宇佐美貞祐
宇佐美 貞祐(うさみ さだすけ、1280年頃?~没年不詳(1336年以後))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。
前史:貞祐に至るまでの歴代当主
平安時代末期、藤原南家より出た工藤祐隆(家次、家継とも)が領していた伊豆国田方郡久須美荘のうち、伊東・宇佐美の両庄を、後妻の連れ子との間に生まれた祐継が継承し、その息子の代になって兄の祐経が伊東庄を、弟の祐茂が宇佐美庄(宇佐美荘)を受け継いだ。この祐茂(宇佐美祐茂)が地名を取って "宇佐美三郎" を称したことに始まった宇佐美氏*1は、同地を本貫(本領地)とし、貞祐は鎌倉幕府滅亡前後における当主であった。
鎌倉期の宇佐美氏については、今野慶信氏による研究*2に詳しい。今野氏は、宝永5(1708)年に成立の『南家 伊東氏藤原姓大系図』*3における伊東氏以外の他家の部分について、途中の世代で終わっていることから成立年代が中世に遡る可能性を指摘し、他の史料との照合作業を行うことでその信憑性の高さを検証されており、その中で宇佐美氏についても触れられた*4。原本の系図を示すと次の通りである。
▲【図1】『南家 伊東氏藤原姓大系図』より宇佐美氏の部分*5
まずは貞祐に至るまでの歴代当主について見ていこう。
『吾妻鏡』による今野氏の考察に基づくと、執権・北条氏との関係で言えば、祐村(すけむら)は主に泰時~時頼初期、祐氏(すけうじ)は時頼の代に活動していたことが確認できる*6。
同氏は『吾妻鏡』元久2(1205)年6月23日条の「宇佐美与一」=祐村に同定しており*7、建長4(1252)年4月1日条で「河内守祐村」と記述されるまでの間、国守への任官に40数年ほどかかっていることになる。但し、同月3日条では「河内前司祐村」となっており、この頃河内守を辞していた可能性が高い*8。
また、同日条に現れる「河内三郎祐氏」は「河内前司祐村」の子で間違いなく(通称名は河内守の三男の意)、【図1】での祐氏に一致する*9。当時は元服してさほど経っていない頃であったとみられるが、同6(1254)年~弘長元(1261)年の間は「左衛門尉」と表記されている。【図1】での「伊豆守」が正しければ、弘長年間以降の任官ということになるが、同じく元服の頃から40年以上経ってから補任されたのではないかと思われる。その時期は早くとも1290年代であったと推定される。
祐氏の子・祐行(すけゆき)が登場するのは、それから間もない頃である。今野氏は、正安3(1301)年12月、「淡路四郎左衛門尉(殿)」*10と共に伊予国への両使となった「宇佐美六郎(殿)」(『伊予大山積神社文書』)*11、嘉元2(1304)年4月15日、京都賀茂祭に二階堂忠貞・二階堂貞藤と共に検非違使として参加した「祐行 同(=関東)、号宇佐美判官」(『実躬卿記』同日条)を史料での初見としている*12。
以後しばらくは、宇佐美氏の活動を確認できない。次に現れるのが鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての「宇佐美摂津前司」である。これについて節を改めて紹介しよう。
鎌倉末期における「宇佐美摂津前司」
鎌倉時代末期の元弘の乱に関する次の史料(表)をご覧いただきたい。
〔表A〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32135号)
楠木城 | |
一手東 自宇治至于大和道 | |
陸奥守(大仏貞直) | 河越参河入道(貞重) |
小山判官(高朝) | 佐々木近江入道(貞氏) |
佐々木備中前司(大原時重) | 千葉太郎(胤貞) |
武田三郎(政義) | 小笠原彦五郎(貞宗) |
諏訪祝(時継カ) | 高坂出羽権守(信重) |
島津上総入道(貞久) | 長崎四郎左衛門尉(高貞) |
大和弥六左衛門尉(宇都宮高房) | 安保左衛門入道(道堪) |
加地左衛門入道(家貞) | 吉野執行 |
一手北 自八幡于佐良□路 | |
武蔵右馬助(金沢貞冬) | 駿河八郎 |
千葉介(貞胤) | 長沼駿河権守(宗親) |
小田人々(高知?) | 佐々木源太左衛門尉(加地時秀) |
伊東大和入道(祐宗カ) | 宇佐美摂津前司 |
薩摩常陸前司(伊東祐光?) | □野二郎左衛門尉 |
湯浅人々 | 和泉国軍勢 |
一手南西 自山崎至天王寺大路 | |
江馬越前入道(時見?) | 遠江前司 |
武田伊豆守(信武?) | 三浦若狭判官(時明) |
