佐介貞俊
北条 貞俊(ほうじょう さだとし)は、鎌倉時代後期の武将、御家人、歌人。
『尊卑分脈』等の系図類によると、佐介流北条時俊の子であり、佐介貞俊(さすけ ー)とも呼ばれる(『太平記』、後述参照)。
北条貞時の烏帽子子
【系図A】で明らかな通り、父・時俊に至るまで「時」を通字として代々用いてきたが、貞俊はその慣例に従っていない。「俊」が父からの継字であるから、上(1文字目)に戴いている「貞」字が烏帽子親からの偏諱と考えられるが、これは得宗・北条貞時から一字を拝領したものであろう。貞時は、北条時房とは僅か8歳違いの甥(兄・義時の子)北条泰時から5代目にあたり、【系図A】を見ると時房から同じく5代目にあたる貞尚、貞資、貞宗(のち維貞)、そして貞俊はその「貞」字を受けていることが分かる。貞時の烏帽子子であった彼らはほぼ同世代の人物であったと推測できよう。
*その裏付けとして、祖父・清時は北条時頼執政期に活動が見られ*1、その息子である父・時俊は北条時宗執権期の生誕・元服であったと考えられる*2。
『太平記』に描かれる貞俊の最期
軍記物語の『太平記』巻11「金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事」には貞俊の最期について描かれている。
「佐介左京亮(さきょうのすけ)貞俊」は、表向きは元弘の変まで幕府に従っていたが、得宗・北条高時から冷遇されている*3ことに憤怒の念を抱いていたようで、相手方の千種忠顕から後醍醐天皇の綸旨を渡される形で誘われたことで、1333年5月初め頃に降伏。当初は阿波国への流罪で済まされていたが、同月22日の北条氏一門滅亡(東勝寺合戦)に伴って一族の徹底的な殲滅が強められる方針となったことで斬首に処された、という内容である。
詳細については以下2つの記事をご参照いただければと思う。
尚、処刑に際し、貞俊は辞世の句として次の歌を詠んだという。
「皆人の 世に有時は 数ならで 憂にはもれぬ 我身也けり」
(皆人の 世にあり時者(は) か数ならで うき(には)もれぬ 我身也けり)
▲『英雄百首』に収録の歌川貞秀による佐介左京亮貞俊の絵
この時立ち会っていた僧は、貞俊の依頼により、その太刀と最期に身に纏っていた小袖を形見としてその妻の元へと届けたが、貞俊女房(出自は不詳)は悲嘆のあまり話を最後まで聞くこと無く、傍にあった硯を引き寄せて、形見の小袖の褄に次の一首を書き付けてから、小袖を頭から被り、太刀を胸に突き立て跡を追ったと伝えている。
「誰見よと 信を人の 留めけん 堪て有べき 命ならぬに」
(解釈:誰に見せよと、形見を残されたのでしょう。この悲しみに堪えて生き永らえる命とも思えませんのに。*4 )
(参考ページ)
● 佐介貞俊妻(さすけ さだとしの つま)とは - コトバンク
歌人としての貞俊
『尊卑分脈』において「続千作者」の注記がある通り、歌人でもあった。
前述の辞世の句もその一つであるが、続千=『続千載和歌集』には次の和歌が収められている。
絶えなばと 誓ひし末の 命さへ(命さえ) わがいつはり(我が偽り)に 存へ(ながらえ)にけり *5
平 貞俊 *6
年をのみ 思ひ津守の 沖つ浪 かけても世をば 恨みやはする *7
平 貞俊
外部リンク
● 宮崎繁吉『豪傑の臨終』(大学館、1900年)「佐介貞俊」の項
脚注
*1:北条清時 (時房流) - Wikipedia 参照。典拠は『吾妻鏡』。
*2:佐藤進一・細川重男 両氏の研究によると、延慶3(1310)年7月付の一番引付番文(『斑目文書』)で頭人北条煕時の次位,評定衆長井宗秀の上位に記載されている「安芸守」が時俊とされ(→ 細川氏のブログ記事 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その79-北条時俊 | 日本中世史を楽しむ♪ より)、国守任官年齢のことを考えれば、当時40歳近くには達していたのではないかと思われる。逆算すると1270年頃の生まれとなる。或いは「時」字が時宗からの一字拝領の可能性も考えられるだろう。
*3:『正宗寺本 北条系図』によれば、貞俊の息子は宣俊・時俊といい、高時の「高」字を受けていない。この点も、得宗家と疎遠な関係になっていたことを示すものかもしれない。宣俊の「宣」は時房系北条氏の嫡流・大仏流北条氏(第11代執権・大仏宗宣か)からの偏諱であろう。
*4:「太平記」金剛山寄手ら被誅事付佐介貞俊事(その8) : Santa Lab's Blog より。
*5:国歌大観 : 五句索引. 歌集部 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。