Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小山宗朝

小山 宗朝(おやま むねとも、1270年頃?~没年不詳(1336年以前))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。父は小山時朝(時村)。子には小山貞宗と娘が一人。通称は出羽守(および 出羽前司、出羽入道)法名円阿(えんあ)か。

 

 

史料における小山宗朝

まずは関係する史料を以下に掲げておきたい。

 

【史料1】(元亨3(1323)年10月27日)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』所収):この日参加者の一人である「小山出羽前司」が「砂金百両」を進上*1

 ◆この間に出家法名:円阿)

【史料2】正中2(1325)年3月日付「最勝光院荘園目録案」(『東寺百合文書』ゆ)*2筑前国三原荘の領家として「関東備前守 小山出羽入道息女

【史料3】嘉暦3(1328)年8月8日付「沙弥某奉書」(『陸奥飯野文書』)*3:宛名に「小山出羽入道殿

【史料4】正慶元(1332)年8月10日付「中務大輔某施行状」(『陸奥飯野文書』)*4:宛名に「小山出羽入道殿

 

これら史料4点における「小山出羽前司(=前出羽守)」およびその出家後の姿である「小山出羽入道」については、次に掲げる『尊卑分脈』の小山氏系図により宗朝に比定されよう。

f:id:historyjapan_henki961:20181011174817j:plain

▲【系図5】『尊卑分脈』小山氏系図(一部抜粋)*5

 

あわせて、次の史料2点も見ておきたい。

 

【史料6】元弘3(1333)年8月15日付「後醍醐天皇綸旨」(『久我家文書』)*6

尾張国海東下庄
地頭職、可令知行
給者、
天気如此、以此旨可令洩
申給 範国誠恐頓首謹言、
 元弘三年八月十五日 式部少輔(花押 *岡崎範国)奉
進上 山城前司(=竹内仲治)殿

 

【史料7】延元元(1336)年3月30日付「後醍醐天皇綸旨」(『久我家文書』)*7

尾張国海東中庄地□〔頭〕
 小山出羽入道 円阿、可令知行
給者、
天気如此、以此旨可令
洩申給、仍言上如件、宣□〔明〕
恐惶頓首謹言、
 延元々年三月卅日 左中弁(花押)
進上 大夫将監殿

【史料6】【史料7】鎌倉幕府滅亡後、建武政権下での史料になるが、後者では「小山出羽入道円阿(旧領)」である尾張国海東中荘の地頭職を久我家に与える旨が記されている。この円阿は、時期・通称名の一致からして冒頭史料4点での「小山出羽入道」と同人と見なされ、宗朝の法名であったと推測される。出羽守を退任して出家していたことを考えると、それなりの年齢には達していたと思われ、延元元年当時は既に故人であったのだろう。

寿永3(1184)年4月22日付の「源頼朝下文案」に「尾張国海東三箇庄」と見え、寛喜2(1230)年2月20日付「小山朝政譲状」(『小山文書』)には、以前朝政(下野入道生西)が「将軍家之御恩」として賜り、「嫡孫 五郎長村」へ譲られた「所領所職等」の中に「一. 尾張国 海東三箇庄 太山寺」が含まれている*8

そして海東中荘は、長村―時朝(時村)―宗朝と相伝されたのであろう。

 

生年と烏帽子親の推定

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事にて、父・時村(初名:時朝)については1240年代後半の生まれと推定した。『吾妻鏡』正嘉元(1257)年12月29日条では「小山出羽四郎時朝」と書かれており、当時父が元服から間もない段階で無官であったことが窺えるから、宗朝はまだ生まれていなかったと考えて良いと思う。父との年齢差を考慮すれば、早くとも1260年代後半の生まれになるだろう。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

一方、こちら▲の記事で紹介した、永仁2(1294)年の成立とされる白河集古苑所蔵の「結城系図」には時村の子として宗朝の記載が見られる。すなわち、永仁2年の段階では既に元服済みであったことが読み取れる。そして注記が無いことから、元服からさほど経っていない段階で無官であったことも推測可能である。

 

これらの点を踏まえて「」の名に着目すると、父の初名から受け継いだ「朝」の通字に対し、「」は鎌倉幕府第8代執権・北条時(在職:1268年~1284年)*9偏諱を許されていることが窺える。恐らくは弘安7(1284)年4月までに、時宗を烏帽子親として元服したのであろう。元服は通常10代前半で行われることが多かったから、遅くとも1270年頃の生まれになるだろう。

よって、宗朝の生年は1260年代後半と推定される。永仁2年の段階で無官であった可能性が高いことを考慮すると、1270年前後の生まれ、時宗晩年期の元服になるのではないか。仮に1270年生まれとした場合でも【史料1】の元亨3年には54歳(数え年、以下同様)となり、出羽守を辞した後の年齢としては十分妥当である。

 

尚、延元元(1336)年4月に定められた建武武者所結番の一番衆の中に「藤原政秀小山五郎左衛門尉」の名が見られる*10。【系図5】と照合すると、通称名の一致や字の逆転から貞朝の子・秀政(小山秀政)の誤記とも考えられるが、宗朝の孫にも「藤井」を称した政秀(小山政秀)の名が確認できる。この政秀は元服済みで左衛門尉の官途を得ており、若くとも20代であったとみられるが、仮に後者であるならば、祖父である宗朝は60代に達していたとみるのが妥当である。同年前月に出された【史料7】を見る限り、宗朝は既に故人であったと考えられるが、1270年生まれとしてもこの当時67歳となり、辻褄が合う。【史料4】で1332年までの生存は確認できるから、宗朝は1333~1336年の間に、享年60代で亡くなったものと推測される。

 

備考

小山宗(小山七郎宗朝)」は、結城朝光元服の際に名乗った初名でもある*11。こちらは、外祖父・八田宗綱から取ったと思われる「宗」と、元服時の烏帽子親・源頼からの偏諱「朝」によって構成されている。

 

(参考ページ・論文)

南北朝列伝 #小山宗朝

 湯山学「小山出羽入道円阿をめぐってー鎌倉末期の下野小山氏」(所収:『小山市史研究』三号)

 

脚注

小山時村

小山 時村(おやま ときむら、生年不詳(1245年頃?)~没年不詳)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。初名は小山時朝(- ときとも)。通称は四郎(出羽四郎)。官途は左衛門尉か。

