Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安達高茂

安達 高茂(あだち たかしげ / たかもち、1305年頃?~1333年)は、鎌倉時代末期の武将、御家人。名は安達高義(ー たかよし)とも。官途は美濃守。

 

 

各史料での安達高茂とその最期

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▲【図A】『尊卑分脈』〈国史大系本〉安達氏系図より一部抜粋

 

【図A】の通り、『尊卑分脈』では安達師景の子として掲載される。 

高茂についての史料はほぼ皆無であるが、唯一『太平記』にはその最期の様子が描かれている*1鎌倉幕府滅亡時の東勝寺合戦(1333年)を描いた部分だが、その際高時に殉じて自害した人物として、「城加賀前司師顕秋田城介師時城越前守有時……(略)……城介高量〔ママ、高景の誤記か*2同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明」と安達氏一門の人物が多く載せられる中に確認できる*3。 

太平記』は元々軍記物語であるが、【図A】と照合すると、師時有時なる者は系図上で確認できないものの、師顕の官職は師景と混同しているようで*4、残る延明(時顕)高景顕高、そして高茂*5の官職が完全に一致していることから、一定の信憑性は認められると思う。

 

 

高茂の世代と烏帽子親の推定

本節では安達高茂の世代について推定してみたい。

父・師景(もろかげ)については次の史料で実在が確認できる。

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▲【史料B】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の、施薬院使・丹波長周の注進状*6

 

この史料には【図A】にも見られる師顕も登場するが、その官職は越後権介であり、加賀守師景は【図A】での記載に一致するので、前述の『太平記』での「城加賀前司師顕」を師景の誤記と判断した次第である。師景が正和4年当時、既に加賀守従五位下相当・国守)であったことが窺えるが、ここで考えたいのが安達氏における国守任官の年齢である。 

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▲【図C】安達氏略系図*7

 

判明している事例として、安達義景の息子たちが参考になるだろう。すなわち、頼景が29歳で丹後守正六位下相当)*8泰盛が52歳で陸奥従五位上相当、秋田城介と兼務)*9顕盛が30歳で加賀守(前述参照)*10長景も30代前半以下で美濃守従五位下相当)*11に任官しているのである。

 

【表D】鎌倉時代後期における主要御家人の叙爵・国守任官の年齢*12 

叙爵年齢 国守任官年齢
北条(得宗・赤橋) 10 20
北条(金沢・大仏) 10代後半 30歳前後
足利 10代後半? 20
安達 24? 30歳前後 
長井 18? 30歳前後
宇都宮   30代前後
二階堂 20? 20代後半~30?

 

先行研究においては、叙爵や国守任官の年齢が鎌倉時代における家格秩序を考える上での重要な要素であったとされる。

【表D】に掲げたのは、鎌倉時代後期から末期にかけて寄合衆や評定衆を務めた氏族、もしくはそれに匹敵する高い家格を持った家柄であり、そんな彼らでさえも当初は30~40代以上での国守任官が一般的であった。少なくとも安達氏庶流の人物が彼らを超えることは考えにくい。 

従って、師景・高茂の国守任官も、顕盛や長景と同じ30歳前後の年齢で行われたのではないかと推測される。

 

【図A】に書かれる通り、祖父の安達重景は弘安8(1285)年の霜月騒動で兄・泰盛らと共に誅伐された*13。師景はこの年までに生まれているはずであるが、仮に同年の生まれとした場合、【史料B】の正和4年当時31歳(数え年)となり、国守任官の適齢期である。従って師景は霜月騒動の直前に生まれ、【史料B】よりさほど遡らない時期に加賀守に任官したと判断される*14

高茂はその師景の息子であるから、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、早くとも1305年頃の生まれと推定できる。1333年当時29歳(数え年)程度となり、問題なく国守任官の適齢期である。

 

【図A】国史大系本:底本は前田家所蔵訂正本に注記がある通り、複数の種類が伝わる『尊卑分脈』のうち、前田家所蔵脇坂氏本、同所引イ本、前田家所蔵一本、国立国会図書館支部内閣文庫本では実名を「(たかよし、安達高義)とするらしい。確かに「茂」字の由来は不明で、曽祖父・景の1字を用いたと考える方が現実的には感じられるが、確認できる史料は皆無であり、前述の『太平記』のほか『系図纂要(下掲【表E】)でも「高茂」が採用されている。

