Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

東時常

東 時常(とう ときつね、1253年?~1312年?/1314年?)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。通称は六郎。官途は中務丞(『尊卑分脈』)、左衛門尉。

 

【東氏系図】『尊卑分脈』より

千葉常胤―胤頼―重胤―胤行―行氏―時常

 

父は東行氏。初めは第7代将軍・惟康親王(在職:1266年~1289年)に仕えていたという*1が、正安3(1301)年正月、紀伊国薬勝寺の修築の沙汰人を六波羅探題より命ぜられた「在京人」の「東六郎左衛門入道 并 周防三郎左衛門尉」*2の東氏も時常とみられ、のちには在京御家人であったとされる*3。後者については、美濃国郡上郡山田庄の地頭職を継承したことが契機となり、六波羅探題に伺候する立場になったと考えられている。

 

また、『尊卑分脈』に「後〔新〕拾作者」とも注記される通り、歌人としても和歌を遺し、勅撰和歌集続千載和歌集』などに4首が載せられている。素阿弥とも号したという。 

【史料A】『続千載和歌集』より

捨てはてん 後こそ人に 世のうさを いはでいとひし 身ともしられめ 平時常

 

江戸時代に成立の系図集『寛政重修諸家譜』によれば、正和元(1312)年4月3日に越前国大野郷で戦死したという*4が、他方で同3(1314)年11月21日に62歳で亡くなったとも伝わる。後者の説に従うと逆算して建長5(1253)年生まれとなるが、

  1. 正安3年(算出すると数え49歳)の段階で最終官途=左衛門尉で出家していること
  2. 1223年または1228年生まれとされる父・行氏*5との年齢差

から考えても妥当な線ではないかと思う。更に実名の「常」は、祖先・千葉常胤に由来の「常」字に対し、「」の字は、幕府の執権を務める北条氏からその通字を賜ったものと考えられ、これは1263年から得宗家当主となった北条偏諱である可能性が高いことも、生年を推定する根拠となる。息子の東貞常*6とともに得宗家との関係性が窺え、当初、得宗が擁立する親王将軍への奉公もその協調姿勢の一環であろう。得宗専制が強まる中で事実上御内人得宗被官)化していたと思われる。 

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尚、正和6(1317)年正月7日付の次の書状において、「山田庄内馬庭郷内為真名」を「平金熊女」に譲り渡す「平宗常(むねつね)」も、その名乗りや、山田庄が東氏の所領であることを踏まえると、近親者であった可能性が高い。実名は時常と同名を避け、北条時偏諱」を賜ったものとみられ、恐らく時常の弟(東宗常)ではないかと推測される。

 

【史料B】正和6(1317)年正月7日付「平宗常譲状安堵外題」宮内庁書陵部 蔵『青蓮院旧蔵文書』)*7

 (外題)「任此状可令領掌之由、依仰下知如件、
      嘉暦三年十二月十日 相模守**(花押)

   譲渡  所領事
        平金熊女所
    美濃国山田庄馬庭郷内為真名
     但若無実子者、宗常子孫中仁、何にても随有志可譲与也、

   右、所譲与之状如件

     正和六年正月七日   平宗常(花押)
 
 **相模守=当時の執権(16代)・赤橋守時

 

 

参考外部リンク・文献

 東時常 ー  東氏

 東時常(とう ときつね)とは - コトバンク

 東氏 - Wikipedia

 『大和村史 通史編 上巻』

 今週のコラム「歴史学の視点 ー万場の場合ー」|地域情報マガジンWinds!「ウィンズ」(2016年12月12日投稿)

 今週のコラム「牛と馬(2)」|地域情報マガジンWinds!「ウィンズ」(2017年07月31日投稿)

 

脚注

*1:東時常(とう ときつね)とは - コトバンク より。

*2:同月11日付「紀伊国薬勝寺沙汰次第注文」(所収:『紀伊風土記』附録四 古文書部四 薬勝寺)。『鎌倉遺文』第27巻20701号。

*3:東時常 ー  東氏 より。

*4:東時常−貞常 より。

*5:東行氏 ー 東氏 より。

*6:東氏の末裔である建仁寺住持・正宗龍統が書き記した『故左金吾兼野州太守平公墳記』により、時常に「貞常」という子がいたことが確認でき、北条貞時偏諱授与者とみられる(→ 東貞常 ー  東氏、および 東貞常 - Henkipedia を参照)。

*7:『鎌倉遺文』第34巻26068号。その他『岐阜県史』中世編4、『大和町史』にも収録されている。