父は小山長村。弟に小山時長。子に小山宗朝、女子結城時広室、貞広母)がいる。

 

 

尊卑分脈』の系図には次のようにある。

f:id:historyjapan_henki961:20181011174817j:plain

▲【系図α】『尊卑分脈』小山氏系図(一部抜粋)*1

 

生年と改名について

まずは「時村 云々」について確認しておきたい。

吾妻鏡』では唯一、正嘉元(1257)年12月29日条に登場*2、この日の御格子上下結番・五番衆の一人に「小山出羽四郎時朝」が見える。通称名は当時「出羽前司」と呼ばれていた父・長村*3の「四郎」を表すものである。

*「四郎」は本来4男の意味であるが、小山氏においては「政光―朝政―朝長―長政(長村の庶兄)」代々が称してきた家督継承者の称号であったと考えられる。これについては後述でも考察する。

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

その後、史料上で主だった活動は確認できないが、永仁2(1294)年の成立とされる白河集古苑所蔵の「結城系図(以下「結城系図A」とする)上では「時村」と書かれており、当時元服済みであった息子・宗朝の記載もある*4。更に、1320年前後の成立とされる『結城小峯文書』所収の「結城系図(以下「結城系図B」とする)でも貞広の注記にも「小山四郎判官時村」と書かれている*5ので、時朝が最終的に後に父・長村の1字を取って時村に改名したことは認められよう。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

historyofjapan-henki.hateblo.jp

結城貞広の生年は1289年と判明しているので、各親子間の年齢差を考慮すれば、外祖父にあたる時村は遅くとも1249年までには生まれていたと判断できる。『鎌倉大日記』によると、弟・時長が1246年生まれらしく、父・長村との年齢差も考慮すると、時村の生年は1240年代前半だったと推定可能だろう。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

系図α】を見ると、時長の母は海東忠成の娘と明記されているが、時村のそれについては特に記されておらず、恐らくは異母兄弟であったと考えられる。

時村の母については今のところ史料類による特定が難しいが、父・長村は別に北条(金沢)実泰の娘を妻に迎えていたといい*6、候補にはなり得る。実泰は1208年生まれなので、仮に各親子間の年齢差を20とした場合、その外孫の生年は1248年頃となるが、実泰が17歳の時に嫡男・実時が生まれていることを参考にすると、多少は遡っても良いだろう。よって、時朝(時村)の生年は時長のそれの前年にあたる1245年と仮定しておきたいと思う。

よって、通常10代前半で行われる元服当時の鎌倉幕府執権は、5代・北条(在職:1246年~1256年)*7であることは確実となり、「」の名はその偏諱」が許されている。時頼が烏帽子親として一字を授けたものと考えて良いだろう。

 

官職歴について

あわせて、他の注記の内容についても考察していこう。内容としては官途・官位に関するものであり、改めて抜粋してみると次の通りである。

 叙留之後申 六位畏云々

 従五下

 使叙留

 修理権大夫

「従五下」は従五位下、「使」は検非違使を表し、修理権大夫は修理大夫従四位下相当、長官級)*8権官である。「叙留」とは「律令制で、位階が昇進して、官職がその位相当でなくなったにもかかわらず、その職に留まること」を意味する*9。冒頭記載の解釈としては、「叙留の後、六位であることが恐れ多いことを申した」ということであろうか、詳細は不明だが、位階と官職の不一致を巡って混乱があったのかもしれない。これは時朝(時村)が長村の嫡男であったのかどうか、最終的に小山氏の嫡流が弟・時長の孫である貞朝の系統に移ったこととも関係するのだろう。

 

ここで前述の結城氏系図2種に着目しておきたいが、「結城系図B」では貞広の注記に「小山四郎判官時村」とある(前述参照)のに対し、「結城系図A」では時広の嫡男・犬次郎丸(貞広の幼名)の注記には「小山判官入道」と書かれている。時村=判官入道であることは間違いないと思うが、時村の最終官途が「判官」で、その後は出家したことが窺える。尚、法名は不詳である。

「判官 (はんがん/ほうがん)」とは、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である*10から、長官級(=四等官の第一位)である修理大夫およびその権官たる修理権大夫に就いた可能性は低く、前述の注記には誤伝が含まれている可能性を留意すべきである。恐らく実際の官途は左衛門尉だったのではないかと推測される

 

所領についての考察

寛喜2(1230)年2月20日付「小山朝政譲状」(『小山文書』)には、以前朝政(下野入道生西)が「将軍家之御恩」として賜り、「嫡孫 五郎長村」へ譲られた「所領所職等」の中に「一. 尾張国 海東三箇庄 太山寺」が含まれている*11

そして、延元元(1336)年3月30日付「後醍醐天皇綸旨」(『久我家文書』)*12の文中には「尾張国海東中庄地□〔頭〕 小山出羽入道円阿」とある。【系図α】と照合すれば、小山円阿は官途の一致から息子・宗朝が出家した同人と推測される。

海東荘は早くから上中下の3つの区域に分けられていた*13が、この2つの史料から、そのうち中荘が「長村―時朝(時村)―宗朝」の三代に亘って相伝されたことが推測できよう。

 

脚注

結城朝光

結城 朝光(ゆうき ともみつ、1168年~1254年)は、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけての武将、御家人。下総結城氏初代当主。

父は藤原北家藤原秀郷流の小山政光。 母は八田宗綱の娘・寒河尼。

幼名は一万丸、初名は小山宗朝(おやま むねとも)。通称は七郎。官途は左衛門尉、のち上野介。法名日阿

 

吾妻鏡』には次の箇所に朝光の元服の記事がある。

【史料】『吾妻鏡』治承4(1180)年10月2日条 より

治承四年十月小二日辛巳。武衛(=源頼朝相乗于常胤広常等之舟檝。済大井隅田両河。精兵及三万餘騎。赴武蔵国。豊嶋権守清元。葛西三郎清重等。最前参上。又足立右馬允遠元。兼日依受命。爲御迎参向云々 今日。武衛御乳母故八田武者宗綱息女 小山下野大掾政光妻。号寒河 相具鍾愛末子。参向隅田宿。則召御前。令談往時給。以彼子息。可令致昵近奉公之由望申。仍召出之。自加首服給。取御烏帽子授之給。号小山七郎宗朝 後改朝光 今年十四歳也云々。