渋谷遠江権守(重光?) | 狩野彦七左衛門尉 |
狩野介入道(貞親) | 信濃国軍勢 |
一手 伊賀路 | |
足利治部大夫(高氏) |
結城七郎左衛門尉(朝高) |
加藤丹後入道 | 加藤左衛門尉 |
勝間田彦太郎入道 | 美濃軍勢 |
尾張軍勢 | |
同十五日 | |
佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参 | |
同十六日 | |
中村弥二郎 自関東帰参 |
〔表B〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32136号)
大将軍 | |
陸奥守(大仏貞直)遠江国 | 武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国 |
遠江守尾張国 | 武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国 |
駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国 | 足利宮内大輔(吉良貞家)三河国 |
足利上総三郎(吉良貞義) | 千葉介(貞胤)一族并伊賀国 |
長沼越前権守(秀行)淡路国 | 宇都宮三河権守(貞宗)伊予国 |
佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 | 小笠原五郎阿波国 |
越衆御手信濃国 | 小山大夫判官(高朝)一族 |
小田尾張権守(高知)一族 | 結城七郎左衛門尉(朝高)一族 |
武田三郎(政義)一族并甲斐国 | 小笠原信濃入道(宗長)一族 |
伊東大和入道(祐宗)一族 | 宇佐美摂津前司一族 |
薩摩常陸前司(伊東祐光?)一族 | 安保左衛門入道(道堪)一族 |
渋谷遠江権守(重光?)一族 | 河越参河入道(貞重)一族 |
三浦若狭判官(時明) | 高坂出羽権守(信重) |
佐々木隠岐前司(清高)一族 | 同備中前司(大原時重) |
千葉太郎(胤貞) | |
勢多橋警護 | |
佐々木近江前司(六角時信) | 同佐渡大夫判官入道(京極導誉) |
(*以上2つの表は http://chibasi.net/kawagoe.htm#sadasige より拝借。)
元弘元(1331)年、後醍醐天皇が笠置山、その皇子・護良親王が吉野、楠木正成が下赤坂城にてそれぞれ倒幕の兵を挙げたのに対し、9月初頭、幕府は討伐軍を差し向け上洛させることを決定、その軍勢のメンバーの中に「宇佐美摂津前司」なる人物が見られる。〔表B〕を見れば、この人物は宇佐美氏一族をまとめる惣領の立場にあったことが窺えよう*13。
『建武記』(『建武年間記』)には、延元元(1336)年4月、建武政権での武者所六番に結番された人物として「宇佐美摂津前司 貞祐」が見える*14。通称名が共通し、年代の近さからいっても〔表A〕〔表B〕での「宇佐美摂津前司」も貞祐であると考えられよう*15。【図1】での祐行の嫡男・摂津守貞祐に同定される*16。
正安3年の「宇佐美六郎」について
以上2節での考察を照らし合わせると、一つの問題点が生ずる。
「摂津前司」とは「前摂津守」の意味であり、元弘元年の段階で貞祐は既に摂津守を辞していたことになる。前節で紹介した祐村と同じであれば、摂津守任官まで40数年を経て、当時貞祐は50歳近くに達していたのではないかと推測される。
正安3(1301)年の「宇佐美六郎」は、無官の通称名であることから、前述の「河内三郎祐氏」に同じく元服して間もない頃であったと思われるが、これを祐行とする今野氏の説を採用すると、貞祐とほぼ同年代となってしまい、親子関係に矛盾が生じてしまうのである。どのようにして再考すべきであろうか。
「六郎」と「摂津守」は【図1】において祐行・貞祐父子に共通する通称名(輩行名)、官職である。すなわち、これを信ずれば、「宇佐美六郎」が祐行・貞祐のいずれかでも、最終的に摂津守に任ぜられたということになる。
正安3年の「宇佐美六郎」が40数年かけて摂津守に任ぜられた場合、その時期は1340年代となるが、それより少し前の延元元年に「宇佐美摂津前司 貞祐」が現れているのである。 従ってこの「宇佐美六郎」は「宇佐美判官祐行」と同人なのではなく、その息子・貞祐に比定すべきであろう。
