金沢顕時
北条 顕時(ほうじょう あきとき、旧字表記:北條顯時、1248年~1301年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての御家人、北条氏の一門。金沢流北条氏の第3代当主で、金沢顕時(かねさわ ー)とも呼ばれる。初名は北条時方(ときかた、金沢時方)。
▲北条顕時像(国宝、称名寺蔵)
『尊卑分脈』以下の系図類では金沢実村(通称:越後太郎)の子(=実時の孫)として掲載されるが、「入来院本 平氏系図」では金沢実時の子(=実村の弟)として載せ、通称「越後四郎」、「本名時方」と注記される*1。
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次の史料は、実時の息子・時方の元服についての記事である。
正嘉元年十一月小廿三日甲戌。晴。酉剋。越後守実時朝臣息男 十歳 於相州禅室*御亭元服。号越後四郎時方。理髪丹後守頼景。加冠相模太郎** 七歳。
* 相州 … 前執権・北条時頼(最終官途:相模守)。前年の執権辞職の折に出家して道崇と号していた。
わざわざ年齢も記しているが、この時加冠(烏帽子親)を務めたのは、同年の2月に時方より年少でありながら元服を済ませていた北条時宗*3であったが、僅か7歳でこの元服の儀式を主導する立場にあったとは考えにくく、亭主(邸宅の主)であった父の北条時頼が自分の嫡男を烏帽子親に指名したのではないかと考えられている*4。
「時方」の「時」字は元々北条氏の通字ではあるが、名乗りが(父とは異なって)「時●」型の構成であることからしても、加冠役である時宗の偏諱という扱いで考えて良いのではないかと思う。烏帽子親子関係は、実際のそれに準じた擬制的な親子関係であり、例えば「源頼朝(34)―小山宗朝(14)(のち結城朝光)」のように20歳ほど年齢が離れているのが普通であったが、「北条時宗(7)―金沢時方(10)」の場合は明らかに逆転しているものであり、ましてや時宗は家督の座を継いでもいなかったから、時代が下るにつれて烏帽子親子関係は形骸化し、偏諱行為そのものも虚礼化が進んでいたとする評価もある*5。
尚、系図上では初代執権・北条時政の父とされる祖先の北条時方(『尊卑分脈』、平時方とも)と同名となるが、「方」字はこの時方に由来するものであろう。
その後『吾妻鏡』での実名の表記は文応元(1260)年を境に変化している。
【表B】 『吾妻鏡』文応元年の記事における北条顕時の表記*6
1月1日条 | 越後四郎時方 |
1月11日条 | 越後四郎時方 |
1月20日条 | 越後守実時 同四郎顕時 |
2月20日条 | 越後四郎 |
3月21日条 | 越後四郎時方 |
4月3日条 | 越後四郎顕時 |
11月21日条 | 越後四郎時方 |
11月27日条 | 越後四郎時方 |
12月26日条 | 越後四郎時方 |
この年では表記ゆれが起こってはいるもの、1月20日条で「越後守実時」の息子で「(越後)四郎」を名乗る人物を「顕時」と記載している通り、【史料A】での「越後四郎時方」=「顕時」であることが分かる。その後も越後守であった実時*7の「四郎(=四男)」として、翌文応2年(1261=弘長元)年正月1日条からは「越後四郎顕時」に落ち着いて書かれるようになっている*8ことからしても「入来院本 平氏系図」での記載は正しいと認められ、文応元年中に改名を行ったことは間違いない。
(参考)
『前田本 平氏系図』では、実時の子として顕時(越後守・正五位下・左近大夫将監)とは別に、その弟として時方(左近大夫)を載せる*9が、『吾妻鏡』によって時方と顕時の通称・輩行名が共通していることは上記の通りで、他の系図でも確認できないことから同人説を採るべきであろう。
永井晋氏の説によれば、顕時の「顕」は、自身が仕えていた6代将軍・宗尊親王の後見人である土御門顕方から1字を受けたものではないかとしている*10。この結果、時宗からの偏諱「時」を後ろ(2文字目)に回すことになったが、棄てたわけではないので、特に得宗(時頼)から問題視はされなかったようである(将軍側近からの一字拝領によるものという改名の事情も得宗の側で把握していたのだろう)。
顕時の上には実村・篤時(『前田本 平氏系図』より〔次郎入道と注記〕*11。「正宗寺本 北条系図」では有時*12、「正宗寺本 北条系図」では時遠〔次郎と注記〕*13とする)という兄がいたことが知られているが、顕時が金沢氏の家督継承者となったのは、母親が第7代執権・北条政村の娘であった*14ことが大きな理由であると考えられている*15。元服の段階では既にこの方針が決まっていたので、得宗家と烏帽子親子関係を結ぶ運びになったのであろう。実村・篤時はともに生年未詳(没年も不詳)だが、親子の年齢差を考えると1244年頃より後、そして顕時が生まれる1248年(【史料A】の記載により逆算)より前に生まれているはずであるから、生年は1244~1247年と推定でき、彼らの元服の段階では顕時が嫡子に定められていたと考えられる。
以上、本項では名乗りに関する記述のみに留めておきたいと思う。
その後の活動・経歴については次のページをご参照いただきたい。
● 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その55-金沢顕時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)
脚注
*1:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.14。
*3:北条時宗 - Henkipedia を参照。
*4:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』, 思文閣出版、2012年)P.167~168、今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.50。
*5:前注今野氏論文、同箇所。
*6:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、1971年)P.106「顕時 北条」の項 および P.207「時方 北条」の項 に基づいて作成。
*7:『吾妻鏡人名索引』P.222「実時 北条」の項、新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その54-金沢実時 | 日本中世史を楽しむ♪。
*8:『吾妻鏡』文永2(1265)年正月2日条「越後四郎顕時」まで。尚、細川重男氏が 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その55-金沢顕時 | 日本中世史を楽しむ♪ にてご指摘の通り、同年6月13日条からは「左近大夫将監顕時」または「越後左近大夫将監」の通称で記されるようになっており(『吾妻鏡人名索引』P.103)、この間に左近将監に任官したことが窺える。
*9:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.376。
*10:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.3。
*12:注1前掲山口論文、P.13。
*13:『正宗寺本北条系図』より。
*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その55-金沢顕時 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。
*15:金沢北条氏と鎌倉時代の繁栄 ー 横浜市金沢区(同区のホームページ、最終更新日 2018年11月9日)より。