名越公貞
北条 公貞(ほうじょう きみさだ、1278年頃?~1309年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。
名越流の一族で、名越公貞とも呼ばれる。父は名越公時で、名越時家(北条時家)の弟にあたる。
史料における公貞
公貞は、複数の史料で断続的に活動を確認することができる。これについては、熊谷隆之氏の論文*1に詳しく、まとめると次の通りである。
● 乾元2(1302)年:最勝園寺の供養に将軍が赴いた際の随兵に「尾張左近大夫公貞」。典拠は、『最勝苑寺殿供養御所出御御供奉人事』(「最勝園寺殿(=北条貞時入道崇演)供養供奉人交名」))。
「左近大夫」とは、左近衛将監(従六位上相当)で五位に叙せられた者のこと*2。この年までの叙爵であったことが分かる。「尾張」は父親が尾張守であることを示すものであり、この公貞は名越尾張守公時の子(『尊卑分脈』)で間違いない。
名越流では20数歳で叙爵する者が多く*3、公貞もこの当時、その位の年齢であった可能性が高い。
● 嘉元3(1305)年: 嘉元の乱の折、「尾張左近大夫将監」が御内人(『武家年代記』裏書)の白井胤資(たねすけ)を預かる。
「今年嘉元三……五月二日、時村討手先登者十二人被刎首、……白井小次郎胤資、預尾張左近大夫将監、使長崎次郎兵衛尉、……」(『鎌倉年代記』裏書 より)*4
「左近大夫将監」=「左近大夫」であり*5、わずか3年前の「尾張左近大夫公貞」と同人とすべきであろう。この記事において、苗字が書かれていない人物は北条氏一門に限られているようである。
● 嘉元4(1306=徳治元)年:民部少輔(従五位下相当)任官。『実躬卿記』同年3月30日条の除目の記事中に「民部少輔平公貞」とあり*6。
加えて、次の史料に逝去の記述が確認できる。
「……同十九(旧暦10月9日)、民部少輔公貞卒、……」
*『尊卑分脈』〈国史大系本〉には「従五上 民部大輔」とあるが、 「大」は誤記のようである。
名越流では30代で国守に昇る者が多く*7、民部少輔から昇ることの無いまま亡くなった公貞は30歳前後の若さでの死去であったとみられる。
『尊卑分脈』では公貞の子に時有を載せ、『太平記』巻十一「越中守護自害事付怨霊事」に登場する「越中の守護名越遠江守時有・舎弟修理亮有公」が公貞の子とされている(『系図纂要』)。有公(ありきみ)の名が父兄(公貞・時有)の各々1字で構成されていることからしても父子関係は認められよう。
世代と元服時期の推定
父の公時は、永仁3(1295)年12月28日に亡くなったとされる*8ので、遅くともこの日までには生まれているはずである。
前述した通り、1300年代初頭の段階で20歳ほどであったと思われるので、1280年前後の生まれであったと推定できよう。
「公貞」の名に着目すると、「公」が父からの継字であるのに対し、「貞」が烏帽子親からの偏諱であったと推測される。元服は通常10数歳で行われた*9ので、当時の執権・北条貞時(在職:1284~1301年)の偏諱を許されたと考えて間違いなかろう*10。兄・時家も北条時宗(貞時の父)からの一字拝領の可能性が高く*11、それに対する庶子(準嫡子)として「貞」の偏諱を下(2文字目)にしたものと推測される*12。
また、僧籍に入った息子・貞昭 (ていしょう) は永仁6(1298)年生まれとされ*13、現実的な親子の年齢差を考えれば、公貞は遅くとも1278年前後の生まれとなる。官職や偏諱から導いた前述の1280年前後という推定にほぼ一致する。
脚注
*1:熊谷隆之「斯波宗家の去就 ―越中国岡成名を緒に、霜月騒動におよぶ―」(所収:『富山史壇』181号、越中史壇会、2016年)。
*2:左近大夫(サコンノタイフ)とは - コトバンク より。
*3:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.45~46。
*4:この史料の全文は、工藤時光 - Henkipedia【史料15】を参照。
*5:左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク、近衛府 - Wikipedia より。
*6:『実躬卿記』〈大日本古記録 本〉第十六 P.91。『鎌倉遺文』第29巻22591号。北条氏は平維時の末裔を称する平姓の家柄である。
*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」(細川重男氏のブログ)その18-名越朝時、その19-名越時章、その20-名越公時、その23-名越教時 より。
*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その20-名越公時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*9:名越流でも、祖の朝時が13歳での元服(新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その18-名越朝時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は『吾妻鏡 』建永元(1206)年10月24日条。烏帽子親は源実朝。)、頼章も10歳までの元服であったとみられる。
*10:『入来院本平氏系図』での注記には「國時 改名」とある(山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について (下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.29)。これが事実であれば、初め「国時(くにとき)」を名乗り、貞時の代に入ってその1字を賜ったことになるが、これを裏付けられる他の系図類・史料は無い。
*11:これについては 名越高家 - Henkipedia を参照。
*12:兄弟間で偏諱の位置を変えている例は、北条経時―時頼(ともに九条頼経の烏帽子子)、北条時宗―宗政、安達宗景―盛宗、安達高景―顕高、千葉宗胤―胤宗、平宗綱―飯沼資宗……など多数確認できる。
*13:名越流時章系北条氏 - 貞昭 より。兄弟にあたる時有・有公の年代推定については 名越貞持 - Henkipedia を参照。