Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【特集】得宗被官・長崎氏

今月主体的に扱ったのは、鎌倉時代後期に御内人得宗被官)の筆頭格として著名な長崎氏である。 

その中でも北条高時政権期に安達時顕と双璧を成す形で事実上の最高権力者であった長崎円喜(えんき)は、北条時宗の死後、その子・貞時の内管領として安達泰盛一族を打倒して勢力をふるった平頼綱の甥とされる(『保暦間記』)。

「長崎入道」または「長崎左衛門入道」と呼ばれる通り、円喜は出家後の法名であるが、近年、新たに紹介された史料によってそれ以前の俗名が「(もりむね)」(長崎左衛門尉盛宗)であったことが指摘されている。頼綱の次男・飯沼資とほぼ同世代とする見解があり、恐らくは時からの一字拝領であろう。

一方で、出家の時期については、次の金沢貞顕書状により、延慶元(1309)年4月9日の段階では既に済ませていたことが確認できる。 

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

北条時の元服から3ヶ月後にあたることから、『系図纂要』に掲載の俗名「(たかつな)」を時から偏諱を受ける形で名乗った可能性はほぼ無いとされてきた。

しかし、当ブログでは長崎氏嫡流の名乗りに着目し、反対に、長崎盛宗が出家して円喜と号するまでの僅かな期間「高綱」に改名していたとする説を次の記事にて掲げた。 

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

すなわち、円喜の嫡男・長崎高(たかすけ)の「資」が平盛に通じていることは既に指摘されているが、嫡孫・長崎高(たかしげ)の「重」も資盛の父・平盛に由来するものと考えられ、代々得宗時の1字を受けた「」の名乗りは「盛―盛―盛(『尊卑分脈』)という系譜を想定し、次第に遡った先祖に名前の1字を求めていたことが分かる(このような事例は、得宗の貞時・高時父子、三浦氏などでも確認できるものである)。

このことからも、長崎氏は平資盛の末裔を自称しており、『太平記』巻10での高重の名乗りも自身の系譜を語っていたことが裏付けられる。

 

そうした点も踏まえると、「現存する唯一の長崎氏系図」とされる『系図纂要』所収「平朝臣姓関一流」中の長崎氏系図はただ出鱈目を記載したものではないということが言えよう。 

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

こちらの記事では、系図での記載を改めて残存する史料と照らし合わせる作業を行い、成立した江戸幕末期当時における研究成果として捉え得ると結論づけた。

後世の者による加筆や書き換え(改竄)が施されることもあるため、後世に成立の系図の方が比較的信憑性が低いとされるが、だからと言って直ちに切り捨てるべきものではないということを、この記事でもって主張した次第である。