Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

長井時秀

長井 時秀(ながい ときひで、1242年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代中期の御家人、幕府官僚。大江時秀(おおえ ー)とも呼ばれる。

 

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生没年未詳だが、父・泰秀が1212年生まれ、嫡男・宗秀が1265年生まれであるから、おおよそ1232年~1245年の間には生まれているはずである。 『尊卑分脈』には佐々木信綱(1181-1242*1)の娘が母であったとの記載があり長井宗秀 - Henkipediaの記事参照)、こちらも生年を推定する根拠になるだろう。

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 また『吾妻鏡』での初見は、宝治元(1247)年11月15日条、この日に開催された鶴岡八幡宮放生会の参列者の中で後陣の随兵の一人として挙げられている「長井太郎」であり*2、「太郎」の仮名は元服の際に称するのが普通であることから、この時までに元服を済ませた可能性が高い。

 

前田治は、父・泰秀、子・宗秀がともに18歳で叙爵していることから、五位相当の宮内権大輔に任官した正元元(1259)年*3当時、18歳であったと推定された*4。これに従って逆算すると1242年生まれ。前述の内容と照らし合わせると、『吾妻鏡』初見までに6歳程度で元服を済ませたのかという疑問は残るが、ほぼ問題なく整合性はとれ、生年が1230年代後半~1242年の間であることは確実と言って良いだろう。文永8(1271)年に備前守となった*5時、30代前半ということになるが、こちらも国守任官の年齢として相応である。

 

 以上の考察に基づくと、元服当時の執権は5代・北条時頼 (在職:1246~1256年) である*6。「秀」の名は、「秀」が父・泰秀からの継字であるから、「」が頼が烏帽子親となって偏諱を与えたものと考えて良いだろう*7秀―秀と続いた得宗家との烏帽子親子関係は、嫡男・秀以降も続くことになる。 

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(参考ページ)

 長井時秀 - Wikipedia

 長井時秀(ながい ときひで)とは - コトバンク

 

脚注

*1:佐々木信綱(ささきのぶつな)とは - コトバンク より。

*2:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.16。尚『吾妻鏡』における実名の初見は、正嘉元(1257)年10月1日条「長井太郎時秀」である。

*3:『関東評定衆伝』正元元年条『史料総覧』5編905冊 P.39

*4:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」 別表1 註釈(8)。田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)P.226

*5:『関東評定衆伝』文永8年条

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)より。

*7:注2紺戸氏論文 P.15系図、P.16~17。尚、「時」は元々北条氏の通字であるが、時頼がこの字を下賜した例としては、武田時綱(『甲斐信濃源氏綱要』)、平賀惟時(『平賀家文書』所収「平賀氏系譜」)などが確認できる。