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偏諱に関するコラムを綴る。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。鎌倉幕府御家人などの名前に着目し、誰から1字を貰ったかについての個人的な見解も論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

宇都宮経綱

宇都宮 経綱(うつのみや つねつな、1233年頃? - 1258年頃?)は、鎌倉時代中期の武将、鎌倉幕府御家人

宇都宮泰綱の子。母は名越朝時の娘。

 

 

はじめに

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▲【表1】

 

上の【表1】は『吾妻鏡』における宇都宮経綱・宇都宮景綱兄弟の登場箇所を『吾妻鏡人名索引』*1に拠ってまとめたものである。

秋山哲雄氏の著書*2では、宇都宮泰綱の子供の放生会参加について、当初在国していた兄の景綱は、のちに鎌倉に移って正嘉年間(1257-58)に2回、当初より鎌倉にいた弟の経綱はそれに先立つこと12年、寛元3(1245)年、同4(1246)年と2回参加し、のちに鎌倉を離れて在国または在京するようになったと説かれている*3が、同時に秋山氏は「宇都宮系図」(『続群書類従』六下所収)によると宇都宮景綱は嘉禎元(1235)年生まれ*4であり、その同母弟にあたる経綱が景綱と同年の生まれだとしても、放生会初参加の寛元3年当時11歳となってしまうことに若干の違和感があるとも指摘する*5

この「違和感」は当然、放生会に始めて参加する年齢としては、経綱が11歳というのはやや若いという意味で書かれたものであろう。すなわち、ここで秋山氏が述べたかったのは、『吾妻鏡』の記載が間違っているか、または経綱が景綱(当時11)より年長だったのではないか、ということのいずれかであったと推測される。

 

本項ではこのような疑問に基づいて、経綱についての考察を加えたいと思う。 

 

 

北条経時の義弟、烏帽子子

経綱の名は『吾妻鏡』寛元3(1245)年8月15日条に「下野七郎経綱」として初めて確認できる(ちょうど1年後、寛元4年8月15日条でも「宇都宮下野七郎」の名で登場している。【表1】参照)。

初出の前年、寛元2(1244)年4月には4代将軍・九条頼経が解任され、新たに将軍となった九条頼嗣元服が急ぎ行われており、これらは執権・北条経時の主導によって行われたものであったという。寛元3(1245)年7月26日には体調不良でありながらも、頼嗣に妹の檜皮姫を嫁がせるなど、その後も経時が実権を握っていた。そんな状況の中で、翌月に宇都宮経綱の名が初めて現れる。

 

ところで、同年9月4日には経時に嫁いでいた宇都宮泰綱の娘が15歳で亡くなっている*6。経綱の姉か妹であり、さほど年齢は離れていないと考えると、経綱も元服して間もない頃であったと考えられる。

藤原定家の日記『明月記』嘉禄2(1226)年7月6日条では、執権・北条泰時の意向により、孫の経時と宇都宮泰綱の娘が婚約したと伝える。この当時経時はわずか3歳、泰綱女子がまだ生まれていないのでやや疑問も残るが、早い段階から北条・宇都宮両氏の間で合意がなされたことは認めても良いだろう。両氏の関係をより強固なものにするために、経時が妻の弟(=義弟)の元服に際し、烏帽子親を務めることは十分にあり得る話である。1233年前後に生まれ、寛元2~3年頃、時の加冠により元服し、「」の偏諱を与えられて綱を称したものと推測される。

 

 

系図上での位置、景綱の兄

前述の観点から、系図上での位置を再確認しておきたい。

尊卑分脈』〈国史大系本〉*7の宇都宮氏系図では、泰綱の子(景綱の弟で盛綱の兄)と、景綱の長男(貞綱の兄)として、2人の「経綱」を載せる。しかしながら、双方とも娘として「陸奥守平宗宣(のちの11代執権・大仏宗宣室」を載せるため、同一人物が2箇所に書かれているものと判断するのが妥当である。

