六角頼綱
佐々木 頼綱(ささき よりつな、1242年~1311年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。佐々木泰綱の嫡男。仮名は三郎。官途は左衛門尉、備中守。法名は崇西。子に頼明、宗信、盛綱(成綱)、時信など。
のちに六角氏となる近江宇多源氏佐々木氏嫡流の当主で、父・泰綱が京都六角堂に邸宅を構えたことにちなんで*1六角頼綱(ろっかく ー)とも呼ばれる*2。
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『吾妻鏡』での元服の記事の中では珍しく(北条氏以外の)一般御家人に関するものであり、その様子を伝えるものとして貴重な情報である。
9歳になった佐々木泰綱の息子が元服を行った邸宅の主「相州」については、『諸家系図纂』の佐々木氏系図でも「建長二十二三於頼時〔ママ〕宅元服、九歳、…」*3と書かれているように、江戸時代以降の研究で変わらず北条時頼とされてきた*4。当時の執権で相模守に任官していた。実際【北条時頼 → 佐々木頼綱】と「頼」の偏諱が与えられていることが窺え、邸宅の主である時頼自らが烏帽子親(加冠役)を務めたことが推測される*5。
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『吾妻鏡』での表記を見ると、正嘉元(1257)年12月29日条からは「壱岐三郎左衛門尉頼綱」と変化しており、16歳で左衛門尉に任官していたことが分かる*6。文永4(1267)年10月10日付「長命寺僧宛左衛門尉(頼綱)書下」では「左衛門尉」と署名していた*7ものが、同寺の寺田を安堵した建治2(1276)年9月30日付の長命寺衆徒宛書状では「備中守」と署名しており*8(いずれも『近江長命寺文書』)、その間20代後半~30代前半(恐らくは父・泰綱同様に28歳)で備中守に補任されていたことが分かる*9。但し翌3(1277)年末には退任して「佐々木備中前司」と称されている(『建治三年記』12月2日・27日条)*10。
『尊卑分脈』には、延慶3(1310)年12月24日(新暦:1311年1月22日*11)に67歳で亡くなったとの記載があり*12、逆算すると1244年生まれとなる。若干誤差があるものの、ほぼ整合性は取れていると言え、元服の年齢が9歳を下回るとは考えにくいから、『吾妻鏡』に記載の年齢が正確で、『尊卑分脈』は享年69とすべきところの誤記と考えられる*13。
当時としては比較的長寿と言えるが、延慶元(1308)年7月、神崎郡柿御園より小脇郷にいたる新川(用水路)を開いたことをきっかけに前年末から対立していた興福寺衆徒の強訴(『興福寺三綱補任』)を受けて頼綱が尾張国に配流されたことが次の史料2点で確認できる*14。これが史料上での終見であり、失意のうちに亡くなったのであろう。
●【史料B】『興福寺略年代記』延慶元年条:
●【史料C】『武家年代記』裏書・延慶元年7月9日条:
(参考ページ)
● 備中守頼綱: 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ記事)
脚注
*2:六角頼綱(ろっかく よりつな)とは - コトバンク より。尚、従兄弟にも同じく佐々木頼綱を名乗った人物がいる(→ 朽木(高島)頼綱)。
*3:『大日本史料』5-34 P.155。『諸家系図纂』「佐々木系図」(P.9)。
*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図。山野龍太郎 「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』、思文閣出版、2012年)P.166 表3。今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.47・49。
*5:前注に同じ。
*6:備中守頼綱: 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ記事)より。
*7:『鎌倉遺文』第13巻9780号。
*8:『鎌倉遺文』第16巻12477号。
*9:備中守頼綱: 佐々木哲学校(佐々木哲氏のブログ記事)より。
*11:佐々木頼綱 - Wikipedia より。
*12:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.427。新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.72 も参照のこと。
*13:備中守頼綱: 佐々木哲学校 より。
*14:前注に同じ。