京極時綱
佐々木 時綱(ささき ときつな、1270年頃?~1286年頃?)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。 京極流佐々木宗綱の嫡子で、京極時綱(きょうごく ー)とも呼ばれる。仮名は又源太か。官途は右衛門尉。
『尊卑分脈』には「右〔または左〕門尉」、「先父早世 十七才」(※年齢は数え年、以下同様)と注記されるのみである*1。これだけでは具体的な生没年を明らかにすることは出来ない。
"父に先立って早世した" とあり、父・宗綱の項には「永仁五九廿死五十才」*2とあるので、亡くなったのが永仁5(1297)年9月20日より前であったことは確実となる。また逆算すると宗綱が宝治2(1248)年生まれであることも分かる*3ので、現実的な親子の年齢差を考えると、時綱の生年は早くとも1268年頃のはずである。
一方で、前述した通り 時綱の享年は17と明らかにされているから、父と同年の死去の場合だと1281年生まれということになる。 従って、時綱は1268~1281年の間に生まれたということになる。
次に考えたいのが実名である。「時綱」の「時」は鎌倉幕府執権・北条氏の通字であり、一方の「綱」が父・宗綱から継承したものであることを踏まえても、北条氏から使用を認められたものと考えられる。確実とみられるものでも、京極氏では伯父(宗綱の長兄)頼氏、時綱より後にも弟の貞宗やその甥(姉の息子)にあたる貞氏・高氏(佐々木導誉)兄弟が北条氏得宗家から一字を拝領している。
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『尊卑分脈』等の系図類で確認できる宗綱の男子は、祐信・時綱・貞宗である。
長男の祐信は「不孝」のため嫡子には定められなかったが、得宗や父からの1字を受けていない(但し「信」は祖父・氏信に由来)こと、父と同じ「四郎」を称したものの、2人の弟が「二郎」「三郎」を名乗っていることからも窺える。
三男・貞宗は、父・宗綱が亡くなった当時まだ11歳であったが、兄・時綱が既に亡くなっていたので嫡子であったことは間違いなく、北条貞時の偏諱を受けたのもそれ故と考えられる。或いは宗綱の死に伴って急遽家督を継ぐことになったので、急ぎ元服が行われた可能性も考えられよう。
そして時綱は、祐信に代わって当初の嫡子であったが、貞時の「貞」ではなく「時」字を受けていることから、その先代・北条時宗の偏諱と判断できよう。前述の1268年から執権職に就いていた時宗は、亡くなる1284年まで務めており*4、同年の段階で時綱は元服の適齢に達していたと考えられる。従って、時綱の生年は1268年~1270年代前半であろう。
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ところで、『勘仲記』(『兼仲卿記』)弘安9(1286)年3月27日条を見ると、同日の春日行幸に際し、「後陣」「右衛門少尉」として供奉する「源時綱、佐々木又源太、」なる人物が確認できる*5。佐々木哲氏はこの者を大原重綱の子・時綱に比定される*6が、『尊卑分脈』によれば左衛門尉だったようであり、どちらかと言えば「右門尉」と注記される本項の京極時綱に当てる方が相応しいのではないか。佐々木氏が説かれるように「又源太」というのは本来、源太(源氏の長男)の源太(長男)を表す通称であり、長兄・祐信に代わる嫡子として称されたものであろう*7。仮にこの年に亡くなったとして逆算すると1270年生まれとなり、右衛門尉任官の年齢を考えると生年がこれよりさほど下ることはないと思う。よって、生年は1270年代前半であったと判断される。
(参考資料)
① 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション
② 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№100-京極宗綱 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)
脚注
*1:資料①より。
*2:資料①・②より。
*3:資料②より。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*5:勘仲記 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第21巻15863号。
*6:佐々木大原氏系譜(2訂): 佐々木哲学校、大原重綱: 佐々木哲学校 より。
*7:『続群書類従』所収「足利系図」によれば、父・足利貞氏(三郎、讃岐守)の跡を継いでいた兄・高義(左馬助)の早世後に元服を遂げた足利高氏(のちの尊氏)は通称「足利又太郎」と号したといい、これに類似した例になるのではないか。