Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大友貞宗

大友 貞宗(おおとも さだむね、1290年頃?~1334年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人

 

 

はじめに:大友氏系図についての問題点

貞宗については父親が誰かということについての問題点がある。

大友貞宗(おおともさだむね)とは - コトバンク

こちら▲のページを見ると、多くの事典が大友親時の子とする中、唯一『朝日日本歴史人物事典』(執筆:福川一徳)だけは大友頼泰(親時の父)と戸次時親(頼泰の甥)の娘の4男としている*1

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ところが、まとまった系図集としては成立年代が比較的古いために信憑性が高いとされる『尊卑分脈』や、『豊後旧記』*2では、大友貞親の長男(頼泰―親時―貞親―貞宗となっている。この貞親についても、親時ではなく頼泰の子とする説があり*3、更には同一人物とされる頼泰泰直が別々の兄弟として掲載され、両者に各々親言親時という、同じ「ちかとき」の読み方を持つ息子を載せるなど、現在に生きる我々を非常に混乱させるものである。 

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すなわち、貞宗については

大友頼泰の4男(親時、貞親の弟)

大友親時の子(貞親の弟)

大友貞親の長男

の3通りの説が存在することになる。

 

 

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▲『尊卑分脈』における大友氏系図2本

 

そのため、残された史料からの大友氏の正確な系図の復元作業が求められているが、残存する史料は決して多くなく、かといってそれらを整理するのも大変で、各当主の活動期間や世代(生没年)の把握すら困難であった。

 

しかし、近年こちらの検索機能が充実したことで『鎌倉遺文』の検索も簡単にできるようになった。

東京大学史料編纂所【データベース選択画面】

索引を引いていちいち確認せずとも、各人物の登場する史料や花押が一覧で見られるようになり、大友氏についても、各当主の活動期間が把握できるようになった。ここ最近の新たな史料の発見、収録(『鎌倉遺文』新巻の発行)もあって、当時の詳しい状況が見えつつある。

 

本項では、データベースでの検索結果を基に、大友氏の正確な系図復元に向けての一環として、貞宗の世代(生没年)および官職歴の推定を試みたいと思う。

 

 

大友氏当主・貞宗の代数

【史料1】正和2(1313)年9月16日付「鎮西下知状」(『筑前太宰府神社文書』)*4より

……豊前々司能直貞宗、五代相続知行、御公事勤仕之道道忍時、寛元二年・建長三年令支配閑院内裏修理用途於彼両庄畢信用、……

 

【史料2】文保2(1318)年12月12日付「関東下知状」(『大友文書』)*5より

…中村庄雑掌観円与当庄下方地頭大友左近大夫将監貞宗代上円相論…(略)…貞宗祖父兵庫頭頼泰法師法名道忍……

 

【史料1】には初代・能直から貞宗までが5代であること、【史料2】には貞宗の祖父が頼泰(法名道忍)であったことが記載されており、ひとまず次のように系図の復元が可能である。

能直―親秀―頼泰(道忍)―□―貞宗

 

そして改めて【史料1】を見ると道忍(=頼泰)が寛元2(1244)年と建長3(1251)年の閑院内裏造営(再建)に際し修理の費用を担ったことが書かれているが、寛元2年7月26日*6、宝治3(1249)年の焼亡に伴う建長3年6月27日*7の「閑院遷幸」に向けた事業を指しているものであろう。『百錬抄』では、この「閑院」に「関東よりこれを造進す」と注記されているので、関東の御家人たちがその造営(修理)に際しての雑掌(=請負人)を担ったことが窺えるが、幕府が閑院造営の雑掌を奏することを記した『吾妻鏡』建長2(1250)年3月1日条には、陳座および東屋の建設の請負人を「大友豊前々司跡」 が担当していることが確認できる。大友豊前前司=能直(前掲【史料1】・『尊卑分脈』)の息子・親秀法師寂秀は宝治2(1248)年に既に亡くなっていた*8ので、その跡を継いでいたのが「大友式部大夫頼泰*9であったことは確実である。よって【史料1】の記載に何ら問題はないと判断できる。 

 

