河越貞重
河越 貞重(かわごえ さだしげ、1272年~1333年)は、 鎌倉時代後期から末期の武将、鎌倉幕府御家人。 父は河越経重か。先代の河越宗重は兄であろう。河越高重の父とされる。官途は三河守。法名は乗誓(じょうせい)か。
『北條貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』)*1には、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時十三年忌供養において「砂金五十両〈二文匆〉、銀剣一」を献上している人物として「河越三河前司」なる者が現れる*2。
〔表A〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32135号)
楠木城 | |
一手東 自宇治至于大和道 | |
陸奥守(大仏貞直) | 河越参河入道 |
小山判官(高朝) | 佐々木近江入道(貞氏) |
佐々木備中前司(大原時重) | 千葉太郎(胤貞) |
武田三郎(政義) | 小笠原彦五郎(貞宗) |
諏訪祝(時継カ) | 高坂出羽権守(信重) |
島津上総入道(貞久) | 長崎四郎左衛門尉(高貞) |
大和弥六左衛門尉(宇都宮高房) | 安保左衛門入道(道堪) |
加地左衛門入道(家貞) | 吉野執行 |
一手北 自八幡于佐良□路 | |
武蔵右馬助(金沢貞冬) | 駿河八郎 |
千葉介(貞胤) | 長沼駿河権守(宗親) |
小田人々(高知?) | 佐々木源太左衛門尉(加地時秀) |
伊東大和入道(祐宗カ) | 宇佐美摂津前司(貞祐) |
薩摩常陸前司(伊東祐光?) | □野二郎左衛門尉 |
湯浅人々 | 和泉国軍勢 |
一手南西 自山崎至天王寺大路 | |
江馬越前入道(時見?) | 遠江前司 |
武田伊豆守(信武?) | 三浦若狭判官(時明) |
渋谷遠江権守(重光?) | 狩野彦七左衛門尉 |
狩野介入道(貞親) | 信濃国軍勢 |
一手 伊賀路 | |
足利治部大夫(高氏) |
結城七郎左衛門尉(朝高) |
加藤丹後入道 | 加藤左衛門尉 |
勝間田彦太郎入道 | 美濃軍勢 |
尾張軍勢 | |
同十五日 | |
佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参 | |
同十六日 | |
中村弥二郎 自関東帰参 |
〔表B〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32136号)
大将軍 | |
陸奥守(大仏貞直)遠江国 | 武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国 |
遠江守 尾張国 | 武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国 |
駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国 | 足利宮内大輔(吉良貞家)三河国 |
足利上総三郎(吉良貞義) | 千葉介(貞胤)一族并伊賀国 |
長沼越前権守(秀行)淡路国 | 宇都宮三河権守(貞宗)伊予国 |
佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 | 小笠原五郎 阿波国 |
越衆御手信濃国 | 小山大夫判官(高朝)一族 |
小田尾張権守(高知)一族 | 結城七郎左衛門尉(朝高)一族 |
武田三郎(政義)一族并甲斐国 | 小笠原信濃入道(宗長)一族 |
伊東大和入道(祐宗)一族 | 宇佐美摂津前司(貞祐)一族 |
薩摩常陸前司(伊東祐光?)一族 | 安保左衛門入道(道堪)一族 |
渋谷遠江権守(重光?)一族 | 河越参河入道一族 |
三浦若狭判官(時明) | 高坂出羽権守(信重) |
佐々木隠岐前司(清高)一族 | 同備中前司(大原時重) |
千葉太郎(胤貞) | |
勢多橋警護 | |
佐々木近江前司(六角時信) | 同佐渡大夫判官入道(京極導誉) |
(*以上2つの表は http://chibasi.net/kawagoe.htm#sadasige より拝借。)
元弘元(1331)年、いわゆる元弘の変が起こると、「河越参河入道一族」が幕府側として上洛、楠木正成を討つための大和軍に加わっていることが確認される。通称名(参河=三河(守) )の一致から、この参河入道は前述の「河越三河前司」が出家した同人であり、一族を率いる立場にあった、河越氏を代表する人物(惣領・嫡流の当主)であったことが窺える*3。『太平記』に、この事件後、斬罪の処分が下った平成輔を鎌倉まで護送する役目を担った人物として登場する「河越三河入道円重(圓重)」*4も同人であろう*5。
同3(1333)年、足利高氏(のちの足利尊氏)らの攻撃を受け鎌倉へ敗走していた、六波羅探題北方・北条仲時らの軍勢は、5月9日近江国番場宿において佐々木導誉の軍に行く手を阻まれ、仲時らは蓮華寺にて自害した。この時の死者を記す『近江番場宿蓮華寺過去帳』*6の中に「川越参河入道乗誓六十二歳」(*以下、年齢は全て数え年とする)が含まれており、前述の「河越参河入道」が「同(川越)若党木戸三郎家保」(この木戸家保は若年の郎党なのであろう)と共に仲時に殉じたことが分かる*7。逆算するとこの人物は文永9(1272)年生まれである。
