Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大友貞親

大友 貞親(おおとも さだちか、1273年頃?~1311年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人大友親時の嫡男。仮名は太郎か。官途は左近大夫将監、出羽守。

 

 

はじめに:大友氏系図についての問題点 

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貞親の父親について、系図類ではほとんどが親時としている。古い年代の成立ゆえ系図集としては比較的信憑性が高いとされる『尊卑分脈』では次の通りである。

 

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▲『尊卑分脈』での大友氏系図2本

 

ところが、これは誤りで実は大友頼泰の子で親時の弟とする説もある。理由としては親時との年齢差ではないかと思われる。すなわち、松野家家伝・常楽寺蔵本「大友系図」によると、親時は嘉禎2(1236)年、貞親は寛元4(1246)年または宝治2(1248)年の生まれとあり*1、その年齢差が僅か10年であることから親子関係としては認め難いといったものであろう。兄・親時亡き後の家督実弟・貞親が養嗣子として継承したために、系図類ではそのまま親子関係として書かれてしまった、という見解であると思われる。

 

(参考ページ)

 大友親時(おおとも ちかとき)とは - コトバンク

 大友貞親(おおとも さだちか)とは - コトバンク

 

そして、これに加えて、上の『尊卑分脈』では親子の線で繋がれている貞親大友貞宗が実は兄弟であったとされ、この2人の父親が親時なのか頼泰なのかという問題がある(次の記事も参照のこと)。 

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すなわち、以上を総合すると、貞親については 

大友頼泰の子(親時の弟、貞宗の兄)

大友親時の子、貞宗の兄 

大友親時の子、貞宗の父

の3通りの説が存在することになる。

 

そのため、残された史料からの大友氏の正確な系図の復元作業が求められているが、残存する史料は決して多くなく、かといってそれらを整理するのも大変で、各当主の活動期間や世代(生没年)の把握すら困難であった。

 

しかし、近年こちらの検索機能が充実したことで『鎌倉遺文』の検索も簡単にできるようになった。

東京大学史料編纂所【データベース選択画面】

索引を引いていちいち確認せずとも、各人物の登場する史料や花押が一覧で見られるようになり、大友氏についても、各当主の活動期間が把握できるようになった。ここ最近の新たな史料の発見、収録(『鎌倉遺文』新巻の発行)もあって、当時の詳しい状況が見えつつある。

 

本項では、データベースでの検索結果を基に、大友氏の正確な系図復元に向けての一環として、前掲記事にて紹介した貞宗に関する考察の結果も踏まえながら、その先代・貞親の世代(生没年)および官職歴の推定を試みたいと思う。

 

 

大友貞親に関する史料(書状類 etc.)の紹介

【史料1】弘安8(1285)年9月晦日付「豊後国図田帳」(内閣文庫所蔵)*2中に

「志賀太郎泰朝 阿法 嫡子蔵人太郎貞朝、貞親烏帽子継云、」、 

同内容を記す、同年9月日付「豊後国大田文案」(平林本)*3

「…(同上)…大郎貞朝、貞親烏帽子云云、」

 

大友貞親の初見史料である。2つの照合により「継云」の部分は「云云(=云々)」と捉え得る。親と「志賀太郎朝」が「貞」字を共有していることからすると、「烏帽子云々」は「烏帽子云々」の脱字ではないかと思われるので、親が志賀朝の烏帽子親となって「」の偏諱を与えたと考えられる*4

そしてこの字は前年に執権職を継いだばかりの得宗・北条時の偏諱でもあって、その使用を許されているから、親自身は時の烏帽子子だったのではないかと推測される。

すると、北条時→大友親→志賀朝と「貞」の字が下げ渡されたということになるが、得宗が時頼・時宗の代に行っていた一字付与はまさに将軍九条頼経宗尊親王からの1字の下げ渡し行為であったから、特に問題視されるようなことでもなかったようである。

 

 【史料2】「大友家過去帳 (『志賀文書』)*5:永仁3(1295)年9月23日、父・親時が死去

 前因州太守道徳大禅定門 永仁三年九月廿三日逝

 従五位上因幡守兼行*6左近将監親時

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 【史料3】永仁7(1299=正安元)年4月10日付「鎮西引付衆結番注文」(『旧典類聚』十三)*7鎮西探題・金沢流北条実政の下で引付頭人の三番筆頭に「大友左近蔵人」。