従って、貞宗は頼泰の孫であった可能性が高い。よって、父を頼泰とする説は否定されるべきであろう。このことは、官職歴とその任官年齢との関係からも裏付けられると思うが、次節にて検証してみたいと思う。

 

 

貞宗の近江守任官と出家時期について

大友貞宗については、多数の書状類が各所に残されていることが窺える。本節では各史料での貞宗の表記(通称名)に着目しながら、その官職歴をまとめたいと思う。

 

 【史料3】延慶3(1310)年6月5日付「大友貞親譲状」(『肥後志賀文書』)*10の文中に「嫡家大友まこ大郎さたむね(=孫太郎貞宗)」とあり、この書状の発給者「貞親(=実兄の大友貞親)」より所領が譲られる旨が記されている。その通称名からすると、元服してからそれほど経っていないことが窺える。

貞親は翌応長元(1311)年7月に亡くなったとされ、間もなく貞宗家督を継いだものと思われる。

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 ★この間に家督継承、および叙爵か従五位下

 

 【史料4】正和2(1313)年8月21日付「鎮西御教書」(『豊前到津文書』)*11の宛名に「大友左近大夫将監殿」。次に示す数日後の書状との照合によりこれも貞宗に同定される。 

 

 【史料5】正和2年8月27日付「鎮西下知状」*12

「……而大友左近大夫将監貞宗従人勘解由判官頼文横領之上、……」

「…宇佐宮神宮重連代順仏申豊後国石垣庄内末吉・末国……訴申之間、被尋下之処、如貞宗執進頼文去年十一月廿三日請文…」

 

 【史料6】同年9月8日付「鎮西御教書案」(『豊前永弘文書』)*13の宛名に「大友左近大夫将監殿」。

 

*この間、正和(1312-1317)、文保(1317-18)年間には【史料1】【史料2】も含め「大友左近大夫将監」「貞宗」「大友左近大夫将監貞宗」と書かれた書状が数多く残る。 

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▲正和4(1315)年正月17日付「大友貞宗書下」(『高城寺文書』)での貞宗の花押

 

 【史料7】元亨元(1321)年9月12日付「関東御教書案」(『大友文書』)*14の宛名に「大友左近大夫将監殿」。幕府から「大宰少貳貞經(=少弐貞経と共に、九州での警固にあたるよう命じられる。

 

 【史料8】元亨2(1322)年7月27日付「鎮西御教書案」(『肥後志賀文書』)*15の宛名に「大友左近大夫将監殿」。

 

 ★この間に近江守任官か。

 

 【史料9】元亨3(1323)年9月29日付「鎮西下知状」(『大友文書』)*16

「…筑前国怡土庄友永方地頭友近江守貞宗重慶申…」

 

【史料10】「北条貞時十三年忌供養記」(『円覚寺文書』) *17

元亨3年10月27日の北条貞時十三回忌法要において「友近江守」が銭200貫文を寄進。この時「薬醫*18兵庫頭入道道」も「銀劔(銀剣)一 馬一疋置鞍、鹿毛」を寄進しており、祖父・頼泰がまだ存命であったか*19?

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▲正中2(1325)年8月28日付「大友貞宗書下」(『禰寝文書』)での「近江守」の花押=前に掲げた貞宗の花押に一致する。

 

 【史料11】正中2(1325)年10月3日付「雑掌宗弘書下」(『筑後鷹尾家文書』)*20中に「大友江州」。 *江州は近江国の別称。

 

 【史料12】同年10月7日付、27日付「関東下知状」(『島津家伊作文書』)*21中に「友近江守貞宗」。

 

 ★この間に出家か。

 

 【史料13】『改正原田記附録上』*22に「嘉暦弐年二月五日沙弥具簡請文」とあり、この法名貞宗のものであることは下記参照。また、同年の書状での「沙弥*23の花押が前に掲げた近江守貞宗のそれと同じであり(下図参照)、同年で出家を済ませていたことは確実である。前年の嘉暦元(1326)年には出家していたのではないか

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▲同年10月6日付「沙弥具簡大友貞宗書下」(『大悲王院文書』)の発給者「沙弥」の花押=前に掲げた貞宗の花押に一致する。

 

 【史料14】(元徳元年)11月11日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*24に「友近江入道」。

 

 【史料15】元徳元(1329)年12月10日付「鎮西施行状」(『豊前小山田文書』)*25の宛名に「友近江入道殿」。

 

● 【史料16】元徳2(1330)年5月10日付「関東御教書」(『宇佐宮記』所収)*26中に「友近江前司入道具簡」。

 【史料17】正慶元(1332)年10月21日付「関東御教書」(『宇佐宮御造営新古例書』)*27中に「嘉暦四年雖仰友近江入道具簡」。

法名は【史料13】での「沙弥具簡」に同じであり、大友貞宗が近江守を辞して後、嘉暦年間に出家したことが確実である(下図の花押によっても裏付けられる)。出家前の正式な通称名は「友近江前司」であったと推定されるが、以後「近江入道」と呼ばれることが多かった。

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▲「元弘3(1333)年」7月8日「大友具簡貞宗書下」(『班島文書』)での「具簡」の花押=前に掲げた貞宗の花押に一致する。

 

以上より、貞宗の官職歴を簡潔にまとめると次の通りである。 

 ● 延慶3{1310}~正和2{1313}左近大夫将監(叙爵)

 ● 元亨2{1322}~3{1323}近江守(国守)任官

 ● 嘉暦年間(同元{1326}年カ):近江守辞任、および出家法名:具簡)

嘉暦年間の出家は、恐らく元年3月の執権・北条高時の辞職および剃髪に追随したものであろう。法名(ぐかん)」の「具」は、貞宗が招聘して筑前顕孝寺の開山とした京都法観寺の傑僧・闡提正(せんだい しょうぐ)*28の一字を拝領したものとされている*29

 

 

近江守任官年齢からの世代推定

鎌倉御家人の国守任官年齢

細川重男は、鎌倉後期に至り幕府の家格秩序は、王朝官職による序列のみではなく、幕府での役職を基準としていたということを述べられており*30、また前田治は、そうした独自の家格秩序があったとはいえ、叙爵や国守任官の年齢が家格を考える上で重要であることを指摘された*31。 

●(表18)鎌倉時代後期における主要御家人の叙爵・国守任官の年齢*32 

叙爵年齢 国守任官年齢
北条(得宗・赤橋) 10 20
北条(金沢・大仏) 10代後半 30歳前後
足利 10代後半? 20
安達 24?  
長井 18? 30歳前後
宇都宮   30代前後
二階堂 20? 20代後半~30?

 鎌倉時代後期から末期にかけてでさえも上の表に示した通りであり、それ以前は30~40代以上での国守任官が一般的であった。(表18)に掲げたのは寄合衆や評定衆を務めた氏族、もしくはそれに匹敵する高い家格を持った家柄であり、他の氏族が彼らを超えることは考えにくい。すなわち、他の御家人の国守任官年齢は彼らより遅く、30~40代以上であったと推測される。

 

こうした研究成果に基づけば、貞宗の近江守任官当時の年齢も推定可能なのではないかと思われる。ここで参考にしてみたいのが、貞宗と共に九州での警固にあたったことがあり(【史料7】)、 幕府滅亡に際しても貞宗鎮西探題北条英時を攻め滅ぼした*33少弐貞経(しょうに・さだつね)である。

 

少弐貞経筑後守任官年齢 

貞経は父・盛経と同じく筑後守となったといい(『尊卑分脈』・『歴代鎮西要略』*34、国守に任官している。書状の多くでは「大宰少弐」と表記される(貞経自身による発給文書も含む)が、正中3(1326=嘉暦元)年正月23日付「関東御教書」には「筑後守貞経」とあり(『宇住記』)*35、翌嘉暦2年3月13日付「関東御教書」(『豊前宇佐記』)*36と、同3年3月13日付「関東御教書」(『宇佐宮記』)*37に「筑後前司入道妙恵」、同3年5月21日付「関東御教書」(『豊前樋田文書』)*38に「筑後入道妙恵」とあることから、が、嘉暦元年(1月23日以降)~2年の間に辞任、のち出家したことが窺える*39。恐らく貞宗に同じく嘉暦元年3月の北条高時出家に追随したものであろう。 

 

経は建武3(1336)年に自害した時、享年(数え年)64(『佐賀諸家系図』所収「馬場系図」)*40または65(『北肥戦誌』一「多々良浜合戦之事」)*41であったといい、逆算すると文永9(1272)~10(1273)年の生まれと判明する。実名は、弘安7(1284)年から執権職を継いだ北条時が烏帽子親となり偏諱を受けたものであろう。これに従えば、筑後守初見時(1326年)では50代前半だったことになる。

尚、貞宗の嫡男・氏泰の母親(=貞宗正室)は少弐氏の出身であったと伝えられ*42、貞経の娘*43とも、盛綱(盛経の誤記)入道崇恵の娘(=貞経の姉または妹)*44ともいわれる。

 

北条貞時の烏帽子子

宗の近江守任官時期(1322~23年)は、貞経の筑後守初見よりわずか数年前のことであり、同じく時の偏諱を受けた形跡がある*45ことから考えても、世代としてはかなり近かったのではなかろうか。年齢を下げて30~40代での任官だったとしても、1280~90年代の生まれとなり、1301年まで執権であった貞時から一字を拝領するという想定は可能である。次の【図19】のように大友氏一族の人物が北条氏から一字を賜った、或いは元服の際に烏帽子親の得宗から一字を授かった旨を記載する系図が見られ、大友宗も同様に北条時の烏帽子子であったと推定される。

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▲【図19】『続群書類従系図部における大友氏一族の得宗からの一字拝領に関する注記*46 

 

そして前節で示した通り、1310年代初頭で叙爵し「左近大夫将監*47」となったことも判明しているので、この当時は20代であったと考えられる。逆算すれば1280年代後半~90年頃の生まれとなり、前述の内容に一致する。

 

以上の考察により、貞宗は1290年頃の生まれ(1才)、1301年頃の元服(12才)、1311年頃の叙爵(22才)、1322年近江守任官(33才) であったと推定しておきたい。

 

 

北条氏からの養子入り説(誤伝)

ここで別説を一応ながら紹介しておきたい。

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▲【図20】『前田本平氏系図』より北条氏得宗桜田両流の部分*48

 

図は『前田本平氏系図』の北条氏系図の一部であるが、時頼の子・桜田禅師時教(正しくは時厳)の長男・貞宗の注記に「大友左近大夫将監 時宗為子(=時宗子と為す)」と書かれており、随時(ゆきとき、1291年?~1321年) の父とする。

貞宗」を〔ママ(=原文ママ〕とするのは、北条氏の氏寺・満願寺の寺伝『満願寺年代記東京大学史料編纂所所蔵写真帳)にある阿蘇流北条氏の系譜「時定―定宗―随時―治時」*49や『尊卑分脈』での系譜「時定―定宗―随時」との比較・照合によるものであろう*50。「定宗」とは読みは同じではあるが、時宗の養子となっておきながら大友氏を称し、その子・随時が北条氏に戻って鎮西探題になっているというのは意味不明である。前節の内容に従えば時宗の養子になるとは考えられず、実際の書状で見ると随時は「大友左近大夫将監貞宗」活動初期の鎮西探題でもあって、親子関係は認め難い。前述の随時の生年が正しければ、前節での結論を踏まえると貞宗とほぼ同世代となり、尚更である。

 

 

貞宗の息子たち 

中巌円月(ちゅうがんえんげつ)の詩集『東海一漚集(とうかいいちおうしゅう)*51によると、貞宗は元弘3(1333)年12月3日に京都で亡くなったという*52。 

 

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 冒頭の『尊卑分脈』にある通り、貞宗の嫡男として跡を継いだのは大友氏泰(うじやす)であったが、その次代・氏時(うじとき)貞宗の子(氏泰の実弟であったとされ、系図等ではその他にも多くの息子がいたことが確認できる。

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▲【図21】系図類に見られる貞宗の息子たち*53

 