源頼朝の御前に於いて元服し、自ら加冠を務めた頼より「」の偏諱を受けて「」と名乗ったことが窺える。後に父・政光の1字と合わせて「」と改名した。

▲2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも朝光が登場

 

(参考ページ)

 結城朝光 - Wikipedia

● 結城朝光とは - コトバンク

 

脚注

葛西時清

葛西 時清(かさい とききよ、1215年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代前期~中期の武将、御家人。葛西氏宗家第3代当主。通称および官途は 小三郎、三郎、左衛門尉。

父は葛西清親。弟に葛西光清。子に葛西清経、女子長尾景茂室、景忠母)*1

 

 

"伯耆三郎左衛門尉"時清

吾妻鏡人名索引』を見ると、『吾妻鏡』建長4(1252)年4月3日条伯耆三郎左衛門尉時清」および 建長8(1256)年6月29日条伯耆三郎左衛門尉」が葛西時清に比定されている*2

そもそもその通称名は、父が伯耆守で、自身は仮名(輩行名)が「三郎」、官職が左衛門尉であったことを示している。詳しくは後述するが、『吾妻鏡』を見るとこの当時の伯耆守に該当するのは清親であり*3、『尊卑分脈後藤基頼の注記に「葛西伯耆守清親」とあることから、葛西氏と分かる。

また、『奥山庄史料集』所収「桓武平氏諸流系図」(【図A】)でも伯耆守清親の子に三郎左衛門時清を載せており、『吾妻鏡』はその実在を証明するものとなる。

 

【図A】「桓武平氏諸流系図」葛西氏部分*4

次男  号六郎大夫 平■仗 豊島三郎       左衛門尉    四郎
将恒―――武恒―――経家――康家――+―清元―+―有経    +―重元
武蔵権守              |    | 壱岐三郎  | 伯耆守  三郎左衛門
                  |    +―清重――――+―清親――――時清
                  |    | 笑田四郎  | 六郎左衛門
                  |    +―有元    +―朝清
                  |    | 豊島五郎  | 七郎左衛門
                  |    +―家員    +―時重
                  |            | 八郎左衛門
                  |            +―清秀
                  | 豊島四郎  兵衛尉
                  +―俊経――――遠経
                         |
                         +―平塚入道

historyofjapan-henki.hateblo.jp

更に裏付けるならば、「…左衛門尉時清」記事と同年の建長4年11月11日条には、将軍家御出供奉の一人として「伯耆左衛門三郎清経」が現れており*5、清親も清経も葛西氏の系図上で見られる名前である。葛西氏において「三郎」は、本来の3男の意味というよりは、清元以来の惣領代々の称号と化していたとみられ、時清も清経もその継承者であったと見なせる。清経の通称名は「伯耆左衛門(尉)」の「三郎」を表しており、時清の嫡男であったと推測できよう。

*「仙台葛西系図」では清親の子、清経の父にあたる人物として清時の記載があるという*6。葛西清時なる人物が別にいたことは後述するが、単に字を逆転させた誤記だとすれば、「清親―時清―清経」という系譜の傍証になり得るだろう。

 

尚、「伯耆三郎左衛門尉時清」と同時期(建長年間)に現れる「伯耆四郎左衛門尉光清(=葛西光清)」はその名乗り方からして清親の子、時清の弟と見なせる。

 

【表B】『吾妻鏡』における葛西光清の登場箇所*7

月日

表記

宝治2(1248)

8.15

伯耆四郎左衛門尉光清

建長2(1250)

8.18

伯耆四郎左衛門尉

12.27

伯耆四郎左衛門尉

建長4(1252)

8.14

伯耆四郎左衛門尉光清

建長5(1253)

1.16

伯耆四郎左衛門尉光清

建長8(1256)

6.29

伯耆四郎左衛門尉

弘長元(1261)

8.5

伯耆四郎左衛門尉

弘長3(1263)

7.13

伯耆四郎左衛門尉

 

時清や清経と同時期に登場する、建長4年4月14日条の「伯耆左衛門四郎清時(=葛西清時)」も、その名乗り方からして、時清または光清の子と見なせる。

*前述の光清とは「四郎」や「左衛門尉」の通称が共通するが、「伯耆左衛門尉の四郎」と「伯耆四郎かつ左衛門尉」では意味が異なっており、別人として扱うべきである。

 

 

"壱岐小三郎左衛門尉"時清

ところで、『吾妻鏡』を見ると "伯耆三郎左衛門尉時清" の登場前に、「三郎」の仮名と「時清」の実名が共通する人物が以下の箇所に登場する。

 

【表C】*8

月日

表記

嘉禎元(1235)

6.29

壱岐三郎時清

嘉禎3(1237)

4.22

壱岐小三郎左衛門尉

6.23

壱岐小三郎左衛門尉時清

嘉禎4(1238)

2.17

壱岐小三郎左衛門尉

2.28

壱岐小三郎左衛門尉時清

6.5

壱岐小三郎左衛門尉時清

仁治元(1240)

8.2

壱岐小三郎左衛門尉

結論から言えば、この時清も葛西氏と見なせる。

冒頭で示したように、葛西時清が「伯耆三郎左衛門尉」と呼ばれるためには、父・清親伯耆守に任官済みであることが前提となる。従って、仁治元年8月の段階でさえ、清親はまだ伯耆守に昇進していなかったことになる。

しかし、翌2(1241)年3月17日条「伯耆前司」が清親のこととされ*9、以後「伯耆四郎左衛門尉光清」や「伯耆三郎左衛門尉時清」の名が現れるのである。

 

『吾妻鏡』暦仁元(1238)年2月17日条には4代将軍・九条頼経の上洛時の随兵42番に「壱岐小三郎左衛門尉」と「壱岐三郎左衛門尉」が別々に書かれている。時清は父「三郎」と区別されて「小三郎」と呼ばれたのであろう。

似たような例としては、父の "河越太郎" 重頼に対して "小太郎"と呼ばれた河越重房、父の "北条四郎" 時政に対して "小四郎"と呼ばれた北条義時、父の "武田五郎" 信光に対して "小五郎"と呼ばれた武田信政などが挙げられる。