左近蔵人」とは左近衛府の官人で、蔵人を兼任した者の呼称*8であり、「蔵人」は 六位蔵人 または 五位蔵人 のいずれかであるから、左近衛将監(=左近将監、従六位上相当)*9以上であったことになる*10。この左近蔵人は貞親に比定されよう*11。その根拠として、奥書から嘉元2(1304)年の成立とされる野津本「大友系図」での貞親の注記に「大友蔵人 新蔵人 左近大夫」と書かれており*12、ここに書かれているのは嘉元2年当時の左近大夫将監(後述【史料7】参照)までの官職で、最初は蔵人であったことを示している。

 

 

【史料4】正安2(1300)年3月25日付「豊後守護大友貞親書下」(『肥後志賀文書』)*13の発給者「散位」の花押が、次に示す同年書状での貞親のそれに一致し、貞親に同定される。よってこの文書が貞親による初出の書状ということになる。

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【史料5】(正安2年?)7月29日付「大友貞親安堵状案」(『肥前高城寺文書』)*14、および、

【史料6】正安2年8月13日「大友貞親請文」(『筑後鷹尾神社文書』)*15 2通の発給者「散位貞親」(花押あり)。

*「散位」とは位階をもちながら官職についていない者の呼び方*16。この頃は蔵人を辞していたのであろう。

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▲「散位貞親」の文字と花押

 

 ★この間に左近衛将監従六位上相当)となって叙爵か従五位下*17 

 

【史料7】嘉元2(1304)年3月25日付「鎮西御教書」(『豊後生桑寺文書』)*18の宛名「大友左近大夫将監殿」は、次に示す翌年の書状との照合により貞親に同定される。

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▲同年12月19日付「豊後守護大友貞親書下」(『肥後志賀文書』)*19での花押

 

【史料8】嘉元3(1305)年8月2日付「鎮西下知状」(『大友文書』)*20

筑前国怡土庄友永方地頭大友左近大夫将監貞親代寂念申、当庄名主等、抑留年貢、対捍公事由事、

右、如寂念訴状者、友永方者、為蒙古合戦勲功賞、大友兵庫入道 貞親祖父 拝領畢、……

(中略)

……爰如貞親代寂念所進弘安九年十月廿八日御下文者、将軍家政所下、可令早大友兵庫頭頼泰法師 法名道忍 領知筑前国怡土庄志摩方三百町惣地頭職事………(以下略)

 

 嘉元三年八月二日

   上総介平政顕*(花押)  *鎮西探題・金沢流北条政顕。上記の北条実政の子。

*この文書により「頼泰―□―貞親」という系譜が分かる。  

 

嘉元3年、家臣の吉弘美濃守に命じて博多承天(じょうてん)寺の直翁智侃(じきおうちかん、足利泰氏の子?)を九州に赴かせ(『東福第十世勅賜仏印禅師直翁和尚塔銘』)、翌徳治元(1306)年これを開山として館の南東に豊後国万寿寺を開基する(『延宝伝灯録』10)*21

 

 ★この間に出羽守任官か。

 

【史料9】徳治3(1308=延慶元)年4月5日付「関東御教書案」(『大友文書』)*22の宛名に「大友出羽守殿」。

 

【史料10】延慶2(1309)年2月26日付「鎮西探題御教書写」(『肥前島原松平文庫文書』)*23の宛名に「大友出羽守殿」。

 

【史料11】延慶3(1310)年6月5日付「大友貞親譲状」(『肥後志賀文書』)*24の発給者「貞親」(花押あり)。文中に「嫡家大友まこ大郎さたむね(=孫太郎貞宗」とあり、所領が譲られたようだ。但し「嫡子」ではなく「嫡家」と呼んでいるので、同じく頼泰の孫である貞宗を養嗣子としていたことが窺えよう*25貞宗は貞親の実弟と考えられるが、その元服に際して「孫太郎」と名付けられているから、早い段階から貞親の後継者に指名されていたのだろう。恐らく貞親の通称は「太郎」で区別がなされたものと思われる。

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【史料12】「大友家過去帳 (『志賀文書』)*26応長元(1311)年7月29日死去。

 万寿寺殿玉山正温大禅定門 応長元年七月廿九日逝

 従五位上出羽守兼行左近将監貞親

 

