Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

北条貞規

北条 貞規(ほうじょう さだのり、1298年~1319年)は、鎌倉時代後期の御家人、北条氏得宗家一門。第10代執権・北条師時の嫡男。主な通称は相模左近大夫。

 

まずは、細川重男のブログ記事*1による貞規の経歴は次の通りである。

 

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№13 北条貞規(父:北条師時、母:北条貞時女)
  右馬権頭(『前田本平氏系図*2。『正宗寺本北条系図*3

  左近大夫将監(『前田本平氏系図』。『正宗寺本北条系図』)
  従四位上(『前田本平氏系図』)
01:永仁6(1298).   生(1)
02:文保1(1317).12.27 一番引付頭人(20)
03:元応1(1319).06.14 没(22)
 [典拠]
父:『前田本平氏系図』。『正宗寺本北条系図』。『佐野本北条系図』。
母:『佐野本北条系図』。
01:没年齢より逆算。
02:鎌記・文保元年条*4
03:『正宗寺本北条系図』に「早世廿二」、武記裏書・元応元年6月14日条に「貞規卒、相ー左近大夫、号西殿」とある*5に拠る。


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父・師時の生年が建治元(1275)年とされる*6ことから、現実的な親子の年齢差を考えても上記の貞規の生年は妥当であると言えよう。

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▲【図A】北条氏略系図北条時宗周辺)

 

しかし、母親が貞時の娘とするのには疑問がある。確かに師時は貞時の娘を妻に迎えた*7が、貞時は師時の従兄でもあり、僅か4歳年長の文永8(1271)年生まれ*8で、貞規がその外孫であったというのは祖父―孫の年齢差の点から言って現実的でないように思う(その差27はむしろ親子の年齢差である)

 

貞規については元服の記録は特に残されていない。ただ得宗家では低年齢化の傾向にあったので、得宗代々の7歳とほぼ同じ位の年齢で行ったと推測される。前述の生年から算出すると1304年頃の元服となる。規の「貞」の字は、出家のため既に執権職を師時に譲ってはいるものの得宗(副将軍*9の座にあった時から偏諱を受けたものであろう。貞時法名:崇演)は出家(執権辞任)後もしばらくは、俗名からの一字付与を行っていた可能性が高い。 

 

次の史料は、『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用されている施薬院使・丹波長周の注進状である*10。同月8日に鎌倉を襲った大火の被災者として「相模左近大夫貞規」の名が見られ、これが史料上での初見である

 

【史料B】丹波長周注進状

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前述の生年に基づけば当時貞規は18歳。この段階で既に叙爵を済ませ、左近大夫将監*11となっていたことが分かる。通称は「相模」守・北条師時(当時は故人)の子で「左近大夫将監」を表すものである。 

若くして早世した故に、その後の活動は冒頭の経歴表に示した、20歳での一番引付頭人就任が確認されるくらいである。 これについて細川重男は、祖父宗政、父師時と同様に引付衆は経なかったと推測の上で「信じ難い若年での登用である」と評価されている*12が、それだけに期待されていた若手のホープだったのであろう。

 

その2年後に貞規が亡くなった後は、『尊卑分脈』に師時の子として載せられる時茂北条重時の子である常葉流北条時茂とは同名の別人)が宗政系北条氏の家督を継いだようである。細川氏が述べられる通り、貞規の弟であろう。当時の史料では確認できないが、祖父や父に同じく「評定衆」、兄に同じく「一番(引付)頭人」に就任したことが『尊卑分脈』に記されており、同氏は時茂が歴代の当主と同様、得宗家に次ぐ高い家格に見合った待遇を受け、元弘元(1331)年正月23日以降、鎌倉幕府滅亡までの期間に就任したのではないかと推測されている*13。 

 

 