元服後の通称名について、氏泰は父・貞宗と同じ「孫太郎」、氏時が「孫三郎(近江孫三郎とも)」とそれぞれ称していたことが確認され*54、恐らく間の氏宗も「孫次郎」と名乗っていたのであろう。ここで次の史料に着目したい。

 

【史料22】正慶2(1333)年3月13日付「沙弥具簡(大友貞宗)譲状」(『大友文書』)*55

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貞宗(具簡)の譲状である。鎮西探題攻めを前にして、幼少の息子・千代松丸を家嫡(家督継承者)に指名し、豊後守護職以下すべての所職を譲るとしている。

その理由としては、その兄である貞順・貞載を戦場に同行させ、万一自分たちが敗死してもその後、幕府から咎められて取り潰される可能性は低いとみたためであることが窺えるが、その通称名に着目すると、各々先に生まれ元服を済ませて「次郎」、「三郎」と名乗っていたことが分かる。

これまでの大友氏家督継承者は「太郎」を称することを慣例としており、貞宗や、その嫡男・千代松丸改め氏泰が長男でないにもかかわらず「孫太郎」と名乗ったのもこのためである。従って次郎貞順・三郎貞載は元服の段階から既に嫡子から外されていたことが分かる。嫡男であれば得宗北条高時偏諱」を受ける可能性もあったと思われる*56が、この2名は父から「貞」字を継いでおり、宗匡(むねただ)・即宗(そくそう)も「宗」字を引き継いでいるので同様に庶子であったとみられる。恐らく母親の身分の違いにあったのだろう。

正室・少弐氏(貞経娘)が生んだ弟の千代松丸(氏泰)を家嫡としたこの裁定に対し、その庶兄たちの対応は異なっており、庶長子・貞順は度々惣領家に背いて最終的には自害に追い込まれたのに対し、貞載・宗匡(立花宗匡、貞載後嗣)は立花家を興して分家し、惣領を継いだ氏泰の補佐にあたっている。

 

 

脚注

*1:古藤田太「大友氏歴代墳墓を巡る(五) ―六代大友貞宗―P.15 によれば、松野家家伝・常楽寺蔵本「大友系図」に「母戸次太郎時親女 実は大友兵庫頭平頼泰第四子也」と記載されるというが、古藤田はこれを「異様なことが述べられている」と評価する。

*2:『大日本史料』6-1 P.317

*3:『日本人名大辞典』(→大友貞親(おおとも さだちか)とは - コトバンク 参照)。

*4:『鎌倉遺文』第32巻24999号。

*5:『鎌倉遺文』第35巻26888号。

*6:『平戸記』7月26日条・『百錬抄』同日条『吾妻鏡』8月8日条・『平戸記』8月25日条

*7:『吾妻鏡』6月21日条・『百錬抄』6月27日条『吾妻鏡』7月4日条「大日本史料 第五編之三十五」(『東京大学史料編纂所報』第49号、2013年、P.34~35)も参照のこと。

*8:『吾妻鏡』宝治2年10月24日条

*9:吾妻鏡寛元2(1244)年12月20日条建長4(1252)年4月3日条 より。建長4年12月26日付「関東下知状案」(『豊後詫磨文書』、『鎌倉遺文』第10巻7507号)などでは「大友式部大夫泰直」となっているが、同8(1256)年8月11日付 「関東下知状案」(『筑後大友文書』、『鎌倉遺文』第11巻8020号)からは「頼泰」の名が現れるようになり、文永2(1265)年12月26日付「関東御教書案」(書陵部所蔵『八幡宮関係文書』29、『鎌倉遺文』第13巻9474号)にも「大友式部大夫頼泰」と見えるので、【図19】に示す通り、頼泰の初名で同一人物である。