この他、松野家家伝・常楽寺蔵本「大友系図」では「応長元年病を得て、子無きにより弟貞宗に国家を譲る。同年七月十九日逝去年六十四才、万寿殿と称す、従四位上行親衛校尉兼羽州刺史玉山正温公大禅定門」とあり*27、『諸家系図纂』での注記にも「太郎 従四位下 新蔵人 左近将監 出羽守…(略)…應長元辛亥年七月十九日逝去*28、『寛政重脩諸家譜』所収「立花氏系図」上でも「応長元年七月十九日卒す。」*29と書かれるなど、日にちの違いを除くほぼ同じ内容は系図類でも採用されている。

但し、冒頭で記した通り、この時の享年を64とするのは誤伝であろう。

 

******************

正和2(1313)年8月21日付「鎮西御教書」(『豊前到津文書』)の宛名「大友左近大夫将監殿」について、『鎌倉遺文』*30では貞親に比定しているが、出羽守となった人間がかつての官職に戻るわけがなく、同月27日付「鎮西下知状」(『豊前宮成家文書』)*31中に「大友左近大夫将監貞宗」とあるによっても、貞宗とするのが正しい。従って、この段階で貞宗家督が継承されていることは確実であり、【史料11】を介在させれば、貞親の応長元年死去説はかなり信憑性が高いと判断できよう。 

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貞親の "弘安の役" 参戦説について

前節では【史料1】を初見の史料としたが、先行研究では異なる。実はその4年前、弘安4(1281)年の元寇弘安の役において、元(中国王朝)・高麗の軍船が志賀・鷹・能古等の島に襲来した際に防戦した日本側の武将の一人が大友貞親であったというのである*32。その典拠として、『八幡愚童訓』の文中に「大友(が)嫡子蔵人三十余騎ニテスサキ(洲崎)(を)ツタヒテ(伝ひて)責寄タヽカヒテ(戦ひて)首一取ケリ」とある*33のを掲げる*34が、江戸時代に編纂された『大日本史』にも次のように書かれている。 

【史料13】『大日本史』より 

大日本史 卷之二百卌三 列傳第一百七十 諸蕃十二

中納言 從三位 源 光圀  修

男  權中納言 從三位 綱條 校

玄孫*35 權中納言 從三位 治保 重

 

 後宇多帝建治元年四月,先是,蒙古改國號元,至此使禮部侍郎杜世忠、兵部侍郎何文著、計議官撒都魯丁,持國書來求通好。【關東評定傳。杜世忠等官據元史。○考元史,改國號元,實龜山帝文永八年。然水路遼邈,未知其事。至是因使人者來,始聞之也。故前此概書蒙古,此後書元。】八月,押送杜世忠、何文著、撤都魯丁等五人於鎌倉。九月,鎌倉執權相模守北條時宗收斬之。【關東評定傳、保曆間記。】弘安二年,元將夏貴、范文虎等遣周福、樂忠、僧靈果、通事陳光,持書至太宰府,復說以通和也。斬之于博多。【關東評定傳。參取保曆間記。】是歲、元滅宋。【宋史、元史。】四年五月,元以。高麗為前導,兵十數萬、船數千艘,蔽海而來,直指壹岐島,至太宰府,陣於能古、志賀二島。高麗船從對馬至宗像海,與元船合。關東軍及九國二島兵,悉會太宰府,築塢海岸,延袤數百町,高丈餘、可俯射賊船,列炬守之。賊不敢近岸,尚在志賀島。草野七郎夜襲,燒船一艘,殺二十許人。由是,賊連鎖巨舟,設弩外向,守備甚嚴。軍士進攻,舟皆脆小、多為磯石所摧破,死傷甚眾。【八幡愚童訓。五月據歷代皇紀、皇年代略記。】河野通有駕輕舟而前。弓弩亂發,部下多死。通有亦傷左肩,而勇氣愈厲。賊船高大不可登,便緣舟檣,一躍而上,虜玉冠一將而歸。【八幡愚童訓、豫章記。】既而大友貞親、【○貞親名據大友系圖。】秋田城二郎等及九國兵士殊死戰,賊氣稍沮,轉至鷹島,會海中青龍見,硫黃氣四塞。其巨帥單艇先遁。【八幡愚童訓。】七月晦夜,西北風大作,海水簸蕩,舟船破壞,漂溺無算。【八幡愚童訓、關東評定傳。】屍隨潮汐入浦,浦為之塞,可踐而行。【東國通鑑。】敗卒數千,尚在鷹島,繕修壞船,將逃歸。少貳景資及鎮西兵士,乘勢掩擊,沙獲粗盡。請降者千餘,悉斬之。初賊載什器及耕具至,以為入住之計,至此大敗。【八幡愚童訓。】後聞元兵十萬,得生還者三人。高麗兵一萬,死者七千餘人云。【元史、東國通鑑。】忽必烈殂,號世祖。子真金早死,孫鐵穆耳立。【元史。】

http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/dainihonsi/dns243.htm より拝借)