最後に、【史料B】に同じく火災があったことを伝える次の史料を見ておきたい。 

【史料C】(元徳元(1329)年?)11月11日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*14

一去月十九日夜、甘縄の城入道*1 の地の南頬いなかき左衛門入道*2 宿所の候より、炎上出来候て、其辺やけ候ぬ、南者越後大夫将監時益*3 北まてと承候、彼家人糟屋孫三郎入道*4 以下数輩焼失候、北者城入道*1 宿所を立られ候ハむとて、人を悉被立候程ニ、そのあきにてとゝまり候ぬ、南風にて候しほとニ、此辺も仰天候き、北斗堂計のかれて候之由承候、目出候々々、一去夜亥刻計ニ、扇谷の右馬権助家時*5 門前より火いてき候て、亀谷の少路へやけ出候て、土左入道*6 宿所やけ候て、浄光明寺西頬まてやけて候、右馬権助*5右馬権頭貞規後室・刑部権大輔入道*7 宿所等者、無為に候、大友近江入道*8 宿所も同無殊事候、諏方六郎左衛門入道*9 家焼失候云々、風始ハ雪下方へ吹かけ候き、後ニハ此宿所へ吹かけ候し程ニ、驚存候しかとも、無為候之間、喜思給候、火本ハ秋庭入道右馬権助*5 家人と高橋のなにとやらん同前か諍候之由聞□〔欠字(虫食い):「候」か?〕、あなかしく、

 

十一月十一日(切封墨引)

 

*1:安達時顕(法名:延明)。

*2:稲垣左衛門入道と読むのだろうか、人物の詳細は不明。

*3:北条時益*15 *4:糟屋入道道*16。実名は不詳。

*5:北条(大仏)家時*17。 *6:不詳。

*7:摂津親鑒(法名:道準)*18。 *8:大友貞宗法名:具簡)。

*9:得宗被官・諏訪氏の一族。他史料上に現れる「諏訪六郎左衛門尉」*19が出家した同人とみられるが、系譜・実名は不詳。

*10:秋庭氏については六波羅探題被官の出身、高橋氏は得宗被官の一族と推測される*20 

この文書により『前田本平氏系図』・『正宗寺本北条系図』での記載通り、貞規は最終的に右馬権頭従五位上相当・右馬頭*21権官に昇進していたことが窺える。逝去の記事を載せる『武家年代記』裏書で「相模左近大夫」と記されているのは、単に過去の呼称で記してしまっただけなのであろう*22

尚、「貞規後室」*23については、『正宗寺本北条系図』により、貞規が正室に迎えていた赤橋久時(最終官途:武蔵守*24の娘に比定される*25。第16代執権の赤橋守時や、最後の鎮西探題赤橋英時らとは兄弟(貞規にとっては義兄弟)であったことになる。

 

(参考ページ)

 北条貞規 - Wikipedia

 宗政流北条氏 #貞規 

 

 

*[付記]本当に偶然だが、本稿は(旧暦・新暦の点では異なるが日付的には)貞規が亡くなって700年後の投稿となった。

 

脚注

*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その13-北条貞規 | 日本中世史を楽しむ♪。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.13「北条貞規」と同内容。

*2:前注細川氏著書 P.366に掲載あり。

*3:『正宗寺本北条系図』

*4:『史料稿本』花園天皇紀・文保元年十一月~十二月 P.14

*5:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元応元年五月~六月 P.51

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その12-北条師時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*7:注1前掲細川氏著書 P.287。典拠の『保暦間記』に「貞時……イトコ相模守師時于時右馬権頭……時頼ノ孫、武蔵守宗政子也。彼師時ハ、貞時聟也。」と書かれているほか、系図類でも、『正宗寺本北条系図』でも貞時女子の一人に「師時妻」を載せ、同系図師時の注記にも「貞時ノ聟」とある。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*9:得宗貞時・高時の「副将軍」呼称については、注1前掲細川氏著書 P.263~264 注(55)を参照のこと。

*10:注1前掲細川氏著書 P.19。

*11:左近衛将監(従六位上相当)で五位に叙せられた者の呼称。左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク左近大夫(サコンノタイフ)とは - コトバンク を参照のこと。

