の文中「建武二年……十月七日為勲功賞……源中納言顕家卿賜下文」が指すのは恐らく次の書状であろう。

陸奥国元良〔=本吉〕郡・気仙郡

右為勲功之賞支配也依執達如

 建武二年十月十七日 顕家

  葛西陸奥殿

(*郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編)より)

この「葛西陸奥守」が誰なのか、他の史料による裏付けが困難であるため未確定だが、これが高清であればその実在を証明できるものとなる。

その他「因幡守高清」の名が熊谷氏・小野寺氏など他の氏族の古文書にも見えるらしい*4が、まだまだ検討の余地を残している。

 

(参考ページ)

 葛西高清 - Wikipedia

 郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編)

葛西氏系譜の再考

 葛西惣領家別説(盛岡藩葛西家)

 

脚注

*1:持信については史料上でその実在が確認できる。次の書状は実名と官途(伯耆守)が確かめられる貴重なものである。

● 文明2(1470)年2月9日付「畠山政長下知状」

花押足利義政

 陸奥国 員数載譲状事

葛西伯耆守持信文明元年五月七日譲状、守先例、
可令領事之状、仰依下知如件

 文明仁年二月九日 政長(花押)

葛西壱岐守殿(=持信の子・朝信か)

*2:【論稿】『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipedia 参照。

*3:細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館、2011年)P.73。同「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻12号、信濃史学会、2012年)。

*4:葛西惣領家別説(盛岡藩葛西家)#葛西高清 の項より。

葛西貞清

葛西 貞清(かさい さだきよ、1291年~1324年)は、鎌倉時代後期の武将。通称および官途は 又太郎、左衛門尉。法名は道西。

系図によると、父は葛西清信千葉頼胤の子で葛西清時の養嗣子、初名: 胤信)、母は本間景隆(山城守)の娘と伝わる。

 

まずは、次の系図史料2点を掲げ、検討してみたい。

 

【史料A】『五大院葛西系図』(抄録)より:

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【史料B】『中舘葛西系譜』より:

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(*いずれも 郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編) より引用)

 

注目すべき点として、Bの方では独自の情報として「北条相模守貞時授諱字」とあり、清の「」が得宗・北条時からの偏諱であったことが明記されている。冒頭の生年は記載の没年および享年(数え年、以下年齢も同様)から算出したものであるが、貞時が鎌倉幕府第9代執権を辞して出家した正安3(1301)年当時には11歳と元服の適齢を迎える。

また、仮に父・清信の千葉氏からの養子入り説を信ずるならば、千葉胤(1288年生)千葉(1292年生)とは従兄弟関係にしてほぼ同世代となる。

よって、年代的な考慮だけで言えば、記載そのものに矛盾は無いと判断できる。

 

ちなみに、同系図では貞清以降の当主も得宗家、或いは足利将軍家から一字拝領したことが明記されている。

葛西:「北条相模守時授諱字

葛西:「賜将軍権大納言諱字

葛西:「柳営大相国義諱一字

葛西:「柳営内大臣諱一字

 

葛西氏の系図としては、①1675年に仙台藩士の葛西重常(藤右衛門、晴信の弟・胤重の曾孫)が藩に提出した「平姓葛西氏之系図」に基づく、所謂「仙台系の系図」、②高野山にある葛西氏創建の五大院に伝えられた、由緒古くて正しいとされる「陸奥国平姓葛西氏之系図(通称「高野山五大院系図」とも)の流れをひく所謂「盛岡系の系図」の2系統が伝わる。

そして「陸奥国平姓葛西氏之系図」の写本という「平姓葛西系図」の抄録が【史料A】の「五大院葛西系図(抄録)」であるという*1

【史料B】は持信の弟・西舘重信の子孫の家系図であり、葛西氏に関する部分は持信までの記載に留まっている*2が、概ね【史料A】の内容と一致しており、かなり影響を受けていると見受けられる。