正安3年から〔表A〕〔表B〕の元弘元年までの間、約30年。この30年の間に貞祐が摂津守に任ぜられたことになる。その家によって多少異なりはするが、叙爵や国守任官の年齢は時代を下るにつれて低年齢化の傾向にあったことから、摂津守になるまでの期間が祖先に比べて短くなっている点は問題ないと思う。前田治幸氏の研究によれば、この頃の国守任官は、家格の高い北条氏一門や足利氏でさえも概ね20代、他の御家人でも30代~40代(またはこれより高年齢)での就任が一般的であった*17。
*もう一つの理由として、祐氏との関係がある。祐氏(河内三郎)・六郎の史料での初見を元服適齢期の10数歳とした場合、息子の祐行が生まれた時、祐氏は50歳程度に達していたことになるが、鎌倉時代当時の親子の年齢差としては離れ過ぎているようにも思える。【図1】で祐行の弟を数名載せていることから考えても、祐氏になかなか男子が生まれなかったとは考えにくいだろう。そして、六郎=祐行が正安3(1301)年当時10数歳~20代であったとすると、子の貞祐は早くとも1310年前後の生まれとなり、貞祐が延元元(1336)年までの20数年間で国守に任官し辞任したことになってしまうので、この点から言っても成り立たないように思う。
尚、推測にはなるが、貞祐が「宇佐美六郎」と呼ばれたのは、既に父である「宇佐美判官祐行」が検非違使となっていたからだろう。よって祐行の当初の通称名も同じく「六郎」であったと判断され(例えば、【図1】での通称名に対する注記「イ七(異説では七)」を採用し祐行が「七郎」であった場合、貞祐は「七郎六郎」と呼ばれる可能性が高くなる)、正安3年の段階では検非違使であったと思われる(同年の段階で祐行も「六郎」を称していたなら、貞祐は「宇佐美新六郎」「新宇佐美六郎」等と呼ばれるか、或いは「又六郎」「孫六」「彦六」等の呼称で区別された筈である)。
北条貞時との烏帽子親子関係
貞祐の元服
正安3年とは、第9代執権・北条貞時が出家して辞職した年でもある*18。よって、「宇佐美六郎」の元服当時の執権は貞時であったことはほぼ間違いなかろう。
そして「宇佐美六郎」=貞祐とした場合、その名は貞時の偏諱「貞」を許されていることになる。実際に烏帽子親子関係が結ばれたと考えるほかない。「貞」の偏諱については今野氏が既に指摘されていることで、同氏が別の論文でまとめた鎌倉時代の元服の事例の中には、貞時が烏帽子親を務めた例も確認できる*19。【図1】で見ると宇佐美氏一族のほとんどの者が「祐●」型の名乗りである中で、貞祐がその例外である理由を考えると、貞祐の「貞」が貞時の偏諱とする今野氏の説*20は正しく、この点から言っても「宇佐美六郎」=貞祐で間違いないと判断できよう。
烏帽子親子関係成立の理由
宇佐美氏嫡流の歴代当主の中で得宗と烏帽子親子関係を結んだのは、貞祐が唯一である。何故貞時の偏諱を受けることになったのであろうか。
宇佐美氏は祐茂の後、祐政・祐村・祐員(祐光)の3流に分かれたが、「三郎」の仮名を引き継いでいることからも、長男・祐政の系統が本来の嫡流だったのではないかと思われる。ところが【図1】には祐政の子・祐泰の項に「祐時養子日州下向」と書かれている。今野氏は本宗家・伊東祐時の養子となって日向に下向したのではないかと解釈されている*21が、祐泰の子・祐治が縣四郎、孫・祐道が石塚八郎を称したのに対し、「三郎」を称する家系が祐村流の「河内三郎祐氏」に移っていることからすると、祐政の系統は宇佐美氏の嫡流から外れたのであろう。
紺戸淳氏によると、嫡流の地位と、得宗家との烏帽子親子関係と、氏族相伝の職の帯有とはいずれもが不可分で、得宗からの一字は「嫡流の地位と、相伝の職帯有の資格の象徴」であったという*22。実際、鎌倉時代末期の段階では、祐村流の貞祐が宇佐美氏を代表する立場にあったのである(前掲〔表B〕)が、その立場を確立するにあたっては得宗に加冠を求める必要があったのであろう。
また、貞時執権期当時には一字付与の対象が拡大していることが注目される。歴代当主のうち単独で偏諱を受けたとみられる人物は、佐竹貞義*23、渋川貞頼、土岐頼貞、桃井貞頼、山河貞重(山川貞重)*24などが挙げられる。貞時は、五方引付を廃止し、執奏という組織を設けることで全ての裁判を自分のもとに上げさせて裁許しようと試み、また従弟の師時、宗方を重用して脇を固めることで得宗家への権力集中を目指しており、その政治は得宗専制の名に相応しき絶頂期の姿であったと評価されている*25。一部の者は婚姻関係が契機となっている可能性もあるが、貞時自身としては権力基盤形成のため、烏帽子親子関係を通じてあらゆる御家人を統制する考えがあったのではないかと推測される。