 

この『大日本史』は当時の史料を収集して参照しながら編纂されており、元寇に関する記述も『八幡愚童訓』(『八幡大菩薩愚童訓』などとも言う)などに拠っていることが窺えるが、「貞親」の名は大友系図に據(よ=拠)ったと書かれている。この「大友系図」がどの系図を指すのかは不明だが、『大日本史』編纂に連動して集成された『諸家系図纂』*36では、貞親の注記に「太郎 従四位下 新蔵人 左近将監 出羽守…(略)…弘安四辛巳年蒙古人襲来時司軍令且抽功 應長元辛亥年七月十九日逝去」と書かれており*37(「抽」は抽(ぬき)んでる=「抜きん出る」の意)、江戸時代当時の見解としては「大友ガ嫡子蔵人」=貞親 であったことが分かる。『尊卑分脈(冒頭の図参照)で「蔵(=蔵人)」「左近将監」と注記されることから貞親と判断した可能性もあり得よう。

 

しかし、次の史料によって「大友蔵人」「大友左近蔵人」が貞親でない可能性が裏付けられるように思われる。 

【史料14】(弘安6(1283)年) 3月8日付「北条兼時書状」(『豊後日名子文書』)*38

大友左近蔵人泰廣、去々年合戦之時、抽忠之由、為訴訟、可令参上之旨、雖歎申候、 今一両月者、故更異国警固事、不可有緩怠候之間、先以使者、可申子細之由、令口入候也、内々為御心得、令申候、恐々謹言、

 三月八日 修理亮(花押)

平左衛門尉殿

 

大友左近蔵人泰広去々年合戦の時、忠を抽んずる由の事、訴訟の為参上せしむべきの旨、歎き申し候と雖も、今一両月は、故更異国警固の事、緩怠有るべからず候の間、先ず使者を以て、子細を申すべきの由、口入れしめ候なり。内々御心得として、申せしめ候。恐々謹言。 
  三月八日   修理亮(=北条兼時*39)(花押)

平左衛門尉(=内管領・平頼綱)殿

この書状によりこの頃「大友左近蔵人」と呼ばれた人物が大友泰広(田原泰広)であること、この泰広が去々年(=弘安4年)の合戦時に参戦し、その忠節が抽(ぬき)んでていたことが分かる。尚、この泰広は大友能直の12男で、田原氏の祖となった人物である。

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従って、江戸時代での研究成果【史料13】においては、泰広に比定すべき「大友蔵人」を貞親としてしまい、その誤りのまま、その後の研究でも採用されてしまっていたのであった。

以上の考察により、弘安の役」を貞親の活動の初見とするのは誤りと判断できよう。もし【史料13】ほか貞親参戦説が正しい場合、貞時の得宗・執権継承(1284年)より前に元服して「貞」の偏諱を受けていたことになるが、当時の執権・時宗から一字を拝領しない理由が不明であり、現実的な想定に思えない。よって、この頃の貞親は元服前の少年であったと判断される。

 

 

まとめ:年表 

1270年代前半の生まれか。

1284~85年:新執権・北条時の加冠により元服偏諱を受けてを称す。

1295年、父・親時の死去により家督を継承か。

1300年代初頭に叙爵(左近大夫将監)。

 1306年、博多承天寺の直翁智侃を開山として豊後国万寿寺を開基。

1308年までに出羽守任官。

1310年6月5日、実弟で養嗣子の大友貞宗に所領を譲渡。のち出家か法名:正温)

 1311年7月、逝去。

 

脚注

*1:古藤田太「大友氏の歴代墳墓を巡る (四)」P.14・16。但し、同論文P.17には貞親の「貞」が北条貞時からの一字であることに言及しながらも、応長元(1311)年7月19日に64才で没したことが紹介されており、逆算すると1248年生まれである。