研究の中には「壱岐小三郎左衛門尉」が壱岐葛西清重の息子とする見解もある*10が、父・清親が国守伯耆守)の官途を得ていなかった間は祖父・清重の官途が付されていたと考えて問題ない*11。従って「三郎嫡流家の正しい系譜は【図A】の通り「清重清親時清」であったと判断される。

 

尚、嘉禎元(1235)年の時清初見時の「壱岐三郎時清」表記は、父が「壱岐三郎左衛門尉清親」と名乗っていたため、特に「小三郎」と区別する必要がなかったのであろう。

*『吾妻鏡』寛元元(1243)年7月17日条「葛西三郎左衛門尉」について、『吾妻鏡人名索引』では清重に比定するが、清重は壱岐守となって出家した上にこの頃は故人で*12、清親も前述の通り伯耆守を辞して「伯耆前司」と呼ばれていたから、これも時清に比定されよう。同様に「小三郎」と呼ぶ必要は無かったと考えられる。

 

嘉禎元年当時の時清は左衛門尉任官前で無官であったことが分かるが、元服からさほど経っていなかったためであろう。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

息子の清経22歳(数え年、以下同様)となった建長8(1256)年から「伯耆新左衛門尉」と呼ばれるようになっており、葛西氏における左衛門尉任官年齢の目安になるだろう。

時清は、表記が変わる間の1236年に左衛門尉の官途を得たと仮定すると、1215年頃の生まれと推定可能である。息子・清経との年齢差もちょうど良く、1238年生まれの後藤基頼の母方のおじとしても十分妥当である。

清経は18歳の時に「伯耆左衛門三郎清」と実名で現れるので、これ以前に元服したことは確実で、その名から8~12歳で4代執権・北条を烏帽子親として加冠の儀を行ったと判断される。

清も同じくらいの年齢で元服を遂げたとすれば、当時の3代執権・北条泰(在職:1224年~1242年)*13偏諱」を賜ったと考えて間違いないと思う。泰時の代には他の御家人がこぞって泰時に加冠や偏諱を求めており、恐らくは父・清親の意向と思われるが、葛西氏もこの流れに乗っかったことが窺える。

 

(参考ページ)

千葉氏の一族 #葛西時清

 葛西時清 - Wikipedia

 

脚注

*1:葛西時清 - Wikipedia より。典拠は『群書系図部集 4』。

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.198「時清 葛西」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*3:吾妻鏡人名索引』P.287「清親 葛西」の項 より。

*4:千葉氏の一族 #葛西清重 より引用。

*5:吾妻鏡人名索引』P.284「清経 葛西」の項 より。

*6:葛西時清 - Wikipedia より。

*7:吾妻鏡人名索引』P.131「光清 葛西」の項 より。

*8:吾妻鏡人名索引』P.197「時清(※姓不詳)」の項 より。

*9:注3箇所によれば、実名の初見は寛元2(1244)年8月15日条「伯耆前司清親」。宝治元(1247)年12月29日条にも「葛西伯耆前司」とあって葛西清親と認められる。

*10:千葉氏の一族 #葛西時清

*11:同様の例としては伯耆葛西清親の孫 "伯耆左衛門三郎→伯耆新左衛門尉" 清経陸奥北条義時の孫 "陸奥太郎" 実時陸奥北条重時の孫 "陸奥孫四郎" 義宗陸奥安達泰盛の孫 "陸奥太郎" 貞泰 など多数確認される。

*12:『吾妻鏡』建長2(1250)年3月1日条に「葛西壱岐入道跡」とあり、この時には既に亡くなっていたことが窺える。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

葛西清経

葛西 清経(かさい きよつね、1235年~1287年)は、鎌倉時代中期~後期の武将、御家人。葛西氏宗家第4代当主。通称および官途は 三郎、左衛門尉伯耆新左衛門尉)法名経蓮(きょうれん)か。父は葛西時清。妻は尼・仏心。子には、女子(富安三郎〈北条時嗣?〉室、のち和田茂長室)のほか、葛西宗清が嫡男であると思われる。

 

 

吾妻鏡』における清経

吾妻鏡』での初見は、建長4(1252)年11月11日条、将軍家御出供奉の一人「伯耆左衛門三郎清経」である*1。この通称(名乗り方)について分析すると次の通りである。

 伯耆左衛門三郎清経

 ●伯耆」=伯耆守清親

 ●伯耆左衛門」=清親の子・左衛門尉

 ●伯耆左衛門三郎」=左衛門尉の子・三郎清経

葛西氏で伯耆守に該当するのは清親であることは『吾妻鏡』等で確認できる*2。『尊卑分脈』でも、葛西氏の系図は掲載なしだが、後藤基頼の注記に「葛西伯耆守清親」とあって、裏付けとなっている。すなわち、同じく清親の孫である基頼は1238年生まれであったことが判明している。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

詳しくは後述するが、『盛岡葛西系図』によると清経は弘安10(1287)年11月7日に53歳(数え年、以下同様)で亡くなったといい、逆算すると文暦2/嘉禎元(1235)年生まれとなるが、基頼とほぼ同世代となるから、やはり清親の孫と見なすのが妥当であろう。葛西氏の系図の中には清経を清親の息子とするものもあるが、誤りと判断される。

 

尚、『吾妻鏡』において清経は6回登場する。

▼【表A】『吾妻鏡』における葛西清経の登場箇所

月日

概要

表記

建長4(1252)

11.11

将軍家御出供奉

伯耆左衛門三郎清経

11.20

将軍家新邸移従

伯耆左衛門三郎清経

12.17

鶴岡八幡宮社参供奉

伯耆三郎清経〔ママ〕

建長8(1256)

1.1

椀飯

伯耆左衛門三郎

6.29

放生会供奉人決定

伯耆三郎左衛門尉

同三郎

8.15

放生会供奉人

伯耆新左衛門尉清経

このうち、建長8年6月29日、8月15日条での表記について着目しておきたい。

8月15日条での「新左衛門尉」というのは、父親が左衛門尉任官の間に同じく息子も左衛門尉となった場合の呼称である。つまり、清経の父は左衛門尉で、その息子である清経自身は当初「左衛門三郎」と呼ばれていたが、建長8年の7~8月頃に同じく左衛門尉の官職を得たために、区別されて「新左衛門尉」と呼ばれるようになったと考えられる。

