京極宗氏
佐々木 宗氏(ささき むねうじ、1269年~1329年)は、鎌倉時代中期から末期にかけての武将、御家人。京極宗氏(きょうごく ー)とも。
上の図に掲げた『尊卑分脈』の佐々木氏系図には、宗氏に関する注記も見られる。
それによれば、嘉暦4(1329)年7月16日に61歳(数え年、以下同様)で亡くなったといい*1、逆算すると文永6(1269)年生まれとなる。
本名(初名)が宗信(むねのぶ)であったことも記載されているが、「信」が祖父氏信―父満信と続いてきた通字であるから、改名後も引き続き用いた「宗」が烏帽子親からの一字拝領と考えられる。文永3(1266)年に解任された6代将軍・宗尊親王*2ではあり得ず、8代執権・北条時宗(在職:1268~1284年*3) からの偏諱で間違いなかろう*4。紺戸淳氏は通常10~15歳ほどで元服が行われたとして、宗氏の元服の年次を1278~1283年の間と推定されている*5。
*上の系図では、弟・黒田宗満(くろだ・むねみつ)についても、延文2(1357)年に79歳で亡くなったと書かれており、逆算すると弘安2(1279)年生まれとなるが、同7(1284)年4月の北条時宗逝去当時は6歳であり、時宗以降の歴代得宗ですら7歳での元服であったから、この時までに「宗」の一字を拝領することはあり得ないと考えて良いだろう。従って、宗満の場合は父・兄から各々1字を取っての名乗りと推測される。或いは、兄である宗氏が弟の加冠を務めたのかもしれない。
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のちに祖父・氏信の「氏」を用いて宗氏に改名。その時期は明らかにされていないが、嘉元3(1305)年に本家筋の京極貞宗が戦傷死し、その姉婿であったが故に京極流宗家を相続した折ではないかと思われる。当初嫡流を継ぐ予定であった伯父・頼氏の名乗りを意識した可能性があり、息子のうち、貞氏(満信流の嫡男)・高氏(宗綱流の嫡男)も「得宗の偏諱+氏」で名前を構成している。
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冒頭の『尊卑分脈』系図によれば、宗家継承からさほど経たない、応長元(1311)年10月に出家し、賢観と号した。『諸家系図纂』では10月26日*6としており、同日の得宗・北条貞時の死*7を悼んでの剃髪であった可能性が高い。このためか、史料上で宗氏の表立った活動は確認できず、子の貞氏・高氏兄弟が幕府に奉公することとなる。
(参考ページ)
脚注
*1:『佐々木文書 四』所収「佐々木系図」にも同様の記載が見られる。『大日本史料』6-38 P.72 を参照のこと。尚、『系図纂要』では応長元(1311)年10月の出家としながら、正安3(1301)年8月28日での死去とし(→同前P.75)矛盾しているが、単に前者は『尊卑分脈』、後者は「徳源院本 京極系図」の記載(→同前P.73)に従っただけとみられるので、信憑性はないと考えて良いだろう。
*2:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)より。
*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図。
*5:前注紺戸氏論文 P.18。