*2:『鎌倉遺文』第20巻15701号。渡辺澄夫「二豊の荘園について(一) ―豊後国図田帳を中心として―P.60。

*3:『鎌倉遺文』第20巻15700号。

*4:志賀氏は大友能直の8男・能郷を祖とし、その子・泰朝は従兄で惣領の大友頼泰(初め泰直)から偏諱を受けたのではないかと思われる。よって、泰朝の子貞朝についてもこの慣例を引き継ぐという意味合いで「継」の文字が出てきた可能性が考えられる。

*5:『編年史料』伏見天皇紀・永仁三年九~十一月 P.15 より。

*6:「行(こう)」とは、位階が官職の本来の官位よりも高い場合に付すもの。この場合、因幡守が従五位下相当であるため、"行"を付記しているのであろう。詳しくは、行 - ウィクショナリー日本語版#接頭辞 も参照のこと。

*7:『鎌倉遺文』第26巻20028号。同前20027号(『薩藩旧記前編』七)も同内容。

*8:左近蔵人(サコンノクロウド)とは - コトバンク より。

*9:左近衛将監(サコンエノショウゲン)とは - コトバンク より。

*10:左近衛府四等官(最下位、主典(さかん))である左近衛将曹は従七位下相当である(→ 左近衛将曹(サコンエノショウソウ)とは - コトバンク より)。

*11:注1前掲 古藤田氏論文 P.17。評定衆 も参照のこと。

*12:田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』(所収:『国立歴史民俗博物館 研究報告』5、1985年)P.46。

*13:『鎌倉遺文』第27巻20411号。

*14:『鎌倉遺文』第27巻20540号。

*15:『鎌倉遺文』第27巻20575号。

*16:散位(さんい)とは - コトバンク より。

*17:左近大夫将監については 左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク を参照のこと。

*18:『鎌倉遺文』第28巻21774号。

*19:『鎌倉遺文』第29巻22064号。

*20:『鎌倉遺文』第29巻22294号。『史料綜覧』嘉元三年八月 P.5

*21:注1前掲 古藤田氏論文 P.16、海正寺(車僧影堂)万寿寺(まんじゅじ)とは - コトバンク[mixi]最終回・飯牟礼山縁起 - 猪群山ストーンサークルを語る会 | mixiコミュニティ万寿寺 (大分市) - Wikipedia大友貞親 - Wikipedia を参照。

*22:『鎌倉遺文』第30巻23222号。

*23:『鎌倉遺文』第46巻51879号。

*24:『鎌倉遺文』第31巻24011号。

*25:貞親・貞宗の父である親時が永仁3(1295)年に亡くなった(【史料2】)時、当時貞宗は幼少であったとみられる。従って、以後親代わりとして面倒をみたのは、当主である長兄の貞親であったと考えられる。

*26:【史料2】と同史料。注1前掲 古藤田氏論文 P.16 より。

*27:注1前掲 古藤田氏論文 P.17 より。

*28:『編年史料』後宇多天皇紀・弘安4年6月 P.17『諸家系図纂』「大友系図二編」

*29:寛政重脩諸家譜. 第1輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*30:『鎌倉遺文』第32巻24955号。

*31:『鎌倉遺文』第32巻24959号。

*32:『編年史料』後宇多天皇紀・弘安4年6月 P.8

*33:『編年史料』同前注 P.10

*34:複数伝わる『八幡愚童訓』の写本のうち、室町時代中期に成立し、旧筥崎八幡宮座主坊に伝来した筑紫本では、「大友カ嫡子刀禰(とね)ノ蔵人ハ三十騎計(ばかり)ニテ、洲崎ヲ伝テ責寄セ闘テ首一取テ帰ケル、」と書かれている(→ 八幡大菩薩愚童訓筑紫本 - ハムスターの日本史研究所 より)。「刀禰」とは本来、律令制下において公事(くじ)に関与する、主典(さかん)以上の官人の称であるが、古代~中世においては官人・在地有力者の称としても使われる(→ 刀禰(とね)とは - コトバンク 参照)。

*35:水戸藩主の系譜としては「光圀=綱條=宗堯―宗翰―治保」のため徳川光圀(みつくに)の玄孫として徳川治保(はるもり)の名前が書かれているが、実際は徳川綱條(つなえだ、光圀の甥で養嗣子)の孫娘の夫として徳川宗堯(むねたか)が養子入りしているため、血縁上は綱條の玄孫が治保である。

*36:《諸家系図纂》(しょかけいずさん)とは - コトバンク を参照。

*37:注28に同じ。

*38:『鎌倉遺文』第20巻14032号。年代記弘安6年 も参照。

*39:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その15-北条兼時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。