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こちら▲の記事で紹介した通り、『常楽記』元亨3年6月13日条に「河越出羽入道他界五十三」(→逆算すると文永8(1271)年生まれ)とある人物は、『続群書類従』第六輯下所収「千葉上総系図」*8などの系図類で「出羽守」と注記される宗重に比定される*9。すなわち、河越宗重は貞時十三年忌供養の4ヶ月前には亡くなっていたことになり、「河越参河入道」=次の当主・貞重に比定される*10。「佐野本 秩父系図」や常陸正宗寺蔵書所収「河越系図」では貞重の傍注に「三河守」とある*11。
また、次の記事で紹介した、中山信名撰『平氏江戸譜』(静嘉堂文庫蔵)所収の河越氏系図では、貞重の項に「遠江守」と注記*12しながらも、元弘の変の際「河越三河入道一族」が「大仏貞通〔ママ、貞直の誤記〕」に従軍し、この人物が「蓮華寺鬼簿(鬼簿は過去帳の意*13)」に「番馬〔ママ、番場の同音・誤記〕ニテ討死」したとあることを紹介して同人とみなしており*14、江戸時代の研究においても同様に捉えられていたことが分かる。
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尚、系図の上では宗重と貞重を親子の線で繋いでしまっているが、生年がわずか1年違いであることから、貞重は宗重の実弟(経重の子)で養嗣子であったと考えるべきであろう。
▲武蔵・河越氏館(埼玉県川越市)に掲示の河越氏系図では宗重と貞重を兄弟としている(画像はhttp://www.hb.pei.jp/shiro/musashi/kawagoeshi-yakata/thumb/ より拝借)。
すると、宗重が北条時宗の偏諱を許されたのに対し、1歳年下の貞重が北条貞時の一字を受けていることは大変興味深い。紺戸氏は宗重の元服の年次を1280~1284年の間と推定しており*15、ちょうど弘安7(1284)年4月には時宗が亡くなって貞時が家督・執権職を継承した*16ので、恐らく宗重・貞重兄弟の元服もその頃であったと推測される。この当時、1272年生まれの「川越参河入道乗誓」(前述参照)は13歳と元服の適齢期であり、貞重に同定する根拠の一つである。貞時と貞重は烏帽子親子関係にあったとみられ、冒頭で述べた法要への参加もその表れとみてとれる。
ちなみに貞時は文永8(1271)年12月12日(西暦: 1272年1月14日)生まれであったが、父・時宗の前例に倣い、7歳となった建治3(1277)年に元服を済ませており、執権就任当時14歳の若さであった*17。今野慶信氏は、【金沢時方(元服時10歳)←北条時宗(当時7歳)】や【足利高氏(元服時15歳)←北条高時(当時17歳)】の例を挙げて、鎌倉時代後半に差し掛かるにつれ偏諱行為そのものがかなり虚礼化していたと指摘されており*18、ほぼ同年齢である「貞時―貞重」の関係もその一例となる。
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脚注
*1:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号。
*2:『川越市史 第二巻中世編』(川越市、1985年)P.244。
*3:注2前掲『川越市史』P.244~245。出家の時期は明らかになっていないが、恐らく嘉暦元(1326)年3月の得宗(第14代執権)・北条高時の剃髪に追随したのではないかと推測される。
*5:注2前掲『川越市史』P.245。尚、P.160に掲載の「佐野本 秩父系図」では円重を貞重の子・高重に比定しているが、これが誤りであることは 河越高重 - Henkipedia を参照。
*7:注2前掲『川越市史』P.248~249。『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年5月9~14日 P.30。
*9:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.18~19。注2前掲『川越市史』P.244。
*10:注2前掲『川越市史』P.244~245、P.248~249。
*12:『系図綜覧』所収「畠山系図」、『続群書類従』所収「千葉上総系図」、『系図纂要』所収「平氏系図」でも同様(注2前掲『川越市史』P.156~158)であるが、記載内容がほぼ一致することから、恐らくこのうちの「千葉上総系図」を基にして作成されたもので、故にそのまま書かれたのではないかと推測される。従って、「三河入道」と同人とする矛盾点はこれによって解消されると思う。すなわち、この系図の作成者は遠江守となった後に、三河守→三河入道と通称が変化したと考えたのではなかろうか。
*13:鬼簿(キボ)とは - コトバンク より。
*15:注9前掲紺戸氏論文、P.19。
*16:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*17:前注同箇所。
*18:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.50。