Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

名越朝貞

北条 朝貞(ほうじょう ともさだ、1287年頃?~1333年)は、 鎌倉時代後期から末期にかけての武将、御家人歌人。名越流北条時基の子で名越朝貞(なごえ ー)、小町朝貞(こまち ー)とも呼ばれる。通称は七郎、中務権大輔(または中務大輔)

 

 

生年と烏帽子親についての考察

新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その25-名越朝貞 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)による経歴表*1は次の通りである。

 

>>>>>>>>>>>>>>>

 

№25 名越朝貞(父:名越時基、母:二階堂行久女)
  生年未詳
01:正和4(1315).03.  在中務大輔
02:元弘3(1333).05.22 没
 [典拠]
父:分脈。
母:『入来院平氏系図』(『入来院文書』<『東大写真』>)に「母常陸入道行日女」とあり*2、「行日」は行久の法名*3

01:『公衡公記』正和4年3月16日条に載せる丹波長周注進状の3月8日鎌倉大火被災者の交名*4中に「遠江中務大輔<遠江道道西*5子>」とあるのが、分脈の朝貞の官途と一致する。この交名の人々は当時の鎌倉政権要路者ばかりであり、朝貞も当時、評定・引付衆に在職していた可能性がある。

02:太平記・巻10「高時并一門以下於東勝寺自害事」の「小町中務太輔朝実」は朝貞の誤記か。

 

>>>>>>>>>>>>>>>

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

」の名は、「朝」が名越流の祖でもある祖父の名越朝時北条朝時から取ったものとみられるので、「」が烏帽子親からの偏諱と推測できるが、結論から言うとこれは得宗(第9代執権)北条からの一字拝領とみられる。

 

中務大輔任官の年齢

まずは次の史料をご覧いただきたい。

 

【史料A】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用されている施薬院使・丹波長周の注進状*6

f:id:historyjapan_henki961:20190124223746j:plain

 上の経歴表でも取り上げられていた「丹波長周注進状」である。細川氏が述べられる通り、「遠江中務大輔」が朝貞に比定される。呼称は父親が遠江守で、その息子にして中務大輔であることを表す。すなわち、正和4(1315)年の段階で朝貞は正五位上相当中務大輔*7にまで昇進していたのである(後述するが、正確には中務大輔であったと思われる)。この時の年齢を考えてみたい。

 

f:id:historyjapan_henki961:20190618113216p:plain

▲北条氏得宗・名越両流略系図(『尊卑分脈』より作成)

 

父・時基は、『吾妻鏡』弘長元(1261)年9月20日条まで「遠江七郎(時基)」と呼ばれていたものが、同3(1263)年正月1日条からは「刑部少輔時基」で書かれているようになっている*8ので、この間に叙爵し、従五位下相当の刑部少輔*9になったことが分かる。

弘長2(1262)年正月19日に刑部少輔(建長6(1254)年20歳で任官、同時に叙爵)から中務権大輔(中務大輔の権官に昇った、兄(朝貞の伯父)名越教時*10の後任として引き継いだのであろう。この当時、教時は28歳、時基は27歳であった。 

これらを参考にすると、【史料A】当時の朝貞も20代後半には達していたと考えるべきであろう。

 

中務大輔任官の時期 

次に確認してみたいのが『入来院本 平氏系図』である。

山口隼正の研究によると、同系図1316~1318年の間に作成・成立したとされる古系図である*11が、注目すべきは朝貞の注記である。

f:id:historyjapan_henki961:20190616020536p:plain

▲【系図B】『入来院本 平氏(北条)系図』より名越時基流の部分*12 

 

母親については冒頭の細川氏の表で示した通りであるが、それ以外の注記としては「七郎」とあるのみである。父の輩行名を継承した可能性も考えられなくはないが、兄の名越(むねもと)は、貞時の先代・北条時偏諱を受けたとみられ、更に越前守(国守)にまで昇っているから、時基の嫡男は宗基で、それに次ぐ庶子(準嫡子)として扱われた朝貞は実際に7男であったと考えるのが良いかもしれない。

いずれにせよ、単に「七郎」と称されるのは吾妻鏡』での父・時基の表記(前述参照)と同様、無官であった時である

次に示す『前田本 平氏系図』は成立時期が室町時代前期を下らないとされるものである*13。 

f:id:historyjapan_henki961:20190616022949p:plain

▲【系図C】『前田本 平氏(北条)系図』より名越時基流の部分*14

 

系図B】とは違って【系図C】朝貞の注記には「中務権大輔」とあるが、その他弟として時有左近蔵人を載せること以外は、ほぼ記載の内容は一致している。ここから系図B】が書かれた段階では朝貞はまだ中務権大輔に任官していなかったことが推測され、その任官時期は【史料A】よりそれほど遡らない時期に行われたと判断できよう。

 

f:id:historyjapan_henki961:20190617182658p:plain

▲【系図D】『尊卑分脈』〈国史大系本〉名越時基流の部分*15

 

もう一つ、【系図D】でも【系図C】に同じく「中務権大輔」とあるので、正確には中務大輔*16であったとみられる。元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において砂金100両・銀剣1の供養を行う「中務権大輔殿*17、および 正中2(1325)年正月日付「高野山蓮華乗院学侶等訴状」(『金剛峯寺文書』)*18にある「紀伊国南部庄地頭中務権大輔朝貞」も名越朝貞に比定されよう。

 