ここに、貞時と、得宗への接近を図る宇佐美氏双方の思惑が合致し、烏帽子親子関係が結ばれる運びとなったのであろう。すなわち、宇佐美祐行は我が子(貞祐)の元服に際し、政権への協調姿勢を示す意図もあって、時の執権でもあった得宗・貞時に加冠を依頼したものと思われる。
「宇佐美六郎」(=貞祐)は幕府の使者として派遣されたが、これも出家したばかりの得宗(前執権)・貞時の意向によるものであったとみられ*26、事実上得宗被官化していたとも言えよう。貞祐は元服して間もない頃から貞時に重用されたのである。尚、国守にまで昇進した、正安3年「宇佐美六郎」から元弘元年「宇佐美摂津前司」までの約30年間、貞祐の具体的な活動は確認できないが、当時の史料の残存状況を考えればこの問題はクリアできると思う。
元弘3(1333)年12月29日、足利尊氏は上杉五郎に宇佐美郷を勲功賞として与えている(『上杉文書』)*27が、北条氏と親密な関係にあったために宇佐美氏の本領が元弘没収地となったとされる*28。『太平記』には、同年正月の楠木正成挙兵に際しての幕府軍のメンバーに「宇佐美摂津前司」が書かれている*29から、貞祐は鎌倉幕府滅亡時まで北条氏に従い、敗北後に建武政権に恭順したのであろう。以後京都の新田義貞方として活動したという*30が、晩年期の詳しい動向は不明である。
これに対して従弟の宇佐美祐清(三河守)は足利方について関東廂番に抜擢され(『建武記』)*31、その息子とみられる「宇佐美三河三郎祐尚」は康永4(1345)年の尊氏の天龍寺供養に同行している(『後鑑』)*32。元来の家督が名乗った「三郎」を称していることから、宇佐美氏惣領の座は貞祐の没落によりこの系統に移ったのかもしれない。
まとめ:年表
● 1270~80年代の生まれか。執権・北条貞時(在職:1284~1301)の加冠により元服、偏諱を賜り宇佐美六郎貞祐を称す。
● 正安3(1301)年12月:淡路四郎左衛門尉(宗業、長沼氏カ)とともに伊予国への両使。
● 嘉元2(1304)年4月15日:京都賀茂祭に父・祐行が検非違使として参加。
● この間、摂津守へ任官および辞任。
● 元弘元(1331)年9月:笠置山の戦いに際し、幕府方として参加。
● 元弘3(1333)年正月:楠木正成第2次挙兵に際して、幕府方として参加。
● 同年5月の幕府滅亡後、本領の宇佐美郷が収公され、同年12月29日、足利尊氏により上杉五郎(尊氏の従弟・上杉憲顕の子?)に与えられる。
● 延元元(1336)年4月:建武政権での武者所六番に結番。
脚注
*1:宇佐美氏 - Wikipedia 参照。
*2:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大編『中世武家系図の史料論』上巻、高志書院、2007年)。
*3:前注今野氏論文のほか、飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』三輯、1977年)や『伊東市史 史料編 古代・中世』(2006年)にも掲載。
*4:注2今野氏論文、P.120~123。
*5:注2今野氏論文、P.134より。
*6:注2今野氏論文、P.120。
*7:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、本項では1992年刊の第5刷を使用)P.409「祐村 宇佐美」の項では、暦仁元(1238)年2月28日条・6月5日条での「宇佐美与一左衛門尉祐村」と同人とし、寛元2(1244)年まで6回登場する。
*8:『吾妻鏡人名索引』P.409「祐村(氏不詳)」の項では、康元元(1256)年6月29日条の「河内守」も祐村とするが、これは「前河内守(または河内前司)」の誤記なのであろう。
*9:これにより、『吾妻鏡人名索引』で別人となっていた「宇佐美与一左衛門尉祐村」と「河内守祐村」を同一人物とする今野氏の説(注2今野氏論文 P.122)が正確であることが裏付けられよう。