*12:注1前掲細川氏著書 P.39。

*13:前注同箇所、および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その14-北条時茂 | 日本中世史を楽しむ♪ を参照のこと。

*14:『鎌倉遺文』第39巻30775号。

*15:通称名は父・時敦(1320年逝去)が越後守で、その息子にして「左近大夫将監」であったことを表す。最後の六波羅探題南方としても知られるが、京都へ向けて鎌倉を出立したのは翌元徳2(1330)年7月20日頃であり、この頃はまだ鎌倉に在住していた。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その51-北条時益 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。

*16:同じく『金沢文庫文書』に所収の、元徳元(1329)年12月2日付「伊勢宗継請文案」(『鎌倉遺文』第39巻30788号-1)、および同年のものとされる「金沢称名寺雑掌光信申状案」(『鎌倉遺文』第39巻30792号)に「糟屋孫三郎入道々暁」とあるによる。東氏 ~上代東氏~ も参照のこと。

*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その74-大仏家時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*18:注1前掲細川氏著書 巻末職員表 No.128「摂津親鑒」の項より。

*19:注1前掲細川氏著書 P.197 注(13)に言及されている通り、『円覚寺文書』に所収の史料2点、徳治2(1307)年5月付「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『鎌倉遺文』第30巻22978号)の一番中に「諏方六郎左衛門尉」、『北條貞時十三年忌供養記』(『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号)には、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時13年忌供養において、「銭十貫文」を進上する人物として「諏方六郎左衛門尉」(同前『神奈川県史』P.710)の記載がある。

*20:これについては、大村拓生「中世嵯峨の都市的発展と大堰川交通」(所収:『都市文化研究』3号、大阪市立大学大学院文学研究科 都市文化研究センター、2004年) P.75 を参照。

*21:右馬頭(ウマノカミ)とは - コトバンク より。

*22:文保元(1317)年7月29日には第12代執権・北条煕時(1315年逝去、最終官途:相模守)の嫡男・茂時が叙爵および左近将監に任官しており、嘉暦元(1326)年の一番引付頭人就任および右馬権頭任官までの通称は「相模左近大夫将監」だった筈である。依然として貞規が左近将監であれば、区別のため茂時は「相模新左近大夫将監」と呼称されたと思われるが、この段階で貞規が右馬権頭に転任した可能性も考えられよう。

尚、注19前掲『北條貞時十三年忌供養記』には、元亨3(1323)年の貞時(最終官途:相模守)13年忌供養において、「砂金50両、銀剣1、馬一疋置鞍、鴾毛、」を進上する人物として「相模左近大夫将監殿」の掲載がある(注19前掲『神奈川県史』P.707)が、「相模左近大夫将監」=北条茂時と区別されているのであろう。当時の相模守=執権・北条高時にはまだ息子が生まれておらず、該当し得る人物は高時の弟(貞時の子)・泰家か、故・貞規の弟の時茂のいずれかである。但し、鎌倉幕府滅亡期の泰家法名:恵性)は「四郎左近大夫入道」と呼ばれており、出家前の通称が「四郎左近大夫将監」であったと考えられる金沢貞顕書状では「太守」高時に対して「親衛」と書かれる)ので、「相模新左近大夫将監殿」=時茂の可能性が高いのではないかと思われる。

*23:後室とは「身分の高い人の未亡人」の意(→ 後室(コウシツ)とは - コトバンク)。

*24:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その29-赤橋久時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*25:『正宗寺本北条系図』貞規の注記に「武刕武州久時ノ聟也 高氏将軍ハアイムコ(相聟)也」(也は u2ceff-j (𬻿) - GlyphWiki の異体字で表記される)とあり、同系図には久時の女子として「足利高氏〔ママ、卿〕御䑓(台)所」と「貞規室」の2名を載せる(前者はいわゆる足利尊氏正室・赤橋登子である)。