Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大友氏泰

大友 氏泰(おおとも うじやす、1321年~1362年*1)は、南北朝時代の武将。

 

【図1】『尊卑分脈』〈国史大系本〉大友氏系図(一部抜粋)

f:id:historyjapan_henki961:20190408170225p:plain

尊卑分脈』では貞宗のただ一人の息子として載せられているが、その次代・氏時(うじとき)も同じく貞宗の子*2(=すなわち氏泰の実弟)であったとされ、他の系図類を見ると実際にはその他にも多くの兄弟がいたことが確認できる。   

f:id:historyjapan_henki961:20190408011908p:plain

▲【図2】系図類に見られる貞宗の息子たち*3

 

このうち、後に生まれた行、宗行とも)の三兄弟は「尊氏公 賜諱字」などとある通り、足利尊氏から「」の偏諱を受けていることが分かる。

 

その信憑性を確かめるべく、実際の書状で通称名の変化を見てみよう。

 

正慶2(1333)年3月13日付「沙弥具簡(大友貞宗)譲状」(『大友文書』)*4

f:id:historyjapan_henki961:20190408155956p:plain

父・大友貞宗の譲状である。鎮西探題攻めを前にし、千代松丸を家嫡(家督継承者)に指名し、豊後守護職以下すべての所職を譲るとしている。幼少の千代松丸に譲ったのは、次郎貞順・三郎貞載を戦場に同行させ、万一自分たちが敗死してもその後、幕府から咎められて取り潰される可能性は低いとみたためであることが窺える。

また、千代松丸に跡取りが出来なかった場合は、その舎弟・亀松丸が継ぐべきであることも記しており、事実上遺言書の役割も果たしている。実際、戦死ではないものの、貞宗は同年12月に京都で亡くなっており、この書状に従って千代松丸が跡を継いだ。これより少し後に大友氏当主としての活動が見られる貞宗の次代・氏泰の幼名で間違いないだろう。 

 

 建武3(1336)年2月15日付「足利尊氏袖判御教書」(『大友文書』)*5

新院*の御気色によりて、御辺を相憑て、鎮西に発向候也、忠節他ことに候之間、兄弟おきてハ、猶子の儀にてあるへく候、謹言、

 

建武 二月十五日  尊 氏 御判

大友千代松殿     *尊氏が擁立した光厳院のことか。

 

*京都周辺・摂津で後醍醐天皇方との戦闘に敗れ、九州へと落ち延びてきた足利尊氏から、"忠節が特に優れているので、「大友千代松(丸)」の兄弟は皆、猶子の関係を認める" とした内容である。 

 

 同3年3月17日付「足利尊氏袖判御教書」(『大友文書』)*6: 「大友千代松丸

 同4(1337)年5月22日付「足利尊氏袖判御教書」(『大友文書』)*7:「大友孫太郎源氏泰

*この期間に元服したことが分かる。冒頭で前述の生没年に従うと、この当時15~16歳と適齢期である。【図2】で「尊氏将軍の猶子、賜源姓及び諱字」と書かれる通り、以前の約束に従って源姓を与えられており、その実名から尊氏の一字を受けたことは明らかである。「泰」字は曽祖父・大友頼泰*8に由来するものであろう。5男でありながら嫡男であった故に「(孫)太郎」を称したものと推測される。

 

 同5(1338)年閏7月1日付「足利直義御判御教書」(『大友文書』)*9の宛名「大友式部丞殿」

*同じく『大友文書』*10や『尊卑分脈』(【図1】)によりこれも氏泰に同定されるので、この時までに式部丞(大丞:正六位下、少丞:従六位上 相当)となったことが分かる。

 

以上5点により、足利尊氏の猶子となった大友千代松丸は、源姓を与えられ、建武3(1336)年に元服して「」の偏諱を賜った*11偏諱を受けるということは通常、烏帽子親子関係を意味するものであり、尊氏が烏帽子親(加冠役)を務めたのであろう。

室町幕府創設の前々年ではあるが、尊氏が九州へと落ち延びていた時期であることは前述の通りで、その不利な戦局を打開するための積極的な布石として「将軍家」を自称し、諸国の武士がこれを支持した事実も確認される*12

大友氏も、ゆくゆくは尊氏が将軍になることで「自己の御家人としての身分的特権の保障を期待し」*13擬制的な親子関係を結んだのであろう。尊氏は猶子関係や烏帽子親子関係をも利用して、室町新幕府の支持基盤を固めていったのである。

 

氏泰はその後、実弟氏時(孫三郎)に各所領・所職を全て譲って*14遁世し、貞治元(1362)年11月3日に亡くなったと伝えられる*15

 

脚注

*1:大友氏泰(おおとも うじやす)とは - コトバンク より。

*2:このことは氏時が「友近江孫三郎」と呼ばれていることからも裏付けられよう(→『大日本史料』6-15 P.689 参照。)。その通称名は、父が近江守でその息子・孫三郎を表すものである。

*3:渡辺澄夫『増訂 豊後大友氏の研究』(第一法規出版、1982年)P.9 より。

*4:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元弘三年三~六月 P.31

*5:注3渡辺氏論文、P.8 より。

*6:『大日本史料』6-3 P.230

*7:『大日本史料』6-4 P.233

*8:文保2(1318)年12月12日付「関東下知状」(『大友文書』、『鎌倉遺文』第35巻26888号)の文中に「大友左近大夫将監貞宗」、「貞宗祖父兵庫頭頼泰法師法名道忍」とあって、【図1】とは異なり頼泰が氏泰の父・貞宗の祖父にあたることが分かる。

*9:『大日本史料』6-4 P.903

*10:『大日本史料』6-5 P.626 参照。

*11:古藤田太「大友氏の歴代墳墓を巡る(六)  ―七代氏泰・八代氏時―P.43。

*12:田中大喜「総論 中世前期下野足利氏論」(所収:同編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉戎光祥出版、2013年)P.26。典拠は 家永遵嗣「室町幕府の成立」(所収:『学習院大学文学部研究年報』54輯、2007年)。

*13:前注田中氏論文、同頁。

*14:『大日本史料』6-17 P.44・45

*15:『大日本史料』6-24 P.519~530の各史料、および 注11前掲 古藤田氏論文 P.42 を参照のこと。