Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

平賀惟泰

平賀 惟泰(ひらが これやす、1212年~1295年)は、鎌倉時代前期の武将、御家人

父は松葉資宗(助宗)、母は大中臣惟重の娘。兄に松葉実宗(朝宗)、弟に平賀惟時がいる。松葉惟泰平賀泰重とも。

 

『平賀家文書』所収「平賀氏系譜」 *1での注記の内容を整理すると、次の通りである(以下、年齢は数え年)。 

 

<A説>

● 貞永元(1232)年9月、左兵衛尉に任ぜられる。

● 貞永2(1233)年7月11日「武蔵前司入道殿(=北条泰時亭」にて元服15歳〔ママ〕)。

● 嘉禎元(1235)年、右衛門尉に任ぜられる。

● 延応元(1239)年発狂(21歳〔ママ〕

● 康元元(1256)年11月出家(法名:道円)

● 永仁3(1295)年逝去(84歳)

 

<B説>

上記の一部を「小系ノ年序誤多シ」として、次のように修正。

嘉禄2(1226)年元服(15歳)

貞永元(1232)年発狂(21歳)

永仁3(1295)年逝去(84歳)

 

 

永仁3年に84歳で亡くなったことは確かなようであり、逆算すると建暦2(1212)年生まれとなる。ここから算出される年齢の正確さから<B説>が正しいと分かる。恐らくは元服と「発狂」の年次は、<A説>での当時の年齢をそのまま採用して算出されたものであろう。

15歳で元服を行ったことも確かなようであり、その場所が北条泰時の邸宅であったことも認めて良いだろう。「」の名は、時が加冠役を務め、その偏諱を与えられたものとみられる。北条平賀惟は烏帽子親子関係にあったと判断される*2。尚、注記には「」と書かれており、のちに改名して泰時からの1字を実名の上(1文字目)に戴いたようである。惟泰の「惟」、泰重の「重」の字は、外祖父の大中臣惟重に由来するものであろう*3

 

尚、惟時ら弟たちとは異なり、惟泰は『吾妻鏡』には登場しない。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

 

<最新年表> 

建暦2(1212)年、松葉資宗の次男として生誕。

嘉禄2(1226)年7月11日、3代執権・北条泰時の邸宅にて元服(15歳)。

寛喜3(1231)年、兄・実宗が早世。代わって嫡子となる。

貞永元(1232)年9月、左兵衛尉に任ぜられるが、その後狂気のため出仕を停められる(21歳)。

 嘉禎元(1235)年、右衛門尉に任ぜられる。

康元元(1256)年11月、5代執権・北条時頼に追随して出家(法名:道円)。

永仁3(1295)年逝去。享年84。

 

 

脚注

*1:『大日本古文書』家わけ第十四 平賀家文書 二四八号 P.727

*2:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年)P.181。

*3:系図綜覧. 第2(国立国会図書館デジタルコレクション)所収「姉小路系図」によると、惟重は「三位中将重衡理髪ノ子」であるといい、「重」は平重衡からの偏諱ではないかと推測されている(今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.48)。