Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

平賀惟時

平賀 惟時(ひらが これとき、生年不詳(1230年代後半?)~1304年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。通称および官途は 三郎(新三郎)、左衛門尉(三郎左衛門尉)

『平賀家文書』所収「平賀氏系譜」 *1によると、父は松葉資宗(助宗)、母は天野政景の娘*2。兄に松葉実宗(朝宗)平賀惟泰(異母兄)、弟に平賀泰実(のち油河定泰)*3吉田経宗がいる。松葉惟時とも。

 

同系譜には「西明寺殿亭元服〔ママ〕」と記載されており、出家後 "最明寺禅室" 等と呼ばれた北条時頼(『吾妻鏡人名索引』)の邸宅で元服を遂げたことを伝える。「」の名は、頼から北条氏の通字である「」の偏諱を与えられたものとみられ、北条平賀惟は烏帽子親子関係にあったと判断される*4。「時」の偏諱を下(2文字目)に置いているが、時自身が九条経からの1字をそうしているように、この頃では珍しくもないことであった。或いは時頼同様、本来は惟泰(のち泰重)に対する庶子(或いは準嫡子)であったが故なのかもしれない。「惟」の字は惟泰の外祖父・大中臣惟重に由来するものとみられる。 

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吾妻鏡』での初見は、建長2(1250)年12月27日条「平賀新三郎(実名の初出は同4(1252)年4月3日条「平賀新三郎惟時」)であり、系譜に「左衛門尉 叙爵」と書かれる通り、文応元(1260)年1月11日条「平賀三郎左衛門尉維〔ママ〕」までに左衛門尉に任官したことが確認できる。

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ちなみに、『尊卑分脈』を見ると、二階堂貞藤(道蘊)の嫡男・兼藤(かねふじ)の注記に「平賀左衛門惟時女 正中三(=1326年)二出(=2月出家)道儀卅九(=39才、数え年)」とあり*5、惟時の娘が貞藤に嫁ぎ、兼藤を産んだことが分かる。逆算すると兼藤は1288年生まれとなるから、各親子間の現実的な年齢差を考慮すると、外祖父にあたる惟時は遅くとも1240年代には生まれていたと判断され、『吾妻鏡』での初見時期を考慮して1230年代後半~1240年頃の生まれと推定できる。

 

<最新年表> 

 1230年代後半?:松葉資宗の3男として生誕。

(時期不詳:1246~1250年)5代執権・北条時頼の邸宅にて元服

 建長2(1250)年12月より『吾妻鏡』に登場。

 

康元元(1256)年12月出家(法名:観円)。烏帽子親・時頼の剃髪に追随か。

 嘉元2(1304)年11月5日逝去。

 

 

脚注

*1:『大日本古文書』家わけ第十四 平賀家文書 二四八号 P.727

*2:「平賀氏系譜」には「母天野和泉前司女」と記されるが、「天野和泉前司」と呼称されたのは天野政景である(『吾妻鏡人名索引』P.455)。

*3:「平賀氏系譜」には「四郎右衛門尉」と注記され、『吾妻鏡』では文応元(1260)年正月1日条「平賀四郎左衛門尉〔ママ〕」、同年11月27日条「平賀四郎右〈左〉衛門尉泰実」、弘長元年正月1日条「平賀四郎右衛門尉」として3回登場(『吾妻鏡人名索引』P.326)。活動開始時期が遅れることからしても、当時の「平賀三郎左衛門尉惟時」の弟と判断される。泰実の「泰」は3代執権・北条泰時と直接の関係は無く、泰時の1字を受けた次兄・惟泰(泰重)からの偏諱であろう。

*4:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年)P.181。

*5:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.510。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照。