*10:同じく『大山積神社文書』に収められている前年8月18日付「六波羅御教書案」(『鎌倉遺文』第27巻20583号)の「淡路四郎左衛門宗業」と同人と判断されるが、「宗」の通字からも「淡路四郎左衛門尉」と呼ばれた長沼時宗・宗泰(『吾妻鏡人名索引』)の血縁者ではないかと思われる。彼らは淡路守護を務めたとされる(→長沼時宗(ながぬま ときむね)とは - コトバンク、長沼宗泰(ながぬま むねやす)とは - コトバンク 参照)が、『尊卑分脈』を見ると長沼氏の系譜は「宗政―時宗(淡路守)―宗泰―宗秀(淡路守)―秀行」となっており、「宗業」なる人物がいない(通称名は淡路守の四男を表すものである)。永仁2(1294)年に成立のものとされる白河集古苑所蔵「結城系図」(結城錦一氏旧蔵『結城家文書』所収)でも「宗政―時宗―宗泰―宗秀(左衛門尉)」と載せており(市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 ―系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大編『中世武家系図の史料論 上巻』、高志書院、2007年)P.69)、正安元(1299)年12月6日には「左エ門尉藤原宗秀」が「亡父左衛門尉宗泰法師法名覚源」の遺領を継いだことが確認できる(→『編年史料』後伏見天皇紀・正安元年12月 P.4)ので、宗秀と同世代とは思われる。或いは同人の誤記かもしれない。
*11:『鎌倉遺文』27巻20916号、20924号。
*12:注2今野氏論文、P.122。
*13:注2今野氏論文、P.120。
*15:注2今野氏論文、P.120。
*16:前注に同じ。
*17:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第9巻〉、戎光祥出版、2013年)P.216~224の表を参照。
*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*19:鎌倉時代の一字付与 - Henkipedia で紹介の、今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)による。
*20:注2今野氏論文、P.120。
*21:注2今野氏論文、P.122。
*22:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』二、1979年)P.22。
*23:『結城市史』第四巻 古代中世通史編(結城市、1980年)P.297。
*24:前注同箇所、および、樋川智美「鎌倉期武家社会における婚姻の意義 -小山・結城氏の事例による考察-」(所収:荒川善夫編著 『シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻 下総結城氏』(戎光祥出版、2012年)P.142-143)。
*25:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.196。詳しくは、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)第二部第二章「嘉元の乱と北条貞時政権」を参照のこと。
*26:前注細川氏著書 P.299によれば、嘉元2(1304)年の北条宗方の得宗家執事および侍所所司就任~同3(1305)年嘉元の乱の間が貞時専制の最盛期であったとされ、貞時は出家後数年の間も鎌倉政権の最高主導者であったとみられる。幕府からの「両使」については 使節遵行 - Wikipedia を参照。
*27:『鎌倉遺文』第42巻32807号。『静岡県史 資料編中世2』28号。伊東市史編集委員会・伊東市教育委員会編『伊東の歴史1 原始から戦国時代』(『伊東市史 通史編』、伊東市、2018年)「宇佐美郷と上杉五郎」の節。同日には「上椙兵庫蔵人」が尊氏より伊豆国奈古屋郷(田方郡奈古屋村)の地頭職を与えられており(『大日本史料』6-1 P.344)、田辺久子『上杉憲実』〈人物叢書〉(吉川弘文館、1999年)P.83 や 花ヶ前盛明『越後 上杉一族』(新人物往来社、2005年)P.11 では上杉憲房(尊氏の母方の伯父)に比定するが、通称名からすると翌年正月に設置の関東廂番の二番となった蔵人憲顕(『大日本史料』6-1 P.421 参照、兵庫頭憲房の子、1306-1368)ではないかと思われる。「上杉五郎」は元服してさほど経っていない人物とみられ、この上杉憲顕の息子の世代に相当すると考えられよう。
*28:注2今野氏論文、P.120。
*29:『太平記』巻6「関東大勢上洛事」。この部分については谷垣伊太雄「『太平記』巻六の構成と展開」(所収:大阪樟蔭女子大学編『樟蔭国文学』第26号、1989年)P.38を参照のこと。
*30:注2今野氏論文 P.120・122。
*32:注2今野氏論文 P.122~123。
*33:注2今野氏論文、P.123より。