*10:『鎌倉遺文』第31巻24011号。

*11:『鎌倉遺文』第32巻24955号。

*12:『鎌倉遺文』第32巻24959号(『豊前宮成家文書』)、24960号(『豊前永弘文書』)。

*13:『鎌倉遺文』第32巻24990号。

*14:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元亨元年8~10月、P.46

*15:『鎌倉遺文』第36巻28115号-2。

*16:『鎌倉遺文』第37巻28539号。

*17:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号。

*18:「薬醫」(やくい=薬医)とは「典薬(寮)」の唐名(→藥醫(やくい)とは - 藥醫の読み方 Weblio辞書 より)。

*19:【史料2】より頼泰に比定し得るが、「大友家過去帳」および各系図類では正安2(1300)年死去とする。また、仮にその没年齢から算出される生誕年に従えばこの当時100歳を超える長寿となり、果たして本当に頼泰が生きていたかどうかについては改めて検討が必要であろう。偶然官職と法名が一致した別人だとしても、該当する人物は今のところ確認できない。

*20:『鎌倉遺文』第38巻29216号。

*21:『鎌倉遺文』第38巻29218号、29237号。

*22:『鎌倉遺文』第38巻29743号。

*23:剃髪して僧形にありながら、妻帯して世俗の生活をしている者の意。沙弥(しゃみ)とは - コトバンク 参照。

*24:『鎌倉遺文』第39巻30775号。北条貞規 - Henkipedia【史料C】を参照のこと。

*25:『鎌倉遺文』第39巻30803号。

*26:『鎌倉遺文』第40巻31036号。

*27:『鎌倉遺文』第41巻31871号。

*28:詳しくは 闡提正具(せんだい しょうぐ)とは - コトバンク を参照。

*29:注1前掲 古藤田氏論文、P.16。

*30:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)。

*31:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第9巻〉、戎光祥出版、2013年)P.181。

*32:前注前田氏論文、P.216~224の表 より作成。

*33:『大日本史料』6-1 P.7~33 の各史料参照。

*34:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元亨2年4~6月、P.2

*35:『鎌倉遺文』第38巻29334号。

*36:『鎌倉遺文』第38巻29775号。

*37:『鎌倉遺文』第39巻30187号-2。

*38:『鎌倉遺文』第39巻30264号。

*39:尊卑分脈』での貞経の注記に「筑後守 小卿 同鎮西守護 法名妙恵」とあるほか、『梅松論』上33に「太宰少弐筑後入道妙恵」、『諸家系図纂』所収「武藤系図貞経の注記に「太宰少貳入道法名妙恵」(→『史料稿本』後醍醐天皇紀・元亨元年8~10月、P.47)、『島津国史』五・道鑑公の項に「二十五日、公(=島津貞久道道鑑)少貳妙恵 筑後守貞経法名、共攻探題北条英時於博多館、英時自殺、」(→『大日本史料』6-1 P.23)とある。

*40:『大日本史料』6-3 P.127~128

*41:『大日本史料』6-3 P.126

*42:『公方様当家条々要目』(『大日本史料』6-24 P.521)に「氏泰公御袋(おふくろ)者、少貳殿御息女也、」とある。

*43:大友氏泰 紹介ページ

*44:『諸家系図纂』所収「大友氏系図」(→ 『史料稿本』後醍醐天皇紀・元弘三年三~六月 P.32)、『続群書類従』所収「大友系図」より。「盛綱」は『尊卑分脈』で「法名崇恵」と注記される盛経の誤記と判断できる。

*45:注1前掲 古藤田氏論文、P.14。

*46:貫達人円覚寺領について」(所収:『東洋大学紀要』第11集、1957年)P.21 に掲載の図を基に作成。

*47:左近衛将監(従六位上相当)で叙爵した(=五位に叙せられた)者。左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク より。

*48:注30前掲細川氏著書、P.365~367 より。

*49:注30前掲細川氏著書、P.40。

*50:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その17-阿蘇随時 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。

*51:研究室:五山文学研究室: 語録解題及び著者略伝:東海一漚集、他 (IRIZ) 参照。

*52:『大日本史料』6-1 P.313P.315

*53:渡辺澄夫『増訂 豊後大友氏の研究』(第一法規出版、1982年)P.9 より。

*54:詳しくは 大友氏泰 - Henkipedia を参照。

*55:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元弘三年三~六月 P.31

*56:【図19】で示した通り、大友氏庶流の戸次氏では貞直の当初の嫡男・高貞が高時の加冠により元服している。