Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

長井貞秀

長井 貞秀(ながい さだひで、1280年頃?(1280年代前半)~1308年3月12日)は、鎌倉時代後期の御家人、幕府官僚。大江貞秀(おおえ ー)とも。父は長井宗秀、母は北条(金沢)実時の娘。

 

 

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▲「貞秀」の署名と花押

 

史料における貞秀

初見:六位蔵人時代 ― 烏帽子親の推定

史料上において長井貞秀は、永仁2(1294)年、公家の日記に初めて登場する。以下関連のものを紹介する*1

 

【史料1-a】『勘仲記』永仁2年3月5日条*2

 関東甲斐宮内権大輔宗秀子息蔵人左衛門少尉貞秀、今夕初参遂従事、……件貞秀任廷尉、……

【史料1-b】『実躬卿記』永仁2年3月5日条*3

 東使子息六位初参事

 抑東使甲斐宮内大輔宗秀子息貞秀昇殿、今夜初参云々、……

 

【史料2-a】『勘仲記』永仁2年3月6日条*4

 今日蔵人貞秀行殿上台盤、……貞秀取両貫首次酌、……

【史料2-b】『実躬卿記』永仁2年3月6日条*5

 初参六位貞秀著台盤事

自今日禁裏五日番也、仍著直衣参 内宿侍、後聞、今日初参六位貞秀著□〔臺=台〕盤、両貫首・五位職事三人・六位、此外内蔵頭家相、等□〔著〕□行台盤、……

 

【史料3】『勘仲記』永仁2年3月10日条*6

…今夕蔵人貞秀被宣下検非違使、上卿権中納言為兼、頭左大弁頼藤朝臣奉行、貞秀候横敷、…

 

【史料4】『実躬卿記』永仁2年3月18日条*7

 蔵人貞秀畏事

今夜新蔵人大江貞秀 東使宗秀子息、廷尉之後申畏、仍為見物密々遣出見之、其儀、先直垂・切烏帽男帯剣、廿人前行、次〔看 脱字か?〕督長二人、烏帽、如木、取松明、次貞秀乗馬、…

翌19日条にも「宗秀蔵人左衛門尉検非違使大江貞秀」とあり*8

 

【史料5】『実躬卿記』永仁2年3月22日条*9

(前略)

 外衛

  左衛門府

 権佐定資 大江貞秀 中原明治 已上検非違使

(以下略)

 

【史料6】『実躬卿記』永仁2年4月8日条*10

 潅仏条々事

 六位蔵人判官説藤・新蔵人判官貞秀 東使子息、参候、今夜申大尉拝賀、……

 

大江姓であること、弘安5(1282)年10月29日に宮内権大輔に任ぜられた長井宗秀*11が永仁2年2月に東使として上洛していたことが確認できる*12こと、『尊卑分脈』の大江氏系図に一致すること*13 などから、上記史料での宗秀・貞秀父子が長井氏であることは確実である。

【史料1】での「甲斐宮内権大輔宗秀」という通称名は、父が甲斐守で、宗秀が宮内権大輔であったことを表すものであるが、弘安5年の宮内権大輔任官時まで「備前太郎」と称していた*14通り、宗秀の父・時秀備前守であり、この点では奇妙に感じられる。しかし、『勘仲記』『実躬卿記』がともに公家(各々作者は、広橋 [勘解由小路] 兼仲 / 正親町三条実躬)の日記であることも考慮すれば、最終官途が甲斐守であった長井泰秀と混同された可能性は十分あり得よう。或いは、特に誤りではなく泰秀の子孫ということでそう呼称されていたのかもしれず、かえって大江長井氏の人物であることが裏付けられよう。 

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従って上記史料当時、1265年生まれと判明している長井宗秀は30歳で、元服を済ませ「」と名乗る息子がいたことになる。その名は、これまでの歴代当主に倣って、当時の執権・北条 (在職:1284~1301年) 偏諱を受けたものであることが窺え*15、父・宗秀との年齢差も考慮すると、この頃元服の適齢である10~15歳程度であったと判断される。そして、この頃の貞秀は父に同行して上洛し、六位・蔵人・左衛門少尉(左衛門尉)・検非違使となっていたことが分かる。

