Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

松葉実宗

松葉 実宗(まつば さねむね、1204年~1231年)は、鎌倉時代前期の武将、御家人

『平賀家文書』所収「平賀氏系譜」 *1によると、父は松葉資宗(助宗)。同系譜に母の記載は無く、わざわざ書かれている弟の松葉(平賀)惟泰(母:大中臣惟重の娘)平賀惟時(母:天野政景の娘)の異母兄なのかもしれない。別名、松葉 朝宗(ー ともむね)。

 

同系譜における松葉朝宗の注記の内容は次の通りである。 

「改実宗」

建保2(1214)年4月19日、鎌倉大臣殿、実名給はしむ。松葉新二郎と号す。(11歳)

安貞元(1227)年、修理亮に任官。

寛喜3(1231)年(月日分からず)、卒去。(21歳〔28の誤りか〕

 

鎌倉大臣殿」は当時の将軍・源実朝(鎌倉右大臣)に比定される*2

そして、実朝元服後の実名を与えたというその名は「」または「」であり、自身の偏諱を下賜したことは間違いない。実朝と松葉新二郎は烏帽子親子関係にあったと判断される*3。恐らく幕府御所で執り行われたものと推測されるが、父・資宗(すけむね)が実朝の学問所番衆を務めていた*4縁により実現したものであろう。資宗は建保7(1219)年に実朝が殺害されるとこれを悼んで出家している法名:行円)*5

 

資宗は「松葉遠江二郎*6または「松葉次郎*7と称されていたようで、「宗」字と「二郎(次郎)」の仮名を継いだ朝宗(実宗)はその嫡男であったことが窺えよう。 

「改実宗」については、「① 実宗と改む(朝宗→実宗)」とも読めるし、「② 実宗を改む(実宗→朝宗)」とも読めるが、同系譜で初名(改名前)を記す際には「初○○」と書かれる *8ようなので、①の可能性が高いだろう。当初実朝の下の字である「」を受けていたが、後に待遇を受けたのか、上の字である「」を許されたと考える方が自然ではないかと思う。

 

資宗の嫡男であった実宗だったが、30歳にも満たない若さで早世。当時の執権・北条泰時の烏帽子子であった弟の惟泰が代わって嫡子となった。

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脚注

*1:『大日本古文書』家わけ第十四 平賀家文書 二四八号 P.727

*2:『大日本古文書』家わけ第十四 平賀家文書 二四八号 P.726 にある「平賀氏系譜」資宗の注記より。

*3:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年)P.181。

*4:武家家伝_平賀氏 より。

*5:注2に同じ。

*6:注2に同じ。

*7:吾妻鏡』建長2(1250)年3月1日条に「松葉次郎入道」、正嘉元(1257)年4月14日条に「松葉次郎助宗法師 法名行円」、同年8月12日条に「松葉入道」と登場し(『吾妻鏡人名索引』P.251「助宗 松葉」の項)、「平賀氏系譜」での注記と照合すれば、建暦2(1212)年3月16日条と建保元(1213)年2月2日条の「松葉次郎」(同書P.526:通称・異称索引)も出家前の助宗(資宗)に同定される。

*8:『大日本古文書』家わけ第十四 平賀家文書 二四八号 P.730 には平賀惟致(初め惟貞、また改め惟景)、その子・貞泰(初め惟常)の例が見られる。