鎌倉時代の元服と北条氏による一字付与
実名を名乗るのは、現在の成人式にあたる元服の時で、幼名から改名する。この時、烏帽子を被せる加冠役(烏帽子親)から偏諱を与えられて命名されるのが通例であった。
では実際、どのような様子で行われていたか、僅かに残された史料で確認してみよう。
まず、鎌倉時代の一級史料である『吾妻鏡』には、数例にとどまるがいくつか元服に関する記事があり、今回はその中から北条氏が他の御家人の烏帽子親を務めたとみられるものを紹介する。
★『吾妻鏡』:曾我時致 の元服
建久元年九月大七日戊午。甚雨。入夜故祐親法師孫子祐成 号曾我十郎 相具弟童形 号筥王 參北條殿。於御前令遂元服。号曾我五郎時致。
要約:1190年9月7日、曾我十郎祐成が弟・筥王を連れて北条殿(=北条時政)の所に参った。筥王は時政の御前で元服を遂げ、曾我五郎時致と名乗った。
解説:「時致」については異説として「時宗」と伝える史料がある*1ぐらいなので、「ときむね」と読んで良いだろう。その名前から「時」の字を与えられていることが分かる。
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*時政は他にも武田信政の烏帽子親となったようで、やはり「政」の字を与えた形跡がある。1204年当時、時政は初代の執権の座にあった。
元久元年十一十五首服、加冠平時政、理髪三浦介、號小五郎、年十、信光三男也、請加冠諱字、既為嘉例也
(*国書刊行会編 『系図綜覧』第一 所収「甲斐信濃源氏綱要」の武田氏系図、信政の項の注記より)
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★『吾妻鏡』:佐々木頼綱(六角頼綱)の元服
建長二年十二月大三日甲午。天晴。今日。佐々木壹岐前司泰綱子息小童九歳。於相州御亭遂元服。号三郎頼綱。御引出物以下經營。盡善極美。一門衆群參。各随所役云々。奥州。秋田城介等所被參會也。
要約:1250年12月3日、前壱岐守・佐々木泰綱の子息(9歳)が、相州(=北条相模守時頼)の邸宅で元服し、三郎頼綱と名乗る。祝いの引出物等の用意は心を込めて豪華に行われ、佐々木一門が集まって元服の際の各役割を担った。奥州(=北条陸奥守重時)や秋田城介・安達義景など(といった有力な御家人)もこれに立ち会った。
解説:この記事の場合も上に同じく、佐々木泰綱が息子を引き連れて北条時頼の邸宅に赴いたと考えるのが自然であろう。息子は「頼綱」と名乗ったが、邸宅の主(亭主)である時頼が烏帽子親となって「頼」の偏諱を与えたことは想像に難くない。少なくとも記載からは将軍が立ち会ったことは確認できず、九条頼嗣からの偏諱と考えるのは難である。
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★大友頼泰 の一字拝領
別の例として『続群書類従』所収「大友系図」によれば、大友頼泰の注記に「姓改平氏 出羽守 北條時賴賜一字」と書かれているが、初め泰直と名乗り、将軍・宗尊親王/執権:北条時頼の代に改名を行ったようなので確実とみて良いだろう。詳細はWikipediaに載っているのでそちらを参照いただければ速いかと思う。
同じ頃に改名を行った例として足利頼氏(初め利氏)も確認される。
元々この「頼」の字は北条時頼が烏帽子親の将軍・九条頼経から拝領したものであった*2が、その字を平然と他の御家人に与えていたことが分かる。
★戸次時親 の元服
前述と同じ「大友系図」によれば頼泰の甥(弟・重秀の子)時親の項に「於鎌倉元服。時宗一字。」とあり、「立花系図」にも「北条相模守時宗為烏帽子親、授時之一字。」、更には『入江文書』所収「大友田原系図」にも「時宗加元服」、『系図纂要』でも「北条時宗加冠」と注記されていて、戸次時親が鎌倉において元服し、北条時宗が烏帽子親(加冠役)として時の一字を授けたことが明らかにされている。元服の場所が鎌倉であったという記述から、やはり曾我時致や佐々木頼綱と同様、北条氏の邸宅に赴いたものとみられ、偏諱を共有する烏帽子親子関係とは元々邸宅を基礎とするものであったということは、既に山野龍太郎氏の論文*3でご指摘の通りである。
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★足利高氏(のちの足利尊氏)の元服
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のちに室町幕府の初代征夷大将軍となる尊氏。当初は「高氏」と名乗っていたが、これは鎌倉幕府の滅亡前に、得宗 (14代執権)・北条高時の偏諱を受けたものであるとされている。前回記事にご紹介のように、足利氏については元服に関する史料が残されていないが、歴代当主が代々得宗の偏諱を受けていることはその名前からして疑いはなく、多くの先行研究が既に指摘されていることである。