生年と元服時期の推定 

以上の考察内容を踏まえると、伯父・教時とほぼ同じコースで昇進したと考えて良いのではないかと思われる。中務大輔任官から間もない【史料A】当時、朝が30歳手前であったことは前述の通りで、逆算すると1280年代後半の生まれとなる*19。正安3(1301)年8月まで執権であった北条*20の加冠により元服を済ませたと考えて問題ないだろう。「」の偏諱を下(2文字目)に置いたのは、前述の通り嫡兄・宗基がいたからで、例えば同じ名越流だと名越公貞のように、鎌倉時代庶子(準嫡子)にはよく見られた現象である。

 

 

小町家(小町流北条氏)について

ところで細川重男は、時基―朝貞の家系に「小町家」という名称を与えておられる*21『正宗寺本 北条系図』時基の子・朝賢〔ママ、誤記または誤読であろう*22の注記に「中務大輔」「小町口 元弘三五自害」とあり、冒頭経歴表にも示されている通り『太平記』巻10に東勝寺合戦での自害者の一人として「小町中務太輔朝実〔ママ〕」と載せる*23ことを理由に掲げている。同系図によれば、息子に時香(ときか、左近大夫将監)顕朝(あきとも、二郎)*24がいたとされ、父とともに鎌倉幕府滅亡に殉じたらしい。

小町(こまち)は某アニメのキャラクター名の由来にもなっている*25通り、現在も「小町通り」などの形で鎌倉市内に地名が残っている*26。先の【史料A】は鎌倉中心部で火災があったことを伝えるものであり、朝貞の居住地も含まれていたことが分かる。朝貞は小町地域を拠点としていたのである。

 

先に述べた通り、時基の本来の嫡男は宗基であったと考えられる。しかし同じく『正宗寺本 北条系図』によると、宗基の長男・維基(これもと)得宗偏諱を受けておらず、「上野介」まで昇ったものの「遁世」してしまったらしく、次男の基明(もとあき、左近大夫将監)も含め実際の史料上では表立った活動を確認できない。

それに比べ、【史料A】に掲載の人物は当時の鎌倉政権の有力者ばかりであり、朝貞もその要人の一人と認識されていたことが窺える。細川氏評定・引付衆に在職していたか、それに準じる地位を認められ、父の地位を継承していたのではないかと考察の上で、この小町流は嫡流名越時章系には出世の速さの面では劣るものの、引付頭人に至る家格であったと説かれている*27。 宗基が早世し、維基・基明兄弟が幼少のため、時基の準嫡子であった朝貞が兄の跡を継いだのかもしれず、故に『尊卑分脈』(【系図D】参照)や『諸家系図纂』では時基の子として朝貞賢性(けんしょう)*28しか載せられなかったのであろう。

 

 

歌人として

尊卑分脈』では朝貞の項に「中務権大輔」のほか、「玉作者」の注記がある(【系図D】参照)。「玉」とは『玉葉和歌集』のことであり*29、次の和歌が収められている。

一筋に 風のつらさに なさじとや 長閑なる日も 花の散る覧*30

 平 朝貞 *31

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.25「名越朝貞」と同内容。

*2:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.7(または 本稿【系図B】) も参照。

*3:注1前掲「鎌倉政権上級職員表」No.175「二階堂(常陸)行久」の項より。

*4:本項【史料A】参照。

*5:時基の官職が遠江守、法名が道西であったことは 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その24-名越時基 | 日本中世史を楽しむ♪ を参照。

*6:注1前掲細川氏著書 P.19 より。

*7:中務の大輔(なかつかさのたいふ)とは - コトバンク より。

*8:吾妻鏡人名索引』P.187「時基 北条」の項より。

*9:刑部省 - Wikipedia より。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その23-名越教時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*11:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(上)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4。

*12:注2同箇所より。

*13:注1前掲細川氏著書 P.45より。元は仁和寺に所蔵されていた系図の影写本であったといい、北条氏一門については他系図に比べ多くの人物を載せ、その傍註についても詳細で、他史料と比較できる部分についてはかなり正確な記述がなされているという。

*14:注1前掲細川氏著書 P.371 より。

*15:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』(吉川弘文館)P.19 より。

*16:権官については 権官 - Wikipedia を参照。

*17:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.708。『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)において「●●殿」と付けられているのは、北条氏一門か、それに準じた足利・安達氏に限られているようである。

*18:『鎌倉遺文』第37巻28963号。

*19:この頃、父・時基が存命であったことは、注5同箇所を参照のこと。

*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*21:注1前掲細川氏著書 P.32 および P.49 注(21)。

*22:兄に宗基・時賢を載せる点では【系図B】・【系図C】に一致しており、「中務大輔」と注記することからしても朝貞を指していることは明らかである。兄・時賢のほか、叔父に朝賢(田伏十郎入道)を載せており、文字を混同したものとみられる。

*23:「太平記」高時並一門以下於東勝寺自害の事(その3) : Santa Lab's Blog 参照。

*24:「顕」の字は第15代執権・金沢貞顕からの偏諱とみられる。

*25:「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」キャラ名の由来? - たこわさ 参照。

*26:小町 (鎌倉市) - Wikipedia

*27:注1前掲細川氏著書 P.32。

*28:『諸家系図纂』または『続群書類従』所収の「北条系図」では朝貞の兄とし「俗名時賢」との注記がある。すなわち、【系図B】や【系図C】での朝貞の次兄・時賢の法名であったことになる。母親の出自によるものか、"準嫡子"朝貞に次ぐ庶兄であったため、家督継承者から外れたのであろう。特に得宗偏諱を受けなかったのもそのためと思われる。

*29:北条朝貞 - Wikipedia より。

*30:国歌大観 : 五句索引. 歌集部 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*31:北条氏は桓武平氏平維時の末裔を称する平姓の一族である(『尊卑分脈』など)。