【コラム】三井季成 ~竹崎季長の烏帽子親~
この絵は、元寇における竹崎季長(たけざき・すえなが) の戦いぶりを描いた『蒙古襲来絵詞』(以下『絵詞』と略記)に掲載のものである。この『絵詞』には季長の烏帽子親についての貴重な情報がある。
【史料】竹崎季長絵詞 5 より
関東へ参ぜむとするに、しゆゑの御房、御とゞめありしを上るによて、御不審をかぶるを「御とゞめあらむために、一旦の仰にてぞあらむずらん。さだめて用途は給らむずらん」とふかく身を頼みて、同六月三日卯の時、竹崎をたて上るに、いよいよ御不審ふかくなるにつきて、うちの者共一人もうち送りする者だにも無かりし程に、ふかく恨をなし奉りて、中間弥二郎・又二郎二人ばかり相具して上る。用途には、馬・鞍を売りたりしばかり也。「今度上聞に不達ば、出家してながく立帰事あるまじ」と思ひしほどに、熊野先達をかの法眼けうしむのもとに打寄て、「御祈精候べし」と申さむと思ひしを、見参せばはなむけなどもあらむずらん、これより御布施を参らせてこそ祈りにはなるべき間、僅かなる用途一結、使者をもて参らせて、「よくよく御祈精候べし」と申て、うち通りて 関につく。
時の守護三井新左衛門季成、烏帽子親たりしにつきて見参せしに、遊君どもを召して名残りを惜しみ、「海道に召され候へ」とて、河原毛なる駒に用途あひそへて、はなむけにせらる。八月十日、伊豆国三嶋大明神に詣りて、かたのごとく御布施を参らせ、一心に弓箭の祈りを申。同十一日、箱根の権現に詣りて、御布施を参らせて信心をいたし、祈精申。
(http://www.geocities.jp/ochappy_l/genko/s_1/t_ekotoba_05.html に掲載の『日本思想大系21 中世政治社会思想 上』(岩波書店、1972年)より)
文永の役後の建治元(1275)年6月3日、竹崎季長は先駆けの功を直接上申するため、鎌倉へと旅立ったが、その途上長門国の関にて「烏帽子親」である「三井新左衛門季成」に歓待されたという。この三井季成とは「季」の字を共有していることは見て明らかであり、季長の元服に際して季成が加冠役を務め、その偏諱を受けて季長と名乗ったことが窺える。冒頭の絵には文永の役(1274年)当時、季長は29歳であった(肥後国竹崎五郎兵衛季長 生年二十九)と書かれており、逆算すると寛元4(1246)年生まれ、元服の時期はその十数年後であったと推測できよう。
文永の役に際しては、総大将・少弐景資のもとに、姉婿(義兄)の三井三郎資長(三井資長)、旗指の三郎二郎資安らとともに参陣したという。前述の内容を踏まえると、資長は季成と同族と考えられ、資安も通称名から資長の息子と判断される*1。
また、「長門国守護代記」*2によると、当時の長門守護「信濃四郎左衛門尉行忠」=二階堂行忠の守護代に「三井宮内左衛門資平」(三井資平)の記載があるが、これも近親者と考えられよう。その判断材料として、藤原定能*3の五男・資平*4以降、「資」字が三井氏で通字として用いられていることが分かる*5が、実は少弐氏の歴代当主*6に関係があるのかもしれない。季成が例外的にこの字を使用していないことを考えると、三井氏が少弐氏と烏帽子親子関係を結んでいた可能性を考えても良いのではないかと思う。但しこの点については根拠に欠けるのであくまで推論に留めておきたい。
(参考記事)
脚注
*1:佐々木哲氏の説による。佐野氏を探る(1) 佐野信吉 と 谷重則 - 「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙 を参照のこと。
*2:「旧藩別置記録」山口県文書館『山口県史資料編中世(1)』1979年。
*3:藤原定能 - Wikipedia、藤原定能(ふじわらの さだよし)とは - コトバンク 参照。
*5:他にも『続群書類従』所収「佐々木系図」(巻132) によれば、佐々木泰清の5男・茂清の妻の父が三井資忠であるといい、この例に該当する。同系図では次男・重栖四郎左衛門宗茂の項にも「母三井藤内左衛門藤原資忠女」、四男・六郎宗経の項に「母同上」と記されている。注1外部リンク、および 出雲佐々木氏の婚姻2: 資料の声を聴く(外部リンク)による。
*6:系譜は、資頼―資能―経資―資時(景資は経資の弟)。