ところで、6月29日条での「伯耆三郎左衛門尉」が清経で、「同三郎」は息子の宗清とする見解もある。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

しかしその場合、清経が22歳で左衛門尉任官を果たしたのに対し、建長8年当時10代の適齢期を迎え元服を済ませていたことになる宗清が、その後更に弘安7(1284)年までの28年間無官であったということになってしまい、不自然である。しかも宗清は正応元(1288)年の段階で左衛門尉であったことが確認できるほか、その後は壱岐守にもなっていたというが、その年齢が歴代当主に比して遅くなってしまうのもおかしいと言わざるを得ない。更に清の「宗」は北条時偏諱であったと考えられるから、その父・北条時頼が執権在任中の建長8年6月29日当時元服済みで「三郎」を名乗っていた可能性は無いと言って良いだろう。

よって6月29日条の「伯耆三郎左衛門尉」は清経の父親で、「同三郎」が清経と見なすのが妥当であろう。前述の内容を踏まえると、8月15日条の「伯耆新左衛門尉」は「伯耆三郎左衛門尉」と区別するための呼称であり、「伯耆左衛門三郎清経」が左衛門尉に任官した直後は「伯耆三郎左衛門尉」ではなく「伯耆三郎左衛門尉」等と呼ばれるべきと思う。「三郎」は本来3男の意味だが、葛西氏では清元以来、嫡流継承者代々の称号と化していたとみられ、清経の場合も「三郎」が付かずに「伯耆新左衛門尉」と略記されたと思われる。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

『吾妻鏡』建長4(1252)年4月3日条に「伯耆三郎左衛門尉時清」が見えており、『吾妻鏡人名索引』では建長8年6月29日条の「伯耆三郎左衛門尉」もこの時清に同定する*3が、これが正しいと思う。『奥山庄史料集』所収「桓武平氏諸流系図」の葛西氏の部分では伯耆清親の子に三郎左衛門時清を載せており*4、この時清の嫡男が清経であったと判断される。

ちなみに「伯耆左衛門三郎清経」の初見と同年(建長4年)4月14日条に見られる「伯耆左衛門四郎清時(=葛西清時)」もその名乗り方からして、同じく時清の子で清経の弟と推測される。

 

 

伯耆新左衛門入道経蓮

保延3(1137)年から元徳2(1330)年までの香取社(現在の千葉県香取市にある香取神宮の様子を記した「香取社造営次第案」(『香取文書』所収)には、文永8(1271)年12月10日の香取神社𡡛殿正神殿の遷宮は「葛西伯耆前司入道経蓮」が雑掌として行われた旨が記録されている*5。この経蓮については他の史料でも確認ができる。

 

【史料B】正応元(1288)年7月9日付「関東下知状」(『陸奥中尊寺経蔵文書』)*6より

……如建治三年御下知状平泉白山別当顕隆伯耆新左衛門入道経蓮相論事者、於山野致違乱、以神官神人等、召仕狩猟事、……

 

【史料C】正中2(1325)年9月7日付「関東下知状」(『越後三浦和田文書』)*7

和田左衛門四郎茂長女子平氏与姉平氏富安三郎息女*8相論、亡母平氏葛西新左衛門入道経蓮女子遺領武蔵国坂戸郷田畠在家、下総国金町郷田事
  右、整訴陳之状擬是非之處、今年正中二正月廿日両方令和與訖、如妹平氏状者、以和與之儀、金町郷田壱町内田弐段、其外買地内朝長三郎次郎跡田伍段、屋敷之畠参段半并稲毛新庄坂戸郷内河面三郎跡屋敷之畠北之間々波多仁寄天三段、安芸尼跡中溝之北之波多仁寄天田伍段、此内参段小有公事、避賜永代之上者、永留沙汰云々、如姉平氏状者、子細同前、此上不及異儀、任彼状、向後相互無違乱可領地者、依鎌倉殿仰、下知如件
 正中二年九月七日  相模守 平朝臣 花押(執権・北条高時
          修理権大夫平朝臣 花押連署北条貞顕

 

【史料D】元徳3(1331)年12月23日付「関東下知状」(『越後三浦和田文書』)*9

和田左衛門四郎茂長女子平氏越後国塩澤村塩谷村田五段畠山野以下得分物事
右村々、和田彦四郎茂実(=茂長の孫)押領之間、下総三郎兵衛尉清胤女子平氏就訴申、延慶三年九月十二日預裁許之處、死去之刻、譲与祖母尼佛心葛西伯耆新左衛門入道経蓮後家(=清経の妻・未亡人)佛心又依譲給孫女平氏、仰御使、元徳元年五月晦日被打渡訖、而御下知以後得分物、可返給之由、氏女申之、宜糺返者、依鎌倉殿(=守邦親王仰、下知如件
 元徳三年十二月廿三日 右馬権頭平朝臣 花押連署・北条茂時)
            相模守 平朝臣 花押(執権・北条守時

ここで注目すべきは、B~Dの関東下知状3点で経蓮が「(伯耆)新左衛門入道」と書かれていることである。【表A】と照らし合わせると「伯耆新左衛門(尉)」は左衛門尉任官後の清経が呼ばれていた通称名であり、そのまま出家すれば「伯耆新左衛門入道」と呼ばれる。よって、清経=経蓮 であったと推測可能である。

その裏付けとして、『龍源寺葛西氏過去帳』では清経の法名が「経蓮」で弘安10(1287)年11月死没、『葛西氏過去牒』でも清経の戒名が「開口院殿實相經蓮大居士」で同月7日の死没と記録されているようである*10。渡辺智裕も「蓮」の法名は、実名「清」の一字である「」の字と葛西氏当主代々の法名に付く「蓮」の字の組み合わせから成っていると説かれている*11

すなわち、清経は左衛門尉任官後、国守へ昇進することなく出家したことになる。恐らく国守任官に相応の年齢を迎える前に、若くして剃髪したのであろう。

 

従って「香取社造営次第案」での「葛西伯耆前司入道経蓮」は

「葛西伯耆新左衛門入道経蓮」

「葛西伯耆前司入道(=清親の法名:行蓮または清蓮)

