大仏維貞
北条 維貞(ほうじょう これさだ、1285年~1327年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人、北条氏一門。
北条時房の子・朝直を祖とする大仏流より第11代執権となった北条宗宣(大仏宗宣)の嫡男で、大仏維貞(おさらぎ ー)とも呼ばれる。
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詳細な活動内容・経歴については 北条維貞 - Wikipedia を参照のこと。
(参考記事)
本項では名乗りの変化について紹介する。
山野龍太郎氏によると「宗宣―維貞―高宣」は「時宗―貞時―高時」の各々1字を受けており、大仏流北条氏は得宗と烏帽子親子関係を結ぶ家柄であったと説かれている*1。但し、紺戸淳氏が論ずるように、時宗以降は大仏流の庶子に対しても関係を結ぶことが徹底されており、宗宣の弟は宗泰、貞房、貞宣と名乗り、高宣の末弟も高直と称している*2。彼らの名乗りに着目すると、そのほとんどが得宗から通字「時」でない方の1字を受け、それを実名の上(1文字目)にしたことが分かるが、維貞だけは例外となる。
ところが、『鎌倉年代記』(または『北条九代記』)嘉暦元(1326)年条の維貞の項を見ると「本名 貞宗」とある*3。すなわち初めは「貞宗(さだむね)」と名乗っていたのである。得宗・貞時からの偏諱「貞」を上に頂き、父・宗宣から「宗」字を継承して実名を構成したのであろう。すなわち、維貞だけが例外だったのではなく、「宗宣―貞宗―高宣」全員が得宗からの偏諱を1文字目にしたのである。
では「維貞」に改名したのはいつ頃であろうか。
同じく『鎌倉年代記』を覗くと、徳治2(1307)年条に
「正月廿八日引付頭 一 凞時 二 国時 三 基時 四 時高 五 維貞 六 顕実 七 道雄」
と書かれており*4、北条凞時や長井宗秀(法名:道雄)が改名または出家後の名前、時高(のち高時の偏諱を避けて斎時)*5が改名前の名前で表記されていることから、この当時の段階では「維貞」に改名済みであったと考えられる。
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こちら▲の記事で紹介した通り、最終的に父・宗宣から執権職を継いだ凞時も当初は同じく貞時の偏諱を受けて「貞泰」と名乗っていた。正安3(1301)年までには「凞時」と名乗っており、貞時出家の前後あたりでの改名ではないかと推測した。改名の動機を考えれば、恐らく維貞も同様だったのではないかと思われる。
その際、貞時がいまだ存命ながら、その偏諱「貞」を2文字目にしており、後の時代では不遜と捉えかねない行為であるが、特に重要視されなかったようである。一方の「維」は、祖先と仰ぐ「平維将―平維時」(『尊卑分脈』)に由来するものと思われる*6が、平維将・平維時はともに貞時(得宗)にとっても直接の先祖にあたるわけで、貞時にとっては許容の範囲内だったのかもしれない。
【史料】『存覚一期記』(『常楽台主老衲一期記』)より
…仏光寺空性初参俗体弥三郎、六波羅南方越後守維貞家人比留左衛門太郎維広之中間也、初参之時申云、於関東承此御流念仏、知識者甘縄了円、是阿佐布門人也、而雖懸門徒之名字、法門已下御門流事、更不存知、適令在洛之間、所参詣也、毎事可預御諷諫云々…其後連々入来、依所望、数十帖聖教或新草或書写、入其功了…
(http://blog.koshoji.or.jp/koshoji-shiwa/?p=21 より拝借*7)
尚、この史料により、六波羅探題南方在任の頃からの維貞の家人に比留維広(ひる・これひろ)という人物がいたことが確認される。この人物は了源(空性)が「中間*8」として仕えていた者として記載されている*9が、主君の維貞とは「維」字を共有しており、維貞から偏諱を受けたのではないかと思われる。
(関連記事)
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脚注
*1:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年))P.182 注(27)。
*2:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』二、1979年)P.15・21・23。
*5:『尊卑分脈』時高の注記に「改斉時」とあり、『鎌倉年代記』を見ると「三月十五日引付頭 一 凞時 二 国時 三 貞時〔ママ、貞顕〕 四 基時 五 斎時 六 維貞 七 顕実、八月止凞時頭」と書かれている。本文に掲げた徳治2年条とメンバーがほとんど変わらない中で時高が改名したことが窺えよう。
*6:「維貞」と書かれる史料が多く残る中で唯一『尊卑分脈』では表記を「惟貞」とするが、この観点から言っても「維貞」が正しいと判断される。
*7:『大日本史料』6-37 P.30 にも掲載あり。併せて参照のこと。
*9:園田香融・東元治「関西法律学校と天満興正寺」(所収:『関西大学年史紀要』第3号、1978年)P.241。津田徹英「中世真宗の「一流相承系図」をめぐって : 京都・長性院本ならびに広島・光照寺本の熟覧を通じて」(所収:『美術研究』418号、国立文化財機構東京文化財研究所、2016年)P.206。