東時常
東 時常(とう ときつね、1253年?~1312年?/1314年?)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。通称は六郎。官途は中務丞(『尊卑分脈』)、左衛門尉。
千葉常胤―東胤頼―重胤―胤行―行氏―時常
父は東行氏。初めは第7代将軍・惟康親王(在職:1266年~1289年)に仕えていたという*1が、正安3(1301)年正月、紀伊国薬勝寺の修築の沙汰人を六波羅探題より命ぜられた「在京人」の「東六郎左衛門入道 并 周防三郎左衛門尉」*2の東氏も時常とみられ、のちには在京御家人であったとされる*3。後者については、美濃国郡上郡山田庄の地頭職を継承したことが契機となり、六波羅探題に伺候する立場になったと考えられている。
また、『尊卑分脈』に「後〔新〕拾作者」とも注記される通り、歌人としても和歌を遺し、勅撰和歌集『続千載和歌集』などに4首が載せられている。素阿弥とも号したという。
【史料A】『続千載和歌集』より
捨てはてん 後こそ人に 世のうさを いはでいとひし 身ともしられめ 平時常
江戸時代に成立の系図集『寛政重修諸家譜』によれば、正和元(1312)年4月3日に越前国大野郷で戦死したという*4が、他方で同3(1314)年11月21日に62歳で亡くなったとも伝わる。後者の説に従うと逆算して建長5(1253)年生まれとなるが、
- 正安3年(算出すると数え49歳)の段階で最終官途=左衛門尉で出家していること
- 1223年または1228年生まれとされる父・行氏*5との年齢差
から考えても妥当な線ではないかと思う。更に実名の「時常」は、祖先・千葉常胤に由来の「常」字に対し、「時」の字は、幕府の執権を務める北条氏からその通字を賜ったものと考えられ、これは1263年から得宗家当主となった北条時宗の偏諱である可能性が高いことも、生年を推定する根拠となる。息子の東貞常*6とともに得宗家との関係性が窺え、当初、得宗が擁立する親王将軍への奉公もその協調姿勢の一環であろう。得宗専制が強まる中で事実上御内人(得宗被官)化していたと思われる。
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尚、正和6(1317)年正月7日付の次の書状において、「山田庄内馬庭郷内為真名」を「平金熊女」に譲り渡す「平宗常(むねつね)」も、その名乗りや、山田庄が東氏の所領であることを踏まえると、近親者であった可能性が高い。実名は時常と同名を避け、北条時宗の偏諱「宗」を賜ったものとみられ、恐らく時常の弟(東宗常)ではないかと推測される。
【史料B】正和6(1317)年正月7日付「平宗常譲状并安堵外題」(宮内庁書陵部 蔵『青蓮院旧蔵文書』)*7
嘉暦三年十二月十日 相模守**(花押)
譲渡 所領事
平金熊女所
美濃国山田庄馬庭郷内為真名
但若無実子者、宗常子孫中仁、何にても随有志可譲与也、
右、所譲与之状如件
正和六年正月七日 平宗常(花押)
参考外部リンク・文献
● 東時常 ー 東氏
● 今週のコラム「歴史学の視点 ー万場の場合ー」|地域情報マガジンWinds!「ウィンズ」(2016年12月12日投稿)
● 今週のコラム「牛と馬(2)」|地域情報マガジンWinds!「ウィンズ」(2017年07月31日投稿)