また、同じく『尊卑分脈』によれば、泰綱の子・経綱の傍注に「母同景綱」と書かれており、兄弟である景綱の母は「平朝時女」(=名越朝時の娘)とする。

名越朝時 (1193-1245) の孫であること

大仏宗宣 (1259-1312) の岳父(妻の父)であること

③ 前述した通り寛元3(1245)年から経綱の名が確認できること(*この当時、景綱は11歳。)

以上3点から、景綱の子とすると年代的に矛盾するので、兄弟とするのが正しいと分かる。

 

ところで、紺戸淳 氏*8の手法に倣って景綱の元服の年次を推定すると1244~1249年となるが、ここで改めて③に着目すると、1245年当時の景綱の年齢はおおよそ元服の適齢期と言える。綱はのちに安達義の娘を妻に迎えており、「」の字は義偏諱と推測されている*9。義景は経時・時頼兄弟のおじ*10にあたり、この頃の安達氏当主であった。

 

もし景綱が経綱の兄であれば、1244~1245年8月上旬(10~11歳)の元服ということになるが、『吾妻鏡』で弟・経綱の活動が多く見られる一方で、兄の景綱が建長4(1252)年4月1日までの約7年間、全く登場しないというのは、宇都宮氏の嫡子としてはどうも不自然に思えてならない。冒頭に掲げた秋山氏の説に従って景綱が当初在国していたという考え方も出来なくはないが、それでもやはり同氏がご指摘のように、経綱の年齢で疑問が残るのである。

よって、経綱は初出(1245年)当時、景綱11歳より年長であったと考えるのが妥当ではないかと思われる。景綱についても『吾妻鏡』での登場年代が経綱と重なることから、在国のため登場しなかったのではなく、単にその元服が初出の数年前にあたる1240年代後半であったからではないかと推測できよう。

従って、経綱は景綱の兄であったと判断される。

 

 

宇都宮氏の嫡男として

鎌倉時代の宇都宮氏当主(綱―景綱―綱―(のち公綱に改名))は、景綱を除く3名に得宗から偏諱を受けた形跡がある*11。景綱だけが得宗(当時は 経時 または 時頼)を烏帽子親としていないようだが、これは兄・綱が時の偏諱を受けたからで、綱はそれに次ぐ庶子(準嫡子)として、得宗の縁戚にあたる有力御家人の安達義の加冠を受けたのである*12

よって、宇都宮泰綱の本来の嫡子は経綱であり、宇都宮氏嫡流綱―綱 (―景綱) ―綱―綱)も代々得宗を烏帽子親とする家柄であった

 

ここで、【表1】に着目すると、正嘉元(1257)年を境に、それ以前には経綱の活動が活発であったのに対し、以後は経綱の名が一切現れなくなり、それに呼応するかのように景綱の活動が多く見られるようになることが分かる。

尊卑分脈』を見ると、経綱の注記に「従五下 尾張守」とあり、景綱の項にも「宇都宮検校 引付衆 四郎 従五下 尾張守 下野守」とあって、両者とも尾張守となったことが記載されている。しかしながら、経綱が尾張守であったことは『吾妻鏡』で確認できず、1260~63年の段階で景綱(当時26~29歳)は左衛門尉であった。父・泰綱も下野守となったのが36歳、従五位下となったのが39歳であった*13から、仮に父の時よりも若干早い年齢での任官であったとしても、正嘉年間よりは後であったはずだ。

しかし、その後『吾妻鏡』に全く登場しなくなることから、弘長元(1261)年死去の父・泰綱に先立って、経綱は尾張守となって間もなく早世したのではないかと推測される。

 