NHK大河ドラマ『太平記』(1991年放送)ではこの前提のもとに、足利高氏の元服の様子が描かれており、高時の1字を受けたこともしっかり解説されている。
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足利又太郎、改め、足利高氏。
『続群書類従』所収の「足利系図」によれば、元応元(1319)年、15歳 (数え年) での元服であったとされる*4。烏帽子を被せる、加冠の様子は上のような感じだったのだろう。
*尚、このドラマでは、足利氏が北条氏(得宗家)に忍従を強いられていたという設定で制作され、この元服でも高時に頭を押さえつけられるという屈辱的な加冠を受けているが、その後の研究によって、実際は鎌倉時代の足利氏が得宗家から「源氏嫡流」として公認されるほどの待遇を受け、北条氏に次ぐ家格を有していたことが指摘されている。
まとめと考察
① 元服の際には、烏帽子を被せる加冠役(烏帽子親)がその名前の1字(偏諱)を与えて幼名に代わる諱(実名)の命名が行われていた。ここに実際の親子に準じた、烏帽子親―烏帽子子という、烏帽子親子関係が結ばれるのである。
② その烏帽子親子関係の基盤となるのが元服の場所であり、北条氏から一字拝領した例では必ず、鎌倉の北条氏の邸宅に訪れていることが確認される。
他の例:「平賀氏系譜」*5における注記より一部抜粋
従って、直接的な表現でなくても、北条氏の邸宅に赴いてその一字を受けた形跡が見られるなら、その邸宅の主が烏帽子親であったとみて問題はないだろう。
ちなみに、『源流無盡*6』所収「石川系図」には、鎌倉中・後期の陸奥石川氏当主について次のように注記されている(一部抜粋)。
石川時光:「於鎌倉府執政北条氏之第加首服、乞時宗之偏諱、改時光」*7
石川貞光:「依先公之嘉例、於鎌倉府加冠、乞執政貞時之偏諱称貞光、」*8
史料の記載を直ちに信じるには注意すべきだが、その名乗りからは疑いは無く、逆に否定し得る史実が確認されない以上、正しいと判断して良いだろう。
そうすると、その元服の場所が変わっていることには興味深い。時光の場合は執政(執権)北条氏の邸宅であったのに対し、貞光の場合は鎌倉府となっているが、鎌倉府とは幕府の御所を指すものと思われる。
あくまで 得宗の御前 で元服を行えば良いのであり、得宗専制が強化されるにつれて、その場所が 北条氏邸宅 から 幕府御所 へと移り変わったのかもしれない。
もちろん、これ以外に確認できる史料が無いので推論になってしまうが、前述の「高時→高氏」の例もあくまでドラマでの創作であるので否定もできない。大変興味深いところである。
また「乞●●之偏諱」(●●の偏諱を乞う)という表現からは、偏諱の拝領が自主的な申請によるものであったことが窺える。このことは冒頭で紹介した武田信政に関する注記の中の「請加冠諱字」(加冠・諱字を請う)という表現からも読み取れるが、信政と貞光の注記双方にこのことが「嘉例*9」と書かれていることにも注目である。執権家である北条氏から偏諱の使用を許されることは名誉的なことだったのかもしれない。
以上、執権・北条氏が他の御家人に対し一字付与を行っていたことが分かる。
鎌倉時代には、のちの「将軍→大名」とは違って、「執権・北条氏→他の御家人」という図式での一字付与が行われており*10、北条氏が幅広く偏諱を与えていたのである。
脚注
*1:「南家 伊東氏藤原姓大系図」の時致の項に「五郎幼名筥王 イ宗」との注記がある。
*2:『吾妻鏡』嘉禎3(1237)年4月22日条。佐藤和彦・樋口州男『北条時宗のすべて』(新人物往来社、2000年)P.253。
*3:山野龍太郎 「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)所収。
*4:この系図の尊氏の項には「元応元年叙従五位下。同日任治部大輔。十五歳元服。無官。号足利又太郎。」と書かれている。紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.11。尚「又太郎」は高氏と名乗った後の通称であるが、不明のためドラマでは便宜的に幼名という設定であった。
*6:無尽の旧字表記。
*9:辞書等で調べると「吉例」と同義で「めでたい先例」の意味である。
*10:もちろん、得宗家当主が将軍から受けた等のように「将軍→御家人」の図式も存在はした。これについては別稿で紹介したい。