 

尚、同族で六波羅評定衆となっていた大江茂重(長井茂重,時秀の従兄弟で、上山宗元長井宗衡兄弟の父にあたる)の私家集『茂重集』180・181号の詞書には、

新蔵人貞秀、あづま(東)へた(発)ち侍(はべ)りてまたの日、あめ(雨)のふ(降)り侍りければ、大江宗秀のもとへ申し送りける」

 とあり、父・宗秀が東使として在京の最中に、貞秀は一足先に鎌倉へ下向したようである*16

 

五位叙爵後・中務少輔時代 ー 生年の推定

乾元元(1302)年12月7日の北条実政鎮西探題、貞顕の叔父にあたる)逝去を伝える金沢貞顕の書状(『金沢文庫文書』)に「就中(なかんづく)〔=中〕一級御免御教書一昨日十四日到来」の一文がある*17。「中書」とは、貞顕の従兄弟(貞秀母が金沢実時の娘=貞顕の叔母)にして親交のあった長井貞秀で、当時中務少輔従五位上相当・次官*18に在職中だったのでその唐名で呼ばれていた*19。位階一級の昇進をしたと伝えており、この時従五位上に昇叙したと考えられる*20

『実躬卿記』嘉元2(1304)年3月20日条に「関東中務少輔貞秀越中前司時藤法師等上洛」とあり、東使として上洛した長井貞秀がこの当時も中務少輔であったことが窺える*21

 

前田治は、曽祖父・泰秀、父・宗秀がともに18歳で叙爵していることから、

 永仁2(1294)年、六位・蔵人・左衛門少尉・検非違使(14)

永仁6(1298)年、叙爵(=従五位下(18)

乾元元(1302)年、従五位上に昇叙(23〔ママ、22の誤りか?〕

と推定されている*22。次節で述べるが、26歳頃には長官級の兵庫頭に昇進しており、各々の昇進・任官年齢は概ね相応であると言えよう。逆算すると1280年頃の生まれとなる。 

 

"兵庫頭" 貞秀の死没について

嘉元4(1306=徳治元)年4月25日、第8代将軍・久明親王の代官として鶴岡八幡宮、伊豆・筥根二所権現に参詣するが、この時には兵庫頭従五位上相当・長官*23への任官が確認できる。典拠は次の史料2点*24

【史料7-a】北条九代記(または『鎌倉年代記』裏書)徳治元年条

「今年四月廿五日将軍二所御参詣、御代官長井兵庫頭貞秀

【史料7-b】武家年代記』裏書・嘉元4(=徳治元)年条

「嘉元四年四廿五将軍二所御参詣御代官長井兵庫頭貞秀

 

兵庫頭任官後には兵庫寮の唐名「武庫署」*25にちなんで、金沢貞顕などから「(長井)武庫」とも呼ばれていたが、次の貞顕書状が出された時、「武庫」=貞秀が既に亡くなっていたことが確認される。 

【史料8】「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)より*26

去月廿三日禅札今月四日到来、条々承り候ひ了(おわ)んぬ、武庫の事、内外に就(つ)き、殊に憑み奉り候き、また、関東譜代の重臣、其(そ)の性 家を稟(う)く、尤(もっと)も、君がため、家がため、器用相(あい)叶い候か、就中(なかんづく)南殿・谷殿の御悲歎察し申し候の際、いよいよ愁吟に添い候、無常の然らしむるの理、中眼涙を催し候、存生の間は、一向心安く罷り過ごし候のところ、……(以下略)

貞顕の叔母(実時の娘)とされる南殿*27谷殿永忍(やつどのえいにん)*28が歎き悲しんだというから、「武庫事」の内容は "貞秀の死去" と考えられ、この書状はそれを伝える第一報が発せられた後のものとされる*29。 

【史料9】「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)より*30

遂申、洒掃禅門之御悲歎、併察申候、定無比類事候歟……(以下略)