ところで、秋山氏は、この頃の宇都宮氏においては、祖父・父・兄・弟の間で、在京・在国・在鎌倉などの役割が分掌されていたという推測に基づき、経綱が正嘉元年以降『吾妻鏡』に全く登場しなくなることについて、祖父の頼綱が正元元(1259)年、父の泰綱が弘長元(1261)年に相次いで亡くなったため、惣領の景綱が鎌倉に移り、代わって経綱が在国または在京するようになったのではないかと説かれている*14

大変興味深い見解ではあるが、前述において、経綱が景綱の兄で、しかも得宗・経時を烏帽子親とした嫡男であったという推測が成り立った以上、泰綱の死後、景綱と経綱が拠点とする場所を入れ替わる必要性は無くなる。端的に言えば、泰綱と共に鎌倉で活動していた経綱が嫡男であったならば、そのまま鎌倉に残って活動していてもおかしくはないのである。しかし、秋山氏が述べるように、景綱が鎌倉に移り、のち文永年間(1264-75)に引付衆評定衆となったこともまた事実である*15。正嘉元年以後、経綱が在国または在京していた史実も確認できないので、やはり景綱が家督を継承した当時、経綱は亡くなっていたと考えるべきだろう*16

 

すると、得宗を烏帽子親としなかった景綱が泰綱の次の家督継承者および宇都宮検校*17となったことに説明がつく。景綱が相次いで尾張守、下野守となったのも、かつて兄や父がなっていた役職を継承したものであろう。『尊卑分脈』には経綱の子として「陸奥守平宗宣室」と「土左守平宗房*18室」の2人の女子を載せるのみで男子に恵まれなかったらしく、仮に経綱がその後も生きていたとしても、どの道、景綱が家督を嗣ぐ必要は生じたのである。 

 

まとめ 

● 宇都宮経綱は、景綱より年長で、泰綱の最初の嫡子として執権であった義兄・北条経時を烏帽子親として元服し、その偏諱「経」を受けた。

● 景綱の本格的な活動が見られるより前の1240年代後半~1250年代において、活発に活動した様子が確認できる。

● 景綱が家督を継承したのは、経綱が父に先立って男子に恵まれないまま早世したことが理由であったと推測される。

 

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*2:秋山哲雄『北条氏権力と都市鎌倉』(吉川弘文館、2006年)。

*3:注2前掲 秋山氏著書、P.107。

*4:正確には永仁6(1298)年5月1日に64歳で亡くなったと書かれ、逆算により1235年生まれ。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」P.74-75、No.105「宇都宮景綱」の項より。

*5:注2前掲 秋山氏著書、P.120 注(50)。

*6:吾妻鏡』同日条。

*7:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第1篇』(吉川弘文館)P.362~363。尚、本文における『尊卑分脈』は全て国史大系本に拠るものである。

*8:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)。

*9:江田郁夫 「総論 下野宇都宮氏」(所収:江田郁夫 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』(戎光祥出版、2011年))P.9。

*10:母の松下禅尼(『吾妻鏡』、『徒然草』184段等による)が義景の姉または妹である(『尊卑分脈』など)。

*11:注9前掲同箇所。

*12:景綱の弟・盛綱の「盛」は1253年に安達氏の家督および秋田城介を継承した安達泰盛からの偏諱と思われる。

*13:注4前掲 細川氏著書巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」P.74、No.104「宇都宮泰綱」の項。

*14:注2前掲 秋山氏著書、P.107。

*15:注2前掲 秋山氏著書、P.107。注4前掲 細川氏著書・同所「宇都宮景綱」の項。

*16:確証はないが、或いは在国または在京の役割を担ったのは景綱の弟・盛綱だったのではないかとも思われる。盛綱は『吾妻鏡』では全く登場していない。

*17:宇都宮明神を統括する社務職。

*18:注4前掲 細川氏著書 P.378によれば、北条時政―時房―時村―時隆―宗房。同書巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」P.55、No.67「北条宗房」の項によれば、弘安7(1284)年3月に土佐守。北条時宗偏諱授与者と見られ、経綱娘の夫として年代的に問題はない。