Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

三浦光村

三浦 光村(みうら みつむら、1205年~1247年)は、鎌倉時代中期の御家人

 

人物・生涯・経歴については

三浦光村 - Wikipedia 

および

新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その114-三浦光村 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ、以下「職員表」と略す)

をご参照いただきたい。

 

本項では、鈴木かほるの先行研究で指摘された北条光時(名越光時)と光村の烏帽子親子関係*1について、再考察を試みたいと思う。

 

三浦氏では、三浦為継(為次)の子・継(義次)が 源家から偏諱の「義」字を賜ったらしく*2、以来「」が通字として、嫡流明―澄―村)をはじめ、和田盛、佐原連などの一族出身者にまで広く用いられていた。

f:id:historyjapan_henki961:20190506010802p:plain

▲三浦氏略系図武家家伝_三浦氏に掲載の「三浦氏系図_バージョン1」を基に作成)

 

しかし、系図類によれば、三浦義村の子は、朝村・泰村・光村 など、ほぼ全員が「村」字を継承したことが確認される。「佐野本三浦系図」を見ると、次兄・の注記に「元服之時北条泰時加冠、授諱字」と書かれており*3、1文字目の「」が加冠役(烏帽子親)を務めた時からの偏諱であったことが窺える。長兄・朝村の「朝」も源氏将軍(初代・源頼朝*4)から賜ったものとみられるので、光村の「光」も烏帽子親からの一字拝領と考えて良いだろう

 

『関東評定衆伝』宝治元(1247)年条によると、宝治合戦で滅んだ時の享年は43であったとされる*5。逆算すると1205年生まれとなる(職員表)。 

吾妻鏡』を見ると、建保6(1218)年9月14日条に「三浦左衛門尉義村子息 駒若丸光村是也(駒若丸、(のちの)光村はこれである)と初出し、次いで承久元(1219)年1月27日条にも「義村息男駒若丸」と現れるが、同2(1220)年12月1日条では父・駿河守)義村や兄・泰村と共に「光村」の名で書かれ、以降「(三浦)駿河三郎光村」等の記載で通されるようになっている*6。すなわち、光村が承久年間初頭に元服を行ったことは間違いなかろう。 

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事で、三浦氏において、元服して幼名から諱(実名)に改める年齢は13歳程度であったと推定したが、光村のそれは15, 6歳だったことになりやや遅れての元服だったことが窺える*7

 

 

一方、名越光時の生没年は明らかになっていない*8。しかし、『吾妻鏡』では安貞2(1228)年6月26日条に「越後太郎」と初出する*9ので、この段階で元服済みであったことが分かる。父・朝時が建久5(1194)年生まれ、建永元(1206)年13歳での元服であった*10ことから、現実的な親子の年齢差も考慮すれば、光時の生年は1214~1216年頃と推定できよう。

すると、1219年頃に光村が幼少の光時から「光」字を受ける(時→村)ことは不可能である。鈴木氏は単に "烏帽子親子関係にあった" ことを述べただけで、どちらが烏帽子親で、または烏帽子子だったのかについては特に明示していない。よって、三浦村が次兄・泰村と同様に北条氏から1字を受けたのではなく、逆に名越時の加冠を務め、村→時と「光」の偏諱が与えられた可能性を考えるべきであろう*11

 

では、三浦光村の烏帽子親=「光」字を与えた人物は誰だったのであろうか? 現存する史料ではそれを確かめられるものはないが、恐らく元服当時、北条氏の外戚となって勢力を伸ばしていた伊賀氏ではないかと推測される。

比企能員の変(1203年)により、北条義時正室名越朝時北条重時らの母)であった姫の前(能員の兄弟・比企朝宗の娘)が離別させられ、その後は伊賀朝光の娘(伊賀の方)が継室に迎えられていた。建保元(1213)年に父の三浦義村が加冠役を務めた北条政村はこの伊賀の方が最初に産んだ子であり、元仁元(1224)年の義時の死後、伊賀の方の娘婿である一条実雅を将軍、政村を執権に立てようとした際も、伊賀光宗(伊賀の方の兄)は義村を頼りにしたという*12伊賀氏の変)。