 

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▲【図E】『系図纂要』における【図A】と同人の部分

 

いずれにせよ「●」という名前であったことになるが、元服当時の執権と推定される北条(在職:1316~1326)偏諱を許されていたことになる。高時が烏帽子親を務めたのであろう。その経緯は不明だが、秋田城介を継いで嫡流となった時顕一家では、時顕の娘が高時に嫁ぎ*15、その兄弟であった景・顕が「高」字を受けており、そうした得宗・安達両家の関係がきっかけになっていると思われる。

 

ところで、【図A】と【図E】には「城介(秋田城介の略記)と注記されている。1326年までは時顕が務め、同年を境に嫡男・高景への継承が行われたとされ*16、1331年の段階で高景が秋田城介であったことは確実である*17から、前述の『太平記』で「秋田城介師時……城介高量〔高景〕……同美濃守高茂」と書かれることからしても、高茂が一時期でも秋田城介であったとは考え難い。「秋田城介師時」についても、高景が他の一族に職を譲っていたとは考えにくく、師時〔師顕のことか?〕と高茂の「城介」記載は依然として真相不明である*18 。【図E】は江戸時代幕末期の成立だが、【図A】での記載をそのまま引用しただけであろう。 

 

(参考記事) 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

 

脚注

*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№87-安達高茂 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)参照。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*3:太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№86-安達師景 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。

*5:「美濃(国)」は「美乃(国)」と書かれることもあった(→ 美濃国 - Wikipedia 参照)。よって【図A】での「美乃守」は「美濃守」の表記違いである。

*6:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.19 より。

*7:湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』〈動乱の東国史3〉(吉川弘文館、2012年)P.191 より。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その81-関戸頼景 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その82-安達泰盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№88-安達顕盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№91-安達長景 | 日本中世史を楽しむ♪ によれば、弘安2(1279)年に任官。【図A】に示したが如く『尊卑分脈』では顕盛のすぐ下の弟として載せられ、顕盛と同年の生まれとしても当時35歳(数え年)となり、これより若年での任官であること確実である。

*12:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第9巻〉、戎光祥出版、2013年)P.216~224の表 より作成。

*13:これを裏付ける史料として、同年12月2日付「安達泰盛乱自害者注文」(熊谷直之所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』所収、『鎌倉遺文』第21巻15738号)中に「城五郎左衛門入道」とあり(→ 年代記弘安8年)、【図A】で「(城)五郎左衛門尉」・「出家」と注記される重景に同定される。

*14:師景の名に着目すると「景」が父・重景から継承した字であるから、「師」が烏帽子親からの偏諱と判断され、正安3(1301)年より執権となった北条師時からの一字拝領ではないかと思われる。

*15:【図E】のほか、『保暦間記』に「高時カ(が)舅秋田城介時顕」とある。

*16:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。

*17:安達高景 - Henkipedia を参照。

*18:【図A】や【図E】を見ると師顕の通称は「九郎兵衛」であるが、「九郎」は元来、安達氏の嫡子の呼称として継承されたものであった(福島金治 『安達泰盛鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.12)。師顕も注14に同じく師時の烏帽子子であったと思うが、【図A】にある通り父の時長は弘安8年の霜月騒動で自害しており、すると騒動で難を逃れた当時幼少であったと推測される。「顕」字を共有することから、時顕と師顕は兄弟同然のようにして育ち、形式上時顕が師顕を養子(または猶子)として当初の嫡子としていた可能性があるかもしれない。『尊卑分脈』を見ると師顕の遺児・師之の子孫は存続し、長子・師長は宗顕と同じく「太郎(兵衛)」を称し、次子・盛信とその子・盛義には「城介」と注記されるが、この家系が秋田城介家を継承したためではないかとも考えられる。但しあくまでこれは全くの推論であるため、後考を俟ちたい。