安達顕高
安達 顕高(あだち あきたか、1310年頃?~1333年)は、鎌倉時代末期の武将、御家人。通称(官途)は式部大夫。『尊卑分脈』によれば、安達時顕(法名:延明)の子で安達高景の弟。
▲(吉川弘文館より刊行の、国史大系本『尊卑分脉』第二巻より)
実名に着目すると、「顕」の字は父・時顕から継承したものであるから、「高」が烏帽子親からの偏諱と考えられるが、これは言うまでもなく当時の得宗・北条高時からの一字拝領であると推測される。姉または妹である時顕の娘が高時に嫁いでおり(後掲『系図纂要』参照)*1、高時とは義兄弟の関係にあった。恐らく高時執権期(1316~1326年)の元服と思われる。
尚、兄・高景と違って「高」の偏諱を下(2文字目)に置くのは、"嫡男=秋田城介継承者" 高景に対する庶子(もしくは準嫡子)に位置付けられていたからであろう。同じ安達氏だと泰盛の息子の盛宗・宗景兄弟、その他北条経時・時頼兄弟(ともに4代将軍・九条頼経の烏帽子子)などで同様の事例が確認できる。
ちなみに、高時の妻となった時顕の娘については、その母親(=時顕の妻)が特定されている。
すなわち、金沢流北条顕実・時雄・貞顕三兄弟の母親である入殿(遠藤為俊の娘、金沢顕時の妻)に関する史料「入殿三十五日回向文土代」(『金沢文庫文書』所収)*2の文中に「彦子為副将軍之夫人(彦子[=曽孫] 副将軍の夫人と為(な)る)」とあり、『正宗寺本北条系図』を見ると、金沢顕時の子・顕雉〔ママ、顕雄の誤記〕(=時雄*3)の娘に「秋田城之介時顕妻」と書かれることから、「入殿―時雄―女子(時顕妻)―女子(高時*4妻)」という系譜であったと考えられている*5。
時顕には他に側室等の妻がいたという情報が確認できないことから、高景・顕高兄弟の母親も同じくこの女性(金沢時雄の娘)かもしれない。
さて、秋田城介として活動した父や兄に比べると、顕高に関する史料はほとんど残されていないが、元徳2(1330)年のものとされる「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*6の文中に「城式部大夫」とあり実在が認められる。
その他『太平記』にはその最期の様子が描かれている。鎌倉幕府滅亡時の東勝寺合戦(1333年)を描いた部分だが、その際高時に殉じて自害した人物として、「城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時……(略)……城介高量〔ママ、高景の誤記か*7〕・同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明」と安達氏一門の人物が多く載せられている*8。
▲(『系図纂要』より)
江戸時代幕末期に成立のこちらの系図は、恐らくは『尊卑分脈』をベースに作成されているが、死去に関する注記は『太平記』での記述を採用したものであろう。『保暦間記』に基づいたのか*9、前述した高時妻の女子も追加されている。
この時の官職(=最終官途)が「式部大夫」*10であることは『尊卑分脈』にも記されるところで、既に叙爵済みであったことは確かである。しかし、他の一族とは異なり国守には昇っていないので、恐らく30歳には達していなかったのではないか。従って、享年は20代の若さであったと推測される。
※この時、兄の高景も同時に自害したという前掲『太平記』『系図纂要』の記載が正しく、逆にその後津軽に落ち延びて蜂起したという説が誤りであるということは、こちら▼の記事で述べた通りである。あわせてご参照いただきたい。
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脚注
*1:この他、『保暦間記』に「高時カ(が)舅秋田城介時顕」の記述がある。細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)P.151 も参照。
*2:『鎌倉遺文』第37巻28544号。
*3:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.5。
*4:得宗貞時・高時の「副将軍」呼称については、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.263~264 注(55)を参照のこと。この場合の「副将軍」は年代的に考えて高時でしかあり得ない。
*6:『鎌倉遺文』第39巻30877号。
*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*9:注1参照。
*10:式部丞(大丞:正六位下、少丞:従六位上 相当 → 式部の丞(しきぶのじょう)とは - コトバンク)で五位に叙せられた者の称(→ 式部の大夫(シキブノタイフ)とは - コトバンク)。