大仏高宣
北条 高宣(ほうじょう たかのぶ、1305年頃?~1328年)は、鎌倉時代末期の北条氏一門。大仏流北条維貞の子で、大仏高宣(おさらぎ ―)とも呼ばれる。
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以下本稿では、これまで未詳とされてきた高宣の生年や烏帽子親の推定を試み、それについての考察を述べたいと思う。
烏帽子親と没年齢について
まず「高宣」の名乗りを見ると、「宣」は、宣時(曽祖父)―宗宣(祖父、第11代執権)間で継承された字であり、一方の「高」は当時の得宗(第14代執権)北条高時の偏諱と考えられる。「宗宣―貞宗(のち維貞)―高宣」は「時宗―貞時―高時」と代々得宗と烏帽子親子関係を結んでいた*1。
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嘉暦2(1327)年9月7日に父・維貞が死去。これに伴い、大仏流北条家の家督を継承したものと思われるが、『尊卑分脈』によると、高宣も翌3(1328)年4月に亡くなったという。長弟(維貞次男)の大仏家時が元徳元(1329)年、18歳(→逆算すると正和元(1312)年生まれ)で評定衆に加えられている*2ことからも、この頃家督の交代があったことは裏付けられよう。
この時の没年齢(享年)は明らかになっていないが、『正宗寺本北条系図』での高宣の注記には「早世」と記されている*3。どのくらいの年齢に達していたのであろうか。
その目安として、同じく『尊卑分脈』の中から他氏での例を挙げると、京極流佐々木氏の系図には、宗綱(頼氏の弟)の次男・佐々木時綱(京極時綱)の項に「先父早世 十七才」と注記されていて、また足利氏系図における足利家時の項には「早世 廿五才」と書かれている。後者、家時の享年については他史料での裏付けが可能であり*4、『前田本源氏系図』を見ると家時の孫・足利高義(足利尊氏の兄)の項に「左馬助、従五位下、早世廿一、」と注記される*5が、これも『尊卑分脈』での高義の注記「左馬助 早世」に一致する。
北条氏でも『正宗寺本 北条系図』上で「早世 廾二(廿二=22)」と注記される北条貞規の例がある*6。
『尊卑分脈』における高宣の場合は「嘉暦三四卒 式部大輔」とあるのみで特に「早世」とは記されていないが、時綱のすぐ下の弟・佐々木貞宗(京極貞宗、「嘉元三五八死十九才」)や、家時の父・足利頼氏(「弘安三四七日〔ママ〕卒 廿三才」)のように、17歳より年長、或いは25歳より若い年齢での死去であっても「早世」と記されない例もあることから、10代後半~20代前半での若さでの死去は皆、「早世」として扱って良いと考えられる。前述の足利高義の例を踏まえて言い換えれば、単に「早世」と記し没年齢を載せていない場合でも、その享年は20代前半以下であったと解釈して良いだろう。
父・維貞の生年は弘安8(1285)年であったといい、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、高宣は1305年頃よりは後に生まれたと考えるべきである。そして、前述の通り、高宣逝去の翌年に評定衆となった弟の家時が18歳であったから、これを超えていたことも推測できる。1305年生まれとすると24歳で没したことになり、前述での「早世」の範囲内である。得宗・高時が執権に就任した1316年の段階でも数え12歳と元服の適齢期となり、先に高宣の「高」が高時からの偏諱と述べたのもこのためである。
高宣の任官年齢について
最後に考えてみたいのが「式部大輔」という最終官途である。
系図類でしか確認できない情報だが、諸家の系図集としては最古の『尊卑分脈』に記載があり、逆にこれを否定し得る史料も無いことから、一応信ずることとしたい。
そして、式部大輔は正五位下相当の官職である*7が、これまでの当主が正五位下となった年齢は、宣時(48)→宗宣(42)→維貞(30)と低年齢化傾向にあった。更に、叙爵(従五位下)から正五位下への昇進にかかった年数も、宣時・宗宣(18年)→維貞(13年)と縮まっていた*8。恐らく高宣の場合は、叙爵から10年程度、20代で式部大輔に昇る形で正五位下となった可能性が高いのではないかと思う。
当時における北条氏一門の叙爵年齢は、得宗・高時が9歳、それに次ぐ赤橋流の北条守時(第16代執権に就任)でも13歳であったから、これより早くなることは考えにくい。従って、高宣の叙爵年齢も父・維貞と同じか、それより若干早い15歳程度であったと考えて良いだろう*9。
(参考)
<祖父・宗宣 の官職歴>
- 雅楽允〔正七位下〕・式部少丞〔従六位上〕・叙爵〔従五位下〕(24)
- 上野介【国介】〔※正六位下相当〕(30)
- 従五位上(36)
- 正五位下(42)
- 陸奥守【国守】〔※従五位上相当〕(43)
- 従四位下(50)
<父・維貞 の官職歴>
従って、式部大輔任官時の年齢は25歳前後と推定できる。亡くなった嘉暦3年での任官とすれば、1305年生まれとした場合享年24歳とした前述の内容に一致する。よって次のように推定され、本稿の結論としたい。
脚注
*1:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、P.15系図・P.21)、山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、脚注(27) (山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年、ISBN 978-4-7842-1620-8) p.182)。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その74-大仏家時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*3:『正宗寺本北条系図』 より。
*4:鎌倉時代の成立で信憑性が高いとされる「滝山寺縁起」温室番帳に「同(六月)廿五日 足利伊与守源ノ家時、弘安七年逝去、廿五才、」とある。田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)P.402 を参照。
*5:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:前注田中氏著書)P.191。
*6:『正宗寺本 諸家系図』より。北条貞規 - Henkipedia も参照のこと。
*7:式部の大輔(しきぶのたいふ)とは - コトバンク より。
*8:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末により算出。
*9:得宗家時宗系・赤橋流・金沢流顕時系・大仏流宗宣系はいずれも(引付衆~引付頭人の要職に至る「評定衆家」22家より家格が高く)惣領が執権・連署・寄合衆にまで至る高い家格を有していた「寄合衆家」8家に含まれている(前注細川氏著書 P.42)が、烏帽子親の違いに着目すると、将軍を烏帽子親とする得宗・赤橋両流に対して、得宗の一字拝領を受けていた金沢・大仏両流はそれに次ぐ家格であったと考えられる(注1前掲山野氏論文 同箇所)。ちなみに、1302年頃の生まれとされる金沢貞将は正和4(1315)年に父・貞顕が連署となった頃に従五位下・左馬助に任じられたとみられており(→ 南北朝列伝 - 金沢貞将)、叙爵年齢はおよそ14歳であったことになる。