いずれも、後世の伝写・編纂時に情報が加えられている可能性も考慮せねばならないが、仙台系系図に比べある程度信憑性を持ったものと見なしても良いのではないか。

 

ところで、盛岡系の系図類には見当たらないが、 「香取社造営次第案」(『香取文書』)に、永仁6(1298)年香取神宮式年遷宮の雑掌を務めた人物として「西伊豆三郎兵衛尉清貞」、延元3(1338)年11月11日付「沙弥宗心書状」(『白河結城文書』)の文中にも「一.葛西清貞兄弟以下一族、随分致忠之由令申間、度々被感仰畢」*3とあって、葛西清貞という人物の実在が確認できる*4。名前の類似のためであろう、この清貞と貞清を混同、もしくは同一視する見解も見られるが、【史料A】・【史料B】と照らし合わせた場合、仮名(輩行名)・官途での不一致や、没年との矛盾が生じるため、少なくとも別人として扱うべきなのではないか。

また永仁年間に「」の偏諱を許されている様子から「清」も当時の執権・時の1字を受けていると推測されるが、わざわざ下(2文字目)に配置していることからすると、別に嫡流扱いをされた「清」の存在があってもおかしくはないのではないか。永仁6年当時、清貞は元服済みであったのに対し、貞清は前述の生年に基づくと8歳となり、恐らくは元服前であったと思われるが、清貞の元服は永仁6年よりさほど遡らず、貞清が生まれた1291年以後(すなわち1291~1298年の間)に行われたものと思われる。

 

【史料A】・【史料B】の情報を総合すると、当初は8代将軍・久明親王、その後正和年間においても9代将軍・守邦親王の近臣として活動し、文保2(1318)年9月には守邦から「陸奥国探題職」に補任され、正中元(1324)年3月16日に34歳の若さで亡くなったという。

 

筆者が思うに、貞清・高清父子はかなり得宗寄りの人物であったと思われる。一見すると、近臣として将軍に近い立場にあったように見受けられるが、そうした活動も、得宗が戴く親王将軍に仕えることで、協調姿勢を見せたというのが実際のところなのであろう。烏帽子親子関係以外にも、縁戚関係がその判断材料になるかと思う。

母方の本間氏は、佐渡国守護を務めた大仏流北条氏のもとで守護代となったのをきっかけに、北条氏被官化した一族として知られ、建武元(1334)年3月9日には、同じく北条氏譜代の旧臣・渋谷氏らと共に兵を起こして鎌倉を襲い、足利氏一門・渋川義季貞頼の子)に撃退されている*5

「於関東、本間渋谷等一党叛逆」(「実廉申状断簡」『南北朝遺文』602)

「三月九日 本間渋谷一族、各打入鎌倉、於聖福寺合戦」『将軍執権次第』『鎌倉大日記』建武元年条

「三月上旬関東に本間澁谷が一族先代方として謀叛を興し、相摸国より鎌倉へ寄せ来る間、渋川刑部大輔義季を大将として、極楽寺の前に馳せ向ひて責め戦ふ事数刻ありしに、凶徒打負けぬ。」(『梅松論』)

 

また、【史料A】・【史料B】両系図によると、嫡男・高清の母が長崎左衛門入道円喜の娘であったといい、すなわち貞清はこの女性を妻に迎えていたことになる。長崎円喜得宗被官(御内人)にして、安達時顕(延明)と並ぶ北条高時政権の最高権力者であったから、得宗ないしは得宗被官との結び付きがかなり深かったことがここからも伺えよう。

 

よって、貞清・高清父子は得宗から嫡流格と見なされ、それ故に偏諱の授与が行われたものと思われる。

但し、史料的な裏付けが弱いため、実在も含めて検討の余地を残している。

 

(参考ページ)

 葛西貞清 - Wikipedia

 郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編)

葛西氏系譜の再考

 

脚注