いずれかの誤記と考えられるが、次の書状により経蓮(清経)と判断される。

 

【史料E】(文永年間?)10月27日付「葛西経蓮(清経)書状」(『香取文書』)*12

正神殿御簀寸法長

短并御殿内御障子帳

寸法次第、委注給、可致

沙汰候、但ミすは、鎌倉へ

可誂候之間、忩承た<候、

恐々謹言、

 十月廿七日 経蓮(花押)

 太〔ママ、大〕祢宜殿

内容としては、発給者の「経蓮」が香取社大禰宜に対し正神殿の御簀の寸法の長短や内殿の障子帳寸法を詳しく注進させ、御簾は鎌倉から取り寄せるよう指示したものであり、この「経蓮」が正神殿の造営を差配する人物であったことが窺える。「香取社造営次第案」と照らし合わせれば、法名の合致から、文永8(1271)年12月10日の遷宮の際に正神殿雑掌を務めた「葛西伯耆前司入道経蓮」と見なせる。

【史料E】は無年号文書となっているが、渡辺はこの発給時期を正神殿山口祭が執り行なわれた文永2(1265)年4月16日*13から文永8年遷宮までの間に絞られ、遷宮の前年または前々年(文永6~7年頃)のものではないかと推定されている*14

 

【表F】文永8(1271)年の香取社殿の造営負担交名(『市川市史 第二巻』より)

所領名 人名 負担(石)
不明 葛西経蓮 1,050
上野方郷 辛島地頭等 150
匝瑳北条 地頭等(飯高氏か) 70
印西条 地頭越後守金沢実時:北条一族) 180
小見郷 地頭弥四郎胤直(小見胤直:東 一族) 170
匝瑳北条 地頭等(飯高氏か) 30
神保郷 地頭千田尼 30
大戸庄
神崎庄
地頭等(国分胤長?:国分一族)
   (神崎景胤?:千葉一族)
100
猿俣郷 地頭葛西経蓮 60
平塚郷 地頭越後守実時金沢実時:北条一族) 60
風早郷 地頭左衛門尉康常(風早康常:東 一族) 70
矢木郷 地頭式部太夫胤家(矢木胤家:相馬一族) 70
萱田 地頭千葉介頼胤 50
結城郡 地頭上野介広綱(結城広綱) 120
埴生西条 地頭越後守実時 50
河栗遠山方 地頭等(遠山方信胤?:千葉一族) 100
大須賀郷 地頭等(大須賀宗信?:大須嫡流
行事所沙汰
行事所沙汰
100
30
30
遠山方二丁
葛東二丁
千葉介頼胤 30
下野方郷 地頭武藤長頼(?)
吉橋郷 地頭千葉介頼胤 30
埴生西条富谷郷 地頭越後守実時金沢実時:北条一族) 30
下野方郷 地頭武藤長頼(?)
行事所沙汰
行事所沙汰
30
30
30
印東庄 地頭千葉介頼胤 100
葛西郡 地頭葛西経蓮 100
大方郷 地頭諏訪真性
行事所沙汰
100
30
国分寺 地頭弥五郎時道女房(大戸国分時通の妻) 60
  正神殿雑掌(葛西入道経蓮
正神殿雑掌(葛西入道経蓮
行事所沙汰
50

(*表は https://chibasi.net/souke13.htm より)

 

〈その他参考史料〉 

『香取文書纂』巻一 P.20 

(文永2年?)「下総香取社𡡛殿遷宮用途注文」(『香取神宮文書』、『鎌倉遺文』第13巻9257号)

 

 

北条経時の烏帽子子

最後に「」の実名に着目してみたい。

今野慶信は、葛西氏の通字である「清」に対して、「」は鎌倉幕府第4代執権・北条(在職:1242年~1246年)*15偏諱を受けたものではないかと推測されている*16

前述したように、清経の生年は1235年とされるが、経時治世期には8~12歳となり、元服を遂げるには適齢である。尚、経時に1字を与えた4代将軍・九条頼経は寛元2(1244)年に将軍職を子の頼嗣に譲り、翌3(1245)年には出家して「行賀」と号しており、頼経から清経に直接「経」字が下賜された可能性はほぼ皆無と言って良いだろう。よって清経は経時を烏帽子親として元服し、同時にその1字を賜ったと判断される。

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.284「清経 葛西」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*2:吾妻鏡人名索引』P.287「清親 葛西」の項 より。

*3:吾妻鏡人名索引』P.198「時清 葛西」の項 より。

*4:千葉氏の一族 #葛西清重 参照。

*5:葛飾区史|第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)千葉氏の一族 #葛西清経

*6:『鎌倉遺文』第22巻16692号。

*7:『鎌倉遺文』第37巻29193号。

*8:富安三郎は伊具流北条時嗣のことか。「前田本平氏系図」を見ると伊具有時の子・八郎兼義の長男・時嗣に「冨安三郎」、次男・政助に「同四郎」の注記が見られ(→ 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』〈吉川弘文館、2000年〉P.376・377)、年代・世代的にも矛盾はないと思う。北条氏は平維将平維時の末裔を称する平姓の家柄で「平氏」の記載とも辻褄が合う。和田氏も坂東平氏の一族である。どうやら経蓮(清経)の娘は最初富安氏に嫁いで長女を生み、のち和田茂長に再嫁して次女を生んだと見受けられるが、この異父姉妹が相論を起こしていたようである。

*9:『鎌倉遺文』第40巻31571号。

*10:千葉氏の一族 #葛西清経 より。

*11:渡辺智裕「早稲田大学図書館所蔵「香取文書」について」(所収:『早稲田大学図書館紀要』43号、1996年)P.75。

*12:前注渡辺氏論文 P.72写真② および P.73~74 史料② より。

*13:同年4月11日付「香取社正神殿雑事日時勘文案」(『香取神宮所蔵文書』、『鎌倉遺文』第13巻9256号)。

*14:注11前掲渡辺氏論文 P.76。

*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*16:今野慶信「鎌倉御家人葛西氏について」(所収:入間田宣夫 編 『葛西氏の研究』〈第二期関東武士研究叢書3〉、名著出版社、1998年)P.78~79。

