Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

葛西宗清

葛西 宗清(かさい むねきよ、1264年頃?~没年不詳(1305年以降))は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。葛西氏宗家第5代当主。仮名は三郎。官途は左衛門尉、のち壱岐守か。葛西清経の嫡男とされる。 

 

勘仲記』を見ると、弘安7(1284)年12月9日、新日吉の小五月会で七番の流鏑馬が行われた際に三番手を務めた人物として「葛西三郎平宗清」の名がある*1。これが史料における初見であろう*2。単に「三郎」(初代・清重(豊島清元の3男)以降、清親・時清・清経と代々の家督継承者の称号となっていた)と称するだけで無官であることから、元服してさほど経っていなかったと考えられ、「」の名も、葛西氏通字の「清」に対して、「」は同年4月に逝去した第8代執権・北条時からの偏諱と推測される(この点詳細については後述)。 

『龍源寺過去帳』には父・清経が弘安10(1287)年11月7日に没したとあり、その翌年の正応元(1288)年7月9日付「関東下知状」(『陸奥中尊寺経蔵文書』)の文中に「葛西三郎左衛門尉宗清」「惣領宗清」等と書かれている*3。父の死を受けて「惣領」を継いだ宗清が、間もなく平泉毛越寺中尊寺と争論を交えていたことが分かり、この時までの左衛門尉任官も確認できる。

同下知状による幕府の裁決によって一旦解決したかに見えたが、永仁2(1294)年になると「寺領山野」の事について平泉中尊寺の衆徒らの訴えがあり、12月25日には幕府が「壱岐殿」に宛てて、代官・明資の咎として濫妨の防止を命じている(『中尊寺文書』)*4。恐らくこの「壱岐」は宗清ではないかと考えられている*5

これが正しければ、家祖・葛西清重と同じ壱岐守への任官をこの時までに果たしたことになり、年齢も国守任官に相応しい30代には達していたと考えられる。仮に30歳とすると1264年生まれとなるが、初見の1284年では21歳、25歳となった1288年までに(20代前半で)左衛門尉任官を果たしたことになり、他の御家人の例と比較しても妥当と言える。よって生年は1260年代前半と推定され、文永3(1266)年に解任された6代将軍・宗尊親王*6から「宗」字を賜ることはあり得ないと考えて良いだろう。従って、8代執権・北条時宗(在職:1268~1284年*7を烏帽子親として元服したと判断される

 

その後、嘉元3(1305)年にも、中尊寺の助律師・頼潤(らいじゅん)をはじめとする寺院群と宗清が相論となっている。寺側は「宗清奸曲(奸曲は「心に悪だくみがあること・人」の意*8として、寺領の押領など数々の罪状を論い、「重科」に処せられることを望んでおり(『中尊寺文書』)*9、同年までの生存は確認できる。その後は史料が無く不明。 

 

(参考ページ)

 葛西宗清 ー  千葉氏の一族

 

脚注

*1:勘仲記. 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.30 参照。尚、葛西氏は桓武平氏より分かれた秩父平氏の一門・豊島氏の支流で、平姓を称した家柄である(→ 葛西氏 - Wikipedia)。

*2:葛西宗清 ー  千葉氏の一族(外部リンク)では、『吾妻鏡』建長8(1256)年6月29日条にある「伯耆三郎左衛門尉 同三郎」を清経・宗清父子に比定して、宗清の初出とする。これが正しければ宗清は元服を済ませた後の10代後半であったことになるが、それより30年近く経った『勘仲記』の段階で無官であり、その4年後の「関東下知状」までに40代でありながら左衛門尉に任官したというのは妙である。よってこれは誤りであろう。同年8月15日条に「伯耆新左衛門尉清経」とあることから、むしろ「同三郎」は左衛門尉任官直前の清経ではないかと思われる。

*3:『鎌倉遺文』第22巻16692号。『史料綜覧』正応元年七月 P.14

*4:『鎌倉遺文』第24巻18716号。

*5:葛西宗清 ー  千葉氏の一族葛西一族の系図

*6:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)より。

*8:奸曲・姦曲(かんきょく)とは - コトバンク より。

*9:葛西宗清 ー  千葉氏の一族 より。