別の書状でも貞顕は、洒掃禅門=父である長井宗秀掃部頭道道雄)のご悲嘆は比類なき事と察すると述べており、貞秀の急死が周囲の人々に大きな衝撃を与えたことが伝わってくる。

 

永井の研究によると、『諷誦願文集』に菩薩戒尼が延慶2(1309)年と翌3(1310)年の3月12日に供養を行ったことが書かれており、3年の諷誦文に「過去亡息武庫幽儀」などとあることから、菩薩戒尼=貞秀の母金沢実時の娘)と考えられ、各々一周忌、三回忌として貞秀の命日に行われたものと説かれている*31。すなわち、徳治3(1308=延慶元)年3月12日に貞秀が亡くなったことになるが、次の【史料10】・【史料11】によって裏付けられる。 

【史料10】『徳治三年春日神木上洛日記』4月4日条より*32

……大方近日風聞説云、関東ニモ奇異事等在之間、今度可令上洛東使兵庫頭頓死、又頼綱入道無双者平井去比死去、又南殿からすこの入道子息頓死云々、……

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佐々木備中入道頼綱が晩年に尾張国流罪となった、徳治3年の春日神木入洛事件に関する史料であるが、近年関東にも奇異の事があったという中に、「東使」として上洛する予定であった「兵庫頭」が「頓死」したことが挙げられており、前年にあたる【史料7】2点と照らし合わせても、兵庫頭=貞秀 に比定される*33。春日明神の神威によって起きた怪異であったといい、あわせて六波羅探題南方であった貞顕(当時)の被官・烏子入道の子息も頓死したと伝える*34が、同年4月4日の段階で貞秀が既に亡くなっていたことになる

あわせて次の史料も見ておきたい。 

【史料11】「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)より*35

長老無帰       

候、被移千光     

等申候之間、     

其間子細景賢     

下向事、猶無     

歎入候武庫     

歎存候、又     

(*  は、紙の保存状態による欠損部分。)

永井によると、この書状は、称名寺長老・禅恵が上総国夷隅(いすみ)(現・千葉県いすみ市長志)千光寺に遷ったことを伝えたものであるという。釼阿が二世長老に就任したのは延慶元年11月であり、この頃はまだ貞顕が禅恵を説得するよう釼阿に促しているので、それ以前のものと推定される*36が、それにもかかわらず「武庫」のことに関連して「歎き入り候」「歎き存じ候」などと書かれているので、武庫=貞秀が同月の段階で既に亡くなっていたことが分かる。 

 

以上【史料10】【史料11】により、前述の貞秀の没年月日が裏付けられる。

ところで【史料8】における冒頭下線部について、永井は「釼阿が書状を書いたのが2月23日、鎌倉への到着が3月4日」と解釈されている*37が、『鎌倉遺文』の推定通り延慶元(1308)年のものであれば、貞秀が亡くなる直前に書かれたことになってしまい矛盾する。但し貞秀死去についての第一報が発せられた後であれば、その知らせを聞いた釼阿が11日後の3月23日までに書き上げ、その書状が4月4日に届いたとするのが正しいのではないかと思う。

 

【史料12】「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)より*38

長井武庫之十三年、当今年候哉、三月にて候しと覚候、何日にて候しやらん、委細可承候、若御覚悟候ハすハ、田中□〔殿カ〕なと(など)ニ内々被尋申候て可承候、中書仏事ハ何所にてせられ候哉らん、又前々進入候心経百巻、令進

この書状で貞顕は、当時称名寺長老であった釼阿に、今年が貞秀の13回忌にあたるかどうか、またその場合3月だったと思うが何日であるかの確認をとっており、記憶が不確かであれば「田中殿」などに確認して欲しいと述べている*39この書状により、貞秀の命日が3月12日であることが裏付けられよう。前述の没年に従えば、【史料12】は元応2(1320)年初頭に書かれたものということになる*40

 

【史料8】と同年のものとされる別の「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)には「武庫御早世、□□□□□併成幻夢□……」とあり*41、若い年齢での死去であったことが窺える。