このような史実も踏まえると、共に北条氏の外戚であった三浦・伊賀両家の間に、(烏帽子親子関係を含めた)様々な交流がなされていてもおかしくはないだろう。すなわち、伊賀*13が義村の3男・駒若丸の烏帽子親を務め、「」の偏諱を与えて「」と名乗らせたのではないかと思われる。決定的な史料的根拠に欠けるが、これを1つの推論として掲げておきたい。

義村の息子は、長男(当初の嫡子)朝村が将軍、次男(当初の準嫡子)泰村が執権家の北条氏、それ以外の庶子は他の一般御家人を烏帽子親とすることで、嫡庶の差を付けていたのかもしれない*14

 

 脚注

*1:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.231。

*2:前注鈴木氏著書、P.40。典拠は文化9(1812)年刊『三浦古尋録』所載の「三浦家系図」。

*3:『大日本史料』5-22 P.134

*4:吾妻鏡』での初見は承久元(1219)年1月27日条「三浦小大〔太〕郎朝村」(→ 吉川本『吾妻鏡』中巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。また、元仁元(1224)年正月1日条には垸飯に参加した三浦氏一族の中に「三浦三郎光村 同又太郎氏村」が登場し、息子の氏村が前年までに元服を済ませていたことが分かる。「氏」は北条時氏(泰時の長男)か、その烏帽子親と推測される足利義氏(→ 今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.42。)からの偏諱であろう。よって氏村は叔父である泰村や光村より若干年少でほぼ同世代であったと考えられよう。従って、氏村の父である朝村は、源千幡源実朝が3代将軍に就任し「実朝」と名乗った建仁3(1203)年の段階では元服適齢期を超えており、源頼朝の将軍在任期間(1192~1199年)に元服したと考えるのが妥当ではないかと思われる。朝村と泰村以下の弟たちは年齢の離れた兄弟だったのであろう。

*5:『大日本史料』5-22 P.98 および 職員表 による。

*6:吾妻鏡人名索引』P.133~134「光村 三浦」の項 より。

*7:この年齢自体は十分元服の適齢期である。例えば、他の例として足利尊氏(初名:高氏)が15歳での元服であったと伝えられる(→ 足利尊氏 - Henkipedia 参照)。

*8:名越光時(なごえみつとき)とは - コトバンク。尚、『系図纂要』には正安2(1300)年6月13日没とみえるが、永井晋はこれについては要検討としている。

*9:実名の初見は『吾妻鏡』寛喜2(1230)年正月4日条「越後太郎光時」。通称は「越後守」の「太郎(長男)」を表すので、安貞2年の「越後太郎」も当時越前守であった名越朝時(『吾妻鏡人名索引』P.363)の子・光時に同定できる。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その18-名越朝時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*11:細川重男北条義時の「義」が三浦氏からの偏諱であった可能性を指摘しており、その根拠として、『吾妻鏡』には、実際に三浦義連佐原義連が義時の弟・時連(のちの時房)文治5(1189)年4月18日条〉、三浦義村が義時の子・政村〈建保元(1213)年12月28日条〉の加冠を務めるといった、三浦氏が北条氏の烏帽子親を務めて一字を与えた事例が確認できる(同氏の著書『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17 より)。また名越流北条氏とは、義村の娘(光村の姉または妹)が光時の弟(朝時の3男)名越時長に嫁いで縁戚関係にあった。

*12:注1前掲鈴木氏著書 P.219~221。湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館、2012年)P.22。

*13:光宗の父・朝光は建保3(1215)年に亡くなっている。『吾妻鏡』同年9月14日条、および 伊賀朝光(いが ともみつ)とは - コトバンク より。

*14:これが正しければ、各烏帽子親の指名は、父親である義村の意向によりなされた可能性が高くなる。光村以下の男子については烏帽子親を確かめられる史料は無いが、光村が伊賀氏の通字「光」を受けたとすると、例えば、資村が武藤氏(少弐資能?)、胤村が千葉氏(千葉秀胤?)から各々同様にその通字を与えられたと考えることも出来るのではないかと思う。