Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

常葉重高

北条 重高(ほうじょう しげたか、1312年頃?~1333年5月22日?)は、鎌倉時代後期~末期の武将、御家人。北条氏一門、常葉流北条範貞の子で、常葉重高とも。通称(輩行名)三郎(越後三郎 → 駿河三郎?)

 

 

「正宗寺本 北条系図」での記載について

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こちら▲の記事でも紹介している通り、『正宗寺本北条系図*1では常葉範貞の子を「高重」と載せ、その通称として「長崎治郎〔ママ、音の共通より次郎の誤記か*2」「左近大夫将監」と注記されている。その他の記載は次の通りである。 

【史料A】

六波羅於番■自害

東鑑ニハ 鎌倉葛西谷東勝寺ニテ 相模入道自害之時 同自害ス 宗トノ一族四十三人門葉人貳百八十人同腹切

※■=「𠫓 十 に辶」(「𨓋」や「𨓫」に類似する漢字)。

鎌倉幕府滅亡時(1333年)に「自害」したという点では共通しているが、そのタイミングとして2通りの説を載せてしまっており、『東鑑』(=『吾妻鏡』)を参考にした旨の記載も見られることから、この注記は後世(恐らくは編纂時の江戸時代)に既存の史料に頼って書かれたものと考えられる。

 

最初の記載は、六波羅探題北方・北条仲時(普音寺仲時)らと近江国番場宿で運命を共にしたことを言っているのであろう。しかし、『太平記*3や『近江国番場宿蓮華寺過去帳』での死亡者のリストでは確認できない。或いは「左近大夫将監」の注記から、この時「越後左近大夫将監」を称していた六波羅探題南方・北条時益と混同したのかもしれない。

 

もう1つの説として、東勝寺合戦で「相模入道」=北条高時法名崇鑑)らに殉じたことを記載する。『東鑑』〔ママ〕に拠ったとするが、『太平記』の誤記である。『太平記』で該当箇所を確認すると、長崎高重摂津道準(親鑒)諏訪直性(宗経)高時長崎円喜(盛宗/高綱)と孫の新右衛門(高直?)城入道(=安達時顕 入道延明)の順に腹を切っていった後、次の者たちがその後を追っている。

【史料B】『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」より一部抜粋

(前略)……是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、…(略)…常葉駿河守範貞…(略)…、名越一族三十四人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人、総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。…(略)…嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

【史料A】と比較すると、「四十三(43)人」と「四十六(46)人」、「門葉人貳百八十(280)人」 と「門葉たる人二百八十三(283)人」*4の間で若干の誤差があるが、【史料A】は一応【史料B】の記述に拠ったものと判断して良いだろう。

しかしながら、名前の類似から長崎高重と同人としてしまったために「長崎治郎」「高重」と記すことになり、「塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人」の中に含めてしまったのであろう。『系図纂要』所収「長崎氏系図」など他の史料で、範貞の息子が得宗被官・長崎氏に養子入りしたという事実は確認できない。

 

但し、常葉重高が「塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人」の中に含まれていたこと自体は否定できず、父・範貞と運命を共にした可能性は十分に考えられる。

 

 

重高の年代(世代)と烏帽子親の推定 

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こちら▲の記事において、父・範貞の生年についての考察を行い、1280年頃の生まれと推定した。自害した時(前掲【史料B】)の享年は50代半ば程度だったことになる。

すると、現実的な親子の年齢差を考えて、重高は早くとも1300年初頭の生まれということになる。但し『尊卑分脈』での記載が「越後三郎」であることからすると、生涯無官であった可能性が高く、恐らく叙爵の年齢に達しないまま幕府の滅亡を迎えたと思われる。

上記記事において、祖父・時範の叙爵年齢が27歳で、父・範貞のそれも同じくらいであったと推定したので、幕府滅亡当時、重高は達していても20代前半の年齢であったのではないか。よって、逆算して1310年頃の生まれではないかと思われる。

 

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▲『尊卑分脈』(国史大系本) より*5

 

その根拠として『尊卑分脈』での記載「越後三郎」に再度注目してみたい。

父が越後守で、その「三郎(三男)」を表す通称名であり、この通称を名乗るには範貞が越後守に在任中である必要がある

範貞が越後守に任官したのは、正中2(1325)年10月26日。元徳元(1329)年12月13日に駿河守に転任し、これが最終官途となった(【史料B】)*6。すなわち、重高はこの間に元服の年齢を迎えたということになる

 

当該期間の得宗北条であり、正中3(1326=嘉暦元)年3月までは執権(第14代)の座にあった。重の「」はその偏諱を許されたものと考えられ、時と重は烏帽子親子関係にあったと判断できる。「重」は高祖父・北条重時の名から取ったものであり、重時系北条氏内の中では庶流であったためか、父に同じく得宗からの偏諱を下(2文字目)に置いている。

 

 

参考外部リンク 

 常葉流北条氏 #北条重高

 

脚注

*1:正宗寺北条系図』。

*2:『諸家系図纂』所収「北条系図」での範貞の子・重高の注記に「次郎」とある。

*3:太平記』巻9「越後守仲時已下自害事」。

*4:門葉は「一門の分かれ」「一つの血筋につながる者」の意(→ 門葉(モンヨウ)とは - コトバンク 参照)。ここでは北条氏一門を指す。

*5:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』(吉川弘文館)P.19。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)より。