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偏諱に関するコラムを綴る。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。鎌倉幕府御家人などの名前に着目し、誰から1字を貰ったかについての個人的な見解も論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

鎌倉時代の河越氏

 

平氏江戸譜』河越氏系図

次の図は、『川越市史 第二巻中世編』(川越市、1985年)P.162に掲載されている、中山信名撰『平氏江戸譜』(静嘉堂文庫蔵)所収の河越氏系図である。

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江戸時代成立の系図であり、一部誤りも見られる*1ため、記載の信憑性には十分注意しなければならないが、『東鑑(=吾妻鏡)』『太平記』など他の史料に拠って各人物の情報を記述(加筆)しており、少なくとも江戸時代における研究の成果として重要な史料と言えよう。「 」内の加筆部分を除いては『続群書類従』所収「千葉上総系図*2に同じであり、恐らくこの系図を利用して作成されたものと思われる。

また、この系図は前述の『川越市史』が載せる複数の河越氏系図の中でも唯一、貞重以降の系譜を詳しく載せたものであり、史料に基づいて高重*3等の情報を加えたものとみられ、これだけでも十分に価値のあるものである。

 

そして、もう一つ注目すべきところは、加筆の一環として、嫡流の当主に各々、偏諱を与えたとされる得宗の名前で「●●ノ一字」と書かれていることである。ここから、"北条氏得宗家からの一字拝領" という発想が、江戸時代から既に存在していたことが分かる。

 

河越氏と北条氏得宗家の烏帽子親子関係

得宗偏諱に特化した論文としては、紺戸淳氏の論文*4が最初であると思われ、その中でも河越氏を扱っていたが、実はこの系図史料を用いてはいなかった。だが、この系図の加筆者から見ても「泰重―経重―宗重―貞重―高重」が代々得宗(泰時―経時---時宗―貞時―高時)の偏諱を受けていたと解釈するよりほかはなく、偶然同じ見解となったようである。

泰重・貞重・高重の「泰」「貞」「高」が将軍からの偏諱でないことは確実である。

宗重については上の系図にも注記されているように『常楽記』元亨3(1323)年6月13日条に「河越出羽入道他界五十三」とある "河越出羽入道" に比定されている。紺戸氏も同様の見解を述べられており*5、逆算すると文永8(1271)年生まれである。従って、同3(1266)年に解職・京へ送還された6代将軍・宗尊親王偏諱でないことは確実であろう。

すると、生没年未詳の経重の「経」が4代将軍・九条頼 からか、4代執権・北条時 からかということになるが、経重だけが将軍を烏帽子親とし、宗重の代に再び加冠役が得宗に戻るという理解は現実的ではないだろう。よって、系図の記載通り、経重も得宗・経時偏諱授与者であったと考えておきたい。

よって、河越氏は代々得宗家から偏諱を受けていたことが確実な家柄の1つであり、系図中の「●●ノ一字」の信憑性にも問題はないと思われる。恐らく泰重の父・重時の「時」も北条氏からの偏諱だったのかもしれない。

 

河越宗重 と 河越貞重

『北條貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』)によれば、元亨3(1323)年の貞時十三年忌供養で「河越三河前司」が「砂金五十両〈二文匆〉、銀剣一」を献上していることが記されている。

元弘元(1331)年、いわゆる元弘の変が起こると、「河越参河入道一族」が幕府側として上洛、楠木正成を討つための大和軍に加わっていることが確認される。通称名(参河=三河(守) )の一致から、この参河入道は前述の「河越三河前司」が出家した同人であり、一族を率いる立場にあった、河越氏を代表する人物(惣領・嫡流の当主)であったことが窺える。

同3(1333)年、足利高氏らの攻撃を受け鎌倉へ敗走していた、六波羅探題北方・北条仲時らの軍勢は、5月9日近江国番場宿において佐々木道誉の軍に行く手を阻まれ、仲時らは蓮華寺にて自害した。この時の死者を記す『近江番場宿蓮華寺過去帳*6の中に「川越参河入道乗誓六十二歳」が含まれており、前述の「河越参河入道」が仲時に殉じたことが分かる。逆算するとこの人物は文永9(1272)年生まれである。

河越氏嫡流の当主では、宗重が文永8(1271)年生まれと判明しているが、宗重(出羽入道)は貞時十三年忌供養と同年に亡くなっている(前述参照)から、「河越参河入道」=次の当主・貞重に比定される。この考えもまた、江戸時代から存在していたようで、冒頭の系図の貞重の項には同じ史料に拠る注記が見られる。系図では宗重と貞重を親子の線で繋いでしまっているが、生年がわずか1年違いであることから、貞重は宗重の実弟(経重の子)で養嗣子であったと思われる。

▲武蔵・河越氏館(埼玉県川越市)に掲示の河越氏系図では宗重と貞重を兄弟としている(画像はhttp://www.hb.pei.jp/shiro/musashi/kawagoeshi-yakata/thumb/ より拝借)。

 

すると、宗重が北条時宗偏諱を受けたのに対し、1歳年下の貞重が北条貞時の一字を受けていることは大変興味深い。紺戸氏は宗重の元服の年次を1280~1284年の間と推定しており*7、ちょうど1284年に時宗が亡くなって貞時が家督を継承したので、恐らく宗重・貞重兄弟の元服はその前後であったと推測される。

 

 

脚注

*1:例えば、宗重の注記の「元三年」は「元三年」の誤記であり、その娘として三浦義村室を載せるのも年代的に矛盾する。『系図綜覧』所収「畠山系図」では重輔の子・真重の妹に「女子三浦妻」(『川越市史』P.156)、『系図纂要』では重時の子に「女三浦義村」(同P.158)と載せるので、いずれかが正しいものと判断される。また、高重の娘に「佐竹伊予守義愛妻」とあるが、これが「佐竹伊予守義妻(または愛妻)」の誤記であることは「河越高重」のページを参照。

*2:前掲『川越市史』P.157に掲載あり。

*3:建武年間記』より「河越次郎高重」の実在が確認されることは紺戸淳氏がご指摘の通りである(注4後掲紺戸氏論文、P.19)。その他、佐野本「秩父系図」にも高重 三河守、法名円重、元弘乱時、預平宰相成輔伴下于関東、の掲載が見られ、三河守貞重の子としている(『川越市史』P.160)。高重の娘が佐竹氏に嫁いだとするのもこの系図でしか確認できない。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)。

*5:前掲紺戸氏論文、P.18~19。

*6:群書類従』巻514 所収。

*7:前掲紺戸氏論文、P.19。