Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

長井宗秀

長井 宗秀(ながい むねひで、1265年~1327年)は、鎌倉時代後期の御家人、幕府官僚。 父は長井時秀、母は安達義景の娘。大江宗秀(おおえ ー)とも呼ばれる。通称および官途は備前太郎、宮内権大輔、掃部頭法名道雄(どうゆう)

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『常楽記』嘉暦2(1327)年条を見ると次の記載が見られる。

「十一月七日 長井掃部頭入道道雄*1他界。六十三乙丑誕生

同年に長井入道道雄(どうゆう) なる人物が63歳(数え年)で亡くなったとあり、逆算すると文永2(1265)年生まれとなる。同年の干支も「乙丑(きのとうし)*2で矛盾はない。 

その前年、嘉暦元(1326)年7月日付「東大寺衆徒等申状土代」の文中に「長井掃部入道道於当庄地頭職者、道雄可領知之条由緒分明也、」とあり*3長井入道道雄美濃国茜部庄の地頭であったことが確認できる。同庄は翌年の道雄の死後、1330年代初頭には長井高冬(のちの挙冬、系図類では宗秀の孫)が地頭であったことが確認でき*4、大江長井氏であることは間違いないと判断できる。

 

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尊卑分脈』で長井氏の系図を見ると、「掃部頭」 の官途が注記されるのは長井宗秀のみである(上図)。よって「長井掃部頭入道(道雄)」=宗秀と判断される。細川重男はその裏付けとして『門司文書』所収「中原系図」上で宗秀の註に「嘉暦二九月死」(没年が『常楽記』に一致)と書かれていることを紹介の上で、『鎌倉年代記』正安3(1301)年8月22日の引付頭人交名では「(五) 宗秀」となっていたものが、翌乾元元(1302)年2月18日の同交名では「(五) 道雄」と変化していることに着目して、その間 9代執権・北条貞時の剃髪に追随して出家したのではないかと推測された*5

これが正しければ、掃部頭入道=宗秀が文永2年生まれということになるが、その裏付けとなるのが「」という実名である。

上図の『尊卑分脈』でも明らかな通り、泰秀以降の長井氏嫡流の当主が「得宗偏諱+通字の "秀" 」で名前を構成していたことは紺戸淳が既に指摘されている通り*6で、同氏は宗秀の元服1274~1279年の間に行われたと推定の上で当時の8代執権・北条時から偏諱を受けたと説かれている*7生まれた翌年(=文永3(1266)年)に解任された6代将軍・宗尊親王*8からの一字拝領ではあり得ず、問題ないと思われる。 

史料上での初見は、『関東評定衆伝』弘安5(1282)年条、この年の4月26日に「左衛門尉藤原行藤」こと二階堂行藤時藤貞藤兄弟の父)とともに「備前〔太〕郎大江宗秀」が引付衆に加えられたという記事である*9。 通称名備前太郎)は当時の備前守=長井時秀の「太郎(長男)」を表すものだが、この時は元服からさほど経っていなかったので無官であったことが分かる*10時宗もまだ存命であり(1284年に死去*11、その偏諱」が許されたことが確認できよう。

 

その他、活動経歴などについては次のページを参照のこと。

 長井宗秀 - Wikipedia

 長井宗秀(ながい むねひで)とは - コトバンク

 

脚注

*1:この部分法名について、翻刻である『常楽記』(群書類従本)では「道應(=道応)」となっているが、『常樂記』(龍門文庫蔵古写本)で確認してみると「道雄」と読める。恐らく誤写であろう。常楽記 - Wikipedia には「類従本を龍門文庫蔵古写本と対校するに、前者に誤写・誤脱が認められるが、一方で古写本の虫損部分を類従本によって補い得る記事も少なからず、双方ともに参照すべきである」とあるが、まさにその一例である。

*2:1265年 - Wikipedia より。

*3:『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十一 P.61 一八九号

*4:長井挙冬 - Wikipedia 参照。

*5:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.135「長井宗秀」の項 より。

*6:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図、P.16~17。長井高冬(挙冬)はこの構成の例外であるが、北条高時偏諱を受けており、また別に "長井高秀" なる者の実在も確認されている(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№138-長井高秀 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事))。高秀については高冬の次兄・広秀の初名ではないかと推測する。詳細については 北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia〔表C〕補注(14)・(15) を参照。

*7:前注紺戸氏論文 P.16。

*8:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*9:『編年史料』伏見天皇紀・弘安5年3~6月 P.41

*10:同じく『関東評定衆伝』によると、この年の10月29日には宮内権大輔に任官しており、これが初昇進である。注5前掲職員表 および 群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション を参照のこと。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむより。