Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大仏家時

北条 家時(ほうじょう いえとき、1312年~1333年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人

鎌倉時代末期に、北条時房系の嫡流・大仏流の当主を務め、大仏家時(おさらぎ ー)とも呼ばれる。父は大仏流北条維貞

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主な活動内容・生涯については

 北条家時 - Wikipedia

 大仏流朝直系宣時派北条氏 #北条家時

等を参照のこと。

 

 

以下本項では、元服と名乗りに関する考察を述べることとする。 

まずは、細川重男氏がまとめた「基礎表」*1で経歴を確認しよう。 

 

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№74 大仏家時(父:大仏維貞、母:未詳)
01:正和1(1312).    生(1)
02:年月日未詳      右馬権助
03:元徳1(1329).11.11 評定衆(18)
04:元弘3(1333).05.22 没(22)
 [典拠]
父:分脈
01:金文443に、評定衆就任時18歳とあるにより、逆算。
02:金文443。
03:金文443。
04:分脈。太平記・巻10「高時井一門以下於東勝寺自害事」。

 

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上記生年に基づくと、1320年代前半ごろに元服したと推定できる*2。家時が15歳となる正中3(1326=嘉暦元)年のいわゆる「嘉暦の騒動」で北条泰家が出家するまでには済ませていたであろう(詳しくは後述)。

 

維貞の子は、高宣・家時・貞宗・高直の4名が確認できる*3鎌倉時代の成立とされる『入来院本 平氏系図』によれば、宣時の子が宗宣(維貞の父)、宗泰、貞房、貞宣*4と全員が得宗と烏帽子親子関係を結んでいる様子が窺え、長男・宣と末子・直は、得宗・北条時から偏諱を受けたと考えて問題ないだろう。

 

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家時の場合、高宣に次ぐ "準嫡子" の立場にあったと思われ、実際、嘉暦3(1328)年4月に家督を継いだばかりの高宣が早世する*5とその跡を継いでいるが、末弟の高直とは異なって高時の偏諱を受けていない。では、家時は得宗家と烏帽子親子関係を持たなかったのであろうか

 

時」の名乗りは、「時」が北条氏の通字であるから「」が烏帽子親からの一字拝領の可能性が考えられる。恐らく高時の弟・北条泰偏諱ではないか。維貞一族と泰家は婚姻関係によって繋がりがあった可能性があり*6、その交流の中で泰家が家時の加冠を務めたと考えられなくはない。

実際、泰家は高時出家後の嘉暦の騒動で、第15代執権の候補に担ぎ上げられたこともあり、将来を期待されていた人物と言える。大仏流北条氏にとって、次期執権候補の泰家と結び付きを持っておくことは歓迎すべきことであったと考えられる。

 

ここで北条泰家について確認しておこう。生年は明らかとなっていないが、高時(嘉元元年12月2日〈1304年1月9日〉生まれ)元服を遂げた延慶2(1309)年1月21日*7より後に元服し「相模四郎時利」(初名)を名乗ったことは確かだろう。泰家への改名時期や理由については不明だが、兄・高時の家督継承(1311年)または執権就任(1316年)に伴うものかもしれない。その名は、北条(第3代執権)、北条時(北条四郎大夫、『尊卑分脈』では時政の祖父)という祖先2人の各々1字で構成されたものとみられる。

 

泰家と家時では僅か数年ほどの年齢差であったと思われるが、「北条高時(17)―足利高氏(のちの尊氏)(15)」のように、本来は(実際の)親子関係に準ずるものであった烏帽子親子関係はこの当時形骸化していたといい*8、特に問題視する必要は無いだろう。 

 

 

[付記]

吾妻鏡』によると、金沢実時北条泰時、その嫡男・顕時(初め時方)が北条時宗の加冠により元服したといい、各々の「時」字は烏帽子親である得宗からの一字拝領と考えられる。これと同様に得宗・高時から「時」字を与えられ、前述の祖先・北条時家にあやかって「家時」を名乗った可能性もあり、別説として掲げておきたい。但しこの場合、何故「高」ではなく「時」の字を与えたのかという疑問が残る。

下掲系図で明らかな通り、宣時の系統では概ね、得宗から偏諱を受けるか、父から1字を継承したり、時政の「政」、時房の「房」、朝直の「朝」「直」、そして宣時の「宣」といった祖先から1字を取ったりして実名を構成している者がほとんどであるが、家時だけはいずれにも当てはまらない。この点から言っても、わざわざ上(1文字目)にしている「家」の字に重要な意味合いがあるように思える。故に泰家からの偏諱と推測した次第である。

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脚注

*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その74-大仏家時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*2:参考までに、今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.42~50には、『吾妻鏡』を中心に、北条氏一門も含めた各御家人元服についての紹介があり、その年齢は、早くとも北条時宗の7歳、遅くとも北条時房足利高氏(尊氏)の15歳である。

*3:尊卑分脈』、『正宗寺本北条系図』、『保暦間記』など。

*4:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について (下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.28。

*5:尊卑分脈』。『正宗寺本北条系図』にも「早世」の記載が見られる。

*6:『正宗寺本北条系図』には維貞の女子(高宣・貞宗の妹)に「𣳾時室〔ママ〕」(*𣳾は泰の異体字)と記載があるが、年代的に当然ながら北条泰時ではなく、当該期「泰時」を名乗った人物も見当たらない。この系図では、嫁いだ相手の記載が(苗字無しで)実名のみの場合は北条氏一族に限るようで、当該期類似した名前を持つのは「泰家」くらいしか見当たらない。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*8:注2前掲今野氏論文、P.50。