Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

名越貞持

北条 貞持(ほうじょう さだもち) は、鎌倉時代末期の武将。

北条氏名越流の一族で、史料では名越貞持名越兵庫助と呼称される。

太平記』によれば名越時有の甥である。

 

 

 

名越貞持の活動について

まず、貞持の活動が確認できる史料は次の3点である。 

史料①:『大覚寺門跡略記』(『続群書類従』巻第95 所収)
恒勝親王(=恒性皇子)
後醍醐院第十皇子。寛尊親王度為附弟。
当時兵革熾起戦争不熄。兵士奪立為武将。
与尊氏闘。遂師潰為士卒俘。
元弘二年(1332)三月八日。配越中国
同三月十日、於越中名越兵庫助貞時〔ママ〕為御生害。

http://qqq.toyamaru.com/e6997.html より)

 

史料②:『系図纂要』恒性法親王の項における注記

母理子内親王 亀山帝皇女
大覚寺性勝法親王資 元弘二年三ノ七被配越中国
三年二ノ十九於越中国名越兵庫助貞持所害 号越中

http://nanteo.s14.xrea.com/keyz/gnan/gnan001.html より)

 

史料③:『太平記』巻十一「越中守護自害事付怨霊事」

越中の守護名越遠江守時有・舎弟修理亮有公・甥の兵庫助貞持三人は、 ……(以下略)

尊卑分脈』では2人の北条時有を載せるが、名越流では公貞の子(朝時―時章―公時―公貞―時有)として掲載があり、弟・有公(ありきみ)の名が父兄(貞・時)の各々1字で構成されていることからしても、この人物で間違いなかろう*1。『太平記』に従えば、貞持はこの時有の甥ということになる。

得宗時の偏諱授与者とみられ*2、その孫である持は祖父・公の1字を取って命名されたのであろう。

 

ちなみに、『系図纂要』では名越頼章(公時の弟)の子に貞持を載せるが、これが誤りであることは以前の記事で解説した通りである。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp 

 

  

以上より経歴をまとめると次の通りである。 

1332年:幕府の命を受け、後醍醐天皇の子・恒性皇子を殺害。

1333年越中守護の伯父・時有らと共に自害。

 

 (関連記事)

blog.goo.ne.jp

 

 

世代の推定

さて、名越時有一族は亡くなった当時、どのくらいの年齢であったかを推定したいと思う。

前述の通り、『尊卑分脈』に基づく系譜は「義時―朝時―時章―公時―公貞―時有」であり、公時・公貞父子の生没年は次の通りである。 

公時:1235年~1296年*3

公貞:1278年頃?~1309年*4

 

一方で、前掲史料③ に拠る時有一族の官職・位階、および ③の続きを読み進めると確認できる各々の女房についての情報は次の通りである。

時有遠江守 = 従五位下相当・国守

  時有妻:結婚21年目、9歳と7歳の子を養育

有公:修理亮 = 従五位下 相当

  有公妻:結婚3年目、当時妊娠中

貞持:兵庫助 = 正六位下 相当

  貞持妻:4, 5日前に結婚、京から迎えた高貴な女性

名越流では30代で国守に昇り詰める者が多かったことから、死去時の最終官途が民部少輔従五位下相当)であった公貞*5が30歳前後での早世であった可能性を指摘した。従って、公貞が亡くなった延慶2(1309)年当時、時有・有公兄弟は幼少であったとみられる。

公貞の死から鎌倉幕府滅亡期まで24年。この間、時有は国守にまで昇進しており30歳を超えていた可能性が高い。一方で弟の有公は、従五位下相当の修理亮止まりであることから、30歳前後であったと考えられる。

そして貞持元服の年齢(10数歳)は超えているだろうが、正六位下相当の兵庫助であることから、名越流での平均的な叙爵年齢である20数歳には達していなかったと推測される。恐らく15~20歳ほどの若さであったとみられる。時有の甥というから、有公の子で良いのだろうか。すると有公は30代前半程度ということになる。

よって、時有・有公兄弟は1300年前後*6、貞持は1315年前後の生まれであったと推定しておく。 

 

ところで、名越時有一族が最期を遂げた放生津城は、鎌倉幕府越中国守護所として、執権・北条貞時の命を受けて北陸道守護職として越中国に赴任した時有が築いたものと伝えられるが、その時期は正応元(1288)年*7、同3(1290)年*8、嘉元元(1303)年*9と定まっていない。全国の守護所についてまとめた松山宏の論文*10でも特にこれについての言及は無く、果たして何の史料に基づいた説なのか、皆目見当がつかない。

従って、前述の推定に基づくと、時有が1290~1300年頃に築城すると考えることは不可能である。もし正しいとするなら、1290年頃に時有が元服の適齢を超えている必要があるが、むしろ時の偏諱を受けた父の公がその年齢であったとみられるので成立し得ない。また、時有も1333年の死去時50代であったことになり、有公・貞持と年齢が離れ過ぎてしまうのにもやや違和感がある。よって、

●前述のいずれかの年(1288年/1290年/1303年)に時有とは別の人物が築城したか、

●名越時有がこれらより後の時期に築城したか、

 のいずれかが正しいであろう。

 

 

太平記』に見えるもう一人の "名越兵庫助" ?