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こちらの記事▲で「早世」の年齢については10代後半~20代前半であるケースが多いことを紹介した。永井・前田両氏は享年を30歳程度と推定するが、30歳であれば国守任官を果たしても良い気がするし、また父・宗秀との年齢差がやや気になるところで、少々ずらして27, 8歳位としても良いのかもしれない。

 

参考文献・ページ

参考図書

① 永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)

② 永井晋「長井貞秀の研究」(所収: 永井晋『金沢北条氏の研究』〈八木書店、2006年〉/初出:『金沢文庫研究(第315号)』〈金沢文庫、2005年〉)

*下記脚注内では、各々「永井①」「永井②」と略記する。

 

外部リンク

 長井貞秀 - Wikipedia

 長井貞秀書状

 

脚注

*1:永井② P.196。

*2:史料大成. 第28 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.120 より。

*3:『大日本古記録 実躬卿記』 より。

*4:史料大成. 第28 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.120

*5:『大日本古記録 実躬卿記』 より。

*6:史料大成. 第28 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.122『史料総覧』5編905冊 P.407

*7:『大日本古記録 実躬卿記』 より。

*8:『大日本古記録 実躬卿記』 より。

*9:『大日本古記録 実躬卿記』 より。

*10:『大日本古記録 実躬卿記』 より。

*11:『関東評定衆伝』弘安5(1282)年条(→ 群書類従. 第60-62 - 国立国会図書館デジタルコレクション)より。

*12:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.135「長井宗秀」の項 より。

*13:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』(吉川弘文館)P.101(→ 長井宗秀 - Henkipedia に掲載)または 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 12 - 国立国会図書館デジタルコレクション を参照。

*14:注11同箇所。

*15:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.15系図、P.16~17。

*16:永井② P.197。

*17:金沢文庫古文書』7号。『鎌倉遺文』第28巻21322号。

*18:中務の少輔(なかつかさのしょう)とは - コトバンク より。

*19:中書令(チュウショレイ)とは - コトバンク。永井① P.64 には他の例として、「中書常に会合し、心緒を述べ候なり」(『金沢文庫古文書』63号/同書P.35にも掲載)、「毎事、中書の計にしたかひて(=従ひて)御沙汰候へく(=べく)候」(同前96号)を挙げている。

*20:永井② P.197・200。

*21:永井② P.200。

*22:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」 別表1 註釈(15)。田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)P.227~228。

*23:兵庫の頭(ひょうごのかみ)とは - コトバンク より。

*24:『史料総覧』5編905冊 P.546。注15前掲紺戸氏論文 P.16。永井② P.201。

*25:兵庫頭とは - Weblio辞書 より。

*26:『鎌倉遺文』第31巻23550号(原文:漢文)。読み下し文は、永井① P.65 による。

*27:永井① P.21では、実時の夫人または娘と推定。

*28:『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その3) - 学問空間 より。典拠は、小川剛生『兼好法師』(中公新書、2017年)P.35。貞顕の養母でもあったという。

*29:永井① P.65。

*30:『鎌倉遺文』第31巻23553号。洒掃禅門之御悲嘆・・・ | Japanese Medieval History and Literature | 4706 も参照のこと。

*31:永井② P.203。

*32:藤原重雄「春日大社所蔵『徳治三年神木入洛日記(中臣延親記)』」(所収:東京大学史料編纂所 編『東京大学史料編纂所研究紀要』第25号、2015年)P.66。

*33:前注同箇所。永井② P.201・202。

*34:永井① P.50・172。

*35:『鎌倉遺文』第31巻23552号。

*36:永井② P.204。釼阿の長老就任時期については、百瀬今朝雄「明忍房釼阿の称名寺長老就任年代」(所収:『三浦古文化』13号、1973年)による。

*37:永井① P.65。

*38:『鎌倉遺文』第31巻23554号。

*39:永井② P.202~203。

*40:前注同箇所。

*41:『鎌倉遺文』第31巻23551号。