江間頼時

江間 頼時(えま よりとき、1183年〜1242年)は、鎌倉時代前期の武将、御家人江間小四郎義時北条義時の長男。母は阿波局*1。幼名は金剛(こんごう)。通称(仮名)は太郎。表記は「江馬」とも。北条頼時(ほうじょう -)とも呼ばれる。

のちに北条泰時(- やすとき)に改名し、鎌倉幕府第3代執権となるが、本項ではそれ以前の内容についてのみ扱う。

 

江間」とは、父・義時が伊豆国田方郡江馬庄(現・静岡県伊豆の国市江間〈旧・江間村〉)を領するようになったのをきっかけに称したものである。ちなみに、桓武平氏経盛流を称し、戦国時代には江馬輝盛を輩出した江馬氏も同庄を発症の地として北条氏との関係も示唆している。

吾妻鏡』では、建久3(1192)年5月26日条江馬殿金剛殿」を初見とし、翌4(1193)年9月11日条江間殿嫡男」、次いで下記の元服の記事で登場する。

【史料A】『吾妻鏡』建久5(1194)年2月2日条

建久五年二月小二日甲午。快霽。入夜。江間殿嫡男 童名金剛。年十三。元服於幕府有其儀。西侍搆鋪設於三行。……(参列者中略)……時剋。北条殿(=時政)相具童形参給。則将軍家出御。有御加冠之儀。武州千葉介等取脂燭候左右。名字号太郎頼時次被献御鎧以下。新冠又賜御引出物。御釼者里見冠者義成伝之云々。次三献。垸飯。其後盃酒数巡。殆及歌舞云々。次召三浦介義澄於座右。以此冠者。可為聟之旨被仰含。孫女之中撰好婦。可随仰之由申之云々。

この日、将軍家=源頼朝(初代鎌倉殿)がお出ましになり、「御加冠」の儀式を行ったとあるから、頼朝が烏帽子親を務めたことが分かる。そして金剛は「太郎」と名乗っており、朝の偏諱」を賜ったことが窺える。頼朝から見て頼時(泰時)は、妻・政子の甥にあたるから、単に親戚付き合いとして烏帽子親子関係が結ばれたに過ぎないのかもしれないが、北条氏一門・江間氏の将来の跡取りとして期待している面もあったのだろう。

▲2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、第25回から「頼時」の名乗りで登場。【史料A】の元服のシーンは描かれなかったが、第21回で頼朝が義時の息子・金剛が元服の折には、烏帽子親を務める発言をしていた。

画像 画像

吾妻鏡』を見ると、正治2(1200)年2月26日条で「江間大郎頼時」と書かれていたものが、翌建仁元(1201)年9月22日条では「江間太郎殿 泰□〔時〕」と変化しており、改名はこの間と推定される。この時期は烏帽子親である頼朝が亡くなった正治元(1199)年の直後であり、頼朝の死も無関係ではないと思われるが、近年では源氏将軍からやや距離を置いたのではないかとの見解もある*2。「」は従兄でもあり、肉親・北条氏とも対立した2代目鎌倉殿の1字でもあるから、これを避けたのかもしれない。

▲『鎌倉殿の13人』第29回では、頼家から直接「頼時」から "天下平" の1字を取った「時」に改名するよう命じられ、頼時(泰時)は渋々頼朝から賜った「頼」の字を改めることを受け入れた。すなわち頼家から遠ざけた形であり、翌年に叔父・時連(時房)も改名させられていることを踏まえると、一説としてあり得ない話でもない。

 

吾妻鏡』を見ると、父・義時元久元(1204)年3月6日に叙爵して相模守に任官する*3までほぼ一貫して「江間殿」或いは「江間四郎(または江間小四郎)」と呼ばれていたことが窺えるが、任官後の7月24日条から暫くは「相州」と書かれるようになっており*4、江間氏を称した形跡は無い。

同年11月5日には後妻・牧の方との間に生まれ、時政の嫡男であったとみられる "遠江左馬助" 政範(頼時より6歳年下の叔父にあたる)が16歳で亡くなり、一方で義時自身は翌元久2(1205)年閏7月20日には2代執権に就任しており、名実共に北条氏の家督を継承したと言えよう。

頼時改め泰時も、建仁3(1203)年9月10日条「江馬大郎殿」とあったものが、父・義時の相模守任官後、建永元(1206)年2月4日条「相模太郎」から表記が変わっている*5。この時「江間泰時」から「北条泰時」になったと考えて良いだろう。

 

ちょうど建永元年の10月24日には、義時と正室姫の前比企朝宗の娘)との間の第一子・朝時元服の儀が執り行われている。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

3代将軍・源実の加冠により、同じく13歳で元服したが、義時の子としては次男であったため「次郎」と命名されている(幼名は不詳)

そして、朝時が当初、義時の嫡男だったのではないかとする見解もあるが、仮名を「次郎」とされた点に着目すると若干疑問が残る。というのも、義時の子でも、有時(4男、1200年生)*6が「六郎」と称されたのに対し、義時の継室・伊賀の方所生の政村(5男、1205年生)*7が「四郎」、実泰(6男、1208年生)が「五郎」と逆転している(『吾妻鏡』)例があるからである。

泰時(頼時)の元服当時、前年(1193年)に朝時は誕生していたから、後の北条時輔(初名: 時利、長男で「相模三郎」)北条時宗(次男で「相模太郎」)兄弟のように【史料A】の段階で「太郎」と名付けられる必然性は無かった筈であるが、【史料A】で「嫡男」と明記するところからしても、頼時が当初から義時の嫡男として扱われていたと考えて良いのではないか

勿論「嫡男」記載については、【史料A】の『吾妻鏡』が北条氏得宗家(泰時流)=嫡流であることを示すための脚色の可能性も一応は考慮すべきではあるが、当初はあくまで義時流江間家としての「嫡男」だったのであり、また北条氏としても時政の嫡男は政範で、義時の次男・朝時に嫡流が渡る想定はなかった筈である(政範と朝時は血縁上、叔父―甥の関係ながら僅か5歳差である)

年齢的な問題もあるかもしれない。義時としては、正室との最初の子・朝時が生まれたとしても、先に成長していた長男の頼時(泰時)を後継に考えていたのだろう。頼朝の烏帽子子であったというのがその一因になっていたのではないかと思う。

 

(参考ページ)

 北条泰時 - Wikipedia

 北条泰時とは - コトバンク

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)

 

脚注

*1:鎌倉年代記』元仁元年条・『武家年代記』承久3年条(いずれも 竹内理三編『続史料大成』第51巻 所収)。『北条九代記』(→ 史籍集覧. 第5冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。『系図纂要』(→『大日本史料』5-2 P.313)。

*2:水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.46。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は『鎌倉年代記』・『武家年代記』の各元久2年条。

*4:吾妻鏡人名索引』P.54。元久元年2月25日条「江間四郎」が "江間" 表記の終見である(同年4月18日条では「四郎」とのみ記載)。

*5:吾妻鏡人名索引』P.320。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その52-伊具有時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その45-北条政村 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

北条時連

北条 時連(ほうじょう ときつら、1175年〜1240年)は、鎌倉時代前期の武将。北条時政の3男で、北条政子北条(江間)義時の異母弟。北条(大仏)朝直らの父。鎌倉幕府初代連署。仮名は五郎。

本項では、後に北条時房(- ときふさ)と改名するまでを扱う。

 

次の記事は、幕府御所において、三浦(佐原)義連を烏帽子親として元服した様子を伝える記事である。

【史料A】『吾妻鏡』文治5(1189)年4月18日条

文治五年四月小十八日庚寅〔ママ、己酉か〕北條殿(=父・時政)三男 十五歳 於御所被加首服。秉燭之程。於西侍有此儀。武州駿河守広綱遠江守義定参河守範頼江間殿(=兄・義時)新田蔵人義兼千葉介常胤三浦介義澄同十郎義連畠山次郎重忠小山田三郎重成八田右衛門尉知家足立右馬允遠元工藤庄司景光梶原平三景時和田太郎義盛土肥次郎実平岡崎四郎義実宇佐美三郎祐茂等著座 東上 二品(=源頼朝出御。先三献。江間殿令取御杓給。千葉小太郎成胤相代役之。次童形依召被参進。御前蹲居。次三浦十郎義連被仰可為加冠之由。義連頻敬屈。頗有辞退之気。重仰曰。只今上首多祗候之間。辞退一旦可然。但先年御出三浦之時。故広常義実諍論。義連依宥之無為。其心操尤被感思食キ。此小童御台所(=姉・政子)殊憐愍給之間。至将来。欲令為方人之故。所被計仰也。此上不及子細。小山七郎朝光八田太郎朝重(=小田知重、知家の子 / 泰知の父)取脂燭進寄。梶原源太左衛門尉景季同平次兵衛尉景高。持参雑具。義連候加冠。名字 時連五郎 云々。今夜加冠役事。兼日不被定之間。思儲之輩多雖候。当座御計。不能左右事歟。

烏帽子親子関係となった義と時の間で「連」の字が共有されており、義連から時連へ偏諱が与えられたと見受けられる。加冠役のことは事前に定められておらず、突如指名された義連は恐れ多いあまり辞退しようとしたが、将軍・頼朝が言うには、以前に上総広常と岡崎義実の諍いを宥めて止めたことを評価しており、自身の妻でもある政子が大変可愛いがっている(弟な)ので、将来を考えて頼りになる人にしようと、考えた末に決めたのだという。他にも自分ではないかと期待している者が多かっただろうが、頼朝のその場での配慮に、異議を唱える者は無かったと伝える。

▲2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、元服直後の21話から当時の名乗りで登場

 

ところが、建仁2(1202)年に時房と改名する。

吾妻鏡』では次の箇所に時連から時房に改名した経緯についての記事が見られる。

【史料B】『吾妻鏡』建仁2(1202)年6月25日条

建仁二年六月小廿五日戊戌。陰。尼御台所(=政子)入御左金吾(=左衛門督・源頼家 / 政子長男 / 2代将軍)御所。是御鞠会雖為連日事。依未覽行景已下上足也。此会適可為千載一遇之間。上下入興。而夕立降。遺恨之処。即属晴。然而樹下滂池〔沱〕。尤為其煩。爰壱岐判官知康解直垂帷等。取此水。時逸興也。人感之。申剋。被始御鞠。左金吾伯耆少将(=藤原清基)北條五郎。六位進(=盛景、姓不詳)紀内。細野兵衛尉。稻木五郎。冨部五郎。比企弥四郎大輔房源性加賀房義印。各相替立。々〔ママ〕員三百六十也。臨昏黒。事訖。於東北御所有勤盃。及数巡。召舞女微妙。有舞曲。知康候鼓役。酒客皆酣。知康進御前。取銚子勤酒於北條五郎時連。此間。酒狂之余。知康云。北條五郎者。云容儀。云進退。可謂抜群処。實名太下劣也時連字者。貫錢貨儀歟。貫之依為哥仙。訪其芳躅歟。旁不可然。早可改名之由。将軍直可被仰之云々。全可改字之旨。北條被諾申之。

内容としては、酒に酔った平知康が時連に対し、容姿や行動は「抜群」なのだが、「実名 太(=甚だ)下劣なり」と指摘している。知康は「時連」の「(つら)」が、銭貨をくの意味(実際、銭の単位に「貫」がある)或いは、和歌の名人・紀之を連想させるとして、将軍(=当時は2代・源頼家が直々に(改名の旨を)仰せられるべきとも述べて、時連は「連」の字を改めることを承諾したと伝える。

 

尚、翌26日条には、姉・政子がこの知康の言動や、彼を側に置いて承諾した長男・頼家に対し怒りを見せる場面が見られる。

【史料C】『吾妻鏡』建仁2年6月26日条

建仁二年六月小廿六日己亥。陰。尼御台所(=政子)令還給。昨日儀。雖似有興。知康成獨歩之思。太奇恠也。伊予守義仲法住寺殿。依致合戦。卿相雲客及耻辱。其根元。起於知康凶害也。又同意義経朝臣。欲亡関東之間。先人殊令憤給。可被解官追放之旨。被経奏聞訖。而今金吾(=頼家)忘彼先非。被免昵近。背亡者御本意之由。有御気色云々。

 

(参考ページ)

 北条時房 - Wikipedia

 北条時房とは - コトバンク

 

脚注