太平記』には前述までの貞持と全く同じ通称名を持った人物がもう1人見られる。

史料④:『太平記』巻七「千剣破城軍事」

(前略)…名越遠江入道と同兵庫助とは伯叔甥にて御座けるが、共に一方の大将にて、責口近く陣を取り、役所を双てぞ御座ける。或時遊君の前にて双六を打れけるが、賽の目を論じて聊の詞の違ひけるにや、伯叔甥二人突違てぞ死れける。……

(中略)

……名越遠江入道、同兵庫助二人は、無詮口論して共に死給ぬ。其外の軍勢共、親は討るれば子は髻を切てうせ、主疵を被れば、郎従助て引帰す間、始は八十万騎と聞へしか共、今は纔に十万余騎に成にけり。

1333(元弘3/正慶2)年の千早城の戦いの最中に、名越遠江入道とその甥・兵庫助が賽の目から口論となり互いに刺し違えたことを描いた部分で、城の中からこの様子を見ていた相手楠木正成側が「十善の君(=後醍醐天皇に敵をし奉る天罰に依て、自滅する人々の有様見よ。」と言って笑ったという、印象的な場面である。『絵本楠公記』「名古屋入道伯父甥刃傷の事並楠奇計かけ橋を焼事」にも挿絵付きで描かれ、明治時代に成立の『日本国史略光厳天皇紀正慶元年八月条にも、『太平記(上記史料④)に拠ったのか、「名越、遠江入道,與其甥兵庫助博奕,爭道怒罵,遂互刺而死.其卒屬二百餘人,亦互刺而死.其陣接城,城兵臨望曰:「叛君之賊,自伏天誅!」同聲大笑.」と同内容を載せる。

 

『正宗寺本北条系図』を見ると公時〔ママ、公時の子とするので公貞の誤記〕の子・時有の注記に「遠江守入道」と記載されているが、これに基づいて「遠江入道」=時有、「兵庫助」=貞持 としてしまうと、伯父―甥という関係にはなるものの、『太平記』においてこの史料④記事で死に、後の巻十一(前掲史料③)でもう1度死んだこととなって明らかに奇妙である。

③と④は同年での出来事であり、当時「名越遠江入道」「名越兵庫助」が2人いたとは考えにくい。この兵庫助は貞持とは別人と判断するしかない

 

ここで、 次の史料を確認してみると、「名越遠江入道」は名越宗教に比定し得る。  

史料⑤:『保暦間記』より

(元弘)三年葵酉春、此事ヲ聞テ、関東ヨリ、弾正少弼治時 時頼彦遠江守随時カ子也高時為子陸奥守右馬権助高直 維貞子遠江入道宗教法師 朝時孫教時子、彼等其外一族大将軍トシテ、関東ニサルヘキ侍多分差上ス。其勢五万騎上洛シテ、彼城ヲ責サス。

 f:id:historyjapan_henki961:20190112214843j:plain

▲【図⑥】 『系図纂要』より名越流一部の略系図

 

この【図⑥】でも宗教千早城の戦い*11で亡くなったことを記すが、「名越遠江入道」=篤時としている。元弘3年5月の千早城攻めにおいて、篤時苅田式部大夫 遠江守 入道元心)時家(兵庫助 美作守)が紛争を起こして死んだと、わざわざ各々の傍注に記載するが、『入来院本平氏系図』によると篤時は正応5(1292)年には亡くなっているようであり*12、「苅田式部大夫篤時」も同年幕府滅亡時の東勝寺合戦で「江馬(江間)遠江守公篤」と共に北条高時に殉じる*13まで存命していたことになっているから別人とすべきである。

一方、時家についても従五位上、美作守と注記しておきながら、『太平記』巻七(前掲史料④)の名越兵庫助と同人としてしまっている。時家が兵庫頭→美作守であったことは確認できるため、最終官途の面で矛盾する。更に「兵庫助」とするのはこの『系図纂要』だけで、他の系図類・史料では「兵庫頭」と記しており、どうやらこじ付けのようである*14

 

しかし、そのようにこじ付けるのも無理はなく、系図類で見る限り、宗教に「兵庫助」であった甥がいたということは確認できない。もっとも、宗教については二月騒動で父・教時、弟・宗氏とともに誅殺されたと伝える史料もあり、宗氏の弟・公教の誤記の可能性も考えられるが、その甥となり得るのは宗教の遺児である、僧の円朝(えんちょう)と、【図⑥】でしか確認できない左近大夫将監時治(ときはる)だけである。

 

史料①・②より、貞持は前年(1332年)の段階から「名越兵庫助」であった。述べたように「名越兵庫助」が2人もいたとは考えにくい。貞持が宗教の甥であることを裏付ける史料は皆無で、これが事実だとしても貞持が2回死んだということになって、全くの矛盾である。従って、史料⑤より「名越遠江入道」=宗教 であった可能性は認められるが、その刺し違えた相手が「名越兵庫助」であったというのは誤りではないかと思われる。『太平記』はあくまで軍記物語である。恐らく同じ遠江守であった時有と混同して、その甥を「兵庫助」としてしまったのかもしれない。

太平記』巻七(史料④)における「名越兵庫助」は貞持でもなければ、そもそも千早城の戦いで亡くなったのは兵庫助では無かったと結論づけたいと思う。

 

 

脚注